円空を呼びに行った醍醐と、摩尼を取りに鬼哭村に行った尚雲が戻ってきたのは、
ほぼ同時刻だった。
日は沈み、寒さが一段と増した頃になって、先に戻ってきたのは尚雲だ。
鬼哭村と竜泉寺を二往復するのは、この時代の人間といえども大変だろうが、
尚雲の顔に疲れは微塵も浮かんでいなかった。
「これでいいかな」
「ああ、ありがとう」
尚雲からデイパックを受けとった龍麻は、中に摩尼が入っているのを確かめる。
龍麻をこの時代へと運んだ宝珠は、変わらぬ蒼い色をしていた。
「本当に上手くいくのかよ」
京梧の疑念は龍麻も共有するところだった。
氣の扱い方を学んだ龍麻ではあるが、こんな使い方は習っていない。
それに氣を扱えるといっても熟練の腕とは言いがたく、
能力不足で失敗する可能性も大いにあるのだ。
「なんとかやってみるよ」
それでも龍麻はそう口にした。
駄目で元々、とは思わない。
必ず成功させるという気持ちを持たなければ、とうてい成し遂げられないだろうから。
龍麻は尚雲の方を向いた。
「それで、九角は?」
「話はした。が、鬼道衆として動くことはないという返事だった」
龍麻の予想通りだった。
江戸幕府の滅亡を願う鬼道衆にとって、江戸の街を護るのは彼らを利するのと
イコールではないにしても、近いものがあるはずだ。
今回の件に関しても、江戸城下に邪妖とやらが現れれば幕府の威厳は失墜すると
考えて、むしろ召喚を手助けしても不思議ではないのだ。
尚雲を龍麻の許に帰し、摩尼も持たせているだけでも、大いに譲歩してくれたと考えるべきだった。
「どうだかな。一応は信じてやるが、反故にしたときゃア化け物より先にお前らを斬るぜ」
京梧に龍麻が答えようとしたとき、外に複数の足音が聞こえた。
刀に手をかける京梧を制して龍麻一人が表に出る。
昼間の失敗を教訓としての行動だが、警戒はすぐに解けた。
足音の主は醍醐と、円空を乗せた駕籠を運ぶ駕籠舁だったのだ。
「おかえり、醍醐」
「うむ、そちらは大事なかったか」
「ああ」
ここで醍醐は駕籠の方を向いた。
おりしも円空が駕籠から出てきたところだった。
醍醐が丁重に迎える小柄な老人に威厳のようなものは感じられない。
しかし彼こそは権術謀数に依らず将軍の相談役に任じられた高僧であり、
江戸を脅かそうとする人知を越えた輩に対応すべく龍閃組を結成させた人物なのだ。
「先生、この男が緋勇です」
頷いた円空は、龍麻の前に立った。
「儂の名前は円空。若い者の面倒を見たりしておるが、何、ただの爺じゃよ」
「緋勇龍麻です。えっと……醍醐や百合さんにはお世話になってます」
うんうん、と首を振り、円空は本堂を指し示した。
「話は本堂に入ってしようではないか。老体にこの寒さは堪えるでの」
先頭に立つ円空に続いて、龍麻達は本堂に入った。
本堂には石と化した百合がいる。
傍に寄った円空は、変わり果てた彼女の姿に頭を垂れた。
「こんな目に遭わせてしもうてすまんの」
孫娘ほどに歳の離れた女性に謝る円空に、龍麻は驚いた。
江戸城に入れるほど身分が高いらしいが、偉ぶったところがこの老人には全くない。
俗世から離れた高僧というものはそういうものかもしれないとしても、
ごく自然な好感を龍麻は抱いた。
龍麻と醍醐、それに京梧と尚雲の四人に円空を加えた彼らは、車座に座る。
茶を取りに行こうとする醍醐を制して、円空はすぐに本題に入った。
「雄慶に話は聞いたが、江戸を護る結界についてじゃな」
「はい」
意気込む龍麻を円空は値踏みするように見やった。
「ふむ……見たところお主は儂や雄慶と同業というわけではなさそうじゃが、
何故そのようなことを知っておるのかな」
「それは……」
龍麻は言いよどむ。
龍麻の抱える事情をこの老人が納得してくれなかった場合、
このあとの計画も了承してもらえない可能性を慮ったのだ。
しかし、口ごもる若者を見て老人は破顔した。
「まあ良いじゃろう、今は危急の秋じゃからな。江戸には数多の結界が施されておる。
その中でも邪妖や物の怪に対するものは、目黒の瀧泉寺。青山の教学院。
目白の金乗院。下駒込の南谷寺。本所表町の最勝寺。これら五つの寺に天海僧正殿は
江戸を守護する結界としての役目を与え、秘法を施したのじゃ」
円空は一切のもったいをつけずに核心を述べた。
それはこの件が極めて重大であり、人の頭部を用いて行う外法が嘘ではなく、
実行されようとしていることを意味する。
「ということは、その寺に摩尼を置けば」
「摩尼にお主の言ったとおりの効果があるのならば、結界の効力は強まるじゃろうな。
どれ、お主の持っている摩尼を見せてくれんか」
龍麻が摩尼を渡すと、円空は目を細めて観察した。
「なるほど……まんざら嘘というわけでもなさそうじゃな。
じゃが、この摩尼に氣を満たすとなると、相当の量が必要になりそうじゃが」
「それは承知の上です」
氣は無限に湧きでるエネルギーではなく、人体に七つあるチャクラに、
生命力を循環させることによって生みだす力だ。
使えば運動するのと同じように疲弊し、しかも消耗の度合いはより激しい。
外法によって甦った雹を考えると、摩尼一つについて人間一人分以上の氣は必要と思われ、
それを五つとなれば龍麻一人では危険だ。
だが龍麻には秘策があった。
「摩尼に氣を込めるのは、龍穴の中でやろうと思うのですが」
「ほう、そこまで知っておるのか」
龍穴とは地球という巨大な生命のエネルギー、龍脈が地上に噴出する場所だ。
龍穴がある場所には草木が茂り、街を作れば繁栄が約束されるという。
龍麻は真神學園旧校舎に繋がっている龍穴で、その効用を身をもって感じていたのみならず、
時を超えるという副作用まで受けたのだ。
氣が満ちているあの穴の内部ならば、いくらかは負担も和らぐと考えたのは自然なことだった。
「よかろう、あと四つの摩尼は儂が急いで用意させよう。お主は早速その摩尼に氣を注入してくれ」
「はい」
すべきことが定まった龍麻は決意をみなぎらせて頷いた。
一方でまだ目の前に敵がいない京梧は、退屈そうにこそしないものの、
やや苛立った様子で円空に問うた。
「俺達は何をすりゃいい」
「お主達には儀式の場所を探してもらう」
「あん? あてずっぽうで探せってのかよ」
それができれば苦労はしない、と顔に出す若侍に、老僧は髭をしごいた。
「いや、その外法を行うには人間の頭の他に、あと二つ用意が必要なはずじゃ」
「二つ?」
「うむ。一つは満月じゃ」
「満月ってェと……次はいつだよ」
「五日後だ」
指を二本折って数えるのをやめた京梧に答えたのは醍醐だ。
古来、教典と共に最先端である中国の学問を取り入れる僧は知識に長じる者が多い。
醍醐は師である円空から見ると未だ精進の足りぬ身ではあるが、
それでも暦程度なら市井の人々よりも詳しかった。
「なんだよ、すぐじゃねェか。間に合うのかよ」
「頑張るよ」
「頑張るッたってよ……」
摩尼に氣を注ぐ件については龍麻の双肩にかかっている。
それは解っているのだが、つい不安を口にしてしまう京梧だった。
腕を組んだ京梧に代わって、龍麻が訊ねる。
「それで、もう一つというのは」
「鬼道門じゃ」
「鬼道門?」
「うむ。現世には幽世との境目が近い場所がある。
うっかり越えてしまうと神隠しとなってしまうのじゃが、そういった場所を鬼道門と言うのじゃ」
古来から妖が現れると伝えられる場所には、鬼道門がある可能性が高いという。
円空が把握しているだけでも、江戸に三ヶ所はあるという話だった。
「そんな物騒なモン、壊しちまえばいいじゃねェか」
「目に見えるものではないからの。見つけるのも容易ではないのじゃよ」
「じゃあ、どうやって探すんだよ」
声を荒げる京梧に、円空は悪戯小僧のような笑顔を一瞬だけ閃かせた。
気づいたのは龍麻だけのようで、思わず円空を見直すと、老人は一転、
年齢相応のしかつめらしい表情になった。
「おおよその見当はついておる」
「あん?」
ここで円空は弟子に問いかけた。
「養向の松を知っておるか、雄慶」
「確か小岩の善養寺にある」
「うむ。あれは寺の創建よりも前に植えられたものじゃがの、
縁起には記されておらぬ役割があるのじゃ」
「――まさか」
「この松を以てこの地の邪を封じる。かの寺の住職のみが知る口伝じゃ」
「おい、どういうことだ」
せっかちな京梧が口を挟む。
醍醐は腕を組み、右手で顎を撫でながら言った。
「あの松の周辺に鬼道門がある。円空先生はそう仰っておられるのだ」
「なんだよ、それならさっさと行こうぜ」
すでに夜にもかかわらず、今にも探しに行こうとする京梧を、円空が穏やかに制した。
「まあ待つのじゃ。おおよその見当はついたと言ってもじゃな、
あの辺りは湿地じゃから中々に探すのも大変じゃ。
それに鬼道門があるのは、おそらく地上ではない」
「じゃあどこだってんだよ」
京梧は考える気など全くないらしい。
醍醐が苦虫を噛みつぶした顔を彼に向け、円空の代わりに答えた。
「地下……ですか?」
「儂はそう考えておる」
「地下だァ? 土竜じゃあるまいし、んなもん、どうやって探せっていうんだよ」
「彼奴らはもう儀式の準備を始めておるじゃろう。
ならば邪妖の気配も立ちのぼっておるはずじゃ。雄慶、お主なら辿れるじゃろうて」
龍麻は摩尼に氣を注入し、醍醐と京梧は鬼道門の場所を突きとめる。
そして円空はあと四つの摩尼を用意するという役割がそれぞれ定まった。
尚雲は龍穴に篭る龍麻に食事を運んだり雑事を受け持つということになったのだが、
武芸百般に通ずる彼はおそらくもっとも退屈な役目にも、嫌な素振りさえ見せずに引き受けた。
「よし……いいか手前ェら、ぬかるんじゃねェぞ」
気合いの入った京梧の檄に全員が応じ、明日の朝に備えて早く寝ることにしたのだった。
「それじゃァ行ってくるぜ」
「後は頼んだぞ」
翌朝、京梧と醍醐は小岩へと旅立っていった。
円空はすでに摩尼を用意すべく発っている。
二人を見送った龍麻も、摩尼を携えて龍穴へと向かった。
龍穴に行くのはこの穴から出てきて以来で、この数ヶ月の間にずいぶんと色々な出来事があった。
だが、それらを懐かしんでいる暇はない。
次の満月が訪れるまでに、五つの摩尼に氣を注入し、しかるべき場所に安置せねばならないのだ。
龍穴の入り口から、陽の射さない辺りまで入った龍麻は、地面に座った。
両足の甲を反対の足の上に乗せる、結跏趺坐という座り方だ。
腹の前で掌を上にして手を組み、摩尼を抱える。
龍麻が準備を終えると、一メートルほど離れた場所に尚雲が座った。
同じ結跏趺坐で、手も腹の前で組み、摩尼だけがない。
何の真似か、と龍麻が目で問うと、尚雲は首から上だけで笑った。
「このところ勤行を怠けていたからな。良い機会だから瞑想させてもらうよ」
今ひとつ緊張感が足りないと龍麻は思ったが、実際のところ摩尼に氣を込めるのは
龍麻にしかできないのだから、彼が何をしようと関係ない。
薄く目を閉じ、龍麻は氣の注入を始めた。
深く息を吸い、吐く。
一動作ごとに長くなっていく呼吸は、龍麻の心から雑念を消していった。
意識が希薄になっていくにつれ、辺りに満ちる豊潤な氣を龍麻は知覚する。
それは龍氣と呼ばれる、地球という巨大な生命が持つエネルギーだ。
龍氣を知覚した龍麻は、今度は己の体内にある、チャクラという氣の集積所を意識した。
地面に接している基底から、頭頂へと至る七つのチャクラ。
それらの存在を識り、回すことができるようになったとき、
龍麻は氣を自在に操れるようになった。
それは龍麻が持つ宿命が動きだす合図でもあり、
氣の扱い方を教えてくれた人物に命ぜられるままに東京の真神學園に転校した龍麻は、
以来普通の高校生とは無縁の生活を送るようになった。
その中でも最大のものが、敵であった水角との邂逅であり、
雹という彼女の名を知り、全てを知った一夜だった。
仲間達にも話してはいないあの日から三日、龍麻はさらに大きな、
常識とはかけ離れた体験をした。
百三十年の時を超え、幕末期の江戸にタイムスリップしたのだ。
我が身に降りかかった超常を、本当の――龍麻にとっては月夜の朧と消えた雹も、
本当ではあった――雹に会うための奇跡だと信じた龍麻は雹を捜し、そして出会った。
チャクラのおかげで奇跡を果たせたのだから、チャクラを用いて奇跡を還す。
この世界に神と呼ばれる存在がいるのかどうか、龍麻には判らないが、
この危難に際して逃げようとは露ほども思わなかったし、江戸を救うことはすなわち
百三十年後の東京を救うことだと信じてもいた。
己を無に近づけ、辺りに満ちる氣を取りこみ、摩尼に流しこむ器たるを専念する。
結跏趺坐で儀式を行う龍麻は、摩尼の冷たさもいつしか薄れ、
氣を取りこむよう呪いが施された宝珠と感覚を一にしていた。
やがて摩尼は薄く光り始め、辺りからは一切の気配が消え去った。
龍麻が目を開けると、そこに尚雲はおらず、握り飯が置いてあるだけだった。
彼がいてどうなるものでもないが、やはり自分よりも我慢が短い僧に極小の失望を抱きつつ、
龍麻は腹に抱える摩尼を見た。
摩尼にわずかに色合いを強めただけで、重さも大きさも変化はない。
だがこの宝珠の存在を感じることで龍麻は我に返ったのだから、
しっかりと氣が注入されているはずだった。
龍麻は摩尼を置き、握り飯に手を伸ばす。
はじめはそれほど空腹だと思っていなかったが、一つ目を半分ほど囓ると猛烈に腹が減ってきた。
今は何時頃なのだろうかと龍麻は一抹の不安を覚え、
傍に尚雲がいないことに一層の腹立たしさを覚える。
大方座り続けるだけなのに飽きて、武器の修練でもしているのだろうが、
それにしても傍ですればいいものを。
腹立ち紛れに握り飯を食べ終えた龍麻は、固まった手足に難儀しつつ立ちあがった。
次の摩尼は用意されておらず、一度竜泉寺に戻らなければならないようだ。
雑事を受け持つはずの尚雲を口の中で罵りながら、
まだしっくり来ない足を動かして洞穴の出口へと向かった。
出口近くまで来たところで、向こうから人の気配がする。
正体は紛れもなく尚雲で、彼は龍麻に気がつくと気さくに声をかけてきた。
「おう、終わったのか」
「次の摩尼は用意してくれたのか」
嫌みな口調で問う龍麻にも、尚雲の態度が崩れることはない。
「ああ、円空殿が先ほど、残る四つを持ってきてくださった」
「それじゃ、すぐに始めよう」
もう少し不満をぶつけたいところだったが、今は摩尼の方が大事だ。
龍麻は怒りを抑え、洞穴内に取って返そうとした。
「待つんだ、君は少し休んだ方がいい」
「そんな暇はない」
今更何を言っているのか。
怒りに変わる寸前の苛立ちが、語調に滲む。
しかし、尚雲もまた、常にない強い口調で龍麻を制した。
「君が洞穴に入ってから、どれくらい時間が過ぎているか知っているか」
「知るわけないだろう、ずっと陽も射さないところにいたんだから」
答えながらも龍麻の胸中に不安が広がる。
灰色の厚い雲の形をしたそれは、尚雲の表情で一気に暗さを増した。
「君が洞穴に入ってから二日目の、もうじき昼八つになろうという頃だ」
江戸時代の時間の数え方に、龍麻はもう馴染んでいたが、
それでもとっさには計算できず、変換に数秒を要する。
ようやく出てきたもう正午を過ぎているという答えは、
自分の計算が間違っているのかと叫ばせるのに充分な誤差だった。
「なっ……! そんなわけないだろ、それじゃ全然間に合わないじゃないかッ!」
期限は五日で氣を込める摩尼も五個。
一日一個でも摩尼を所定の寺に収める時間を考えるとぎりぎりだと思われたのに、
一つ込めるのに不眠不休で一日半かかっていては間に合うはずがなかった。
「もっと早く言ってくれよ、そうしたら急いだのに」
「気を散らせては良くないと思った」
「それにしたって間に合わなかったら意味がないだろうッ!」
疲労と、これまでしてきたことが無駄になるかもしれないという焦りが龍麻を無用に怒らせる。
暴風にも似た怒りを軽やかに受け流した尚雲は、さらに龍麻の怒りを注ぐことを言った。
「いずれにしても一度竜泉寺に戻って休むべきだ。君の顔色はひどく悪い」
「だからそんな暇なんてないって……!」
龍麻の怒声が急にしぼんでいく。
そして洞窟内に響いた声が消え去るより早く、龍麻の身体は地面へと崩れ落ちていた。
「しっかりしろ、緋勇……!」
駆け寄り、抱きおこす尚雲の声も、もはや龍麻には届いていなかった。
倒れるときもしっかり抱えたままの摩尼だけが、淡い光を放ち続けていた。
龍麻が目覚めたのは、陽が沈む直前だった。
竜泉寺の庫裏に運ばれていた龍麻は、人工の天井に戸惑ったものの、
状況を理解すると跳ね起きた。
辺りには誰もおらず、焦慮にけしかけられるままに本堂に走る。
「おう、目覚めたか」
堂内には尚雲がいた。
血相を変えた龍麻と対照的に、悠然と手をあげる。
「残りの摩尼はどこだッ!」
怒る労さえ惜しみ、龍麻は龍穴に急ごうとした。
「ここにある」
やはり緊張感の欠片も感じられない尚雲に、たまりかねて殴りかかろうとした龍麻は、
ここで初めて尚雲の隣に座っている男に気がついた。
「澳継……なんでここに?」
「なんでじゃねェッ、下手打ちやがって手前ェ、御屋形様の命令じゃなけりゃ
誰が龍閃組なんぞの手伝いなんかするかってんだ」
全く事情が飲みこめない龍麻に尚雲が説明する。
「今朝の時点で間に合いそうになかったからな。
澳継ならば氣も扱えるし、手助けになると思って呼びに行った」
「それは……助かる。ありがとう」
何もしていないどころか、尚雲は先を見越して動いてくれていたのだ。
龍麻は彼を疑ったことを恥じ、判断力に感服した。
そして、澳継にも深く頭を下げる。
「頼む澳継、このままだと龍閃組どころか江戸の街がやばいんだ。力を貸してくれ」
「くそッ、忘れんじゃねェぞ、一つ貸しだからな」
正座して礼をする龍麻に対して勝ち誇るのはさすがに大人げないと思ったのか、
澳継は彼にしては歯切れの悪い返事を寄越すと、勢いよく立ちあがった。
「さっさと始めようぜ、時間がねェんだろ」
「ああ」
龍麻が立ちあがると、尚雲も続く。
宿敵龍閃組の本拠地に乗りこんだ三人は、彼らに一切の損害を与えずに素通りすること
となったが、不思議なことに、誰もそれを残念だとは思わなかった。
三人の中ではもっとも龍閃組を憎んでいるはずの澳継も、
堂内に安置された百合の石像を見て、彼らしくもない義憤に駆られたようで、
それも摩尼に氣を込める作業を手伝わせる要因となったのかもしれない。
迫る闇の中を三人は龍穴へ急いだ。
まず龍麻が座り、次に澳継が座る。
最後に尚雲も腰を下ろした。
彼はまた雑事をこなしてくれると思っていた龍麻は意外に思うが、
この名前の通りとらえどころのない雲のようで、そのくせ極めて有能な男は
二人と同じく結跏趺坐を組んだ。
悪ふざけにしては度が過ぎているし、昨日も最初、
正面で結跏趺坐をしていたのを思いだした龍麻は、気になって訊ねた。
「まさか尚雲も氣を注入できるのか?」
「できるとも言えるし、できないとも言える」
煙に巻くつもりなのかと疑う龍麻に、尚雲は種明かしをした。
「龍蔵院流奥義に胤影というのがあってな。相手の技を写し、我が物とする秘技だ」
「……そんな便利な技、無敵じゃないのか?」
「そうでもないさ。かなりの集中力を要するから一度に一つしか写せないし、
たとえば、こうして氣の注入を写したからといって
君のように自在に氣を使いこなせるわけではない。
それに、いくら写すといっても鏡のように写すわけではないからな、
どうしても元の技より威力は落ちる」
だとしても、そんな都合の良い技が本当にあるのだろうか。
疑問に思いながらも、猫の手でも借りたい状況だから、
龍麻はこの際文句は言わずに手伝ってもらうことにした。
三人はそれぞれ氣の注入を始めた。
心を落ちつかせ、練った氣を体内に巡らせて、掌から摩尼に注ぐ。
尚雲が本当に氣の注入をできているのか、龍麻は気になったが、
目を開けたいという誘惑を払いのけて己の務めを果たした。
ひとたび瞑想状態に入れば、空腹も睡眠も必要としなくなる。
もちろん欲求がなくなるだけで必要はあるから、
適切なところで中断して休息を取らなければそのまま死んでしまう。
最初の摩尼に氣を注ぐとき、もっと早く完了できると思っていた龍麻は
一日半も経っていたことに驚いたが、もしもっと時間がかかっていたら、
倒れるだけでは済まなかったかもしれないのだ。
今回はおそらく龍麻が一番最初に終わるだろうから、澳継と尚雲の様子も見る必要がある。
さまざまな思いが泡ぶくのように浮き、そして消え、それらが完全に消えたとき、
龍麻の意識は完全に外界と切り離されていた。
龍麻達が龍穴内で奮闘している頃、京梧と醍醐は小岩に居た。
この辺りにあるはずの、鬼道門を探すためだ。
この頃の小岩は関所が設けられているように江戸の端にあたる。
大部分が農地だが、江戸川を用いて物資の運搬が行われていたため、賑わいはかなりなもので、
着流しの京梧と僧衣の醍醐が歩いてもそれほど目立ちはしなかった。
二人は道を往きつつ、さりげなく視線を外に向けている。
彼らが小岩に来た目的は、人混みの中にはないからだ。
人の頭を用いて行う邪法など、このような人気の多い場所で行えるはずがない。
手始めにここから探し始めたが、京梧も醍醐もそう都合良く事が運ぶとは思っていなかった。
人の少ない方へと歩いていく京梧が、彼の方を見ないまま醍醐に話しかけた。
「お前はどう思うよ」
「何がだ」
「鬼道衆だよ。緋勇の野郎はともかくよ、あの坊主」
「尚雲殿か」
「おう。あいつを信じていいのかよ。背中からばっさりなんて洒落にもならねェぜ」
「ふむ……」
醍醐は思慮深げに腕を組んだ。
同じ僧職ということで信じてはいるが、確かに九桐尚雲は鬼道衆の一員であり、
京梧などは直接刃を交えたこともある仇敵といってよい存在だ。
僧でありながら己の肉体と精神を研ぎ澄ます修行に明け暮れ、
人を看る目は師に遠く及ばない醍醐は、十五歩ほど進んでから答えた。
「確かに彼は鬼道衆の一員ではあるが、緋勇が居なければ時諏佐先生をお救いできない」
「そりゃあそうだがよ、その緋勇にしたって女の尻を追いかけて寝返った野郎だし、
お前だって奴にゃやられてんだろ? 腹は立ってねェのか?」
京梧の言に醍醐は顔をしかめた。
醍醐は僧侶であるから過分な欲は捨て去るべきと考えている。
ゆえに女を追いかけて寝返ったという龍麻の態度は好ましくなかった。
一方で、龍麻と闘って負けた事実にはそれほど執着していない。
これは理由はともかく闘いを自分から仕掛けたという僧にあるまじき反省点と、
久しくなかった全力を出せた闘いに対する満足感という、
これもやはり僧としては褒められたものではない感想が、やや醍醐を自省的にしていたのだ。
「……いずれにしても、生首を用いて行うような悪しき儀式を放っておくわけにはいかぬし、
そんな儀式で呼びだされるような邪妖を許すわけにもいかぬ」
「ひとまず鬼道衆のことは置けってことか」
「納得がいかないか」
「まあ、俺は強い奴と闘れりゃなんでもいいけどよ」
晩秋の風に劣らぬ冷たさで、京梧は言い放った。
もし龍麻と尚雲が掌を返すようなことがあれば、まとめて叩き斬るだけのことだと決めている。
京梧があえて疑いを口にしたのは、むしろ醍醐に、
万が一龍麻が裏切った時に迷わないよう促したのだ。
京梧の真意は薄々汲みとったようで、醍醐は組んでいた太い腕を解いて大きく息を吐いた。
「緋勇も尚雲殿も中々に腕が立つ。敵とするのはできれば避けたいところだな」
「そうだな、生首野郎だけでもかなり手強いしな」
醍醐ではないが、京梧はあの敵に二度出し抜かれている。
そして僧ではない京梧の執着は凄まじいものがあった。
――あの野郎は必ず叩ッ斬る。
背中を向け、醍醐には見せない顔に修羅を浮かばせ、剣士は己の魂を強く握りしめた。
賑わいを離れた二人は、藪の中に入っていく。
「で、どうやって鬼道門とやらを探すんだよ」
「うむ」
醍醐は直接答えず、両手を複雑な形に組み合わせ、短く何事か唱えた。
だが、京梧の見る限り、醍醐に変化はない。
「何をしやがった」
「邪妖の気配を感じとるための真言を唱えたのだ」
「で、感じとれたのかよ」
「まだこれからだ」
お前が口を挟むから話が進まないのだ、と醍醐は表情で暗に言ったのだが、
京梧には全く通用していない。
「よし、さっさとやれよ」
敬意というものを全く払わない男に、僧にあるまじき感情を抱きかけた醍醐は、
大きく頭を振って邪念を追い払ってから意識を集中させた。
二つ目の摩尼に氣の注入を終えた龍麻は、周りを見渡した。
尚雲と澳継はまだ終わっていないらしく、結跏趺坐のままだ。
はじめは彼らが終わるまで待つつもりだった龍麻は、すぐに五つ目の、
つまり最後の摩尼に取りかかるよう方針を変えた。
計算の上では五日目の中程で龍麻が受け持つ三個分は終わることになるが、
それぞれの寺に届ける時間を考えるとそれでも間に合わない可能性があり、
少しでも早く済ませた方が良いと考えたのだ。
食事も取っておらず、体力的な心配もある。
それでも、龍麻は摩尼を手に乗せ、再び結跏趺坐を組んだ。
体内で練った氣を摩尼に注ぎ、消耗した分は龍穴に満ちる氣で補う。
それでも吸収よりも放出する量の方が多く、龍麻の生命力は、
龍穴を使わない時よりは緩慢であるものの、確実に削がれていた。
無心であるゆえに消耗にも気づかないが、
もし気づいたとしても龍麻は他の方途を選ぶつもりはなかっただろう。
それどころか、もっと激しく氣を注ぐ手段があるならば、
危険があってもきっとそちらを用いたに違いない――それが、緋勇龍麻という男だった。
何十時間かが過ぎ、最後の摩尼に氣が満たされる。
龍麻が目を開けると、尚雲と澳継がいた。
「終わったようだな。疲れているところをすまないが、もう一踏ん張りしてくれ」
「ああ」
心配されるほど疲れてはいないつもりだったが、
五日間ほとんど休まずに氣を注いでいたのだから、無事であるはずがない。
立ちあがろうとしただけで、龍麻はよろめいてしまった。
「おい、しっかりしろッ! ここまで来てへばッてんじゃねェッ!」
澳継の容赦のなさよりも、甲高い声の方が堪えて龍麻は苦笑する。
すると、澳継がかなり乱暴にではあったが、肩を貸してくれた。
「おら、しっかり歩けッてんだ」
摩尼は尚雲が持ってくれ、龍麻は急速に襲いかかってくる眠気と闘いながら竜泉寺へと戻った。
「おう、間に合ったようじゃの」
竜泉寺に戻った三人は、円空に迎えられた。
疲労困憊の三人に対して、老僧は落ち着き払っている。
危機感のない態度に苛立った龍麻は、礼儀も忘れて吐き捨てるように言った。
「すぐに摩尼を持っていかないと」
「うむ、その件じゃが」
続けようとした円空を、別の声が遮った。
「ようやく俺様の出番って訳だな。待ちくたびれたぜ」
聞いたことのない声に驚いて振り向くと、年頃は同じに見える男が一人立っていた。
初対面であるはずなのに、なれなれしく近づいて手を差しだす。
意図が分からずに龍麻が男を見ると、彼は大げさに肩をすくめた。
「やれやれ、これは握手と言って西洋の挨拶なんだがな」
訳が分からぬままの龍麻に、男は口の端を吊上げた。
どうやら気障に決めているつもりらしいが、
ぎこちないので顔を引きつらせているようにしか見えない。
「久しぶりにお呼びがかかったと思えば単なる配達の仕事かとがっくりきたもんだが、
どうやら大事なものらしいな」
「あ、ああ」
未だ事情が飲みこめない龍麻が気圧されていると、
男は胸を張って大見得を切って見せた。
「運んで欲しい物がある。届けて欲しい気持ちがある。
この世に道がある限り、野越え山越え走ってみせるぜ届けるぜ。
どんな荷物も、あ、人呼んで江戸の黒い稲妻、この十郎太様がなァッ!!」
「よ、よろしく」
時空を超えたのを筆頭に、さまざまな驚事に遭遇してきた龍麻は、
大抵のことには驚かなくなっていたが、この剣幕には圧倒されておとなしく首を振るほかなかった。
「よし、運ぶ物を渡してくんな」
言われるままに摩尼を渡しつつも、龍麻は訊ねずにいられなかった。
「一人で五つ全部回るのか?」
「あたり前だろ」
五カ所の寺を回るのは、電車を使ってもそれなりに時間がかかると思われる。
江戸時代の人間が現代人より健脚とはいっても、遅刻は許されない配達なのだから、
複数人であたるべきではないか。
そんな龍麻の危惧など意にも介さず、十郎太は摩尼をまとめて風呂敷に包み、状箱に入れた。
「それじゃ、行ってくるぜッ」
遊びに行くような軽やかさで出て行った十郎太を、
龍麻は毒気を抜かれた態で見送るほかなかった。
彼の後ろから円空が説明する。
「十郎太も龍閃組の一員での。足の速さを見込んで登用したと百合が言っておったから、
摩尼に関しては大丈夫じゃろう。それよりもお主、不休で務めを果たしてくれたそうじゃが、
月が満ちるまでにはまだ時間がある。少しでも休んだが良いじゃろう」
円空に言われて龍麻は疲労を思いだした。
一度意識すると空腹と眠気とで一気に限界が訪れる。
円空に返事も出来ぬまま堂内で、再び龍麻は倒れたのだった。
ひんやりとした風を感じて龍麻が目覚めたのは、暮れ六つを過ぎた頃だった。
「おッ、目が覚めたか」
最初に目に入ったのが出かけたはずの十郎太であったため、
龍麻は夢でも見ているのかと思い、自分の頬をつねった。
当然の痛みが幾らか思考をはっきりさせ、龍麻はつい数時間前に知り合ったばかりの男に訊いた。
「あんた……摩尼はどうした?」
「もう行ってきたぜ。五カ所とも、ちゃんとな」
それは良かった、と頷きかけて、龍麻は一気に覚醒した。
「おい、それじゃ今何時なんだ!?」
跳ね起き、十郎太の胸ぐらを掴む。
疾さ自慢の十郎太が、龍麻の速度にはまったく対応できなかった。
「あッ、ああ、さっき暮れ六つの鐘が鳴ったところだ」
激しい剣幕の龍麻を諫めるように、座っていた円空が状況を説明した。
「十郎太は見事に務めを果たしてくれたのじゃ。
摩尼も力を発揮して、江戸の街は邪妖封じの結界に包まれておる」
「それじゃ」
「うむ。彼奴らの企みは阻止できるじゃろう。あとはお主達が」
「あいつを倒して百合さんにかけられた術を解けばいいんですね」
「そうじゃ。厳しい戦いになるじゃろうが、どうかあの娘を救ってくれ」
力強く龍麻が頷いた途端、腹の虫がこれ以上はないくらい盛大に鳴った。
赤面する龍麻に円空は破顔する。
「まだしばらく時間はあるはずじゃ。握り飯を用意しておいたでの、食べてから行くが良い」
タイミング良く大きな盆を持った尚雲と、澳継に京梧が入ってきた。
「間に合ったみてェだな」
「京梧こそ、鬼道門は見つかったのかよ」
「おう、今は醍醐が見張ってるぜ」
葦に囲まれた判りにくいところに入り口があるので、案内役として京梧が戻ったのだという。
「まあ食えよ。聞けば二回もぶっ倒れたそうじゃねェか。
これからやンのは戦だからな、だらしのねェとこ見せんじゃねェぞ」
偉そうに言う京梧だが、握り飯は彼が作ったのではないだろうとは容易に推察できた。
ただしここでそれを指摘しても意味などないので、
龍麻は黙って握り飯が積まれた盆の前に陣取った。
京梧、尚雲、澳継、それに十郎太と円空も車座になり、蝋燭の下、餓鬼のように食べ始める。
五十個ほどもあった握り飯がみるみる減っていくのを、
微笑ましげに見ていた円空が、若者達の暴食が一段落したのを見計らって口を開いた。
「さて、彼奴等の儀式じゃが、おそらくは月が最も高い位置に上ったときに始められるじゃろう」
その前に戦いを挑むのが望ましいと言われ、龍麻達は気を引き締めて頷いた。
「摩尼の結界が防いでくれるとは思うが、こればかりはなんとも言えぬ」
「心配すんなって。きっちり片をつけてやらァ」
腹が膨れて上機嫌の京梧が見得を切る。
その隣に座る十郎太が、龍麻の袖を引いた。
「なあ、あんた、前は見なかった顔だが名は何と言うんだ?」
「ああ、緋勇龍麻っていうんだ、よろしく」
今度は龍麻の方から手を差しだした。
驚いた顔をした十郎太は、轟雷の勢いで手を握ってきた。
「わかってるじゃないか、あんたッ!! 俺の胸ぐらを掴んだときも疾かったし、
只者じゃないなあんたッ!!」
「おう、なんたってこいつは百三十年後の未来から来たって野郎だからな」
「未来?」
京梧の説明に、事情を知らない十郎太と円空が揃って龍麻を見た。
「本当か、お主」
「ええ、まあ」
今は懐中電灯や服を持っていないので信じてもらう方法がなく、
龍麻はこの話題をやり過ごそうとあいまいに頷いた。
「なるほど、未来か……それで龍穴や摩尼を知っておったのか」
円空が重々しく頷く。
荒唐無稽な話もあっさり信じたようで、龍麻としてはかえって不安になった。
「信じていただけるのですか? 俺は京梧や百合さんに世話になったのに、
宗旨替えをして鬼道衆に属するような奴ですが」
「そうじゃな」
老人は人懐っこく笑った。
「話の真偽はともかくとして、お主が悪人ではないというのはわかる。
それに、百合を助けようと倒れるまで身を投げだしておるのじゃ、
信じてやらねば信義が立たぬというものじゃろうて」
円空の懐の広さに龍麻は感激し、頭を下げた。
「それにしても、お主の話には興味がある。詳しく聞きたいからの、
必ず生きて還ってくるのじゃぞ」
「はい」
励ましに頷いた龍麻に、十郎太が口を挟んできた。
「なあ、あんた。あんたの未来では、飛脚はどうなってるんだ」
「飛脚?」
唐突に飛んだ話題に、龍麻は面食らった。
だが、十郎太はいたく真面目に問いかけてくる。
「ああ。俺は飛脚なんだが、西洋じゃ遠く離れた場所にも声が届く、
てれほんとかいうのが流行ってるそうじゃねえか。それにたくさんの人を乗せて、
人よりもずっと速く走るろこもうちぶなんてのもあるって聞くぜ。
いずれ手紙は廃れて、俺達ぁお役御免になっちまうのか?」
龍麻は即答できなかった。
龍麻の時代にもちろん飛脚はいない。
それも龍麻の時代に近い頃になくなったのではなく、
十郎太がいる現在から十年ほどで郵便制度が整い、
さらには二十五年ほど後には新橋から神戸までの鉄道が開通することで、
人力による配達は減っていくこととなるのだ。
「手紙はなくならないし、手紙を配達する人は居る。
あんたの言ったとおり、届けて欲しい気持ちはいつの時代の人間でも変わらないからな」
それでも、龍麻はそう答えた。
筆無精であり、手紙など年賀状以外に書くこともないが、
十郎太の真摯な想いを踏みにじることはできなかったのだ。
「そうか……そうだよなッ! 安心したぜ、これでますます飛脚の仕事に精を出せるってもんだッ!」
「けッ、呑気なもんだぜ、あの野郎をぶッ倒さねェと明日のお天道様も拝めねェってのによ」
「それもそうだな。よし、俺もあんたらについていくぜ」
即断した十郎太に、泡を食ったのは龍麻だった。
「無茶だ、あんたは足が速いかもしれないが、戦うことはできないんだろう?」
「何言ってやがる、俺は龍閃組の一員として鬼道衆とも渡り合ってきたんだぜ。
百合さんにも世話になってるんだ、このままにはしておけねえよ」
むむ、と唸った龍麻の脳裏にひとつ閃いたものがあった。
「わかった、それならひとつ頼まれて欲しいことがあるんだ」
「おう、なんでも任せておきな」
龍麻は円空の方を向き、彼にも頼み事をした。
「おい、そろそろ出発しようぜ」
痺れを切らした京梧が促す。
龍麻は頷き、立ちあがった。
十郎太を加えた一行も、各々準備を整える。
「頼んだぞ、お主等」
円空に見送られ、龍麻達は小岩へと決戦に赴くのだった。
煌々と照らす月灯りの下、龍麻達は往く。
満ちる月は雅な乳白色だが、江戸の命運を背負った四人の若者は空を見上げる余裕もなく、
黙して歩いていた。
「おい、十郎太の野郎はどこに行きやがった」
「俺が別行動を頼んだんだよ」
それ以上を語らない龍麻に、京梧はうさんくさげな顔をしたが、問い詰めてはこなかった。
代わりに尚雲が口を開く。
「俺はその敵というのを聞いただけなんだが、そんなに強いのか」
「ああ……強いな。得体の知れない術を使って、攻撃にも防御にも隙がない」
「ふむ……それなら、誰が相手をする? その他にも何人かは居るだろうが」
「京梧と尚雲があたってくれないか。俺と澳継、それに醍醐は周りの連中を倒す。
できるだけ早く倒して、援護するから」
「承知した。だが、油断はしないほうがいい。敵も手練れを揃えている可能性が高い」
「ああ」
龍麻は自分が難敵と当たるのを避けたのではない。
あの敵に対して最も猛っているのは京梧であり、まず彼を当てるとすると、
共に戦うのは得物を持つ尚雲が最適だと考えたのだ。
龍麻の意図を汲みとったか否か、不分明な態度で京梧は言った。
「まァ、あの野郎さえ殺れば済む話だ、四も五も言らねェ、叩ッ斬ッてやらァ」
血気に逸った京梧だけでは危険だが、尚雲ならばサポートもしてくれるだろう。
その辺りの判断は、東京での戦いで経験を積んでいる龍麻だった。
内藤新宿から小岩までは歩いて数時間の距離があるが、休んでいる暇はなく、
また、興奮からか、誰も疲れを感じず、一気に歩き通した。
小岩に到着した龍麻達は、京梧の案内に従って醍醐と合流を果たした。
「寒い中大変だったな」
「なに、心頭滅却すれば火もまた涼しというだろう。もっとも、俺は今熱く燃えているがな。
緋勇の方も、摩尼に氣を込めるのは上手くいったのか」
「ああ、なんとか。皆が手伝ってくれて、寺に安置するのも済んだ。
円空先生の話ではちゃんと効力を発揮しているそうだ」
「そうか。それなら後顧の憂いなく戦えるというわけだな」
僧らしくない武闘派な台詞に、苦笑を閃かせた龍麻だが、すぐに態度を引き締めた。
「よし、早速鬼道門に行こう」
今度は醍醐が先に立って一同を鬼道門へと導いた。
葦原の中に、直径二メートルほど、そこだけ葦が生えていない場所がある。
外からはほぼ見えず、葦原をかき分けてみても、知っていなければまず気づきえない、
巧妙に隠されたところに地下への入り口はあった。
龍麻は穴を覗いてみたが、月灯り程度では覗えないほど暗い。
意を決して龍麻は、穴の中へと入った。
狭い入り口から数分歩いたところで、急に道が広がる。
川が近いせいか湿り気を帯びている洞穴は、少しずつ下っていた。
音を出さないように注意しながら、一行は奥へと進む。
さらに十数分歩いたところで、龍麻は立ち止まった。
低い、不気味な音律を伴った唱文が奥から聞こえてくる。
それは聞き覚えのある不愉快な、音と声の中間のようなもので、いよいよ敵を見つけたようだった。
龍麻はすり足で前進し、岩陰から覗いた。
岩陰の向こうは二十メートル四方はありそうな広い空間になっており、
その中央付近に祭壇が組まれている。
祭壇の前方の床には切り取られた頭部が九つ、格子状に置かれ、
床に描かれた巨大な図形を挟んだ先には、不快な声の主である、
龍麻達を襲い、百合を石化させた男がいた。
その周りには数人、男の一味と思われる、全員同じ装束に身を包んだ人間がいる。
はっきりとは数えられないが、龍麻達と同数か、
上回っていたとしても一人二人といったところのようだ。
京梧や尚雲に比する実力の持ち主がそうそう居るとも思えず、先手を取れば勝機は充分にある。
しかし問題は、ここから先は姿を隠す場所もなく、機先を制するのは困難ということだ。
龍麻は悩んだが、他に作戦はない。
一気に躍りでて、その勢いで圧倒するしかないと決めた。
「よし、準備はいいか」
囁き、全員が頷いたのを見て、龍麻は先陣を切って突入した。
「なッ、何者だッ!!」
侵入者があるとは思っていなかったのだろう、油断していた敵の一人に肉迫し、拳を撃ちこむ。
男は刀を下げていたが、それを抜く暇も与えられずに昏倒した。
すぐに龍麻は二人目に挑みかかる。
この時敵は体勢を立て直しており、続いて広間に乱入した京梧達と激しい戦いが始まった。
刀が打ち交される金属音と、肉体がぶつかりあう音とがそこかしこで響く。
それらの一つ一つには生死が賭けられていて、ひときわ大きな音が鳴ったとき、
確実に生者が一人減っているのだ。
二十世紀に生きる龍麻は、特に人殺しは避けたいと思っている。
だが、真剣を抜いて襲いかかってくる敵に手加減をする余裕などない。
水平に薙いでくる剣撃を手甲で受けとめると同時に半歩踏みこみ、
相手の胸に掌底を当て、練った氣を徹す。
「ぐゥォッ!!」
男は悲鳴と共に吹き飛び、動かなくなる。
所有者の元を離れた刀が、地面を斬らされて放つ不本意な抗議の音は、
しかし誰にも聞かれていなかった。
男を倒した龍麻は狂犬のように新たな敵を探し、跳んでいたからだ。
広間の一角に束の間生じた奇妙な無音の空間は、余韻に浸る間もなく
すぐに他の場所から別の音が侵略してきて、喧噪を分かち合うこととなった。
風祭澳継も龍麻に引けを取らぬ武勇を存分に発揮していた。
龍麻との比較では氣の扱いにおいて経験差があるため劣勢の澳継だが、
対人戦闘においては逆に彼の方が経験豊かだ。
加えて江戸という時代に生き、鬼道衆という暗躍する組織に属する澳継は、
拳で他者の命を奪った回数も一度ではなく、刀を持った相手にも臆することがなかった。
広い空間を存分に利用した動きで敵に狙いを定めさせず、
焦った敵が袈裟斬りを仕掛けてきたところで躱し、懐に飛びこむ動作と一体の攻撃を繰りだす。
「がはァッ……!」
顎から脳天へと突き抜ける拳を受けた敵は、顎を砕かれ、さらに強烈な氣をも脳に受け、
空中に浮いている間にすでに絶命していた。
「ヘッ、俺と張り合おうなんて十年早いぜ」
鬼道衆として龍閃組と共闘することにわだかまりを覚えていた澳継も、
ひとたび戦いとなれば迷いはない。
鍛えた拳を奮い、眼前の敵を殲滅する、それのみを目的として暴風の如く戦うのだった。
京梧に尚雲、それに醍醐もそれぞれの持てる力を駆使して難敵と戦っている。
敵との実力差は明らかではあったが、圧倒するとまではいかず、
倒すまでにはそれなりの時間を要していた。
龍麻達が手こずっている間も、祭壇の前では詠唱が止まない。
百合を石化させた、部下には黒縄王と呼ばれている男は、
周りの死闘も目に入らぬ様子の、人間とは思えぬほどの剛胆さで儀式を続けていたのだ。
龍麻達がさらに二人の敵を倒し、ようやく京梧と尚雲に余裕ができる。
しかし、二人が黒縄王の前に立ったとき、すでに儀式は終わろうとしていた。
黒縄王がおもむろに両手を頭上にあげる。
空を受けとめるようにも、地から何かを引きずりだそうとするようにも見えるその動作は、
まさしく現界と異界の門を開き、異界に住む魔物を呼び寄せる禁忌の業だった。
黒縄王の周囲で空気が急速に濁り、邪妖の気配が満ちる。
濁った空気が震え、攪拌されてさらに澱み、凝集した禍々しさは、
戦いのさなかに龍麻達も思わず振り向いたほどだ。
だが、置かれた生首の内側に生じた変化は、それ以上進行しなかった。
何かが戸口から出てこようとしている、そんな振動は、十数秒ほど続き、やがて収まる。
それは龍麻達の計画が成功した証であり、黒縄王の企みが破綻した合図だった。
「ナンダト!?」
黒縄王は初めて狼狽した声を漏らす。
召喚の儀式は終わり、人間などでは立ち向かうこともできない存在が鬼道門から出現するはずだった。
だが、門は開かず、何も現われはしない。
前兆は生じ、門の向こう側までは来ていたはずの存在は、
門を開けることが叶わず還っていったようだった。
「どうやら摩尼が効いたみてェだな。あとは手前ェを叩ッ斬ッて百合ちゃんを元に戻しゃ、
万事めでたしってわけだ。覚悟しやがれッ!!」
叫ぶ京梧の方を、黒縄王はようやく見た。
黒い頭巾に顔を覆うこれも黒い札を額に貼りつけ、
札には得体の知れない呪文が朱文字で書かれている。
そのいでたちの異様さは京梧をたじろがせ、彼ほどの剣士が斬りかかる好機を逸してしまった。
札のために黒縄王の表情は知れない。
だが、怒っているのは明白であり、発せられたあの不快な、
歯の奥を擦りあわせたような声はそれを裏づけていた。
「ユルサヌ……キサマラ……!!」
「そりゃあこっちの台詞だ、行くぜッ!!」
京梧の上段を躱した黒縄王は、体勢が崩れた京梧に追撃はかけず、距離を取る。
そして手で複雑な印を描き、何かを呟いた。
「ミナゴロシニシテクレル……!!」
黒縄王の姿が闇に同化していく。
見えなくなった黒縄王は、さらに後方に退がり、より長い呪文の詠唱に入ろうとした。
この呪文によって放たれる不可視の球体は、触れた物の生命力を奪い去る致死の威力を秘めている。
月と星辰の合する時は去り、次の召喚は永き刻を待たねばならない。
この場にいる全ての人間に死をもたらさなければ、黒縄王の怒りは晴らせるものではなかった。
「そこかッ!」
だが、鋭い剣士の突きが黒縄王の詠唱を妨げる。
当てずっぽうに仕掛けてきたのだと思ったが、避けたところに今度は別の人間が槍を突いてきた。
これも黒縄王は躱したが、呪文を唱える余裕はない。
たかが人間と侮っていた黒縄王は、動揺を隠せなかった。
「へへッ、手前ェの手妻のタネも割れてみりゃア大したこたァねェな」
「タネ……ダト……!?」
憤怒した黒縄王は、京梧の姿が見えることに気がついた。
輪郭程度ではあるが、光の入らない洞窟内で見えるわけがない。
黒縄王は驚き、周りを見渡す。
すると洞窟の各所には、いつのまにか提灯が置かれていた。
「緋勇の野郎、せこい仕掛けを打ちやがると思ったもんだがよ、こんなに効果があるとはな」
川岸で黒縄王と対決した日から、龍麻は考えていた。
あの敵が完全に肉体を消失させられるのなら、全く勝ち目はない。
だがそうでないのなら、限りなく姿を闇に溶けこませられても、
物理的には存在しているのなら、何か見破る方法があるはずだと。
そして思いついたのが、光源を増やすという極めて単純な方法だった。
方法自体は早くに考えたものの、戦闘中に提灯を配置することなどできるわけがなく、
俊敏な澳継に頼んだとしても断られるのは分かりきっているので、一度は忘れていた。
それを思いだしたのは十郎太という仲間を得たときで、
刀を持たず、氣も操れない彼をどうにかして戦闘から遠ざけようという苦肉の策だった。
同行したがる彼に、道中買えるだけの提灯を調達してきてもらい、
戦闘が始まった後、敵も味方も意識が逸れているうちに配置してもらったのだ。
シンプルな作戦だが蓋を開けてみれば見事に的中し、
黒縄王の呪文は強力で、提灯の下で輪郭が見える程度の京梧達に較べれば、
何かがいるかもしれない、程度でしかない。
だが、月が出ていない夜でも気配で黒縄王の居場所を探り当てた京梧ならばそれで充分で、
さらに尚雲が一呼吸遅れて動くことで移動する黒縄王を逃さない。
他の簡単な呪文を詠唱する余裕すら失せ、今や黒縄王は避ける一方だった。
京梧と尚雲の攻撃を避け続け、いささかも速度は衰えないのは凄まじい戦闘能力と言えたが、
それも他の敵を片づけた龍麻や澳継が加勢に入ることで確実に追い詰められていた。
「観念しやがれッ!」
ついに京梧の剣撃が黒縄王を捉える。
致命傷とはならなかったが、黒縄王は敗北を悟らざるを得なかった。
世界を破滅に導く、手始めとなる江戸の壊滅。
その任を果たすこともできず、ただの人間に敗れようとしている。
だが、敗れるとしてもこのままでは済まさない。
せめてこの場にいる人間は全滅させなければ。
京梧、尚雲、龍麻、澳継と連続で撃ちこまれる攻撃を捌きながら、黒縄王は準備を整える。
とどめを刺そうと寄ってくる人間達を引きつけ、その瞬間を待った。
「てりゃあッ!!!」
脳天から垂直に振りおろされた京梧の轟剣が、黒縄王を両断する。
同時に、側面から尚雲の槍と澳継の拳が黒縄王の分かれた身体を貫いた。
誰もが殺した、と確信し、極小の時間、緊張が緩む。
その刹那の刻に、異様な何かが黒縄王の分かれた身体から発せられた。
密着に近い間合いに居た三人は、回避もできず直撃を被るしかない。
三人に黒縄王の身を呈した最後の呪いが浴びせられる。
その寸前、龍麻が跳びだした。
黒縄王の身体にタックルし、彼の死体ごと地面に倒れる。
どう、という音が、京梧達が黒縄王の最期を告げる音だった。
「この野郎……最後に奥の手を隠してやがったのか」
深い息を吐き、京梧は額の冷や汗を拭う。
死と引き替えに使う術があるとは、敵ながら恐ろしい執念で、
龍麻がいなければ確実に喰らっていた。
これで龍麻に救われたのは二度目で、いささか気恥ずかしげに声をかけた。
「また助けられちまったみてェだな。蕎麦くれェは奢らせてもらうぜ」
龍麻の返事はない。
まだ黒縄王の死体に被さったままの龍麻に、京梧は不審を抱いた。
「おい、何してやがる、起きやがれ」
身体を揺さぶるが、反応がない。
尚雲達も駆け寄り、龍麻を助け起こした。
薄暗い洞窟の中で判然としないが、四肢はだらりと垂れさがり、うめき声すら聞こえてはこない。
生気が失われているのは一目瞭然だった。
「しっかりしろ、緋勇ッ!」
醍醐が龍麻を担ぎあげ、一行は急いで竜泉寺に戻る。
勝利の余韻など既になく、冷たい風と青白い月が彼らの背中を嬲るばかりだった。
藍と小鈴は出さない、とはじめに決めて、
結局ほとんどの外法帖キャラは出さないことにしたのですが、まさかの人物が登場となりました。
読み返して自分で驚いたw