※この作品はR-18です。

彼此岸   作:SVX

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龍麻x雹です。
江戸の習俗については(執筆当時に)調べたつもりですが、
間違っていたらごめんなさい。


彼此岸 二幕 ―陽―

 地面が揺れる。

強く、激しく。

五感を揺らす鳴動に、龍麻はとっさに地面に伏せた。

剥きだしの荒れた地面が皮膚を乱打する。

地震が多いといわれる関東地方でも、滅多にない大きな揺れは、

しかし、それほど長くは続かなかった。

伏せてから数秒で揺れは収まり、辺りに静けさが戻ったのを確かめて、龍麻は身体を起こした。

まだ地震が続いているか、周りを見渡して、それが無駄な試みであると気づいて苦笑する。

部屋の中か、あるいは地上のどこかなら、揺れを確かめる術はいくらでもあっただろう。

だが、龍麻が今居る場所には、岩以外のものは何もなかった。

 真神學園、旧校舎。

どう見ても実用には耐えられない老朽化した建築物。

ここを潰せば現校舎をもっと広くできるか、さもなくば運動場を広げられる。

ただでさえ土地の狭い東京、それも二十三区内にある高校で、

これほど無駄な建築物がある理由を知る者は、龍麻を含むごく少数の人間だけだった。

 旧校舎の奥に人目を避けるようにある一つの部屋。

その中には人が入れる程度の大きさの、下に伸びている穴があり、

その穴こそが旧校舎が取り壊されない理由だった。

龍麻はその穴の下、およそ五十メートルほどの地点にいた。

 龍脈と呼ばれる地球そのもののエネルギーが流れる、いわば血管のような目に見えない通路。

龍脈の力は膨大であり、それが噴きだす場所は生気にあふれ、都市は繁栄を約束されるという。

その中の一本が真神學園の下を通っており、旧校舎から繋がっている穴は少量ではあるが

龍脈の噴きだす穴、龍穴だった。

 龍脈はそれが噴きだす場所のみならず、通過する地下においても当然生命力を活性化させる。

すなわち人にあらざる物や、生物ですらないモノ。

穴を塞ぐということは、龍氣を地下に溜め、

それらの存在を手がつけられないほど強大にしてしまう。

だから穴を塞ぐことはできず、さらに時々は事情を知る者が地下に降り、

それらを駆除しなければならないのだ。

 緋勇龍麻は事情を知る者の一人であり、駆除する役目を負った者でもある。

しかし彼が今地下にいるのは、それが理由の全てではなかった。

 数日前に敵として現れた雹という女性。

龍麻は彼女を知り、愛し、そして別離を経験した。

彼女と過ごした時間は一日にも満たなかったが、彼女への想いは強く、

龍麻はこの数日間、ほとんど何も考えられる状態ではなかった。

 旧校舎に潜ったのは、それが理由である。

もし化け物や魍魎の類がいれば憂さを晴らせるかも知れないし、

闇雲に身体を動かせば、気を紛らわせることだけでもできるかもしれない。

何よりじっとしているともう決して会うことのできない、

外法により仮初めの生命を得て現世に甦った少女のことを思いだしてしまって辛かったのだ。

 いつもなら気配に満ちている地下も、一週間ほど前に友人達と鍛錬のために潜ったからか、

人と人でない物を含めて、龍麻は誰にも出会わなかった。

これでは意味がないと、とにかく少しでも身体を動かそうと深く降りていく。

そうして二時間ほども歩いているうちに、大きな揺れが龍麻を襲ったのだった。

「仕方がない……戻るか」

 埃を払って龍麻はつぶやいた。

目的は果たせず不満は大いにあるが、結構大きな揺れだったから地上が心配だし、

時計を見るとそれなりに時間も経っている。

死にに来たわけではないのだから、ここは戻るべきだろう。

 デイパックから菓子パンと飲料を取りだし、龍麻は帰路についた。

軽いとは言えない足取りで歩を進めるうち、どうしても雹のことを考えてしまう。

 彼女ともう少し早く出会えていたなら。

 敵として出会っていなかったなら。

 彼女を抱かなかったなら。

濁った後悔は、だがどれも意味がないと龍麻は知っていた。

むしろ百数十年の往古から甦った彼女と敵として邂逅してから、

わずか数時間とはいえ想いを通わせあえたことを奇跡だと思わなければならないのだろう。

 腕で目を乱暴に拭って、龍麻は歩き続ける。

 彼女とのことは仲間には話せない。

まだ鬼道衆との戦いは続いているから余計なことを言えば混乱するだろうし、

彼女との記憶を口にして、過去にしてしまうのは嫌だったのだ。

 人の気配も街の喧噪もない洞窟の中は、孤独に歩くには最適な場所だった。

女々しいと思いながらも外に出るまでは、と彼女と過ごした数時間の記憶を何度も辿り、

冷たいが凛とした顔を、物憂げな声を、そして、白く透き通るような肌を、

能う限り細部まで思いだしながら、龍麻は歩いた。

 行きよりも時間をかけて、三時間ほど歩いた頃、入ってきた穴が見える。

かなりの揺れを感じたが、ここまでは及ばなかったようで、

穴が塞がっているようなことはなく、無事に地上に帰れそうだ。

 深く息を吐き、名残惜しくも彼女との思い出に別れを告げた龍麻は、

仲間と戦いの待つ世界へと戻ることにした。

 だが、それは早計だった。

穴の近くまで来た龍麻は、据えつけられていた鉄のはしごが見あたらないことに気がついた。

地震の衝撃で外れてしまったのかもしれない。

そう思ってあたりを探してみたが、残骸らしきものは見あたらない。

さいわい地上まではそれほど高さがなく、なんとか上れそうだ。

なんとなく地形が来たときとは違っているようにも思えるが、

それよりも地上に出る方が先決だろう。

飛びあがって穴の縁に手をかけた龍麻は、一気に身体を引きあげた。

 立とうとして顔を上げた龍麻は呆然とした。

穴は真神學園の旧校舎にあり、地上部分は建物に囲まれているはずだ。

それが周りにあるのはうっそうと茂る木ばかりで、校舎など影も形もなかった。

「どこだ、ここ」

 他にもおかしな点は多々ある。

今日は八月の八日であるはずで、夕方となっても薄暗さが残る季節だ。

それが空は確かに薄暗いものの、龍麻が立っている辺りはほとんど夜というくらいに暗かった。

何故、と考えて、龍麻は気づく。

数時間前まで龍麻がいた東京の街は、夜であっても煌々と明かりの灯る、

世界でも有数の不夜城だ。

真神學園は周りを木に囲まれていて比較的薄暗くはなるが、

それでも木々の間から人工の光は漏れ、暗闇というようにはあまり感じない。

 しかし、この場所は違う。

灯りらしい灯りはどこにも見えず、紫に染まる景色は、龍麻が経験したことのない世界だ。

それにやはり東京では昼も夜も途絶えることはない、近くて遠い喧噪も、

今は全く聞こえなかった。

「どうなってんだ、いったい」

 龍麻は意識的に独り言をつぶやく。

何かを怖れたわけではない。

ただ、人の気配どころか木々のざわめきしか聞こえないこの状況はいかにも心細かった。

 数時間前からは思いもかけなかった状況に、龍麻は考えこんだ。

 地下に入る前は何もおかしなところはなかったし、洞窟内も、

帰りも含めて異常は感じられなかった。

とすれば、あの地震が何らかの関係があると考えるのが自然だ。

ただし証拠はないし、原因が判ったところで現状を解決する役には立ちそうもない。

 とにかく地球の上ではありそうだから、少し歩いてみて、誰か人を探そう。

無難、というより他に選択肢はなく、龍麻は念のために手甲を装着して、

あてもなく歩きはじめた。

一応、記憶を頼りに校門の方へと向かってみる。

あてずっぽうと変わらないが、酷い藪の中を数十歩ほど歩くと、前方に巨大な影が見えた。

おそらくは建物で、人工物があるなら誰かいる可能性が高い。

そこにいるのが人間なら話を聞けるだろう、と龍麻は幾らか希望を膨らませ、

デイパックを片方の肩にかけなおして歩きだした。

 見た目よりも建物は遠くにあったのと、

舗装もされておらず藪のようになっていた穴の周りから出るのに苦労して、

建物に着いた頃には辺りは濃紫に染まっていた。

数メートル先がかろうじて視認できるといった程度で、

歩きにくいことこの上ない。

何度かつまずいた龍麻は、そのたびに誰かに見られたら恥ずかしいなどと悪態を吐く。

しかしお前は孤独なのだとばかりに笑う木々の音を聞かされていると、

次第に誰かに笑われた方がましだと思うようになっていた。

 ようやく建物の近くまで来た龍麻は、目を細めて建物を観察した。

木造の建物から受けた第一印象は寺だった。

それほど大きくはなく、一辺は十メートルくらいだろうか。

穴の方に目を凝らし、おおよそ旧校舎から学校の敷地の端辺りではないかと見当をつける。

色々変わったところのある母校だが、こんな寺があったという覚えはない。

ますますここがどこだか判らなくなった龍麻は、思いきって中に入ってみることにした。

 そのためにはまず入口を捜さなければならない。

建物を右手に見ながら沿って歩くと、最初に着いたのが裏手だったのが判明し、

半周したところで正面に出た。

 正面には小さな階段があり、そこを昇って建物に入るようになっている。

裏から来たときは気がつかなかったが、龍麻が回りこんだのと反対側に、

正面のそれよりは小さな建物があって、廊下で繋がっていた。

 いずれの建物にも灯りは見えず、誰かいると思った龍麻は落胆する。

それでも居ないと決まったわけではないので、気を取り直して呼びかけた。

「すみません、誰かいませんか」

 声は紫の闇に吸いこまれるように消えていき、何の反応もない。

もう一度呼びかけ、それでも反応がなかったら、悪いが勝手に上がらせてもらおうと決め、

龍麻は一度目より声を張って呼びかけた。

「……」

 やはり反応はない。

龍麻が初めて大きな不安を覚え、それを振りはらうように階段に一歩を踏みだしたとき、

どこか遠くで小さな軋み音が聞こえた。

 龍麻は息を止め、耳を澄ませる。

やはり空耳ではなく、誰かが近づいてくるようだ。

先に大きく息を吐いておいて、龍麻は寺の人間が現れるのを待った。

 時間にすれば、一分は待たなかったはずだ。

しかし龍麻には一時間にも感じられ、人影が目の前に立ったとき、

息せき切って話しかけようとした。

 あの、と言いかけた口が急停止する。

辺りはますます暗く、人影をかろうじて判別できたに過ぎないが、

その影が、滅多なことでは動じない龍麻を混乱の極みに陥れていた。

 口を閉ざした龍麻に替わって、人影が声を発する。

「……何だ、お前?」

 男の一声は、口にしなかっただけで龍麻も同意見だった。

着崩した着物に、髷というのだろうか、頭の上で束ねた頭髪は、

奇抜な服装を着ている人間が多い東京でもまず見かけないファッションだ。

肩には刀らしき長物を担いでいて、演劇部の部員かとも思った龍麻だが、

よく考えれば真神に演劇部はなかった。

「変な格好しやがって、おい、何とか言ったらどうなんだ」

 お前の格好ほど変じゃない、と答えようとして龍麻は止めた。

男の喧嘩腰が気に入らなかったし、状況の異常さがかえって歯止めをかけていたのだ。

「すみませんが、ここはどこですか?」

 礼儀を守って龍麻は訊いた。

「ああ? なんでてめェにンなこと教えなきゃなんねェ」

 努力がいつも報われるとは限らない。

それにしても場所を訊いただけでこの突っかかり方は、なんとも癇に障る。

忍耐心を見かけほどには持っていない龍麻は、あっさりと努力の甲冑を脱ぎ捨てた。

「ああそうかよ。言う気がないなら黙ってろ」

「てめェ……上等じゃねェか、痛い目に遭わねェとわかんねえみてェだな」

 二つの炎は互いを呑みこもうと勢いを増す。

どちらがより大きな炎であったかは、もう問題ではなかった。

 階段を下りてきた男は肩の木刀を下ろし、青眼に構える。

構えに隙はなく、微動だにしない切っ先は、正確に龍麻の喉元を狙っていた。

真剣か、と肝を冷やした龍麻だったが、どうやら木刀のようだった。

……木刀?

真神と木刀という二つのキーワードが、ある人物を龍麻に思い起こさせる。

だが奴は色々アホなところはあるが、こんな格好をする趣味はないはずだった。

 それから先を考える暇はなかった。

いつ振りかぶったのか判らない疾さから、うなりを上げて振りおろされた木刀は、

横っ飛びに躱さなければ直撃していたからだ。

思いきり跳躍し、横転して距離を稼ぐ。

「チッ……やるじゃねェか。一撃で仕留めてやろうと思ったのによ」

 男は龍麻が無手と見て、余裕の表情で構えなおした。

龍麻も体勢を立て直し、再び相対する。

切っ先が動いたと思った瞬間、左側面から斜めに木刀が襲ってきた。

速度は充分であり、刃がないとはいえ、肩口にこんな一撃を食らっては確実に昏倒してしまう。

龍麻は左腕を掲げ、木刀の中程を手甲に当てた。

鈍い音と共に木刀は弾かれ、男が驚きを露にする。

「何者だ、てめェ……!」

 龍麻は不敵に笑った。

ここが何処かもわからず、正体の知れない敵に襲われているにも関わらず、昂揚に全身が滾る。

漲る氣が命じるままに地面を蹴り、敵の懐に潜りこんだ。

「ちッ……!」

 予想もしなかったであろう攻撃を弾かれて、男は大きく身体を崩している。

彼のがら空きの腹に、龍麻の固めた拳がめりこんだ。

「がはッ!!」

 確かな手応えがあった。

だが、男はよろめき、腹を押さえたものの、倒れはせず、刀を手放しもしなかった。

「てめェ、ぶっ殺してやるッ……!!」

 殺気を全身から放ち、男は改めて構える。

こうまで殺気を放たれては手加減などもはやできない。

龍麻は氣を練りつつ右足を半歩下げ、どのような攻撃にも対応できるよう

重心をやや後ろ気味にとった。

 激しい呼吸音が止み、対峙する二人が挟む紫闇の空間に闘気が満ちる。

契機を求めていた二人が、どこかで鳴った葉の音に動いた刹那。

「どうした、何かあったのか」

 二人のものではない落ちついた声が、龍麻の前方から二人を止めた。

 状況的に味方ではありえない。

まずそう判断した龍麻は、警戒を解かず、

気取られないよう足の裏で距離を稼ぎ、男と間合いをとった。

 一方の男も木刀を構え、目線も動かさないまま、後ろの男に向かって怒鳴った。

「手を出すんじゃねえぞ醍醐、こいつは俺の獲物だ」

「ふむ……」

 三人目の男は態度を決めかねた様子で二人を眺めている。

だが龍麻は、驚愕を押し殺すのに失敗し、眼球だけを動かして男に語りかけた。

「醍醐? あんたの名前は醍醐って言うのか?」

「いかにも俺は醍醐雄慶と言うが……」

 龍麻の膝から力が抜けていく。

見知らぬ場所に出たときから抱いていた不安が、ある可能性へと舵を切り始める。

その進路が正しいのか否か、龍麻はなお構えたまま、今度は今闘っている男に訊いた。

「それじゃお前……もしかして、蓬莱寺って言ったりするのか?」

「ああッ!? なんでてめェが俺の名前を知ってやがんだッ!」

 男の驚き方があまりにもそっくりで、龍麻は吹きだしそうになった。

もちろんまだ気が立っているはずなので、挑発するような態度は厳に慎む。

もう闘うつもりもないので、腕を下げ、龍麻は醍醐の方に訊ねた。

「もう一つ教えてくれ。ここは何処で、いったい何時なんだ?」

「場所はともかく、何時、とは妙な問いだな。確か慶応二年、だったな?」

「俺が知るか」

 一人なら百パーセントが、二人なら三百パーセントになる。

数日前に聞いたはずなのに、ずいぶんと懐かしく感じるやり取りに、

ついに龍麻は口元をほころばせた。

「何笑ってやがる、気色悪い」

 蓬莱寺がさっそく絡んできたが、醍醐の方は思慮深げに顎に手を当てた。

「ふむ……今ひとつ得体が知れないな。ここは見ての通り寂れた寺だが、

どんな用事があって来た?」

 穏やかに語った醍醐が、声を一変させる。

「事の次第によっては、無事に帰すというわけにはいかなくなるが」

 この時龍麻は自分の身に生じた事態をある程度把握していた。

だがそれを素直に説明したところで、信じてもらえるとはとても思えない。

慎重に事を運ぼうと言葉を選んだ。

「……まず、俺は何か用事があってここに来たんじゃない。

ここに何があるかなんて知らないし、誰か人を探しているうちにここに出て……

そこの蓬莱寺に会ったんだ。場所を聞いただけなんだけどあんまり喧嘩腰だったから、

つい俺もやっちまったけど」

 龍麻がそこまで話したところで、醍醐が腕組みをして蓬莱寺を睨んだ。

「お前の方から売った喧嘩だったのか」

「うるせェ、寺の前で『ここはどこですか』なんて言う奴、怪しいに決まってんだろうがッ」

「それはそうだが……相変わらず要領を得ないが、少し興味が出てきたな。

お前、どこか行く当てはあるのか?」

 こちらの醍醐も蓬莱寺よりは話のわかる人間らしい。

もちろん龍麻に否やはなく、言われなければ自分から言うつもりだったことを

醍醐が言ってくれて、渡りに船とばかりに応じた。

「いや、全然。誰も居なかったらここの屋根を一晩借りようと思ってたところだ」

「それなら俺たちが泊まっているところに来るといい。といってもすぐそこだがな」

「おい醍醐、こんな怪しい野郎に構うのかよ」

「鬼や化け物にでもならん限り大丈夫だろう。

それとも、お前はそっちの方が嬉しいかも知れんがな」

「けッ、言いやがれッ。おいてめェッ、仕方がねェ、勝負は一旦預けてやるが、

決着はいずれつけるからなッ」

 血気盛んな蓬莱寺の挑戦を夜にまぎれてあいまいに流し、

龍麻は醍醐について寺の中へと入った。

 醍醐が寂れた寺、と言ったのは謙遜ではなかった。

板張りの床は穴こそ開いてはいないが、歩くといかにも不安をかき立てる軋み音が延々と続く。

本尊は安置されているとしても、その他にめぼしいものは見あたらず、

廃寺と言われても納得しそうな質素な寺だった。

 龍麻が本堂に入る頃は、外もほぼ真っ暗になっていたが、寺の中は本当の暗闇だった。

醍醐の持つ行灯だけが灯りであり、彼が行灯を置き、腰を下ろした場所に龍麻も座った。

 二人の中間の位置に蓬莱寺も座る。

いきおい三人は身体を寄せて語り合うこととなったのは、暗さを考えれば当然だった。

 肝試しをしているみたいだと龍麻は思ったが、のんきにしている場合ではない。

話が通じる人間が現れた、というだけで、あとは行灯すらない状態なのだ。

 龍麻は改めて二人を観察した。

先ほど闘った蓬莱寺は白と紫の派手な着物で、髪は頭頂で結っているが真ん中は剃っていない。

顔に険があるのは、闘いを中断させられたからだろうか。

龍麻と目が会うと露骨に睨みつけ、龍麻が目を逸らすとこれみよがしに鼻を鳴らした。

 醍醐の方はやはり着物だが、蓬莱寺と較べるときちんと着ている。

それに巨大な数珠を肩にかけ、坊主頭であるところを見ると、

この寺の僧侶なのかもしれなかった。

 それにしてもと龍麻は思う。

真神學園にほど近い場所で蓬莱寺と醍醐という名の人間に出会ったのは、

いったい何を意味するのだろうか。

確実なのは現代の――龍麻がいた新宿ではなく、かといってまったくの異世界というわけでもない。

建物はこの寺しか見ていないが、照明やそもそも電気の類は見あたらず、彼らは着物を着ている。

となれば考えつくのはやはり、あれしかなさそうだ……

「それで、お前のことだが」

 醍醐に問われて龍麻は我に返った。

どこから話したものか、と思案して、自分のTシャツをつまんでみせる。

「こういう服を見たことがあるか?」

「誰もてめェの着る物の話なんざ聞いてねェ」

「いや……ないな。西洋風にも見えるが」

 どうもこの蓬莱寺はあの蓬莱寺よりも血の気が多いようだ。

この蓬莱寺の名前はなんというのだろうと好奇心が湧いた龍麻だが、

先に自分の身分を証明しなければならない。

「それから、これと」

 ジーンズを見せ、

「これも。多分、見たことはないと思うけど」

 デイパックを見せる。

「だから、てめェの着る物がなんだってんだ。

傾いた野郎ならもっとけったいなモン着てるだろうが」

「まあ落ち着け。で、何が言いたい?」

 意図はしていないだろうが、蓬莱寺と醍醐はかけあいのタイミングまで

龍麻の知り合いと酷似していた。

それだけで龍麻は相当に不安を忘れ、リラックスすることができる。

それでも自分も含めたこの場にいる人間に、事情を告げるのにはなお勇気と情報が必要だった。

「その前に、もう一つだけ質問させてくれ。さっき、今が慶応二年だって聞いたけど」

「ああ」

「今の将軍は誰だかわかるか?」

 龍麻としては少しでも手がかりを得るための質問だったが、すぐに過ちだと気づいた。

ぼんやりとオレンジ色に揺れる二人の顔が険しくなったのだ。

「どうもさっきから要領を得ねェことばっかり言いやがると思ったら、

今の将軍と来やがったか。おい醍醐、どうするよ」

「……お前、それを聞いてどうするつもりだ?」

 軽々しく将軍などと口にしてしまったのがまずかったらしい。

龍麻は正直に理由を話した。

「実は、慶応二年って言われてもよくわからなかったんだ。

それで将軍……様の名前なら聞けばわかると思って」

 だが、二人は渋面を崩さない。

それどころか蓬莱寺の方は明らかに隔意を抱き、手にした木刀をさりげなく、

いつでも振れる位置へと移動させていた。

龍麻もまだ籠手を着けたままだから応戦はできるだろうが、戦いは避けねばならない。

 それに蓬莱寺に加え、醍醐も相手取って勝てると思うほど龍麻はうぬぼれてはいない。

だいいち逃げたところで事態は全く改善しないのだ。

龍麻は思いきって、自分の身に生じたであろう事態を話すことにした。

「俺は、どうも今より後の時代から来たらしい」

 返ってきたのは完全な沈黙だった。

ただしその沈黙には微量の危険が帯電している。

それを打ち払うために、龍麻は声に必死さをこめた。

「頼む、だから将軍様の名前を教えてくれ。そうしたらきっと詳しく説明できる」

 龍麻の熱弁にも蓬莱寺は警戒を解かなかったが、醍醐の方は難しい顔をしながらも口を開いた。

「ますますわからんな。今の将軍様は徳川家茂公だが、一月ほど前に亡くなられた。

次の将軍様は未だ定められていない」

「徳川……家茂……」

 再び呼び捨ててしまい、二人が渋面を作るが、龍麻は構っていられなかった。

日本史の知識を総動員して、江戸幕府の将軍を順に思いだしていく。

現役の高校生だったのが幸いして、なんとか十五人全員を思いだすことができた。

徳川家茂は、その中で十四番目に当たる将軍だった。

「……てことは、今はだいたい千八百六十年頃ってことか……」

 予想はし、覚悟もしていた。

自分は『黄龍の器』という、端的に言えば超能力者であり、

半人半魚の化け物や、鬼としか呼びようのない異形の怪物と戦っている。

だから常識というものがあやふやで薄い膜のようなものであり、

容易に破れてしまうことを良く知っているはずだった。

それでも、自分がタイムスリップしたという事実を受けいれるには、深い深呼吸が必要だった。

それも、二度。

「おい、何ブツブツ言ってやがる」

 蓬莱寺を無視して龍麻は醍醐の方を向いた。

「醍醐」

「うむ」

「信じられないのは無理もないと思うけど、俺はどうやら、百三十年ほど未来から来たらしい」

 醍醐は目を細めるだけで何も言わない。

反応したのはやはり蓬莱寺の方で、片膝を立て、

半身を乗り出して今にも殴りかからんばかりの剣幕でまくし立てた。

「やいてめェ、黙って聞いてりゃ百三十年後から来ただァ?

この俺に一杯食わせようったってそうはいかねェ、

てめェの足で出ていかねェなら俺が叩き出してやるぜッ!」

 京梧の剣幕にはつきあわず、龍麻は冷静に問うた。

「醍醐は、この寺の裏手にある穴のことを知っているか?」

「穴……? ああ、穴があるというのは知っているが……待てよ」

 何かを思いだしたのか、醍醐が顎に手を当てた。

「おい、てめェまでどうしちまった、穴なんざどこにだってあるだろうが」

「円空師が以前仰ったことがある。この寺の裏手にある穴には近づくなと」

「そりゃお前、ちっとばかしでけェ穴なんだろ。落ちたら死んじまうような」

「いや、俺もそう思ってな、よほど深いのですかと訊ねたら、

『そうではない。あれは龍穴と言うて人の身で近づいてはならん場所じゃ』と言われた。

その時は近づかないのだからそれ以上知る必要もないと思ったんだが」

 蓬莱寺から視線を移した醍醐に、龍麻は頷いた。

「俺は、その龍穴から出てきたんだ」

「出てきたっててめェ、じゃあどっから入って来やがった」

「龍穴から」

「てめェッ……!」

 馬鹿にされたと思ったのか、蓬莱寺が木刀を掴んで立ちあがる。

龍麻も彼を見上げたものの、立ちあがりはしなかった。

嘘ではないことを示すため、真っ向から彼を見据える。

「俺は俺のいた時代で龍穴に入った。

そこで大きな揺れがあって、上に戻ってきたらここに出てきた」

「ではお前は龍穴とは何か知っているのか?」

 醍醐の問いに龍麻は頭を振る。

「正確には知らない。龍穴って名前も今聞いて知った。

でも、あそこには氣が満ちている。深さも普通じゃないし、化け物も出る。

ただの洞窟じゃないってのは間違いない」

「氣とは……お前は何か修行をしているのか?」

 手の内を明かすかどうか、龍麻は迷った。

だが違う時代の蓬莱寺と醍醐に、賭けてみようと決めた。

「醍醐は身体に自信はあるか?」

「ん? ああ、まあ頑丈なのが取り柄だからな」

「よし、それじゃちょっといいか」

 龍麻は醍醐の胸の中央に掌を当てる。

「臍の下に力を入れといてくれ」

「何をする気だ」

 答えずに一度深呼吸して氣を練った龍麻は、短い気合いと共に放出した。

「ぐッ……お……!」

 巨体がぐらつき、のけぞる。

充分に加減したこともあって、醍醐は気を失ったりはしなかった。

大きく呼吸を整え、驚嘆の眼差しで龍麻を見る。

「詳しく話すと長くなるけど、俺はこの力を使って鬼道衆って奴らと戦っている」

「鬼道衆だとッ……!?」

 蓬莱寺と醍醐が同時に叫んだ。

「知ってるのか、鬼道衆を」

「知ってるも何もあるかッ、なあ醍醐」

「うむ。今、江戸の街に騒ぎを起こしている奴等がそう名乗っている。

神出鬼没で得体の知れない術を使う奴もいてな、俺達も、その……警戒しているんだ」

 醍醐の説明を聞いて龍麻も驚いた。

同時に、一つの確信が芽生えた。

「そいつらの親玉の名前はわかるか?」

「……いや、中々逃げ足の速い奴等でな、残念ながら奴等の本拠地すら判らんのだ」

「そうか……」

 龍麻はおそらく親玉の名前を知っている。

しかし、今はまだ告げない方が良いと判断した。

「全部を信じたわけじゃねェが、てめェの方はどうなんだ。鬼道衆に押されてんのかよ」

「こっちもまだ、敵の目的が判らないんだ。事件が起こってからしか動けないんで、

なんとかしたいとは思ってるけどな」

 鬼道衆と敵対している、という点で蓬莱寺と醍醐は同志とみなしてくれたようだ。

蓬莱寺が音を立てて座り直したとき、彼から殺意は消えていた。

「どうやら敵じゃあねェみてェだな。で、俺の木刀を弾きかえしたのも氣って奴なのか?」

「ああ。この籠手は氣を増幅させる特性があるんだ。これがなかったら危なかったな」

「待て、俺は負けたわけじゃねェぞ」

 龍麻は謙遜したつもりだったが、蓬莱寺の負けず嫌いは京一以上のようで、

険悪な雰囲気になりかける。

それを救ったのは醍醐だった。

「そういえばお前、刀はどうした」

「研ぎに出してんだよ。なんか持ってねェと落ち着かねェから木刀担いでたんだけどよ、

まさかこんな奴に出くわすたァな」

「はははッ。まあ、寺の境内で殺生沙汰になるよりは良かっただろう。

そんなことになったら俺も黙ってはいられんからな。ところで」

 醍醐が龍麻の方を見やる。

「お前が後の時代から来たとして、これからどうするつもりだ。帰る方法はあるのか」

「……わからない。龍穴の中で地震に遭ったのは初めてだし、

もう一回地震があるかどうかも、あれば帰れるのかもわからないんだ」

 それに、龍麻にはこの時代でやるべきことがあった。

 雹という女性を捜す。

二十世紀の東京より少ないとはいっても、人口が百万は軽く超えているはずの江戸の街で

たった一人の女性を見つける困難さを、龍麻は甘く考えているわけではない。

 けれども時を遡航し、辿りついた時代は彼女が居たと思われる江戸の末期であり、

鬼道衆という手がかりもすでに得た。

これが宿命とやらのなせる業なら、必ず雹を見つけだせるはずだった。

「ふむ……それなら、構わんな、京梧」

「俺は構わねェけどよ、百合ちゃんに聞かなくていいのかよ」

「もちろん、時諏佐先生に許可は得なければならんが、先生が戻られるのは明後日だ。

それまでは俺とお前で決めてしまって構わんだろう」

 醍醐は龍麻に破顔した。

「行く当てがないのならこの寺に泊まるといい。

見ての通り何もない寺だが、雨露はしのげるぞ」

 ありがたい申し出に龍麻は頭を下げた。

「助かるよ、改めてよろしく。俺は緋勇龍麻」

「俺は醍醐雄慶に、こいつが」

「蓬莱寺京梧だ。まッ、よろしくな。よっしゃッ、決まったところで飯食いに行こうぜ」

 京梧が立ちあがり、大きく伸びをした。

醍醐も行灯を持って立つと、龍麻の不安を読み取ったかのように笑った。

「金のことなら心配するな。時諏佐先生が戻られるまでは面倒を見てやるさ」

「おッ、太っ腹だねェ醍醐先生。その調子で俺にも奢っちゃくれねェか」

「お前は自分の分があるだろう」

「宵越しの金は持たねェっていうだろうが。酒と剣の研ぎに消えちまったよ」

「仕方のない奴だな……今日だけだぞ」

「いよッ、話がわかるねェ」

 百三十年後と全く変わらないやり取りに、血というものの凄さを実感した龍麻だった。

 

 夜の江戸を三人は歩く。

 龍麻は醍醐に予備の着物を借りていた。

着物など着たことがなかったのと、借りた着物が一回り以上サイズが大きなせいで、

なんとも不格好なことになっている。

もっとも京梧を見ればそれほどきちんと着ているというわけでもなく、

龍麻の服装も何も言われなかったのだから、案外こんなものでいいのかもしれない。

 龍麻はこの時代において借りてきた猫であるわけだから、

何を食べるかは慎ましく奢り主に任せることにしていたが、

もう一人の奢られ人は遠慮など微塵もみせずに主張していた。

「居酒屋にしようぜ」

「駄目に決まっているだろう」

「堅ェ奴だな」

「坊主が堅いのは当たり前だ」

 すったもんだの末に屋台をはしごするということで落ちついたらしい。

 屋台か、と龍麻が思ったのは事実であるが、すぐに感想を改める結果となった。

川沿いに並ぶ屋台は祭りの縁日のようであり、しかも、寿司や天ぷらが売られている。

その他団子や水、蕎麦に鰻と二十世紀の屋台より遥かに豪華で、

腹が減っていたこともあって、目移りして仕方がなかった。

「なんだ、お前の時代に屋台はないのか?」

「ある……けど、こんなに色々はない」

 龍麻が屋台から目を話さずに醍醐に答えると、京梧が鼻を鳴らした。

「なんだ、後の時代ってのも案外つまんねェみてェだな」

 龍麻は反論しなかった。

目と鼻と腹が連携して口を封じていたのだ。

「はははッ、飯屋の前で話をしていてもしょうがあるまい。緋勇、お前はどこに行きたい」

「そうだな、天ぷらが食べたい」

「よっしゃッ、行こうぜ」

 醍醐に龍麻が応じるより早く、京梧が天ぷら屋に向かう。

期せずして顔を見合わせた龍麻と醍醐は、苦笑して京梧の後を追いかけた。

 江戸前の――真の意味での江戸前の――天ぷらは、

豪華な食事に大して関心を持たない龍麻を唸らせる味だった。

技術や道具は現代の方が優れているのだろうが、素材の鮮度が段違いなのだろう。

海老やこはだの天ぷらを、はじめは遠慮がちに食べていた龍麻も、

次第に京梧の食べる早さに劣らなくなっていく。

 醍醐も体格に見合った健啖ぶりを遺憾なく発揮し、

店の主は喋る余裕もなくひたすらに揚げ続ける事態となった。

 そもそも新鮮な天ぷらを食べる機会がなかった二十世紀の十八歳は、

初めて食べる食材も調理も新鮮な天ぷらに舌鼓を打ちながら、ふと気づいた。

「あれ、そういえば魚を食べていいのか?」

 坊主というのは生き物を食べないのではなかったか。

醍醐があまりにも豪快に食べるので、漠然とした知識を呼び覚まされたのだ。

「俺は密教僧だからな。酒はいかんが肉も魚も食べるぞ」

「そうなんだ」

 相づちを打つ間も食べる手と口は止めない。

瞬く間に三人前以上のの天ぷらを食べ尽くし、三人は次なる店へと河岸を変えた。

 食事を済ませた三人は、寺に戻ってきていた。

あれから三人は蕎麦を食べ、京梧はさらに他の店に行く気満々だったのだが、

出向いた頃合いが遅かったので、店が閉まってしまったのだ。

それでも龍麻は充分に腹が膨れたし、京梧に至っては傍若無人な食べっぷりで

払い主の醍醐と剣呑な雰囲気になり、あわや喧嘩になりかけたのだ。

なぜ俺が、と思いつつ龍麻が仲裁しなかったら、騒ぎになっていたかもしれない。

「坊主が金勘定にうるさいなんて世も末だぜ、ッたく」

「坊主にたかろうとすることこそ末法だとは思わんのか」

 まだ言い合う二人を置いて、龍麻は本堂に入った。

ここまで来れば言い争いでも喧嘩でも好きにすればいい。

 帰り着く頃にはすっかり真っ暗で、行灯の明かりが頼りなく感じられた。

龍穴から出たのが今頃の時間だったら、もっと大変なことになっていたかもしれない。

江戸時代がいいのか平成の世がいいのかは、龍麻にはまだ分からないが、

灯りについては間違いなく現代の方が便利だろう。

 外と同じ暗さの本堂に入ってそんな感想を抱いたところで、

龍麻はデイパックに懐中電灯が入っていたのを思いだした。

旧校舎に潜るときに持っていくデイパックは、京一からは心配性と、

小蒔からは便利屋と笑われるくらいには様々なものを入れてある。

確かにそれらを使用したことはあまりないのだが、今回ばかりはフル活用することになるだろう。

 さっそく龍麻は懐中電灯を取りだし、スイッチを入れた。

文明の光は江戸の闇を払うとまでは行かなかったものの、

行灯に較べれば遥かに明るい光が本堂内に点った。

「おッ、なんだそりゃ」

 京梧が近づき、醍醐も寄ってくる。

龍麻はやや自慢げに使い方の説明をしてやった。

「おい、見ろよ醍醐、凄ェじゃねェかこいつァ!」

「ふむ、蝋燭を使わずに明かりが灯せるのか。確かに凄いな」

「こんな凄ェ道具、なんで最初ッから出さなかったんだ」

 京梧の疑問は龍麻も同感だった。

「すっかり忘れてたんだよ。穴から出てくりゃ見たことない場所だし、

人が居たと思ったら斬りかかってくるし」

 しかも京梧が持っていたのがたまたま木刀だっただけで、本当なら真剣で殺し合いだったのだ。

「まァ、済んだことを話してもしょうがねェやな。

それでおめェ、百三十年後の日本ってのはどうなってるんだ。

飯はあんまり美味くなってねェみたいだけどよ」

「そうだな、俺も少し興味がある。江戸の街はどんな風になっているんだ」

「そうだな……」

 何を話せばよいか、龍麻は迷った。

覚えている限り、わずか数年後から日本は激動の時代を迎え、

二度の世界大戦を経て全く別の国と言って良いくらいに様変わりする。

それらの全てを話したところで彼らが受けいれるのは難しいだろうし、

うかつなことを言えばまた喧嘩の火種になってしまう。

 慎重に吟味してから龍麻は、なるべく静かに告げた。

「とりあえず、日本刀は誰も持っていない」

「何ィッ!! 俺はどうすんだッ」

「百三十年後まで生きてないだろ」

 実際は百三十年後どころかあと十年後に廃刀令が出され、

町人が刀を持つことは禁じられるのだが、

その頃までは生きているであろう京梧という火に、わざわざ油を注ぐ必要もない。

「じゃあどうなってんだ、今だって京都にゃ新撰組って物騒なのがいるって話じゃねェか。

そいつらも刀を捨てるってのか?」

「ああ、全員だ。日本刀は少しの例外を除いて持っちゃいけないことになる。

代わりに竹刀を使った剣道ってのがあるな、一応」

「竹刀だあ? あんなモンで人は斬れねェだろ」

「だから、斬っちゃだめなんだって」

 笑いを堪えつつ龍麻が言うと、京梧はばったりと後ろに倒れた。

「あァ、一気に興味が失せたぜ……なんでそんなつまんねェ世になっちまうんだ」

「まあ、争いがなくなるのはいいことだと思うがな」

「坊主はそれでいいだろうよ。けッ、今のうちに斬れるだけ斬っとくか」

「お前な……」

 たしなめようとして醍醐は、京梧が起きないので放っておくことにしたらしい。

龍麻に向き直り、話の続きをせがんだ。

「他にはどんな変化があるんだ、緋勇」

「いっぱいあるけど、世界の好きな国に行けるようになってるな。

それも、だいたいはその日のうちに」

「どうやってだ?」

「そういう乗り物ができるんだよ。飛行機っていって、空を飛ぶんだ」

「空を!? 鳥のようにか? にわかには信じられんな」

 醍醐は唸ったきり黙ってしまった。

彼の驚きように、龍麻も改めて文明の進歩について考えさせられていると、

床から京梧の声がする。

「それは誰でも乗れンのか?」

「金はかかるけど、金さえ払えば」

「けッ、いつの時代でも金、金、金かよ」

 その点は龍麻も全く同意だった。

肩をすくめて賛意を示すと、醍醐が顎に手を当て、やや上を向いて呟いた。

「世界か……俺は天竺に行ってみたいな」

「仏教の勉強にか?」

「ああ、やはり発祥の地で教えを学んでみたい」

 彼の真摯さは尊敬に値するもので、京梧にしたように混ぜっ返す気に龍麻はなれなかった。

だが、京梧はお構いなしに口を挟む。

「まったくご苦労なこった。死ぬまで勉強するつもりかよ」

「死ぬまで勉強したって、仏の真理にはとうてい到達できんさ。

それより京梧、お前はどうなんだ。どこか行きたい国はないのか」

「俺か? 俺は別にねェな。日本で最強になれりゃそれで充分だな」

 京梧の顔は行灯の灯りが届かない場所にあって、本気か否かわからない。

 暗闇から視線を戻した龍麻は、ふと心づいて訊ねた。

「そういえば、二人はここで何をしてるんだ?」

「ん? ……この寺の住職が亡くなってな。

誰も居ないと荒れるから、頼まれて俺が一時的に身を置いているんだ」

「俺は別に行くあてもねェ風来坊って奴よ。ここに居るのはたまたまだな」

 醍醐はあからさまに嘘をついているし、京梧もいやに早口だ。

そもそも百三十年後の世界、この地に立つ高校に通う蓬莱寺京一と醍醐雄矢の血筋と

思われる彼らが、この場所に揃っていたという偶然を信じるのは難しい。

宿命と呼ばれるものにせよ、縁と言われるものにせよ、何らかの意志、

あるいは意図があると考えるのが自然だろう。

 けれども、今それを追求するのは得策ではなかった。

彼らを怒らせたところで追い出されるだけだし、

旧校舎に入ってからの一日はあまりに激動で疲れてもいた。

 龍麻が大きくあくびをすると、すぐに醍醐が応じた。

「よし、夜も深まったことだし、そろそろ寝るか」

「面倒くせえ、ここで寝ちまおうぜ」

「そういうわけにはいかん。庫裏でないと布団がないしな」

 渋々京梧が身を起こし、腹を掻きながら行灯を手にして歩きだす。

醍醐が続き、最後に龍麻が懐中電灯を持って庫裏へと向かった。

 庫裏、と言っても本堂と何か違うわけでもなく、ただ布団があるかないかだけだった。

それでも路頭に迷うところだった龍麻にとってはありがたく、

堅い木の床や薄い布団も気にはならない。

 寝る支度をととのえる間、龍麻がライトの光を向けてやると、

醍醐は改めて感銘を受けたようだった。

「ふむ、本当に便利だな、その灯りは。懐中電灯と言ったか?」

「ああ、まあ、乾電池が保つ限りは、だけどな」

「乾電池? それはいったい何だ?」

「えっと……電気……つまり、雷の力を蓄えておくもの、かな」

「雷だと!? あんなものをどうやってそんな小さな物に封じこめるのだ!?」

「その……」

 実はこの時点で電池は日本に存在する。

イタリアで発明されたボルタ電池がアメリカに伝わり、

それをペリーが二回目の来航の際、当時の征夷大将軍である徳川家定に献上しているのだ。

だが、もちろん民衆がそのような事実を知っているはずもなく、また、

電池そのものが重要であったようで、

これを使って何かを動かしたというわけではなかったようだ。

 さらにさかのぼること約二十年、一八四九年には佐久間象山がオランダの百科全書を元に

ダニエル電池を製作し、電信実験に用いている。

ただし懐中電灯に用いるような乾電池の発明は逆に約二十年、一八八七年まで待たねばならず、

いずれにしても、龍麻は乾電池の仕組みまで説明できるほど化学に詳しくなかったので、

醍醐の当然の疑問を解消してやることはできなかった。

「お前ら、そんなこたァ朝話せよ。いくら明るくなったって、夜は寝るもんだろうが」

 京梧のもっともな言に醍醐はやや残念そうに頷き、龍麻も、

こちらは詳しい追及から逃れて若干救われた気分で、灯りを消して床についた。

 常闇に目を開いて、自分の身に生じた異変を龍麻はふり返ってみる。

タイムスリップ――時間を移動する、というのは誰もが一度は空想し、

そして叶わぬ夢と諦める、科学でも魔法でも超能力でも実現はできないはずの絵空事だ。

今日の朝の時点では、決して望んでいたわけではなく、

事前にするかしないか選べたとしてもしなかっただろうが、

とにかく百三十年の時を遡行し、龍麻は江戸時代末期の新宿に来てしまった。

 なぜタイムスリップしたかは説明などできないが、

どうして江戸時代末期にタイムスリップしたかは見当がつく。

おそらくはデイパックに入っている摩尼、

数日前はこの珠に封じられた氣が外法によって人の形をとった、

雹という女性が生きていた年代なのだ。

 ならば龍麻は彼女を捜すしかない。

何かの拍子で元の時代に戻るとしても、あるいは江戸時代で残りの人生を過ごすのならなおさら、

雹に会わなければ生きていられるものではなかった。

 一千万人を超える人間が居る一九九八年の東京よりは少ないとしても、

江戸時代でも百万人は居たらしく、その中から一人の女性を捜しだすなど

砂漠で一粒の砂を探すに等しい。

 しかし、真神學園の敷地内であると思われる場所にある古寺にいた

蓬莱寺京梧と醍醐雄慶は雹を探す手がかりの一つである鬼道衆を知っていた。

これは極めて大きな手がかりとなるはずで、彼らが鬼道衆を知っていると答えた瞬間に、

龍麻は必ず雹を見つけだせると確信したのだ。

 実際には多くの困難が待ち受けているはずであり、

場合によっては京梧と醍醐の元を去ることになり、しかも円満な形では去れないかも知れない。

それでも龍麻の腹は決まっていた。

彼らには悪いが、自分がこの時代に時を超えて来た理由はたったひとつ、

雹に会うことなのだから。

 決意を固めたところで急速に睡魔が襲ってきて、逆らわず目を閉じる。

瞼の裏に思い浮かべた雹の顔が薄れるより先に、龍麻は眠りに落ちていた。

 翌日は龍麻はすることがなかった。

京梧は朝飯を食べたらどこかへ出かけてしまったし、

醍醐も用事があるとかで昼食後には出て行った。

残された龍麻はTシャツにジーンズという服装で江戸の街を歩き回るわけにもいかず、

当然ながら金銭も持っていないのでどうしようもない。

龍穴に行ってみようかとも思ったが、昨日の今日で戻ってしまったらと考えると

うかつに行くこともできない。

結局寺の周りを少し散策するくらいしかすることがなかった。

 そして、龍麻が江戸時代にやって来てから三日目。

この日は醍醐の上役である、時諏佐百合という女性が来る日だと聞かされていた。

醍醐は微妙に口を濁したが、彼女はこの寺の管理者であり、

醍醐も、昨日から顔を見せていない京梧も彼女の命令で何事かをしているらしい。

この先しばらくこの寺に留まるつもりなら、どうしても彼女の許可は得ないといけないという話で、

他に行く当てもない龍麻は従うしかなかった。

「どんな女性なんだ、その百合って人は」

「どんな……と言われても俺に説明は難しいが、凄い御人だな」

 全く参考にならない情報に龍麻は肩をすくめた。

よく考えれば醍醐は坊主なのだから、女性との交流が少ないのかもしれない。

ならば目の前の醍醐はいいとして、あっちの醍醐が奥手なのはどういった理由からだろうか。

髪型を除けば顔立ちも体格も、そして性格も良く似ている二人の醍醐を比較して、

笑みをこぼす龍麻だった。

「それじゃ、俺は何を話せばいい」

 この問いに対する答えは明快だった。

「嘘でごまかせる御人じゃない。全てを話した方がいいだろう」

「俺が百三十年後から来たってのもか?」

「ああ。正直言って俺も完全に信じたわけではないが、あの、懐中電灯と言ったか?

あれを見せれば良いと思う」

 まさか懐中電灯が身分証明書になるとは、龍麻は再び、今度は苦笑した。

もちろん、怪しい者として警察に――この時代の警察にあたる組織は、何と言っただろうか

――突きだされないよう、利用できるものはなんでも利用して、

自分の居場所を作らなければならない。

そうしなければ、雹を探すこともできないのだから。

 時諏佐百合について本堂で話しあう二人の背後で、いきなり戸が開いた。

二人が同時に振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。

彼女が時諏佐百合であることは、素早く立ちあがった醍醐の態度を見ても明らかだった。

 時諏佐百合を見て龍麻が抱いた第一印象は、有能な秘書だった。

この時代に秘書などという仕事があるはずはなく、

そもそも龍麻は百三十年後でも有能な秘書を実際には見たことがないので、

この印象は十八歳男子の妄想に近いということになる。

ただ、鋭さと険しさの境界線をぎりぎりで超えていない眼差しと、

強い意志が見える引き締められた口元から、

頭が良い女性だというのはそう間違ってはいないだろう。

 醍醐に合わせて龍麻も立ちあがり、目礼する。

百合は小さく頷いたが、先に話しかけたのは醍醐に対してだった。

「ふう……戻ったよ」

「お帰りなさい、先生」

「大事はなかったかい、雄慶」

 と言った百合の眼差しは、すでに龍麻に向けられていた。

悪意はないが容赦もない、二十世紀の東京ではあまり見られない鋭さの眼光に、

やましいところはないはずなのに龍麻はたじろいでしまう。

「あんたは見ない顔だねェ。それに服装も変わっているようだけれど」

「俺は緋勇龍麻と言います。服装が変わっているのは、その」

 百合はいかにも真面目そうな女性で、いきなりタイムスリップなどという、

この時代では概念さえなさそうな話をして大丈夫だろうかと龍麻が逡巡していると、

醍醐が助け船を出してくれた。

「こいつは龍穴を通って未来から来たと言うんです。

不思議な道具も持っていましたし、怪しいところはありましたが

行くあてがないと言い、鬼道衆の一員でもなさそうなので、ここに泊まらせました」

「そうかい。どうやら立ち話で済む話じゃなさそうだね。

緋勇と言ったね、荷物を置いてくるから、本堂で待っていな」

 百合は踵を返し、庫裏へと歩き去った。

 後の世から来た、など驚天動地の話であるはずだが、歩調に乱れは全くなく、

颯爽、という言葉がよく似合う、動作の全てが小気味いい。

 もしかしたら戯言だと思っているのかもしれない。

だとしたら彼女を説得するのは大変困難になりそうで、龍麻は思わず大きく息を吐いた。

 その肩を、醍醐が叩く。

「時諏佐先生は物の分かる御方だ。まあ、そう心配するな」

「ああ、ありがとう」

 置かれた手から伝わる既視感に、言葉以上に励まされた気がして、

龍麻は頷き、本堂に入った。

 百合が本堂に姿を見せたのは、龍麻が座ってから五分ほどしてからだった。

待った時間としてはごく普通の、これくらいは当然というべきの時間だったが、

すでに龍麻は出鼻を挫かれていた。

 原因は、龍麻自身にあった。

時諏佐百合という女性がどの程度の権力者なのかは不明だが、

初対面で礼を失するのは厳に慎むべきだろう。

昨日まではあぐらを掻いていた醍醐がそんな座り方をしたのもあって、

龍麻も正座して彼女を待っていた。

 足の痺れというものを甘く見ていた龍麻に、容赦なく痺れが襲ってきたのは、

正座を始めてわずか二分後のことだった。

堅い板張りの床にジーンズという、血行を妨げる条件を二つも揃えた両足は、

まず先端部分からじんじんと麻痺してくる。

第一波は上体を傾けたり足をずらしたりして乗り切った龍麻だが、

ほどなく第二波がやってきた。

第一波以上に強烈な、電撃のような痺れに、龍麻の忍耐は早くも限界を迎える。

己の進退と肉体の危機の双方との戦いは苛烈を極め、

百合がやってきた時には喋ることさえできないほど追いつめられていた。

「さァ、話を聞かせてもらおうか……?」

 目の前で顔を赤くして身悶えしている男を、並の男よりはよほど胆力のある百合も、

不気味そうに見ずにはいられなかった。

 彼女の視線の温度が下がったのを龍麻は察知したが、

足の痺れは精神力で克服できるような生やさしいものではない。

上を向き、下を向き、拳を握りしめ、身体を揺すり、

どうにか話ができるだけの集中力を得ようと努力する姿は、

どれほど真剣であっても、残念ながら気持ちの悪さが増すばかりで、

百合も座らずに重心をやや後ろに移したほどだった。

「どうしたんだ、緋勇。具合が悪くなったのか」

 緊張のあまりに体調を崩したのかと心配する醍醐に、

龍麻は一本の蜘蛛の糸を見る思いだったが、ここは矜恃にかけて耐えなければならない場面だ。

「い、や……大丈夫、だ……」

「そうか? あまり大丈夫でもなさそうだが」

「い、いや……平気、だから……」

 せめて事情を語り終えるまでは、と龍麻は百合を見上げる。

気圧されながらも座った百合に、正座をしない現代人は一気に事のあらましを語った。

 はじめはうさんくさげに聞いていた百合も、龍穴の名前が出たところで表情を変える。

龍麻が鬼道衆を口にしたところで完全に真剣な表情になり、

全ての話を終えると、目を細め、重たげに呟いた。

「龍穴……そうかい、あれは後の世にも残っているんだね。

それで、どうしてあんたは龍穴に入ったんだい?」

 この部分に関してだけ、龍麻は嘘をついた。

雹と摩尼のことを話すのは、鬼道衆を敵としている彼女たちに語るのは危険だろうから。

 鬼道衆と戦っていること、彼らに勝つために己を鍛える目的で

龍穴に入ったと龍麻が説明すると、百合は驚きつつも納得した。

「鬼道衆が百三十年も経った後にも存在しているとはね……」

 彼らの目的を訊ねられた龍麻は、二日前に醍醐たちにもそうしたように首を振った。

「まだ敵の首領と目的についてはわかっていません。

襲ってくる彼らを撃退するだけで精一杯です」

「奴等はそんな後の時代にも迷惑をかけているんだねェ……どうしようもない奴等だよ」

 百合が頭を振る。

未来から過去にやってきたなどという突拍子のない話を彼女が信じたのかどうか、

訊ねるべきか龍麻が迷っていると、彼女が先に口を開いた。

「未来について、ひとつだけ聞かせておくれ。

この寺がある場所は、百三十年後はどんな風になっているんだい?」

 その質問は龍麻の意表をつき、考えをまとめるまで十秒ほど必要だった。

「学校っていう、俺くらいの年齢の男女が勉強をする場所になっています。

今だと寺子屋って言うのかな、あれのとても大きなもので」

「そこには何人くらい居るんだい?」

「全校生徒は、えっと……五百五十人くらいだったと思いますけど」

「……!!」

 百合は大きく眼を見開いたかと思うと、かすかに震え、そして、

何かに耐えるように下を向いた。

 龍麻は自分の告げた事実が、どれだけ彼女に感銘を与えたか、想像もつかなかった。

やがて顔を上げた彼女の顔は相変わらず厳しかったが、龍麻を見る眼はいくぶん和らいでいた。

「わかったよ。元の時代に帰る方法を見つけるのが先決だとは思うけれど、

それまでの間はここで寝泊まりして構わないよ。少しだけれど金子もやる。

雄慶、着物を用意してやりな。あんたも薪割りと掃除くらいはできるだろう?」

「それなのですが、先生」

 思いもかけぬ好待遇に龍麻が礼を述べるよりも早く、醍醐が口を挟んだ。

「緋勇は不思議な力を持っていまして、なかなかに腕も立つようです。

鬼道衆と戦っているということですし」

 百合は考えたが、長い時間のことではなかった。

「……そうだね。あんたはこの江戸にも現在、

鬼道衆が暗躍しているという話は聞いているかい?」

「はい、醍醐から聞きました」

「あたし達はああいう輩から江戸を守るために活動しているんだ。

現在のところ奴らは動きをひそめちゃいるけど、奴等の動向を探り、

何か害を為そうとしているのなら阻止しないとならない。

これも何かの縁だ、あんたにも手伝ってほしい」

「手伝うって……戦うってことですか?」

「いや、悔しいけれどあたし達はまだ、鬼道衆の規模も目的も掴んじゃいない。

だからまずは江戸の街を歩き回って噂を集めて欲しいのさ」

「そういうことなら」

 安堵しつつも龍麻には疑問が浮かぶ。

鬼道衆を探るのは良いとして、この二人とおそらく京梧はそれを仕事としているらしい。

二人とも公的な関係の人間ではなさそうだが、何処の馬の骨ともしれない

龍麻にまで給金があるというのだから、謎は深まるばかりだった。

 だが、もちろん龍麻に文句はない。

衣食住が得られただけでもありがたいのに、鬼道衆を、

すなわち雹を探す機会まで与えてくれるというのだから、

文句など言ったら罰が当たるというものだ。

「喜んで引き受けさせてもらいます」

「ああ、頼んだよ」

「改めてよろしくな、緋勇」

 今日は着物を用意するので、本格的な活動は明日からということになって、話は終わった。

 この時点で限界を三回くらい突破していた龍麻は、

四回目の限界が訪れる前に脱出しようと立ちあがった。

しかし、倍ほどにむくんだように感じられる足の裏は、

龍麻の体重を支える力をとうに失っており、接地した途端に主を見捨てて逃げだした。

 板の間にぶざまな音が鳴り響く。

端からは何もないところで転んだようにしか見えない龍麻は、

一気に襲ってきた痺れに、身体を起こすこともできなかった。

「どうしたんだい?」

「足が……痺れて……」

 顔を見合わせた二人の江戸時代人は、呆れたように二十世紀人を見やった。

「なんだい、日本人はこんなに軟弱になっちまうのかい?

これから日本は大変だってのに、本当に大丈夫なんだろうね?」

 一言も返す言葉がない龍麻だった。

 

 翌日、着物を用意された龍麻は、京梧と醍醐と共に江戸の街に繰りだしていた。

生まれて初めて着用した褌が、多大な違和感を股間にもたらしているが、

一着しかないトランクスを履き続けるわけにもいかないので贅沢はいえない。

それに何より、月代さかやきを剃らなくて良かったので龍麻の気分はむしろ晴れやかだった。

「なんだあ? 月代? 剃りたきゃ剃りゃいいじゃねェか」

「……てことは、剃りたくなかったら剃らなくてもいいのか?」

 おそるおそる訊ねた龍麻に、京梧は何をくだらないことをといわんばかりに鼻を鳴らした。

「ッたりめェだろ。だいたい家茂公だって剃ってねェって話なんだからよ」

「そうなのか?」

「あァ。実際にお目にかかったわけじゃねェけどよ」

 江戸時代といえば月代と髷だと思いこんでいた龍麻は、

剃っていない将軍がいたことに驚きを隠せなかった。

これが生きた知識かなどと感動し、頭髪を剃らなくて良かったと安心すると同時に、

京一と顔が似ている京梧の月代も見てみたかったと思いもするのだった。

 龍麻ら三人がやって来たのは、内藤新宿である。

宿場として江戸中期に設けられ、一度は廃止されたものの、一七七二年に再開され、

以後は繁栄を続け、龍麻の生きる一九九八年では世界に冠たる大都市となっていた。

空を覆うがごとく立ち並ぶ高層ビルや、夜でも人通りの絶えない歌舞伎町のような賑わいは

さすがにないだろうと考えていた龍麻だったが、

通りを歩く人々の数は予想を遙かに上回っていた。

五メートルほどの幅しかない街道に、通行人や棒の両端に荷物を提げる

天秤棒を担いだ商売人や人足、それに馬などがひしめきあっている。

威勢の良い声や、人や馬の足音やらが飛び交い、活気に満ちていた。

「どうだ、凄ェだろ」

「ああ、凄いな」

 京梧の自慢に龍麻は素直に頷く。

龍穴から出てきて今日まで、竜泉寺に篭って京梧と醍醐、

それに百合以外の人とはほとんど会わなかったので、

いきなり新宿駅前にも匹敵するこれだけの人を見てようやく、

一九九八年の新宿と地続きの場所に立っているのだと実感がこみあげてきたのだ。

 カメラを持ってくれば良かった、などとのんびりしたことを考える龍麻に緊張感はまるでない。

今のところ帰る方法がないという現実も、雹を探すという目的を達するまでは

ひとまず忘れて構わないとすら思っているのだ。

「……で、どうやって鬼道衆の情報を集めるんだ」

 龍麻の問いに、今日は木刀ではなく刀を下げた京梧は当然のように顎をしゃくった。

「そりゃお前、うわさ話が行き交う場所って言ったら」

 顎の先には時代は違えど一見して居酒屋と判る店があった。

まだ開店はしていないようだが、軒先に大きく「酒」と書いてある。

「固ェ奴が居るから今日は呑めねェけどよ、今度二人で行こうぜ。呑けるんだろ?」

「お前な、後の世から来た人間に悪いことを教えてどうする」

「んだと、酒のどこが悪いってんだ。なあ緋勇」

 一九九八年時点では、飲酒は二十歳からと法で規制されている。

だから龍麻が呑むこと自体が悪いのだが、そんな野暮を口にするつもりは毛頭ない。

それに情報収集は酒の場でという京梧の意見は至極正当で、龍麻は大きく頷いた。

「醍醐の分も情報収集しないとな」

「さすが、後世の人間は話せるじゃねェか」

 京梧が龍麻の肩を叩き、醍醐はため息をつく。

「まあ、今日のところはもう少し案内してくれよ」

 とりなすように龍麻は言い、不穏な気配を漂わせ始めた京梧を促して居酒屋を後にしたのだった。

 後にした、とは言っても、一軒の前から立ち去ったというだけのことで、

通りには居酒屋と飯屋が乱立といっていいくらいに立ち並んでいる。

京梧などは自分で言ったにもかかわらず、歩いているうち我慢ができなくなったようで、

「一杯呑んで行こうぜ」などと言い出す始末だ。

むろん醍醐が許可するはずもなく、龍麻も、昼間から呑むのは抵抗があったので、

飯屋に行くことで妥協を求めた。

「ちッ、しょうがねェな」

 不満を口にしながらも、京梧は自分で店を定めると、二人の同意も求めずに入っていく。

「何やってんだ、早く来いよ」

「……すまんな、緋勇」

「ああ、慣れてるから」

 どういう意味だと問いたげな醍醐を置いて、龍麻も飯屋に入った。

 

 一汁一菜の膳を食べながら、三人は話しこんでいた。

 服装や街並みについてはごく少量ながらも知識があった龍麻だが、

食事については全てが新鮮で、驚きの連続だった。

肉がなく、野菜や魚が中心というのはともかくとして、

米が普通に白米であったのには、驚きのあまり箸を掴んだまましばらく呆然としたほどだった。

昔の人の食事といえば玄米、あるいは稗や粟で、白米は金持ちしか食べられないと思っていたのだ。

 実際にはこの頃、江戸の街では白米が当たり前になっていて、

地方から出てきた人間が白米ばかりを食べ、

脚気になってしまうという江戸患いという名称まであったほどだ。

「はあ……美味い飯だな」

 湯気の立つ飯を良く噛んで、飲みくだす。

ただそれだけのことに、龍麻は至福を感じた。

「大げさな野郎だな、まさか未来には白米がねェなんて言うんじゃねェだろうな」

「あるよ、それくらいは」

 真剣を所持できないと聞かされて以来、未来に興味を失っているらしい京梧に、

百三十年後の東京は食事に関しても世界で有数の都市になっていると言おうとして龍麻は止めた。

このシンプルだが美味な膳に敵う食事があると説明するのは大変であるし、

それより食べる方に口を使いたかったのだ。

「はははッ、だが、確かに美味い飯だな」

 巨躯に似合わぬ丁寧さで飯を口に運びながら醍醐が笑う。

肉や魚はないといっても、僧といえば精進料理ではないのかと思う龍麻だが、

醍醐は全く気にせずに食べていた。

「ん? どうした?」

 ついじろじろ見てしまったらしく、醍醐に訊ねられて、龍麻は話題を変える必要を感じた。

「それで、鬼道衆についてもう少し教えてくれよ。

江戸の街を騒がせたって、具体的に何をしたんだ?」

 醍醐よりも先に答えたのは、一足早く食べ終えた京梧だった。

楊枝を咥えながら龍麻に説明する。

「盗みに火付。これだけで死罪は確実だけどよ、人攫いまでやったらしいな。

だが、どういうわけかそれも止んじまった」

 鬼道衆は一月ほど前まではさかんに活動していたらしいが、

将軍家茂の死と前後して姿を見せなくなったという。

江戸の人間や幕府にとっては歓迎すべきことでも、

組織が壊滅したわけでもなく、首魁の名すら判明していないのでは、

枕を高くして眠るわけにもいかない。

加えて彼らは中々手練れが揃っていて、生半可な腕では返り討ちに遭ってしまう。

「そこで俺たちが選ばれたって訳よ」

「それは分かったけど……選ばれたのって二人か?」

 腕が立つ、という条件が難しいとしても、江戸の街を護るのに二人では厳しすぎはしないか。

龍麻の疑問に京梧に代わって答えたのは醍醐だった。

「ああ、前はもう少し居たんだが、奴等の動きがおとなしくなったんでな、

ひとまず元の仕事に戻ってもらったのさ」

「なるほどね」

 ならば今残っている二人は仕事がないのか余程ヒマなのかどちらかということか。

辛辣な意見を、龍麻は白米の最後の一口と共に飲みくだした。

 食事を終えた三人は、再び内藤新宿を歩く。

醍醐は任務に忠実で、京梧はあくびを連発してまるでやる気なし、龍麻はその中間と言った具合だ。

ただし耳をそばだててはみたものの、話し声が飛び交う街道では声をまともに聞くのも難しい。

「歩きながら噂話を聞くのは難しいな」

「うむ……そうだな。だが、そうそう飯屋に入り浸るわけにもいかんからな」

「地道に歩き回るのが一番ってことか」

「そうだな。しばらくは一緒に回るが、道を覚えたら三人別々に動いた方がいいだろう」

「ッたく、真面目だなお前らは」

 あくび交じりに口を挟んだ京梧に、醍醐がしかめ面をする。

「鬼道衆をこれ以上暴れさせるわけにはいかんだろうが」

「そうだけどよ、今までにあいつ等が仕掛けてきたときだってよ、

事前に噂の一つも拾えたわけじゃねェだろ?」

「む……それはそうだが……」

「百合ちゃんだってよ、このやり方じゃ追い切れねェと思ったから人を減らしたんじゃねェのか」

 口喧嘩には京梧に一日の長があるようで、醍醐は不本意そうながらも黙ってしまう。

少し考えてから、龍麻が口を開いた。

「俺たちが歩き回るってのは、悪い手じゃないと思う」

「あん?」

「鬼道衆のことを嗅ぎ回ってる人間がいる。

そういう噂が広まれば向こうだっておいそれとは動けないだろうし、

そうなれば鬼道衆の本拠地は判らなくても、江戸の被害は抑えられるだろ?」

 戦略的な物の見方に醍醐はほう、と唸ったが、京梧はなお懐疑的だった。

「そう上手くいくかねェ」

「時諏佐さんには良くしてもらったし、これくらいならお安いご用だからな、

俺はしばらくやってみるよ。ただ、道を覚えないとまだ一人じゃ竜泉寺に帰れないから、

それまではよろしく頼むな、二人とも」

「やれやれ、これじゃお守りじゃねェか」

 ぼやきながらも京梧は龍麻の前に立って歩きはじめた。

龍麻が続こうとすると、醍醐が小声で言った。

「見事なものじゃないか。京梧の手綱を取るとはな」

「百三十年後にも同じような奴がいるからな」

「何やってんだお前ら、行くぞッ」

 醍醐に肩をすくめてみせてから、龍麻は京梧を追った。

 

 京梧と醍醐と共に過ごす江戸の生活は、とても楽しいものだった。

タイムスリップしたのが戦国時代だったならば、こんな悠長なことは言っていられなかっただろう。

多少言葉が違っただけでは田舎から出てきた者だと思われる程度で、

街を歩く分には何の不自由もない。

歴史的には開国し、激動の時代へと突入していくまさに夜明けの時期であるが、

まだ負の要素は少なく、太平の眠りから目覚めた江戸は、

一人の異時代人などに構っている暇はないとばかりに躁的な活気に満ちていた。

 龍麻が一八六六年にタイムスリップして、二ヶ月近くが過ぎていた。

奇縁、としかいいようのない、真神學園の立っている――これから立つはずの場所で出会った

蓬莱寺と醍醐という姓を持つ二人と、彼らを指揮する時諏佐百合という女性の庇護によって、

どうにか江戸末期のこの時代で生きていく術を得た龍麻は、これも奇縁という他ない、

江戸の街を騒がせている鬼道衆について調査するという仕事をしていた。

 鬼道衆には雹という女性が居るはずであり、

龍麻は彼女に逢うためにこの時代に来たと信じている。

ここまで奇跡が重なったのだから、必ず雹にも逢えると思っている龍麻だが、

六十日ほどの間に鬼道衆について得られた情報は、

龍麻が元いた時代で戦っている鬼道衆についてよりも遥かに少なかった。

テレビやラジオはもちろん存在せず、新聞に対応するものがかろうじて瓦版と呼ばれる

一枚刷りの情報誌しかなく、それも情報の信頼性という点ではかなり怪しい。

それでも、京梧の言うところでは、祭り好きの江戸っ子が、

鬼道衆が引き起こす騒ぎを見逃すはずはなく、何か事が起これば必ず、

鬼道衆の名は出なくても瓦版にはなるという。

そのような事件性のある記事は、龍麻が来てからは一度も発行されておらず、

やはり現在は活動をひそめているのかもしれなかった。

 それは、江戸の人々にとっては歓迎すべきことかもしれない。

しかし雹との接点を鬼道衆に求めるしかない龍麻にとっては、

彼らが暗躍してくれないことにはどう動きようもないのだ。

 幸いにして言葉は通じるので、内藤新宿の地理に慣れてからは、

龍麻は一人でも出歩くようになっていた。

京梧は顔を見せたと思えば居なくなり、待っていても来ないことが多々あって

同行人としてはあまり頼りにならず、醍醐の方は僧としての勤めがあって、

こちらも毎日は出かけられないというので、必然的に一人で行くしかなくなったという理由もある。

はじめのうちこそ髪型や話し方で怪しまれたりしないかと不安だったものの、

金さえきちんと払えば、また、日が暮れてから出歩かなければ警察――

この時代では同心というらしい――に職務質問されるようなこともなく、

現代の東京ではちょくちょく警察の世話になりかけた龍麻としては、むしろ快適なくらいだった。

 とはいえ、昼間はやはり多くの人が働いている時間であり、

飯屋に長居するのも中々に無理がある。

それに給金も出ているとはいえ、基本的には聞き耳を立てるだけで何もしていないわけだから、

それなりにストレスも溜まってきていた。

 帰れるかどうかの不安は、今は少ない。

それよりも雹に会えるのかという不安が、徐々にではあるが心を灰色に塗っていく。

活気あふれる内藤新宿を歩いていると、ふとした折にその灰色が滲みでてくるのだ。

それは、まだ自覚できる段階で、京梧や醍醐と話をすれば消せる。

だが自覚できなくなったときに自分がどうなってしまうのか、

龍麻は考えるのも怖ろしかった。

 時諏佐百合は最大限親切にしてくれているが、

そろそろ能動的に鬼道衆を探すべきかもしれない。

だが、探すといってもどうやって――堂々巡りの思考を繰りかえしながら、

龍麻は街道筋を歩いていた。

六十日続けて収穫がない情報収集をする気にもなれず、

あてもなく、流れに任せて道を行く。

賑わい、威勢良くとびかう声も半ばは聞き流し、

耳に入る残りも鬼道衆と関係ないと判明すればすぐさま脳裏から消す、

その繰りかえしに徒労感を抱きつつあった。

空はまだ明るいが、七つの鐘が鳴ってから結構経っており、そろそろ帰る頃合いかもしれない。

 今日も手がかりの欠片も拾えなかったことに、

龍麻は小さくため息をつき、帰路につこうとした、その時。

突然、龍麻の聴覚に異変が生じた。

雑多な音が明瞭になり、全ての感覚が一時的に聴覚に集中する。

それは戦いの前に敵の気配を察知したときにも似た感覚だったが、

それよりも遥かに研ぎ澄まされていた。

 原因を求めて龍麻は立ち止まり、音を拾う。

ラジオをチューニングするように、入ってくる声や音を選り分け、遂にそれを捕らえた。

「ッたく雹の奴、俺に使いッ走りなんてさせやがって。

いくらガンリュウのためって言っても多すぎんだろ、この量」

 思考よりも先に身体が動く。

この時代に生きているはずの、探し求める女性の名前を聞いて、

龍麻は瞬間的に声が聞こえた右後ろを向いた。

 声はそれほど低くない、印象としては男の子供の声だ。

息を止め、心臓以外の全ての動きを眼球に集約させ、

昼の歌舞伎町ていどには多い人通りの中、該当する人物を龍麻は探した。

五秒、十秒、過ぎていく時間の中で、龍麻の目は全ての人間を精査する。

後ろから来た男が邪魔そうに睨んでいくが、気にも留めない。

 走りだしたくなるのをこらえ、探し続けた結果、視界の端、

もう少しで人混みに埋もれてしまいそうなところで、該当しそうな少年を見つけた。

少年の方に早足で向かい、後を追う。

彼が口にした雹が、龍麻の探している雹なら、彼は鬼道衆の一員である可能性が高く、

うかつに話しかけて騒ぎになれば雹へと繋がる線が切れてしまう。

それだけは避けたい龍麻は、まずは彼を尾行することにした。

 少年は店に入っていく。

彼が出てくるまでの間を待つ龍麻の脳裏には、同じ言葉が繰り返されていた。

 雹の奴、俺に使いッ走りなんてさせやがって。

 雹。

敵として出会い、恋人――少なくとも龍麻はそのつもりだった――として別れた女性。

江戸時代に生き、怨念を利用されて百三十年後の東京に現出した鬼道衆の一員。

遂に、遂に見つけた。

 息が苦しくなるほどの動悸をこらえ、龍麻は生きた手がかりを追う。

別人である可能性は考えなかった。

雑踏の中で聞き分けた名前が他人であるわけがない。

どれほど都合がいい考えでも、それは龍麻にとって真理だった。

 何軒かで買い物を済ませた少年は、内藤新宿の外れからそのまま街を出て行く。

大胆にも一人で来たようで、特に周りを警戒する様子もなかったので、龍麻も迷わずに後を追った。

 街を抜けると急激に陰影が増していき、逆に人影は皆無となる。

夕闇が迫り、前方の少年の姿も闇に溶けつつあって、

目を凝らさなければすぐに見失ってしまいそうだ。

龍麻は歩幅を広げ、もう少し距離を詰めようとした。

その途端、前方の少年が立ち止まり、振り向く。

少年の動きは素早く、身を隠す余裕もなく龍麻は姿を晒したままだ。

もっとも、隠したところで無意味なのは、少年の怒り声から明らかだった。

「おい手前ッ、内藤新宿からずっと尾けてやがったな。何のつもりだッ!」

 龍麻よりは年下に見えたが、さすがに鬼道衆の一員だけのことはあるらしい。

そして、その声は確かに内藤新宿で雹と言った声と同一だった。

 少年は敵意を剥きだしにしていた。

しかし、龍麻はむしろ、彼の方から話しかけてくれたことに活路を見いだしていた。

「あんた、雹って女を知ってるか」

 龍麻としては敵意のないことを示し、譲歩したつもりだった。

だが少年は押し黙ったかと思うと、烈風の勢いで拳を撃ちこんできた。

「うわっ」

 慌てて避けた龍麻は、誤解を解こうと必死になった。

「待った、あんた、内藤新宿で雹って人の名前を口にしただろ。

俺はその人を捜しているだけなんだ、怪しい者じゃない」

「どっからどう見ても怪しいじゃねェかッ!! この野郎ッ、叩きのめしてやるぜッ」

 少年は一層怒気を噴きあげて龍麻を睨みつけた。

 この少年が雹の仲間であるのなら、闘わない方がいい。

なんとか闘いを回避することはできないか。

しかし龍麻が惑う間に、少年は京梧に劣らぬ殺気を漲らせ、素早く踏みこんできた。

 踏みこみは疾く、東京で数多の戦いをくぐり抜けてきた龍麻も躱しきれなかった。

「……ッ!」

 繰りだされた拳が肩に当たる。

打撃は思いのほか響き、少年が何か武術を修めていること、

全く手加減なしに自分を殺そうとしていることを龍麻は理解させられた。

 ようやく見つけた雹の手がかりを前に死ぬわけにはいかない。

龍麻は強引な体当たりで少年と距離を置き、構えを取った。

「この俺とやりあおうってのか、いい度胸じゃねェか……!」

 少年が叫び、突っこんでくる。

今度は龍麻は躱さず、真っ向から受けた。

 

 龍麻と少年が戦いを始めた直後、二人の側方の森を駆ける人影がある。

少年とは違い薄闇に溶けこむような装束で固めた人影は、

繁る木々の間を灯りもなしに全力で駆け、小さな枝を踏みならす音が後に続いた。

 森の奥へと男は、十分ほども走り続ける。

やがて男の速度がわずかに緩む。

そこには人目を忍んで森の奥に作られた、小さな集落があった。

獣しか判らないであろう、木々で巧みに覆い隠された入り口を抜け、男は集落の奥へと入っていく。

 男はこの村を警護する最初の門番で、街道から森への入り口を監視していた。

当然、少年と龍麻のいさかいも全て目撃しており、事態を報告するために村へと戻ってきたのだ。

他の警護の人間は、走っている途中で交わした連絡ですでに警戒を強めている。

森に静かな緊張が走るなか、目指す建物に到着した男は、建物の前で跪き、主に呼びかけた。

「御屋形様ッ!」

 呼び声とほとんど同時に襖が開き、中から一人の男が出てきた。

 男性の平均身長が五尺(百五十センチ)程度であるこの時代で、六尺近い体躯をしている。

着ている紋付も堂々としたもので、このような森の奥の村にあって出自を思わせるが、

肩の下まで伸びた、炎の色をした髪がそれ以上に良からぬ因縁を感じさせた。

眉は濃く、眼は鋭いが険しくはなく、全体として大度の相が出ている。

年の頃は龍麻と同じか少し上に見えるが、苦労と経験を積んだ渋みがごくわずかに滲みでていた。

 御屋形様と呼ばれたその男は、名を九角天戒という。

この村を束ね、江戸の街に混乱を起こしている鬼道衆という集団の長であった。

九角は緊張する部下と対照的に、落ち着き払った声で応じた。

「どうした」

「はッ、澳継様と怪しい男が村の入り口で交戦中にございます」

「交戦? 迷いこんだのではないのか」

「それが男は雹様を知っているかと澳継様に訊ねた由」

「雹を?」

 この村に置いている雹という女性を九角は思いだした。

鬼道衆そのものが幕府に狙われる存在であるが、彼女にはもう一つ、身柄を狙われる理由がある。

いずれにしても個人的に雹を探す人間は危険だった。

「はッ、澳継様はただちに処理しようとされたのですが、

その男、腕も中々に立つようで、澳継様も容易には決着が着けられぬ模様」

「澳継が? 興味が出てきたな……よし、そいつの顔を見てみるとするか」

 言うが早いか九角は軽い身のこなしで縁から降り、案内を促した。

従者や村の人間からたしなめられる、自分の目で見てみないと気が済まない性分が九角にはある。

澳継には信頼を置いているが、それだけに彼と互角に闘える人間の存在に興味が湧いたのだ。

それに間者ならば馬鹿正直に「雹を探している」などと言うわけがない。

斬って捨てるとしても、顔を見てからでも遅くはないだろう。

先に立つ門番に劣らぬ疾さで、九角は夜の森を走った。

 

 突きが相手を崩し、蹴りが敵人を苦悶させる。

龍麻と少年の闘いは、両者にとって予想外の展開となっていた。

少年に手加減はなく、鍛えられた手足が正確に相手の急所を狙う。

だが当たりはしても、場所を変え、位置を直し、幾度も交錯しても、

決定的な一打はどうしても決まらない。

「この野郎ッ……!!」

「くッ……はッ、はァッ!!」

 激しい呼吸と鈍い打撃音が秋風に散る。

密度の濃い戦闘の中で、二人は奇妙な感覚に陥っていた。

死を賭けて闘っているという意識が薄れ、純粋に拳を当て、

蹴りを命中させたいという欲求に昇華していく。

それほどまでに両者の実力は拮抗し、それ以上に、二人の武闘は似通っていた。

 何十度目かの打ちあいも相手を仕留めることはできず、

疲労が蓄積した二人は、やや距離を置いて睨みあう。

意志はまだ旺盛だったが、肉体が酷使に悲鳴を上げていた。

もちろん、小さな隙でも見せればたちまち敵は攻めかかり、倒されてしまうだろう。

眼光で牽制しながら少しでも呼吸を整え、体力の回復を図っていた。

 仮初めの静寂が訪れる。

二人は足の指で移動しつつ激発する機会を狙う。

あと半歩で踏みこむ、そう定めた二人の足を、何者かが止めた。

「ほう……澳継が苦戦しているとはな」

 目の前の少年から発せられたのではない声に、龍麻に緊張が走った。

この状況で一対二ではあまりに分が悪い。

少年の援軍、つまり鬼道衆の仲間だとすれば、負傷している彼を見て、

話しあいに応じるとも思えない。

逃げるか――しかし、それでは雹の手がかりが失われてしまう。

龍麻は焦り、急速に冷えていく肉体にあって額に汗を滲ませた。

「苦戦なんてしてませんッ、こんな奴今片づけるから待ってください、御屋形様ッ」

「まあ待て、澳継」

 逸る澳継を制し、九角は一歩龍麻の方に進みでた。

 全身を苛む痛みを無視し、龍麻は構えを取った。

現れた男は御屋形様と呼ばれていた。

ならばこの男が鬼道衆の首領である、九角なのだろうか。

確かめたい衝動に駆られたが、むろんそのような状況ではない。

刀に手を置いてはいない九角に隙は全くなく、当然、あれが木刀のはずもない。

籠手を持ってきていない龍麻に勝ち目はないに等しかった。

 せめて、雹に一目会ってから死にたい――

目のそばを伝う汗を拭うことすらできず、龍麻は、

焦りや後悔といった陰の感情を御するのに必死だ。

 だが、鬼の道を往く者達を束ねる首魁は、

抜けば一太刀で龍麻を両断できるであろう刀を抜かず、

それどころか、彼の方から話しかけてきた。

「雹を捜しているそうだな。何故だ」

「……話せば長くなる」

「ならば、会ってどうするつもりだ」

「どうって……」

 龍麻は答えに詰まった。

まず会うことが一義であり、その後のことまで考えるに至らなかったのだ。

「御屋形様、こんな怪しい奴の話を聞いたって無駄だ、さっさと殺しちまいましょう」

 だが、九角はまたも澳継を制する。

二対一という不利な状況でも卑屈にならない龍麻を気に入り始めていたのだ。

そこまでして雹に会いたいと言う理由は何か、聞いてみたくなった。

「これより先は鬼の棲む場所よ。人の来る場所ではない」

「……この先に雹がいるなら、俺は往く。邪魔する奴は鬼だろうとなんだろうと蹴散らす」

 それが虚勢であると、九角は見抜いていた。

澳継と互角に闘えるだけの技量を持つ人間が、九角の実力を測れないわけがない。

この男は戦えば確実に死ぬと知っていて、雹への想いはそれに勝ると言ったのだ。

「上等じゃねェか、やれるもんならやってみやがれッ!!」

「いいだろう。話だけは聞いてやる。雹に会わせるかどうかはそれから判断する。

だが勘違いするなよ、お前の首は一時預けただけだ、

少しでも怪しいところがあったらすぐさま切り捨てるぞ」

「御屋形様ッ!」

 澳継が叫ぶ。

彼の怒りを眼光で威圧しておいて、九角は踵を返した。

「ついて来い」

 村へと歩きだす九角に、敵意に満ちた眼差しを龍麻に向けてから、澳継が続く。

事の成り行きにしばらく呆然としていた龍麻は、我に返ると慌てて彼らの後を追った。

 敵地に乗りこむ、という意識はない。

前を往く澳継の輪郭がかろうじて見えるだけの暗い森の中を進む、

百三十年の時を遡航した龍麻の心は、遂に雹と会えるのだ、という興奮に埋め尽くされていた。

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