この世で一番大切なものがなにかと言われた時、迷わず『自分』だと言える人間は正しい。
親友や恩師などと答えるヤツは万に一人もいないだろうが、よく耳にするのは『家族』『恋人』と答える人間である。
『恋人』と言うのは論外だ。愛する人物など、その人間に限ったことではない。
その場では彼女(あるいは彼)だけと言いながらも、そんなものが守られる保証など明日にすらない。倦怠、浮気、離婚、綻びはどこにでも存在している。
ーーーでは家族はどうだろうか。それも血の繋がった両親や息子娘たちなら? ……もちろん論外だ。
赤の他人よりは信用できるかも知れないが、例え家族であれ心の中で何を考えているかなどわかりはしない。
ある男は言った。
「今のお前は、私に生かされている」
「今のお前は、一人では生きていけない」
間違いのない事実。男は、ことあるごとにそれをオレに言った。
「生き抜くためには、力と運、そして宝がいる」
「たか……ら……?」
「そうだ。宝とは、自分を支えていく上で必要なもの」
「非情さや冷酷さと言った心の強さ、あるいは権力や支配力、金と言うこともありうる」
力こそが宝という者もいるが、この男の場合は違うらしい。
「俺の宝は、全てここだ」
男は、大きくゴツゴツした手のひらで、横にある大きな金庫に手を置いた。
男が世界でもっとも大切にしているもの。中身が何かオレは知らない。
だが確かにそこには、男の宝がある。金庫に触れようとすれば、男は容赦なくオレを殴り飛ばした。
「力を身につけろ。自分が必要だと思う宝を手に入れろ」
何度も、何度でも言う。
心に刷り込むように。
安らかでいられるはずの夢にも、現れるように。
濃く深く、オレに刻み込んだ。
ーーー幼いながらにオレは悟った。
男は待っているのだ。いつの日か、オレがその金庫を奪いにくるのを。
敵として相まみえることを望む狂人。
狂人だ。だからオレも望む。この男を殺し、かつオレは宝を欲しないと。
あの日、あのとき、だからオレは……
ーーーーーー
「…………」
目覚めは最悪だった。汗を拭いながら横に置かれてあるモノを見た。
オレが男を殺し、奪ったあの日からずっと、開けられずにいる金庫。
開ける方法などとっくに身につけている。今、この時だって開けるのは容易い。しかしオレは開ける事を躊躇っていた。
中身を見たら何か、決定的なものが崩れさるような……そんな気がしてならず、一度も手を付けないまま放置していた。
「ん、んん……」
オレの肩に寄りかかるようにして、安らかに眠る祥子。
レイプをした男に良くもまあ無防備な姿でいられるもんだと呆れながら、深い息を吹く。冷や汗は止まっていた。
「………ふふ、いやですわ……お母さま……お父さま」
「夢見てんのか、オレと違って幸せそうだな」
試しに鼻を摘んでみる。息苦しそうにモゾモゾ顔を動かす。ヒクヒクと鼻が鳴り、豚みたいだったぞ言ってやったら祥子は顔を真っ赤にさせてさぞ恥ずかしがるに違いない。
オレは祥子の鼻筋を人差し指軽く押してブタ人間にしてやった。ここにサインペンでもあればブタ顔にしてやれたんだがな。無いものは仕方ない額に牛と指でなぞって
「ブヒブヒ」
と豚の鳴き真似をした。何やってるんだオレは。
平常を保っていたつもりだったが、どうも変になっていたらしい。
オレは気分を変えるため、祥子を起こさないように横に倒して、マンションの屋上に出た。
「ふう……」
生ぬるい風、黒く曇った空、どんよりとした空気……これがオレの生きている世界。
世間から隔離された闇のアンダーグラウンド。蔑まれ、落ちこぼれ、爪弾きにされた者が行き着く最果ての世。これがオレが生まれ育った場所だった。
それとは逆に外の世界は明るく、煌びやかな光に包まれた場所。今となっては慣れたが、小さい頃のオレは地獄のように思えた。
親父の扱きに耐えきれず、逃げ出してしまった時に見た、信じられない光景。父親に手を引かれた薄水色の髪の少女、彼女が見せる眩しいくらい満面の笑顔。憎悪と憎しみだけが蔓延る世界とは違う、とても眩しい世界で生きていける気がしなかった。
勝手に逃げ出したにも関わらず、ボコボコにしてこなかった親父が印象的だったのを覚えている。
「……まさかなぁ」
初めて見た時から見覚えのあった女。あれは小さい頃にオレが背負った汚点の一つ。二つある人生の転換と言えるモノ。
だから汚してやろうと思った。オレが持つ弱さの象徴、それを堕として乗り越えようとした。あの時逃げ出した選択が間違っていなかったのだと、そのおかげで強くなれたのだと思うために。
最初はただ、それだけの存在だった……筈だ。だから遠慮などしなかった。例え泣き叫ぼうが、憎まれようが関係ない。容赦なく犯し尽くした。どうせ犯して気が済めばすぐ捨てる……だがオレは手元に置いている。それはまるであの男の言った宝のように。
ただ身体だけでは物足りなくなった。心をもオレのモノにしたくなっている。それは今までのオレにはなかった感覚だ。悪くはない感覚だ。
外の世界に一時でも触れていなければ手に入れるはずのなかった、獣にはない心……いや、正確に言えば幼い頃に捨て去ったモノを取り戻しつつある。
杏子を殺せと言われ、親父を殺したあの日から。
「……朝霧……さん」
錆びて重くなった扉が開かれ、中から祥子が現れる。足をビクビク震わせて、小さく縮こまりながら、とてもか細い声だった。
あの日見た人間とはかけ離れた祥子の姿。オレに依存しなくては生きていけない弱い存在。
目を覚ました時に、オレがいなくて不安だったのだろう。部屋の中が安全とは限らない、鍵など掛からない扉一枚隔てただけの場所など何の安心にもならない。
祥子がオレの女だというのは周辺の住人には周知の事実なのだから、部屋で縮こまっていたら襲われはしないだろうにわざわざ祥子はオレを探しにきた。それでもマンションの外には出ようとはしなかっただろうが探しにきたということはよっぽど不安だったのだろう。
「祥子、こっちに来い」
「はい……」
祥子はオレに言われ、近くまで寄ってくる。
このままいけば祥子はオレに心をも差し出すだろう。だがそれはオレが手に入れたい形ではない。
依存、寄生では……杏子と一緒じゃ意味がない。そうした意味で言えばあいつから離れたのは正解だった。
アイツはオレから離れ、新たな関係を構築している。今までなら、オレが見つかったのなら何が何でもオレの元に戻ろうとしていただろう。
そしてオレはアイツの成長を嬉しく思った。そのような考え自体、外に出なければ一生分からないままだっただろう。
禁止領域は出た方がいいのかも知れない。
「祥子……お前の過去を聞かせてくれないか?」
「………え?」
ーーーーーーー
「祥子……お前の過去を聞かせてくれないか?」
「……え?」
隣の朝霧さんは錆びた落下防止の柵を肘掛けにして、非常に穏やかな口調でわたくしに尋ねた。
常に命令口調で言葉の強い彼が見せない、答えるか答えないかをわたくしに委ねているような問いかけ。それに戸惑う。
「ただ事実を語るだけじゃない。祥子がその時、どういう風に感じたのかオレに教えてくれ」
「な、何でそんなことを……」
「オレが知りたいからだ。祥子のことを知りたいからだ」
わたくしは更に困惑する。昨日までの彼とは別人すぎて戸惑いを隠せない。
自分勝手で女性を好きなように虐める事しか考えていないケダモノ……それが彼の筈だ。
どういう心境の変化だろう。わたくしの心が乱される。それが目的だというなら確実に成功していた。
「そんなこと……答える必要があるとは思いません。所詮強姦魔とその被害者の関係性でしかないのですから……命令なら仕方ないですけれど」
そこまで踏み込ませる気はこちらにはない。あの時朝霧さんに伝えたものは過去の一端に過ぎず、単なる事実を答えただけに過ぎない。それを共有するなら初めからこの関係は間違っている。……そんなのは上辺だけの言葉だ。
「そうか、なら仕方ないな」
それだけ言って、朝霧さんは口を閉ざす。ただぼうっと、空を見上げていた。
調子が狂う。これでは答えないわたくしの方が悪いみたいではないですか。
「……オレは佐竹って奴に誘われて、憐桜学園へ入った」
「え……?」
「どうしてそんなこと話し出すのかって顔だな」
それはそうですわ。わたくしもそうですが朝霧さんも自発的に自分のことを語ることはしなかった。
無理やり聞き出した時は酷く後悔した。聞かなかった方が良かったと思った。だから自分から聞き出す事はしなかった。
「相手のことを知りたいなら、まず自分を知って貰おうと思っただけだ」
「相互理解を深める、新たな関係の構築ってヤツだな」
「何で……」
「いつだったか言わなかったか? オレはお前に好かれようとしてるって」
言われた……あの時は、わたくしを揶揄うための冗談とばかり思っていた。本に書かれていたことを実践してみたというだけの、ただの興味本位。
「今のやり方じゃ望んだ関係にはならなそうだからな、やり方を変える」
「望んだ関係……?」
「祥子をオレの恋人にする」
「な!? な、な、ななな……ッ!?」
真剣な顔で見つめられ、突然の宣言に顔が熱くなる。冷静にいられる訳が無かった。
わ、わたくしが、あ、朝霧さんの、こ、恋人!? 何でそんなこと真顔で言えるの!?
「ま、また朝霧さん、わたくしを揶揄っているんですのね……ッ! 行為中以外もわたくしを辱めて何がしたいんですの!?」
「からかってない、いたって真剣だ」
「余計にタチが悪いですわよ……」
この世のどこにレイプした相手を恋人にするなんて考える人がいるのでしょうか。
「だから恋人になるまでは、祥子には手を出さない」
「………え?」
それってつまり……そういうこと……ですのよね? そうですか……そう。
「何だ、実はされたかったのか?」
「ち、ちがっ……!!」
「そんなにしたいなら今すぐ恋人になればいい」
「そ、そんなわけないでしょう!? 全くっ、もう!?」
そう言ってわたくしは朝霧さんから距離をとってドアノブに手をかける。捻って屋上から出て行こうとするがすぐ閉めて彼の元に戻った。
「何だビビって帰れないか、足ガクガク震えてたもんな」
「う、うるさいですわね……もう少し火照りを冷ましてから戻ろうと思い返しただけですわ」
「心配せずともオレがいる限り祥子がそういう目に遭う心配はないさ」
「だからあなたはまたそんな……はぁ、もういいですわ。佐竹という方に誘われたからなんですか?」
「話聞いてくれるのか?」
「このままこんなバカ話をしているくらいならあなたの身の上話を聞いていた方が遥かにマシと思っただけですわ」
今まで出会ってきた中でこんなに訳のわからない人間は初めてだった。
レイプした者とされた側という、本来ならば憎み、憎まれしか生み出さない関係性。そのはずなのに、油断すると気を許してしまいそうになる。
そんなことはいけないのに、わたくしをいじめる悪い人なのに。わたくしはこの人によたれかかってもいいんじゃないかって、考えそうになるのだ。
それじゃあ縋る対象を過去の思い出から彼に変えただけだ。弱い考え方だ。わたくしは強い人間になりたい。この人のような強い人間に。
気がつけば、わたくしに活力が湧いてきた。
「『お前の親父が見た世界を、見てみたくないか』って言われてな。それで興味が湧いたわけだ」
「親父と言うとあの……」
「ああ、オレにこの世界で生きていくための術を叩き込んだ悪魔のような男だ」
朝霧さんに強烈をも生ぬるい教育を施した存在。その存在が見た世界に憐桜学園が関係している。つまりは……
「朝霧さんのお父さまはボディーガードだった?」
「そうだ。佐竹曰く、親父は『気さくな男で、いつも明るく、厳しい訓練にも弱音を吐かない。成績優秀頭脳明晰、そして弱者を助ける心の強さを持っていた』らしい。最初聞かされたときは誰の話をしてるんだこのハゲはと思ったくらいだった。全くもって正反対な男の話をされたんだからな」
朝霧さんはそのことを思い出したのかククッと笑う。
「面白そうと思った。ボディーガードのことだけじゃない。何故親父の親友だと語る佐竹が、オレを手厚く保護しようとしたのか。オレをボディーガードにさせて何が目的だってな。結局退屈が先に来て辞めたから、それを知る機会はなかったが」
「それは……」
親友の息子だから助けになりたい。という理由だけでは、説明がつかないと思った。
超危険地帯に単身……かは分からないが乗り込む。金銭の援助、学園へ入れるための書類偽造もしただろう。そんな犯罪行為をしてまで朝霧さんを向かい入れた理由を、わたくしは思いつかない。
「ボディーガードのことは兎も角、面白い人間は結構いた。強い弱いでしか量りにかけなかった時には決して分からなかったモノだ」
朝霧さんは語る。女なのに男装してまでボディーガードになろうとしていた薫さんや臭すぎて食堂の利用を禁止された雷太さん。揶揄うといい反応をして面白いアレの小さい(名誉に関わる話だから直接の明言と名前は伏せますわ)方や信じられないことに実現されていたアンドロイドの侑希さんとの学園生活を面白おかしく話していた。その人達との生活は悪くなかったと言う。
「悪くなかったらその生活を続けるのはアリだったのではないですか? ボディーガードには興味がなくなっても、その方たちと関わり合いになる為に通うという選択肢もあったのでは?」
授業は退屈で、意味がないと思っていても友人たちとの会話や部活が楽しいから学校に通っているという方は多くいるだろう。
「それでも退屈が勝ったんだよ。退屈はオレを殺せる、唯一の存在だからな」
「……傲慢な考え方ですわね、それは。それではここに、退屈が無いってことになるではないですか」
「そうだな。オレは常に命の危険がある状態に身を置くこと、明日への保証がない場所に身を置くことに興奮を覚えていた。それがある
「だがそんな場所ですら退屈になりつつある。オレは強くなりすぎた」
どこまでいっても傲慢な人だと思った。自分は何があっても死なない人間だとでも言わんばかりの態度。
だけれど妙に説得力がある。
「この世の全てがあなたにとっては退屈しのぎ、ですか。恋人にするという戯言もその一環……というわけですわね」
「そうだな、否定はしない。退屈しない場所がないなら、過ごしていて退屈しないヤツを探すしかない。それがお前なら、オレはいいなと思っている」
「全く気の利いていない口説き文句ですわね……飽いて捨てられる未来しか見えませんわ。ちっとも心を揺さぶらない」
嘘。本当は少し、嬉しいと思ってしまった。少なくともそういう相手として自分は見られているんだなと思ってしまったから。
レイプ魔なのに……本当にわけわかりませんわ。朝霧さんの心も、絆されそうになる自分の心も理解が出来ない。
「くしゅっ」
「流石にワイシャツ一枚じゃ冷えるか」
「あ……」
春先を越えて五月も残りわずか。暖かくなってきているとはいえ日差しの掛からない早朝は寒かった。
寒がるわたくしに制服の上着をかける朝霧さん。人肌に触れていた上着は暖かかった。
補足です。
暁の護衛原作では海斗が父親から逃げた先で見たのは本来なら二階堂彩。
禁止領域の人間にとって外の世界こそが地獄。辛い人生を送っている住人にとって優しさ、温かさは猛毒です。自分の境遇と対比して、そのギャップに耐えきれない。子どもは特にそう。
海斗も例外ではなく、耐えきれなくなって戻ってしまいました。心底恐怖し、自分はあたたかさに耐えきれない弱い人間……そう思いました。だからこそその感傷は下らないものであったと、その象徴である祥子を堕とすことで外の世界なんて取るに足らないものだと思おうとした。
海斗が漠然と残っていた外の世界への恐怖。佐竹の思惑に乗ったのも外の世界を知ることでそれが下らない場所だと吐き捨てるため。その最後の楔が祥子だったという独自解釈です。
海斗が祥子に対して何の感情も動かなければもう一生禁止領域からは出なかったでしょう。
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