澄み切った青空の下、日本中、いや世界中の熱狂と欲望が一点に集約される場所。
雄英高校体育祭。かつてのオリンピックに代わる、日本最大級のビッグイベントの朝がやってきた。
しかし、今年の空気は例年とは明らかに異なっていた。
USJでの大規模な敵襲撃事件。そして何より、現場で大虐殺を引き起こしたとされる「正体不明の怪物」の噂。スタジアムの周囲には、暴動鎮圧用の重装備を纏った警察車両がズラリと並び、上空にはプロヒーローたちが目を光らせている。それは祭典というよりも、一触即発の戦場のようなピリピリとした緊張感を孕んでいた。
スタジアム内部、1年A組の控室。
出久はベンチに座り、自身の「右腕」を静かに見つめていた。
出(……動く。僕の意志で、ちゃんと動かせる……)
ゆっくりと指を曲げ、拳を握り、そして開く。
USJ事件以降、どれほど抑え込もうとしても皮膚の下で黒ずみ、鋭い白磁の鱗を覗かせていたあの忌まわしい怪物の部位が、今は完全に鳴りを潜めていた。
健康的な肌色、丸みを帯びた爪、そして温かい血の巡る柔らかな肉。紛れもない、「緑谷出久という人間の腕」だった。
この数週間、オールマイトと相澤による常軌を逸した「倍速トレーニング」は、文字通り血を吐くような地獄だった。出久はワン・フォー・オールの深淵にアクセスし、インドミナスの細胞と、歴代継承者たちの力を精神の底で切り離すという、途方もない作業を強いられた。
何度も自我を喰われそうになりながら、出久は「人を救うための力だ」と泣き叫びながら抗い続けた。その結果、ついに彼は怪物の細胞を精神の檻の奥深くへと押し込め、肉体を人間の姿に保ち続ける「制御」の第一歩を掴み取ったのだ。
力「……よかったな、緑谷。すっかり元の腕じゃねぇか」
控室の静寂を破ったのは、力道の声だった。
彼が安堵の息を吐きながら声をかけると、周囲にいた実や口司も、ホッとしたように出久の腕を見つめた。
出「うん……。相澤先生とオールマイトのおかげだよ。これで、みんなを不用意に怖がらせることもない……」
出久が控えめに微笑むと、障子が静かに頷いた。
だが、部屋の空気は依然として重い。
本来なら二十人の生徒で熱気に満ちているはずの控室には、たったの九人しかいない。残されたロッカーの余白が、かつての友たちが「敵」へと堕ちていった事実を否応なく突きつけてくる。
「……緑谷」
その冷たい声は、控室の淀んだ空気を一刀両断するように響いた。
声の主は、焦凍だった。
彼はベンチから立ち上がり、真っ直ぐに出久の元へと歩み寄った。半冷半燃の特異な個性を持ち、推薦入試トップという圧倒的な実力を誇る男。彼が放つ静かな、しかし研ぎ澄まされた刃のようなプレッシャーに、峰田たちが思わず息を呑んで道を譲る。
出「轟くん……どうしたの?」
出久は、人間の姿に戻った右拳を膝の上に置きながら、轟のオッドアイを真っ直ぐに見返した。
焦「客観的に見て、実力は俺の方が上だと思う」
出「え……? あ、うん……」
轟の唐突な言葉に、出久は戸惑いながらも頷く。
轟は出久の普通の腕を一瞥し、そして再びその瞳を射抜いた。
焦「お前がその『怪物』を抑え込んだことは評価する。だが、オールマイトはお前に目をかけているな。……お前がどんな呪われた力を抱えていようと、その繋がりが何であろうと、詮索するつもりはない」
轟の左半身——炎を宿した側が、微かに、しかし確かな熱を帯びる。彼もまた、父親であるエンデヴァーから押し付けられた「血の呪縛」に苦しみ、それに抗おうとしている人間だった。だからこそ、怪物という呪いを飼い慣らそうとしている出久の存在が、彼にとって無視できない「標的」となっていたのだ。
焦「俺は、俺の力だけで……いや、親父の力(左)なんか使わなくたって、お前にも、他の奴らにも勝ってトップに立つ。……お前には、勝つ」
それは、紛れもない宣戦布告だった。
普段なら間に入って止めるはずのクラスメイト(切島や飯田)は、ここにはいない。ただ重い沈黙だけが、二人の間に降り積もる。
少し離れた壁際で、勝己が忌々しげに舌打ちをした。
勝「……チッ。おい半冷半燃、俺を無視してんじゃねぇぞ」
だが、轟は爆豪を一瞥しただけで、出久から視線を外さなかった。
出久は、ゆっくりと立ち上がった。
かつて化け物だった自分が、推薦組のトップからライバルとして真っ向から勝負を挑まれている。そして何より、自分を「怪物」としてではなく「緑谷出久」という一人の競技者として見てくれている。
出久は、取り戻した人間の右手を強く、強く握り込んだ。
出「……轟くんが僕よりずっと強いことなんて、分かってる。普通科の人たちも、B組の人たちも、みんな本気で僕らの足を掬いに来てる……」
出久の脳裏に、彼を憎悪の目で睨みつけていた普通科の心操や、義足を鳴らして去っていった天哉の姿が過ぎる。
出「僕は……USJで、取り返しのつかない地獄を作った。みんなに一生消えない傷を負わせた。……だからこそ、僕はここで立ち止まるわけにはいかないんだ」
出久の琥珀色の瞳に、決して揺るがない光が宿る。
それは怪物の捕食衝動ではない。「最高のヒーローになる」という、純粋で強烈な意志の炎だった。
出「僕も……本気で獲りに行く。君の宣戦布告、受けて立つよ」
二人の視線が空中で激しく交錯する。
そこにあるのは憎悪ではなく、己の存在意義を賭けた純粋な闘志だった。
踏「……時間だ。行くぞ」
踏陰が静かに時を告げる。
スタジアムの外からは、地鳴りのような大歓声と、プレゼント・マイクのド派手な実況アナウンスが響き始めていた。
出久は大きく深呼吸をし、控室の扉へと向かう。怪物の鎧を脱ぎ捨て、己の肉体と精神だけを武器にして。
苛酷な運命の幕開けとなる「雄英体育祭」のフィールドが、彼らを待っていた。
ーーー
スタジアムを揺るがす地鳴りのような大歓声。しかし、その熱気の中には、明らかに例年にはない冷ややかな「好奇」と「恐怖」の視線が混ざり合っていた。
暗い入場通路の先、眩い光が差し込むフィールドへと、1年A組のわずか九人の生徒たちが足を進める。
PM「さあーーー、ヒーロー界の未来を担う新星たちの祭典! 雄英高校体育祭、開幕だーー!! トップバッターを務めるのはもちろんこのクラス! 敵の襲撃を受けながらも、その圧倒的な力で生き残った驚異の精鋭! ヒーロー科1年A組だーーっ!!」
プレゼント・マイクの爆音の実況が響き渡る。だが、彼らがフィールドに姿を現した瞬間、客席のあちこちから、どよめきに似た囁き声が漏れ聞こえてきた。
「おい、あれが『緑谷出久』か……?」
「入試で大暴れして、USJでもヴィランを肉塊にしたっていう……」
「見た目は普通の大人しそうな少年じゃないか。右腕だって普通だし……」
「嘘だろ、あの中にあの『白い悪魔』が眠ってるのかよ……」
世界中から向けられる、値踏みするような視線の数々。それは出久の心を容赦なくすり潰そうとする。
実「うわああ、人、人、人……! 吐きそうだ、オイラ完全に呑まれてる……! 出席者が半分以下なのに、この注目度は心臓に悪すぎるって!」
目「峰田、前を見ろ。外の奴らが俺たちをどう見ようが、俺たちの戦いはもう始まっている」
出「……っ」
出久は、自身の右拳を強く、強く握りしめた。皮膚の下で怪物の細胞が騒ぐ気配はない。特訓の成果は本物だ。今は、紛れもない「人間」の身体でここに立っている。
出(大丈夫だ。僕は、怪物の力に頼るためにここに来たんじゃない。僕自身の力で……プロヒーローになるために、ここに立ってるんだ!)
ステージの中央には、R-18ヒーロー・ミッドナイトが艶然と佇み、クラッカーを鳴らした。
ミ「静かにしなさい、全校生徒! 選手宣誓!」
ステージに呼ばれたのは、入試1位の爆豪勝己だった。勝己はポケットに手を突っ込んだまま、傲然とした足取りでマイクの前へと進み出る。
勝「……
俺が1位になる。それだけだ」
そのあまりにも横暴な一言に、スタジアムに集まった普通科やサポート科、そしてB組の生徒たちから一斉に怒号が巻き起こった。
鉄「ふざけんじゃねぇぞA組ィ! 入試やUSJを生き残ったからって、調子に乗ってんじゃねぇぞコラァ!!」
人「随分と安い挑発だな。ヒーロー科のプライドってやつか? つまらないね」
ブーイングが吹き荒れる中、普通科の制服を着た一人の少年が、静かに出久を睨みつけていた。
飯田天哉。
失った左足の代わりに鈍く光る「憎悪の義足」を纏い、彼は眼鏡の奥の鋭い眼光を、出久の普通の右腕へと向けていた。
天(緑谷くん。君がその『人間の姿』のままで、どこまで歩めるのか……僕は普通科の席から、君という存在の全てを見届ける。君が本当に『ヒーロー』にふさわしい男なのかをね……!)
勝己は何食わぬ顔でステージを降り、出久の横を通り過ぎる際にボソリと呟いた。
勝「おいデク、お前がその普通の腕のままでチンタラ走るなら、俺が後ろから爆破してやるからな」
出「……うん、分かってるよ、かっちゃん」
ミッドナイトが再び鞭を振り、背後の巨大なモニターを指し示した。
ミ「さあ、それじゃあ早速、運命の第1種目を発表するわよ! 1年の予選はこれ!!」
スロットが回り、画面に映し出された文字は——『障害物競走』。
ミ「全11クラス一斉参加! スタジアムの外周約4キロを舞台にした、自由を極めたサバイバルレースよ! 私たちのモットーは『自由』! コースを外れなければ、個性の使用ももちろん許可するわ! さあ、全員スタートラインにつきなさい!」
案内されたスタートゲートは、二百人以上の生徒が一斉に雪崩れ込むには、あまりにも狭い通路だった。
焦(……まずは、ここを抜ける。過密状態による押し合い、個性のぶつかり合い。最初の一歩で全てが決まる)
勝(誰が前に立とうが、全員まとめて爆破して突き進むだけだ)
出久はスタートラインの最前列で、深く息を吐き、腰を落として構えた。全身に流れるのは、ワン・フォー・オールの緑色の稲妻。まだ完全には出力できないが、今の彼には、怪物の肉体に頼らずとも戦える「人間の足」がある。
出(怪物の力は使わない。僕自身の、僕だけの力で……! 行くぞ……!)
ピ、ピ、ピ、と電子音がスタジアムに鳴り響く。
ゲートの上の三つのシグナルが、赤から黄色、そして緑へと変わった。
ドォォォォン!!
爆音と共に、二百人を超えるヒーローの卵たちが、未来を掴み取るために一斉に駆け出した。