※この作品はR-18です。

彼此岸   作:SVX

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彼此岸 二幕 ―陰中の陰―

 鬼哭村を覆う木々は、赤く色づいていた。

赤と黄色に染まる一八六六年の景色は、それまで、

つまり一九八〇年から一九九八年までの間に龍麻が見た、どの紅葉よりも美しかった。

自然の美というものにあまり関心がなかった二十世紀の青年は、

いまさらのように声を上げ、隣に座る人物に感動を伝えた。

「凄いんだな、本当の自然って」

「なんじゃ、そなたの時代にもみじはなくなっておるのか? 風情がないの」

「そういうわけじゃないけど」

 やや上方から下りてくる、涼やか、というには少し冷たさが勝る、

ちょうどこの季節の風のような声に、龍麻は苦笑で応えた。

「でも、こんなに綺麗じゃないかもしれない」

 澄んだ空の青さや、大地に充ち満ちる生気が、そう思わせているのかもしれない。

そしてもうひとつ、龍麻の感受性に大きな影響を与えた存在が、

龍麻が元々生きていたのとは異なるこの時代にはあった。

 その存在である隣の女性を、龍麻は眼だけを動かして見た。

龍麻と同じ方向を眺めている少女の頭は、龍麻よりも高い位置にあった。

深く黒い色の髪を無造作に風に揺らし、

そこから得も言われぬ香り――沈香というそうだ――を漂わせている。

「雹はもみじが好きなのか?」

 雹と呼ばれた少女は、龍麻の方を見ぬまま答えた。

「そうじゃな、嫌いではない」

 冷淡な返答に聞こえるが、雹は龍麻の傍から離れようとはしない。

心得ている龍麻は、それ以上詳しく訊ねようとはせず、別のことを聞いた。

「寒くはないか?」

 もちろん、彼女の身を案じての問いなのだが、雹はお気に召さなかったようで、

秋空に散らすように声を放った。

「いささか過保護じゃな、そなたは」

「そんなつもりじゃ」

「妾には人形と違って口がついておるからの、寒ければ寒いと言うわ」

 言った直後に雹は、華奢な身体をごくわずかに震わせる。

それを見逃さなかった龍麻は、あらぬ方を見上げて言った。

「でも、俺が寒くなってきたから、そろそろ戻ろう」

 ここで初めて雹は龍麻の方を見やった。

他所を向いている男に、数瞬だけ機嫌の悪そうな表情をする。

それから優美に指を動かし、彼女を乗せている、

ガンリュウという名の人型をしたからくりに向きを変えさせた。

「今日は、何が用意してあるのかえ?」

「昨日、初霜煎餅ってやつを買ってきた」

 返事がないのは雹が興味を持った証である。

そうと知りつつ龍麻は、はしゃいだり彼女の反応を見たりはせず、何気なく歩きだした。

半歩ほど後をついてくる重量感のある足音に、耳だけをそばだてながら。

 雹と菓子を食べ、お茶を飲むのは龍麻の日課になっていた。

八つ時――つまり、午後三時ごろに雹の家を訪れ、前日に買ってきた物を食べながら、

見てきた物の話をする。

もっぱら話すのは龍麻で、雹は相槌を打つ程度だったが、

幸いなことに、嫌われている気配はなさそうだった。

 もう十一月も終わろうかというこの時期、山間にある鬼哭村はすっかり寒くなり、

龍麻と雹はこたつを囲んでいる。

もちろん電気式ではなく、そのまま寝てしまえる暖かさでもないが、

こたつと言えば電気式だと思いこんでいた龍麻は、

江戸時代にこたつが存在したことに大いに驚いた。

実際にはこたつの起源は江戸どころか室町時代ごろとされ、

こたつに潜りこむ人々の絵も数多く描かれている。

つまり三百年以上の伝統があるスタイルというわけで、

龍麻も雹も背中を丸めて日本独特の暖房器具を満喫していた。

「ああ、これで蜜柑があったらなあ」

 まだこの頃は紀州でしか採れない蜜柑は、江戸では高価な部類に属する食べ物であり、

おいそれと庶民が口にできるものではない。

龍麻はみかんが大好きというわけでもなかったが、

百三十年ばかり遠くに来てみれば故郷の食べ物を懐かしくも思うのだった。

「そなたは男のくせに甘いものばかり好むのじゃな」

 冷たい、少なくとも他人は冷たいと感じる雹の口調にも龍麻は動じない。

彼には一人、男のくせに甘いものが大好きという、秘密を分かちあう友人がいるからだ。

その事実を知っているのは鬼哭村にも数人しかいない。

龍麻は雹に対して隠し事がある、ということになるが、

これに関しては、今後どれほど親しくなろうとも、本人の許可なくして語るつもりはなかった。

「はあ」

 適度な幸福感に、龍麻がため息をつく。

するとすぐさま雹が目を細めた。

「だらしがないの。ぐうたらな男になぞ価値はないぞえ」

 この程度の小言は聞き流せるだけの度量を、龍麻はすでに備えているので、

苦笑いと照れ笑いを混ぜたものを雹に向ける。

達観しているようにも見えるその顔が面白くなかったのか、

雹がさらに何か言いかけたとき、外からのより大きな声がそれを遮った。

「龍さん、いるかい?」

「いるよ」

「ちょっと手伝ってほしいんだ」

「わかった、今行く」

 村人に呼ばれて立ちあがった龍麻は、座ったままの雹を見た。

彼女に立って見送れなどと言うつもりはない。

足の腱を切られた彼女は、ガンリュウという名の巨大なからくり人形がなければ

移動するのもままならないのだ。

龍麻が雹を見たのは、こたつで背を丸める彼女の愛らしさを機に乗じて上から

眺めたかったからで、彼女が気づくまでの極小の時間堪能したあとは、

すぐに土間へと下りるつもりだった。

 ところが、その極小の時間に、雹が顔を上げる。

龍麻を真っ向から見据える彼女の表情は、首から下とは別人のようで、

龍麻はわずかに狼狽した。

これから短い時間とはいえ別れなければならないのに、嫌な記憶で締めたくはなかったのだ。

「忙しい男じゃの、そなたは」

 一方向に吹きつける冷風ではなく、乱流のようだったのは珍しく、

まばたきでごまかした龍麻は、そのまま背を向けた。

短い別れの挨拶は、発した方が思っているよりも遥かに

大きな効果を発せられた方にもたらしていた。

こたつなどより遥かに温まって、走りだしたくなったのをこらえて、龍麻は土間に下りる。

「それじゃ、また来るよ」

 返事はなく、最後に玄関から見る雹は、もうよそを向いている。

さっきよりも一回りほど小さく見える彼女の姿に、

暴れ馬のように彼女の所へ戻ろうとする足を御しながら、

龍麻は未練もたっぷりに去っていった。

 

 龍麻が村人達の用事を済ませて雹の家に戻ってきたのは、もう辺りも暗くなってからだった。

大人にも子供にも大人気の龍麻は、ひとたび雹の家から出ると次から次へと呼びとめられて、

容易には戻れなくなってしまうのだ。

今日はこの後嵐王の工房に行き、その後は九角の酒につきあわねばならず、

江戸時代で最も心地の良い場所で過ごせる時間はそれほど多くない。

一秒でも無駄にしないよう、早足で戻ってきた龍麻だった。

「ただいま」

 言うと同時に戸を開けて中に入る。

そのまま土間を抜けて台所に向かうと、横から家人が迎えた。

「なんじゃ、戻ってきよったのか」

 この程度の小さなつぶてに一々応じたりはせず、龍麻は夕餉ゆうげの用意を始めた。

 江戸時代にはもちろんスイッチひとつで火が起こせるような便利な道具はなく、

薪も貴重な燃料なので、朝にまとめて一日分を作ってしまう。

それが面倒なら外食になるが、内藤新宿から離れている鬼哭村でその手段は選べないので、

作りだめをするしかなかった。

 鬼哭村に来てからしばらくは、龍麻は九角の屋敷に世話になっていたので、

食事も下女か、時には桔梗が作ってくれたものを食べていた。

それが雹の家で食べるようになり、さらに朝、雹の家に行って作るようになるまでには、

涙ぐましい龍麻の努力があった。

 まず雹に二人分の食事を作ってもらえるよう、

つぶてではない、遥かに痛い霰あられを浴びながら懇願する。

それが上手くいって朝早起きして食事を作りに来たいと言った時、

龍麻は富士山の山頂から転がってきたような雪玉を必死に受けとめねばならなかった。

「毒でも盛るつもりかえ」

 敵であった雹よりも辛辣なこの一言は、江戸の雹にかなり耐性のできていた龍麻をひどく傷つけた。

彼女が男性全般に対して大きな不信感を抱いていること、

足の腱を切られているため襲われれば抵抗できず、

そのため他人を必要以上に警戒していることを充分に承知していなかったら、

彼女のために尽くしている龍麻でさえ怒ったかもしれない。

「いや、そうじゃなくて、せっかく嵐王に道具も作ってもらったことだし」

 龍麻が言っているのはフライパンのことだ。

現代の調理においては基本的な道具であるフライパンも、

江戸時代にはまだ日本には入ってきていない。

鍋はあったのでそれを元に、嵐王に取っ手をつけてもらった簡単なフライパンを作ってもらい、

冷えた前日の飯を使って炒飯を作ってみたのだ。

 飯の余りと野菜を適当に放りこみ、塩と醤油で味つけをして炒める。

炒飯というには残念ながら及ばない、焼き飯のようなものだったが、

九角と桔梗にはいたく気に入られた。

これで自信をつけた龍麻は、雹の食事当番となるべく、満を持して乗りこんだというわけだった。

 江戸時代は、商売にしている人間を除いて、男が厨房に立つことは少ない。

そういった事情もあって雹は、進んで食事を作りたがる龍麻を気味悪そうに見たものだったが、

龍麻の熱意に押しきられて、ついに申し出を受けいれた。

「じゃが、戸を開ける前に必ず声をかけよ。妾が駄目と言った時は無論、

返事がないときも勝手に入るのはまかりならぬぞ」

「ああ、もちろん」

 こっそり寝顔を見られる可能性を期待していた龍麻だったが、

そんな失望はおくびにも出さずにうなずき、翌日から雹の料理番として通い始めたのだった。

 そうした苦難の日々の結実が、今小さなこたつの上で雹と取っている食事だ。

じゃがいもと糸こんにゃくを煮た、肉じゃがの肉無し版と、卵焼き。

それにちくわやはんぺんを焼いたもの。

夜は冷めても食べられるものということで、これに漬け物と味噌汁が今晩のおかずだった。

卵は内藤新宿で買うと一個でかけ蕎麦が一杯食べられるほど高価だが、

幸いにも鬼哭村で鳥を飼っていて、数は少なくても手に入った。

とはいえ雹一人に食べさせるわけにはいかないから、

九角のために作った分から少しくすねている。

 ところどころに焦げ目のついた、あまり上出来とはいえない卵焼きを、

雹はたおやかな箸の動きでつまむ。

そしてこたつの中で握った手に汗を滲ませる制作者の心境を知ってか知らずか、

無造作ともいえる仕種で口に運んだ。

正面に座る男をなぜか睨みながら食べる雹の、きれいに切りそろえられた前髪は微動だにしない。

その艶が味の合否を握っているとばかりに黒髪を凝視していた龍麻に、

食べ終えた雹が静かに告げた。

「ふむ、悪くはないの」

「良かった……」

「じゃが、少し焦げが多いの。甘味と苦味が混ざって不愉快じゃ」

「ごめん」

 龍麻は謝ったが、これは調理人の技量よりも道具の性能によるところが大きい。

フライパンは形こそ現代と同じでも厚みや材質が違うので、火の通り方も当然違うのだ。

九角には焦げの少ない部分を供したので、余った部分はどうしても焦げが目立ってしまうのだった。

「いちいち謝らずとも良い、と言うておるじゃろう」

 柳眉を傾ける雹に、龍麻は毎度のことと頭を掻く。

ふん、と鼻を鳴らした雹は、

「妾一人に食べさせるつもりか」

 と冷たく言い、再び箸を動かしはじめた。

 龍麻も食べ始める。

冷めているのはどうしようもないが、それほど不味くもない。

そう思って雹を見ると、彼女はあからさまに目を逸らした。

落胆する龍麻に、冷たい声が浴びせられる。

「妾の顔色ばかり窺いおって、小心者め」

「せっかく食べてもらうんだから、美味しいって言ってもらえた方が嬉しいだろ」

 龍麻が反論すると、雹は切れ長の目を吊りあげた。

元から怜悧な印象を与える雹の顔は、特に怒るときに生気に満ちる。

白皙の頬にさっと朱が差し、紅梅の唇から威勢の良い悪口が放たれると、

嬉しさめいた気持ちさえ芽生えてしまう龍麻だ。

「食事のたびに美味しいなどと言うておれば口がおかしゅうなるわ」

 そのくせご飯はおかずに至るまで残さずに全て食べている。

油断すれば龍麻の食べる分が減っているほどで、

そんなとき龍麻の腹は、食べ物とは違う物質で満ちるのだった。

 食事が終わり、食器を下げた龍麻はこたつに入りなおす。

雹が意地悪げに一瞥したが、食事の後で攻撃性が収まっているのか、

口からつぶてが撃ちだされはしなかった。

大きな幸福と小さな落胆を布団の中に潜りこませて、龍麻はしみじみと呟いた。

「夜は冷えるな、さすがに」

「冬とはそういうものじゃ」

「そうなんだけど」

 一九九八年の東京とは段違いの寒さだ。

それはもちろん、山の麓にあるこの村の立地や、防寒対策に乏しい

江戸時代の建築物と衣類によるものなのだが、あるいはもしかしたら、

物理的な寒さの違いではなく、精神的なものから来ているのかもしれない。

 龍麻が百三十年前の江戸にやって来て、およそ四ヶ月。

この時代でも何人かの人と知り合い、世話になって、孤独ではないが、

それでも、寂しさを感じるときがある。

それは心にまで寒さが染みる、今日のような日で、目の前に好いた女性がいるとしても、

冷たい風が戸を鳴らす音が、消しきれない望郷の想いを龍麻に思い起こさせるのだ。

「それともそなたの時代では、冬でも暖かいというのかえ?」

 彼女の悪意のない――ないはずの問いが、生きていた未来を思いださせる。

冬でも暖かく、夜でも明るい街。

二十一世紀直前の東京に較べれば、明治の世を直前に控えているとはいえ

江戸の末期は不便が多すぎた。

電気もガスも、水道さえない。

トイレにレバーをひねれば流れていくような快適さはないし、全ての移動は歩くしかない。

龍麻はこれまで、自分が恵まれた時代に生きているという実感を持っていなかったが、

こうして過去に暮らしてみれば、否が応にもありがたみを覚えるというものだった。

「ああ……そうだな。家の中は冬でもずっと暖かいな。

夏とはいかないけど、春の日くらいには暖かくできる」

「本当かえ?」

「ああ」

 雹は目を丸くした。

うかつに見る者を切り刻む鋭い眼は、そのような形をすることに慣れていないようで、

釣られて小鼻まで小刻みに動いている。

冬らしからぬ情動が胸腔を満たすのを感じた龍麻は、さらに語を継いだ。

「それに、夏も涼しくて気持ちいい」

 そろそろあまり法螺を吹くなと雹が怒りだす。

薄氷の上を渡る思いで、しかし氷の冷たさを気持ちよくも思う龍麻だ。

 だが、今夜の雹はいつもとは違った。

「そなたの言うことが本当なら、過ごしやすそうじゃな」

「え、あ、うん」

 予想外の反応に、龍麻は戸惑う。

実は雹が氷の裏側からひびを入れていて、一気に水底へ龍麻を引きずりこむ機会を

狙っているのではないかと疑ったほどだ。

しかし彼女は鋭く尖った氷柱を撃ちだすことはあっても、そういった陰湿な言動はしない。

その点が龍麻が彼女に惹かれたきっかけであり、彼女を想う理由だった。

「暑いのは良いとしても、寒くなると足首が疼いてかなわぬ」

 無表情で告げる雹に、胸が締めつけられる。

その痛みが、龍麻の口を自然と開かせた。

「それなら、俺の時代に一緒に行かないか」

 龍麻は江戸時代に来てからこれまで、その考えを抱いたことはなかった。

雹と暮らすのは十九世紀の日本であって、

二十世紀末に彼女を連れて行くなどとは思いもしなかったのだ。

だが、口にしてみると、これは良い考えだと思った。

彼女に両親はなく、係累もない。

ならばこの時代に留まる理由も少ないのではないか。

龍麻は期待をこめて、向かいに座る女性を見つめた。

 雹は一度目を閉じ、薄く開けて言った。

「……申し出は嬉しいが、やめておこう。世話になった御屋形様を裏切るわけにはいかぬし、

この足ではそなたに迷惑がかかるばかりじゃ」

 それは半ば予想していた答えとはいえ、龍麻を落胆させた。

「そんなの、俺は迷惑だなんて思わない。未来の方が今より何もかも良いなんて言わないけど、

きっと幸せにしてみせる」

 想いの全てを乗せた龍麻の説得に、雹の顔が歪む。

それは龍麻がこれまで見たことのない、何種類もの感情が交じった表情だった。

 着物のたもとで顔を隠した雹は、やがて、小声で言った。

「妾はこの村で良い」

 勢いのまるでない、ふわりと落ちては消えてしまう淡雪のような囁きは、

龍麻に氷柱や霰よりも痛みをもたらした。

これまでこんな明確に断られたことも、そもそも断られそうな領域にまで

踏みこんだこともない男は、どうしてよいか分からずに沈黙した。

代わりに雹が訊ねる。

「そなたはいずれ帰らねばならぬのか?」

「……たぶん」

 鬼道衆との戦いはまだ始まったばかりだ。

時間の流れがどうなっているのか、龍麻には見当もつかないが、

もしかしたら今この瞬間にも仲間達が危機に陥っているかもしれない。

雹とどちらかを選ばなければならないとしたら、やはり、

元いた時代に戻る方を選ぶべきなのだろう。

「そうじゃな。その方が良いじゃろう」

 雹の物言いはあまりに冷たく聞こえ、龍麻は落胆した。

自分が彼女を好きなほどには、彼女には好かれていないと解ってしまったからだ。

もちろん、異なる時代に行く、というのは相当な覚悟が必要だと理解はしている。

誰も自分を知る人がいない、という孤独は、龍麻も経験しているからだ。

それでも、愛しあう相手がいるなら、どんな苦難でも乗り越えられる――

そんな龍麻の希望は、木っ端微塵に砕かれた。

彼女に得体の知れない男と得体の知れない時代に赴かなければならない道理はなく、

鬼哭村で世捨て人のような生を送るとしても、その方がましだとはっきり拒絶されたのだ。

しかも、龍麻にこの時代に留まって欲しいという気持ちすら彼女にはないようで、

龍麻は視野狭窄を起こしかねないほどだった。

 失意のうちに龍麻は、雹に暇を告げる。

この後の嵐王との約束を放りだし、九角のところでヤケ酒を呷ろうと考えていた。

こんな寒い夜に熱燗は、さぞ心に染みるだろう。

 そんな龍麻の心情を知らずか、雹はいつも通りの冷たい声で、彼の背中を呼びとめた。

「そうじゃ、最後に一つ頼みたいのじゃが」

 機嫌の悪さが完全には消え去ってはいないまま、龍麻は足を止める。

雹の顔を見ないよう、ちらりとだけ顔を傾けて。

「ガンリュウの調子が悪うなっての。明日部品を見繕ってきてはもらえぬかの」

「ああ、わかった」

「それから」

 一つじゃないのか、と龍麻は声には出さず愚痴る。

「そういうわけじゃから、寝所まで連れていってはくれぬかの」

 龍麻の五感は機能を停止した。

時空を超えたときでさえ普通に動いていた処理機能は雹の、

大して難しいとも思えない頼みを聞いた途端に壊れてしまった。

 壊れたという自覚はあるものの、何をどうしたらよいのか判断がつかず、

龍麻は油が切れた歯車のようにぎこちなく顔を彼女の方に向けた。

「なんじゃ、嫌なのかえ。それならそうと言うがよい、そなたには口がついておるのじゃからな。

それともそこにある口らしきものは、ガンリュウと同じで飾りかえ?」

「飾りじゃ、ない」

 愛想のない返事を愛想のない口調でしたのは、龍麻の意志ではない。

龍麻の五感は再起動を果たしはしたものの、まだ完全に機能が回復したわけではなく、

どこかにある予備機能が勝手に作動しただけだった。

 顔に続いて肉体を百八十度回転させた龍麻は、こわごわ雹を視界に収める。

 雹の瞳はそこにあった。

黒く冷たい、百三十年後に月夜の下に見たものと、同じ瞳が。

いくらかの困惑と、さざめき始めた興奮とを腹の下に封じこめて、龍麻は一歩彼女に近づいた。

 雹は動かない。

自分が発した言葉の意味を知らないかのように、近づく男に無関心だ。

動かぬ人形のような彼女に、龍麻は自分がひどい幻聴をしたのかと疑った。

このまま彼女に触れたなら、禁忌を犯したとして刺されるのではないかと。

 迷いながらも、だが、龍麻の身体はひとりでに彼女の傍に寄る。

膝をつき、腕を伸ばし、呼吸を止めて肩に触れた。

「愚鈍じゃな」

「え?」

 思いがけない言葉に、龍麻は意味を理解し損ねた。

動揺する脳に、さらなる罵声が浴びせられる。

「ガンリュウよりも遅いではないか。ほとほと愛想が尽きるわ」

 その声を、龍麻は確かに聞いた記憶があった。

過去か、それとも未来というべきか、いずれにしても時の向こう側で、

龍麻は今雹が発したのと同じ別れの挨拶を受けたのだ。

彼女は縁があったらまた会おう、と言った。

縁は、あった――

万感の想いに腕を震わせつつ、龍麻は彼女を抱きあげた。

 同じ頃、雹の屋敷から数分離れた場所では、約束を反故にされた男が、

そうとは知らぬまま酒を呑んでいた。

 桔梗が注いだ酒を、一息に呑み干す。

空になった盃を面白くもなさげに眺めた九角は、誰へともなく呟いた。

「……遅いな。腹でも壊したか?」

「そんなことはないでしょう」

 いやにきっぱりと否定する桔梗に、九角は盃を差しだしつつ興味深げに見やった。

「どうしてそう思う?」

「月が出ていませんから」

 ややあってから九角は、月の映っていない盃を傾ける。

ほどなく空になった器を眺めながら、鬼道衆の長は言った。

「久しぶりに二人で呑むか」

「天戒様の仰せのままに」

 嬉しそうに応じた桔梗は、九角に寄り添う。

重なった二つの影は、やがて行灯の届かないところへと消えていった。

 

 龍麻と澳継は、暗い江戸の街を駆けていた。

昼間の賑やかさが嘘のように静まりかえっている、晩秋の冷たい風が吹きすさぶのみの街に、

やや甲高い声が響く。

「全く、お前のせいだからな」

 澳継が怒っているのは、まだ内藤新宿に居るのに、すでに時間は暮れ六つを過ぎているからだ。

雹に頼まれたガンリュウの補修道具を龍麻は買い求めたのだが、

なぜか今日は品揃えが悪く、余分な店を何軒か回る羽目になったのが主な原因だった。

「悪かったよ。……どうせだから、帰る前に蕎麦でも食べていこうぜ。俺が奢るから」

「本当かッ!? 取り消しは効かねェからなッ」

 態度を豹変させた澳継に、龍麻は苦笑を押し殺して頷いた。

 いくら龍麻が江戸に慣れてきたといっても、一人で鬼哭村に帰りつけるほどではないし、

真っ暗な夜道を歩くのは男であっても遠慮したいところだ。

近頃では衝突する回数もさすがに減ってきたとはいえ、できれば機嫌は損ねたくなかった。

 もうひとつ、龍麻の気前が良いのにはからくりがあって、活動費という名目で二人は

九角から資金を受けとっているのだが、その金額が澳継よりも龍麻の方が若干多い。

これは龍麻が雹のために江戸のあちこちに出かけて菓子を買っているのを聞きつけた九角が、

少し余分に買ってくるよう命じたからだ。

自分の五感で江戸の実態を調査する必要がある、というきわめて婉曲的な物言いを、

龍麻はすぐに理解した。

この時代、男はあまり甘い物を好むのを良いとはされず、

特に九角は鬼道衆の長としての威厳を保つ必要からか、

甘党であるのを他人にも話したことがなかったらしい。

意を酌んだ龍麻が誰も居ない時を見計らって買ってきた団子を持っていくと、

九角は大層喜んだものだった。

以後、龍麻は菓子を買うとき毎回三人分頼むようになり、

活動費も澳継と較べてその分増えたというわけだった。

 だから澳継に蕎麦を奢るくらいの余分を龍麻は持ち合わせている。

一方で澳継は結構買い食いをしていて、手元不如意が常なので、

奢る、という語句にはライバル意識も吹き飛んでしまうようだった。

 適当に屋台を見つけて二人は並んで立つ。

この時代の屋台に机や椅子といった小洒落た物はなく、立ったままかしゃがんで食べるしかない。

「へい、らっしゃいッ」

「天ぷら蕎麦二つ」

「毎度ッ」

 勝手に頼んだ龍麻に、澳継は怒るどころか目を丸くした。

「お、おい」

「何だよ」

「天ぷら蕎麦なんていいのかよ」

「大丈夫だって」

 龍麻が天ぷら蕎麦を頼んだのは、以前、江戸時代に来た初日に醍醐に奢ってもらった

天ぷらの味が忘れられないからだ。

江戸前、という言葉が一九九八年にも残っているように、

この時代は二十世紀よりもずっと江戸城と海が近かった。

十年ほど前に台場が築かれているが、それでも魚介類の鮮度に関しては二十世紀の東京でも

全く敵わなかった。

「天ぷら蕎麦、お待ちッ」

 湯気を立てる器を幸福そうに眺めた二人は、早速食べ始めた。

しばらくは無言で蕎麦を啜る。

暮れ六つを過ぎて日中の喧噪は収まっているが、この近辺は龍麻達以外にも蕎麦を啜る音が

あちらこちらから聞こえ、思いのほか賑やかだ。

 半分ほどを食べた頃、ようやく澳継が顔を上げ、龍麻に礼を言った。

「お前、結構いい奴だったんだな」

 人物評価を蕎麦一杯で急上昇させる澳継を、むしろ龍麻は蹴りたくなったが、

勢いよく蕎麦をたぐることでその欲求を抑えた。

 温かな蕎麦が全身をほぐしてくれる。

ここから鬼哭村まで一時間以上は歩かねばならないが、

なんとか耐えられそうなくらいに元気が出てきた。

「あァ、寒い夜は蕎麦に限るな」

 しみじみと言う澳継に龍麻は蕎麦を呑みながら頷いた。

 その時だった。

「元気そうじゃねェか」

 突然背中から聞こえた、聞き覚えのある男の声が、

金をたかろうとするチンピラのように聞こえたのは、

彼の態度よりも龍麻の精神の方に大きな理由があった。

江戸時代に暮らしはじめておよそ百日、鬼哭村の人間を除けば知り合いは二十人もいない

龍麻の、数少ない友人と言って良い一人を、龍麻は裏切りに近い形で手放したのだ。

正確には違うと言いたいが、組織を黙って抜けた挙げ句に敵対する側についたとなれば、

そう見られても反論は難しかった。

「京梧か……」

 三十日ぶりほどに会った蓬莱寺京梧は、緊張する龍麻をよそに、

敵意を剥きだしにはしていなかった。

「なんてツラしてんだよ。まあ食えよ、蕎麦が伸びちまうぜ。おう親父、俺にもかけだ」

 実のところ、龍麻はもうほとんど蕎麦を食べ終えていた。

だからといって先に出ていくわけにもいかない。

つゆを啜って時間を稼いでいると、京梧の頼んだ蕎麦が来た。

「で、何やってたんだよ」

 蕎麦を一口たぐった京梧は、ここで澳継に気がついたようだった。

「手前ェ……鬼道衆の奴じゃねェか」

「やんのかよ手前ェ……!」

 澳継の客気を、京梧は悠然と躱した。

「やってもいいが、その前に蕎麦くらい食わせろ。……そうか、寝返ったってわけか」

 責める口調ではなく、面白がっているようでさえあったが、

龍麻は反論しないわけにはいかない。

「違う。確かに今俺は鬼道衆の一員だけど、寝返ったわけじゃない」

「じゃあ、なんだってんだよ」

「……女だ」

「あァ!?」

「お前には話してなかったけど、元いた時代で俺は鬼道衆の女に会ったんだ。

摩尼って宝珠に封ぜられていた陰氣で甦ったその女は、自分を鬼道衆の一員と言い、

江戸……この時代に生きていたと言った。その女はすぐにいなくなっちまったけど、

その後俺は江戸時代に飛ばされて、その女を見つけたんだよ」

「そんな大事なこと、なんで言わなかった」

「俺が最初に鬼道衆の名を出したとき、京梧も醍醐も怒ったじゃないか。

俺達も鬼道衆とは敵対してるって。そんな連中に向かって、

鬼道衆の女を捜してるなんて言えるわけないだろ」

 京梧は思いきり眉間に皺を寄せたが、何も言わない。

嵐に備えて龍麻が身構えていると、彼は丼を置いて満足げに息を吐いた。

「まァ、そういうことなら仕様がねェか」

「……怒らないのか?」

「そりゃ醍醐の仕事だろ。俺はそこまで龍閃組に肩入れしてるわけじゃねェし、

だいいち、女のために命を張るなんて馬鹿野郎を責める道理は持っちゃいねェよ」

 京梧の意外な度量の広さに龍麻は言葉がない。

「けどよ、醍醐や百合ちゃんに筋は通すべきだろうし、鬼道衆を黙って見逃すほど甘くはねェ」

「……どうすればいい」

「そうだな」

 京梧はすぐには答えず、蕎麦を啜った。

威勢の良い喉ごしの音が、嫌が応にも緊張を高めていく。

京梧は今日は木刀ではなく真剣を帯刀しており、

一戦交えるとなれば生死を賭けたものになるだろう。

死ぬのは嫌だ――少なくとも、京梧と闘って死ぬ覚悟など、龍麻にはなかった。

それに仮に勝ったところで、醍醐と百合の怒りが解けるわけではないのだから全くの無駄骨だ。

謝って済むのなら幾らでも謝るつもりだが、京梧にそのつもりはなさそうだった。

 屋台を中心に緊張が満ちていく。

わずかな空気の乱れさえも、引き金になってしまいそうで、

龍麻は息を止めて京梧の出方をうかがった。

 蕎麦を食べ終えた京梧が、器を置く。

その時を待っていたかのように、小さな悲鳴がどこからか聞こえてきた。

期せずして三人は顔を見合わせる。

「今の……女の悲鳴だよな」

「ちッ、出やがったかッ!!」

 舌打ちするや否や、京梧は駆けだした。

 これは好機かもしれない。

京梧と反対方向に駆けだそうとする龍麻と澳継に、店の主人が立ちはだかった。

「おいッ、あんた今の奴の知り合いだろうッ!? 代金、まとめて払ってくんな」

 喉まで出かけた言葉を呑みこんで、龍麻は三人分の代金を支払った。

「おい、この隙にさっさとずらかろうぜ」

 澳継の正論を龍麻は吹き飛ばした。

「鬼道衆が龍閃組に奢ってやったなんて噂が広まってみろ、沽券に関わるだろ。取り返さないと」

「むッ……」

 無論、それは口実に過ぎない。

何が起きたか知っているかのような京梧の口ぶりが気になったのだ。

しかもそれは、彼にとって敵であるはずの自分たちよりも重要度が高いらしい。

龍麻は急いで彼の後を追った。

 蕎麦屋から川沿いにまっすぐ走ったところに、京梧はいた。

龍麻と澳継は速度を落として近づいたが、京梧の様子がおかしい。

川の方を向いている彼は、刀を抜いていた。

空気の帯電を感じた二人も、戦闘準備を整えた。

風呂敷を解いた龍麻が二組の籠手を取りだし、一組を澳継に手渡す。

大きさが異なるだけでデザインは良く似ているそれらは、

龍麻の籠手を元にして、九角が用意させた物だ。

両手を組むと龍の頭が現れるよう意匠が施されている籠手を、

氣の徹りが良くなるという龍麻の説得と、

最終的には九角の命令によって使うことを承諾したものの、

外連味が過ぎるといって澳継はかなり嫌がったものだった。

 急いで籠手を装着した二人は、京梧に近づいていく。

見向きもしない京梧に、話しかけたりはせず、彼の切っ先が向いている方を油断無く見渡した。

 蕎麦屋の灯りも失くなった川っぷちは、漆黒のみが広がっている。

目を凝らせば漆黒にも二色あるのは、水面だろう。

そこにさらに目を凝らすと、小さな船着き場が見えた。

渡し船なのだろうか、小型の船が一艘、繋がれている。

 そこに、気配があった。

辺りの暗闇を凝集し、人ではありえない邪悪な気配が船の上に漂っていた。

氣の操り方を体得していない京梧でさえ感じとった気配だから、

龍麻と澳継にはより鮮明に伝わっている。

鼻をつまみたくなるほどの濁った氣に、二人は戦慄していた。

悪意を持つ人間程度ではとうてい醸すことのできない、

目の前の闇は全てその一点から広がっているのではないかというくらいの、

存在そのものが邪悪な何かが纏う邪氣は、若いとはいえ百戦錬磨の拳士二人に

感情をねじ伏せなければすぐにも逃げだしたくなるほどの嫌悪を与えていた。

 敵の姿は未だ見えなくても、難敵であるのは間違いなく、

京梧に声をかけるタイミングを龍麻は計る。

前方から目を離さないまま、小声で話しかけようと口を開いた瞬間、京梧が跳んだ。

「てやァァァァッッ!!」

 跳躍と斬撃が、同時に為される。

一気呵成に振りおろされた刀は、鬼神ですら両断しただろう烈しさだったが、

刀に空気以外の何をも斬った手応えはなかった。

 体勢を整えた京梧は、再び刀を構える。

邪悪な気配はいささかも減っておらず、刀を握る手に微量の汗が滲んだ。

京梧が刀を握り直した時、前方から何かが聞こえてきた。

「ククク……ニンゲンニシテハ、ヤルデハナイカ」

 歯の奥を擦りあわせたような、小さな声。

そのくせ耳の中に直接聞こえる不快さに、京梧は叫んだ。

「何者だ手前ッ!! 姿を見せやがれッ!!」

 水面に叩きつけられた声が消えていき、完全な沈黙が訪れる直前、

京梧の眼前にありえないものが現れた。

「……!!」

 京梧と後ろの二人が揃って絶句する。

黒い空間に出現したのは、女の生首だった。

生白い顔面だけが目の高さに浮かんでいるおぞましさに、さしもの京梧も我を失う。

その間隙に、何者かが襲いかかった。

 影が塊となって京梧を狙う。

ほとんど不可視のそれを氣によって察知した龍麻は、京梧に飛びつき、背中から彼を押し倒した。

その直後、頭上を禍々しい何かが過ぎていく。

黒板を爪で引っ掻いた時の不快感を十倍にもしたような気持ち悪さに、

全身から冷たい汗が噴きだした。

それは怒りさえ呑みこんでしまうようで、女を殺した上にいきなり攻撃してきた相手に

立ち向かう気力も生じぬまま、龍麻は、背中に取り憑いた不快感が消え去るまで

顔を上げることができなかった。

「……おい、もういいだろうよ」

 どれほどの時間が過ぎたのか、近くから京梧の声がする。

ようやく身体を起こした龍麻の前方には、もう一切の気配は感じられなかった。

安堵しつつ立ちあがると、京梧も立つ。

「くそッ、刀が土まみれになっちまった……助かったがよ」

 振り向かずに礼らしきものを言った彼も無事なようで、龍麻は残る一人の安否を確かめた。

「おい澳継、無事かッ」

 澳継は少し離れた場所で、同じように伏せていた。

龍麻が起こしてやると、いつもはそれだけのことでも後れを取ったと突っかかってくる澳継が、

怯えた顔を隠そうともしない。

呼びかけにも目はうつろなままで、龍麻は、少し荒療治を施すことにした。

 澳継の背中から、勁を徹す。

常人なら気を失ってしまうところだが、龍麻と同様に体内に満ちる氣を操ることができる技の

継承者である澳継には効果があるはずだった。

「大丈夫か」

「……」

 目の焦点は合ったが、まだ呆けているようだ。

今度は龍麻は氣を使わず、平手で頬を張った。

「ッ痛え、何しやがンだッ!!」

 叫んだ澳継は、怪訝そうに辺りを見渡す。

それで状況を思いだしたのか、薄ら寒そうに肩をすくめた。

「お、おい、さっきのは何だったんだよ」

 龍麻が答えなかったのは、むろん意地悪をしたのではない。

異様な気配と浮いた生首、それに陰氣の塊のような何かを避けたというだけで、

ほとんど何も見ていないに等しかったからだ。

 答えを求めて龍麻が目撃者を見ると、

京梧ははじめに気配を感じた小舟の方へ歩いていくところだった。

彼の後を追った龍麻と澳継は、再び不快な物を目にする。

 敵が持ち去った女性の、残った部分。

首から下が無造作に、からくり人形よりも人間らしくない姿で小舟の中に放置されていた。

それが人間に見えなかったのは、もうひとつ、出血が見られなかったからだった。

夜だから判別しにくいとしても、着物が全くといっていいほど汚れていない。

どのような手段を用いたにせよ、悲鳴の時点では生きていた女性を惨殺して

血が出ないというのはありえないはずで、何か人知を越えた力を用いたのかもしれなかった。

「うッ……」

 澳継が口元を押さえている。

龍麻も気分は同じで、浅く、深く、不安定な呼吸を繰り返した。

「ひでェことをしやがるな」

 京梧が呟く。

その呟きに重なるように、叫び声が聞こえた。

「御用だッ!」

 遠方から提灯が近づいてくる。

舌打ちした京梧が、刀を収めて振り返った。

「ちッ、同心が来やがった。おい緋勇、明日竜泉寺に来い。話がある」

 龍麻の返事を待たずに京梧は走りだした。

龍麻は澳継と顔を見合わせたが、他に選択肢があるわけでもない。

二人は揃って京梧に倣い、走りだした。

 三人の後方から、追いかけるものがある。

それは人ではなく、一匹の小さな蠅だった。

耳障りな羽音は龍麻達の耳にも聞こえていた。

だが、同心から逃げるのに夢中で、一匹の虫になど気を払う余裕はなく、

龍麻達はそのまま駆けていった。

 幸い距離があったので、ほどなく同心の声は聞こえなくなった。

知らぬ間に京梧とは別れていた龍麻と澳継は、それでも用心のため、

内藤新宿を出るまで一言も喋らずに歩いた。

澳継がようやく声を発したのは、鬼哭村への隠し道に入ってからだった。

「おい、なんだよあれ」

「俺にもわからないよ」

 普段ならそんな返事はあしらわれたと思って激昂する澳継が静かなままだ。

彼が再び口を開いたのは、龍麻が六十回ほど足を動かしてからだった。

「畜生ッ、俺ともあろう者がビビっちまった」

 澳継が弱気を認めたのは、彼と知りあって以来初めてだったが、笑う気になど龍麻はなれない。

「俺もだよ。とっさに伏せた後、顔を上げたら目の前にあいつが居るんじゃないかって

怖くてたまらなかった」

「人間……じゃねェよな、多分」

 それは、戦いもせずに怯えるなど相手が人間なら許せないという、

プライドが言わせた負け惜しみに過ぎないのかもしれない。

だが、龍麻も同意見だった。

刀のような刃物を持たず、血を流すことなしに首を斬り落とす技。

生命の危険を覚えたほどの、凄まじい攻撃。

そして足音もなく消えたのは、空を飛んだとしか思えない。

できるならば二度とは会いたくない存在だった。

 だが、江戸を護ろうとする龍閃組と、江戸幕府を倒そうと目論む鬼道衆。

二つの組織のいずれか、あるいは両方と関わる可能性は高いだろう。

 その予感に根拠などない。

龍閃組と鬼道衆が偶然対面した夜に現れた、ただそれだけが龍麻に確信させるのだ。

あの禍々しい存在とは、いつか戦うことになると。

そしてもしかしたら、あの敵と戦うことこそが自分が過去にタイムスリップした

理由なのではないかと、百三十年後の東京でもさまざまな事件の中心にいる龍麻は

思い始めていた。

 

 翌日、龍麻は約束通り竜泉寺に向かった。

隣には澳継ではなく、九桐尚雲がいる。

 昨夜鬼哭村に戻った龍麻と澳継は、九角に事の次第を報告した。

竜泉寺に呼び出されたことも告げ、九角の判断を仰いだところ、

彼が答えるより早く、同席していた尚雲が、それなら俺が一緒に行こうと言いだしたのだ。

龍麻は驚いたが、それよりも驚いたのは澳継が反対したことだった。

「龍閃組の本拠地に行く必要なんてこれっぽっちもねえだろ」

 緋勇を心配しているのか、と尚雲が問うと、顔を紅潮させて澳継は怒鳴った。

「んな訳あるかッ!! この野郎がのこのこ出かけてぶッ殺されたって知ったことじゃねェ。

けど、鬼道衆が間抜けの集団みたいに言われるのは冗談じゃねェって言ってんだよ」

「蓬莱寺は喧嘩っ早いが、罠にかけるなんて芸当はできない人間だ。

それに、竜泉寺にもそんなに人は居ないのだろう? 緋勇」

「ああ、俺が居た時は京梧と醍醐、あと時諏佐百合っていう女の人だけだった」

「それなら、俺と緋勇で行けばなんとかなるだろう」

 尚雲は豪語するだけのことはあり、武器を持たせれば龍麻ではとうてい敵わない。

護衛としては心強い限りなのだ。

「じゃあ俺も行く」

 するとどこに対して意地を張っているのか、もはやわからなくなっている澳継が言う。

「いや、風祭には若を護ってもらわないといけないからな」

「そういうことならしょうがねェな」

 片目をつぶってみせた尚雲に、龍麻は苦笑いで応えたのだった。

 かなり速い尚雲のペースに苦労してついていきながら、龍麻は昨夜からの疑問を口にした。

「ところで、どうしてついてきてくれたんだ?」

「ん? 昨日説明した通りだが」

「確かに危険はあるけど、俺一人で行けば済む話だろ? もともと余所者なんだから、

俺がいなくなっても鬼哭村に影響は少ないはずだ」

 龍麻は自虐的な考え方をする人となりではないが、

過去の世界で孤独であるという意識が影響を及ぼしているのかもしれない。

 ところが、尚雲は龍麻の考えを鼻で笑い飛ばした。

「……君は色々なことを知っているが、自分についてはそうでもないようだな」

「どういう意味だ?」

「君は今や鬼哭村にとってなくてはならない人間になっている。

若は君のおかげでずいぶん明るくなったし、澳継も、嵐王も、村人達も、

それに君が気にしている雹も、明らかに君に大きく影響を受けている」

 居場所を確立するために必死だったという記憶しかないのだが、

面と向かって褒められて龍麻は大きく照れた。

「……そうかな」

「そうさ。だから俺が護衛につく。今日は連中と戦うようなことにはならないと思うがね」

 軽い口調で言った尚雲は、毛のない頭を撫でた。

「それに俺も、澳継よりは君と鍛錬する方が身になる」

「そうかな」

 芸のない返事を龍麻は繰り返す。

「ああ。澳継も技の切れはいいが、まだ学ぶべきところが多々ある。

その点君は駆け引きも上手いし、余裕が感じられる」

 その点に関しては尚雲の言うとおりだと龍麻は思った。

澳継は勝敗と生死をイコールに考えている節があり、

龍麻との修練においても昏倒させようという勢いで攻めてくる。

だからはじめは手こずったものの、彼の攻勢を受けることに専念して凌いでしまえば、

澳継は自ずと息切れすることになり、勝つのは難しいことではなくなった。

龍麻も度々指摘はして、澳継も修正しようとはしているようだが、

未だ頭に血が上りやすい性向は直せていないようだった。

 一方で龍麻は尚雲を大変苦手としていた。

龍蔵院流という槍の流派の使い手である尚雲は、

槍だけでなくあらゆる武器の扱いに精通している。

それはあらゆる間合いにも対応できるという意味でもあって、

近づくことさえ困難な尚雲との修練は、生傷が絶えないのだ。

「君の時代にも、猛者は大勢いるのだろう?

羨ましいな、俺の知らない強者がたくさん居るなんて」

 龍麻が一九九八年の東京で戦っているのは、害を為そうとする輩がいるからであって、

決して強い奴を探し求めているわけではない。

それでも、異形の化け物になら存分に腕を振るえるはずで、

その意味では尚雲が一九九八年に来れば心強い味方となってくれるに違いなかった。

 その後、様々な武器の話や、それを使った戦い方について討論を交しているうちに、

竜泉寺に到着した。

到着したは良いが、さてどうやって彼らを、できれば京梧を呼びだそうか、

立つ際に跡を濁しまくった龍は思案する。

すると彼の隣に立つ、槍を携えた破戒僧が、朗々とした声を放った。

「頼もう!」

 これではまるで道場破りだ、と龍麻が思ったのも束の間、本堂の戸が開き、

堂々たる体格の僧が姿を現した。

「何用……お前か、緋勇……!」

「や、やあ、久しぶり」

「仏の慈悲は広大無辺、とは言うがな」

 直接殴られた恨みはそう簡単には消えないのだと醍醐の顔が物語っている。

坊主にしては雑念にまみれているその表情に、もう一人の坊主が大笑した。

「やあ、これは強そうな先生だ。拙僧は九桐尚雲と申す」

 同業者に挨拶されて醍醐は面食らったようで、慌てて居住まいを正した。

「これはご丁寧な挨拶を。拙僧は醍醐雄慶、高野山で学び申したが、

今は故あって下山しております。失礼ながら尚雲殿、その携えているのは槍ですかな? とすると」

「いかにも、龍蔵院流を」

「ほう……! 噂には聞いておりますが、天下に名を轟かせる龍蔵院流の槍さばき、

是非とも拝見したいものですな」

「ご所望とあらばいずれ」

 すっかり意気投合した破戒僧二人は、龍麻そっちのけで盛りあがる。

蚊帳の外の龍麻が辛抱強く待つこと数分、ようやく醍醐が龍麻の方を向いた。

「それで、何をしに来たのだ」

「京梧に呼ばれて来たんだよ」

「何……?」

 龍麻が昨夜のことを説明すると、醍醐はひとつ唸り、庫裏へと向かった。

ほどなく怒鳴り声が響き渡る。

「おい京梧、いつまで寝ている!」

「うるせェ、寝たいように寝かせろクソ坊主ッ!!」

 怒鳴り声に続いて派手な物音が聞こえてきた。

それからしばらくして現れた二人の服装は乱れ、呼吸は荒かった。

「……おう、来たか」

 顎をしきりに触りながら、京梧は二人を本堂に招く。

ここまで来てじたばたしても仕方がないので、龍麻と尚雲は中へと入った。

 龍麻にとってはおよそ三ヶ月ぶりとなる竜泉寺だが、特に変化はない。

若干の懐かしさを感じつつ、龍麻は尚雲の隣に座った。

尚雲はさりげなく入ってきた戸を背に、京梧達と向かいあっている。

これは彼が用心深いというより、龍麻に危機感が足りないのだろう。

そのくせ、落ちつかない龍麻と対照的に尚雲は堂々としたものだった。

槍を前に置き、背筋を伸ばして少しも臆するところがない。

龍麻も彼に倣って籠手を前に置き、胸を張って京梧と醍醐を見た。

「それで、昨日の夜は何があったのだ」

「出たんだよ、遂に」

 素っ気なく答えた京梧に、醍醐は太い眉を跳ねあげた。

「何だと……!?」

「その場にこいつも居合わせたんだ。なあ緋勇」

 龍麻は頷き、昨日九角に話したのと同じ内容を説明した。

「とにかく異様だった」

 自分の感想を加えて龍麻が話を終えると、京梧が情報をつけ加えた。

「近頃江戸の周りの町でああいう、女が殺されて頭が持ち去られる事件が起きてやがる。

で、内藤新宿でも十日ほど前から二人殺されててな、

単なる殺しにしちゃあ気味が悪いってんでな、俺と醍醐が見回ってたってわけだ。

俺は鬼道衆が関係してんじゃねェかと睨んでるんだが、その辺どうだ」

 三人の視線が一点に集中する。

男達の険しい眼光を、尚雲は顔色一つ変えずに受けとめた。

「その件に関しては初めて聞いた。無論、若からそういう命令が下ってはいないし、

手下が独断で動いたという話も聞いていない」

「本当かよ」

 京梧は露骨な疑念を隠そうともしないが、尚雲は涼やかに頷いた。

「ああ。この件に関する限り鬼道衆は一切関係ないと断言できる」

「じゃあ、どこのどいつがやったってんだよ」

「それに関してだが」

 尚雲は居ずまいを正す。

飄々とした印象の彼がそうしたことで、残る三人の意識も自ずと集中した。

「雄慶殿は外法というものをご存じか」

 醍醐の顔色が変わるのをよそに、尚雲は淡々と続けた。

「人の頭――髑髏を用いてこの世ならぬ邪妖を呼びだす術があるという。

用いる人の頭は苦しみ、痛み、恨み、恐怖の念が強いほど良いとされ、

すなわち生きたままの人間の首をもぎ取るのが最良とされている」

「酷ェ術もあったもんだな」

 苦虫をかみつぶしたような顔をする京梧に、尚雲は彼に珍しく、重々しく頷いた。

「だがそれによって呼びだされる邪妖は、山を削り大河を生みだす、

鬼神の如き力を持つと言われている」

 今度は龍麻が口を開いた。

「止める方法は?」

「髑髏が揃った後、儀式を行う必要があるはずだ。その儀式を中断させる、

つまり術者を殺すのが一番確実だ」

 昨夜の戦闘からすると、とても確実とはいえないと龍麻は思った。

京梧の剣は空を斬り、自分たちに至っては攻撃すらできなかったのだ。

運良く彼らを見つけだせたとしても、下手をすれば返り討ちに遭いかねない。

「他には?」

「邪妖が復活できないほどの強固な結界を江戸に張ればいい」

「その結界の張り方を尚雲は知っているのか?」

「いいや。そんな大秘法は江戸の街を作った天海僧正ぐらいしか知らないだろう」

 勢いこんで訊ねた龍麻は、ここでがっくりと肩を落とした。

龍麻の日本史の知識は、天海という名の僧は江戸初期、家康の時代に存在したことになっている。

同じ江戸時代といえども今は明治時代まであと二年という末期で、

彼が生きている可能性は皆無だった。

「するってェと、やっぱりあの野郎をぶッた斬るしかないって寸法か」

「だが、どこに出没するか判らないのだろう?

内藤新宿だけならともかく、江戸全域となるととても手が回らんぞ」

 む、と京梧は唸ったきり黙ってしまった。

彼をやりこめた醍醐も名案があるわけではなく、小難しい顔をして黙ってしまう。

そこに今度は尚雲が問うた。

「同心に応援を頼むのは?」

「何と言えば良いのだ? 外法によって江戸が乱されようとしているなどと、

信じてもらえるはずがない。それに見つけたところで生半可な腕では取り逃がしてしまうだろう」

 ふむ、と尚雲が呟きともつかぬため息をついた直後、龍麻が叫んだ。

「そうだ、摩尼だ!」

 いきなり立ちあがった龍麻に、三人はあっけにとられていた。

龍麻は構わず立ったまま、彼らに閃きを説明した。

「俺が持ってた宝珠があっただろ、あれだよ! あれを使えばいいんだ!」

「何言ってやがるのかさっぱりわかんねェ」

「うむ、落ちついて説明してくれぬか」

 京梧と醍醐は首をひねり、尚雲は面白そうに龍麻を見ている。

少し冷静さを取り戻した龍麻は、座り直して考えを語った。

「摩尼には陰氣が封じこめられていて、外法によってその陰氣が雹を甦らせた。

で、雹が言うにはその摩尼を使って東京を護らせていた。

じゃあ陽の氣を摩尼に封じても護れるんじゃないか?」

 龍麻の提案に、三人は半信半疑の態度を崩そうとしない。

それも半信ならばよいほうで、京梧に至ってはいかにもうさんくさそうに鼻を鳴らしたものだった。

「陽の氣を封じるって、誰がそんなことできるんだよ」

「俺がやる」

 ここで尚雲が興味を持ったようで、口を挟んできた。

「そんなことが可能なのか?」

「わからない――けど、できると思う」

「俄には信じがたいが、仮にできたとして、摩尼をどこに封じればいいのか知っているのか」

 醍醐の質問は、それまで自信満々だった龍麻をたちまちしおれさせた。

「……いや……それは……」

「なんだよ、ふりだしに戻っちまったじゃねェか」

 小馬鹿にしたような京梧の嘆きにも、龍麻は言い返せない。

妙案だと思ったのだが、八方ふさがりとなってしまった。

 他に案も思い浮かばず、四人は難しい顔をしたまま考えこむ。

日光が奥まで射しこまない暗い堂の中では、考えまで暗澹としていった。

 龍閃組と鬼道衆の人間が円陣を組んで悩んでいるという珍しい光景は、

三十分ほども続いたが、それに終止符を打ったのは、彼らの中の一人ではなかった。

龍麻が背にしている堂の入り戸が、唐突に開け放たれたのだ。

射しこむ陽光に四人が一斉に目を細めると、光の向こうに一人の女性が立っていた。

「なんだい、いい若い者が昼日中から雁首揃えて唸ってさ」

 威勢の良い声と共に入ってきたのは、時諏佐百合だった。

龍閃組に関わる立場の女性で、龍閃組が根城にしているこの寺に来るのは

何らおかしなことではないが、彼女に対していささか気まずい人間が一人いる。

縁があればきちんと謝りたいと思っていたし、彼女はここに住んでいるわけでなく、

決して忍びこむ意図があったわけでもないが、形として彼女を背中で迎える格好になった龍麻は、

気まずさを最大限に膨らませることとなってしまった。

「おや? あんたは……」

 百合もすぐに龍麻に気がついたようで、もともと気の強そうな目が、

束の間殺気に近いほどの光を宿す。

「こいつ、女の尻を追いかけて逃げだしたんだってよ」

 龍麻はどう事情を説明しようかと悩む間も与えられず、

最悪の印象を京梧に与えられてしまった。

殴りかかろうと腰を浮かせたところで、醍醐が口を添える。

「それで昨日、京梧と内藤新宿で出くわしたそうなのですが、その後にあれを見たと」

「何だって!? 詳しく聞かせてみな」

 一層目を険しくした百合は、男達の円陣に割って入った。

龍麻も持ちあげた尻を床に落として彼女に説明した。

九角と醍醐に続いて三度目となるので、スムーズに要点を伝えることができた。

彼女たちの方でも調査を始めていたというので、

百合はさほど驚きもせずに話を聞いていたが、犯人が持ち去った頭部を使って邪妖を召喚

しようとしていると聞くと目の色を変えた。

「そんなこと……絶対に許すわけにはいかないよ」

 だけどどうすればいいか解らないんです、

と彼女が帰ってきたときの状況まで話が追いついたところで、龍麻は力なく呟いた。

百合は事態の重大さに龍麻を咎めるのを後回しにしたようだが、

それを喜ぶこともできない。

 百合も四人の男達と同様、黙りこくるかと思われたが、

彼女は落ちついた口調で一つの提案をした。

「それなら、爺さんに聞いてみたらどうだい?」

「誰だよ爺さんって」

 気のない口ぶりの京梧に直接答えず、百合はこの場でもっとも大きな男を見た。

「雄慶は知ってるだろう、円空和尚のことさ」

「円空先生が江戸にいらっしゃるのですか!?」

「あぁ、将軍様の御病気に際して江戸城に入っていたけれど、今は出られたのさ」

 どうやら醍醐の知り合いは中々の大物らしい。

そう龍麻が感心していると、京梧が勢いよく刀を掴んで立ちあがった。

「よッしゃッ、早速行ってみようぜ。で、どこに居るんだよその坊主は」

「円空先生は高野山の阿闍梨でいらっしゃる御方だぞ、失礼な口の利き方は許さん」

「あーッ、わかったよ、うるせェな」

 たしなめながらも醍醐も立ちあがる。

 続いて龍麻も立とうとした時だった。

堂の外から異様な声が聞こえてきた。

「ソウハサセヌ」

 京梧と龍麻に緊張が走る。

きちきち、という音が混ざった不愉快な声は、忘れようとしても忘れられるものではなかった。

「気をつけろ、昨日の奴だッ!」

 扉の横の壁に貼りついた龍麻は、慎重に気配をうかがう。

龍麻を除く三人が、それぞれ戦闘準備を整えたのを確かめると、一気に戸を開け放った。

京梧が飛びだし、龍麻、尚雲、醍醐の順に続く。

得物を構えた各々が四方を見渡し、敵の姿を探した。

「どこだッ、出てきやがれッ!」

 京梧の叫びが青空に吸いこまれていく。

甦る昨夜の恐怖をねじ伏せながら、龍麻も葉一枚の動きに至るまで見逃すまいと目を凝らした。

「くそッ、どうなってやがる」

 焦れた京梧が舌打ちする。

その瞬間、本堂内から百合の悲鳴が響いた。

「百合ちゃんッ!」

「しまった、囮かッ!」

 虚を突かれた四人は慌てて戻る。

そこで彼らが目にしたのは、信じられない光景だった。

 人が、石になっていく。

質素ではあるが上質な着物は、すでに帯の下まで無機質な灰色に変じていた。

石化は今も進行していて、百合の気丈な顔が恐怖に歪んでいる。

「野郎ッ、どこに居やがるッ!!」

 京梧が激昂する。

すでに気配は何処にもなく、敵は目的を正確に果たして逃げ去ったのだろう。

それぞれ腕に覚えのある武芸者だというのに、

あろうことか本拠地に敵の侵入を許し、指導者が襲われたのだ。

龍麻達の憤怒は頂点に達したが、どうすることもできない完全な敗北だった。

「あ……あんた達」

 胸元まで石と化した百合の、か細い声が四人を呼ぶ。

「円空先生は……高輪の高野寺にいらっしゃる……

先生に、会って……江戸を……護るんだよ……!」

「百合ちゃんッ!」

 京梧の叫びが届く寸前、百合の全ては石と化した。

勝気な瞳からも美しい唇からも、等しく生気は失われていた。

 四人の男達は呆然と立ちつくす。

その中で京梧が、まるで龍麻が首謀者だとでもいうように怒鳴り声を上げた。

「おい緋勇、何とかできねェのかよッ!!」

 人が石になるという現象を、龍麻は経験している。

江戸時代に来る数ヶ月前、高校生が石になるという事件が発生し、

龍麻の友人である桜井小蒔が被害に遭ったのだ。

ただし、知っているからといって解決できるわけではない。

己の無力さに歯ぎしりしつつ、龍麻は京梧の意に添えない答えを返した。

「……無理だ。石化の術はかけた本人しか解けない。

そいつに解かせるか、そいつを倒すかしないと」

 小蒔の石像を目の当たりにしたときほどではないにせよ、

それに近い衝撃と悲しみを龍麻は抱いていた。

その感情はごく自然に、百合を救うための戦いを龍麻に決意させた。

「上等じゃねェか……あんの野郎、ぶッた斬ってやらァ!」

「だが、どうやって奴の居場所を突きとめる?」

 醍醐の指摘に京梧が唸る。

敵は四人もの武芸者を出し抜く神出鬼没ぶりなのだ。

居場所を見つけるのは容易なことではない。

 醍醐が腕を組んで言った。

「円空先生にお会いするしかないだろうな。その上で緋勇が言っていた、

摩尼を使って奴等の企みを阻止する方策をとる。

そうすれば、奴等も俺達を狙って姿を見せるだろう」

「よし、それじゃ醍醐はその円空先生を見つけて、できればここに連れてきてくれ」

 頷き、指示を出す龍麻に、京梧が訊ねた。

「お前はどうするんだよ」

「百合さんの傍に誰か居ないとまずいだろ」

「ふむ……」

 醍醐は提案にあまり乗り気ではなさそうだ。

何がまずいのか考えた龍麻は、自分に原因があることに気づいた。

「じゃあ、京梧も残れよ」

「あん?」

 龍麻は今鬼道衆に属しているのだから、龍閃組の本拠地に一人で置いておくのは不用意に過ぎる。

そう醍醐は考えたのだろう。

ならば京梧と居れば良いはずで、加えて先ほどの敵が再び襲来した時、

正直言って一人では手に余る。

 今度も醍醐は少し思案したが、やがて決断した。

「解った、円空先生は俺が連れてくる。二人はここで時諏佐先生を護ってくれ」

「ああ。そういうことだから尚雲、頼まれてくれないか。

鬼哭村に戻って摩尼を持ってきて欲しいんだ」

 龍麻の言葉に、今度は京梧が噛みついた。

「鬼道衆を引き連れて来るんじゃねェだろうな」

 はっきり疑念を口にした京梧に、場に緊張が走る。

生じかけた一触即発の空気を、だが尚雲は悠然とかわした。

「そんなことはしない。鬼道衆として俺と緋勇以外に協力できるかどうかは約束できないが、

この件に関しては俺も最後まで見届けさせてもらう」

「保証はあるのかよ」

「してやられたという悔しさ、では納得がいかないかな」

 尚雲と京梧は直接刃を交えたこともある武芸者同士だ。

その心情の一片を汲んだのか、京梧は矛を収めた。

「まあいい、それじゃ、俺は待たせてもらうぜ」

「二人とも、よろしく頼む」

 醍醐は重々しく、尚雲は黙然と頷いてそれぞれ寺を出て行った。

 竜泉寺に残った京梧と龍麻は、むろん親しく話をする気にもなれず、

百合の石像がある本堂内で、距離を置いて座っていた。

 本当は龍麻は醍醐についていくか、自分で摩尼を取りに行きたかった。

身体を動かしていないと敗北感に全身を蝕まれそうだったのだ。

せめて摩尼があれば、氣を注入する作業に没頭できる。

だがそれがどれほどの負担になるのかも判らぬ今、無駄に体力を消耗するわけにはいかなかった。

 あぐらを掻いて座る龍麻は、京梧をちらりと見る。

片膝を立てて微動だにしない剣士の心境は、おそらく同じだろう。

一度は斬りかかった分、彼の方が痛恨の思いは強いかもしれない。

待つ、という辛い時間を受けいれたのも、責任を感じてのことなのかもしれなかった。

「おい」

 その京梧が、問いかける。

「お前はあんな野郎と戦ったことがあるのか」

「あそこまで強そうなのは、ない」

 再び沈黙が支配する。

次に京梧が口を開いたのは、堂に射しこむ光が色を変えはじめてからだった。

「誰よりも強くなりてェ――そう思って江戸に出てきたってのによ」

 風が古戸を鳴らす。

低められた京梧の声は、だが戸が鳴る音を圧して龍麻に響いた。

「手前ェが鬼道衆に付くッてんならそれでも構わねェ。

だがよ、あの野郎を叩ッ斬るまでは俺に力を貸せ」

「――ああ」

 この時龍麻の脳裏には、鬼道衆と龍閃組を和解させようだとかいう考えがあったわけではない。

ただ世話になった百合を救い、雹が生きるこの時代を護りたいという想いだけだった。

強く、揺るぎないその想いを込めて、龍麻は強く頷いたのだった。

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