竜の居所までは、馬車を乗り継ぎ4日、そこからさらに歩きで10日ほどかかった。歩き通しは御免と流しの御者や馬宿の主人に交渉してみたが、誰も馬や馬車を貸し出そうという人間はいなかった。
当然である。戻ってくる当てもない人間に大事な馬を貸す人間はいない。まして、男爵が直々に封鎖した村への旅路など、その土地に住む領民がするわけもないのだ。
たっぷりと荷に詰め込んだ干し肉と水がロビンの背中に圧を掛ける。出来るだけ川のそばを行くがゆえに、遠回りさせられることも多い。
何日も続く野宿と味気ない食事に嫌気がさしたころ、ようやくその村の姿が見えてきた。村というよりは、小さな集落である。遠目に見ても、打ち捨てられて、死んだ村だ。
村から流れてくる風は異臭を運んでくる。近づくほどに地面は湿っていき、鼻がマヒするような異臭がロビンを取り巻いていく。
汚泥のせいで足元がヌルつく。底の高いブーツであっても、時折滑りそうになる。
静かにロビンは村へ入り込む。辺りに漂う瘴気は毒そのもので、ロビンは腰から聖水を入れた瓶を取り出して一口二口飲み、ついでに口を濯ぐ。大して長くは保たないが、気休めにはなる。
小さな村だ。探し回るまでもなく、村の中心にある広場に、竜はいた。
竜とは言えども元は人である。あり得ざる変化の代償としてか、竜の姿は醜い。
人を無理やり引き伸ばし、肉をつけて尾を生やし、2足で立つ、真なる龍に似せた姿。それが竜である。
強引に肉を付けたような身体はやや前傾で、体だけでもロビンの倍ほどになる。腕や脚は引き締まり、太い針金を束ねたようにたくましい。しかし対照的に尾は細い。単なる荒縄程度でヒョロリとしてみすぼらしい。首は長く、手足と同程度の長さを持つ。そして、その首の先には未練がましく肉が残った人の頭が付いている。欲望と妄執に憑りつかれた、醜悪な表情がロビンにははっきりと見えた。
かつて世界の空を支配したと言われる真なる龍とは似ても似つかない、浅ましい姿。
「何度見ても、吐き気がする気味の悪さだな」
ロビンは一人ごちる。
辺りには幾つもの人骨や、折れた槍などが転がっている。ハルメルの色香に迷い、竜へとけしかけられた者たちであろう。
無論、ロビンとて負ければ彼らの仲間入りだ。
そうはなりたくないロビンは竜退治にあたり入念な準備をした。身につけるは硬く強固に鞣された岩蜥蜴の鎧。
心臓や股間、急所や要所には板金が打ち付けられている。竜の攻撃にも一度くらいは耐えられるはずである。
呪いについては護符を編み込んだ手巾が胸元にある。さらに先程飲んだ聖水を頭から被り、二重の守りとした。
その他にも必要なものを腰の物入れへまとめてある。
右手には鋼の剣を握る。腕のいい鍛冶師に打たせた業物だ。鋭く、折れず、曲がらず。これまで幾度もロビンの敵を断ち切ってきた、半身の如き剣だ。
竜はロビンへとねっとりとした視線を向けている。獲物を見つけたとばかりに、頭部の人骨が歯をカタカタと鳴らす。その眼窩には、とうの昔に腐り落ちた眼球の代わりに、魔力の光が浮かぶ。
竜は魔術により生み出される。巷に流れる根拠のない噂話だが、尤もらしく思えるのは竜に溢れる魔力のせいだろう。
魔術は現世の理を半ば無視して動く。ならば竜も同じである。
目の前の竜がわずかに身動ぎをすれば、時間を飛ばしたかのように振り切られた尾が目の前にある。太さは荒縄程度だが、その威力は大樹すらへし折る力を持つ。
ロビンはひょいと頭を下げてその一撃を躱す。続いて振り下ろされる爪は半歩脇へ体をズラす事で避けてみせる。
竜が繰り出す攻撃、その尽くをロビンは最小の動きで対処していく。剣を振るうことなく、つまらなそうに躱していく。
何のことはない、竜との戦いに慣れている。ただそれだけのことである。
強靭な生命力と人を凌駕する肉体を持つ竜ではあるが、人の身を無理やりに竜と変えているのだ。たとえ竜となるべく目方を増やされた筋肉も、自然にはあり得ない不規則な肉体でしかない。
そんな不格好な肉体では動かせる肉体の可動域などたかが知れている。初見であればその崩れた動きに戸惑いこそするが、二度三度と見れば種も割れる。
知恵もなく、力と呪いだけが頼りの竜だ。
埒が明かないと判断したか、竜の貧相な頭部──口が裂けた人の頭──が大きく周囲の空気を取り入れる。
すでに命のない竜には呼吸の必要はない。だからそれは呪いを振りまく竜の吐息、その予備動作に他ならない。
淀み、暗がり、常闇。人の目にとらえきれないほどの暗い色がその口より吐き出される。竜が持つ呪いそのものだ。
騎士の一団どころか国を亡ぼす。その理由だ。
だがロビンに恐れはない。ただ、肘より先のない左腕を突き出す。つまらなそうに。
呪いの息が、ロビンに迫り、突き出した左腕を起点にして分かたれる。ロビンの髪一筋すら揺らすことなく、竜の呪いはロビンの脇を抜けていく。
濃い正気の中、ロビンの突き出した左腕、何もないはずのそこに”何か”が揺らめく。
揺らぐのは不可視の腕である。
初めてロビンが殺した竜。父と母、幼い弟を食い殺した竜。それは敬愛する姉が変わり果てた姿でもあった。
元姉であった竜に、噛みつかれ呪いを注がれた左腕。ロビンが姉の顔をした竜の首を落とすと同時に腐り落ちた。
だが、注がれた呪いだけが腕の先に残っていた。
呪いは、より強い呪いによってのみ制される。それが竜の呪いならば尚更に。
だから、ロビンはさらに一歩踏み出す。止まることなく噴出し続ける竜の息吹、それを呪いの左腕でかき消すかのように前に進む。
突き出された左腕が、目には映らないその手が、呪いを吐き出し続ける竜の額に触れる。
竜の体は、そこに見えども現世にはない。悼ましいほどの呪いで形作られたその体は、本来であれば触れること叶わず、向き合うものに死を与えるばかりだ。
ロビンの左手は、その世界に触れることのできる、呪いの手だ。
さらりと額から頬、そして顎へと撫で回す。左手は竜の頭を、少しだけ持ち上げた。
ぶら下げていた剣を、振り上げる。全身を余すことなく使いこなして振るうその一太刀は、竜の頭部と頸との付け根をスラリと断ち切った。
一拍の後、うっすらと呪いが滲み、首がぼろりと落ちた。
竜に呪われた左腕は、竜を現世へと引き戻す。であれば、その身に刃が届く。
真なる龍にはほど遠い紛い物。それが竜だ。頸を落とされば死にうるのだ。
断末の声すらなく、竜は死んだ。
何の感慨もなく、ロビンは剣についた呪いを血でも払うかのように振り落とす。そして逆手に持ち替えた剣の剣先を地面へ向けて、少しの間目を閉じる。
祈りではない。竜へ捧げる祈りなどない。ただ、目を瞑る。竜の骸は動かない。
いつからかするようになった習慣だった。なんの意味もない慰め。ただそれだけのことだった。
地面に転がった竜の首を聖水で満たした革袋に放り込み、ロビンは振り返ることなくその場を後にする。
残るのは首のない竜の骸。ただそれだけである。
***
行きと同じ程度の時間をかけて辺境へと戻ってきた。体は旅の汚れで埃塗れである。しかしそれでも先に依頼人へと報告する必要がある。飲んだくれのロクデナシでも、冒険者でいるためには必要なことだ。
とはいえハルメルの居場所は分からない。出発前は延々と同じ宿で肌を合わせていたが、まさか一人でそこに留まり続けるわけもない。であれば依頼を受けた酒場へ向かうのが妥当だと、ロビンは馴染みのガラクタ酒場へ足を向けた。
酒場が見えるほど近づけば、その脇で粗末な椅子に腰かけている女も視界に入る。
ハルメルである。
相変わらず人目を引く女だ。憂いを抱いて俯く姿も美しい。
近づく足音にハルメルが顔を上げて、表情が驚きに染まる。
「ずっと待っていたのか?」
「あ、あなたに帰ってきて欲しくて……。それで──」
「竜の首だ」
片手にぶら下げた袋を示す。ハルメルは、ビクリと震えてそのまま動かない。ひたすら追い求めたのは竜殺し。その結果を前にして、ハルメルはいっそ怯えたようですらある。
ロビンとて内心では無理もないと思う。竜であっても元は夫だ。ハルメルを苦しい立場へ貶しめた元凶である。しかしそれでも愛していたのだろう。共に、きると誓った夫でもあるのだ。
「話は中だ」
ハルメルの反応を待たずにガラクタ酒場の戸をあける。
昼だというのにそこそこ客が転がっている店内を歩き、カウンター前でロビンを待つ店主に声を掛ける。
「久しぶりだな。ちょっと奥を借りるぞ」
「ウチの店で盛るって言うならたたき出すぞ?」
「こいつをカウンターで見世物にでもするか?」
掲げた袋から漏れるのは瘴気である。聖水につけていても防ぎきれないのだ。
店主が苦り切った顔でカウンターの奥を指さす。ロビンへハルメルを紹介したのは店主である。竜殺しの結果報告など店内でされた日には、ロクデナシの常連すら寄り付かなくなってしまう。
我が物顔で店の奥、店主の家となる領域に入り込む。一段高く上げられた床に靴を脱いで上がり込む。店主の趣味か、東方風である。
ハルメルがおずおずと上がり込むのを待って、近くの机に袋を置く。その後ろにはむっつりと口を引き結んだ店主もいる。流石に家の中へ通したロビン達を放ってはおけないのだろう。
ロビンは何も言わずに片手で袋の口を開ける。黒い靄――呪いが立ち上り、ロビンが舌打ちする。しかし頓着することなく、その呪いの塊を取り出してみせた。
「ああ──」
取り出された竜の首に、元は人であったその頭骨に、ハルメルの口から、ただそれだけの音がこぼれた。
***
カウンターには報酬の入った袋が置かれている。
「良かったのか? 追わなくて」
「俺が? 理由がないだろ」
「お前にしちゃ素直に依頼を受けていたからな。気に入ったんだと思っていたが」
「あれほど凝り固まった女じゃな。抱くだけならともかく、そばに置いておくのは怖い」
「そう言ってドツボにはまるのがお前だよ」
いくつかの心当たりにロビンの顔が苦いものになる。しかし店主は手元のグラスを眺めたままに、ぽつりとつぶやく。
「……あれ、どんな気持ちだったんだろうな」
竜の首を見たハルメルが思わずこぼした一つの音。
それは愛情深い女の声であり、底のない怒りを抱いた女の声だった。何の関心もない声にも、ようやく見つけ出したと安心した声にも聞こえた。
──さあな。
ハルメルは、彼女はこれからどう過ごすのか。地元へと戻り、次の夫を迎えでもするのだろうか。あの美貌だ。竜の妻であったとしても望む男は幾らでもいるはずだ。
いや、とロビンは頭を振り、報酬を懐に押し込む。そこから先は考えても仕方のないことだ。
立ち上がると店主から文句が出る。
「おい、何か頼んでいけ!」
「厄落としだ。こんなむさ苦しいところにいられねぇよ」
ふざけるなと言う店主と、むさくるしい常連の罵声を聞き流し、ロビンは店を出た。
向かう先は色街。旅の汚れと溜まった欲求を晴らさねばならない。それに、やはり抱くなら馴染みの娼婦がいい。なにせ気楽だ。金だけで、想いの混じらないそれだけの関係でいいのだ。
「いい女だったんだけどなぁ……」
吹く風に、女の匂いが思い出される。知らず足が止まった。ため息を一つ。そうしてロビンは少しの未練を振り払うように歩き出すのであった。
了