雄英高校の正門前は、朝から異様な熱気に包まれていた。
「平和の象徴」オールマイトが教師に就任したというニュースは、日本中を駆け巡り、マスコミ各社はこぞって「金の卵」である生徒たちの声を拾おうと詰めかけていたのだ。
登校してくる生徒たちは、皆一様に雄英のグレーの制服に身を包んでいた。しかし、その雰囲気は一般の高校生とは一線を画す。未来のヒーローとしての輝きを放つ者もいれば、執拗なインタビューに辟易する者もいる。
「オールマイトの授業はどうですか!?」
「どんな指導を受けていますか!?」
矢継ぎ早に飛ぶ質問に対し、飯田天哉などの除籍された元1-Aの面々は、憎悪を押し殺した無表情で通り過ぎる。一方で、麗日お茶子は恐怖の余韻を隠しきれず、カメラのフラッシュに怯えるように顔を伏せて校門へと急いでいた。
そんな喧騒の中、一人の少年が姿を現した。
緑谷出久だ。
彼の制服の着こなしは端正だが、その右腕の袖からは、時折不自然な筋肉の隆起や、熱を帯びたような震えが微かに伝わってくる。彼を見つけた瞬間、レポーターたちの目が「獲物」を見つけた獣のように鋭く光った。
「あれだ……入試で『惨劇』を起こした特待生……」
「今、最も危険視されている少年……」
レポーターの一人が、マイクを突きつけるようにして出久に肉薄した。
レポ「緑谷くんは特待生として入学されたそうですが、オールマイト先生から何を学びたいですか? また、あなたのその特殊な“個性”について、何かコメントはありますか?」
「特殊な個性」――。
その言葉の裏には、入試会場を血の海に変え、今なお彼を蝕み続けているインドミナス・レックスという名の呪い、そして戦闘訓練で見せたあの忌まわしいボーン・アーマーへの暗い好奇心が透けて見えていた。
周囲の空気が一気に冷え込む。カメラのレンズが、まるで銃口のように出久を狙う。
出久は立ち止まった。
足元が震える。背負っているカバンのストラップを握る左手が、白くなるほど強く食いしばられる。ここで逃げ出すことは簡単だ。しかし、ここで言葉を飲み込んでしまえば、自分は一生「怪物」のまま終わってしまう。
彼は深く息を吸い込み、頭蓋骨のマスクがない、剥き出しの「人間」としての瞳を真っ直ぐにカメラへ向けた。
出「僕は……オールマイトから、『誰でも笑顔で救けることができる強さ』を、学びたいです」
その声は、震えてはいたが、決して折れない芯の強さがあった。
出「僕の個性は……まだ完全に制御できていません。でも、僕の内にある力がどれだけ危険であっても僕は決して、その力に屈しない。……全ての人が、安心できるように、必ず、制御します」
一言、一言を絞り出すたびに、出久の右腕に緑色の電流が静かに走り、制服の生地が小さく弾けるような音を立てる。内なる悪魔が「そんなことは不可能だ」と嘲笑うかのように、彼の神経を逆なでする。
だが、出久の言葉には、他の生徒が語るような輝かしい「ヒーロー像」とは一線を画す、血を吐くような重みがあった。それは「夢」という言葉で語るにはあまりにも残酷で、しかし最も純粋な「決意」であった。
出「……必ず、ヒーローになります」
そう言い残し、出久は再び歩き出した。
レポーターたちは、少年の背中から漂う、絶望をねじ伏せようとする圧倒的な重圧に気圧され、追いかけることすら忘れて立ち尽くしていた。
校門をくぐり、校舎へと続く並木道。
出久の背中には、登校する他クラスの生徒たちからの視線が突き刺さる。
「今の聞いたか?」
「『制御する』って言ったって、あんなの無理だろ……」
「また暴走したらどうするんだよ」
悪意に満ちた囁き。
だが、そんな出久の隣に、音もなく並ぶ影があった。
轟焦凍だ。
彼は制服のポケットに手を入れたまま、前を向いて淡々と言った。
焦「……いい覚悟だ、緑谷。インタビューに応じる必要はなかったが、今の言葉は、あいつらの耳に毒として残るだろうな」
出「轟くん……」
焦「……行くぞ。授業が始まる」
出久は小さく頷き、涙を堪えるように空を見上げた。
制服の重み、宿命の重み。
今日という一日が、また新たな闘争の始まりであることを自覚しながら、彼は教室へと向かった。
だが、その道は自分が予想してた以上に激しく困難なものだとはまだ知る事は無かった。
ーーー
マスコミの矛先は、出久という「個の脅威」から、もう一つの巨大な火種へと向けられた。それは、名門・雄英高校が開校以来、一度にこれほど多くの生徒を「除籍」したという異常事態だ。
校門から少し離れた場所、報道陣のカメラの前に、制服を乱し、絶望と憤怒に瞳を濁らせた元1-Aの生徒たちが並んでいた。
レポーターたちは、特待生である出久の言葉とは真逆の、ドロドロとした「現場の声」を求めて彼らを包囲する。
レポ「除籍されたというのは本当ですか!? 雄英高校で一体何があったのですか!?」
本来であれば彼らは個性把握テストの最中、出久というクラスメイトに対し、私情による妨害や殺意に満ちた攻撃を加えたことで、消太から「ヒーローの資質なし」と断罪された者たちだ。
しかし、彼らの口から語られたのは、巧妙に塗り替えられた「偽りの真実」であった。
天哉は義足となった両足を震わせ、マイクに向かって声を荒らげた。
天「……雄英は狂っている! 俺たちは、あの『緑谷出久』というヴィランによって、人生を、身体を破壊された被害者なのです! それなのに、学校側はあの怪物を守るために、正当な訴えをした俺たちを切り捨てた!」
範太もまた欠損した腕の袖をカメラに晒しながら叫ぶ。
範「あいつはテスト中も暴走してたんだ! 俺たちはただ、自分たちの身を守ろうとしただけなのに……! 全ての責任は、あんな化け物を学園に入れた雄英と、緑谷出久にある!!」
彼らは、自分たちが出久を物理的に排除しようとし、ルールを逸脱した「私刑」を行おうとした事実を、一切口にはしなかった。全ての罪を、出久の凶暴性と、それを隠蔽しようとする雄英高校の体質に擦り付けるために。
その群衆の中で、一際痛々しい姿でカメラの前に立たされた少女がいた。
麗日お茶子。
かつて誰よりも明るい笑顔を持っていたはずの彼女は、今や見る影もなくやつれ、その瞳にはどす黒い「恨み」だけが沈殿していた。彼女が口を開くと、周囲の喧騒が嘘のように静まり返る。
お茶「……あの人のせいで、私の夢は終わりました」
彼女は、出久に圧壊された瞬間の、あの「肉が潰れる音」と「死の恐怖」を思い出すかのように、自身の身体を強く抱きしめた。その手は、止まることなく小刻みに震えている。
お茶「緑谷くんは、笑っていました……。私たちを傷つけ、血を流させている間、あの人は心の中で笑っていたんです……。そんな人がヒーローの卵として守られ、必死に食らいついた私たちがゴミのように捨てられるなんて……」
それは、恐怖によって歪められた彼女の主観的な「幻想」だった。しかし、カメラ越しの視聴者には、これ以上ないほど悲劇的な「真実」として映ってしまう。
お茶「私は、許しません。緑谷くんを……そして、私たちを見捨てた雄英を。いつか必ず、彼が怪物だと証明して見せます……」
彼女の言葉は、涙声でありながら、その奥底に蛇のような執念が宿っていた。
このインタビューが放映されれば、世間は一気に出久と雄英高校への攻撃を強めるだろう。
正門の内側で、希望を語った出久。
正門の外側で、呪いを吐き散らすお茶子たち。
かつて同じ「ヒーロー」という夢を追いかけたはずの少年少女は、今や修復不可能な「加害者」と「被害者」という対立構造に完全に分断された。
除籍された生徒たちの背後では、マスコミが彼らの「悲劇」を煽り立て、ネット上では雄英へのバッシングが嵐のように巻き起こり始めていた。
それは、緑谷出久にとって、内なる怪物インドミナス・レックスとの戦い以上に過酷な、「社会という名の怪物」との戦いが始まった瞬間でもあった。
ーーー
教室の窓の外、雄英の正門付近には依然として報道陣のヘリが旋回し、そのローター音が遠雷のように不気味に響き続けている。
テレビのモニターから流れる麗日お茶子の、あの絶望に満ちた、そして憎しみを孕んだ告白。それはかつて出久が憧れた「人を救う笑顔」とは正反対の、「人を呪う顔」だった。
職員室の空気は、TDLの特訓場よりも重く、冷え切っていた。
モニターに映し出される「雄英バッシング」のニュース。キャスターたちは、除籍された生徒たちの「義足」や「欠損した腕」を執拗にアップで映し出し、人道的な観点から学校側を糾弾している。
オールマイトは、自身の巨大な拳を震わせ、デスクを拳で叩いた。
AM「……私の不徳の致すところだ。私が、もっと早く少年の個性を、彼らの心のケアを……!」
根「オールマイト、君一人の責任ではない」
根津校長が、いつになく険しい表情で紅茶のカップを置いた。
根「彼らは『嘘』はついていない。ただ、自分たちに不都合な『真実』を隠しているだけだ。しかし世間にとって、被害者の涙はどんな証拠よりも強力な『真実』になってしまう……」
オールマイトは窓の外の青空を見上げた。その背中はもはや「平和の象徴」としての輝きを失い、一人の無力な教師としての苦悩に濡れていた。
1-Aの教室では、残された9名がそれぞれ、スマホの画面に躍る凄惨な誹謗中傷の言葉と戦っていた。
実「あいつら……自分たちが緑谷を殺そうとしたことは一切言わねぇのかよ! 最低だぜ……。これじゃ、オイラ達まで『怪物の仲間』扱いじゃねーか!」
実がスマホを机に叩きつける。彼の目には、世論への怒りよりも、自分も社会から抹殺されるのではないかという、根源的な「恐怖」が勝っていた。
踏陰は腕を組み、窓の外を飛ぶ鴉を見つめていた。
踏「世論とは容易く闇に染まるもの……。光が強ければ強いほど、影もまた深くなる。真の英雄は、光だけでなく、世間の憎悪にも耐え得る強靭な精神を持たねばならぬ。……だが、今の緑谷には、その闇はあまりにも重すぎる」
勝己は自身の掌をじっと見つめていた。
勝「……チッ、どいつもこいつも、モブの分際でピーピーうるせぇんだよ」
彼にとっての正義は常に「勝つこと」にある。世間が何を言おうが自分がデクをねじ伏せ、ナンバーワンになるというロードマップに変わりはない。だが、その決着を「外野の騒音」で邪魔されることに対し、これまでにない不快感を露わにしていた。
そして、当の本人、出久は制服の袖から覗く自分の右手を、まるで汚物を見るかのような目で見つめていた。
出(麗日さんまで……僕のせいで……。あんなに優しかった彼女を、あんな顔に変えてしまったのは、僕なんだ……。やっぱり僕は、ヒーローになるべきじゃないのかもしれない。……僕がここにいるだけで、みんなが不幸になる……)
彼は自分が吐いた「笑顔で助ける強さを学びたい」という言葉が、今の状況ではあまりにも滑稽で、傲慢なものに感じられた。
その時、音もなく教室のドアが開いた。
入ってきたのは、疲労を隠しもせず、しかし鋭い眼光を一切曇らせていない相澤消太だった。
教室内が、その圧倒的な重圧に沈黙する。相澤は、生徒たちの顔を一瞥もせず、チョークを手に取った。
パキィィン!!
黒板に、叩きつけるように巨大な文字が書かれる。
『合理性』
消「お前たち、朝から騒々しいぞ。世間の声なんかに耳を貸している暇はない。……全ては雑音だ」
消太はゆっくりと振り返り、出久を射抜くように見据えた。
消「ヒーローとは、世間の感情で動く仕事じゃない。称賛されたいならタレントにでもなれ。己の理性と法、そして何よりも、目の前の命を救うという『合理的な目的』のために行動する存在だ。……今、お前たちがすべき合理的な行動は、外野の言葉に傷つくことか? それとも、明日のヴィラン襲撃で市民を死なせないための力をつけることか?」
相澤の言葉は、出久の甘い感傷を切り裂くナイフだった。
消「緑谷。お前は、自分が何をするべきかを、もう一度よく考えろ。感情に流されて、自分の宿命を放棄する弱虫になるな。お前がここで足を止めれば、除籍された奴らの言葉が
『正解』になる。……それがお前の望むヒーローか?」
出久は顔を上げた。
消すの言葉は冷酷だったが、それは同時に「お前が何者であっても、やるべきことをやれ」という、この世で唯一、自分を「人間」として扱ってくれる厳格な導きだった。
出久の右腕に再びかすかな、しかし力強い緑色の燐光が宿った。
ーーー
食堂の喧騒は、以前のそれとは異質なものに変わっていた。
緑谷出久は、目の前に置かれた好物のカツ丼を、ただ機械的に口に運んでいた。かつては一口ごとに力が湧いてくるような感覚があったが、今はその味を咀嚼する余裕すら残っていない。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
少し離れたテーブルに、かつてのクラスメイト、飯田天哉たちが座っていた。
彼らはあの日、消太によってヒーロー科を「除籍」され、今は普通科の生徒としてこの学園に留まっている。しかし、彼らが纏う空気は、他の普通科の生徒たちとは明らかに異なっていた。
天哉の眼鏡の奥にある瞳は、かつての生真面目な正義感ではなく、氷のような冷徹な憎悪で出久を射抜いていた。隣に座る範多や電気、そして少し離れた席にいる麗日お茶子の視線も同じだった。
出(……飯田くん……)
出久が小さく唇を動かしたが、言葉は声にならなかった。飯田は出久と目が合った瞬間、軽蔑を露わにするように鼻で笑い、無言で席を立った。
そこには、もはや言葉で埋められるような溝は存在しなかった。かつての仲間たちは、出久を「救うべき友」ではなく、自分たちの夢を奪い、人生を狂わせた「排除すべき怪物」として完全に隔絶していたのだ。
その、張り詰めた沈黙を切り裂くように、校内に凄まじい轟音のサイレンが鳴り響いた。
『セキュリティ3が突破されました!! 生徒の皆さんは速やかに屋外へ避難してください!!』
「レベル3!? セキュリティが突破されたのか!?」
「そんなバカな! ここは雄英だぞ!?」
食堂内は一瞬にしてパニックに陥った。生徒たちが出口へと殺到し、怒号と悲鳴が入り混じる。
出久は反射的に立ち上がり、周囲を警戒した。右腕が熱を帯び、制服の奥で「怪物」が目を覚まそうと蠢き出す。
出(ヴィランの襲撃……!? 嘘だ、このタイミングで……!?)
だが、押し寄せる群衆の隙間から見えたのは、ヴィランの影ではなかった。
校門を強引に突破し、波のように雪崩れ込んできたのは、無数のカメラとマイクを構えた報道陣だった。
「オールマイトを出せ!」
「特待生の緑谷はどこだ!」
「除籍騒動の真実を話せ!!」
彼らはもはや「報道」という一線を越え、狂気的な執着を持って生徒たちを追い回していた。フラッシュの光が、パニックに陥る生徒たちの顔を無慈悲に照らし出す。
出「危ない……!!」
出久は、逃げ惑う生徒たちが非常口に殺到し、将棋倒しになりかけているのを見た。このままでは、マスコミが踏み込んでくる前に、生徒たちが自らのパニックで自滅してしまう。
その時、混乱の渦中で誰よりも早く動いたのは、出久が「溝」を感じていたあの男だった。
天「皆さん…大丈ー夫!!」
飯田天哉が、群衆の上を跳ぶようにして非常口の標識に飛びついた。彼はその端正な姿勢を保ったまま、エンジンを吹かすような勢いで叫んだ。
天「ただのマスコミです!何もパニックになることはありません。大丈ー夫!!ここら雄英!!再起右方の人間にふさわしい行動を取りましょう!!」
その一喝は、混沌とした食堂内に一筋の「規律」をもたらした。飯田のその姿は、例えヒーロー科を追われ、出久を憎んでいようとも、彼の根底にある「委員長としての誇り」がまだ死んでいないことを証明していた。
出久はその光景を、息を呑んで見つめていた。
出(飯田くん……。やっぱり君は、凄いよ……)
一時の混乱は収まりを見せ始めたが、校門の外では、マスコミたちがさらに激しく押し合っている。
マスコミの奔流は、もはや制止不能な暴力となって校舎の奥深くへと侵食していた。
「緑谷出久はどこだ!」
「怪物の素顔を撮らせろ!」
血走った目で特ダネを追う彼らは、もはや報道者ではなく、獲物を追う飢えた獣そのものだった。その波が、避難を急ぐ他クラスの生徒たちを飲み込もうとしたその時、廊下の向こう側から、出久が静かに姿を現した。
彼は制服の拳を硬く握りしめ、押し寄せるカメラの放列の前に立ち塞がった。レンズ越しに向けられる無数の悪意と好奇心。出久は深く、深く息を吸い込む。
出(これ以上、学校を、みんなを……壊させない……!)
出久は自身の喉にワン・フォー・オールの熱量を凝縮させた。それと呼応するように、内なる白き悪魔、インドミナス・レックスが「侵入者を排除せよ」と脳内で共鳴する。二つの異質な力が、少年の細い喉の中で臨界点を超えて混ざり合った。
出「ーーーーーーーーー!!!!!!!」
放たれたのは戦闘訓練時をも凌ぐ「絶対的な支配」を伴う咆哮だった。
それは物理的な破壊をもたらす衝撃波ではなく、空間そのものの振動を固定し、生物の脳幹に直接「死の疑似体験」を叩き込むような、超常的な音の暴力。咆哮が廊下を駆け抜けた瞬間、狂乱していたマスコミたちの表情が凍りつき、まるで糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちていった。
出久は放出した力の反動に耐えきれず、視界が急速に暗転していくのを感じた。喉を焼く熱さと、脳を揺らす残響。彼は膝から崩れ落ち、そのまま冷たい床へと沈んでいった。
ーーー
それから数十分後。校内のセキュリティが復旧し、マスコミによる騒乱が完全に沈静化した頃。
事態を重く見た消太やプレゼントマイクら教師陣が、現場である廊下へと駆けつけた。
マイクは、倒れている数十人の報道陣を見て、最悪の事態を覚悟して叫んだ。
PM「なんてこった……イレイザー、あいつの咆哮をモロに浴びたのか!? 廊下が大惨事になってるんじゃ……」
しかし、彼らが目にしたのは、予想に反した「奇妙なほどに美しい」光景だった。
廊下の床に横たわるマスコミたちは全員が深い眠りに落ちたかのように静かに気を失っていた。
驚くべきことに、彼らの耳から血が流れている様子もなく、外傷一つ見当たらない。さらに、彼らが手にしていた精密なカメラのレンズも、指向性の高いマイクの振動板も、一切の破損がなく、まるで最初からそこにあったかのように無傷のままだった。
消「……信じられん」
消太は気絶している出久の傍らに膝をつき、その喉の脈拍を確認した。
本来、あれほどの音圧を放てば、周囲の窓ガラスは粉々に砕け、精密機械は回路を焼き切り、人間は鼓膜を失うはずだ。しかし、出久は「怪物」の力を借りながらも、土壇場でそれを「殺さないための力」へと完全に昇華させていた。破壊ではなく、強制的な「沈静」のために。
消「自分の身体はボロボロに壊しておきながら、外には一切の被害を出していない……。合理性を超えた、執念の制御だな」
消太は、気絶したまま苦痛に眉を寄せる教え子を、静かに見つめた。
マスコミは無傷で、カメラも無事。それは「緑谷出久が暴徒化したマスコミを救った」という、社会への唯一の反論材料になり得る「奇跡」だった。
ーーー
避難誘導を終え、ようやく落ち着きを取り戻した廊下の端で天哉は立ち尽くしていた。
彼の視線の先には、力尽きて倒れた緑谷出久と、その周囲で糸が切れたように眠るマスコミたちの姿があった。
ーーー
天(……まただ。また君は、その御しきれぬ力を使って、場を支配したのか……)
天哉の視界が、一瞬だけあの「個性把握テスト」の地獄へとフラッシュバックする。
突如として現れた巨大な白い影。自分を、麗日くんを、クラスメイトたちを塵芥のように薙ぎ払った圧倒的な暴力。今、自分の両足となっている冷たい義足の感触が、警鐘を鳴らすようにズキリと疼いた。
天哉の拳が、白くなるほど強く握りしめられる。
彼の中に渦巻いているのは純粋な正義感だけではなかった。
あの日、ヒーロー科という輝かしい未来を奪われ、身体を損なわれたことへの根深い「怒り」。そして、目の前の少年が放つ「異形の気配」に対する、本能的な「拒絶」。
マスコミを無傷で制圧したという「結果」は、確かに合理的であり、称賛に値するものかもしれない。だが、飯田にとってそれは、出久という存在が「人間」からさらに遠ざかり、得体の知れない「何か」に変貌し続けている証拠のように見えていた。
天哉は気絶した出久を介抱する相澤やオールマイトの背中を、遠くから静かに見つめ続けた。
もし、自分があの場に立っていたらどうしていただろうか。
ルールを遵守し、言葉で説得しようとしただろうか。
だが、あの狂乱したマスコミ相手に、言葉が届いたとは到底思えない。
結局、出久の放った「暴力的なまでの沈静」が、最良の解決策であったという事実は、真面目すぎる飯田の理性を苦しく締め付けた。
天(君は……何なのだ、緑谷くん。僕たちを地獄へ叩き落とした悪魔なのか。それとも、身を挺してこの場所を守ろうとする守護者なのか……)
天哉は自分の胸元に手を当てた。そこには、制服越しに、かつてヒーローを目指した「規律ある心臓」の鼓動があった。
出久との間に横たわる溝は、依然として深く、暗い。
あの日、出久を排除しようとした自分たちの行為は「悪」だったのか。それとも、あんな怪物を放置している雄英こそが「悪」なのか。
天「……考えねばならん。感情ではなく、君が示そうとしているその背中の意味を」
飯田は、独り言のようにそう呟くと、再び出久に背を向けた。
その歩みは、入試の時のような迷いのないものではなかった。一歩一歩が重く、自身の「正義」を再構築しようとする苦悩に満ちていた。
飯田が去った後の廊下には、出久の咆哮の残響が、目に見えない粒子となって漂っているようだった。
トラウマは、そう簡単には消えない。
だが、飯田の中に生まれた「問い」は、いつかこの
それを、今の出久が知る由はない。
ただ、静かに眠る少年の右腕は、主人の苦悩を代弁するように、時折ピクリと白い鱗を覗かせていた。