隔離室から解放され、厳しい監視体制のもとで雄英高校へと復帰した出久。
校舎の長い廊下を歩く彼の足取りは、かつてないほど重かった。制服の袖から覗く右腕は、いまだに禍々しい変異の余韻を沈黙の内に秘めている。すれ違う他クラスの生徒たちが、怪物を見るような目で彼を避け、ひそひそと「人殺しの緑谷」と囁き合う声が、ナイフのように彼の心を削っていく。
教室の扉の前に立った時、出久の指先は小刻みに震えていた。
出(また、みんなを怖がらせてしまう。僕があそこにいるだけで、みんなの日常を壊してしまうんだ……)
意を決して、彼が扉を開けた。
瞬間、教室内の空気が凍りついたように静まり返る。
実「……緑谷」
真っ先に声をかけてきたのは実だった。
出久は反射的に肩を跳ねさせ、床に視線を落とした。謝罪の言葉を探し、唇を噛み締める。
出「……み、峰田くん、僕は……」
実「もう大丈夫なのか? 緑谷」
出「う……うん……」
短く答えるのが精一杯だった。出久は自分の隣を通る際、峰田が恐怖で逃げ出すか、あるいは激しい罵声を浴びせてくるのを覚悟して身を構えた。
だが、その時。
実「……有難う」
耳を疑うような、静かな、しかし確かな感謝の言葉が峰田の口から零れた。
出久は弾かれたように顔を上げた。
出「え……?」
実「あん時の水難ゾーンで、お前がいなかったらオイラは死んでた。……本当に、ありがとう」
峰田は、いまだに恐怖を拭いきれないのか、その足はわずかに震えていた。出久の中に宿る「白い怪物」への本能的な拒絶は消えていない。それでも、彼は逃げ出さずに出久の目を見つめていた。
実「お前のあの腕を見た時は、正直、腰が抜けるどころかチビりそうだった。でもよ……お前、オイラを抱えて跳んだだろ? あの黒い鞭で、オイラを助けてくれただろ? あれがなきゃ、今頃オイラは敵に殺されていた」
出「峰田くん……」
出久の瞳に、熱いものが込み上げる。
かつての仲間たちの多くが、彼を怪物と断じ、憎悪を抱いて去っていった。だが、この場に残った者たちは違った。
力「峰田だけじゃねぇ。俺も、口田も、みんなお前に生かされたんだ」
背後から力道が分厚い手を遠慮がちに出久の肩に置いた。
力「暴走したお前が怖くないって言えば嘘になる。でも、あの雨の中で常闇たちを助けようとしてたお前の背中、俺たちは見てたんだ。お前は……怪物になってまで、俺たちを守ろうとしてくれた」
踏「闇に呑まれながらも、光を繋ごうとしたお前の魂……。我らは、それを『ヒーロー』と呼ぶに吝かではない」
踏陰が、その深淵を湛えた瞳で深く頷く。
目蔵が複製腕を一本解き、出久の周囲を優しく囲うようにして、外廊下からの心ない視線を遮った。
目「緑谷。お前が背負った罪も、苦しみも、俺たちが少しずつ分かち合う。お前は一人で怪物になる必要はない」
優雅もまた少し震える指先でキラリとポーズを決め、微笑んだ。
優「C'est magnifique! 苦難を乗り越えた君の瞳は、前よりもずっと強い輝きを放っているよ☆」
焦凍は離れた席から無言で見つめていたが、その眼差しにはかつてのような冷徹な拒絶はなく、同じ「呪われた力」を持つ戦友への、静かな信頼が宿っていた。
かつて個性把握テストで、出久が必死なインドミナスを抑え込もうとしていたあの姿。
彼を「加害者の怪物」ではなく「個性に抗う被害者」として受け入れ、憎悪の連鎖を断ち切ろうとした、このわずか数名の「仲間」たち。
出「……あ……ああ……」
出久の喉から、言葉にならない嗚咽が漏れた。
世間から、そしてかつての友らから「悪」として断罪され、冷たい特殊合金の部屋で絶望していた彼にとって、彼らの不器用な感謝と受け入れは、どれほどの救いだったか。
出「……ありがとう……みんな……本当に、ありがとう……!!」
出久は顔を覆い、その場に崩れ落ちるようにして泣いた。
それは、凄惨な殺戮を繰り広げた「死神」の姿ではなく、ただひたすらに救いを求めていた、一人の少年の姿だった。
その様子を、教室の隅で勝己が忌々しげに見ていた。
勝「……チッ、いつまで泣いてやがる。さっさと席につけ、デク……遅れるんじゃねぇぞ」
言葉こそ鋭いが、勝己もまた、その場を去ることなく、出久の帰還を見届けていた。
出久が仲間たちの温かい言葉に涙し、ようやく顔を上げた時、教卓に立つ包帯だらけの隙間から見える消太の表情は依然として凍りついたように冷徹だった。彼は手元の端末から視線を上げると、包帯の隙間から覗く鋭い瞳で、生き残った生徒たちを射抜いた。
消「……湿っぽい時間は終わりだ。緑谷、席につけ」
その声には、教師としての厳格さと、それ以上に隠しきれない「重圧」が混じっていた。出久が慌てて椅子に座ると、消太は重い口を開いた。
消「お前たちも、小耳に挟んでいるかもしれない。……個性把握テストで除籍され、さらにUSJの件を機に学校を去った連中のことだ」
教室内の空気が一瞬で張り詰める。勝己は不機嫌そうに窓の外を見やり、焦凍は微かに眉を寄せた。
消「本来、除籍された生徒のその後の足取りを追うのは学校側の職務ではない。だが……警察と公安の合同捜査によれば、現在、行方が完全に途絶えている者が数名いる。実家にも戻らず、友人との連絡も遮断し、文字通り煙のように消えた連中だ」
消太の言葉が、出久の背筋に冷たい氷を這わせる。
消「……噂では、彼らが『特定の組織』に接触した、という証言も出ている。あのUSJで、お前たちが目撃した絶望……そして、お前という『怪物』に対する純粋な憎悪。それが彼らを、ヒーローとは真逆の場所へ押し流した可能性がある」
出久の脳裏に、憎しみに満ちた天哉や、恐怖で過呼吸を起こしたお茶子の顔がフラッシュバックする。自分の存在そのものが、かつての友を「闇」へ叩き落としたのではないかという疑念。それは、先ほど仲間たちからもらった救いを塗りつぶすほど、どす黒い予感となって喉元を締め付けた。
消「『あの怪物を野放しにする雄英は敵だ』。……そう吹聴する声明が、ネットの裏側で散見されるようになった。彼らがもし、復讐のために力を蓄えているのだとしたら、次にお前たちの前に現れる時は……」
言葉が途切れる。消太は一度深く、深く溜息をつき、その不穏な空気を断ち切るように片手で自身の首元をさすった。
消「……だが、気にしたってしょうがない」
その言葉は、突き放すような冷たさと同時に、奇妙な「諦念」を孕んでいた。
消「起きてしまったことを悔やんでも、消えた連中を今さら探し回っても、現状は何も変わらない。お前たちに今できるのは、いつか来るかもしれない『最悪』に備えて、自分の身を守れるだけの力をつけること。それだけだ」
消太は教卓を一度叩き、話を切り上げた。
消「奴らがどこで何をしていようと、今は忘れるんだ。お前たちがヒーローであろうとする限り、必然的に答えは向こうからやってくる。……」
消太は教卓に置いた資料を無造作にまとめると、最後の一片を吐き出すように告げた。
消「……なお、唯一校内に残っているのは飯田天哉の一名だけだ。奴が今後どう動くかは……奴次第だ」
その名前が出た瞬間、教室内には冷たい隙間風が吹き抜けたような緊張が走った。
あの日、憎悪に満ちた目で出久を睨みつけ、義足で地面を叩いた天哉。彼だけがこの学校に留まり、静かに「何か」を見定めようとしている。その事実が、生き残った生徒たちの胸に鉛のような重圧をかけた。
だが、消太は彼らの感傷を切り裂くように、さらに言葉を続けた。
消「最後に。近々、雄英体育祭がある。
例の事件で世間は騒がしいが、だからこそ開催される。お前たちが『怪物』ではなく、制御された『ヒーロー候補』であることを世間にアピールできる唯一にして最大のチャンスだ。……以上だ。気張っていこう」
その激励とも宣告とも取れる言葉を残し、消太は足早に教室を去っていった。
静まり返る教室。通常であれば、体育祭という言葉に生徒たちは色めき立ち、闘志を燃やすはずだ。だが、今の彼らにそんな余裕は微塵もなかった。
(((いや、全然燃え上がらないんですけど……)))
実はガタガタと震えながら机に突っ伏し、口司は不安げに自身の指を弄ぶ。出久に至っては、自分の右腕を見つめたまま、白磁の怪物がスタジアムを血の海に変える最悪のシミュレーションが脳内を支配し、顔面が蒼白を通り越して土気色になっていた。
自分が衆人環視の中で「力」を振るう。それは、一歩間違えれば再び「虐殺者」として全世界から断罪される、断崖絶壁の綱渡りだ。
その沈滞した空気を破ったのは、焦凍の静かな、しかし確固たる声だった。
焦「……どっち道、俺たちはプロヒーローになるんだ。やるしかねえだろ。ここで退けば、俺たちは一生、あの事件の陰から逃げられなくなる」
焦凍は自身の左手を見つめた。親から与えられた「呪い」の炎と、出久が抱える「怪物」。形は違えど、その根底にある「抗うべき運命」は同じだと彼は感じていた。
勝「ったりめーだ。モブが何人消えようが、デクが化け物だろうが、俺がトップになる事実は変わらねぇ。文句垂れてる暇があるなら、死ぬ気で体鍛えやがれ」
勝己は椅子を乱暴に蹴って立ち上がると、鋭い眼光で出久を射抜いた。
勝「……おいデク。お前がまた暴走して周りを食い散らかそうとするなら、その前に俺が爆破してやる。安心しねぇで、精々死ぬ気で制御して見せろ」
それは、勝己なりの不器用で、暴力的なまでの激励だった。
出久はゆっくりと顔を上げた。
恐怖は消えない。かつての友が闇に堕ち、自分が怪物と呼ばれる現実は変わらない。それでも、今この場所に残り、自分を「仲間」と呼んでくれる者たちがいる。
出「……うん。……頑張るよ。みんなに、認めてもらえるように」
出久は小さく、しかし意志の宿った声で答えた。
かつて夢見た「煌びやかな体育祭」ではない。それは、自身の「業」を背負い、世界の悪意と対峙するための、あまりにも過酷で血なまぐさい祭典への序曲だった。
ーーー
ー昼休みー
AM「緑谷少年がいたーっ!! 一緒にお弁当食べよ」
おどけたように現れたオールマイトだった。
ー仮眠室ー
すでに師としての真剣なものへと切り替わっていた。
出久の脳裏には、体育祭のスタジアムで数万の観衆に囲まれ、再び血塗れの「白い怪物」と化してしまう自分自身の悪夢が、絶え間なく明滅していた。
AM「緑谷少年、よく来てくれた。……君がこのワン・フォー・オールを継承してまだ日は浅い。だが、君の力は今回のUSJ事件で、良くも悪くもプロのヒーローたちに強烈な印象を与えてしまった」
オールマイトは、自身の膝に置いた震える手を見つめながら続けた。
あの日のUSJ。出久が振るった力は、確かに仲間を救った。しかし同時に、それは「平和の象徴」が掲げてきた「救済」とは真逆の、「呪われた暴力」として、多くのプロヒーローたちの記憶に刻み込まれてしまったのだ。
出「オールマイト……僕のあの個性は……やっぱり、あんな殺戮を繰り返すためのものなんじゃ……」
消え入りそうな声で、出久が零す。かつての友を絶望させ、敵を肉塊に変えたあの感触。自分の掌が、今も粘りつくような返り血で汚れている気がしてならない。
AM「君が気にすることはない。……制御でき始めてるんだからね」
オールマイトは静かに、しかし断固とした否定を込めて言い放った。彼は椅子から立ち上がり、日差しが照りつける窓の外の青空を見上げた。その背中は、かつて世界を一人で背負っていた男の、孤独で高潔な影を落としていた。
AM「君には、『平和の象徴』の後継者として、そして『最高のヒーロー』を目指す者として……。君が、来た! ってことを、世の中に知らしめてほしい!!」
その咆哮のような言葉は、出久の心の澱みを力任せに打ち砕いた。
怪物として忌み嫌われ、特級危険指定個体として扱われかけた自分に、師はまだ「最高のヒーローになれ」と言ってくれている。
そして、オールマイトは振り返り、今後の「特訓」の真髄について告げた。それは、根津や相澤ら教師陣が、出久を「呪いの鎧(インドミナス)」から引き離すために練り上げた、唯一の更生プログラムでもあった。
AM「だからこそ君には、新たな力を身につけてもらう」
出「新たな力……!」
AM「そうだ。君の力は、インドミナス・レックスに操られて良いものではない。君自身の肉体と精神で、ワン・フォー・オールと共に制御し、君自身の意志で戦えるようにならなければならない。……そのための力が必要だ」
オールマイトは出久の目の前で自身の細い指を突き立てた。
AM「インドミナスという本能の檻をぶち破り、君の魂が紡ぎ出す『力』を掴み取るんだ。君がただの『怪物』ではなく、人々を救うための『最高のヒーロー』であることを、この体育祭という舞台で証明するんだ!」
師の言葉は、熱を帯びた弾丸となって出久の胸に突き刺さった。
怪物の爪で人を裂くのではなく、自らの指先から放たれる「救いの力」を。
出久は、溢れそうになる涙をこらえ、かつてないほど力強く、魂を込めて頷いた。
出「はい! 特訓……頑張ります!」
それは、血塗られた過去を清算し、一人の人間として、一人のヒーロー候補生として立ち上がるための、地獄よりも苛烈な「再生」の始まりだった。
ーーー
ー放課後ー
廊下は、まるで重油でも流し込まれたかのような、粘りつくような熱気と悪意に満ちていた。
実「うわっ、なんだこれ。何だか知らないけど、すっげー数だぞ!」
そこには、制服の肩章もバラバラな普通科やサポート科、そしてB組の生徒たちが、壁となって廊下を埋め尽くしていた。彼らの視線は、好奇心というよりは、獲物を値踏みするような冷酷な「敵意」に近い。
勝「敵情視察だろ、雑魚共が。襲撃耐え抜いた連中の顔拝みに来たんだろう。意味ねぇから退けモブ共」
勝己は、自分たちに突き刺さる何百もの視線をゴミのように一蹴し、ズンズンと人混みを割って進む。その傲慢な態度に、群衆の中から一際冷ややかな声が響いた。
人「随分偉そうだな、ヒーロー科ってそんな奴ばっかりなのか? ガッカリするぜ」
人混みを割り、現れたのは紫のぼさぼさの髪と、深い隈を刻んだ眠たげな瞳を持つ男「心操人使」だった。彼は出久の目の前で足を止めると、その瞳の奥に宿る「何か」を抉り出すような視線で睨みつけた。
人「知ってるか? 普通科や他の科にはヒーロー科に落ちた奴も結構いるんだぜ。体育祭のリザルトによっちゃヒーロー科への転科も検討してくれる、逆もまた然りだそうだ。……敵情視察? 少なくとも俺は、余裕ぶっているお前らの足をゴッソリ掬ってやる。……そう宣戦布告に来たつもりだ」
心操の言葉は、氷の楔となってその場に打ち込まれた。その直後、別の場所からも荒々しい声が上がる。
徹「隣のB組のモンだけどよぅ!! 俺たちと同じあの
鋼鉄のように硬い肌と、剥き出しの闘志を持つ男「鉄哲徹鐵」が叫ぶ。
徹「本番で恥ずかしい事んなっぞ!!」
群衆の視線は、やがて一点に集中していった。
1-Aの列のなかに、怯えるように、しかし異様な気配を纏って立つ出久に…。
「……おい、あれだろ? 入試で受験生を食い散らかしたっていう……」
「USJでも、ヴィランを惨殺したって噂だ。ほら見ろよ、あの右腕……」
「あんな化け物と同じ土俵で戦わされるのかよ。冗談じゃねぇ……」
ひそひそと交わされる密談は、もはや隠そうともしない「拒絶」と「嫌悪」だった。B組の生徒たちも、あるいは普通科の生徒たちも、彼を「同じ志を持つライバル」とは見ていない。自分たちの平和を脅かし、ヒーローという職の定義を汚す「異物」として、その存在を排除しようという殺気が、廊下の空気をピリピリと震わせる。
だが、その最前線に立つ勝己だけは、一切の動揺を見せなかった。
勝「上に上がりゃ関係ねぇ」
短く、そして残酷なまでに純粋な一言。
他人の嫉妬、境遇の不遇、そして目の前にいるのが人間か怪物か。そんなことは「勝敗」という一点においては何の価値もないのだと。
勝己に続き、焦凍や障子、常闇たちが、群衆の視線を真っ向から受け止めながら歩みを進める。それは、地獄を潜り抜け、血の味を知ってしまった「選ばれし者」たちにしか纏えない、凄絶な覇気だった。
出久もまた、その視線の暴力の中を歩いた。
自分の右腕が疼く。かつてのクラスメイトたちの憎悪が、今、目の前の群衆の瞳となって自分を射抜いている。
出(上に上がりゃ、関係ない……そうだ。僕が目指すのは、他人からの評価じゃない)
心操の飢えたような瞳。B組の猛々しい咆哮。そして、自分を死神と呼ぶ嘲笑の声。
それらすべてを、出久は飲み込んだ。
出(最高のヒーローになることだ。……ワン・フォー・オール、そして僕自身を……この体育祭で証明する。……僕は、怪物じゃない!)
出久の琥珀色の瞳に、一筋の静かな火が灯る。
USJでの地獄の記憶を、絶望の種から「強さの糧」へと変える。かつて夢見たきらびやかな祭典は、今や、世界の悪意と対峙し、己の存在意義を賭けた「決闘の場」へと姿を変えようとしていた。
群衆をかき分けて進む1-Aの背中は、夕闇の廊下で、一際長く、鋭い影を落としていた。