懐に潜りこみ、身体に掌を押し当てる。
意外なほど柔らかな感触が一瞬伝わってきたが、それを意識する寸前、練った氣を放った。
「……く……ッ」
敵から漏れ出でた悲鳴は、練氣を妨げるほど弱々しいものだった。
追撃をかけようとした龍麻は、それどころか攻撃も防御も忘れて立ち尽くした。
激しい闘いの中で、突如として棒立ちになった龍麻に、
敵手も打たれた部分を押さえるだけでなぜか反撃はしてこない。
陰氣が満ちる洞窟の中で、奇妙に心安らぐ空気が漂う。
自分と敵、どちらがその異質な空気を生み出しているのか判らぬまま、
龍麻は倒すべき敵に対して声をかけようとした。
それを妨げたのは、信頼する仲間だった。
「おい龍麻、何やってんだッ!!」
「……あ、ああ」
京一の声に我に返れば、敵の姿はすでにない。
取り逃がしてしまったことを仲間に詫びながら、龍麻は掌に残る柔らかさをずっと反芻していた。
かすかな、カーテンがはためく気配。
目を覚ました龍麻は、熟睡していたはずなのにどうしてそんな気配を感じ取ったのだろう、と訝った。
部屋には誰もいない。
当然のことを確認した龍麻は、もう一度寝ようとして、当然ではなかった事実に気づいた。
部屋に誰かいる。
起きていることを気取られぬよう、目だけを細め、そっと部屋を見渡す。
やがて闇に慣れてきた目に、浮かぶ人型の輪郭が映った。
窓から侵入してくるような輩が友好的であるはずがなく、泥棒の類だろう。
春から続く闘いの中で、危険に対する感覚は鋭敏を極めている龍麻は、慎重に様子をうかがった。
人影はじっと立っていて、部屋を物色しているようではない。
では、何が目的なのか──その答えは、すぐにわかった。
まだ気づかれていないと思ったのに、頭上から冷静な声が落ちてきたのだ。
「動くでない……既にそなたの身体には糸が巻きつけてある。
下手に動けばそなたの肉などたやすく斬れようぞ」
その女性の声には聞き覚えがあった。
昼間、港区の地下で闘った鬼道衆。
その一員である水角という女のことを、龍麻ははっきりと覚えていた。
侵入者の正体が判れば、目的も自ずと判明する。
だから龍麻は何をしに来た、などと愚かなことは訊かなかった。
「どうして俺の家が判った?」
疑問を口にした途端、全身を痛みが走った。
水角の脅しが本物であることを知り、龍麻は口を閉ざす。
侵入どころか、身体に触れられてさえ起きなかったことに、自嘲の笑みが口の端に浮かんだ。
「質問してよいのは妾だけじゃ」
龍麻が指示に従うことを示すために無言を保っていると、
水角は感情のひとかけらもない、冷たい声で言った。
「あの時、なぜとどめを刺さなんだのじゃ」
そんなことをわざわざ訊きに来たというのだろうか。
絶体絶命の危機に陥ってなお、龍麻は水角がここに来た理由を知って噴き出しそうになった。
しかし、この場で生殺与奪を握っているのは間違いなく彼女であり、
わずかとなった助かるチャンスを自分から捨ててしまうわけにはいかない。
今は一秒でも長く、会話を引き延ばさなければならなかった。
「なぜって……俺にもわからない。あんたがいい女だったからかな」
「ほう……この期に及んでまだ妾をたばかろうと言うか。
面白い、どこまで減らず口が叩けるか、試してみようか」
水角は起きるまで待っていた割には気が短いらしい。
どうやら間違えたと悟った龍麻は、自分の命の灯火が今にも消えそうになったと覚悟したが、
水角は予想もつかない行動に出た。
自らの顔を覆う鬼の面に手をかけ、敵手である龍麻に素顔を晒したのだ。
「この顔に……見覚えはないか」
宵闇に浮かび上がった水角の顔に、龍麻は息を呑んでいた。
恐ろしい鬼の面の下から現れたのは、病的なまでの白さを持った、絶世の美女の顔だったからだ。
睫毛の多い、細く、切れ長の目には一片の慈悲も浮かんでおらず、
闇すら呑みこんでしまうであろう黒い瞳があるのみだ。
冷徹に閉じられた濃い紅色の唇も、人形じみた線を持つ顎も、全てが繊細で、儚い。
闇の中で鮮明には見えない、憎悪だけを眼下に投げつける水角の顔を、
もっと近くで見たいと龍麻は思った。
「ない。……どこかで会ったことがあるのか?」
再び激痛が訪れる。
「訊ねてよいのは妾だけと言ったじゃろう」
肌に食い込む細い痛みは生半可なものではなく、減らず口を叩く余裕も失くした龍麻は、
見覚えのない水角の顔を良く見ようと目を凝らした。
「そなた……名は何という」
「緋勇……龍麻だ」
どうして今から殺そうとする相手の名などを知りたがるのか、不思議に思ったものの、
今さら嘘を言ったところで意味もない。
龍麻が名乗ると水角は得心したように頷き、初めて表情を和らげた。
「そうか……やはりな。妾はすぐわかったぞ。
顔と、何よりその瞳の輝きでな。……これも縁というものかの」
「どういうことだ」
「妾は江戸の世より九角様の御力をもって現世に甦った。
そして、妾が生きておった江戸の世にも、そなたと同じ顔のお人がおったのじゃ」
「俺の……先祖ってことか?」
「そうじゃろうな。名は龍斗様と言った。そなたは何代か後にあたるのじゃろう」
龍麻は両親より前の先祖を知らない。
今育てられている叔父夫婦に、両親が事故で死んだということは聞かされていたが、
祖父や祖母となると墓参りにさえ行ったことがないのを、こんな時になって初めて気づかされる。
一度くらい家系図を見ておくべきだったと、
やはり今頃後悔しても遅いことを反省する龍麻だったが、水角の話に重大な疑問が湧いた。
「俺の先祖を知っているお前が、どうして九角の手下になっている?」
質問は禁止されたにも関わらず、龍麻は問わずにはいられなかった。
「龍斗様と九角様は、昔は御仲間だったのじゃ」
そして水角も、もうそれを咎めることはなかった。
ベッドに腰かけ、龍麻の眼を覗きこむようにして語を継ぐ。
昼間闘っていた時よりも女性的な仕種を露にする水角に、動悸が早まる。
いい女だったから止めを刺さなかった、というのは案外嘘でもなかったんだな、
と口からでまかせに言ったことが自分にとっては半分正解であったことを龍麻は知った。
水角が正面から見据える。
切り揃えられた前髪と、肩までの長さがある、今は束ねられている髪は、
この闇にあって輝いて見えるほど光沢があり、解いたところを見てみたい、と龍麻に思わせた。
身体が全く動かせないことが、幸か不幸かわからないまま、龍麻は視線を合わせる。
鬼道衆の一員にふさわしい、冷たい深さを持つ瞳を、なぜか水角は自分から外し、
この部屋唯一の光がある窓の方を向いた。
「少し、昔話をしてやろう」
始められた水角の話を、龍麻は声もなく聞いていた。
鬼道衆というのは幕府に虐げられ、住む場所を失った人々が身を寄せ合った組織であったこと、
その組織を束ねていた九角天戒という男のこと、
そして、九角の片腕として鬼道衆に参加していた緋勇龍斗のこと──
それらの全ては初めて耳にすることであり、自分と九角の縁について龍麻は驚愕する他はなかった。
「妾は龍斗様と九角様の御傍に御仕えしておったのじゃ。
妾の無念を晴らすことは叶わなんだが、御二人には本当に感謝しておる」
「俺の先祖と九角が、ね……」
いつの時代にも為政者に虐げられる者というのはいる。
ましてや二百五十年の長きに渡るという、
歴史上にも類を見ないほど強固な支配体制を築き上げた徳川幕府ならば、
歴史の影に葬られた命の数は一体どれほどのものか。
龍麻は江戸時代について日本史の授業以上のことは知らず、
いくつかの乱があったものの、全体としては平穏な時代という認識しかなかった。
それがどういう経緯かは知らないが、自分の先祖が幕府の転覆を狙う組織に協力していたという水角の話は、
日本史がさほど好きではない龍麻にも、百年単位の過去について思いを馳せさせることとなった。
自分の先祖が正しいか間違っていたか、測る術は龍麻にはない。
しかし、やはり今の九角の子孫が行っていることが正しいとは思えない。
九角の先祖は倒幕を諦めたというが、ならば子孫は何に対して怨みを抱いているのだろうか。
話しあうことで、わだかまりを解いてやることはできないのだろうか。
現に今、自分と水角はこうして敵意を解き、語りあっているのだから。
縛りつけられたまま、龍麻は水角を見る。
斜め下から見上げる、月を向いたままの水角の顔は、龍麻の裡に急速にある種の想いを育んでいた。
敵手に対して抱くべきではないその想いを、龍麻は縛られているために振り払うことができない。
締めつけてこそこないものの、身体を動かせばすぐに判る糸は、
水角に身命を握られていることを意味する。
それを龍麻は、今すぐに振りほどこうとは思わなくなっていた。
話はいつしか移ろい、水角が個人的に見聞きしたことになっている。
懐かしむ表情で過去を語る水角を、妨げる気は龍麻にはない。
むしろ彼女が語る千夜一夜物語を、もっと聞きたくなっていた。
「龍斗様が現れてから、九角様はたいそうお変わりになられた。
良く笑い、呑み、妾達へも親しくなられた。
幕府滅亡という野望を捨てることができたのも、きっと龍斗様のおかげじゃろうな」
「龍斗様は九角様をなだめるのが御上手でな。
九角様の御機嫌が御悪くなられた時など、皆龍斗様に御願いしておった。
大抵はその後酒宴となったのじゃが、妾達も相伴させていただいて、次の日は大変じゃった」
「村の子供達と遊ぶのが龍斗様はお好きでな。
何もない時は大抵広場で囲まれておって、ほんに大きな子供のようじゃった」
「龍斗様と九角様が一度大喧嘩をされたことがあっての。
何が原因じゃったかとお訊ねしてみれば、『百足は本当に足が百本あるのかないのか』
じゃとおっしゃった。妾達は呆れて声も出なかった」
秋夜の澄んだ空気を思わせる水角の声は、ただ聞いているだけでも快い。
口を差し挟むような無粋なことをせず、耳を傾けているうち、龍麻は彼女の話題が少しずつ、
九角よりも自分の先祖についての比重が増えていることに気づいた。
先祖がよほどに個性的な人物だったのか、それともそうでない理由があるのか──
なぜか拳を握りしめ、龍麻は彼女の声がとぎれるのを待って口を開いた。
「あんた、俺の先祖のこと……好きだったのか」
水角の顔が月の影に隠れる。
明度を落とした部屋に流れる沈黙は、しかし、さほど長いものではなかった。
答える水角の声は、それまでとは幾分音階が変わったように龍麻には聞こえた。
「妾は龍斗様をお慕いしておった。じゃが、龍斗様には心に秘めた女性がおありじゃった」
「振られた……のか」
虎の尾を踏むことになるかという危惧はあっても、どうしても訊きたかった。
水角が一瞬、鋭く睨む。
鬼道衆としての険しさとは少し異なる、怒りに哀しみを混ぜた目をした水角は、感情の干上がった声で言った。
「妾は腱を切られておってな。助けがなければ歩くこともままならなかったのじゃ」
「……」
龍麻は自然と水角の足首を見る。
昼間、対峙した時は普通に歩き、跳躍していた。
九角の施した外法とやらはそれほど万能なのだろうか、と愚かなことを龍麻は考えたが、
無論水角がそれを説明することはなかった。
「龍斗様の重荷になるのは嫌じゃったからな」
理由はそれだけなのだろうか──意地の悪い疑問を、龍麻は胸中に呟いていた。
恋に臆病だったのを、足が不自由という言い訳に封じこめただけではないのか。
それは龍麻が恋愛を知らないからこそ浮かんだ、愚劣な問いだった。
しかしそれを口にしなかったというのは、龍麻の野暮にもまだ救いがあったのかもしれない。
それともあるいは──知らなかったものを、知りつつあったのか。
その答えは龍麻自身、すぐに気づくこととなった。
「龍斗様は闘いを終えられた後、いずこかへ旅立たれた。
幾人かはついていった者もおるようじゃったが、妾は残った。その後のことは……知らぬ」
知らぬ、と言った時の水角の表情を見た時、龍麻は知った。
百数十年の時を経て、敵として現れた彼女への想いを。
これまで誰に対しても抱いたことのない、強烈に心を揺さぶるその想いは、
時の大河も、敵味方の彼此岸も超えて龍麻の許に現れたのだ。
強烈過ぎるその想いは、奔流となって龍麻を襲い、打ちのめす。
息をすることも忘れてしまうほどの想いに囚われていた龍麻は、
それゆえ語り終え、口を閉ざした水角に対し、男として女にかけるべき言葉ではなく、
この夜に用意された中で最もそれらから縁遠いものを選んでしまった。
「それで……どうして俺のところに来たんだ」
「なぜじゃろうな、妾にもわからぬ」
くだらない問いに怒るでもなく、水角は、この日初めて笑顔を見せた。
彼女が九角の野望を達成するために甦らされた存在であることや、
今自分を殺そうとしていたことも、龍麻は全てを時の彼方に押しやっていた。
ほのかに浮かぶ白い顔を、龍麻は闇に透かす。
月が、もっと明るければ──
十全に美しさを引き立てているとは言い難い今宵の月に悪態をつきながら、
龍麻は水角の顔をじっと見ていた。
薄闇は彼女を隔て、遠ざける。
そんな龍麻の予感は、間違いではなかった。
おもむろに立ち上がった水角は、笑顔を見せたばかりだというのに暇を告げたのだ。
「じゃが炎角や雷角は甘くはない。寝首を掻かれとうなければ、身の回りにもう少し気を配ることじゃ。
鋭く尖った武器を龍麻の首筋に当て、小さな傷をつけた水角は、鬼の面を掴み、窓辺へと向かう。
「……さらばじゃ、昼間の借りはこれで返したぞ」
別れようとする水角の手を龍麻はとっさに掴んでいた。
昼間、水角を見逃した時よりも強い想いが、身体を衝き動かしていた。
張り巡らされた糸が食い込み、激痛が生じる。
それでも龍麻は過去に去ろうとする水角を、必死に繋ぎとめようとした。
「何のつもりじゃ」
「あんたは俺に、俺の先祖を重ねたんだろう? なら俺が応えてやるよ」
「何を馬鹿な……そなたは龍斗様などには遠く及ばぬ。自惚れるでないわ」
水角が激する。
彼女の龍斗への想いが感じられて、龍麻は名も知らなかった先祖に嫉妬した。
「及ぶか及ばないか、会ったばっかりでわかるわけがないだろう」
「判るわ。龍斗様はそなたのように厚かましくはなかった、その一事だけで充分じゃ」
水角の声はたちまち温度を下げ、氷点下にも届こうかという冷たさだ。
それを溶かさねばならない──
少なくとも龍麻は溶かさねばならないと感じた。
「俺はあんたの話を聞いて、もうあんたを敵だとは思えない」
「そなたがそう思うのは勝手じゃ。
じゃが妾がここに来てしまったのはやはり気の迷い、次に会うた時はためらわず命を狙う」
「惚れた男の子孫を殺すってのか」
「確かに妾は龍斗様をお慕い申し上げておった。そして九角様にも同じくらいの恩義を感じておる。
その九角様の御子孫の御頼みを聞かぬわけにはいかぬ」
「俺の頼みは聞いてくれないのか」
「……存外にうっとうしい奴なのじゃな、そなたは」
辟易した様子で水角は首を振ったが、掴まれた手首を振り払おうとはしない。
ほんの少し岩戸が開いたのを龍麻は感じた。
しかし生じた隙間は指がやっとかかる程度のものに過ぎず、なんとかもっと開かせねばならない。
扉が開いている時間はそれほどあるわけではないと焦った龍麻は、
挙句、最も稚拙な方法で扉をこじ開けにかかった。
影にたたずむ水角を、月明りの下へと引き寄せる。
睨み上げる水角の気迫と、美しさに圧倒されかけた龍麻は、一瞬の覚悟を溜め、彼女に顔を寄せた。
一世紀以上の時を隔てて生まれた二人の時が重なる。
そこに男と女がいて、想いが通じ合うのならば、時間など意味はない。
初めて触れた唇の感触に、龍麻はそんな感慨を抱いていた。
しかし、龍麻が顔を離した後も、水角の表情は変わらず硬く、冷たさは更に増していた。
「何の……つもりじゃ」
「百年前だって、好きな相手とはくちづけするんだろ?」
「くちづけとは言わぬ、接吻じゃ」
逃れようとする水角を力で抑えつけて、龍麻はもう一度唇を奪う。
閉ざされたままの口唇に、愚鈍なまでの想いをぶつけたが、やはり水角が応えることはなかった。
「愚か者が。妾とそなたは敵同士なのじゃぞ」
「九角を斃せば、あんたは解放されるんだろ?」
この瞬間龍麻の頭には、東京を護ることも鬼道衆のこともなかった。
水角を手に入れるために、九角を倒す──男として、最も原始的な情動のみが、狂おしいまでに巡っていた。
瞳から情動を噴きこぼれさせて、龍麻は水角を捉える。
熱情が空回りすることなど、幾らでもある。
むしろ上手くいくことの方が少ないのだと、他人が恋愛に振りまわされるのを見て、
そう冷ややかに思っていた龍麻だったが、いざ自分の番が来てみると、
空回りなど絶対に受けいれられなかった。
ましてや龍麻が初めて惑った女性は、幾つもの障壁を持っているのだ。
この機会を逃せば恐らく、二度目の挑戦はできないと思えば、
なりふりなど構っていられなかった。
「九角を斃すのが駄目だっていうんなら、説得だっていい。
あんたがその気になってくれれば、俺一人で九角に会いに行く。なんなら今から行ったっていい」
水角の関心を惹こうと、龍麻は喋り続ける。
そのいずれもは具体性がなく、仮に実行したとしても成功の可能性は低かったろうが、
まくしたてる龍麻をじっと聞いていた水角は、ようやく息切れした龍麻が口をつぐむと、
固く引き結ばれていた唇をかすかに開いた。
「龍斗様も……そうじゃった。心を閉ざしておった妾に、しきりと声をかけてくださった。
初めはわずらわしかっただけじゃが、あの方のお優しさがなければ、
妾はずっと閉じこもっておったじゃろう」
幾分和らいだ水角の声は、幻夢の音色を帯びていた。
こうして話していることが、夢か現かもわからなくなるほどの幽玄を宿した声に、
龍麻は知らず掴んでいた水角の手を緩めてしまう。
水角は、もう逃れようとはしなかった。
「じゃが……それは無理じゃ。九角様が斃れれば妾を現世に留めておる外法も消える。
そうすれば妾は冥府に堕つるのみじゃ」
生まれた期待をたやすく打ち砕いた水角を、龍麻は怖れさえ抱いて見た。
そんな理があって良いはずがない。
縁というのは出会い、結ばれることを意味する言葉であって、別れを意味してなどいないはずだ。
そう必死に眼差しで訴える龍麻を、理の外に身を置く水角は、優しいほどの声で諭した。
「妾とそなたが会うたのも、今宵一夜の幻よ」
そう言って去ろうとする水角の手を、龍麻は離さなかった。
離してしまえば幻になる──ならば、離さなければ。
離そうとする水角と、離すまいとする龍麻との間で、深刻な諍いが発生する。
異能の『力』を有する者と、外法というやはり異能の理によってかりそめの命を与えられた者との闘いは、
当人達の思いもよらない形で決着がついた。
龍麻の手を離そうとする水角と、それを拒み、彼女を抱き寄せようとする龍麻。
水角によって巻きつけられた糸もそのままに暴れた龍麻は、
バランスを崩し、水角もろとも床に倒れてしまったのだ。
したたかに肩を打った龍麻は、痛みに顔をしかめようともせず、水角を押さえこもうとする。
抗いかけた水角は、長いため息と共にそれを放棄し、強い輝きを有している男の瞳を見据えた。
「無茶をしよる……その無鉄砲さも、龍斗様譲りよの」
「先祖のことはいいだろ。あんたに惚れたのは、先祖じゃなくて俺だ」
手だけではなく全身で水角を掴まえる。
想像していたよりもずっと細い腰が、龍麻に、水角の肢体を直接見たいという欲望に誘った。
縛られ、動かしにくい腕を無理に動かして敷いた水角の身体に触れる。
目を細めた水角は、龍麻が反応できないほどの疾さで手を動かし、そして──
「……!」
腕に食い込んでいた糸の痛みが急に失せ、龍麻は驚いて水角を見た。
「妾の装束を血で汚されてはたまらぬからな」
照れ隠しかと思った龍麻だったが、水角の顔には冗談の一分子も浮かんでいない。
そもそも彼女が冗談を好む性格とは全く思えず、龍麻は浮かびかけた笑みを抑制した。
代わりに自由を取り戻した手を彼女の、単にまとめてあるだけの髪に触れさせる。
「ひとつ、頼みを聞いてくれないか」
「……なんじゃ」
「髪を解いてくれ」
無言で龍麻を見つめた水角は、その表情のまま男の頼みを聞き入れた。
眼下に広がった漆黒の海は予想通りの美しさで、龍麻を満足させたが、たったひとつだけ不満があった。
「あのさ」
「なんじゃ、まだ何かあるのか」
「そんなに怒った顔しないでくれよ」
「妾は怒ってなどおらぬ」
「でも」
「この顔が嫌ならさっさと離れよ。妾は一向に構わぬぞ」
容赦のない反撃に打ちのめされた龍麻は、悔しさに唇を噛む。
しかし次の瞬間にこの、成就しつつある初めての恋に図々しさを増した男が考えたのは、
これが惚れた男の弱みというやつか、と水角が聞いたら激怒するようなことだった。
「どうした、どかぬのか」
「どかない」
痺れを切らした水角の催促に、龍麻は強い調子で断言した。
驚く水角と距離を縮め、視線を逃れられなくする。
「俺は、あんたを離さない。絶対に」
「……」
黒い瞳は応えない。
じっと上を見据えたまま、瞬きもせずに正面にある、同じく黒い瞳を見つめている。
縛りつけるその眼差しに、龍麻も動かず、水角の瞳を凝視していた。
交錯した視線は、やがて閉ざされる。
伏せられた睫毛にすら愛おしさを感じ、龍麻は自分も目を閉じ、許された行為を行った。
唇が触れる寸前、ごく小さな吐息が聞こえたような気がした。
鬼道衆の証である忍装束が、いかに無粋なものであるかを龍麻は知った。
わずかの素肌も露出させない濃青の衣が包み隠していた水角の身体は、顔に劣らぬ美しさだったのだ。
顔と、この身体を見せられていたら、九角を説得どころか、寝返ってしまっていたかもしれない──
そんな不埒なことを考えながら、影に浮かびあがる丸みを帯びた曲線を、
舐めるように見ていると、水角は胸を隠してしまう。
「あまり……見るでない」
そうは言われても、ではどこを見れば良いのか龍麻には判らない。
水角の顔は、見ているだけで息苦しくなってしまい、視線を据えるには不向きなのだ。
忙しく眼球を動かした龍麻は、彼女の肩の辺りに避難場所を見つけ、眼差しを固定させる。
東京の壊滅を目論む組織の一員とは思えない細い肩は、しかし、
やはり見ているだけで呼吸が乱れてしまい、さらには、
そこから下へと続く身体を連想することで余計に苦しくなってしまった。
水角は人形のように息遣いすら感じさせず、じっと見ている。
無言の圧力を受けているような気がして、龍麻は拙速に水角の身体に触れた。
男として最も興味がある部分に、半ば掴むように掌を置く。
水角が人形であるとするなら、こちらはからくり人形のような硬い動きだ。
そのぎこちない触れ方で、女に触れるのが初めてだと知られてしまったようで、
水角は胸を握る手を掴み、小馬鹿にしたように言った。
「なんじゃ、そなた女を知らぬのか」
「俺達の時代は結婚するのが遅いんだよ」
そんなものは直接の言い訳にはならない。
龍麻自身がそう思ったくらいだから、水角に通用するはずがなかった。
時代に関係のない、男女の機微を知らぬ龍麻を水角は艶やかに笑い飛ばす。
赤面した男に、笑いを和らげた女は、一度は離した男の手を再び乳房に触れさせた。
「ふふ、実はの……妾も男を知らぬ」
「……!!」
「じゃから良いか、優しくするのじゃぞ」
命じられ、龍麻はただ繰りかえして頷くばかりだ。
昼間、死闘を演じた相手に、今はあしらわれている。
興奮と緊張でそれどころではない龍麻は、その事実に思いを馳せる余裕など全くなかったが、
あったとしてもやはりどうしようもなかっただろう。
条件つきの許可を得た龍麻は、壊れ物を触るように乳房に触れる。
一度に全てを触りきることが、わずかに不可能な大きさの膨らみは、
想像していたよりもはるかに柔らかく、龍麻を驚かせた。
指先のごく小さな動きにすぐさま応える柔肉に、すぐに夢中になり、様々な動きを試す。
下側の曲面に掌を這わせ、しっとりと吸いつく感触に興奮し、息を呑む。
むろん掌だけでなく、小指の先に至るまで神経を集中させて、龍麻は神秘の丘を愛撫した。
やがて指先が、丘の頂で硬くなりはじめたしこりを捉える。
それは龍麻の愛撫が巧みだったというわけではなく、単に刺激に反応しただけのものであったが、
そんなことを知る由もない龍麻は変化をはじめた女の身体に驚き、彼女と目を合わせた。
「……なんじゃ」
「あ、いや……感じてる……のか……?」
「聞くな、馬鹿者」
冷たく言い放った水角は横を向いてしまう。
その頬を月に透かせばわずかに赤みが射しているのを、普段なら気づけたであろう龍麻も、
今は一介の世慣れぬ少年に過ぎず、女の機嫌を損ねたと思いおろおろするばかりだった。
「なあ」
「……」
こんな状況で話しかけて返事があるはずがない。
そんなことも判断できない状態の龍麻は、すっかり固まってしまった。
十数秒、龍麻の主観では百五十年以上の時間、沈黙が流れる。
龍麻の頭の中を、真っ白を通り越して真っ黒にするほどの沈黙を破ったのは、
長い、長い水角のため息だった。
「ほんにしょうのない奴じゃの、そなたは。もっとしっかりせぬか」
冷たい手が頬に添えられる。
その冷たさは幾らか龍麻の緊張をやわらげはしたものの、
元の緊張がなにしろ大変なものだったので、
龍麻は完全に落ちつきを取り戻すというわけにはいかなかった。
「でも怒らせちまってどうしたらいいか」
「誰がこんな時に本気で怒るというのじゃ」
「そ、それじゃ」
「いちいち聞くなと言うに。そなた、本当に龍斗様の子孫か?
龍斗様はいかなる時も落ちついておったぞ」
さっきは反発の対象となった先祖も、落ちこんでいる今は格差を思い知らされるだけの存在でしかない。
どうやら先祖を越えられそうにないとうなだれる龍麻は、水角の目が笑っているのにも気づかない。
水角が頬に添えた手を滑らせ、あやすように耳朶を撫でたのは注意深く表情を消した後だったので、
龍麻は彼女が失笑混じりとはいえども笑ったのを知ることはなかったのだ。
「もう一度だけ機会を与えてやる。妾を好いたというのなら、悦ばせてみせよ」
そっと引き寄せる掌の動きと共にそう言われ、龍麻は硬まったまま頷いた。
見据える水角の瞳に重圧を感じつつ、再びキスから始める。
水角は相変わらず何も応えようとせず、もしかしたら目も開けたままかもしれない。
先に目を閉じてしまった龍麻はそう思ったが、確かめるわけにもいかず、
と言ってこのままこうしているだけではまた水角を、今度こそ怒らせてしまうので、思いきって舌を入れた。
「……っ!」
余程に驚いたのだろう、息を呑むのが伝わってくる。
水角の驚きは龍麻に余裕を与え、龍麻は、潜りこませた舌をやや激しく絡めた。
歯や舌や粘膜、触れるもの全てが恍惚をもたらす。
初めての快感に夢中になった龍麻は、苦しくなるまで顔を離さなかった。
唇を離し、息をついてから、無茶をしてしまったことに気づき、恐る恐る水角を見る。
しかし水角が咎める気配はなく、彼女は漆黒の瞳をわずかに濡らして呟いた。
「今の時代は……このような接吻をするのか。このような……」
冷たく閉ざされていた水角の顔に赤みが射している。
そして、牡丹の色をした唇に、呆けて指を当てている水角に、たまらなくなった龍麻は再び被さった。
華奢な身体を敷き、舌を差しこむ。
水角は応えこそしなかったが、拒むこともなく、口腔を舌が探るに任せていた。
今日最も長いキスは、口の中一杯に快感が広がって、舌以外の感覚がなくなってしまっていた。
それでも龍麻は貪るように水角の口唇を吸い上げ、ひとつに溶け合わせるように舌を捏ねた。
「強引な……奴め」
息を荒げ、水角は抗議する。
諦めの中に少しだけ怒りを混ぜた水角の態度は女そのもので、龍麻を虜にする。
好いた女が腕の中にいる幸せに酔いしれ、龍麻は想いを告げた。
「少し考えてたんだ」
「何をじゃ」
「あんたみたいな女を放っておくなんて、俺の先祖はろくでもない奴だって。
でもな、あんたが俺の先祖になっちまってたらって考えると、ろくでもない奴で良かったって」
「龍斗様はろくでもない奴などではないぞ。そなたなどより余程良き……んッ」
本気で訂正しようとしている水角を遮り、舌を吸う。
先祖と水角がどれくらいの間鬼道衆として共に過ごしたのか知らないが、
今日会ったばかり、しかも敵同士だった自分とではハンデがありすぎる。
それを承知していても、水角が龍斗の名を出すたび、心穏やかでなくなってしまう龍麻だった。
快感に溺れさせる──そんな下種な考えを持っていたわけではないが、
龍麻が、彼女の意識を少しでも自分に向けさせようとしたのは事実だ。
それにむしろ、龍麻こそが淫らなくちづけに溺れてしまっており、
今や龍麻は、完全に水角にのしかかり、水角に身動きさえ取れなくさせて堕淫を貪っていた。
「良き……なんだ?」
「ずるいではないかッ、この痴れも……う、むぅっ」
顔を離すたびに、水角の顔に朱が射してくるのがはっきりと見える。
それは彼女の心に住んでいる男から、彼女を奪い取っているという証に思えて、
龍麻は容赦なく水角の口腔を犯した。
「っ……はッ……」
捏ねあわされた唾液が、月灯りを浴びて銀色に輝く。
唇の端で糸を引くそれは、百余年の時を繋ぐものだと思うと、龍麻の興奮は収まらなかった。
肩で息をしている水角の、熟した耳朶に触れる。
彼女がまだ先祖の名を出すのなら出さなくなるまで、
龍斗の名前を言えなくなるまでキスをしてやろうと龍麻は心に秘めていた。
しどけなく開いていた水角の唇から、吐息がこぼれる。
彼女が先祖の名前をまだ言うのか、それとも目の前の男の名を呼んでくれるのか、
期待と緊張を同居させて龍麻は彼女を凝視したが、水角の紅唇はいずれの予想とも異なる言の葉を紡いだ。
「もう、せぬのか」
「は?」
「……接吻じゃ、どうせ何を言っても無理やりするのじゃろう? ならば早くせぬか」
浮かびかけた笑顔を奥歯で噛み殺して、龍麻は四度目の接吻を行った。
水角はいよいよ美しさを増していた。
白い身体はほのかな色に染まり、銀光を浴びて神々しいほどに輝いている。
柔らかな曲線が作り出す陰影はどんな芸術家にも生み出せない美を醸し、
龍麻はこの日何度目かの恋に落ちた。
肩から始め、彼女の身体の隅々に触れる。
柔らかな張りを持つ水角の肢体は、ただ触れているだけでも欲情をそそられ、
龍麻は飽きもせず手を行きつ戻りつさせた。
水角の呼吸に合わせ、なだらかな丘が上下する。
男の性か、その部分を中心に手を往復させていた龍麻は、先ほど叱られた、丘の頂に興味を持った。
指先で触れてみると、そこは女の身体にあって異質なほどしこっている。
再び聞けば機嫌を損ねるのは判りきっていることなので、今度は龍麻はいきなり行動に移った。
きれいな椀状の膨らみは、掌の感触よりも実際に見ると大きな印象がある。
その頂点に慎ましく乗っている、肌よりもわずかに色が濃いだけの蕾に、
ほとんど吸い寄せられるように龍麻は口を寄せた。
「……っ、なん、じゃ……?」
戸惑う水角の声を頭上に聞き、突起を含む。
味などするはずがないにも関わらず、口の中には奇妙に甘い味覚が広がった。
「やっ、止めぬか……そなた、まるで赤子じゃぞ」
水角の言うことももっともなのだろう。
舌で乳首を転がし、吸いたてながら龍麻はそう思う。
それでも龍麻は止める気はなかったし、水角も、制止してはいるものの声がうわずっている。
赤ん坊が吸うのも当然だと納得しつつ、龍麻は赤ん坊よりもはるかに卑猥に口を動かした。
歯を当てて尖りを弱く引っ張り、窪みを舌で突つく。
「こ……これ……っ、止めよと言うておるに……っ、く……っ」
一転、咥えた乳首を離し、舌で彼女自身に押しこむようにねぶりたてると、口内に彼女の味が満ちた。
「……ぅ、んっ……っは……っ」
水角の呼吸が乱れている。
初めて見た時は冷徹な印象さえ受けた彼女が、肌に触れられ、恍惚に身を委ねている。
乳を吸い、さらには手でももう片方の乳房を弄んでいた龍麻は、
水角の最後の秘園に興味を抱いた。
腰から臍へ、そしてその下へ、震える手を滑らせていく。
細長い草原をも過ぎ、辿りついた園は、すでに蜜を噴きこぼさせて龍麻を待っていた。
ひっそりと息づく泉に興奮を隠せないまま、淵をなぞる。
これまでなぞってきた部分とは全く異なる複雑な形をしている渓谷を、
龍麻の指は途方に暮れたようにさ迷った。
慎重に、いかなる変化も逃すまいと蠢く指が、やがて目指していたものを見つけた。
柔らかく沈みこむ箇所は、そこが最も秘められたところなのだと龍麻に教える。
指先を浸す雫に驚き、そこが持つ熱に龍麻は息を呑んだ。
「あまり……触れるでない……」
弱々しい声が龍麻を縛る。
激情にブレーキをかけるその声を、一旦は無視しかけて龍麻は止めた。
それが彼女の、たぶんいつもの声である強い調子で言われていたら強引に続けていたかもしれない。
しかし、繊手で遮りながら囁く水角の声はかげろうの羽根のように薄く、透き通っていた。
自分が何か酷いことをしていたような思いに囚われ、龍麻は身体を起こす。
薄目を開けた水角は、瞳だけを泳がせて囁いた。
「良いか、優しくじゃぞ、痛うしたら許さぬぞ」
強がりで固めてはいても、水角からはかすかに怯えが漏れでていた。
彼女への想いを構成する成分に、新たな種類のものが加わったのを感じつつ、
龍麻は己を水角にあてがった。
切っ先が触れ、濡れた肉が早くも刺激する。
腰全体に広がっていく、嗚咽を漏らしてしまいそうな快感を抑えつけて、龍麻は屹立を沈めていった。
「くぅぅ……ッ、ぁぁッ……!」
か細い悲鳴が遠くから聞こえてくる。
膣は想像以上に狭く、入れるというよりも押しこんでいく方が感覚的に近い。
女を組み敷き、己が物にする──
そんな根源的な欲望すら芽生えさせつつ、敏感な器官を締めあげる女の身体の、
想像を遥かに超える快感に支配され、龍麻は一気に水角を貫いた。
肉の中に埋没させていく悦び。
熱く濡れる肉路の、奥深くまで自身を挿入させた龍麻は、
交わりがもたらす快楽に酔いしれていたが、水角の悲鳴に我に返った。
「こ、の……馬鹿者め、あれほど言うたのに」
絞り出すように言う水角の、目許が光っている。
気づいていないのか拭おうともしない、これまでに見たありとあらゆるものの中で最も美しい輝きに、
冷や水を浴びせられた思いの龍麻は、もう素直に降伏するしかなかった。
「ごめん」
「なッ、なんじゃ」
「いや、痛かったんだろ? 悪かったと思って」
「急に素直になるでないわッ、気味が悪い」
謝ったことに対して本気で怒っているような水角に、苦笑しかけた龍麻は、
それを封じこめると真顔で訊いた。
「動いてもいいか」
「嫌じゃと言っても動くのじゃろう? 好きにすれば良いわ」
ついと顔を横向けてしまう水角のはらりと散る髪に触れた龍麻は、その一房にくちづける。
それでも拗ねたままの水角に、もはや愛情しか抱くことができない龍麻は、
既に抑えがたくなっている腰を動かしはじめた。
「ん……うぅっ……」
切り揃えられた前髪が可憐に揺れる。
親指を噛んで耐えている水角に、ゆっくりと抽送を行う。
ただきつく狭いだけの彼女の中は、快感というには程遠かったが、
己のものが出入りするという事実が何よりも龍麻を昂ぶらせた。
水角は細い眉をしかめ、顎を浮かせて、痛みに耐えている様子だ。
端正な顔を歪ませてしまっていることに罪悪感を抱きながら、
龍麻は同時にどうしようもない男の性のようなものにも見舞われる。
なにしろ彼女にこのような顔をさせたのは、世界で初めて、そして唯一自分なのだから。
「っ……はっ……」
短い呼吸を水角は重ねる。
まだ苦痛が収まっていない彼女に、
それでもこれ以上顔をしかめさせないよう気をつけて龍麻は行為を繰り返した。
そのうち、水角に変化が訪れていることに気づく。
屹立が出入りしている彼女の膣が、少しずつではあるが馴染んでいるような気がしてきたのだ。
技巧などまだ知る由もない龍麻は、腰を引き、単純にまた挿入するだけだ。
それでも彼女の前髪が軽やかに、そして乳房が重たげに揺れる度、
屹立を押し包む洞は自分を受け入れはじめていると感じた。
それが錯覚でなかったのは、戸惑ったような水角の声ではっきりする。
「あッ……な、なんじゃ……この……身体が浮いたような……」
「気持ちいいのか?」
「し、知らぬわッ。……知らぬから、もう少し……確かめ、させよ……」
最後は消えるような声で言った水角に、想いが膨れあがる。
無限に膨れてしまいそうな想いを、龍麻は行動に変えた。
水角の顎が跳ねあがり、体香が立ちこめる。
固く閉じられた眼が再び開いて龍麻を見据えた時、瞳は黒水晶さながらに濡れ光っていた。
「きゅ、急に動くなと言うておろうに! ほんにそなたは……酷い……奴じゃ」
シーツを掴む手に、無意識に力がこもる。
渾身の力で抱きしめそうになるのをこらえ──後になってなぜそうしなかったのか、
悔恨と共に振り返ることになった──龍麻は喉を鳴らし、唾を飲み下した。
腹へと落ちていった熱い衝動を水角に伝える。
「あっ……あぁ……ッ」
水角の反応は、確実に変わりはじめていた。
破瓜の痛みから硬くなっていた顔に朱みが射し、紡ぐ息に色が付き始めている。
シーツを掴んでいた手はいつのまにか龍麻の腕を握り、その掌はしっとりと汗ばんでいた。
腕に爪が立てられるのも厭わず、龍麻は水角の奥を抉る。
彼女とひとつになっているという快感、柔らかく器官を締め上げる肉の悦び、
そして、彼女が恍惚に咽(むせ)んでいるのを見る幸せ──
水角の肢体にやみくもに触れながら、龍麻は慄いてしまうほどの感覚に沈んでいた。
「うっ……くっ、あ、ぁ……ッ」
屹立を沈めるたび、紅の唇が歪む。
半時間ほど前に初めて見た時に感じたのは、人形的な美しさだった。
それが今は、朱肌をしっとりと汗に滲ませ、ひとつの生き物のようだった黒髪を振り乱し、
男がもたらす肉の悦びに震えている。
敵から、愛しい人へ──
鮮やかに移ろう水角に、抽送は自ずと速さを増した。
「あぁ……はぁっ、ん、ぅッ、待てッ、待つのじゃっ」
逃れるように身をくねらせていた水角が、薄目を開ける。
「これほど苦しいとは思わなんだ……もう少し……ゆっくりせよ」
喘ぎ、必死に呼吸を整える水角。
彼女自身こそが、龍麻の狂える情欲を焚きつける、最後の一滴だった。
忘我の後、獣じみた欲望に冒された龍麻は、彼女の願いとは反対の方に向かう。
「ま、待て……ッ!」
慌てた水角の制止を聞きいれず、猛りを叩きつける。
どこまでも──水角の中心まで結合せんばかりの勢いで、龍麻は腰をぶつけた。
肉がぶつかるぱん、という音に、ぐちゅぐちゅという粘液が絡みあう音が重なる。
耳からなぶるそれは、下から苛む愉悦と胸の位置で混じり、龍麻を追い詰めた。
「あぁ……ッ、駄目じゃ……ッ、妾は、妾……は……ッ、あぁぁッッ……!!」
控えめだった水角の喘ぎが、突如反転する。
濡れた唇を一杯に開け、澄んだ声には熱を篭らせ、水角は喜悦に咽び哭いていた。
白い肢体をしならせ、抑えきれぬ恍惚を掴んだ腕から男に伝える。
その手を振り払い、掴ませるのではなく、握ったところで龍麻は爆ぜた。
抗いがたい欲望を、抗うこともなく女に注ぐ。
凄まじい解放感と共に噴き出した精液は、たちまち隘路を満たし、女の身体に染みていった。
それでも止まらない腰は、白濁を最後の一滴まで放ち終えたところでようやく止まった。
想いを遂げた喜びを呼気に乗せて吐き出した龍麻は、まだ小刻みに震えている水角を見下ろす。
月の光を浴びて徐々に弛緩していく肢体は、この世のものとは思えないほど輝いていて、
龍麻はいつまでも目を逸らせなかった。
「ほんに……酷いな、そなたは」
「ごめん」
「素直に謝れば済むと思うておるのが鼻持ちならぬ。一度は許しても二度はだまされぬわ」
どうやら本当に怒ってしまった水角に、こういった経験がほぼ皆無な龍麻は途方に暮れる。
熱が醒めてみれば彼女の怒りももっともだといえることをしてしまったという自覚があるので、
本心から謝ったのだが、水角の機嫌は容易には直りそうもない。
どうしたら良いか判らなくなり、龍麻は仕方なく彼女の横に身を横たえ、半ば背を向けて休息を取る。
すると背後から、情交の後とは思えぬほど棘のある呟きが聞こえてきた。
「気が利かぬ奴じゃの」
戸惑う龍麻が振り向くと、水角は肩に顔を寄せてきた。
「しばらく……こうしておれ」
伝わってくるのは、たった今まで交わした契りの熱──
水角の吐息を首筋に受け、龍麻は細い腰に腕を忍ばせる。
揺れる長い黒髪は、月の灯りを浴びて銀の波を描きだしていた。
舌を交わらせ、くぐもった甘い声に蕩けながら、龍麻は違和感の正体に気づいた。
これは、彼女の方から求めたキスなのだ。
「何がおかしいのじゃ」
「別に」
「妾に隠しごとをするとは良い度胸じゃな」
水角が目を細める。
彼女の漆黒の瞳に、最初に出会った時の冷たさはなかった。
その変化はもちろん龍麻にとって好ましいもので、睨みつける彼女を強引に抱いた。
「ええい、離さぬか」
水角はすでに諦めの境地に達しているようで、さほど腕の中で暴れることもなくおとなしくなる。
少しずつ彼女が変わっていくのがとても嬉しくて、龍麻は不必要なほど腕に力をこめた。
「いいかげんにせよ、苦しいではないか」
「なぁ」
「……なんじゃ」
抗議を無視された怒りが、極小の時差に現れている。
艶やかな黒髪を撫でてなだめながら、龍麻はそっと訊ねた。
「九角の考えを変えさせることは、どうしてもできないのか」
水角からしばらく返事はなく、返ってきた答えもたいそう考え深げに、
ゆっくりと言葉を選んでのものだった。
「無理じゃろうな……九角様の御怨みは妾などでは溶かせぬほど深い。それに」
「それに?」
水角は無言で身体を起こした。
白い肉体はこの世ならぬほど美しく、龍麻は去りかけていた欲望が再び戻ってくるのを感じる。
しかしそれを告げるよりも先に、
口を閉ざしたままの水角の身体が朧になっているような気がして龍麻は驚いた。
目を凝らしてみると、確かに水角の裸身は、その白さ以上に白さを増し、後ろが透けてすら見え始めている。
たった今契りを交わした女性に訪れた異常な変化に言葉も出ない龍麻に、水角は微笑む。
透きとおった笑みは、鬼道衆の一員、水角としてのものと、一人の女としてのものが調和していた。
「妾は既に滅びた身を、九角様の御力によって現世に舞い戻ったのじゃ。
陰氣は陽氣と交われば太極となる……それが理というものじゃ」
彼女はこうなることを知っていたのだ。
知っていて、彼女に仮初めの命を与えた九角に逆らうことも承知で、
なお敵であった男に身を委ねてくれたのだ。
龍麻の心臓を、熱風と冷風が吹き抜ける。
そうまでして己を捧げてくれた初めての女への想い、愛した女を喪う怖れ、
二つの風は吹き荒れ、龍麻を打ちのめした。
「待てよ」
伸ばした手をすり抜け、水角は還っていく。
「後悔はしておらぬ。百余年の想いを放つことができたからの。
それに、そなたも中々に良き男じゃった」
彼女を留めることができないと直感した龍麻は、訊いていなかったとても重要な問いを思い出した。
「最後に教えてくれ」
「なんじゃ」
「名前、水角じゃないんだろ? 昔の、江戸の頃のあんたの名前を教えてくれ」
すでに紅から桃へと変じている唇が、三日月の形になる。
その唇に触れたい衝動を堪え、龍麻は願いが聞き届けられるのを待った。
「そなた……やはり女の扱いには慣れておらぬようじゃな。
今頃聞くとは、ほとほと愛想が尽きるわ」
冷たかった眼が、口許と同じ形に撓む。
「雹じゃ。妾の名は雹。そなたの初めての女の名前じゃ、忘れるでないぞ」
「雹……!」
「ああ……その名で呼ばれるのも久しぶりよ。さらばじゃ龍麻、縁があったらまた会おうぞ」
もう一度、龍麻が名を呼ぼうとした時には、雹の姿は完全に消えていた。
一夜の幻。
そう思えてしまえるほど、部屋には何も残っていない。
自分が口に出そうとしていた名前すら、幻となってしまうような気がして、
龍麻は残っていた想いの泡沫を月に向けて放った。
月は応えない。
そして、雹も。
胸に満ちつつある膨大な想いを月に見られぬため、龍麻は背を向ける。
まだ温もりだけは残っているはずの布団で、せめて彼女を感じようとした龍麻の足下に、何かが触れた。
「これは……」
彼女が着ていた装束と同じ、濃青色の珠。
どのような術によってか、水角はこの珠を触媒として現世に仮初めの命を得たのだろう。
急速に昂ぶる情を、まだ封じ込め、龍麻は珠を眺めた。
たった一時間にも満たない邂逅を、龍麻は永遠に忘れない。
どれだけ時が流れようとも、怜悧な漆黒の瞳を、深い海のような色の髪を、
牡丹色の唇を、決して記憶から消し去ることはないだろう。
じっと珠を見つめていた龍麻は、遂にこらえきれず目を閉じた。
想いが離れ、彼女の名残へと落ちていく。
想いは、いつまでも止む気配をみせなかった。