※この作品はR-18です。

彼此岸   作:SVX

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彼此岸 二幕 ―陰中の陽―

 九角達の村は、悪の本拠地という印象からはほど遠いものだった。

森の中にあるということを差し引いても、内藤新宿から歩いて行ける距離にあるとは

思えないほど寂れている。

 九角の屋敷はそれなりに立派な構えだったが、それも他の家に較べれば、という程度で、

以前京梧や醍醐に案内された武家屋敷に見劣りすることはなはだしかった。

 九角の部屋に通された龍麻は、彼と向かい合って座る。

外では暗くて判らなかったが、九角の風采は異彩を放っていた。

龍麻がイメージする侍の着物を着て、目鼻立ちも凛とした美丈夫は、

龍麻よりも数歳上だろうか。

だが、髷を結わずに肩まで伸ばした髪の色は鮮やかな赤で、それが何よりも目を惹いた。

九角の傍らにはさきほど闘った少年が座り、龍麻の一挙手一投足を見逃すまいと睨めつけている。

「さて、何故雹を捜しているのか聞かせてもらおうか」

 九角が低い声でうながした。

 この場に雹がいないのが残念だったが、彼らの立場とすれば当然だろう。

龍麻はいっとき彼女のことを忘れ、会談に集中した。

「俺は百三十年後の日本から来た」

「手前ェッ、ふざけたこと言ってんじゃねェッ……!」

 予想通りの反応を見せる澳継と呼ばれていた少年を、龍麻はちらりとだけ見やり、

話はあくまで九角に対して続けた。

「その時代の江戸は東京って名前に変わっていて、俺は東京で鬼道衆という集団と戦っている」

「……」

 九角は何も言わず、眼を細める。

圧倒的な威圧感が彼の両目から放たれたが、龍麻は気圧されることなく語った。

「鬼道衆は東京に混乱を引き起こそうとしている。

たとえば、五色不動に封じられている摩尼を盗み、

外法を以て摩尼の中に込められていた氣を解放して、手下として用いたり」

 京梧や醍醐に話さなかった雹との因縁を、龍麻は全て話す。

九角の態度は不明だが、頭から否定しているわけではなさそうだった。

「その、手下の中に雹がいた。俺は雹と闘って、一旦は逃がした。

その晩に雹が俺の家に来て、色々話した」

 話しながら、龍麻の脳裏にはあの夜の情景が再生される。

白銀の月光が照らす、雹の横顔を。

「外法を使って雹を甦らせたのは、九角という鬼道衆の長で、

彼女が昔も九角という名の男に仕えていた。

そして昔の九角もやはり、鬼道衆という集団を率いていたと」

 龍麻は真っ向から九角を見据えた。

九角は変わらず薄く眼を閉じたまま、応えなかった。

「俺は雹に、鬼道衆を抜けてくれないかと頼んだ。

彼女は昔の九角にも今の九角にも恩があるからそれはできないと言った」

 龍麻の声に熱が篭っていく。

記憶を辿るのは無上の喜びを伴っていて、雹の息遣いまでもが忠実に再現されていた。

「元々雹は、昔の知り合いに俺の顔が似ていて、それを確かめに来たそうだ。

知り合いの名前は緋勇龍斗……俺の先祖らしいけど、この名前に聞き覚えはあるか。

話では、あんたと仲が良かったらしいが」

 この晩、初めての龍麻からの問いに、九角は即答しなかった。

外で鳴いていた松虫が静かになるほどの間を置いてから返ってきた答えは、

龍麻の予想とは異なっていた。

「いや……ないな。澳継、お前はどうだ」

「いえ、俺もありません」

 龍麻は困惑した。

先祖がここに居れば、話の信憑性が増すと思っていたからだ。

だがこれでは逆に、全てが嘘と判断されてしまう可能性が出てきてしまった。

嫌な汗が背中に滲んだが、龍麻はとにかく全て話してしまうことにした。

「それで、雹は帰ろうとしたんだけど、俺は引き留めて、その……」

 言いよどむ龍麻に、九角は何事か察したようだが、澳継が苛立ちも露に言った。

「なんだよ、女々しい野郎だな、さっさと話せよ」

「契りを交わしたんだ」

「なッ……!」

 絶句する澳継に、龍麻は小さな快感を覚える。

ただしそれも一時のことで、烈火のような反撃が彼から返ってきた。

「馬鹿も休み休み言いやがれ、この野郎ッ! 手前ェと雹は敵同士なんだろ、

それがなんでそんな話になるんだこの馬鹿ッ! だいたい雹はそんな女じゃねぇぞ、

出鱈目抜かすのも大概にしやがれッ!」

 澳継の指摘はもっともであり、龍麻は反論できない。

だが沈黙は肯定と同義ではなく、何と言われようと、彼女との逢瀬は確かにあったのだ。

ぐっと息を吸い、彼女との記憶の最後の部分を龍麻は告げた。

「契った後、彼女は消えた。なんでも、摩尼に封じられていたのは彼女の陰氣で、

俺の陽氣と交わると太極になって消えてしまう……消える直前に、そう教えてくれた」

「……」

「二ヶ月くらい前のことだ。俺はどうしても雹のことが忘れられなくて、ある場所に行った。

そこは氣が満ちていて、化け物なんかもいる、龍穴っていうらしい。

化け物を倒して気張らしをしようとしたんだけど、地下に居るときに地震があって、

戻ってきたら地上はこの時代になっていた」

 九角は腕を組んだまま動かない。澳継も今度は黙したまま、彼の主の反応をうかがっていた。

「出てきた穴のそばに寺があって、そこの連中に世話になった。この服もそうだ。

俺はずっと雹を捜していたんだけど、今日内藤新宿を歩いていたら、

この……澳継って言うんだっけ? こいつがたまたま雹って言ったのが聞こえたから、

もう居ても立ってもいられずに追いかけたんだ」

 全てを話し終えた龍麻は、深く頭を下げた。

「だから頼む、雹に会わせてくれ。俺はあんた達が疑っているような、

何かを探りに来た人間じゃないし、ここから一生出さないというならそれでもいい。

ただ、雹にさえ会わせてくれれば、それだけでいいんだ」

 長い沈黙が流れる。

その間、龍麻は頭を下げたままだった。

そうすれば誠意が伝わるなどと思ったわけではない。

ただ、ここまできて、できることを全てしないまま雹に会えないという後悔だけはしたくなかった。

 やがて龍麻の頭上に、九角の声が降りてくる。

「緋勇、と言ったな。お前の話、中々に興味深かったが、鵜呑みにするわけにはいかん。

百三十年後の世から来たというのなら、何か証明できるものはないのか」

「ある……けど、今は持っていない。世話になった寺に置いてきてあるんだ。

どのみち取りに行かなけりゃならないから、明日取ってくるよ」

「余所者にこの村をそんな簡単に出入りされちゃ困るんだよ」

 口を挟んだ澳継を見やった九角が言った。

「ならば澳継、明日お前が緋勇に同行しろ」

「なッ、なんで俺が」

「もし緋勇が密偵だった場合、お前でなければ止められないだろう」

 むむ、と唸った澳継は、龍麻に指を突きつけた。

「仕様がねえ、明日は俺がついて行ってやる。けど少しでも変な素振りを見せやがったら、

容赦なく殺してやるからな」

 京梧もそうだが、江戸時代の人間というのは血の気が多めなのだろうか。

龍麻は感想を口にしたりはせず、神妙にうなずいた。

「ああ、よろしく、澳継」

「人の名前を気安く呼ぶんじゃねェッ」

「じゃあ、何て呼べばいい」

「知るかッ、勝手にしろ」

「じゃあ澳継にするよ」

「手前ェ……!」

 不毛な問答に九角が笑みをこらえている。

それに気がついて、龍麻も笑いそうになった。

ひとり澳継だけが、いつまでも龍麻を睨みつけていた。

 

 翌日、内藤新宿に戻ってきた二人は歩調を変えぬまま寺へと赴いた。

言葉は交わさず、目も合わせず、他人を装って歩く。

やがて街道を外れて人気がなくなり、代わりに木々が目立つようになる。

寺の近くまで来たところで龍麻が藪に入ると、澳継もついてきた。

「あの寺に俺の荷物が置いてある」

「さっさと取ってこいよ」

「そうするつもりだ。でも、中に人が居るかも知れない。見つかったらちょっとまずいんだ」

 荷物をどこか別の場所に移されていなければいいが、と願いつつ、龍麻は入り口を観察する。

二ヶ月間、百合はほとんど寺にいなかったから、今日もおそらくいないだろう。

京梧は半々といったところで、問題は醍醐だ。

彼は居るときの方が多く、見つかれば適当に言いくるめるのも性格からいって難しいだろう。

「ああッ!? 昨日まであそこに居たんだろ。何がまずいんだよ」

「あそこに居る人間は俺の事情を知ってる。江戸の街に知り合いなんていないのもな。

だから見つかれば昨日どこで泊まったか説明しないといけない」

「手前ェ、そんなこと喋りやがったら」

「喋るわけないだろ。だから見つかりたくないんだよ」

「じゃあどうするんだよ」

 龍麻にも名案があるわけではない。

結局このまま藪から寺に近づき、様子を見て一気に取ってくるという方法を取るしかなかった。

「お前はここで待っててくれ」

「裏切るんじゃねェだろうな」

 さすがに龍麻は澳継を睨んだが、口に出してはこう言った。

「雹に会えなくなるようなことはしない」

 そこまで女に執着するのが全く理解できない、とばかりに澳継は眼を細めた。

 自分も雹に会うまではそんな感じだったと龍麻は内心で思いつつ、

口にしたのは事務的な挨拶だった。

「それじゃ、行ってくる」

「おい」

 まだ何か言い足りないのか、と龍麻は若干うんざりしながら澳継を見た。

「下手打つんじゃねェぞ。手前ェが下手打ったら俺はすぐに逃げるからな」

「気をつけるよ」

 励まされたのかどうか、判断のつかないまま龍麻は移動を始めた。

 藪に身を伏せ、大きく寺の裏へと回りこむ。

龍穴を右手に見ながら、本堂を横切り、デイパックが置いてある庫裏へと向かった。

藪が途切れたところで一回、深呼吸をして素早く庫裏に入る。

幸いなことにデイパックは昨日のまま置いてあり、Tシャツとジーンズも傍らにあった。

服を手早くデイパックに詰め、もう一度裏を回って澳継のところに戻ろうとする。

 だが、庫裏を出たところで、醍醐とばったり出くわしてしまった。

「どこへ行くつもりだ、緋勇。昨日は帰ってこなかったが」

 醍醐の声には韜晦を許さない厳しさがある。

龍麻は観念し、彼に向き直った。

「行かなきゃいけない場所へだ」

「禅問答のようだな。だが、はいそうですかと通すわけにはいかん。

お前は時諏佐先生の世話になっているのだからな。

義理を欠いたお前の行動は、許すことができないものだ」

「お前や京梧、それに百合さんには大きな恩がある……それでも、俺は行かなきゃならない。

俺がそこへ行くのが、この時代にやって来た目的だからだ」

 実際、どう言い繕おうと、こんなやり方で出て行くのは裏切りに他ならない。

特に百合は、単に怪しい男に過ぎない自分に衣食住と仕事まで世話してくれたのだから、

醍醐が怒るのも当然だった。

謝って済むのなら幾らでも謝るつもりだ。

だが、醍醐は悪鬼に対しては折伏しゃくぶくする菩薩ではなく、力を持って打ち倒す明王の相を持っている。

その形相が今、彼の顔に浮かんでいた。

「何のことだかわからんが、決心は変わらないようだな。ならば、俺も全力でお前を止めよう」

 醍醐は両手の指を複雑な形に組み合わせ、朗々と唱えた。

「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・ハッタ」

 醍醐が唱えたのは、密教で用いられる真言と呼ばれるものだ。

仏に直接願う、力を持った言葉は、厳しい修行を積んだ密教僧が発することで

諸仏の強力な霊験を得られるという。

醍醐はまさに日本に密教を伝えた高僧、弘法大師空海がおわす高野山で修行を積んだ、

熟達の密教僧なのだ。

 龍麻の身体が急激に重くなる。

東京では様々な『力』を持った敵と戦ってきた龍麻だが、このような攻撃は初めて受けた。

己の氣を駆使して術を解こうとするが、氣とは理が異なるために解くことができない。

 龍麻が苦闘している間に醍醐は新たな真言を唱える。

「オン・マユラ・キランディ・ソワカ」

 龍麻の目の前で、醍醐の肉体が一回りも大きくなっていく。

それは錯覚だったとしても、突進してきた醍醐が腹に見舞った一撃は、

胃液を吐くほどの強烈なものだった。

「ぐはッ……!」

「すまんが、しばらく動けなくさせてもらうぞ」

 地に膝をついた龍麻に、醍醐が組んだ両拳を振りあげる。

岩ほどもある拳が、まさに頭に振りおろされた瞬間、龍麻の全身からまばゆい光が放たれた。

「むッ……!?」

 予期せぬ攻撃に目をやられた醍醐がとっさに後退する。

その隙に自由を回復した龍麻は立ちあがり、デイパックにぶら下げていた籠手を装着した。

「それが氣と言う奴か」

「黙って行かせてくれるつもりはないんだな」

「俺は生臭坊主でな。修行も好きだが、それ以上に肉体をぶつけ合える相手を見つけると、

どうしても闘ってみたくなってしまうのさ」

 打ち鳴らした醍醐の掌が、雷鳴の如き音を放った。

 こうなった以上醍醐を倒すしかない。

血の混じった唾を地面に吐いた龍麻は、息を深く吸って氣を練り始めた。

腹に激痛が走ったが、構わずチャクラを意識する。

吸いこんだ空気以上のものが、身体に七つあるチャクラを目覚めさせる。

ムーラダーラからサハスラーラへ、チャクラを通ることで増幅されていく氣は、

猛き龍の如き激しさで龍麻の肉体を巡り、賦活化させていった。

「はァァァッッ……!!」

 龍麻が放った咆吼が木々を震わせ、大地を揺らす。

だが震えたのは周辺だけで、中心に立つ醍醐は全く臆していなかった。

鍛えた肉体と諸仏の力に瑕疵などあるはずもないとばかりに、再び突進し、拳を振るった。

 豪腕が唸りを上げて空を切る。

身を沈めた龍麻の頭があった場所を薙いだ拳に、醍醐の体勢がわずかに崩れた。

 屈むと同時に力をたわめた龍麻は、低い姿勢のまま醍醐に肉薄する。

踏みだし、掌が醍醐に触れた瞬間に大地と肉体を連結させ、一気に氣を解放した。

「ぐぉぉォォッ……!」

 巨体が傾ぎ、たたらを踏む。

龍麻の一撃は確かに醍醐を捉えたが、打ち倒すまではいかなかった。

それどころか手痛い打撃を与えたはずなのに、すぐに反撃に転じてきた。

「ナウマク・サマンダ・ボダナン・インダラヤ・ソワカ」

 真言が、醍醐の巨躯を持ってしても届かない位置にいる龍麻を捕まえる。

不可視の両腕に身体を持ちあげられた龍麻は、

醍醐の頭上よりも高い場所から一気に投げ飛ばされた。

「がッ……!」

 背中からまともに落ちた龍麻は、息もできない。

諸仏の力を借りて闘う醍醐と異なり、自身の生命力を活用して闘う龍麻にとって、

呼吸ができなくなるのは致命的だった。

全身の力を振り絞って立ちあがり、必死で呼吸を整える。

 しかし、回復する時間を醍醐が与えてくれるはずもなく、

肉迫した醍醐にたやすく捕らえられてしまった。

「ぐぅぅッッ……!」

 丸太のような腕に胴を締められ、龍麻は悶絶する。

仰いだ空の美しさに、このまま気を失っても構わないとの諦めがよぎった。

 だが。

 空の青さは、同時に雹の青さでもあった。

濃い忍装束を着た彼女を、消滅すると知って自分を受けいれてくれた彼女を、

諦めることなどできない。

叶わぬ夢だった時の大河を飛び越え、龍麻は雹のいる時代に来た。

そして雹にもう少しで手の届く場所まで近づいたのだ。

ここまで来て諦めなどしたら、未来永劫後悔し続ける。

「うぉぉぉォッ!!」

 龍麻は吼えた。

身体の中心に氣を溜め、練った氣の全てを全身から放出した。

「むぅッ」

 大木をもへし折る腕が、弾けとぶ。

自身も吹き飛ばされた醍醐は、龍麻の氣の凄まじさに驚いていた。

このような力を持つ者を自由にさせておいては、どのような脅威となるか知れたものではない。

彼の境遇には同情するが、ひとたび幕府の禄を食んだ以上、

上意には従ってもらわなければならない。

 真言を唱えようとした醍醐は、突進してくる龍麻に間に合わないと判断し、

拳を持って迎え撃つことにした。

それも鍛えた肉体を誇りとする醍醐らしく、龍麻の一撃をあえて受け、

動きの止まった彼に反撃を加えるという、必殺の戦法だ。

高野山に入る前は荒くれ者として名高かった歴戦の勇士は、

先の胴締めの時は例外として、龍麻の氣は掌からしか放てないようだと見切っている。

威力も先に一度受けて見当がついており、耐えられるという確信があった。

 間合いに龍麻が踏みこんでくる。

醍醐は急所をわざと晒し、代わりに龍麻の襟首に腕を伸ばした。

掌底を受けつつ彼の身体を持ちあげ、脳天からたたき落とす。

 脳裏に描いていた必勝は、だが、実現しなかった。

襟首を掴んだ刹那、腹部に衝撃が満ちる。

これを耐え抜き、さらに腹に力を入れようとしたとき、

腹から背中へ、凄まじい衝撃が徹り抜けた。

「グ、オオ……!」

 それでも容易に倒れなかったのは、いかに醍醐の肉体が鍛えあげられていたかという証左だった。

 龍麻の襟首を掴んだまま、醍醐の動きが止まる。

全身の筋肉が盛りあがった姿は明王さながらであったが、

やがて肉体から力が失われていき、ついにはどう、という轟音と共に地面に伏した。

 強敵を倒した龍麻も、しばらくは身動きもままならない。

醍醐の傍らで激しい息を吐きながら警戒していた龍麻は、

やがて彼が動かないのを確かめると、デイパックを回収して寺を去った。

澳継のいる藪に戻らなかったのは万が一醍醐が見ている可能性を考えてのことで、

寺が見えなくなって少しすると、龍麻は木陰に倒れるように座った。

ほどなく明らかに醍醐のものではない、軽快な足音が近づいてくる。

「おいッ、あいつは龍閃組の奴じゃねェかッ!」

「ああ……そうだったのか。でも、これで密偵じゃないってのを信じてくれるだろ」

 龍麻は土埃にまみれ、あちこちに痣もできている。

生死を賭けるとまではいかなくても、その一歩手前あたりまでは近づいたであろう

闘いは、演技でできるものではなかった。

 澳継も不承不承ではありながらもそれは認めたようだった。

「……今のところはな。大分時間を食っちまった、早く帰ろうぜ」

「もう少し休ませてくれよ。それか肩を貸してくれ」

 こんな汗まみれの男に肩など誰だって貸したくないはずだ。

休みたくて龍麻はそう言ったのだが、澳継は龍麻の脇に肩を入れ、

意外な膂力の強さで立ちあがった。

「くそッ、重いんだよ手前ェ」

「あぁ、楽だ……少し寝ていいか?」

「ふざけたこと言ってんじゃねェッ! 内藤新宿に入るまでだ、そこから先は一人で歩きやがれ」

「内藤新宿から先も頼む」

「手前ェ、余裕あるんだったら一人で歩かせるぞッ」

 一方は小声で、一方は大声でやり取りをしながら、二人は仲睦まじく歩いていった。

 

 二人が九角の元に戻ってきたのは、日が沈みかけた頃だった。

澳継は最短ルートで帰ろうとしたのだが、龍麻に町人の視線が集中したので、

なるべく人の少ない道を大回りする羽目になったのだ。

「ただいま戻りました」

「御苦労」

 澳継をねぎらった九角は、酷い格好の龍麻を見て、可笑しげに口元を緩める。

腹を立てる余裕もない龍麻は、自分の手荷物を九角に示し、

デイパックから懐中電灯を取りだした。

銀色をした筒状の道具を、九角がしげしげと眺める。

「これは何だ?」

「そこの所を押してみてくれ」

「御屋形様ッ、焙烙玉かもしれません」

 澳継が叫ぶより早く九角はスイッチを押した。

人工の光が九角の顔を照らし、さしもの鬼道衆首領も驚いて光を眺めた。

「ほう……!」

「お、御屋形様」

 心配する澳継をよそに、九角は何度かスイッチを押切し、

さらには部屋のあちこちを照らしたりしてすっかり気に入っている。

この分なら未来から来たというのも信じてもらえそうだと安心しかけた龍麻だったが、

さすがにそれは考えが甘かった。

「誰か」

「はッ」

 九角が澳継ではない襖の向こうに呼びかけると、すぐに声が応じる。

「嵐王を呼んでこい」

「はッ、ただちに」

 早足の足音が消えると、九角は再び龍麻に向き直った。

「他には何か持っていないのか」

「他に……えっと」

 龍麻はデイパックの中身を全て出してみせた。

Tシャツにジーンズ、靴、他には応急手当セットにメモ帳と鉛筆くらいだ。

こうなると判っていたらもう少し良いものを入れておいただろうが、

嘆いても仕方のないことだ。

むしろ懐中電灯があっただけでも上出来で、一九九八年では数百円で買えるこの道具がなければ、

龍麻の境遇を納得させるのは遥かに困難だっただろう。

 それでも、鉛筆とメモ帳は江戸時代にはないもので、筆を使わずに文字が書けると知ると、

九角は大層興味を示した。

「なかなか便利ではないか。外側は木のようだが、中の黒い部分は何だ」

「えっと、鉛……かな?」

 懐中電灯ならまだしも、鉛筆のような単純な製品でさえ作り方となるとまるで知らず、

龍麻は赤面するほかない。

まともに答えられない龍麻に九角は失望したようで、

気まずい沈黙が漂ったが、ほどなく静寂は外側から破られた。

「嵐王、御呼びにより参上いたしました」

「来たか。入れ」

 襖が開き、男が姿を現す。

彼の姿を見て、龍麻は驚きのあまり言葉を失ってしまった。

男の目には空洞だけがあり、鼻は鳥のくちばしのように長く尖り、下方へと垂れていたからだ。

それが面であることはすぐに気づいたが、鼻までを覆う面の他にも、

顔の下半分から上半身までは茶色の服に身を包んでいて、顔は全く見えない。

雹も――水角も、般若の面を被っていたが、

九角と澳継が素顔だったために失念していたのだ。

 仮面の男は龍麻に一瞥をくれ、九角の横に座る。

「これを見てみろ」

 九角から受けとった懐中電灯を、嵐王は観察しはじめた。

九角は何も説明しなかったが、ほどなくスイッチを探し当て、光を点した。

「どうだ、仕組みは解るか」

「南蛮のからくりのようですが……調べさせていただけますか」

「構わぬ。それから、これもだ。いいな?」

 嵐王に鉛筆を渡した九角の台詞の後半は、龍麻に向けてである。

龍麻がうなずくと、嵐王はすぐに立ちあがり、暇を告げて去った。

「あれは色々作りだすのが好きな奴でな。南蛮の技術にも通じているゆえ、

お前が嘘をついているかどうか明日にも判るだろう。澳継、緋勇を寝所に連れて行ってやれ」

 九角の好意はありがたかった。

話の途中から、闘いの疲労が限界に達していたのだ。

龍麻はふらふらと立ちあがったが、身体を支えきれず、澳継によりかかってしまう。

「くそッ、手前ェ、しっかりしやがれ……! あッ、寝るなこの野郎ッ、重いんだよッ……!」

 右に左にふらつきながら部屋を出て行く二人を、九角が眺めている。

彼の裃かみしもがかろうじて判別できる程度に小さく揺れていたのを、

この屋敷に多くいる彼の配下の者は誰も気づかなかった。

 

 翌日、明け六つ。

一九九八年十一月の新宿ではおおよそ朝六時に当たる時間は、新宿が不夜の街といっても、

そこに暮らす人々は当然不夜ではなく、半数以上が眠りについている。

緋勇龍麻も例外ではなく、彼が通常目覚めるのはあと一時間半ほど経ってからで、

一人暮らしなのをいいことに起床と食事と着替えを一度に済ませるだらしのなさだった。

この日も龍麻はまだ目覚める気配もなく、安眠を貪っている。

「やい、いつまで寝てやがる、さっさと起きろッ!!」

 しかし、至福の時間は鶏なみにけたたましい声によって破られてしまった。

「んん……まだ早いだろ……」

 薄目を開けて外を見やってまだ暗いことを確かめると、

起こしに来た相手の方など目もくれず布団を被りなおす。

すぐに夢の世界に旅立った龍麻に、試練が襲いかかったのは次の瞬間だった。

「手前ェッ、俺が起こしに来てやったのにいい度胸じゃねェかッ!」

 布団がはぎ取られ、寒風が直撃する。

急激に下がった体感温度に龍麻は身体を縮め、無意識に腕を伸ばして布団を奪回した。

「こッの野郎……!!」

 襲撃者が再び布団をはぎ取ろうとする。

今度は龍麻も応戦し、布団の中で向きを変えると、布団ごと襲撃者を蹴った。

布団をはぎ取ろうとしたタイミングと重なって、あっけなく襲撃者は尻餅をつく。

三度布団を被った龍麻に、ついに襲撃者は爆発した。

「やりやがったな、ぶッ殺してやるッ!」

 跳躍し、布団の中央めがけて肘を落とす。

わき腹を狙った攻撃は、わずかに逸れて龍麻の腰に命中した。

「……!」

 まだ八割ほどは夢の世界に身体を置いてきていた龍麻も、さすがに目を覚ます。

ここがどこか、相手が誰かを考えるより先に手足が動き、布団ごと襲撃者を投げ飛ばしていた。

「人が気持ち良く寝てるのに何しやがる! ……あれ?」

 周りを見渡して自分の家でも寺の庫裏でもないことに気づき、ようやく龍麻は完全に起きた。

目の前で布団が暴れ、襲撃者が顔を出す。

「なんだ、澳継か。おはよう」

「……手ッ前ェ……!!」

 頭から湯気を噴きあげた澳継が殴りかかってくる。

龍麻がこれを避けたところで、がらりと襖が開いた。

「朝から騒々しいな、何をやっている」

「お、御屋形様……」

 当主自らのお出ましに恐縮する澳継に、龍麻もならって頭を下げる。

だが、当主は屋敷で騒ぐ二人を叱責するどころか、明らかに笑うのをこらえている様子だった。

 九角が笑うのも当然で、龍麻も澳継も着物ははだけ、髪は乱れ、布団は酷いことになっている。

そろそろ秋も深まろうかという時節に元気なことだ、と九角が思った途端、

龍麻がくしゃみをした。

「あッ、手前ェ、唾飛ばしやがったなッ」

 龍麻に掴みかかろうとする澳継を、九角は制する。

これ以上二人の児戯を見ていると、当主としての威厳が保てなくなるような気がしたのだ。

「止せ、澳継。緋勇もだ。嵐王が来て欲しいと言っている」

 九角は龍麻と、当然のようについてくる澳継を率いて、嵐王の待つ部屋へと向かった。

 嵐王の小屋は九角の屋敷を出て少し歩いたところにあった。

「その嵐王って人は、一晩中調べていたのか?」

「うむ。からくりに目がない男でな。一度興味を持つと飯を食うのも忘れてしまうと言っていた」

 それにしても、彼につきあって早朝から出向くなど、

九角は当主として信じられない腰の軽さだ。

京梧達が言っている江戸を騒がせる集団の主という立場からはずいぶん異なる実像を、

龍麻は長身赤髪の男に見た。

「嵐王、入るぞ」

「お待ちしておりました」

 嵐王を含めて四人が入ると、小屋はかなり手狭になる。

だが九角は気にした風もなく、部下の調査報告を促した。

「お主、これをどこで手に入れた?」

 嵐王は前置きもなしに龍麻に訊ねた。

 彼の顔を正面から見るのにはまだ抵抗がある龍麻は、やや目を逸らして答えた。

「どこっていうか、俺は未来から来たんだ。百三十年くらい後の時代から」

「なるほどな、それで得心がいったわ。若、この者が持っていた道具、

悔しき事ながら、原理も材料も儂にはわかりませぬ」

「ほう……」

「こちらの道具の方は判りました。石墨と粘土を練り合わせたもので、

作ることも可能と思われます。この白い紙の方はわかりませぬ。お主は知らぬのか」

 龍麻が頷くと、嵐王は残念そうに首を振った。

「試しに使わせてもらったが、文字を書くのがとても簡単だったわ。

これがあれば墨を一々擦る必要もないからな」

「それほどか」

「御意。その男が何者か存じませぬが、未来から来たというのも嘘とは思えませぬ。

できればその者ともう少し話をしてみたく思いまする」

 嵐王のお墨付きに九角は何事か考えたが、長い時間のことではなかった。

「ふむ……いいだろう。だが、俺自身、少し話を聞いてみたくなった。

それからでいいか」

「若の御意のままに」

 懐中電灯をもう少し調べたいという嵐王を残して、三人は九角の屋敷へと戻った。

朝餉を共に取るよう命じられ、龍麻はそのまま九角の部屋に行く。

「御屋形様、俺も御一緒させてくださいッ」

「構わんが、澳継は緋勇が気に入ったのか」

 龍麻はぎょっとして九角を見たが、本気か冗談か今ひとつ判然としない。

「そッ、そんなんじゃありませんッ、こんな怪しい奴と御屋形様を二人にしておけないだけです」

 また澳継がやたらムキになるものだから、龍麻は思わず彼を蹴りそうになった。

「やい手前ェッ、御屋形様に取り入ろうとしたって無駄だぞ、

御屋形様の右腕はこの風祭澳継様なんだからなッ!」

「別に、俺はへそでいいよ」

 澳継がからかわれている、と気がついたのは当事者でなく九角の方で、

鬼道衆の当主は未来から来たという奇妙な男が現れてから、

隠すのに苦労している感情を抑えつつ言った。

「生憎俺にへそはない。鬼だからな」

「えッ……!」

 驚いているのは澳継一人で、冗談と悟った龍麻は九角と視線を交わす。

「御屋形様がまさか鬼だったなんて……けど、俺の忠誠は変わったりしませんからッ」

 澳継の叫び声は、目覚め始めた森に吸いこまれていった。

 

 朝餉を済ませた龍麻は、そのまま九角の部屋に居た。

澳継も当然の顔をして居座っていて、事あるごとに龍麻を睨んでくる。

正直言って面倒くさくなりかけている龍麻は、彼に構わず九角一人に相手を絞って話を始めた。

「まずは……そうだな、百三十年後にも鬼道衆は活動していると聞いた。

幕府は良くなってはいないということか?」

 彼が率いる鬼道衆はそれほど大きな組織ではなさそうだが、

それでも長ともなるとさすがに視点が違う。

龍麻は居住まいを正し、彼に歴史を告げた。

「数ヶ月前に徳川家茂公が死んだというのは知っているか」

「うむ」

「彼は初代家康公から数えて十四代目の将軍だった。

そして、次の十五代将軍で江戸幕府は滅びる」

「なッ……!」

 驚いたのは澳継で、九角はわずかに袂を揺らしたのみだった。

敵対しているとはいえこの時代の人間にとって徳川幕府が消滅するというのは

天地がひっくり返るような受けいれがたい事態なはずで、龍麻は幾分意地悪をする気になった。

「驚かないのか?」

「……そうだな、もはや幕府の命脈は尽きたと思ってはいた。

滅びがそれほど早いとは思っていなかったが」

 九角によれば、家茂がこの内憂外患の時期に死去した、

それ自体が幕府の弱体化を示すものだという。

加えてその後の混乱ぶりは、あえて乗じようという気もなくなるくらいの醜態だと九角は語った。

「故に俺達は活動を手控えた。幕府をこの手で滅ぼしてやりたいという恨みは

いささかも薄れることがないが、今少し様子を見ようという判断だ。

それに、妙な事象も起こっていてな」

「妙な事象?」

「いや……そちらは後にしよう。まずはお前の話だ。幕府が滅びて、その後はどうなる」

 理性的な九角の態度に、龍麻は思った。

彼が鬼道衆という組織を率い、江戸を襲っているのには、相当な理由があるに違いないと。

「その後は、政府ができる。時代が江戸から明治に変わって、国内での争いも続くが、

それより国外との争いが始まるんだ。世界も大きな混乱の時代に突入して、

日本も巻きこまれていく。それに片がつく……日本が酷くやられるんだけど、

片がついて、一応平和と言える状態になるのが、だいたい九十年後かな」

「政府というのも民を虐げるのか」

「一応、四民平等っていって、士農工商の制度はなくなって、誰でも好きな相手と結婚できるし、

好きな仕事を選べるようにはなる」

 だが、虐げられる人々がいなくなることはない。

言外のニュアンスを九角も感じとったようで、彼がひそめた眉は容易には戻らなかった。

「百年経とうが、人は争い続けるのか」

「……ああ」

 二度の大戦で数千万に及ぶ同胞を、人間は自らの殺し合いで失う。

むろん龍麻に直接関わりがあった事実ではないが、

人間の愚かさというものに思いを致さずにはいられなかった。

 黙った二人に代わって、澳継が口を開く。

「それで、お前はその時代で何をやってるんだよ」

「何って、学生だよ。学校に行って勉強するのが仕事だな」

「はあッ!? 勉強!?」

 意味が分からない、と澳継は頭を抱える。

「俺達の時代、日本は少なくても十五歳までは男も女も勉強するんだよ」

「馬鹿じゃねェか、そんなに勉強してどうしようってんだよ」

「どうもこうも、勉強しないと仕事に就けないんだって」

「なんて嫌な国になっちまうんだ……」

 呆然とする澳継に龍麻と九角は失笑をこらえる。

失笑で口の中をゆすぎつつ、九角が訊ねた。

「そういえば、お前は何歳だ」

「十八歳。九角は俺よりも年上に見えるけど」

「ああ、俺は二十一だ」

 二人は気づいていないが、龍麻は満年齢で話しており、九角は数えで話していて、

つまり実際には二人の年齢差は二ということになる。

実際の年齢差以上に風格が違って見えるのは、やはり生きる環境の差だろう。

 年齢について語った二人は、期せずしてもう一人を見た。

「お前は何歳だよ。俺より年上には見えないけど」

「じ、じゅう……はちだよ俺も」

「嘘つけ、十六より上には見えないぞ」

「てッ、手前ェッ、ちっとばかし年上だからって何だってんだ、

御屋形様への忠義は俺の方が厚いんだからなッ!」

 九角の前で殴りかかるのはさすがに自制しているが、澳継は本気で怒っている。

少しやり過ぎたかもしれないと龍麻は反省し、あとで謝っておこうと思った。

「聞きたい話はまだあるが、先にお前の望みを叶えてやろう」

 話が一段落つくと、九角は部下を呼んだ。

「雹を呼んできてくれ」

「え……」

 そのためにここにいるのにも関わらず、龍麻は耳を疑った。

「何だ、会いたくはないのか」

「い、いや……そんなことは」

 服は着替えた方がいいだろうか。

顔は洗った方がいいだろうか。髪は。

最初に何と声をかければいいか。

一度に幾つもの考えが巡りはじめ、龍麻は自失する。

 あたふたと手を動かし、その全てがまったく意味のない動作になっている龍麻を見て、

九角が言った。

「澳継は席を外せ」

「えッ……でも」

「大丈夫だ。見ろ、今のこいつに何ができるとも思えぬ」

 本当なら九角自身も男女の逢瀬に立ちいりたくなどないのだが、

鬼道衆というよりも、この村の長としてそういうわけにもいかないのだ。

 それに、この狼狽ぶりでは雹に会ったところで袖にされるのが落ちだ。

誰かが手伝ってやる必要があるだろう。

やたらと髪を撫でつけようとして失敗している龍麻を含み笑いで見やりながら、

九角は雹が来るのを待った。

 十五分ほどが過ぎたころ、九角が呼んだ人物が姿を現した。

「雹にございます、御屋形様」

「入れ」

 開く襖を、龍麻は息も忘れて見つめていた。

とうとう彼女に会えた。

加速する鼓動は痛いほどで、数十センチの襖が開くのがあと数秒遅かったなら、

倒れていたかもしれなかった。

「雹……!」

 万感の想いが龍麻の声を震わせていた。

涙まで零れそうになるのをこらえ、百年以上の時を超えて再会した想い女に目を凝らした。

 雹は一人ではなく、同行者がいた。

明らかに女性ではない体格の人物に、数百分の一秒、龍麻の胸に嫉妬の電流が流れる。

だが、すぐにその人物は男性どころか人間ではないことが判明した。

 人の姿をした、巨大な人形。

どのような原理かは解らないが、木製の大きな動く人形の、腕に雹は乗っていた。

 肩まで伸びた濡れるような髪は、額で綺麗に切りそろえられている。

鋭く切れあがった目に、牡丹の色をした唇。

間違いようもない、龍麻が想った雹その人だった。

 限界を超えてわずかに伝った涙を龍麻は拭おうともしない。

九角や澳継がいなければ、この場で抱きついていたかもしれなかった。

 激情を露にする龍麻と対照的に、雹は氷結寸前の冷たさを醸していた。

主君である九角に挨拶した時だけは幾分和らぐが、

龍麻に向ける眼光は、皮膚を切り裂く刃のごとしだった。

「御屋形様、この者は」

「知らぬか」

「はい」

「お前に会わせろの一点張りでな、見るからに怪しい奴だが澳継が苦戦する程度には腕が立つ。

話を聞いたところ幕府の密偵ではなさそうだが、本当に知らない奴なのだな?」

「見たこともございませぬ」

 冷酷極まる雹の返答に、むしろ九角は興味をそそられたように龍麻を見た。

「雹はああ言っているが」

「……この雹は、俺のことを知らないと思う」

 百三十年の時を超えて巡りあえた感動は、そのまま同量の重りとなっている。

龍麻は自分のうかつさを呪わずにいられなかった。

 龍麻と雹が出会ったのは現代なのだから、過去の彼女が未来の記憶を有しているはずがないし、

そもそも、水角という名の敵だったあの雹は、

恨みの念、陰氣を利用されて摩尼に封じられていたのを、

外法によって仮初めの肉体を得たに過ぎない存在であり、

目の前にいる少女とは同一人物と言って良いかさえ怪しいのだ。

彼女の居る時代にタイムスリップしたというのが、

あまりに自分にとって都合の良い展開だったため、

龍麻は雹と逢いさえすればなんとかなると信じ、それ以外の可能性を全く考慮しなかったのだ。

 頂上まであと一歩というところから麓にまで転げおちたような龍麻に目もくれず、

雹は主に対して容赦のない視線を向けた。

「おそれながら、御屋形様はこのような、どこの者とも知れぬ

人間の戯れ言をお信じになられたのですか」

「不思議な道具を持っていてな、嵐王に見せたがこの時代の道具ではないと言った」

 嵐王という人間はこの集団において一定の信用を得ているらしく、

雹は小さく鼻を鳴らしたものの、それ以上の疑いを口にはしなかった。

ただし龍麻を見る眼差しは限りなく敵に対するそれで、およそ友好的とはいいがたい。

 一方は消沈して、一方は冷徹なまま、黙りこくった二人に、九角が提案した。

「で、どうする、緋勇。人の恋路に口を出すなど野暮はしたくないが、

お前には事情があるからな。元の時代に帰ることはできないのか」

 九角の声に龍麻は我に返った。

考えるより早く決意が口を衝いた。

「俺を、ここに置いてもらえませんか」

「ほう……鬼の仲間になるというのか?」

「江戸の人々を苦しめるのは、やりたくない。でも、今は騒ぎを起こしていないという話だから」

「ならば、人手も必要ないということになるな」

 九角の指摘は正鵠を射ていて、龍麻はうつむいてしまった。

その龍麻を見て、雹が勝ち誇った顔をする。

その雹を見た九角が、静かに告げた。

「好きにするがいい。部屋も幾つかは空いていたはずだ」

「御屋形様!」

「嵐王がこの者と話をしたいと言っていてな、約束してしまったのだ」

「ですが」

「狼藉を働こうとしたらすぐに斬る。それでは不満か」

 不満であるのがありありと顔に出ていたが、当主に逆らうのは良しとしないのだろう。

雹は目を細めると慇懃に頭を下げた。

「御意。用件が以上でしたら、退がってよろしいでしょうか。

ガンリュウの手入れもせねばならぬゆえ」

「ああ、御苦労だった」

 微かなきしみ音を発して向きを変えたガンリュウに乗った雹は、

全くふり返ることなく去っていった。

 雹が完全に立ち去ってから、龍麻が顔を上げる。

「ありがとうございます……御屋形様」

 龍麻としては最大限の謝意を伝えたつもりだったが、九角はいきなり笑いだした。

「お前はまだ鬼道衆には入っていないのだからな、九角でいい。

慣れぬ言い方をして舌を噛まれても困るからな」

 笑いを収めた九角は、声を低めて言った。

「実は、少し調べて欲しいことがあってな」

 そう前置きして、九角は語り始めた。

「以前俺達が江戸に騒ぎを起こしていたのは確かだ。

だが、俺達が関係していない騒ぎが春頃から起き始めた。

俺は断じて命令を下していないし、部下達も知らぬと言っている。

ただの騒ぎなら構わぬが、奴等は俺達の名を騙っていた」

 龍麻は黙って話を聞いていた。

鬼道衆の長の言うことに耳を傾けるというのは奇妙な気分ではあるが、

九角の話し方は整然としており、声にも統率力が感じられる。

「考えられるのは、単純に罪を俺達に押しつけて自分たちは逃れたいからか、

あるいは鬼道衆の悪名を高めることで幕府に俺達を潰させようとするかだ。

どちらにしても放ってはおけないのでな」

「俺が龍閃組に居たというのは?」

「ああ、澳継に聞いている」

「彼らに素性を話したとき、彼らの長に――女性でしたが、

鬼道衆について調べて欲しいと言われました。

といっても、街を歩き回って噂話を拾う程度のことですが」

「うむ、それで」

「その時に、『今は奴等もおとなしくしているから、こちらも人数を減らしている』と。

龍閃組がどんな組織なのか知りませんが、潰そうとする動きは無いようにも思います。

それに、俺が内藤新宿に出ていた二ヶ月ほど、確かに鬼道衆の噂は聞きませんでした」

「なるほどな。で、調査だが、俺の部下には少し難儀な仕事でな。

澳継にやらせているが、奴一人ではなかなか手が回りきらんようだ」

「そういうことなら、ご命令に従います」

「龍閃組と戦うことになるかもしれぬぞ」

「雹に会うのが、俺の一番の目的ですから」

 頷いた九角は、やや遠くを見つめた。

「あれは人間に対して心を閉ざしている。それを開かせるのは、容易なことではないぞ」

「俺の時代で逢った雹は、敵同士でした」

「そうだったな。では手並みを見せてもらうとしよう」

 こうして龍麻は、鬼道衆の一員として働くことになった。

変幻流転の運命だが、後悔はない。

百年以上の時を超えて、運命の女性に巡り会うことができたのだから。

 彼女の扉は重く、そして氷に閉ざされている。

その扉を、しかし龍麻は必ず溶かすと決意していた。

 

 龍麻が九角の治める村――鬼哭村というそうだ――の一員となってから、一週間が過ぎていた。

村には意外と多くの人が居て、若い夫婦も子供も居た。

それとなく聞いたところでは、幕府に恨みがあったり、権力者に虐げられたりと皆、

なにがしかの理由で江戸に暮らせなくなった者達だという。

だからといって復讐心に煮えたぎっているかというとそうでもなく、

子供達は屈託がなく村の中を遊び回り、大人も新入りである龍麻を邪険にすることなく

迎えいれてくれた。

 龍麻も彼らに受けいれてもらえるよう努力を怠らなかった。

農作業を手伝うのはもちろん、子供達に勉強を教えてやり、これが思いのほか喜ばれた。

九角は当主としてかなり開明的で、龍麻が子供達に教えたいと言ったとき、

咎めるどころか奨励したものだった。

「これからは西洋とも渡り合わねばならないのだろう?

ならば彼らに負けぬよう、なるべく多くのことを教えてやってくれ」

 何しろ龍麻は現役の受験生なので、教える内容には事欠かない。

教科書こそなかったが、嵐王にいくつかの道具を作ってもらい、

文字の読み書きや計算など、できる範囲で子供達に授業をしてやった。

 その嵐王には、夜になると毎晩会っていた。

彼の知識と技術は龍麻の想像以上で、龍麻はときに押されながらも、

百三十年分の進歩と知識を生かして彼の情報を修正してやる。

乾電池の仕組みも嵐王はすぐに理解したが、残念ながら作りだすことまではできず、

これがあれば夜道を歩くのもずいぶんと楽になるだろうにと嘆いていた。

さらに龍麻が自動車や飛行機の話をすると、その原理を知りたがり、

そこまでは説明できない龍麻が謝るとやはり落胆したが、

龍麻のおぼろげな内燃機関の説明には関心を持ったようで、研究を始めてみると言った。

 二日目の朝からは、子供達との勉強が終わると、龍麻は古武術の修練をはじめた。

子供達と一緒に、体操代わりに行うだけだったのだが、

調査に行こうと龍麻を呼びに来た澳継が見た途端怒鳴りつけてきた。

「やい手前ェッ! どこでそれを習いやがったッ!」

「どこって、俺の師匠にだよ」

「真似してんじゃねェッ!」

 ああそれで、と龍麻は得心がいった。

初めて澳継と闘ったとき、奇妙に動きが噛みあう気がしていたのだ。

澳継とはいわば兄弟弟子、あるいは師弟関係にあたるのだろう。

 普通なら兄に、つまり先達である澳継に敬意を払うべきなのだろうが、

毎度毎度突っかかってくる年下の男に、素直に従う気にはなれない。

「真似っていうか、俺の方が強いだろ」

 挑発に即座に乗った澳継と、龍麻は死闘を始めた。

流派は同じらしくても、スピードでは澳継が勝り、リーチでは龍麻が勝る。

実戦経験は互角といったところだが、澳継は龍麻の知らない技を持っていた。

思いもかけぬ方向から蹴りを受け、龍麻は後ずさる。

子供達は大はしゃぎで、澳継も勝ち誇った顔をした。

 新参が調子に乗るよりも、ここは花を持たせるべきだ。

そんな打算も浮かんだが、すぐに龍麻は、跳躍と共に自らの考えを消し飛ばした。

「ぐッ……!」

 疾く、重い拳が澳継の腕にめりこむ。

間髪入れずに龍麻は連打を繰りだした。

「……ッの野郎ッ……!」

 だが澳継も負けてはおらず、戦闘は泥仕合の様相を呈してくる。

子供達の歓声の中、両者はなぜ闘っているのかも忘れて拳を振るった。

「いつまで遊んでるんだい、好い加減にしなッ」

 何度目かの激突が始まろうとしたところで、威勢の良い女性の声が二人を止める。

本気で殴り合っている男二人に臆する色もなく近づいた女性は、

続けざまに二人の頭を叩いた。

「あんた達ッ、内藤新宿に行くのはどうしたんだいッ。

御屋形様の御命令を果たせないような奴はこの村には要らないんだよッ」

「俺が悪いんじゃねェよッ、こいつが」

「お黙りッ」

 口答えした澳継をもう一度叩いた女性は、龍麻の方に向き直った。

「あんたも、しっかりしないと駄目だろうッ。

そんなんじゃ惚れた女を振り向かせるなんて出来やしないよ」

 しょげる龍麻を斜めに見た女性は、子供達に言った。

「さあ、あんた達も帰るんだよ」

 三々五々散っていった子供達を見送り、女性が改めて二人に説教をはじめた。

「いいかいあんた達、天戒様はあんた達に目をかけてくださっているんだ。

その期待に背くような真似はするんじゃないよ」

 女性の名前は桔梗という。

龍麻がこの村に来たときは用事があって村を離れていたそうだが、

九角の片腕であり、彼の気が回らない村の実際面を良く補佐しているという。

龍麻が初めて対面したとき、事情を語ると「頑張んな」と励ましてくれた彼女は、

九角と夫婦なのかというとそうではないらしく、「岡惚れなんだよ」と寂しげに答えたのが、

強く印象を残していた。

年齢は九角と同じくらいにも見えるが、時折見せる仕種や怒ったときの迫力は

龍麻や澳継などの到底及ぶところではなく、

特に新参の龍麻などはひたすらおそれいるしかなかった。

「わ、わかった、わかったよ、なあ龍麻」

「ああ、ちょっと練習に熱が入っただけなんです。これからすぐ内藤新宿に行きます」

「ああ、そうしとくれ」

 二人は肩を並べて村を出て行った。

走る寸前の二人が見えなくなるまで見送った桔梗が、

出来の悪い息子に対するようなため息をついたことなど、知る由もなく。

 

 そして、雹である。

このような具合で目の回るような時間を過ごしていた龍麻が、

ようやく彼女が暮らしているという離れを訪れる機会を得たのは、

龍麻が鬼哭村の一員となって一週間目のこの日だった。

朝餉を終えて子供達に勉強を教えるため、中央広場に行こうとしたところ、

村の外れの方に巨大な人影が見えたので、居ても立ってもいられず走ったのだ。

「あ、あの……雹」

 彼女の意のままに動く人形――名前はガンリュウというそうだ――の腕に乗り、

何事かを調べていた彼女は、龍麻の呼びかけに全く反応しなかった。

聞こえなかったのかと思い、もう一度、今度はやや大きな声で呼びかける。

それでも雹は無視していたが、龍麻が数歩近寄ると、ようやく振り向いた。

その眼に好意的な光は微塵もなく、引き結ばれた硬質の唇から放たれた言葉にも、

冷気と鋭い刃が込められていた。

「何用じゃ」

「い、いや、用っていうか」

「用がないなら去れ。妾はガンリュウの手入れをせねばならぬ。そなたと話をする暇などない」

 言い終える前にはもうガンリュウの方を向いている。

女性にここまで酷薄な応対をされた経験は龍麻になく、挫けそうになるが、

なんとか踏みとどまった。

「何か手伝えることはないか」

「ない」

「……ほら、前に澳継にガンリュウの部品の買い出しを頼んだだろ。今度からは俺が」

「前に澳継に頼んだ分で当分は保つ。それに、澳継の代わりにそなたに頼んで

妾に何か良いことがあるのかえ」

 雹の声は温度が下がる一方だ。

彼女は、あるいは一九九八年に逢った彼女よりも冷たいのではないかと思い、

すぐに比較してしまった自分を龍麻は恥じた。

「そなたが役に立てることなど何もない。それが判ったら早く去れ。邪魔じゃ」

 おりしも子供達が呼ぶ声が聞こえ、龍麻は行かねばならない。

「また来る」

「来なくて良いぞ」

 聞こえなかったふりをして、龍麻は彼女の許を去った。

秋風が、ひどく肌に染みた。

 それからも、龍麻はめげずに雹の許を訪れた。

雹に会いに行くのは、わずかな時間の合間にしかできないので、

一日に三十分も取れれば良い方だ。

もどかしくてたまらないのだが、村での役割を放棄するわけにもいかず、

また、行ったところで雹の態度は冷淡を極めているため、そもそも話題が続かない。

それでも、通い続けて二週間が過ぎた頃になると、

まるっきり無視されるという状況は少なくなっていた。

「また来たのか」

 こんな言葉でもかけてもらえるだけ以前よりは遥かにましで、龍麻は嬉しそうに頷いた。

それを無表情で眺めた雹が、細い眉を露骨にしかめる。

「うつけか傾きか、百三十年後の日の本というのはそなたの様な者ばかりなのか?

ならば長生きはしとうないの」

「いや、俺みたいな奴は少ない。でないとライバルが多くて大変になっちまう」

「らいばるとは何じゃ、面妖な言葉を使うでない」

「ああ、ごめん。今日もガンリュウは調子良さそうだな」

「そなたに判るものか」

 彼女は一人でガンリュウを作りあげたそうで、それに関するプライドは並大抵のものではない。

そして、ガンリュウの話題を出せば、とにかくなにがしかの相手はしてもらえるというのが、

龍麻がやっと見つけた難攻不落の山を登るための小さな手がかりだった。

「もちろん判らないけど、歯車が回る音が滑らかだから」

 龍麻が言うと、雹は二パーセントほど感心した表情を見せた。

「そんなことが判るとはな。まあ、門前の小僧も習わぬ経を読むと言うしな」

「凄いよな……俺の時代にもこんな精巧なからくりはない」

「……それは、妾の技が伝わってはおらぬということじゃな?」

 龍麻はしまったと思ったが、雹は気にした様子もなかった。

「おそらくは妾で廃れるのじゃろう」

「そんな……」

「妾の一族は皆殺された。妾もガンリュウがいなければ歩くこともままならぬ。

滅ぶはもはや必定じゃ」

 彼女が両足の腱を切られていると聞かされたのを龍麻は思いだした。

教えてくれたのは彼女自身だ……ただし、目の前の、ではなく。

「そなたも妾に関わらぬがよい。それが互いのためじゃ」

「少なくとも俺は違う」

 龍麻が言うと、雹は辟易したように首を振った。

「ならば勝手にせよ。じゃが、妾の気が変わるなどと思わぬ方がよいぞ」

 それきり雹はガンリュウの方を向いてしまった。

悄然として、龍麻は彼女の許を去った。

 雹との関係は一向に進展しない龍麻であるが、江戸時代での日々は慌ただしく過ぎていく。

朝は子供達と過ごし、呼びに来る澳継と一戦交えて調査に赴く。

両者の実力は、今のところは龍麻がやや上といったところだった。

「くそッ、もう一戦だッ!」

 派手に吹き飛ばされた澳継が、飛ばされた勢いと同じ疾さで突進してくる。

澳継のスピードは龍麻を上回り、当たる打撃も多いのだが、

最終的に地面に転がる回数は龍麻を越えられない。

今朝も三度転がされた澳継は、まだ龍麻を一度しか倒していないため頭に血が上っている。

龍麻はそれに気づいているが、指摘しても聞きいれるはずがないだろうから

結局拳で黙らせるしかないと割りきっていた。

 澳継の動きを読み、彼の蹴りを一度受けて反撃に出ようと決めた龍麻が動く。

「ははッ、それじゃ千年かかっても倒せないぞ、風祭」

 間合いが詰まり、蹴りの間合いに入った澳継が鋭い蹴りを放とうとした寸前、

横合いから割って入った声が二人の動きを急停止させた。

龍麻が振り向くと、そこにはいつの間に居たのか、子供達に混じって一人の坊主が立っていた。

年齢はやや上だろうか、坊主、と判断したのは男が髪をきれいに剃りあげていたからだ。

ただし男は手におそらく槍と思われる武器を持っており、

でも武蔵坊弁慶も坊主の格好をしていたよな、とやや混乱ぎみに考える龍麻をよそに、

澳継が声を張り上げた。

「九桐じゃねェか。いつ帰ってきやがった」

「昨日の遅くにな。それより、お前の技は邪念が強すぎる。

敵を倒したいという意志は重要だが、闘いの最中は抑制しなければならない」

「う、うるせェッ、俺の氣の使い方に文句つけんじゃねえよッ」

「それでは勝てないと言っている。君もそう思うだろう?」

 挨拶もそこそこに武術の指導を始めた男にあっけにとられているところに、

いきなり同意を求められて龍麻は面食らった。

「え? あ、ああ、そうだな。ところで、あんたは誰なんだ?」

 男は槍を軽く動かして答えた。

「俺は九桐尚雲。見ての通り坊主だ。君は?」

「俺は緋勇龍麻。えっと……」

「ただの穀潰し野郎だ」

 口を挟む澳継に、九桐は楽しげに笑った。

「ただの穀潰し、にしては氣の使い方が上手いな。どこで学んだんだ?」

 百三十年後で、と答えるべきか否か、龍麻は迷う。

迷っている間に、澳継がまた割りこんできた。

「なんだよ九桐、俺よりこいつの方が強いってのかよ」

「今のところは、そうだな」

 さらに澳継が何か言おうとするのを遮って、九桐は龍麻の前に立った。

「この村は来る者を拒まない。が、若の邪魔をしようとする者は俺が許さない。君はどっちだ?」

「若って九角のことか? なら敵……じゃない。それだけは確かだ」

「龍閃組に居たじゃねェか」

「醍醐と闘ったのはお前も見てただろうが」

 劣勢で中断されたからか、澳継の絡み方がうっとうしい。

蹴っとばしてやろうかと苛立つ龍麻に、九桐が目を見開いた。

「龍閃組? それじゃ、蓬莱寺を知っているのか?」

「ああ、醍醐とも京梧とも闘りあったことがあるよ」

「勝ったのか」

「向こうが木刀だったときは一発入れたけど、真剣なら駄目だっただろうな。怖くて」

「ヘッ、ビビッてんじゃねェよ」

「無手で木刀に勝つとは大したものだ。道理で澳継が勝てない訳だな」

 またも茶々を入れる澳継を蹴ろうとした間際に尚雲が褒めそやしてくれて、龍麻は溜飲を下げた。

「俺だって蓬莱寺ごとき、いつでもぶッ倒してやらァッ」

「死ぬぞ」

 静かな、坊主らしい説諭するような尚雲の一言に、澳継も言葉を失ったようだ。

「ここにせっかくお前よりも上手に氣を扱える人間が居るのだから、

挑むのならせめて習ってから行ったらどうだ」

「なッ、なんで俺がこんな奴に頭を下げないといけないんだッ」

「見たところお前達の技は良く似ている。源流が同じなのかもしれないな」

「詳しいのか?」

 少し見ただけで気づくとは、かなりの武芸者だろう。

訊ねる龍麻に尚雲は破顔した。

「それだけが取り柄でね。一応坊主ってことになってはいるが、

念仏を唱えるより穂先の手入れの方が性に合っているみたいでな。

強い奴の評判を聞きつけると、どうしても闘ってみたくなってしまうのさ」

 笑いながら頭を撫でる、尚雲の目が一転して剣呑な輝きを宿す。

「だから君とも一度は手合わせをしてもらうつもりだ。できれば近いうちにな」

「……わかったよ」

 武術は手段であって目的ではない龍麻は、好んで闘う趣味はない。

しかしこういう手合いはしつこいことも知っているので、一度きりのつもりで仕方なく同意した。

「よし、約束したぞ。それじゃ、悪かったな、続きをしてくれ」

 隙のない動作で身を翻し、尚雲は九角の屋敷へと歩き去った。

 顔を見合わせた龍麻と澳継は、お互いの顔に敵意が浮かんでいないのを確かめると、

同時にため息をついた。

「なんか面倒くさそうな奴だな」

「あの野郎、坊主だから口が立つんだよな。いっつも俺のこと小馬鹿にしやがってよ」

 二人は仲良く歩を揃え、内藤新宿へと赴く。

それはまるで兄弟のようだったと、目撃した村民は語りぐさにするのだった。

 調査から戻れば九角と夕餉を食べながら語らい、酒を酌み交わす。

この時は澳継と桔梗も相伴することが多く、龍麻にとっても心地よいひとときだった。

 その後は、酔いが回っていなければ嵐王の許に赴く。

親しくなっても仮面を外そうとはしない彼は、よほど偏屈な人間と思われたが、

科学技術に対する知識欲は凄まじく、龍麻も記憶を総動員して彼に未来の知識を授けた。

とはいっても高校生である龍麻に確かな知識があるわけではなく、

また、電気やガソリン、ガスといった動力源の欠乏はいかんともしがたく、

結果的にはこういったものがある、という紹介程度しかできなかったものの、

嵐王はそれでも龍麻が一つ現代の技術を紹介するたび、大げさなくらいに感心したものだった。

「だが、返す返すも惜しいのは、電気というものの作り方が分からぬ点よな。

それが解れば夜も研究に励めるのだが、お主、なんとか思い出せぬか」

 嵐王の必死さは痛いほど理解できるだけに、不勉強を反省する龍麻だ。

同時にガスに電気に水道と、スイッチひとつで快適な生活が手に入る現代が

改めてすばらしいと実感もするのだった。

 ひときわ冷えこみ、そろそろ冬が到来しようかというある日の朝。

 龍麻はいつものように雹に挨拶に赴いた。

ガンリュウの腕に乗って彼の点検をする雹の姿は昨日と同じだったが、

何十もの歯車と糸との組み合わせによって動く彼の動作音は、明らかに異常だった。

「おはよう……あれ、何かおかしいな」

「そなたか……うむ、昨日までは何もなかったのじゃが」

「昨日は冷えたからな……歯車が反ったのかもしれない」

「む、そうじゃな。悪いがそなた、中を見てやってはくれぬか」

 発言をした雹はガンリュウを見るのに夢中で、それが龍麻に与えた影響を全く見ていなかった。

 初めて彼女に頼み事をされた龍麻は、驚きと喜びを内燃機関のごとく爆発させ、

変換されたエネルギーに全身を漲らせた。

雹の傍に寄り、彼女が示すガンリュウの内部を目で追う。

「どうじゃ」

「……」

 龍麻は答えず、息を止めてひとつひとつ歯車を見ていった。

 なんとしても雹の頼みを聞き届けるという執念のなせる業か、数分後に龍麻は、

亀裂の入った歯車を見つけだすことができた。

手を入れ、慎重に取り外して抜き取る。

「おお……!」

 雹が歓声を上げ、龍麻に笑顔を向けた。

それは笑うことに慣れていない、ぎこちない笑顔だったけれども、

龍麻にはどんな宝石よりも眩しく見えた。

「礼を言うぞ。そなたがおらねば妾一人では直せなんだ」

「そんな、大げさな」

「いや、奥まったところの歯車じゃからな。見つけることができたとしても、妾では手が届かぬ」

「そうか……まあ、役に立てて嬉しいよ。これからも、俺にできることならなんでもするから」

 龍麻が見得を切ると、雹は若干ばつが悪そうに言った。

「ならば、早速で悪いが一つ頼まれてくれぬか。この歯車を直す部品が入用じゃ。

内藤新宿で手に入れてきてはくれぬか」

「お安いご用だよ。それじゃ、早速行ってくる」

 言うが早いか龍麻は駆けだした。

 途中で、これも日課になりつつある、龍麻を呼びに来た澳継とすれ違う。

「お、おい、そんなに急いでどこに行くんだ」

「どこって内藤新宿に決まってるだろッ。ぼやぼやしてると置いてくぞ!」

 振り向きもせず走りながら叫ぶ龍麻を、澳継は訳も分からぬまま慌てて追いかける羽目になった。

 

 この一件の後、雹の態度は軟化した。

少なくとも、龍麻が話しかけるまでは居ないものとして振る舞い、

話しかけても露骨に邪険に扱われるようなことはなくなった。

「なんじゃ、また来たのか」

 冷たい言い方のように聞こえるが、龍麻は嬉しそうに頷く。

すると雹は面白くもなさそうにガンリュウの方を向き、独り言のように呟いた。

「そう毎日来られても、話すことなどないと言うに」

「それなら、俺の話を聞いてくれ」

 龍麻には話したいことがたくさんありすぎた。

一九九八年のこと、一八六六年のこと。

九角や嵐王にも多く話しているが、やはり雹にこそ自分が見聞きしたものを伝えたかった。

「大きな籠のようなもので江戸から京都まで一刻じゃと?

嘘を申すでない、一刻では箱根までも行けぬわ。それに、籠は誰が担ぐのじゃ。

ガンリュウのようなからくり? 妾でもそのように早くは操れぬというに、

後の世には凄腕のからくり師がおるのかえ?」

 新幹線について説明すればこうで、

「すかあと? 何じゃそれは。腰から下に巻く布? 腰巻きのことか。

何じゃと、着物を着ずにその格好で出歩く?

嘆かわしや、そなたの時代の女性は慎みというものを知らぬのか」

 スカートについて教えればこの反応だ。

微妙にずれている反応が気になるどころか、龍麻はますます雹を好きになった。

 雹は両足の腱を切られていることもあって、日中もほとんど外には出ない。

半ば世捨て人であると思われた彼女だが、外界にはそれなりに興味があるようで、

江戸の流行などを龍麻が話すと、時に身を乗りだして聞いていたりする。

そのくせ、興味があるとは思われたくないようで、身を乗りだしすぎていると気づくと、

そ知らぬ顔をして身体を起こしたりするのだ。

 そんな時、龍麻は指摘するような愚は犯さなかった。

代わりに、彼女の濡れたような黒髪が宿す光沢がなめらかに移ろうさまを、

彼女と同じそ知らぬ顔で眺めた。

いつか、あの髪に触れてみたいという欲求を、静かに募らせながら。

 この日、雹を訪れた龍麻の手には、包みが携えられていた。

「これさ、昨日内藤新宿で買ってきたんだ。最中っていうお菓子で流行ってるらしい。

結構並んだけど、女の子ばっかりでちょっと恥ずかしかったよ」

「ほう」

 雹の返事は短かったものの、品の良い好奇心が目元に漂っている。

「別に妾は甘いものはそれほど好きではないのじゃが、

せっかく買ってきたものを無駄にするのももったいない話じゃからな、

茶を淹れるゆえそなたも相伴するがよい」

 最中が期待以上の効果をもたらした驚きに、

龍麻は出来の悪いからくり人形のように頷くほかできなかった。

湯を沸かしに行った雹を目で追い、遂に到達した彼女の屋敷の中に、偉大なる一歩を記そうとする。

「何ぼけっと突っ立ってやがる。朝の話は終わったんだろ。行くぞ、龍麻」

 後ろから聞こえてきた澳継の声に、龍麻は人にあらざる速度で反応した。

疾さでは龍麻を上回る澳継が、反応すらできずに胸ぐらを掴まれる。

「わッ、な、何しやがる」

「一生の頼みだ、澳継。今日はお前一人で内藤新宿に行ってくれ」

「なッ、何勝手言ってやがる」

「頼む」

 龍麻の真剣さは、熊すら退がらせるであろう。

気圧された澳継は、殴りあわない日はない男の頼みを、理由も聞かずに呑んでしまった。

「きょッ、今日だけだぞ」

「ありがとう、恩に着る」

 深く頭を下げた龍麻に、勝ち誇るよりも不気味さを感じて後ずさった澳継は、

龍麻が頭を上げないとみると早足で去っていった。

 澳継に対する感謝の気持ちは嘘偽りのないものだったが、

顔を上げたとき、龍麻はもう彼のことを忘れていた。

 雹の屋敷は九角の屋敷の離れ程度の広さしかなかった。

彼女の寝室と居間、それに客間と食事場という小さめの四つの部屋に、

あとはガンリュウを置いておく土間くらいだ。

もっとも、これでも江戸時代の家としては大きな方だというのを龍麻はもう知っている。

以前京梧に教えてもらったのだが、江戸の町人の家は基本的に長屋と呼ばれる、

現代で言うアパートのようなもので、間取りは一部屋に台所兼土間という、

これも現代風に言うなら1Kという広さがほとんどだった。

 客間に通された龍麻は、おとなしく座りつつあちこちを見渡す。

江戸時代だから物であふれているようなことはもちろんなく、

幾つかガンリュウ用の道具と思われるものを見たほかは、

むしろほとんど何もないという方が早い家だった。

なにがしかの会話のきっかけでもあれば、と期待していた龍麻は落胆する。

 そこに、やかんと茶を携えたガンリュウに乗った雹が現れた。

「待たせたの。ん? 何じゃ」

「い、いや、なんでもない」

 龍麻は慌てて最中の包みを解き、雹に一つ差しだした。

「ふむ、これが最中というものか」

 最中の原型は薄味をつけた皮の部分のみを食べるものだったが、

龍麻が買ってきた最中は百三十年後とほぼ同じ形をしている。

中に餡も入っていて、味もおそらくは砂糖が少ないために甘味が薄い程度の違いだった。

 龍麻は自分の分を食べつつ雹を観察する。

顔は無表情のままだったが、紅を塗った唇は、予想以上に可愛らしく黄土色のお菓子を食んだ。

それでいて中々に食べるのは早く、龍麻が見惚れている間に丸い形が半分になり、

消えてなくなった。

「ま、こんなものかの。思っていたよりは悪くない、といったところか」

 そう言いながら、雹は手を龍麻に向けて伸ばす。

「……?」

「まだあるのじゃろう? 気の利かぬ男じゃな」

「いや、あんまり美味しいって感想じゃなかったから……」

「妾は悪くないと言ったのじゃ。美味しくないなどとは言っておらぬ」

 言い争いはせずに、龍麻は雹の手に二個目の最中を乗せた。

わずかに触れた白い掌が、龍麻の記憶を呼び覚ます。

それは百三十年後に握った手とは、異なる温度だった。

しかし、その温度差は龍麻にとって不快ではない。

新しく刻まれた雹の体温と、覚えている雹の温もり。

二人の雹をそれぞれ好きになるのも、悪いことだとは思えなかった。

「どうした、口が止まっておるぞ。そなたはあまり気に入らなかったのかえ?」

「え、あ、いや、気に入ってるよ、美味しいよ」

 別の女の事を考えていたとは言えず、龍麻は一気に最中を口に入れる。

くっつきやすい皮は当然口の中に貼りつき、不誠実な男の呼吸を阻害した。

「……!」

「喉に詰まらせたのか、ほれ、茶を飲め」

 雹から湯飲みを受けとり、口に流しこむ。

どうにか窒息死はまぬがれたが、しばらくは咳き込む羽目になった。

「案外そそっかしいのじゃな、そなたは」

 呆れる雹に龍麻は苦笑いで応える。

それにつられるように、雹も笑いだした。

手の甲を口に当てた、貴族のような笑い方がよく似合っていた。

雹の小さな屋敷に、二人の笑い声はしばらくの間絶えなかった。

「腹の底から笑うたのは久しぶりじゃ」

 笑いを収めた雹が、目元を拭いながら言った。

嬉しくてたまらない龍麻は大きく頷く。

けれども、続く雹の言葉は、予想外のものだった。

「感謝……すべきなのじゃろうな。いや、感謝はしておる。

じゃが、妾はどうしても他人を信じることができぬのじゃ。

お主の笑顔の裏にも、何か魂胆があるのではないかと疑うのを止められぬ」

 自嘲気味に呟く雹に、龍麻はかける言葉がない。

「じゃから妾にかまうのはもう止めておくれ。そなたの明るさが妾には辛いのじゃ」

「……そんなの、できるわけがない。俺は雹のためならなんでもしてやりたいと思っている。

でも、それは聞けない」

「……」

 龍麻は声を荒げて言った。

思わぬ龍麻の強い語調に、雹も勢いを呑まれている。

「俺は雹に気に入られたいって他に魂胆はない。

だけどそれをいきなり信じてもらえるとは思ってない。だから、もう少し様子を見てくれないか」

「様子を見ても、妾の心は変わらぬかも知れぬと言っておるのじゃ」

「なら、変わるまで待つ。俺には百三十年、時間があるんだから」

 詭弁にすらなっていない龍麻の屁理屈は、だが、雹の心をわずかにではあるが揺さぶったようだ。

さらに何か言おうとした紅い口は開いたまま止まり、空しく閉じた。

 黒い髪を顔が隠れるまで垂らしてうつむいたのは、怒りのせいか、

それとも他の感情の故か、龍麻には判らない。

 だが、顔を上げた雹には氷の雰囲気がまとわりついていた。

「今日は馳走になった。いずれ礼は致すゆえ、今日はもう引き取りを願おう」

「なっ、何だよ急に」

「帰らないというのなら、ガンリュウに摘みださせるぞ」

 彼女の豹変に全く心当たりがない龍麻は、せめて理由を問おうとする。

けれども一秒ごとに冷たくなっていく雹の態度に、龍麻は返す言葉もなく退去するしかなかった。

 

 半刻後、九角の屋敷で彼と酒を呑み交わす龍麻の姿があった。

雹の屋敷から戻ってきた龍麻を見かけた九角が、

澳継と出かけたはずの龍麻がいるのを怪しんだのは当然として、

魂が抜けたような定まらぬ足取りに驚いたのだ。

事情を聞いてみるとやはり心ここにあらずといった態で、

それでも雹の屋敷に行ったことをぽつりぽつりと話す。

そこで何かがあったのは想像に難くなく、共に屋敷にいた桔梗も呼んで、

三人で昼間から呑むことにしたのだ。

「昼間から酒を呑むというのは止められない愉しみでな。

暗愚な長と見られたくはないから、憚りながらでないと呑めぬのが面倒だが」

「本当ですよ、天戒様。坊や辺りに見られたら、きっと騒がれます」

 そう言いながらも桔梗は九角の盃が空いたと見るや妖美な仕種で酒を注ぐ。

彼女が坊や、と呼ぶのは澳継のことで、確かにこのような席には似つかわしくなさそうだ。

だが龍麻は僚友を慮る余裕もなく、一気に盃を傾けると、無言で桔梗に空の酒器を差しだした。

「で、何があったのだ」

 九角の問いに、龍麻は今日の朝の出来事を話した。

 龍麻よりも年長である二人は、彼が傷心である理由を知ると期せずして顔を見合わせた。

 雹が他人を家に招いたのが、信じられなかったのだ。

彼女が心を閉ざした理由を、九角と桔梗は知っている。

ゆえに復讐を遂げても他人に心を開くとは思っていなかった。

それが復讐すら遂げていないのに男と語り合うなど、驚く他はなかった。

「でも、どうしてあの子は急に冷たくなったんだろうねぇ」

「確かに……何故だろうな。緋勇、まさかお前、性急に迫ったのではなかろうな」

 唯一龍麻の事情も雹の事情も知っている九角の問いに、

龍麻は千切れそうなほどに激しく首を振った。

あれでは酔いが回る、と九角は内心で危惧する。

「そんなことするわけがない。俺は雹の心が俺の方を向くまで、

百三十年でも待てるって言ったんだ。そしたら急に雹が黙って」

 盃を呷った龍麻は、すぐに次の一杯を要求する。

ためらいつつも注ごうとした桔梗を、九角が止めた。

「緋勇。女の機微は、俺には判らぬ。だが、お前は一度冷たくされたからといって

諦めてしまうような男なのか?」

「そんなわけないだろうッ! でも、どうしたらいいかわからないんだよ」

「少し間を置いた方がいいだろうね。色恋ってのは燃えやすいけど、

冷ましながらの方が長く続くもんだからね」

 桔梗の言には一理あるように男二人には思われた。

九角は感心して、龍麻はすがるような目で桔梗を見る。

「まァ、あの子の懐に潜りこんだだけでもまずは上出来って見るべきだろうね。

この村に来てからこっち、あの子が天戒様以外の男と話しているところなんて

ついぞ見たこともなかったんだから」

「だったら、いいんだけど」

 龍麻は吐息と酒精を同時に大きく吐きだした。

 励ましとけしかけを担当する桔梗も、内心でため息をついている。

もう少しけしかけ甲斐があると思っていたのだが、

この未来から来たという男は酒に呑まれる性なのかもしれない。

あまり煽るとどんどん沈んでしまうかもしれず、ほどほどにしておいた方が良さそうだった。

「とにかく、酒を呑んだら一晩寝て、きれいさっぱり忘れちまうことだね

あの子のことを考えるのは、目が覚めるまで一旦止めるんだよ」

 龍麻は頷き、頷きつつ前のめりになり、そのまま倒れた。

 ほどなく健やかな寝息が漂ってきて、九角と桔梗は揃って苦笑した。

「一晩どころかまだ日が中天にも達しておらぬのにな」

「天戒様の目の前で寝るなんて、とんだ不心得者だこと」

 文句を言いながらも、桔梗は龍麻のために布団を敷いてやり、

かなり乱暴にではあったが龍麻を布団に押しこんだ。

「だが、中々に愉快な話だった」

「あら、天戒様も色恋に興味がおありですか?」

 明らかな冗談と判る口調の、桔梗の瞳が一瞬に満たない間だけ真摯な輝きを宿す。

それに気づいてか否か、九角は目を閉じて答えた。

「俺とて木石ではないからな。とはいえ今は村のことを一番に考えねばならぬ立場だ」

「承知しております」

 深く頭を垂れた桔梗は、九角の傍らに座った。

徳利を持ち、九角の盃に傾ける。

しかし、九角は応じなかった。

「あら、今日はもうお終いにします?」

「いや、河岸を変えよう。男の寝姿を見ながら呑んでも美味くはなかろうし、

いびきでも聞こえてきたらなおのこと興が削がれるからな」

 九角が立ちあがり、桔梗がそれに続く。

彼らが出て行ったあと、九角の正しさを証明するかのように、

部屋には品の良くないいびきが聞こえはじめた。

 

 傾きかけた太陽が、一気に空を茜色へと染める頃。

江戸時代の言い方だと暮七つ半を過ぎた、もうじき誰彼時とも呼ばれる時間に、

鬼哭村を歩く人影があった。

灯りがないと足下もおぼつかないような暗さであるが、

影で女性と判るその人物は、何も持たずに平気で村道を歩いていく。

それほど大きくもない村のはずれにある一軒の屋敷に着いたところで、女性は声を発した。

「雹、居るんだろ? 入らせてもらうよ」

 女性は桔梗だった。

九角の酒につきあった後、彼女は要らぬおせっかいを焼きに来たのだ。

 返事がない家の中に上がりこんだ桔梗は、客間でガンリュウに乗ったまま、

ぼんやりとあらぬ方を見つめている雹を見つける。

何者をも寄せつけがたい雰囲気を放っていた彼女は、桔梗が近づいても反応すら示さず、

彼女が作ったからくり人形なのではないかと錯覚したほどだった。

「ちょいと、しっかりしなよ」

 桔梗は雹の身体を揺さぶる。

ようやく我に返った雹は、それでも目の焦点の定まらぬ様子で桔梗を眺めた。

「……桔梗か。何用じゃ」

「そんな呆けちまうくらいなら、どうして緋勇を袖にしたんだい。

ああ、あの子が言いふらしたんじゃないよ。

なんだか今のあんたみたいに死にそうな顔をしてたからさ、天戒様が訳をお聞きになったのさ」

 桔梗は前置きを省き、いきなり核心を衝いた。

いわば劇薬だが、雹の態度を見ればこれくらいやらねばと考えたのだ。

果たして効果はあり、雹は細い眼を大きく見開いたかと思うと、悄然とうなだれた。

「袖になどしておらぬ」

「じゃあ、どうして急によそよそしくしたんだい」

「……妾にあるのは醜い復讐心だけじゃ。そしていずれはこの足が必ずかれの邪魔となるじゃろう。

下手に気など持たせては、後で辛くなるだけじゃ」

 桔梗はため息をつかずにいられなかった。

「ねえ、雹。あの子はそんなことは百も承知であんたに言い寄っているんだよ。

そりゃあちょっと変わり者かもしれないけれど、あんたを想う気持ちに嘘偽りはない。

それはあんただって良く判っているんじゃないのかい」

「……じゃが……」

「ゆっくり考えてみるんだね」

 最後は噛んで含めるように言い、桔梗は屋敷を後にした。

「ふう、慣れないことをすると肩が凝るもんだねぇ」

 すっかり暗くなった夜道を往きつつ、ひとりごちる。

しかし彼女の口元は、夜目には判別できないくらいかすかに綻んでいた。

 

 翌朝、子供達に勉強を教えた龍麻は、雹の家に寄ることなく内藤新宿に赴くつもりだった。

少し間を置いた方がいい、という桔梗の言に従った方がいいと思ったからだ。

ところが、遊ぼうとまとわりついてくる子供達をいなしているうちに、

前方に巨大な人影が見えた。

二メートルを優に越えるだろう人影は、ガンリュウのものだ。

鬼哭村のはずれに住んでいる雹が、広場から見える位置まで出てくることは珍しく、

龍麻は居ても立ってもいられずに駆けだした。

「おはよう、雹」

「う、うむ、こんにちは日和も良いようじゃな」

 ガンリュウにしがみついている雹の目は、どこか泳いでいるようにも見えた。

だが、龍麻がそれに気づく余裕はない。

ああ、とかうう、とか気色の悪いうめき声を発した挙げ句、

ようやく出てきた意味のある言葉は普段より一オクターブほど高かった。

「今日はどうしたんだ?」

「それじゃ、その、昨日の礼をしようと思ってな。

無論無理にとは言わぬ、そなたが良ければ、じゃが」

 良いも悪いもない、龍麻が賛意をどう伝えたものか迷っていると。

「わあ、雹様だ!」

「雹様、おはようございます!」

「ガンリュウも、おはようございます!」

 龍麻の後を追ってきた子供達が、一斉に雹とガンリュウを取り囲んだ。

ガンリュウをこんなに間近で見るのは初めてらしく、

龍麻もそっちのけで雹に話しかけていた。

「雹様、僕もガンリュウに乗りたいです!」

「わたしも!」

「こ、これ、危ない、危ないと言うに」

 群がる子供達に雹はすっかり狼狽している。

その隙に一計を案じた龍麻が声を張り上げた。

「こら、一人ずつ順番だぞ。ちゃんと並ぶんだ」

「はあい」

「こ、これ、勝手なことを申すでない……あッ……!」

 ガンリュウの腕から、龍麻は雹を抱きあげる。

快い重みが両腕にかかった。

「やッ、止めぬか狼藉者、下ろすのじゃッ!」

「これなら子供達を乗せられるだろ?」

「くッ……! 覚えておれよ、許さぬからな」

 屹と龍麻を睨んだ雹は、顔をそむけてガンリュウを操りはじめた。

「わあ!」

「凄い、高あい!」

 ガンリュウの肩の高さまで昇った子供達は感激もあらわに雹に頭を下げる。

「雹様ありがとう!」

「う、うむ、喜んでもらえて妾も嬉しいぞえ」

 一人一人に律儀に答える雹に、龍麻は微笑を隠せない。

すると、腕の動きでそれを察知したのか、雹が振り向いてまた睨んだ。

「何がおかしいのじゃ」

「別に、おかしくはない」

「嘘じゃ、笑っておったじゃろう」

「ほら、次の子が待ってる」

「くッ……!」

 顔を朱に染めて、雹はまたガンリュウを操る。

そこに、龍麻を呼びに来た澳継が現れた。

「おい龍麻、昨日はよくも俺一人に仕事させやが……」

 喧嘩腰だった澳継の声がぴたりと止まる。

ガンリュウと雹と龍麻の位置関係は、彼の理解を大きく超えていた。

「な……何やってんだ、お前ら」

「こ、これはじゃな」

「澳継」

 雹を制して龍麻が言った。

「な、なんだよ」

「俺はこの通り、両手が塞がっている。だから今日も行けない」

「な、な、な……!」

「この埋め合わせは必ずする。氣の使い方も教えてやる。だから頼む、澳継」

 雹を抱いた龍麻を、澳継は正視できなかった。

照れずに女を抱く男は、彼にとってあまりに刺激が強かった。

「ぐッ……あ、明日は絶対に行かせるからなッ――!」

 捨て台詞を吐いて澳継は走り去っていった。

その後ろ姿に深い感謝をこめて頭を下げた龍麻は、上げた時にはもう同僚のことを忘れ去り、

上半身が感じる柔らかな重みを一瞬たりとも逃すまいと集中した。

「も、もう良いじゃろう、腕が疲れてしもうた」

「今日はお終いだって。また今度な」

「さようなら雹様!」

 屈託のない笑顔で子供達が去っていく。

彼らに雹がぎこちなく手を振り、龍麻の至福の時間は終わりを告げた。

「早う下ろさぬか」

「俺の腕はまだ疲れてないけど」

 漆黒の瞳に殺意が宿ったので、龍麻は雹をガンリュウの腕に還した。

 わざとらしく裾を払った雹は、目を細めて言った。

「気が変わった。今日は気分が優れぬゆえ、妾は帰らせてもらう」

 冷たい声は、しかし温度が下がりきっていない。

そう感じた龍麻は、思いきって踏みこんだ。

「それなら、明日……は駄目だな、いいかげん澳継に殺されそうだ。

そうすると明後日……明明後日ならいいかな」

「そんな先のことまで知らぬ」

「じゃあ、朝訊くよ」

 雹の眉間に深い皺が寄る。

氷柱を吐きだそうとして開きかけた口は、結局何を撃ちだすこともなく閉じられた。

「阿漕者め」

 彼女がそう呟いたのは、ガンリュウに向きを変えさせて歩きはじめてからだった。

「阿漕? そりゃ図々しいとかあつかましいって意味だよ」

 龍麻に問われた桔梗は酒を注ぎながら答えた。

彼女は言葉の意味だけを訊ねようとした龍麻を逃さず、

九角も巻きこんで二日連続での酒宴としたのだ。

「ああ、そういう意味か」

 龍麻は上機嫌だった。

少しの間、というのがどれくらい辛抱しなければいけないのか、

憂いていたのだが、雹は思いのほか早く許してくれたようだ。

「昨日泣いてた烏がもう笑ってるよ。若いっていうのはいいねえ」

 桔梗の皮肉も意に介さず、龍麻は盃を呷る。

「浮かれるのはまだ早いのではないか」

「それはそうだけど、でも、光明が見えただけでもありがたいことだから」

 百三十年後の世から現れた、妙に親しみを覚える男に九角は頷いたが、

鬼道衆の頭領として釘を刺すのも忘れなかった。

「だが、これでお前は二日続けて務めを果たさないことになる。

この村に居続けたいのなら、仕事はしてもらわないとな」

「それは反省してる」

 頭を下げた龍麻に、九角は薄く笑った。

「まあ、俺も酒を呑む口実ができてありがたいがな」

「駄目ですよ、天戒様。そんなことを言ったらこの子がつけあがります」

「大丈夫さ。なあ」

 鷹揚なところを見せる九角に、龍麻は神妙に頷いたものだった。

 翌日と翌々日は、龍麻は鬼哭村の一員として務めを果たした。

子供達に勉強を教え、雹に挨拶をし、澳継と一戦交えてから江戸の街に赴く。

阿漕なところを発揮して雹に約束を取りつけるのも忘れず、

澳継にも事情を説明して三度目の了解を取った。

 そして、雹の屋敷に行く日の朝。

子供達の相手をした後、龍麻は一度寝泊まりしている九角の屋敷に戻った。

これは、子供達がついてこないようにという策略である。

少し時間を置き、子供達が親元に帰ったのを確かめてから、意気揚々と龍麻は出かけた。

「雹、居るか?」

「居るに決まっておろう」

 返事があったので、龍麻は中へと入った。

 客間に雹が座っている。

ガンリュウは後ろに控え、足を崩して座っている雹は、龍麻を見ても何も言わなかった。

「ええと、昨日浅草に行ったときに買ってきたんだ。切山椒っていうお菓子」

 持ってきた包みを差しだした龍麻は、立ちあがろうとする雹を制した。

「ああ、お茶は持ってくるから座ってていいよ」

 二ヶ月以上江戸に暮らしていれば、ある程度は生活にも慣れる。

この時代では朝に一日分の茶を沸かしておくことも知っていたから、龍麻は気軽に台所に立った。

「……」

 お茶とお菓子を前に、二人は黙りこくる。

龍麻はちらりと雹の顔をうかがってみたが、感情らしきものは浮かんでいない。

「どう……かな、これ」

「そなたはどうなのじゃ」

「美味しい……と思う」

「うむ、妾も同じじゃ」

 ようやく会話らしきものを成立させた二人は、小さく笑いあった。

「浅草の賑わいはどうじゃった」

「凄かったよ。澳継と一回はぐれちまってね、『目印が動き回るんじゃねぇ、

ぼさっと突っ立ってりゃいいんだ』とか目茶苦茶言われたよ」

 すかさず澳継を蹴っ飛ばして喧嘩寸前までいき、

危うく見せ物になりそうだったという逸話は語らずに、龍麻は浅草の感想を述べた。

「ああそうだ、からくり人形の見世物があったな。ガンリュウほど精巧じゃなかったけど」

「ほう。じゃが、からくり人形にも見事な出来映えのものがあると聞いておる。

弓曳き童子というそうじゃが、一度見てみたいものよの」

「どこに行けば見られるのか、知っているのか?」

「いや。田中久重という御仁が作られたということしか知らぬ」

 弓曳き童子がある場所が判れば、連れていってやることもできただろう。

龍麻は落胆したが、からくり人形の話題に雹は気を良くしたようだった。

「妾も作ってみたいものよ」

「作れないのか?」

「材料が手に入らぬ。それに特別な歯車やばねは高価ゆえ、道楽で作るのは憚られるのじゃ」

 金銭の話を持ちだされると龍麻にはどうしようもない。

自身でさえかつては時諏佐百合の、現在は九角天戒の好意に甘えている身分なのだ。

嵐王の作りだす道具のように、鬼道衆の役に立つならともかく、

雹を慰めるためのからくり人形を作る費用は、さすがに用立ててはもらえないだろう。

「ところでな」

 話題を変えた雹に、龍麻は耳をそばだてた。

「先日はよくもたばかってくれたの」

「たばかる?」

「童達をガンリュウに乗せた件じゃ!」

 雹の顔が赤いのは、怒っているからだろうか。

だが、染まりきらない白い頬は、龍麻の目を惹いてやまなかった。

「子供達は喜んでいただろ?」

「危ないではないか。怪我をしたらどうするつもりだったのじゃ」

「雹が操るんだから、怪我なんてしないだろ」

「うぬ……! そ、それにじゃ、いきなり妾を……妾を、抱きおって……」

「怪我なんてさせないよ」

「そうではない!」

 ついに雹が声を荒げる。

龍麻が黙ると、雹は肩をいからせて龍麻を睨みつけた。

「そなたは……そなたという者は……!」

 それきり言葉が続かない雹に、龍麻は静かに語りかけた。

「確かに、調子に乗りすぎたかもしれない。気分を悪くしたなら謝る。

でも、俺はいいかげんな気持ちじゃない。それだけはわかってくれ」

 反撃が返ってくるだろうと龍麻は身構える。

だが、雹の反応は予想外のものだった。

凍てつくような言葉の代わりに、目尻からひとしずくの涙を伝わせたのだ。

それは、触ればむしろ温かかっただろう。

けれども、拭われることなく顎の下端まで流れた水滴は、龍麻の心を氷点下まで冷やした。

「……妾にはわからぬ。そなたのような軽佻浮薄な態度を、どうやって信じれば良いのじゃ」

「軽いのが嫌なら改めるよ。だから頼む、嫌いにはならないでくれ」

 前回の二の舞だけは避けたいと、龍麻は必死に頭を下げた。

百三十年待つなどと大言壮語しておいて、実際には彼女の心が少し開かれただけで浮かれ、

ずかずかと踏みこんだ自分を深く恥じた。

「ごめん、今日は帰るよ」

 ようやく龍麻は、桔梗が言った意味を理解した。

間を置くべきは雹ではなく自分だった。

 しばらくは雹に会わない方がいい。

急速に重くなった足を無理に動かし、龍麻は立ちあがった。

「待つのじゃ」

 振り向いてしまうと未練が生じる。

小さく首を振り、龍麻は土間へと下りかけた。

「待てと言うておるに。どうしてそなたはそう極端なのじゃ」

 ため息混じりの声に、龍麻の足が止まる。

振り返るか否か、悩んだ末に理性を裏切って身体を動かすと、

雹は龍麻が見たことのない表情をしていた。

「……嫌うてなどおらぬ」

 呼びとめておいて、龍麻の視線を避けるようにうつむいた雹は、

龍麻が自分の心臓の音で聞き逃してしまいそうな小声で囁いた。

「え? ……でも」

「信じてはおらぬ。じゃが、嫌うてもおらぬ。そなたはどちらかでないと気が済まぬのかえ?」

「そ、そんなことは」

 ない、と龍麻が激しく頭を振ると、なぜか雹は声を尖らせた。

「ならば少しは度量のあるところを見せてみよ。

今のそなたは軽挙妄動に過ぎるように見えてならぬのじゃ」

「……わかった」

 頷いた龍麻は、それでも今日は帰った方がよさそうだと思い、帰ろうとした。

すると雹がいくぶん和らいだ口調で、顔をそむけつつ言った。

「そなたが買うてきてくれた菓子じゃ、食べていくが良い。妾一人では食べきれぬ」

 胸にこみあげる熱いものをこらえながら、龍麻は再び座った。

 残りの切山椒は、ひどく甘い味がした。

 




基本エロ話書きなのですが、このシリーズに関してはこの話の辺りから「あ、エロ無理だ」と思い始めまして、開き直って外法帖の流れを生かす方に舵を切った覚えがあります。
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