※この作品はR-18です。

彼此岸   作:SVX

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彼此岸 二幕 ―太極―

 見たことがないほど丸く、青白い月が、遙か紺碧の空から見下ろしている。

地球の半分をあまねく照らす月光は、透明な人工物によって四角く切り取られ、

目の前の床に小さな舞台を作っていた。

 その舞台の上に、少女がいた。

一糸まとわぬ白い肌は月灯りを受けて蒼く輝き、闇に同化するほどの黒髪の縁は白銀に光っている。

月光を背にした少女の顔は、はっきりとは見えなかったが、わずかに微笑んだように見えた。

 その微笑みが別離の挨拶のような気がして、手を伸ばし、少女を抱きしめようとする。

願いが叶ったのは半ばまでで、少女は確かに腕の中に収まったものの、

彼女の温もりも、体香も、一切が手に入らなかった。

 空が動き、束の間月が隠れる。

再び天空の女王がその姿を現したとき、腕の中にいたはずの少女は、

それが一瞬の慈悲であったかのように消えていた。

 両腕をかき抱き、喪われたものを返して欲しいと虚空に叫ぶ。

 月は、何も答えなかった。

 

 瞼が開く。

同時に意識が立ちあがる。

蒸気機関車の動輪のように、始めは重たげに、徐々に明確さを伴ってくる目覚めは、

しかし、毎朝のようにはいかなかった。

「……?」

 目に映るもの全てが暗い。

時間も空間も把握できない、という根源的な恐怖に囚われ、龍麻は二回瞬きをした。

夢の中にいるのではないかというくらい、状況は変わらなかった。

 考えがまとまらない。

龍麻に低血圧の兆候はなく、朝が苦手というわけではない。

起きてすぐ全開、とはいかないまでも、一人で定められた時間に起き、

学校に間に合う時間に家を出る程度は難なくこなせた。

 それが、今朝はどうしたことか頭が回らなかった。

寝たまま龍麻は深く深呼吸する。

空気は冷たく、身体の奥深くに流れこむと脳が活性化した。

それでも、ここがどこで、何故自分が寝ているのか、答えは出ない。

こうなったら直接確かめるまでと龍麻は身体を起こした。

 起きたことで判明したことがいくつかある。

龍麻は布団をかけられていた。

ふかふかの暖かさはないが、少なくともここは誰か、おそらくは人間の家である。

ならば見上げていたのは天井であり、その天井には照明器具がついていない。

ここまで考えたところで、蛇口を一気にひねったように、急速に記憶が蘇ってきた。

 龍麻は今、江戸時代にいる。

龍穴という地球の生命エネルギーが疾る洞穴の中で、緋勇龍麻は一九九九年から一八六六年へ、

およそ百三十年の時を遡行し、それからおよそ五ヶ月間江戸の世に生きていた。

その間に起きた出来事は、二十世紀末に劣らぬほど多く、いずれも刺激的だった。

中でも雹という少女との出会いは、まさしく運命的であり、

龍麻は彼女のためなら現代に帰れなくても良いとさえ思っている。

 雹を思いだしたことで、一気に全身が賦活化した龍麻は立ちあがった。

だが仁王立ちとはいかず、バランスを崩してしまう。

「……?」

 意志に肉体がついてこない。

手と足が包帯を何重にも巻いたように重く、頼りなかった。

痛みはなく、疲労か衰弱のようだが、そうなるに至った原因は思いだせない。

 眉をしかめた龍麻は、もっと情報を集めようと試みた。

 部屋はそれほど大きくなく、手探りで三歩進むと壁を見つけた。

次は部屋の外に出るべく襖を探す。

これには少し時間がかかったが、やがて掌に違う感触をとらえた。

ここまでくればあとは開けるだけだ。

どれほど目を凝らしても戸の形は見えない、完全に真っ暗な状態だから、

苦労は並大抵ではなく、指がかかる部分を探すのも一苦労で、

指先に神経を集中させて必死に探し当てると、慎重に力を込めた。

 しかし、扉は頑として開かない。

悲嘆に暮れかけた龍麻は、戸が反対方向に開く可能性に気づき、

その閃きに驚喜して、今度は最初から力一杯引いた。

 龍麻がまさに力をかけようとした瞬間、突如として戸が動く。

龍麻の引こうとした方向に動いた戸は、それほど激しく開かれたわけではなかったが、

虚を突かれた龍麻は自分から横に飛ぶ形になった。

「うわッ……!」

 今度はよろけるだけではすまず、盛大に転ぶ。

床か壁か、どこだかわからぬ場所にどこだかわからぬ部位をしたたかに打ちつけて龍麻は悶絶した。

「なんだ、目が覚めたのか」

 聞き覚えのある声に、あと一分ほどは続けたかった悲鳴を中断して仰ぎ見る。

そこには手持ちの行灯を下げた、坊主頭の男がいた。

「尚雲……」

「何をしているんだ、そんなところで」

 本物の坊主ではあっても、地面から生えるような風格はなく、

風任せの綿のような彼に対して怒っても無駄だということを熟知している龍麻は、

無言で立ちあがり、埃を払った。

「起きたのなら来てくれ。話がある」

 まるっきりこちらの事情を汲まないのもいつものことなので、

とにかく彼の言うまま、後をついて行った。

 外に出ても、ここがどこなのかという疑問に答えは得られなかった。

外は室内と同じように暗かったのだ。

夜なのだろうか、と思いつつも、何かが違うと感じていた。

ただしその違和感を確かめる暇はなく、尚雲はどんどん先を行くので、

彼の灯りだけが頼りの龍麻は急いで後を追う。

 歩いているうちに、ここが龍泉寺であることに気づいた。

江戸時代にタイムスリップして最初に逗留したのがこの寺だ。

疑問の一つは解決されたが、まだ解らないことは山ほどある。

あいかわらず手足は心許なく、腹の虫も盛大に鳴いているが、とにかく龍麻は彼に続いて本堂に入った。

 堂内には円空、百合、醍醐、それに京梧がいた。

龍麻が姿を見せると、皆一様に立ちあがった。

「おう、起きたか。ずっと寝たままかと思ったぜ」

「こらッ、冗談でもそんなこと言うもんじゃないよッ」

「ヘヘッ、悪ィ」

 京梧には二の腕を叩かれ、醍醐には肩を掴まれ、京梧をたしなめた百合などは目元を拭っている。

ずいぶんと大げさだと龍麻が思っていると、彼の前に立った円空が手を合わせ、深々と頭を下げた。

「身体は平気かの」

「え、ええ」

「そうか。本当にようやってくれた。心から礼を言わせてもらうぞ」

 高野山の高僧である円空は、龍閃組の創設者にして徳川幕府の目付相談役でもある、

龍麻や京梧から見たらはるか雲の上の存在だ。

その彼にここまで労われて、龍麻は喜ぶよりも困惑が先に立った。

「そんな大したことはしていません」

「何を言うのじゃ。お主は命を賭して江戸を護ってくれた。

家茂様も生きておいでなら、さぞお喜びなさったじゃろうて」

 どうも話が噛みあっていない、と思ったところで腹が豪快に鳴った。

赤面する龍麻に、円空は闊達に笑った。

「百合、飯の支度を頼む。雄慶も手伝うのじゃ」

 二人に指図し、円空は再び龍麻の方を向いた。

「積もる話もあるが、腹ごしらえをしてからとしよう。まずは顔を洗ってくるとよい」

 老人の指示はまったく正しかったので、龍麻もおとなしく従うことにした。

 顔を洗って戻ってくると、朝餉の用意が調えられていた。

一汁一菜の、二十世紀に較べれば質素な食事だが、数ヶ月この時代に生きて食生活に慣れていたし、

何よりも腹と背がくっつきそうなほどの空腹だったから、龍麻にはごちそうに見えた。

「あれ、皆は?」

 用意されているのが一人分だけなのに気づいて訊ねると、円空が笑った。

「皆はもう済ませておる。良いから食べるのじゃ」

「はあ」

 若干の気まずさを覚えながら龍麻は箸を手にした。

何しろ皆、凝視はしていないものの龍麻を待っているのが明白で、

しかも喋らないものだから、龍麻の食べる音だけが堂内に響くのだ。

とはいえ空腹を抑えこむほど行儀良くもできず、後半はかきこむように食べてしまった。

「お代わりはどうだい?」

 百合が手にするおひつはいかにも食欲をそそり、もう一杯くらいならという逡巡もあった。

それを追い払ったのは、やはり一同に流れる微妙な空気だった。

「いえ、もう充分です、ごちそうさま」

「済まぬの。じゃが、お主は胃も弱っておるじゃろうから、

一度に詰めこまずに後でまた食べるが良いじゃろう」

 胃が弱っているとはどういうことか、龍麻が訊こうとする前に、京梧が焦れたように座りなおした。

「よし、それじゃ始めようぜ」

「うむ」

 思い思いの場所にいた全員が集まってきて車座に座る。

円空も龍麻の正面に座り、中央に行灯が置かれ、ただごとならぬ雰囲気が漂い始めた。

「まず、緋勇よ、江戸を護り、百合を救ってくれたこと、改めて礼を言う」

「ああ、本当にありがとうよ。あたしが助かったってあんたが死んじまったら

どうしようかって心配してたんだ。目覚めて本当に良かったよ」

 円空と百合に頭を下げられ、龍麻は一層困惑する。

「お主はの、緋勇。敵の攻撃から醍醐達をかばい、倒れたのじゃ」

「……!」

 驚いて声も出ない龍麻に醍醐が追い打ちをかける。

「急いで帰って医者に診てもらったがな、外傷はなく、どこにもおかしなところはないのに、

確実に衰弱しているという。俺達もどうすることもできずにいたが、持ち直したようで何よりだ」

 最後にとどめを刺したのは尚雲だった。

「君が倒れた、つまり、俺達が小岩で戦ってから、今日で六日目の朝だ」

 そんなに寝ていたのかと独語しかけて、龍麻は彼の言葉に含まれた重大な意味に気づいた。

「まて、朝ってどういうことだ?」

「どうもこうもねえ。手前ェが倒れた次の日から、お天道様は上らなくなっちまったんだよッ!」

 吐き捨てる京梧から、龍麻は順に視線を移した。

醍醐や尚雲はもちろん、円空の目にも、龍麻の求めているものは浮かんでいなかった。

事態の深刻さに、龍麻は身体を震わせながら言う。

「でも、何かを企んでいる奴は斃したじゃないか」

「おそらくじゃが、あれは囮だったのじゃろう。気づかずに成功すればそれで良し、

誰かが気づいて阻止されたとしても、本当の企みからは目を逸らせられるというわけじゃ」

「本当の……企み?」

「そうじゃ。外に出て、堂の左手に回って見るとよい」

 言われるままに龍麻は外に出た。

醍醐がついてくる。

 月光以外に一切の灯りがない闇は、この数ヶ月間経験していた。

東京の夜とは比較にならない、立っている場所さえ判らなくなるほどの暗闇は、

確かに怖ろしく、初めの頃は厠に立つのさえためらったほどだ。

今でも慣れたわけではないが、この時代に生きる人々と同程度には生活できるようになっていた。

 しかし、この闇は何かが違う。

自然の闇がわずかに紫がかっているのに対して、今龍麻の前に広がっているのは、完全な漆黒なのだ。

すぐそばで葉音を立てている木々さえ、かなり目を凝らさなければ見えないほどで、

醍醐の持つ行灯の小さな灯りを頼りに堂を回りこんだ。

 一体何が見えるのか、高鳴る心臓もそのままに目を凝らす。

 広がるのはただの黒だった。

不思議に思い、後ろの醍醐に訊ねようとする龍麻の視界の端に、何かが映った。

動く物体ではない。

黒一色に染まる景色が変じていた。

遠方が赤く光っている。

視界の一角を占めるほど大きな輝きは、龍麻が見ている前で消えた。

血の色を想起させる濁った赤色は、いかにも不吉な印象を与える。

それにしても、何が光ったのか。

再び醍醐の方を向くと、巨漢の僧は苦渋に満ちた表情をしていた。

「見えたか」

「ああ……あれは一体」

「富士山だ」

「……!!」

 日本人なら誰でも知っている、日本一高い山。

霊峰とも呼ばれ、日本人の心の故郷と言われても多くの人が納得するであろう、

美しい独立峰が、ただならぬ事態に陥っている。

衝撃のあまり言葉が出ない龍麻に、醍醐が続けた。

「あの赤い光が何を意味しているのかはわからん。

だが、光は少しずつだが確実に、光る時間が長く、消えている時間は短くなっている」

「そんな……」

「円空先生はお前に、富士山に行って欲しいと頼むだろう。

俺からも頼む、緋勇、共に富士山に登ってくれ」

「……」

 さすがに即答できず、龍麻は低くあえいだ。

怖ろしいとは思わなかったが、富士山をあんな風に変えてしまう敵の強大さを思わずにはいられなかったのだ。

 醍醐は龍麻の態度を否定的なものに感じたようだが、僧らしく決断を急かしはしなかった。

「とにかく、円空先生の話を聞くだけは聞いてくれないか」

「あ、ああ」

 龍麻はきびすを返し、本堂に戻る。

もう一度振り向くと、遙かにそびえる富士山は、病に冒されたかのように鈍く光っていた。

 本堂に戻ると、全員が一斉に龍麻を見た。

車座のまま動いておらず、会話さえ交わしていない。

それでも、龍麻が座ると、百合が努めて明るい声を出した。

「身体が冷えちまっただろう、お茶を持ってくるよ」

 ありがとうございます、と小声で形式的に言いつつ龍麻は、気もそぞろに円空を見た。

「見てきたかの」

「はい」

「気がついたのはお主達が帰ってきた次の日も終わろうという頃じゃ。

何しろ陽が昇らぬという方に皆気を取られてな。それにあの赤い光も初めはもっと弱く、

光っている時間も短かったのじゃ」

「何の光なのか、判らないのですか」

「御庭番を物見に行かせたがの、一人として戻ってこぬ」

 御庭番といえば龍麻でも名前を聞いたことがある、幕府お抱えの諜報集団だ。

隠密行動に長けた選りすぐりの者達であるはずで、その彼らが戻ってこないということは、

「誰かがいる……ということですか」

「うむ。おそらくはあの光も何かの儀式なのじゃろう。妨げる者は誰であれ許さぬということじゃな」

 囮として行った儀式でさえ、邪妖を召喚して江戸を破壊しようとした輩だ。

富士山を利用した儀式となれば、日本全土をも壊滅させようとしているのかもしれない。

 龍麻は時間と空間について詳しいわけではない。

すでに一九九九年の未来があるのだから、過去に日本が壊滅するような事態は起きていない、

つまり、今回の件も結局大事には至っていないのではないか。

そう考えることもできるが、感情としてこれを放っておくのは許せなかった。

異能の『力』を持つ何者かが、罪なき人々を苦しめようとしている。

何より、龍麻にとって大切な女性である雹が、このままでは巻きこまれる公算が大だ。

彼女を護りたいという理由だけで、龍麻には充分だった。

「俺が行きます」

「行ってくれるか」

「はい」

「……済まぬの。せっかく九死に一生を得たというのに、

また命を賭した戦いに行ってもらわねばならぬとは」

「俺がこの時代に来たのは、きっとこのためだと思うんです」

 雹に会うためではある。ただし、それだけではなかった。

龍麻は心からそう思っていた。

「うむ……そう言ってくれるのなら、もう何も言うことはない。

じゃが、必ず生きて戻ってくるのじゃぞ。お主には戻るべき時代があるのだからな」

 龍麻の手を強く握りしめた円空は、愛弟子に顔を向けた。

「雄慶。お主も緋勇殿と共に富士山へ赴き、変異の原因を突き止めるのじゃ」

「はい、先生」

 醍醐が合掌して命令を受託する。

その横で、京梧が刀の鍔を鳴らした。

「ヘヘッ、俺を置いてこうって腹じゃねェよな、まさか」

 実のところ、この二人は何も言わなくてもついてきてくれると確信していたので、

龍麻は少しからかってみたくなった。

「しばらく蕎麦が食えなくなるぞ」

「馬鹿野郎ッ、日本の一大事と蕎麦を天秤にかけるわけねェだろうがッ」

 声を荒げる京梧をなだめ、龍麻はもう一人の方を見た。

「俺も行く。こう暗くては武者修行の旅にも出かけられないし、鍛錬もできないからな」

「ありがとう」

 彼らしい物言いではあるが、尚雲の実力は醍醐や京梧に比肩する。

純粋な武術という意味では龍麻など遠く及ばず、彼の同行は大いに心強かった。

 気勢を上げた四人の若者に、円空は大きく頷いた。

「お主達、頼んだぞ。日本の命運はお主達にかかっておる」

「はい。必ず使命を果たします」

 

 さっそく龍麻達は富士山行の準備を始めた。

食料や防寒具を円空に頼んで手配してもらい、二日後の朝を出発と定める。

京梧などは明日にも出発したがったが、龍麻の体調がまだ完全ではないのと、

江戸の町はまだ大きな混乱には至っていないがその兆候が見えており、

あまり派手に食料を買いそろえると暴動が起きかねないので、

幾人かに手分けして調達させるのだという。

「それでは、俺は一旦鬼哭村に戻るとするよ」

 今更鬼道衆がこの機に乗じて江戸を襲うなどとは、もはや龍閃組の誰も疑っておらず、

ゆえに尚雲の希望はたいして注目もされずに聞き届けられた。

しかし、それならば龍麻も一度戻りたいと言うと、

「お主はまだ病み上がりじゃからな、休養に専念した方がよかろう」

 円空に諫められては無理を通すわけにもいかず、また、

「そうだな、報告はしておくから、君は体調を整えておくのがいいだろう」

 尚雲にまでそう言われてしまっては、引き下がるしかなかった。

 とはいえ、本当に休養しているわけにもいかない。

食料や防寒具など、用意しなければならないものは多く、

それらを運ぶためのバッグも必要となる。

ありがたかったのは、この当時すでに帆布が発明されていて、入手が可能であったことだ。

まだ文字通り舟の帆にしか使われていなかったが、デイパックが手元にあったのも幸いして、

円空が大急ぎで同じ形で二回りほど大きなものを作らせてくれた。

実用性重視で染められてもいない白い袋だが、きちんと背負えるようになっていて、

充分に役立ってくれるだろう。

 三つ用意した袋に、食料や手拭いなどを詰められるだけ詰めた。

防寒具に関しては手拭いなどではいかにも心許ないが、他には綿入れくらいしかないので、

これでしのぐほかなさそうだった。

 食料に関しては幕府が備蓄している干し飯を調達してもらい、これに梅干しと漬け物、

それと水を持てる限り持つ。

 だるまのように膨らんだ袋を見て、京梧が口を曲げた。

「ヘッ、そんなに荷物を抱えたんじゃ身動き取れねェだろうが」

「減っていくからいいんだよ」

 とにかく酷寒の富士登山という、装備や知識が進歩している龍麻の時代でさえ、

正気の沙汰ではないとされる難行を成し遂げ、

さらにそこに陣取っているであろう天変地異をもくろむ敵を倒さねばならないのだ。

まだまだこれでも足りないくらいだった。

 他には円空がろうそくを用意してくれた。

この頃、ろうそくはまだ貴重品で、武士や商人など一部の人間が特別な機会にしか使えるものではない。

それでも円空は十本のろうそくを調達してくれ、惜しげもなく全てを龍麻に持たせてくれた。

 それらの準備に忙殺されているうちに時間は瞬く間に過ぎ、出発の朝が来る。

結局出発するのは龍麻、京梧、醍醐に尚雲の四人だった。

どれくらい数を揃えているのか不明な敵に、この数はあまりに少ない。

だが龍麻達は必ず登頂を成し遂げねばならず、なんとしても太陽を再び取り戻さなければならなかった。

 結局雹は見送りに来なかった。

尚雲に訊ねてみても、素っ気なく彼女は来ないと言うのみで、龍麻は不満を募らせる。

今生の別れとなるかもしれないのに、少し冷たすぎはしないかと落胆もしたが、

鬼哭村に寄るわけにもいかず、彼女の顔を眼に焼きつけて戦いに赴くのは諦めるしかなさそうで、

勝って帰ればいくらでも会えるのだから、と気を取り直した。

「よし、それじゃ行くとすっか」

 陽気に京梧が告げる。

全く気負いがないのは心強いとしても、蕎麦でも食べに行くような口調では、

気合いも空回りしてしまうというものだ。

 四人を並んで立たせた百合が、一人一人に火打ち石を打つ。

切り火という厄除けのまじないだ。

微量の火花が闇に浮かび、儚く消えていった。

「いいかいあんた達、敵を倒したって生きて帰ってこなけりゃ意味がないんだよ」

「ヘヘッ、わかってるって」

 江戸の命運をかけた戦いに赴くというのにいつもの態度を崩さない京梧に、

百合は半ば怒りかけている。その隣では、醍醐と円空が挨拶を交わしていた。

「それでは先生、行って参ります」

「うむ、気をつけてな」

 それぞれ挨拶をする彼らと違って、龍麻は一人だ。

自分が異邦人であると強く認識させられ、雹がいないのがやはり心残りだった。

 龍麻の隣には尚雲がいる。

彼も京梧とは違った意味で気負いはなく、普段同様悠然としており、特に龍麻に話しかけるようなこともない。

龍麻の方はもう少し雹や鬼哭村の様子を聞いてみたかったのだが、

女々しいと思われるのも嫌で、何も訊かなかった。

「必ず帰ってくるんだよッ!!」

 百合の叫びを背に、龍麻達は旅立つ。

前方にそびえ立つ富士は、禍々しく輝いていた。

 

 龍泉寺を出発して、二時間ほどが過ぎていた。

風はやまず、陽は射さず、暗黒の中を四人は進む。

相手が人間にせよそうでないにせよ、形を取っているものになら決して臆することはない

京梧も、少し気を緩めれば吹き飛ばされそうになる暴風が相手ではどうにもならず、

醍醐の半身に隠れるようにして、ひたすら下を向いて歩いていた。

龍麻も似たようなもので、四方からたたきつける風に悪態をつく余裕もなく、

一歩ずつ足を動かすしかない。

目的地である富士山はいっこうに近づいた感じにならず、

不快な鈍い赤色の明滅はいつ終わるともしれず繰り返されていた。

気のせいであれば良いが、明滅の間隔は歩いている間にも短くなっているように見える。

激しい運動をした後の心臓のような、あれが脈動だとしたら、

行き着く先は発作か破裂か、いずれにしても良くない結果だろう。

 氣の扱いを学んだときに、龍麻は言われたことがある。

生きとし生けるもの全てに氣は宿っている。

小は草花に至るまで、大は星々にすら。

明滅が心臓というイメージをもたらすなら、その持ち主は富士山、ひいては地球ということになる。

富士山は日本で最も巨大な氣が噴きだす穴、龍穴でもあり、

龍麻達が倒さなければならない何者かが、氣を何かに用いようとしているのは想像に難くなかった。

 それほどの氣を制御する術などあるのか。

己が持つ才能さえ完全に制御できない龍麻は、冷たい汗が背中に滲むのを感じた。

制御できたとして、何に使うのか。

あれほどの力を破壊に使えば、江戸など容易に壊滅させられるだろう。

仮に制御できなかったとしても、暴走する氣はやはり日本に大きな傷をもたらすに違いない。

龍麻達は敵が儀式を終えるより前に山頂に到着し、斃さなければならず、

登頂を果たすだけでも難事であるのに、いわば三重の困難が待ち受けているのだ。

異能の力を持ち、人外の者と戦っても、一人江戸時代にタイムスリップしても

恐れや怯えはしなかった龍麻だが、前方遙かにそびえる、今は魔の山としか見えない暗黒の富士山を見れば、

寒さとは別に身体が震えてしまうのだった。

 何度目か、富士山を見上げ、不吉な輝きが消えていないことを確かめた龍麻は、

ふと、視線を下に落とさず、前方に据えた。

何かが見えたわけではなく、ほとんど勘でしかなかった。

だが、二十世紀末の東京の夜とは比べものにならない深い闇の彼方に、確かに何かがいた。

「京梧」

 龍麻ははためく京梧の着物の袖を苦労して掴んだ。

「何だッ!」

 京梧は声を限りに怒鳴っているが、かき消されて良く聞こえない。

龍麻は黙って前方を指さした。

 京梧も前方にいる何かに気づき、刀に手をかける。

龍麻も手甲を装着し、醍醐も何があっても即応できるよう身構え、

尚雲だけは槍を構えずに抱えたまま、四人は緊張を漲らせて進んだ。

「誰かいやがるのかッ!!」

 返事は草木からばかりだ。

京梧の気性は待つのを好まないが、待ち伏せされている可能性を考えると突進するわけにもいかない。

醍醐が正面、京梧と龍麻がそれぞれ左右を受け持ち、油断なく周りを見渡した。

 摺り足で移動しながら、龍麻は深く呼吸する。

限界まで吸った息をさらにもう一段階深く吸い、吐きだす呼気はそれよりも少なく、体内に蓄積していく。

体得するだけで三ヶ月以上を費やした呼吸法は、さらにその状態で戦えるようになるまで二ヶ月かかった。

それでもマスターできたのは龍麻に素質があったからこそで、

常人ではどれだけ鍛錬しても届かぬ領域だった。

 導き入れた空気を、臍の下に落とし、人体に七ヶ所あるチャクラと呼ばれる氣の集積所を順に通していく。

基底から、頭頂へと巡る氣は、その過程で増幅し、凝縮され、

駆け上る龍となって宿った。

 漲った氣をいつでも放てるよう、両腕に撓めて、龍麻はさらに接近した。

そろそろ最初に気配を感じた辺りに到着する。

呼吸を止めて全神経で気配を探る龍麻に、何者かは聴覚から接触してきた。

「よう」

 荒れ狂う風は葉音さえ引きちぎってしまうというのに、

その声はどういうわけか龍麻の耳にしっかりと届いていた。

聞き覚えのある声は、幻聴かも知れず、構えを解くわけにはいかない。

しかし、声に続いて姿を現した男の姿は、声と記憶を結びつけるものだった。

「九角……!」

 そこに立っていたのは、鬼道衆の首領である九角天戒だった。

刀は腰に差したまま、肩まである赤髪をなぶる強風に辟易しているようだが、

京梧達に対して敵意は感じられない。

彼が何故こんな場所にいるのか、真意を掴めぬままに動揺する龍麻に、さらなる追い打ちがかかる。

「遅いんだよ手前ェら、こんな寒い中待たせやがって、御屋形様が風邪引いたらどうすんだよッ」

 寒そうに腕をさすりながら、甲高い声でなじってきたのは風祭澳継だった。

衝動的に蹴りたくなったのを自制しながら、龍麻は彼らの他の人影を見やった。

 三人目は女性で、名前を桔梗という。

常に九角に付き従い、情の深さを否が応にも推し量らせる彼女も、

四方に髪を乱す風に辟易しているようだが、目が合った龍麻に笑いかけた。

 そして、四人目は。

龍麻達の中で最も背の高い醍醐を見下ろす位置から、じっと一行を見据えている。

龍麻が気づき、目を合わせても、にこりともせずに目を細めただけの彼女の名は。

「雹……!!」

 龍麻のうめき声は生まれた途端に風が千切り、引き裂いてしまった。

それでも、龍麻は目の前の光景が信じられず、空しく口を開閉させ続けた。

「どうしてここに……?」

 鯉よりはましといった程度に口を開閉させるのを止めた龍麻は、最大の疑問を口にする。

それに対して初めて、雹がわずらわしげに答えた。

「嵐王殿に頼まれたのじゃ」

「嵐王に?」

 頷いた雹は、何やら手を動かした。

すると、彼女を乗せるガンリュウの両肩から四つのまばゆい光が放たれる。

暗闇を貫く四条の光は、見る者をその輝き以上に興奮させた。

「……!」

「そなたの何と言ったかえ、そうじゃ、懐中電灯じゃ。ようやくあれを再現することができたそうじゃ」

「どうだ、凄ェだろ」

 なぜか自慢気な澳継を蹴り飛ばしたくなる龍麻だったが、話が進まないので我慢した。

「とは言うても小さくするのは難しいらしくての、

からくりを据えつけるのはガンリュウでないと無理だそうでの」

 今度は雹が顎を突きだして自慢気になる。

彼女に対しては全く腹が立たないのは、ひいきという奴なのだろうか。

そうだとしてももちろん、龍麻に反省する気はない。

「無論、ガンリュウならば多少重くなったとて、歩くなど造作もないからの」

 百年以上も後の時代の発明品を、当代の技術と材料で再現してしまう嵐王の凄さに、

改めて舌を巻いた龍麻は、彼女の発言に重大な意味が含まれていることに気づいた。

「まさか……雹も行くのか?」

「妾でなければガンリュウは動かせぬのじゃからな、当然じゃ」

「無茶だ!」

 龍麻はたまらず叫んだ。

雹に会えて嬉しいという気持ちは吹き飛んでいた。

男の龍麻でさえ、ここに至るまでですでに体力を消耗している。

この先富士登山となれば危険は生命にまで及ぶだろうし、

いくらガンリュウの腕の中と言っても暴風は防ぎようがない。

しかし、雹は全く聞く耳を持たなかった。

「この光だけではないぞえ。ガンリュウには食物なども持たせておる。そなた達では持ちきれぬほどのな」

 痛いところを突かれて龍麻は沈黙せざるを得なかった。

食料についてはほとんど帰りのことは考えていない分量しかなく、登山に手間取れば行きでさえ危ぶまれる。

ガンリュウならば容量の心配はほとんどない。

だからといって、容易には承伏できるものではない龍麻だ。

「死ぬかもしれないんだぞ!」

 龍麻が怒鳴るのは、風に負けまいとするとどうしても叫ぶしかないからだ。

しかしいくら龍麻が声を荒げたところで、雹は冷ややかな目で見据えるだけだった。

「ずいぶんと勇ましいの。じゃが、一刻を争うのではないのかえ?」

 龍麻も負けじと睨みつけ、雷光のような視線が二人の間に爆ぜる。

見かねた九角が諫めても、雷光が止むことはなかった。

「二人ともそれくらいにしておけ。緋勇、雹にもそれなりの覚悟があって同行すると決めたのだ。

意を汲んでやれ」

「……」

 鬼道衆の一員、といっても所属している期間が短いため、帰属意識はそれほど培われてはいない龍麻は、

長である九角にすら承伏しがたいといった態度をありありとみせたが、

京梧と醍醐を除く鬼道衆にまで穏やかならぬ空気が流れるのを感じて、渋々引き下がった。

「それでは改めて参るとしよう。澳継と龍麻は先頭を行け。雹は殿を頼む」

「御意」

 雹はさっさと下がり、龍麻も雹の顔を見ないまま前に出た。

他の一同もなんとなく無言のまま、行軍を再開するのだった。

 それにしても、九角がここに来るというのを尚雲が知らないはずがない。

前日から龍泉寺に居たのに、それらしきことは一言も言わず、

まんまと龍麻はしてやられたという訳だった。

先の雹との仲違いもあり、龍麻は憎悪をこめて尚雲を睨みつけたが、

食えない坊主はどこ吹く風で龍麻の眼光を受け流していた。

叫んだところで彼が動揺などしないと判っていたので、

追及を断念した龍麻は、歯ぎしりしながら歩くしかないのだった。

 

 人数を倍に増やした一行が富士山の麓に到着したのは、龍泉寺を出発してから三日後だった。

本来ならもう少し早く着けるのだが、悪天候のため時間がかかってしまったのだ。

それに今も吹き続けている強風は、確実に一同の体力を奪っている。

京梧や九角などはまだ余裕があるとしても、澳継や女性二人はやや辛そうにしていた。

「どうするよ、一旦休むか?」

「いや……今でも遅れが出ているからな。それに、赤い輝きが早くなっているのは、

良い兆候ではないだろう」

 九角の返答に、京梧が忌々しげに舌打ちをした。

「くそッ、一体何をしやがろうッてんだ」

「何を企んでいるにしても、絶対に防がなければならん」

「当たり前ェだろ、そんなこたァ」

 醍醐に威勢良く応じた京梧は、振り向いて別人のような声を出した。

「桔梗と雹は大丈夫かよ」

 先日まで敵であったはずの相手にも女だと甘くなる京梧に、全員それぞれ思うところが顔に出たが、

ガンリュウの光源からは外れていたので誰も見えなかった。

「あァ、あたしは平気さ」

「妾もじゃ」

 雹の答えは短く、疲れているのかどうかは判断できない。

龍麻も口を挟まなかったので、期限が迫っていることもあり、このまま登山を始めることに決まった。

「よし……では、行こう」

 九角が宣告し、一行は魔の山と変じた霊峰に足を踏み入れた。

 一九九八年時点では五合目まで自動車やバスで登れることもあり、

年間十万人以上が訪れる観光地である富士山であるが、富士登山自体は江戸時代にも盛んであった。

富士講と呼ばれる民間の結社に加入した人々が資金を積み立てて登る仕組みがあり、

特に江戸を中心に非常に人気を集めていたのだ。

ただし、それは御師と呼ばれる指導者の引率によって行われるものであり、

当然季節や装備には充分な配慮がなされていた。

 しかし、龍麻達は天変地異によって昼か夜かもわからない暗闇の中、酷寒の冬山登山に挑まねばならない。

その無謀さは覚悟するところだったが、洗礼は一合目から容赦なく襲いかかった。

 前後左右から風が襲いかかる。

霊峰の悲鳴がごとき強さも方向も一秒ごとに変化する狂風は、

かの山を助けようとする者達さえ阻み、大地から引きはがして暗黒の彼方へ連れ去ろうとした。

ガンリュウを除いて一同の中で最も大柄な醍醐でさえ再三あらぬ方へ飛ばされそうになり、

最も小柄な澳継などはあわや転げ落ちそうになって、龍麻に腕を捕まれてかろうじて助かる始末だ。

「す、すまねえ」

「気にすんな」

 助けた方も助けられた方も相手に友情など抱いてはいなかったが、

この時ばかりは励ましあって気力を奮いたたせた。

他の者達もお互い、かつて敵同士であったことも忘れて支えあい、果てなき闇を往く。

 その中にあって雹だけは、誰の助けも得ることができない。

ガンリュウの腕の中では吹きつける風をしのぐことはできず、

寒さに打ち震えながら彼女の半身であるからくり人形を操る糸を、ほとんど指先だけで手繰っていた。

 澳継を助ける際に後ろを見た龍麻には、雹の窮状が見て取れたが、どうすることもできない。

わずかな集中力の乱れで身体のバランスが崩れ、あらぬ方へ倒れそうになるのだ。

それに後続もほとんど前を歩く者の気配だけを辿っているから、

先頭の龍麻が道を逸れれば収拾がつかなくなってしまうかもしれない。

彼女を救う唯一の方策は一刻も早く休める場所を見つけることで、

それも小石でさえ踏んでバランスを崩せば致命になりかねない状況では叶わず、

焦りを押し殺して半歩の歩みをひたすらに続けるしかなかった。

 

 五合目にある浅間神社に到着したのは、半日近くが過ぎた頃だった。

半日、といっても陽が昇りも沈みもしない現状で時間を知る術などない。

腹の減り具合も麻痺しており、当てずっぽうに近い推測でしかなかった。

平時の倍以上時間がかかっているが、これも、まだ五合目まではほとんど雪の影響を受けなかったからで、

もしも風に加えて雪まで吹きつけていたら、ここまで辿りつけたかどうかも怪しかっただろう。

 無人の神社に一行は気力を振り絞って転がりこんだ。

戸を閉めても雪女の絶叫めいた風鳴が耳にこびりついていて、しばらくは立ちあがる気力もない。

おおよそ十五分ほども過ぎてから、ようやくのろのろと立ちあがり、奥へと進んだ。

 龍麻が手拭いを配る。

この程度では暖を取ることなどできず、湿った身体を拭うだけではあったが、

顔と髪を拭いて、なんとか人心地をつくことができた。

「ふゥ、酷ェ風だったなまったく。ひとっ風呂浴びてェとこだが、そういうわけにもいかねェか」

 京梧の感想は龍麻も同感だったが、軽口に応じるだけの気力は未だ回復していない。

風呂どころかこの場で眠ってしまいたいくらいだった。

「風呂とはいかぬが、身体を温めるものがあるぞ」

 京梧に応じたのは九角で、自ら立ちあがって外に置いたガンリュウのところへ行った。

ほどなくして戻ってきた彼の手には、酒の壺がある。

「おッ、気が利くじゃねェか」

 京梧に盃を持たせた九角は酒を注いでやる。

それを一息に呑みほした京梧は、当然のように二杯目を差しだした。

「まあ待て。他の者が先だ」

 主君よりも先に一杯開けてしまった京梧から、桔梗が睨みつけながら盃をひったくり、

九角に渡して酒を継ぐ。

京梧同様に一息に呑んだ九角は、次に盃を澳継に回し、澳継は龍麻に、龍麻は雹に回した。

 一行の中でも特に衰弱が激しい雹は、手ずから呑むこともできない様子で、龍麻が呑ませてやる。

アルコールを摂取したことでとにかくも落ちついたようで、

彼女の頬に朱が差すのを見てから龍麻は次に盃を回した。

 龍麻から盃を受け取った尚雲は、平然と飲みほし、醍醐に渡した。

仮にも僧である醍醐は、不飲酒戒を破ることにためらいがあったようだが、

同じ僧である尚雲が先に呑んだのと、この極限状況にあっては使命の達成を

最優先とすべきと判断したのか、大きく盃を傾けた。

「なんだ、呑けるんじゃねェか」

「何を言っているのか解らないな、俺と雄慶殿は般若湯を頂いただけだ」

 坊主が酒を呑む際の隠語として、般若湯は広く知れ渡っている。

京梧も知っていたが、混ぜっ返す気にはなれなかったようだ。

「まァいいさ。今は何よりこの山を登りきらねェとな」

「そういうことだ。今日はここで休んで、また明日から登るとしよう」

 今が何時なのか、何日なのか全く判らないが、九角の提案に反対する者はいなかった。

危急の秋とはいえ、一晩休んで体力を回復しなければ、とても登山の再開などできない。

 龍麻がガンリュウから握り飯を取ってきて、皆に配る。

保存食として干し飯は一般的ではあっても、決して美味しくはない。

しかし京梧や澳継はもちろん、桔梗や醍醐までも餓鬼のように飯を囓り、足りない水分を酒で補った。

物も言わず食べ続け、たいらげれば今度は眠くなる。

握り飯の半分ほどを食べた雹はすぐに眠りに落ちてしまい、澳継が続いた。

龍麻もほとんど眠りかけていたが、京梧の質問に弾かれたように頭を起こした。

「それにしてもよ、どうして鬼道衆の大将自ら出てきたんだ」

 声は鋭さを欠いてはいたが、質問そのものが際どい。

龍麻と醍醐、それに桔梗は期せずして視線を交わしあった。

ここで龍閃組と鬼道衆が諍いを起こしても、何のためにもならない。

満腹感が言わせたのかもしれないが、余計なことを訊いてくれたと各々の目が語っていた。

「貴様は緋勇の話を聞いたことがあるか?」

「あン? 話って何の話だよ」

「緋勇が遙か後の世から来たと言う話だ」

「あァ、それならあるぜ」

「緋勇の時代には江戸幕府もなく、皆が平等に生きているという」

「……! おいそりゃ本当か、緋勇」

 京梧の鋭い眼光に、龍麻はたじろいだ。

龍閃組に江戸幕府がなくなることを語らなかったのは、彼らが将軍を敬っていると感じたからだ。

彼らと話をした時は知らなかったものの、龍閃組は将軍家茂が許可を出して結成された組織なのだから、

彼らに幕府がなくなるなどと話せば穏便にすむはずがなく、龍麻の判断は正しかったといえる。

しかし、ここに来て、しかも江戸幕府に敵対する側の人間に暴露されたことで、

気まずい立場に置かれたのも事実だった。

「ああ、まあ」

「そんな大事なこと何で黙ってやがった」

「言えるわけないだろ、江戸時代に来て幕府はもうじきなくなりますなんて」

「手前ェ、鬼道衆と戦ってるって言ってたな。てことは、鬼道衆が幕府を倒すってんじゃねェだろうな」

 京梧の論理は飛躍しているようにも聞こえるが、今の状況を考えれば無理もない。

この登山行で鬼道衆が勝利し、幕府を壊滅させる可能性もあるのだ。

「そうじゃない。江戸幕府は幕府自らが朝廷に政を返上するんだ」

 世に言う大政奉還は、あと一年足らずで起こる。

以後、日本は激動の時代に突入するのだ。

「手前ェが嘘を並べてねェってどうして言える?」

 京梧は置いていた刀を手にし、片膝を立てていた。

いつでも斬りかかれる体勢は、ただの威嚇ではないだろう。

俄に生じた外にも劣らない暗黒の雰囲気に、腕を組んだ醍醐が諭した。

「待て、京梧。緋勇が摩尼に氣を注いで結界を作り、江戸を護ってくれたのを忘れたのか」

「忘れちゃいねェさ。けどよ、あれも俺達を信用させるための策だったのかもしれねェ」

「馬鹿な、緋勇は俺達をかばって死にかけたんだぞ」

 声を荒げる醍醐にも、京梧は石のごとく固まったまま応じない。

そんな京梧を龍麻は正面から見つめた。

あれほど戸を打ちつけていた風が、いつしか聞こえなくなっている。

か細いろうそくの灯りの向こうに浮かぶ、修羅の面相をした男に、龍麻は語った。

「……俺の時代の鬼道衆は、俺の知り合いを殺した」

 江戸時代と現代とでは、死に対する価値が異なるかもしれない。

それでも、咎なくして近しい人を殺される怒りは、どの時代、どの世界に生きようと共通のはずだった。

「それに雹だって、本当は安らかに眠っているはずなのに、外法で蘇らされたんだ」

 外法によって仮初めの命を得た雹は、彼女を蘇らせた現代の九角にも恩義があると言った。

だが戦うためだけに蘇らされ、捨て石となる宿命を負った彼女を復活させた九角を、龍麻はどうしても許せない。

「九角や桔梗さんには本当に世話になったし、どれだけ感謝してもしたりないくらいだ。

でも、俺の時代の鬼道衆は倒さないと、もっと悲しむ人が生まれる」

「それならよ、ここで鬼道衆を潰しちまえばいいんじゃねェのか?」

 痛いところを突かれて言葉を失った龍麻は、京梧から九角へと視線を移した。

 鬼道衆の頭領は、ろうそくの灯りの届かない暗がりから、京梧と同じ面相で龍麻を見ていた。

「……それは、できない。俺は龍閃組と同じくらい鬼道衆に世話になっているし、それに」

 龍麻は別の暗がりで寝息を立てている雹を見た。

彼女を護るためになら、龍閃組も鬼道衆も幕府も関係なく戦う。

龍麻は京梧や九角に劣らぬ気迫を瞳に漲らせ、両者を交互に見た。

「結局、手前ェ等を信用する根拠は何一つねェってことか」

 京梧が刀の鍔を鳴らす。

すると、それまで黙していた九角が口を開いた。

「言いたいことを言ってくれたが、俺とて貴様等は信用しておらん」

「……なんだと?」

 たちまち触発された京梧が束に手をかける。

京梧が刀を抜けば一刀の下に斬られる位置にいながら、九角は動かなかった。

京梧に目を据えたまま、低い声で指摘する。

「貴様等の下にいる間に、緋勇は何度か倒れたそうだな。

それに、小岩での戦いでも緋勇は貴様等を庇って瀕死の怪我を負ったと聞く」

「くッ……」

 今度は京梧が痛いところを突かれて沈黙した。

 龍麻からすれば自分の能力不足ゆえに倒れただけだと思っていたのだが、

意外にもこの短気な剣士は自分にも責任があると考えていたらしい。

「江戸の町や幕府がどうなろうと構わぬが、貴様等に任せておいて緋勇が死にでもしたら困るのでな」

 冷え切っているはずの部屋の一区画に湯気が立ちのぼる。

湯煙の向こうで今にも白刃が煌めくのではないかと龍麻は気が気ではなかったが、

どうやら京梧は自制してくれたようだった。

「上等じゃねェか。そこまで啖呵を切ったんだ、下手打ちやがったら末代まで笑い物にしてやるぜ」

「いいだろう」

 威嚇の笑みを最後に、矛を収めた二人に、誰よりも龍麻が安堵した。

ところが、その拍子についた吐息がいささか大きかったらしく、皆が一斉に見た。

「おい緋勇」

「な、なんだよ」

「だいたい手前ェが原因だって判ってんのかこの唐変木ッ!」

「い、いや、それは」

 助けを求めて九角を見たが、九角も意地の悪い笑みで応じるだけだった。

「確かに、お前が何度も倒れたりしなければ、俺が来る必要もなかったのだがな」

「う……」

 二本の矛先を喉元に突きつけられて、龍麻は絶句する。

飛び火してきた対岸の火事に慌てふためく龍麻を救ってくれたのは、

途中から呆れた顔で男達のやり取りを聞いていた桔梗だった。

「さあさ、明日も早いんだからその辺にして寝ちまいな」

 桔梗の仲裁は全員を救った。

む、と唸った京梧は頭を掻くとその場で仰向けになって寝てしまい、九角と醍醐も倣って横になる。

我関せずといった風に座っていた尚雲も、九角が寝たと見るや眠りはじめ、

後に残されたのは龍麻と桔梗だった。

「助かりました」

「雹を護りたいって言うんなら、もう少ししゃっきりしないと駄目だよ」

 恐れ入った龍麻はひたすら頭を下げる。

「さァ、ガンリュウに持ってこさせた布団があるからそいつを皆にかけてやるんだよ。

そしたらあんたもさっさと寝ちまいな」

 素早く立ちあがった龍麻は、極寒の外に出るのもなんのその、

桔梗に言われたとおりに布団を取りに行き、かいがいしくも皆にかけて回ったのだった。

 

 一晩を過ごした神社内は、風をしのげて助かったのだが、正直に言ってそれだけだった。

山風に叩き続けられた四方の壁はがたがたと鳴り止むことがなかったし、

戸板に阻まれてなお死神の息吹のように隙間から入ってくる風は、身を縮こめねば眠れないほど寒かったのだ。

「痛ててて……畜生、布団が恋しいぜ」

 関節を鳴らしながら京梧がぼやく。

他の面々もぼやかないだけで京梧と大差なく、

肩の辺りにずっしりと残る疲労に辟易した様子で頭を振ったり伸びをしていた。

「これより先は、休まずに登らねばならないだろう」

「あァ、そうだな。こんな風に休める場所はねェだろうしな」

 飯を頬張りながら九角と京梧が話す。

昨夜の騒動などなかったようなのは喜ばしいが、仲違いなどしている場合ではないほど、

これから先は険しい登山行が待ち構えているのだ。

「登れなくなった者を助ける余裕はない。自力でここまで戻ってくれば、帰りには寄れるだろう」

 辿りつけなければこの寒さで助かる道理はない。

覚悟の上で来たとはいえ、全員が改めて緊張した面持ちで九角に頷いた。

「よし……それじゃ、行くか」

 京梧が立ちあがり、尚雲が続く。

他の者も続々と立ち、富士山頂を目指して出発した。

 風の激しさは昨日、といっても何時間眠ったのかも不明ではあるが、

神社で休む前に較べればいくらかは和らいでいるようだった。

ただし高いところまで来たせいか、寒さは増したように感じられ、

出発したばかりだというのに体力が奪われていく。

 それでも、もう引き返すことはできない。

ここで戻れば助かるかもしれないが、このまま陽が射さねばいずれ寒さは麓に、

さらには日本全土に到達し、多くの人々が倒れるだろう。

江戸を護るという使命を負った龍閃組と、真意は未だ不明ながら今は龍閃組と共に往く

鬼道衆との混成軍の中に、戻ろうと考える者は誰もいなかった。

 道は複数名が並んで歩ける幅ではなくなっていて、澳継を二番手に配し、龍麻が集団の先頭を歩いていた。

先頭と二番手では疲労度が段違いで、どちらかが前に出るなら龍麻しかなかったのだ。

 最後方からの光は、龍麻の処までかろうじて届いている。

実のところ、風の強さに大きく目を開けていられず、何度となく足を滑らせてはいるが、

それでもほんのわずかでも先を照らしてくれるのは、何よりも失いがちな気力を大いに助けてくれた。

特に龍麻にとっては、その光がある限り、発光源であるガンリュウと、

その腕に乗る雹の無事が間接的ながら確認できるので、

時折は顔を上げて数歩先を照らす光を確かめ、安心しながら登山を続けられた。

とは言ってもやはり心配で、数分に一度は彼女の顔を見たくなり、数十分に一度は側に行きたくなる。

自制はするが、疲労が溜まってくると挫けそうになって、

そんなとき龍麻は頬を叩いたり唇を噛んだりして耐えた。

寒さに固まった皮膚は、かなり思いきり叩かないと痛みを伝えない。

それも痛くなったのは初めのうちだけで、次第に寒さの方が上回り、

頬を張ったくらいでは朦朧とした意識を取り戻せなくなっていた。

そして、その頃にはもう雹への想いもない。

一面が暗黒の世界で、襲いくる寒さと風に気力を奪われると、

自分がどこにいて何をしているのかさえ思いだせなくなる時がある。

雹に対してさえその有様だから、京梧や九角を気遣う余裕などまるでなく、

そしてそれは、彼らにしても同じだった。

 四方から荒れ狂う風に悪態をつくのはとうに諦めた京梧は、苛立ちをたゆたわせたまま登っていた。

苛立っているだけ龍麻よりましかもしれないが、ぶつける相手がいない以上、

どんどん溜まっていくことになる。

こんな調子が続けば何かの拍子に誰彼構わず爆発するかもしれなかった。

 九角は桔梗が見える位置を確保しているが、彼女に手をさしのべるだけの余裕はない。

連れてきたことを後悔しながら、足を動かし続けるしかなかった。

 神社を出発して何時間かが過ぎた頃、先頭の龍麻の足が止まった。

必然的に全員の行軍も止まる。

止まったといってもこの風では休憩もままならず、身体が冷えて消耗するばかりだ。

頂上に到達したわけでもないのになぜ止まったのか、後ろの京梧や九角が声をかけようとする。

だが、龍麻が見ている方向に視線を移動させた結果、止まった理由を否応なしに知ることになった。

 黒い世界に浮かびあがる、一面の鈍色。

前方の視界は、いつのまにか塗りかえられていた。

「雪……か……」

 京梧が呟く。

 富士山頂の雪は、例年なら五月頃が最も多くなり、十二月頃はまだ少ない。

異常気象だから当てはまらないとしても、当然予想はしていて、

むしろこの高さまで雪がなかったのは幸運と言えただろう。

しかし、それもここまでで、ここから先は一層寒くなり、歩くのも困難を極める。

龍麻は念のために振り返ってみたが、戻ると言い出す者は誰もおらず、それどころか、

「何びびッてやがる、雪ぐらい何だってんだ。さっさと行こうぜ」

 澳継に発破をかけられて柄にもなく奮起してしまうのだった。

 改めて行軍を開始する。

澳継の言葉通り、雪などものともせずに登ろうという龍麻達の決意は、

四半刻もしないうちに挫けかけていた。

それほど深く積もっていないように見えた雪は、足首まで埋まるだけでも充分な脅威となる。

頭で理解していても、実際に歩いてみるとその負荷は想像以上だった。

スキーの経験も一、二回しかない龍麻は、雪の中に足を踏みしめる加減に慣れない。

あまり勢いをつけると足を取られやすくなり、かといって弱ければ埋まった足が抜けない。

もともと強風のため歩幅は小さくなりがちだったが、速度はさらに低下を余儀なくされた。

そうなると気になるのは最後尾にいる雹だが、首を回すだけでも重労働になるうえ、

声を出したところで聞こえるとも思えない。

せめて想いだけは途切れることのないよう、念じながら登るしかなかった。

 だが、この世の果てのような暗鬱たる光景は、いつしか心の中にまで巣くっていた。

瞼を半ば閉じ、死神の口笛のような風の音と、自分の荒い息遣いだけを聞きながら足を動かし続けていると、

自分が生きているのか死んでいるのかも判らなくなる。

摩滅した意識が戻るのは、皮肉にも富士の山が赤く光ったときで、

今や薄暗い赤色に染まっている時間の方が長い光が消え、再び点灯したときに龍麻は、

自分がどこにいるのか思いだし、わずかながら気力を回復して再び歩を進めるのだった。

 風の音が増し、雪が渦を巻く。

ほとんど真横から吹きつける雪は皮膚を叩き、呼吸をも妨げ、龍麻達の登山を阻んだ。

 無窮の闇のただなかを歩く龍麻は、顔に当たる半ば凍った雪塊を避けようと、傘を下ろして歩いた。

視界はなくなるが、元々ないようなものだから構わない。

飛ばされそうになる傘をしっかり掴んで、永遠に続くかと思われる道を一歩、また一歩と進んだ。

 異変に気づいたのは、いつだっただろうか。

数分か、それとも数十分か、気がついてみれば仲間の姿がなかった。

慌てて周りを見渡してみる。

人影はなく、ただ黒と灰色だけが世界を二分していた。

「……!」

 叫ぼうとしたが頬がかじかんで動かない。

心臓を悪魔に握られたような恐怖を覚え、龍麻は来た道を戻った。

疲労も一時的に忘れ、苦労して登ってきた山を下りていく。

 だが、後ろにすでに道はない。

あらゆるものを呑みこんだ雪は、暗黒と協調して世界から生命の痕跡を消し去っていた。

一人取り残された恐慌に、龍麻はよろめき、倒れる。

肘まで埋まった雪を、かき分ける気力も湧かず、その場に伏した。

他のものと同じく存在を消し去ろうとする空よりの使者に、

寒ささえ感じなくなって、まぶたを閉じる。

心地よい死の眠りというには、吹き荒れる風が聴覚を騒がせ続けたが、もう関心はなく、

あと数十秒か、あるいは数秒か、訪れる永遠を待ち受けた。

 吹雪く風と対照的に勢いを弱めていく龍麻の鼓動が、止まろうとしたその時。

悪戯というには激しい風が、積もった雪を巻きあげ、その上に乗る龍麻の肉体を動かした。

距離にすれば数センチにも満たない、龍麻当人さえ動いたと気づかなかったほどの微量の移動だった。

わずかに動いた腕の、さらにわずかに動いた指先に、硬いものが触れた。

全く何かもわからない、その感触が電撃となって龍麻の記憶を走る。

一瞬の半分にも満たない間に魂が肉体を支配し、龍麻は立ちあがった。

 

「雹ッ!!」

 おそらくこの風では聞こえていないだろう。

それでも構わず龍麻は、内なる声を外へとほとばしらせた。

さっきは気づかなかった、目の前に立つ白壁を手でかき分ける。

雪に埋もれたガンリュウの巨体同様、彼の腕の中にいる雹も、繭に包まれているかのように真っ白だった。

ガンリュウの腕から雹を抱きあげる。

さっきまでの倦怠は嘘のように消え失せ、体内から燃える熱が、雪すら避けて通らせた。

だがこのままでは雹と二人、野垂れ死ぬだけだ。

龍麻は四方を鋭く見渡した。

吹雪は変わらず吹き荒れ、視界のほとんどが奪われている。

 苛立ち、歯ぎしりする龍麻の目に、一条の光が射した。

それはガンリュウの肩から放たれる、人工の輝きだった。

どうして急に光が見えたのか、考える暇はない。

光の先には暗闇と白灰が戦っている箇所があり、龍麻はそこへと向かった。

 雪を踏みしめ、その場所へと辿りついた龍麻は、そこに空洞を見つける。

僥倖という他はなく、急いで中に潜った。

 入り口から下にやや傾斜している洞穴は、二十メートルほど進んだところで緩く左に曲がっていた。

そこから五メートルほどで行き止まりになっていて、寒さを完全にしのぐというわけにはいかないものの、

吹き込む風はかなり少なくなっていた。

「雹……雹っ……!」

 積もった雪を払い落としもせず、龍麻は雹の名を叫んだ。

しかし、雹の体は冷え切っており、呼びかけにも応じる気配がない。

このままでは、死んでしまう――

焦る龍麻だが、彼女を暖める術はなかった。

何かあるはずだ、何か――

凍ったような冷たさの雹の手を握り、龍麻は必死に考える。

いっこうに暖かさを取り戻さない彼女の手に、己の不甲斐なさが滴となって落ちたとき、

ひとつの方法が閃いた。

迷っている時間はない。

雹を寝かせ、自らも横たわった龍麻は、彼女を抱きしめると、下腹に意識を集中させた。

基底のチャクラが、軋みながら回りはじめた。

 生命エネルギーである氣を体内で増幅し、凝縮する鍛錬を龍麻は行ってきた。

それは氣を自在に操り、強大な敵と戦うために身につけたのだが、

その副産物として、身体が熱くなるという現象があった。

生命に関わるほど熱くなるわけではないが、多量の氣を練ったり、

長時間に渡って氣を使っていれば、意識を失うことはありうるし、

脳が熱せられれば当然集中力を欠くことになる。

修行中、龍麻は常々この現象について彼の師から忠告を受け、

氣に頼りすぎないよう、固く戒められていた。

 それらはあくまでも氣を用いる際の、どちらかといえばマイナスの効果として捉えられ、

実際に龍麻が氣を用いて戦うようになってからも、

戦闘後に残る気怠さとして悪い印象しか持っていなかった。

しかし、今それを利用すれば、雹を暖められるかもしれない。

一縷の望みを託して、龍麻は氣を練った。

息を深く吸い、体内に溜める。

冷たい空気を多量に吸うと、気道が苦しくなってむせたが、

意志の力で咳を封じこめ、再び吸った。

特別な呼吸法によって体内に蓄えられた氣を、基底から頭頂まで、人体に七つあるチャクラに徹す。

身体の上部に行くに従い、増幅されていく氣は、龍麻を昂揚させ、全身に力を漲らせた。

火照りを感じた龍麻は、雹を強く抱きしめる。

だが、外気があまりに寒いからか、それとも疲労した状態で氣がしっかり練れていないのか、

雹を暖めるだけの熱にはとても足りなかった。

 ならば、と龍麻は目を閉じ、さらに意識を集中させる。

常ならばその練られた氣は両腕、あるいは両足に宿り、敵を打ち倒す術となる。

では、外に向けて放つのではなく、内に向けて拡散すればもっと熱を生みだせるのではないか。

そう考えた龍麻は、敵に対してではなく、自分自身にぶつけるイメージで氣を解放した。

正気の沙汰ではない行動は、多大な負担を龍麻に与え、全身が裂けるような痛みに苛まれる。

しかし同時に、膨大な熱が身体から発せられるのを龍麻は感じていた。

氣を練り、己が身体の中心に向かって放ち、愚直にそれを繰り返す。

氷点下を下回る富士山頂で、龍麻のいる一角だけが常春の如き暖かさとなっていた。

 息苦しさとそれに伴う暑さに、雹は目を覚ました。

身体が熱く、動こうとして動けず、暗闇の中で何が起こったのか把握に努める。

どうやら誰かに抱かれているらしい、と気がついたのは、自分とは違う息遣いを聞いたからで、

急速に恐怖を覚えた雹は、不埒者を押しのけようと両手に力を込めた。

「痛っ……!?」

 すぐ近くで聞こえた声はやはり男のものだった。

しかし、抵抗を受けると思っていなかったのか、悲鳴はずいぶんと間が抜けていた。

さらに、その声に雹は聞き覚えがあった。

「龍麻……?」

「気がついたのか……良かった……!」

 記憶が蘇る。

なぜ登山途中に抱かれているのか、他の者はどうしたのか、

詰問しようとした雹は、あまりに弱々しい龍麻の声に、先に彼の顔に触れた。

まだ微量の熱が残っている頬は、使い古した半紙の手触りで、指先だけで判るほど疲弊していた。

「何を……したのじゃ……?」

「ちょっと……な」

 雹が回復したことで気が抜けたのか、龍麻の腕から力が弱まり、

雹は自由を取り戻すことができた。

 むろん、雹は龍麻から離れない。

体調は十全とは言い難いとしても、意識がはっきりする程度には回復しており、

それが、龍麻がなにがしかの治療を施したからなのは明白だった。

この厳寒の地で暖かさを感じたのは、龍麻以外に理由などあるはずがない。

雹は龍麻の胸を掴み、生命をなげうって自分を救った男をなじった。

「馬鹿者……無茶をしおって……!」

 それ以上は言葉にならず、龍麻の胸に顔を埋め、嗚咽する雹を、

龍麻は渾身の力で支えなければならなかった。

 風は不思議と弱まっていた。

寒さはもちろん感じるが、耳の奥にこびりつくような風音もなく、一晩を越せないほどではなさそうだ。

お互いの他に身体を暖める手段を持たない二人は、衒いもなく抱きあった。

「そなたは本当に大事ないのかえ」

「ああ」

 暗闇なのをいいことに、龍麻は大嘘をついた。

全身はかつて経験したことのない、ありとあらゆる箇所が同時に激痛を発していて、

雹と話していてさえ意識がばらばらになりそうだ。

だが、ひとたび気を失えば、雹の身体はまた冷えてしまい、二人もろとも死ぬだろう。

そうはさせまいという一念で、龍麻は耐え抜いていた。

「妾がついてきたことを、まだ怒っておるかえ」

「え? ……いや」

 その一念がいささか強く抱きしめさせていたのか、雹の質問は龍麻の意表を突いた。

束ねていた意識が解けかけ、とたんに痛みが各所を襲い、奥歯を噛んで気を確かに持った。

すると、その気配をまた誤解したのか、続いて発せられた雹の声は、細雪のようだった。

「嵐王殿に頼まれたというのは本当じゃ。じゃが、たとえ頼まれなんだとしても、

御屋形様が行かなんだとしても、妾はそなたについていくつもりじゃった」

「……」

 これまで、雹の心を囲む氷壁を溶かそうと努力してきた龍麻だが、

氷の下には何があるのか考えたことはなかった。

少女の心を凍りつかせた氷は厚く、容易には溶かせなかったし、

本心を言えば、少しなら冷たい方が好ましいとさえ思っていた。

 だが、彼女の心の奥には、龍麻に匹敵する感情の熱流があった。

命を賭けても男の傍にいたいと願う、焔があった。

龍麻は驚き、透ける氷の下に見える炎の美しさに見惚れた。

「そなたが倒れたと尚雲殿に聞いて、妾の心は裂けそうになった」

 龍麻の胸に、爪が立てられる。

龍麻が受けた痛みは、雹の痛みそのものに違いなかった。

「じゃが、妾は何もできぬ。看病に行くことさえ叶わぬのじゃ」

 鬼道衆と龍閃組の対立が理由ではない。

雹はガンリュウに乗ってしか移動できず、ガンリュウの巨体はどこにあっても目立つ。

からくり人形の遣い手の、最後の生き残りである雹は、未だ狙われる身でもあるのだ。

人目につくのは避けねばならなかった。

「幸いにしてそなたは回復した。じゃが、今度は富士山に赴くという。

そう聞かされたとき、妾はもう我慢がならなかったのじゃ」

 周りに止められたとはいえ、龍麻も我慢の限界だった。

だが雹は、限界に身を任せなかったのだ。

想いを向ける龍麻以上の想いを、いつのまにか胸に宿していた少女は、

九角に願い出て龍麻の許へ赴く許しを得た。

嵐王の発明が完成したという幸運もあるにせよ、

雹の侵しがたい決意が鬼道衆の長を動かしたのは間違いなかった。

「腱を切られて後、妾はひとりで死ぬつもりじゃった。御屋形様に拾われた恩義はあれど、

復讐を果たした以後は、誰とも関わりを持つつもりなどなかったのじゃ」

 病に倒れればそれも良し。

世捨て人として諦念の境地に達していた雹は、ただ同じ毎日を繰り返すだけの人形と成り果てていた。

「じゃが、そこにそなたが現れた」

 未来から雹を探しに来たと名乗る不審な男。

全く見覚えのない龍麻に、雹は関わるつもりなど毛頭なかった。

しかし、なぜか九角が気に入ったようで、龍麻は鬼哭村の一員となる。

以後は暇さえあれば雹のところに顔を出すようになり、迷惑がる雹に構わず世話を焼くようになった。

 しきりに話しかける龍麻に、次第に雹は応じるようになる。

これは決して積極的にではなく、そうしなければいつまでもつきまとうからだ。

冷たい態度で追い払った方が効率がよい。

そう考えた雹は彼の話に全く興味がない態度を見せた。

しかし、これは効を奏さなかった。

固く閉ざされていた扉が開いたとみなした龍麻は、前にも増して話しかけるようになった。

さらには村の子供達をも連れてくるようになって、雹の周りは騒がしくなり、一時は本当に辟易した。

しかし確かに龍麻には、雹の知っているどの人間とも異なる雰囲気があった。

未来から来たなどという戯言は信じなかったが、武士や農民などとは違う、

浮世離れしているような、けれども大地もしっかりと踏みしめているような不思議な物腰は、

九角でさえも持ち合わせてはいないものだと雹は感じた。

それに子供に算術や読み書きを教えられるだけの知性と、

嵐王とも毎夜語り合っているという知識。

それに加えて村のどの人間からも好かれる度量は、次第に雹をも惹きつけた。

 そうなると、今度は切られた腱が文字通りの足枷となる。

龍麻は最初から腱が切られていることを知っていたようで、それについて触れられたことはない。

けれどもガンリュウがいなければ厠にさえ立てない雹は、自分が龍麻の重荷にしかならないと知っていた。

龍麻が江戸に生きるにせよ、彼が言うとおりに未来から来た人間で、

その時代に帰るにせよ、共に歩くことはできないのだ。

 ゆえに雹は龍麻から離れようとした。

自分から離れることはできないので、彼に遠くへ去ってもらうしかない。

すげなくあしらえば、いずれ龍麻は諦めるだろうと思った。

それが浅はかであったと、ほどなく雹は思い知らされる。

江戸を護るため、などと大法螺を吹いて出かけた龍麻は、

仲間を庇うために敵の攻撃を受け、目を覚まさぬ状態に陥ったという。

尚雲からそれを聞かされた雹は、家に戻って泣き崩れた。

自分でも判らぬほどに想いがあふれ、畳を濡らす。

ただならぬ様子を心配して桔梗が来ても、泣く以外に感情を吐露する術を持たなかった。

 疲れ果てて眠り、目覚めた雹は気づく。

彼こそが陽であったと。

その眩しさに目を細めることがあったとしても、

彼の作りだす陽だまりは、なくてはならないものとなっていたのだと。

「妾は御屋形様に願いでた。御屋形様は渋っておられたが、桔梗殿が口添えしてくれたのじゃ」

 あたしも行くから天戒様、どうかこの子に富士山に行くお許しをお与えください――

その一言が結局、九角をも動かすこととなった。

死出に等しい旅に女二人を行かせたとあっては鬼道衆の名が廃る。

どうせ廃るならば富士の高嶺で廃るも一興。

そう言って九角は反対する側近を抑え、自らも富士登山を決めたのだった。

「御屋形様や鬼道衆に迷惑をかけるわけにはいかぬ。そう申しあげたのじゃが、

御屋形様は『緋勇は鬼道衆の今後を担う男だ。無為に死なせるわけにはいかぬ』と申されてな。

村を出る時もそなたを頼むと多くの村人に声をかけられたわ。そなたは皆に好かれておるのじゃな」

 笑いの微粒子が彼女の触れた頬から漂う。

龍麻もつられて微笑もうとすると、一転して雹が強く胸を掴んできた。

「いずれにせよ、妾はもうそなたの傍を離れぬ」

「俺も、雹を離さない」

 それこそ龍麻が望んだことだった。

百三十年分の想いを込めて、龍麻も強く雹を抱きしめた。

ようやく交わせた想いは、だが長続きしなかった。

龍麻の腕から力が急速に抜けていく。

「どうしたのじゃ、龍麻」

 龍麻に答えるだけの力はすでになかった。

雹を救うために己の生命を燃やした結果が訪れたのだ。

少しずつだが寒さを感じ始めていて、眠ればそのまま死んでしまうだろう。

結局は彼女の生を数十分伸ばしただけなのが残念で、できればもう少し彼女の傍に居たかったが、

こうやって死ねるのなら悪くはない。

龍麻はやって来た眠りの使者に、今度の眠りは永くなると告げられても取り乱したりはしなかった。

 龍麻の様子がおかしいことは、雹にもすぐに判った。

彼の温もりが去りはじめ、息遣いも浅くなっている。

このままでは龍麻は死に、自分も死ぬだろう。

だが雹はもう生きようと思っていなかった。

傍を離れない、と言ったのは嘘ではなく、彼が死ぬのなら自分が生きている意味もない。

死に場所としてこれ以上の場所は得られないのだから、あがく必要もなかった。

「よいな、龍麻。最後まで腕を離すでないぞ。絶対にじゃぞ」

 雹の声が遠くに聞こえる。

最後にもう一度腕に力を入れなおしてから、龍麻は重くなった意識が底へと沈んでいくのに任せた。

 

 浮かんでこないはずの意識が、瞼を開かせる。

むしろわずらわしげに目を開けた龍麻の、目の前に少女の気配があった。

真っ暗だったために状況を把握するのに時間を要したが、

意識を失う前と状況は変わっていないようで、どうやら死ななかったらしいと悟ることができた。

確かめてみると雹も眠っているようだが生きていて、龍麻は胸をなで下ろした。

 生きていたからには起きなければならない。

死んでも良いと一度は思った龍麻は、自分の使命を忘れてはいなかったが、

その前に少しだけ、彼女の唇に触れるくらいは、寄り道をしても良いのではないかと考えた。

「雹……?」

 小声で呼びかけてみたが、穏やかな寝息以外は返ってこない。

時間はそれほどないはずで、龍麻は素早く決断した。

頭の中で鳴り響く、寝込みを襲うのは卑劣ではないのかという警告を、

外の風音で聞こえないふりをして、姫を目覚めさせるためではなく、

できればこのキスで目覚めて欲しくはないという邪悪な願いを込めて、雹に顔を近づけた。

「……なんじゃ」

 唇の位置さえ寝息を頼りにしなければ判らなかったほどの暗闇で、

雹の瞼が突然開くのを龍麻は確かに見た。

寝ていたふりをしていたのではないかというほど、黒曜の瞳は硬質の輝きで不埒な男を凝視している。

思わずのけぞった龍麻の背中が、無理な姿勢に酷い音を立てて鳴った。

「い、いや、何っていうこともないんだけどさ、どうやら無事みたいだな、俺達」

「……そうじゃな」

 雹はあからさまに疑っている様子だったが、そんな態度がかえって彼女らしく、龍麻は嬉しくなった。

 とにかく無事なのを確かめた二人は、このまま山頂まで行くことにした。

ここで逃げて帰っても太陽が昇らなければどのみち死んでしまうことに変わりはないだろうし、

雹は昨夜の告白が嘘ではないと、片時も離れようとはしなかった。

「ほれ、早うせぬか」

 ガンリュウを置いてきたので、雹は龍麻が背負うことになる。

それは構わないのだが、これから死地に赴くという際に、

時の大河を超えて会いに来た少女と密着しながらというのは、

健全な十八歳の男子にとって、なかなか忍耐力を試されるのだ。

「どうしたのじゃ」

「……いや、行こう」

 首筋にかかる息としっかり回された腕に幸福を覚えているのは顔に出さず、

龍麻は洞穴の出口へと向かった。

 

 入口まで来た二人は、昨夜を過ごせた理由を知った。

洞穴の前には、入る前に置いてきた、生命なき存在であるはずのガンリュウが、

身を挺して穴を塞ぎ、風を受け止めていたのだ。

どうりですぐに凍えなかったはずだと納得した龍麻に、別の疑問が湧いた。

龍麻がガンリュウから雹を救いあげた時、雹はすでに意識を失っていたし、

そこから数十歩は歩いた記憶がある。

「ガンリュウって一人で歩けるんだっけ?」

「いや、そのようなことはない」

 雹も首をかしげている。

どうしてガンリュウがここまで来ているのか、答えは出せなかったが、

二人の胸には同じ想いが浮かんでいた。

 雪の化粧を全身に施し、動かぬ人形と化したガンリュウを、

龍麻に背負われたまま調べる雹の手は、慈愛に満ちている。

龍麻も彼女が触りやすいよう位置を変えながら、

間接的に生命を救ってくれたガンリュウに感謝の眼差しを送った。

「どうだ?」

「無理じゃな」

 雹は淡々と告げた。

「歯車が完全に凍ってしまっておる。溶けたところで反りやひびが生じておるじゃろうから、

取り替えねば動かすのはもう無理じゃろう」

 ガンリュウがただの移動手段ではなく、彼女の心のよりどころであるのを知っていたから、

龍麻は胸が締めつけられる思いだった。

あまりに深い悲しみは、ヒューズが切れてどこか他人事のようになってしまう。

龍麻もかつて同じ悲しみを経験しているから、雹の悲哀が理解できるのだ。

「必ず、直しに来よう」

 ガンリュウの代わりに雹を背負う役目を担った男の強い決意に、雹は驚いて手を止めた。

いくら龍麻といえども、他人がそのようなことを言うとは思わなかったのだ。

 抑えていたものが噴きあげる。

「……そうじゃな」

 それ以上は声にならず、これからはガンリュウの代わりに彼女を支えてくれるであろう男の背に顔を埋めた。

ガンリュウに較べれば小さく、安定感のない背中。

しかし安らぎは、長年連れ添った人形にも勝った。

雹は渾身の力で龍麻にしがみつく。

血が通った人間の温もりが、とめどなく涙をあふれさせた。

 彼女が泣き止むのを待って、龍麻は声をかけた。

「行こうか」

 涙を拭って雹は頷いた。

「そうじゃの」

 二人はガンリュウの脇を通り、外に出る。

空は未だ暗く、雪も積もってはいたが、降るのは止んでいた。

風も少し弱まったようで、吹雪いていてはさすがに背負って登れないので、この天候の変化はありがたい。

頂上まであとどれくらいかはわからないが、一気に登ってしまった方が良さそうだった。

「しっかり登るのじゃぞ」

「わかってるって」

 登山を始めようとして思いついたことがあり、龍麻は背中の雹に話しかけた。

「灯りだけでも点けられないかな。皆が見たら、集まってこられるだろ」

「なるほど、やってみるかの」

 雹が操作をすると、黄色い光が闇を貫く。

登山当初に較べればかなり弱々しくなっていた光は、山頂までを照らすには至らなかったものの、

居場所を知らせるのには充分な役割を果たし、ほどなく仲間達が集まってきた。

「無事だったか」

「あァ、なんとかな。けど醍醐の野郎、こんな時まで大いびきかきやがって、こっちはとんだ迷惑だぜ」

「疲れていたのだから仕方がないだろう」

「聞かされる方の身になれッてんだ」

 元気はありそうな京梧と醍醐に続いて、九角達が現れた。

「皆揃っているようだな」

「そっちも何ともなかったか」

「ああ、尚雲が穴を見つけてくれてな。酒がないのが難儀だったが」

 こちらも相変わらずのようで、とにかく全員が揃った。

それは良いとして、全員がじろじろと龍麻を見る。

「な、なんだよ」

「それで登る気かよ」

 京梧が指摘しているのは、無論雹を背負っていることだ。

「しょうがないだろう、ガンリュウは動けなくなったんだから」

「そうかもしれねェがよ、醍醐の方が適任じゃねェのか? 図体の大きさから言ってよ」

 嫌な奴だ、何と言い返してやろうと龍麻が考えているうちに、雹がすまして言った。

「こやつがどうしても背負うと言うて聞かぬのでの。ちと頼りないが仕方がないじゃろう」

「へッ、ま、頑張るこったな」

 京梧のにやけ顔は程度の差こそあれ全員が共有するもので、龍麻は赤面するしかなかった。

哄笑する一同に、雹だけが意味を図りかねたようで、面白くもなさそうに鼻を鳴らした。

「よし……それじゃ、行くか」

 全員が等しく山頂を見上げる。

登るために富士山に来たわけではなく、そこに居る何者かを倒し、日本の危機を救わなければならない。

これまでの疲労は富士山の標高にも劣らないほど堆積していたが、

これから一気に山頂まで登ると確認した各々は、気合いも新たに歩み始めた。

 地面が微動する。

足を止めた全員は、立ち止まって顔を見合わせた。

「いよいよおでましか」

 京梧が上を見上げて言った。

同じく見上げた九角が提案する。

「どうする。敵の数も俺達は知らぬのだ。誰か先行して見てくるか」

「いや……こんな暗ェ中じゃ向こうにだって俺達が見えてるとは思えねェ。

どのみちてっぺんまでは登らなきゃならねェんだ、このまま行きゃあいいんじゃねェか」

 九角はすぐに答えず、龍麻を見た。

「ふむ……どうする、緋勇」

「そうだな……敵が俺達を見つけているなら、仕掛けてきてもいいはずだ。

それがないってことは見つけてないんだろう。

それにこう目印がないんじゃ、見に行っても戻って来られるかどうか」

「決まりだな。ここから先は何が待ち構えてやがるか判らねェ、油断すんじゃねェぞ!」

 京梧は先頭に立ち進軍をはじめた。

醍醐、澳継、尚雲、九角と続き、龍麻と雹がその後ろに、桔梗が最後尾を行く。

目指す山の果ては、もうあと少しだった。

 

 邪悪な気配が龍麻の足を止めた。

膨大な氣に混じって放たれるその気配は、結界のように近づいた龍麻達を刺激する。

一行は物も言わずそれぞれの得物を構え、そこに待ち受ける者に近づいた。

龍麻も皆に倣いつつ、やや離れた位置を目指す。

「雹はここに居てくれ」

 龍麻が雹を下ろした場所は、遮蔽物もなく、安全という点では心もとない。

だが、どのみち安全な場所などなく、雹も、龍麻が見えない場所にいるつもりはさらさらなかった。

「この子のことは任せときな」

 やってきた桔梗が言った。

「ここまで来て一緒に戦えないのは辛いけど、邪魔になっちゃいけないからね。

その代わり、あたしらは大丈夫だから、天戒様をお護りしておくれよ」

「お願いします」

 もしかしたら桔梗は、最初から雹の面倒を見るつもりで同行してくれたのかもしれない。

鬼哭村に来てからずっと、最後まで彼女には頭が上がらない龍麻だった。

「それじゃ、行ってくるよ」

 最後に龍麻は膝をついて、雹と出立の挨拶を交わす。

「妾はそなた以外に背負うてもらうつもりなどないのじゃからな。

くれぐれも怪我をするでないぞ。血まみれのそなたにおぶさるなど嫌じゃからな」

「ああ」

 言いながら、雹は掴んだ龍麻の腕を離さない。

龍麻も名残惜しかったが、仲間達が待っていた。

「ちょっとだけ待っててくれ」

 手を重ね、優しく剥がす。

雹は別離が指先に至っても、離そうとしなかった。

名残を惜しみつつも龍麻の方から指を離す。

 離れた指の間で、何かが光る。

目を凝らした龍麻は、その正体を見極める。

 それは、糸だった。

運命の赤ではない、彼女が人形を操るときに使う細い銀色の糸。

この糸が繋がっている限り、離ればなれになることはない。

安心した龍麻が顔を上げると、雹も同じところを見ていた。

雹が何かを言うより早く龍麻は立ちあがり、仲間の許へ駆けていった。

 走っていく龍麻の姿は、すぐに闇に呑まれて見えなくなる。

それでもなお彼が消えた場所を見続ける雹の、視界が青く染まった。

桔梗の施した結界が効力を発揮したのだ。

「大丈夫さ……きっと帰ってくるよ、天戒様と一緒にね」

 雹を励ましているようにも、自分を勇気づけているようにも聞こえる桔梗の言に

頷きながらも、雹はいつまでも龍麻の残像を追いかけていた。

 龍麻が雹の視界から消えてほどなくして、龍麻は京梧達に追いついた。

龍麻が全力で走ったのではなく、京梧達が立ち止まっていたからだ。

 呼吸を整えながら、龍麻は前方に目を凝らす。

そこには紅蓮の甲冑をまとった男が、居た。

醍醐と較べても劣らない体格の男は、太刀を身体の前に垂直に立て、傲然と龍麻達を見下ろしている。

距離があるとはいえ、すでに刀に手をかけている京梧や、

構えを取っている澳継を見ても全く動じる気配はない。

そして男から放たれる殺気は闇を圧するほどで、九角に尚雲、京梧、澳継といった手練れが

容易には踏みこめないでいた。

「ほう、ここまで来るニンゲンがいるとはな」

 低い声は嘲弄と殺意だけで構成されていた。

どぎつい嘲弄に桔梗や雹は薄気味悪そうに顔をしかめ、男達は殺意に反応して肩をいからせる。

京梧などは今にも斬りかかりそうに腰を落とし、彼我の距離を指先でかせぐように詰めていた。

京梧よりは幾分冷静さを保つ九角が、赤髪の男に問う。

「この暗い空は貴様がやったのか」

「いかにも。千年に一度、羅喉と計都が合する刻、陽と陰は混沌となる。

この刻に秘法を行えば大地の龍は象を喪い、天をも揺るがす力が手に入るのだ」

 赤鎧の男が語った内容は、外法に詳しい九角や尚雲でも知らないものだった。

だが現に天に陽は昇らず、大地は不吉な鳴動をはじめている。

これほどの天変地異を伴う外法の破壊力は、尋常なものであるはずがなかった。

「じゃあ手前ェを殺せば片がつくって寸法だな」

「ニンゲン如きが俺を殺すだと? よかろう、刻が満ちるには今しばらくの猶予がある。

それまで貴様等と遊んでやるとしよう。俺の名は柳生宗崇、死ぬまでの短い間、覚えておくがいい」

 柳生宗崇と名乗った男は何事かを呟く。

すると彼の周りの地面から、四体の球が出現した。

球体は周囲の暗黒を吸収して巨大化し、三メートル近い大きさになる。

そこから今度は彫刻を削りだしていくように、球体のそこかしこが黒い霧を生じつつ削れていった。

異様な光景に声も出ない龍麻達の前で、球体は別のものへと形を変えていく。

やがて黒い霧が薄れ、消えたとき、そこには巨大な人型が立っていた。

 龍麻の胴ほどもありそうな腕に、それを二つ束ねたような足。

胴に至っては二抱え以上もありそうな太さで、それらの巨大な肉体には、

膨らみすぎて爆ぜた餅のように亀裂の入った筋肉が備わっている。

耳まで裂けた口には岩をも砕きそうな牙があり、そして、頭髪の一本もない禿げた頭部には、

人ではありえない角が生えていた。

 龍麻達はこの怪物を知っている。

もちろん目にするのは初めてだ。

だが、語り継がれてきた昔話が、百三十年の時を隔てて生きていた龍麻と京梧や九角達に、

等しく同じ名前を口走らせた。

「鬼……!!」

 鬼の名前を冠した組織に属していることも忘れたかのように呆ける澳継を、誰も咎めない。

濃い茶色と薄い茶色、濃い青と灰色をした四体の怪物に圧倒されていた。

 鬼を従えた柳生が不敵に嗤う。

「こ奴等が貴様等を死出の旅に案内してくれよう」

 恐慌から最も早く回復したのは京梧だった。

刀を引き抜き、青眼に構えて叫ぶ。

「手前ェを入れても一匹足りねェんじゃねェのか。倍居たって蹴散らしてやるけどよ」

「陰数たる四は死の数字よ。言っておくが富士の氣を喰らったこ奴等は強いぞ」

「上等じゃねェか……ッ!!」

 京梧が剣を抜いたのを合図に、死闘が始まった。

 先陣を切ったのは尚雲だ。

それまで殺気を忍ばせていた若僧は、戦いが始まるや否やすでに定めておいた敵めがけて疾走し、

勢いを殺さぬまま中段に構えた槍で、目にもとまらぬ速さで鬼を突いた。

龍蔵院流を極めた尚雲の槍は、蜘蛛の巣の隙間すら徹すと言われるほど、

速度と正確さにおいて比類がない。

初撃から全力で繰りだされた豪槍は、寸分も狙いを違わず鬼の大腿に命中した。

だが、穂先はわずかに皮膚を突いたのみで、容易に弾かれてしまった。

鉄を突いたかのような衝撃に、尚雲の体勢が乱れる。

そこに鬼がふるった上腕が、唸りをあげて襲いかかった。

 ただ振り回しただけである鬼の腕は、尚雲の突きと対極にあり、正確さの欠片もない。

しかし、それを補ってあまりある威力と速さは尚雲のいた空間ごと薙ぎはらう。

まともに命中すれば全身の骨が砕けるであろう一撃を、尚雲は受けるような愚を犯さなかった。

槍の後端にあたる石突と呼ばれる場所を地面に突き立て、同時に地面を蹴る。

勢いを止めず、一気に舞い上がった身体を猿のように操り、

飛翔の頂点で頭を下にして地面に対して垂直に身体を伸ばしたとき、鬼の豪腕が地上を通過した。

地上に降り立ったときには、すでに槍を構えている。

美技を披露したあとも表情は変わらぬままで、命のやり取りをしているとは思えぬ軽やかさだった。

「尚雲殿ッ、大丈夫かッ」

「この通り、どこにも当たっていない」

 駆けつけた醍醐に破顔する余裕さえ見せる。

同じ僧である醍醐は一片の笑みも浮かべず、両腕を前に突きだし、指を複雑な形に合わせた。

「ナウマク・サマンダバザラダン・カン」

「オン・マカキャラヤ・ソワカ」

 独特の発声法で矢継ぎ早に真言を唱える。

両手の指を複雑な形に組み替え、呪を完成させると、尚雲の身体が赤い輝きに包まれた。

不動明王の加護が肉体を鋼に変え、大黒天の神力が敵を打ち倒す力を授けたのだ。

「尚雲殿ッ、存分に腕を振るわれよ」

「承知した、龍蔵院の槍捌き、とくとご覧じよ」

 初めて小さな笑みを浮かべた醍醐に礼を述べた尚雲は、槍を構えて突進した。

 一直線に突進する尚雲に、鬼は半身を前にして構える。

前に出した左の手足はまともに攻撃を受けることになるが、先の攻撃で槍の威力は見切っているのだろう。

防御と同時に攻撃範囲に入ってきた尚雲を仕留める態勢も整えていた。

 六尺を超える槍を持つ尚雲と、鬼の右腕の射程はさほど変わらない。

尚雲ほどの達人ならば、お互いの間合いは掴んでいるはずであろうに、

このままでは相射ちとなるだろう。

相射ちとなっても死ぬのは尚雲だけで、鬼は大した傷も負わないに違いない。

真言の力を過信しているのかと危惧した醍醐だったが、そうではなかった。

 射程に入った瞬間、尚雲の姿が消える。

半身に構える鬼の背中側へ、秘伝の歩法で潜りこんだのだ。

武術のたしなみもある醍醐の目をくらませるほど鮮やかな足捌きで鬼の死角に入った尚雲は、

一瞬の停滞も見せず構えた槍を突いた。

 腰の位置から斜め上方に繰りだされた槍は、狙い過たずに鬼の脇を貫く。

充分な溜めによって放たれ、さらに大黒天の加護によって加速された槍は、

硬い鬼の肉体を貫通して、肩口から穂先が飛びだした。

肉を引き裂く厭な音が響く。

「グガアアアアッッ!!」

 鬼が苦悶の咆吼を放つ。

心の弱い者は聞くだけで恐れおののいてしまうだろう異形の叫びにも、

尚雲は動じることなく貫いた槍を力任せに引き抜いた。

「ゴアオオオアァアッッ!!」

 雄慶が思わず目を細めたほど残酷な仕打ちであるが、鬼はまだ倒れない。

おそらく激痛に苛まれているであろう左腕を庇いながら、尚雲を屠ろうと

なお右腕を振り回し、局地的に嵐を発生させる。

掠っただけでも致死となりかねず、脅威は減ったどころか増していた。

 尚雲は乱流に突っこむような愚を犯さず、鬼の左側面に移動している。

死角を嫌う鬼は向きを変えるが、鬼を中心とした円の外側にいる尚雲の移動速度の方が速く、

僧衣をそよがせることしかできない。

苛立った鬼は大きく右腕を振りかぶると、雷の速さで大地を叩いた。

それは尚雲を狙った攻撃ではなく、地面を揺らすのが目的だった。

全力で走っていたところにこの攻撃は確かに彼の虚を突き、

意外に知恵の回る鬼の意図に醍醐が気がついたとき、尚雲は大きくよろめいている。

そこに物理の法則を無視したかのような速度で再び持ちあがった鬼の拳が、無慈悲に打ちおろされた。

薄い雪の層が砕け、間欠泉のように吹きあがり、辺りを覆い隠した。

「尚雲殿ッ――!!」

 醍醐が慌てて駆け寄る。

しかし、鬼の攻撃を覚悟して接近した彼に、鉄槌は振りおろされなかった。

それどころか、醍醐の接近にも気づいていないかのように身動きしない。

不審に思い、醍醐は回りこむ。

 鬼の腕の内側に尚雲はいた。

後ろに引いた左足から背中までを一直線に美しく伸ばし、伸ばした右腕は鬼の喉元に狙いを定めている。

腕の先にある槍の穂先は、鎖骨の間のくぼみである天突を正しく貫いていた。

「ゴ……フ……」

 鬼の口から血が漏れる。

細い滴りはきっかけに過ぎず、顎の端から最初の一滴が落ちると、口全体から多量の血を吐きだした。

同時に尚雲が槍を抜き、身体の中央からも体液が流れだす。

返り血を避けて飛び退いた尚雲を、目で追ったように見えた鬼は、

ぐらりと身体ごと傾げると、自重を支えきれず地に倒れ伏した。

「肝を冷やしましたぞ」

「面目ない。雄慶殿の験力の凄まじさにいささか浮かれていたようで」

「いやいや、尚雲殿の槍捌きこそ御見事」

 協力して仏敵を打ち倒した二人の僧は、深く合掌し、互いを讃えあうのだった。

 

 頭上遙かから打ちおろされる拳を、後方に跳んで避ける。

足が着くや着かないかのうちに、跳躍した勢いを利用して、鬼の懐に潜りこんだ澳継は、

頭の高さにあるわき腹に、速度の乗った蹴りを命中させた。

 ここで拳をたたきつけられた地面が砕け、礫が飛び散る。

だが、鬼はしたたかに打ちつけた拳にも、身体に当たった礫にも、

そして澳継の蹴りにも痛がる素振りさえ見せなかった。

「畜生ッ……!」

 吐き捨てつつ澳継は再び跳躍する。

燕を思わせる軽快な動きは、鬼の攻撃を躱しつづけて速度が衰えることもなかったが、

澳継の方からも鬼に有効打を与えられないでいた。

このままでは埒があかないと苛立った澳継は、近くにいる味方を見た。

他に適当な相手がいないとはいえ、こんな奴と組まなければならないのは腹立たしいにも程がある。

「おい手前ェッ、何してやがる! 俺にばっかり戦わせるんじゃねェッ!」

 澳継に怒鳴られた龍麻は、怒鳴りかえすでも加勢するでもなく、

鬼の攻撃の届かぬ位置でじっと立っている。

鬼ではなく龍麻を蹴りたくなる澳継だが、激しい鬼の攻撃をかいくぐる中でそんな余裕もなく、

二者に対しての怒りが募っていくばかりだった。

「くそッ、この役立たずッ!」

 横薙ぎに振るわれた腕を回避して叫ぶ。

そうやって叫びながらも巨腕にかすらせもしない技量は尋常なものではなかった。

 鬼にも苛立ちという感情があるのか、まとわりついて離れない澳継に咆吼を放つ。

その程度で動揺する澳継ではないが、唸りを生じた空気に、一瞬次の跳躍が遅れた。

 猛る鬼が拳を繰りだす。

それまでの右腕ではなく、左腕から放たれた一撃に、一瞬反応が遅れる。

合わせて、二瞬。

たったそれだけの隙でも、拳が澳継を捉えるのには充分な時間だった。

「やべェッ……!」

 澳継の背を寒気が駆け下りる。

澳継が初めて抱いた、それは死の予感だった。

全ての感覚がゆっくりになり、思考だけが加速する。

 こんなところで、どうして死ななければならないのかという考えは浮かばなかった。

九角の命令に従って戦い、殺す。

澳継の基準はそれだけであり、命令が下る前になら不平を言うことがあっても、

一旦下された命令に逆らうことなど考えもしなかった。

ゆえに今回の富士山行も、龍閃組という敵と手を組むことには大いに不満があったが、

九角が同行せよと命じた以上、澳継は従うのみだった。

鬼という強大な敵と戦わされたことにも不満はない。

ただ、最後に浮かんだのは、自分一人に戦いを任せて高みの見物をしていた龍麻への怒りだった。

あの野郎さえ働いてりゃァ……!

鬼を挟んで向こう側にいるはずの男を、澳継は睨みつけようとした。

 目の前が金色に染まる。

鬼の身体を縁取るように生じたまばゆい輝きは、すぐに辺り一杯へと広がり、澳継の視界を満たした。

たまらず目を細め、それでも足らずに腕でひさしを作る。

その直後、すさまじい轟音が響き、澳継は慌てて飛び退いた。

「なッ、なんだッ、何がどうなってやがる」

 呆然と澳継は光の源を眺めた。

金色の光はすでにほとんど消えかかっており、一点のみが薄暗く光っているだけだ。

光と呼ぶにはもはや暗すぎる灯りは、人の形をしていた。

今は大地に倒れ、絶命したと一目でわかる鬼の大きさではなく、澳継よりも多少大きい程度だ。

そこにいる人間は一人しかいないはずで、澳継は驚きを隠せないまま訊ねた。

「緋勇……手前ェなのか?」

 龍麻は何か言ったようだが、澳継には聞こえない。

澳継が聞き返そうとすると、金色の光が完全に消え、残像が膝をついた。

「お、おいッ」

 澳継は駆け寄り、肩を揺する。

そこにいたのは確かに鬼哭村の居候である、こしゃくにも澳継と同じ技を用いる緋勇龍麻だった。

 龍麻はまだ息を切らせていて、声も出せないようだ。

状況からして龍麻が鬼を倒したのは間違いない。

しかし、鬼を一撃で倒すような技は、少なくとも澳継は習っていない。

渦を巻く疑問や苛立ちや好奇心に焦れつつ、龍麻の回復を待った。

 六十回近くも呼吸をして、ようやく龍麻は立ちあがる。

まだ足下はおぼつかないようで、頭がふらふらしていた。

「しっかりしやがれッ……!」

 龍麻を励ますという理不尽な状況も澳継は失念している。

それほど龍麻が見せた一撃は度肝を抜いていた。

「はァ、はァ……びっくりした」

「びっくりしたって、手前ェがやったんだろうが」

「そうだけど、あんなに威力が出るとは思わなかった」

「何をしやがったんだ、いったい」

「氣だよ」

 鬼哭村にいた時、龍麻は澳継に氣の使い方を教えた。

澳継も龍麻と同じ武術を学んでおり、当然、氣も扱えるはずだ。

事実、龍穴で摩尼に氣を注ぐときに手伝ってもくれたのだが、

戦いに際して澳継は全く氣を使おうとしなかった。

練るのが面倒くさいだの技だけで充分殺せるだの理屈をつけて鍛錬を拒否する澳継に、

龍麻も真剣に指導はしていない。

それが実戦で使われた龍麻の氣を見て、俄然興味を持ったようだった。

「嘘だろ……氣ってあんなに凄ェのかよ」

「いつもはあんなじゃないんだけどな。練ってたらなんか凄い勢いで流れこんできた」

「くそッ、なんで俺に教えなかったんだッ」

「教えただろ、ただお前がつまんないってすぐ投げたんじゃないか」

 ぐう、と顔を真っ赤にして澳継は黙りこむ。

こんな時にやりこめるつもりはない龍麻が何か言おうとすると、澳継が先に叫んだ。

「そうだ手前ェッ、俺が居るの知ってて撃ちやがっただろうッ」

「あっ……い、一発で倒せるかどうか判らなかったしな」

「今あッって言いやがったな! 下敷きになったらどうすんだこの野郎ッ」

 うんざりしてきた龍麻は、どさくさにまぎれて澳継を蹴ろうとする。

 醜い仲間割れが始まらなかったのは、彼らのかつての敵手のおかげだった。

「やい手前ェらッ!! 喋ってる暇があったらこっちに来やがれッ!」

 見れば鬼と一対一で闘っている京梧と九角が苦戦している。

どつき漫才をしている場合ではないと気づいた二人は、彼らの元にはせ参じることにした。

「御屋形様ッ、今行きますッ」

 澳継は当然主君である九角の方に駆けていこうとする。

その襟首を、龍麻が掴んで止めた。

「なッ、何しやがる手前ェッ!」

 龍麻は何も喧嘩の続きがしたくなったわけではない。

激高する澳継を前に、手甲を外して渡した。

「使ってみろ。それなら上手く氣が使えると思う」

「てッ……手前ェはどうするんだよ」

 澳継は戸惑い、動揺している。

その肩を叩いて、一足先に龍麻は駆けだした。

「頼んだぞ。九角に何かあったら桔梗さんにめちゃくちゃ怒られるからな」

「あッ、手前ェ、責任をなすりつけやがったなッ! 待てこの野郎ッ!!」

 怒声を背中で跳ね返して行った龍麻を睨みつけていた澳継は、逡巡の末龍麻に渡された手甲を嵌めた。

右と左、一対で龍の頭部となる意匠が彫られた籠手は、初めて装着するとは思えないほど手に馴染む。

「これで氣が使えるようになるなら苦労しねェだろ」

 呟いた澳継は、しかし籠手を外さぬまま九角の援護に向かった。

「御屋形様ッ!!」

「澳継か」

 九角が応じた瞬間、鬼が九角を殴りつける。

肝を冷やした澳継だったが、彼の主君は拳だけで肉体ほどもある攻撃を受け止める愚を犯さず、

見事な足捌きで躱していた。

「俺が囮になります」

「うむ、頼んだぞ」

 九角と距離を取った澳継は、素早い掌打と蹴りを連続して繰りだす。

的の大きさゆえにそれらは容易に命中したが、先と同じく効いたようにはみえなかった。

「くそッ、なんて硬ェ野郎だ」

 鬼の一撃を躱し、三打を叩きこむ。

やはり効いてはいなかったが、小うるささを感じたのか、鬼は澳継に狙いを変えてきた。

澳継が巧みに移動したため、彼と正対した鬼は、九角に背中を向ける形となる。

 澳継が作った機会を逃さず、九角は上段に構えると一気に踏みこみ、気合いと共に振り下ろした。

「グオオゥッ!!」

 襖のごとき大きさの背に、斬撃が疾る。

鮮やかな刀傷が刻まれたが、九角の手には岩を斬ったような痺れが返ってきた。

渾身の力で打ちこんだ刀は、確かに傷は負わせたものの、分厚い肉を両断するところまではいかなかったようだ。

鬼は再び九角の方を向き、激しい攻撃を仕掛けた。

左右の腕を無原則に振り回し、小癪な人間を潰そうとする。

「くッ……!」

 九角は剣技と共に体術も、尚雲の手ほどきで学んでいるが、澳継ほどには軽快に動けない。

それに刀とは全く違う鬼の攻撃を回避し続けるのは困難であり、

鬼の疲れるどころか加速する腕を、ついに避けきれなくなった。

「ぐァッ……!!」

 九角が大きく吹き飛ぶ。

九角は雪原に叩きつけられ、大きく雪粉が舞いあがった。

「御屋形様ッ!!」

 澳継は声まで蒼白にして叫んだ。

 どうやら九角が避けようとした方向と打撃のそれが一致したため、

直撃はしたものの威力は半減したようだ。

だが、そのまま雪にまぎれて伏せていれば、隠れることもできただろうが、

頭を打って判断力を失っているのか、九角はすぐに立ちあがってしまう。

そのうえ九角の様子は明らかにおかしく、足下がおぼつかないさまが澳継にも、

そして鬼にもはっきり見えていた。

「くそッ……!」

 斬撃も通用しなかった相手に、拳が効くはずがない。

澳継では足止めにさえならず、このままでは主君が殺されるのを指を咥えてみているしかなかった。

己の無力さに澳継は強く拳を握りしめる。

 掌に食いこんだ爪が、澳継に気づかせた。

澳継が持っているはずの力を。

澳継の心を一瞬怖気が吹き抜ける。

「おおおおおッッ!!!!」

 巣くおうとする怯懦を内側から払いとばし、澳継は氣を練りはじめた。

 臍の下、胴体の最も下にある部分に意識を集中させる。

たちまち人体に流れる氣が、七つあるチャクラのひとつ、ムーラダーラに集まりはじめた。

溜まっていく膨大な氣を散らさぬよう、独特の呼吸で制御しつつ、さらに多くの氣を取りこむ。

 龍麻と同じ武術を修練している澳継にも、ここまではできる。

この後の練った氣を制御し、解放する段階が苦手で、すぐ拳や足に頼ってしまうのだ。

尚雲や龍麻に何度も指摘されているが、なまじある武術の才能が、

氣など使わなくても敵を倒せると澳継は真剣に修行をしてこなかった。

そのつけをいつか払わなければならないとしても、それが主君の命がかかった今だというならば、

あまりに厳しい取り立てで、天を呪わずにいられなかった。

 溜まる氣が澳継の感情に揺さぶりをかける。

鬼を殺せ、氣を叩きこんで完膚無きまでに叩きのめせ――

敵に対しての強烈な陰の感情を疑問に思わず、むしろそれに迎合するように澳継は氣を練った。

 地響きを立てて鬼が九角に近づいていく。

あと数歩で鬼の射程に収まる九角は、敵を認識はしているようだが構えに力がない。

鬼の一撃を受ければひとたまりもないだろう。

 九角を、救わなければ――

憎悪と殺気に凝り固まっていた澳継の氣に、他人を救けたいという念が混じる。

瑕瑾でしかなかったその陽の念は、瞬く間に陰の念と融けあい、

より膨大な氣となって澳継の体内に満ちた。

「グオオオオオッッ!!」

 鬼が咆える。

勝利を確信した雄叫びが、巻きあがる雪に祝福を強制させ、九角への視界を開かせた。

鬼は目の前の獲物に夢中で、背後から接近する澳継には気づいていない。

基底から頭頂へ、狂おしく巡る氣を、深い呼吸でもう一段奥へと押しこんだ澳継は、

右腕を振りかぶって狙いを定める鬼の腰に、伸ばした両腕を押し当てた。

 右と左に分かたれた龍が、一に合する。

顎を開き、食らいついた龍は、充分に練りあげられた氣をその口から吐きだした。

滾る氣を解放した瞬間、肩が外れたかのような衝撃が澳継を襲い、

両腕を怖ろしいほどの力が通り抜けていく。

煮えたぎった湯の中に腕を突っこんだような、痺れと震えと強ばりが一緒くたに腕を苛む。

「くッ……!!」

 強い力が腕を逆流し、弾きとばされそうになる己の胴体を、澳継は必死で押さえつけた。

「ガアアオオオアアッッ!!!!」

 ようやく澳継に気がついた鬼は、大地をも震わす憤怒の咆吼を放つが、

澳継の拳が放つ氣の威力に抗いきれず、咆吼は悲鳴へと変じていった。

「ゴォ……ァ……」

 振りあげた腕をそのままに、鬼が一歩踏みだす。

効かなかったか、と澳継が案じたのも束の間、人に倍する巨体を持つ鬼は、

身体をよろめかせたかと思うと、そのまま前方へと倒れた。

 轟音が澳継の身体を叩いても、澳継は腕を前方に突き出した構えのまま、微動だにしなかった。

氣のほとんどを放出したことで筋肉が強ばっていたのと、

初めて使いこなした氣の威力に、打ち震えていたからだ。

硬直している澳継の構えを解いたのは、彼の主が褒めたたえる声だった。

「見事だ、澳継。礼を言うぞ」

「御屋形様……」

 裡からこみあげるものが、澳継の声の抑揚を乱す。

硬直は解けたが今度は感極まって動けない澳継に、九角が歩み寄った。

「お前がこれほどの力を持っていたとはな」

「ひ、緋勇のおかげなんです。あの野郎がこれを貸しやがったんで」

 龍麻の功績になるようなことをどうして言ってしまったのか、

澳継にもわからないようで、変な顔をしている。

彼の言葉遣いに九角は失笑しかけたが、臣下の名誉のために堪え、口に出してはこう言った。

「まだ敵は残っている……行くぞ、澳継。期待しているぞ」

「は、はいッ!」

 柳生が待つ上方に九角は駆けだし、澳継がそれに続いた。

 

 澳継と鬼を斃した龍麻は、京梧の支援に回っていた。

「京梧ッ!!」

 鬼と対峙していた京梧が、龍麻の叫びに呼応するように動く。

 八相の構えから袈裟に斬り下ろし、返す刀で胴を薙ぐ。

京梧の勝利を確信させる鮮やかな斬撃だったが、鬼の強靱な肉体を裂くには至らず、

皮膚を傷つけただけだった。

「ちッ……この野郎ッ……!」

 京梧が鬼の左拳を躱したところに駆けつけた龍麻は、体勢を立て直すや否や、

刀を構え直して突撃しようとする京梧を慌てて止めた。

「こいつは俺が引き受けるからお前は柳生のところへ行け!」

「あァン!? 何言ってやがる手前ェッ! 敵に背を向けろってのかよ」

「刀相手に素手はキツいんだよ!」

 鬼の正拳を揃って跳んで躱しながら二人は怒鳴りあう。

拳と剣の違いはあっても、達人に近い二人の回避運動は奇妙に呼吸が合っていて、

どこか漫才のような趣があった。

もちろん当事者達にそんな意識はなく、唸りをあげて襲いくる鬼の豪腕を、

見た目ほどの余裕はなく避ける。

 続けざまに放たれる拳の連打を大きく後ろに跳び、着地した京梧が言った。

「手前ェ一人でこの野郎を倒せンのか」

「任せとけ」

「……フンッ、手前ェが来るまでにゃあの野郎をぶった斬っておいてやらァ」

 刀を一度収めた京梧は、龍麻の肩を強く叩いて柳生の元へと走っていった。

 残った龍麻は鬼と正面から対峙する。

手甲はなく、龍麻の倍以上の体躯を持つ鬼は決して容易に倒せる敵ではない。

だが、ひとつ息を吐いて不敵に笑った龍麻は、両腕を振りかざした鬼に正面から突っこんでいった。

 富士山頂の高みから、柳生宗崇は四組の戦闘を眺めていた。

剣士に僧、それに拳士が二人ずつ。

剣士二人の腕はそれなりに立つようだが脅威というほどではなく、僧二人も然りだ。

そう見切った柳生の下方で、金色の輝きが生じた。

その輝きに自らが創りだした鬼が呑まれ、消失しても動じる色を見せない。

「ほう……少しは楽しませてくれるではないか」

 外法に長ける柳生は、その輝きが氣によるものだと一目見て把握していた。

鬼を一撃で倒したところからも、かなり強い氣を操れる者が居るようだ。

 もう間もなく刻は満ち、霊峰富士は魔山と化して焔を噴きあげ、

太平に溺れる江戸のニンゲン共を呑みこんでゆくことだろう。

殺戮の幕を開ける贄として、手ずから殺すと決めた柳生は、彼らが上ってくるのを悠然と待ち受けた。

 

 はじめに柳生の処に辿りついたのは京梧だった。

乱れる呼吸を意地でおさえつけて、なお抜刀しない柳生に迫る。

「やい、柳生とか言ったな手前ェッ、引導を渡してやるから覚悟しやがれッ!」

「雑魚が……貴様等ごとき、何人来ようと俺の敵ではない」

「手前ェッ……!!」

 完全に沸騰した京梧は上段に振りかぶって跳躍した。

荒ぶる猪さながらの防御を捨てた、岩をも断つであろう必殺の斬撃を見舞う。

だが、あろうことか鞘から刀を抜きはなった柳生は、京梧の渾身の一撃を片手で止めた。

「なッ……!!」

 水平に掲げた刀を斬りふせることができず、京梧は目を見開く。

大きな隙を生じた京梧の腹に、重い拳がめりこんだ。

「ぐあッ!!」

 吹き飛ばされた京梧は素早く立ちあがる。

大きな隙を晒した京梧に、柳生は鼻を鳴らした。

「剣士といってもこの程度か、たわいない。これでは俺が創りだす修羅の世に生きるなど到底無理か」

「修羅の世……だと……?」

「いかにも。間もなく富士は猛り、大地を割る。

愚昧なニンゲン共は滅び、強き者のみが生きる修羅の世となるのだ。

まずは日本、その後は清国。そして最後にはこの世の全てを最も強き者が統べるのだ」

「……ッの野郎……!!」

 言い放つ柳生に、低い喘ぎを漏らした京梧は、腹の痛みを無視して再び斬りかかった。

「ここまで登ってきた度胸は褒めてやるが、そこまでだったようだな」

 京梧の剣を受けとめた柳生は、力で押し返すと、力負けした京梧に生じた隙を逃さず、刀を袈裟に振り下ろす。

かろうじて受けた京梧だったが、体勢を立て直す暇もなく柳生の剣が襲ってきて、防戦一方に追いこまれた。

「くッ……!」

 重く、速い太刀筋が京梧を圧倒する。

技巧や駆け引きなどまるでない、全てが必殺の剣撃は、押し返して間合いを取ることさえ許さず、

京梧は少しずつ斜面を後退させられていた。

「どうした、威勢の良いのは最初だけか」

「ふざけるな手前ェッ……!!」

 柳生の嘲弄に京梧の怒りは頂点に達するが、圧倒的な実力の差は如何ともしがたい。

重く疾い剣を何合と受け続け、両腕の痺れは限界に近づいていた。

 右、左、再び右。

刃が打ち交わされる音が一つに聞こえるほどの連撃を、京梧はかろうじて凌いだが、

ひときわ強く打ちこまれた最後の剣に、大きく刀を弾かれてしまった。

胴体ががら空きとなり、京梧は死を覚悟する。

しかし、絶好機に柳生は刀ではなく、左足で京梧を蹴るに留めた。

バランスを崩した京梧は尻餅をついてしまうが、一命は取り留める。

何が起こったか解らぬ京梧の前で柳生は向きを変え、吹きつけてきた一陣の風を防いだ。

 赤い色をした風は、京梧に劣らず鋭い打ちこみで柳生を守勢に回らせる。

京梧の命を救ったのは、敵対していた鬼道衆の長、九角天戒だった。

「大丈夫か」

「あ、ああ、すまねェ」

 京梧は急いで体勢を立て直す。

その間にも烈火の勢いで九角の剣は柳生に迫っていた。

京梧が唸るほど九角の剣は鋭く、烈しい。

このまま柳生を屠るかにさえ見えたが、日本を破滅させようという狂気を抱く魔人は、

やはり容易には崩れなかった。

「二人がかりなら勝てると思ったか」

 十数合に渡って九角の剣を受けきった柳生は、九角の呼吸が限界に達し、

息を吸った一瞬の隙に、あまつさえ先を取って九角に斬りかかる。

意表を突かれた九角だが、冷静に太刀筋を読んで防いだ。

激突した刃から火花が散り、瞬間九角と柳生を照らす。

両者の顔には共通して剣士としての凄みが浮かんでいたが、柳生のそれは九角に較べて余裕があった。

「ふん……多少は腕が立つようだが、貴様如きの腕で俺は倒せぬ」

「ほざけ、下郎ッ!」

 交えた刃を離し、返す刀で斬りつける。

太刀筋が美しい弧を描く、見事な斬撃だったが、またも柳生は防いだ。

京梧や九角よりも刀身の長い太刀を自在に操り、疲れる色も見せない。

京梧も九角もひとかどの剣士であるのに、二対一の有利にありながら

未だ柳生に手傷を負わせることができないでいた。

「くそッ……!」

 十何度目かの斬撃も受けとめられて、京梧は激しく舌打ちした。

武者修行で諸国を巡ったこともある京梧だが、柳生宗崇は間違いなく一番の強敵だった。

認めたくはないが九角と二対一でどうにか渡りあえている有様で、

それも徐々にだが劣勢に陥りかけている。

九角が回りこもうとするのだが、柳生は一対多も心得ているのか、牽制してなかなか側面を取らせない。

ようやく京梧が斬りこんでも、渾身の一撃は柳生の体勢を崩すこともできず、

九角に斬りかからせる隙すら作れずに押し返されてしまうのだ。

 九角と共に柳生の元に着いた澳継も、主君を救いに乱戦に踏みこむことはできない。

激しく移動しながら繰り広げられる刀での戦闘に無手の澳継が加勢する隙はなく、

九角の危機を歯ぎしりして見つめるしかなかった。

 柳生の振った刃が、暗黒の大気を断つ。

冷気を裂いた刀勢は、受けた九角の体勢を大きく崩した。

重い金属音が鳴り止まぬうちに、柳生の刃は向きを変える。

柳生の剣が大振りと見るや踏みこんだ京梧だったが、凶つ剣の速度は京梧の予測を超えていた。

「……ッ!!」

 振りぬこうとしていた剣を強引に防御に向ける。

だが、踏みこんだのが災いし、完全には受けとめきれなかった。

 左の上腕から鮮血が噴きあがり、白雪を濡らす。

赤く咲いた大輪の花を、よろめく京梧の足が踏みにじった。

「フン、命拾いしたようだな。だがその傷ではもう刀は持てまい。仲間が死ぬところをとくと眺めるが良い」

 京梧は痛みよりも屈辱で心が灼ききれそうになった。

卓越した身体能力が死を免れたともいえるが、剣士として刀を握れなくなることは死に等しい。

まして止めを刺されずに捨て置かれるなどと、何にも勝る恥辱だった。

 柳生の凶刃は新たな血を求めて九角を狙う。

九角天戒は男性の平均身長が百五十センチ台の江戸時代にあっても、

龍麻と肩を並べる背の高さだったが、柳生宗崇は九角をさらに十センチ程度上回っている。

体格差では一回り以上あり、攻撃を受け続けるだけでも九角の消耗は激しい。

防戦一方に追いこまれた九角は、それでもよく凌いでいたが、

右上段からの打ち下ろしに続く、左下方からの斬り上げを防ぎきることはできなかった。

 異様に澄んだ音が響く。

九角が持っていた刀は、意志に反して彼の手を離れ、空高く舞った。

無防備となった九角に、上段に構えた柳生は、一切のためらいをみせずに振り下ろした。

 銀色の軌跡が九角の頭上へと落ちる。

この場にいる誰もが、九角の死を予感した。

「ぬッ――!!」

 側方から突きこまれた殺気に、柳生は振りを強引に止め、大きく飛び退いた。

止めを刺しきれなかった憤怒に顔を歪ませ、闖入者に向き合う。

「邪魔だてするか、痴れ者が」

 呪詛めいた叫びにも、槍を構えた闖入者は眉一つ動かさなかった。

「龍蔵院流、九桐尚雲、参る」

 言うが早いか鋭い中段の槍を繰りだす。

いかに柳生が剣の達人であっても、槍の間合いに入るのは容易ではない。

しかも不動明王と大黒天の加護を得て、常ならぬ筋力が宿った尚雲の槍さばきは、

柳生をわずかながら後退させていた。

 巧みに、九角と柳生との距離を開けるように移動した尚雲は、

九角が安全圏へと離脱したのを見届けると、牽制的な攻撃から一転、激しい攻勢に転じた。

直線的な武器である槍を、薙刀のように操り、日本刀のように振るう。

完璧に制御された両腕は、柳生の鎧を掠め、当世袖を弾き落とした。

「ぬぅッ、雑魚が図に乗りおって……ッ!!」

 太刀を握り直した柳生は、六臂を持つが如く縦横に振るいはじめた。

負けじと尚雲も槍の絶技で応酬する。

激しい打ち合いは、いつ果てるともなく続く。

 死力を尽くした二人の闘いを、澳継は吹き荒れる二体の人の形をした暴風の外で眺めている。

臆したのかと問われれば、問うた相手を半殺しにしただろう。

しかし、では何故、と訊かれれば澳継は答えられなかったに違いない。

 澳継は決して臆病ではない。

鬼道衆の一員として徳川幕府を倒そうと九角の命の下様々な任務をこなし、

帯刀する敵との戦いも一度や二度ではなかった。

 その澳継が、動けなかった。

九角の配下である尚雲が身を挺して主君の窮地を救い、闘っている。

九角の右腕を自認する澳継も当然、加勢しなければならないところだ。

だが、九角の相手である柳生宗崇と名乗る男は、刃を交わす尚雲だけでなく、

全身から放つ禍々しい氣で澳継の足まで縫いつけていた。

毒蛇のように巻きつく氣に威圧され、澳継は周囲の状況すら把握できなくなっている。

「おい」

 肩を揺さぶられて澳継は驚き、半歩飛び退いた。

いつの間にか、龍麻が隣に立っていた。

「な、なんだよ」

 驚いてしまったのと、加勢に行けない後ろめたさが、澳継をやや怯ませる。

しかし、龍麻は彼を責めず、澳継が仰天せずにはいられないことを言った。

「俺が囮になるから、お前はあいつの後ろに回って仕掛けてくれ。そしたら俺が合わせる」

「なッ、何言ってンだ手前ェ。手前ェが突っこんだってすぐ死ぬだけだってのがわからねェのか」

 澳継が認めたくはないところだが、龍麻は澳継と同じ流派の古武術を使う。

つまり無手で挑むという宣告を平然と言ってのけた龍麻に、澳継はたまらず怒鳴った。

顔の半分を柳生と尚雲に向け、片方の耳だけで澳継の怒声を聞き流した龍麻は、口早に言った。

「このままじゃ尚雲はやられる。京梧と九角もやられた今、俺達じゃないとあいつは倒せない」

「無理だ、出来るわけねェだろ」

「大丈夫……頼んだぞ」

「あッ、手前ェ待てッ!」

 龍麻は返事を待たずに飛びだした。

難題を押しつけていった龍麻を、澳継は呆然と見送った。

 あの柳生宗崇という男は、澳継がこれまで出会ったどんな剣士をも超える凄腕の、まさしく修羅だ。

多少氣が使えるからといって無手の自分たちが相手になるはずがない。

おそらく龍麻は敵の実力を読み違えて、無謀にも突っこんでいったのだろう。

 この時澳継は、どうやって龍閃組の連中にあの敵を押しつけ、九角を救うかだけを考えていた。

蓬莱寺の方はすでに負傷していて、醍醐も武器は持っていない。

だが、蓬莱寺を救えと焚きつければ、向かっていくのではないか。

澳継は本来こうした策を考える性格ではないが、柳生のあまりの強さに、

主筋を護ることを第一に考えるのは無理からぬことだった。

 雷光の突きを繰りだし続けた尚雲も、さすがに動きが鈍っている。

凡人には気づかぬ程度ではあるが、そもそも尚雲の攻撃を何十合に渡って捌き続けられる時点で

凡人には不可能事であり、柳生は、やはり尋常な剣士ではなかった。

槍を繰りだし、手元に引き寄せるわずかな時間。

おそらく一秒とは伸びていない、だが確実に伸びつつある間隙を、

柳生は見逃さず、一気に踏みこんだ。

「――!!」

 間合いを詰められた尚雲の顔に驚きが走る。

だが、それが消え去るより先に、柳生の剣がまっすぐに伸びていた。

喉元を狙った突きは、怖ろしいほど的確に急所を貫き、尚雲を絶命させるだろう。

 勝利を確信した柳生の刃が、尚雲の喉にあと数センチと迫る。

その時突然、柳生の左肩を衝撃が走った。

「ぬッ……!?」

 痛みはほとんどなく、負傷もしていない。

しかし虚を突かれた柳生の体勢は崩れ、死の顎に挟まる寸前だった尚雲をすんでのところで救った。

尚雲はすばやく後方に跳び、危地を脱する。

体勢を崩された柳生は尚雲に構わず、左を向いた。

 右手から氣の塊を飛ばした龍麻は、すぐに新たな氣を練りはじめている。

こんなことをやったのは初めてだが、上手くいったようだ。

尚雲が後退したのを目の端で見届けると、柳生に対して油断なく構えた。

「氣の使い手か……貴様、何処でそれを習った」

 百三十年後の世界でだ、と真実を教えてやりたくなった龍麻だが、

もちろん余計な情報を与える必要はない。

龍麻は目を細め、無言を貫いた。

「フン、まあ良い……どの道貴様等は全員ここで死ぬのだからな」

 言い終えるなり柳生は鋭い突きを放った。

充分に用心していた龍麻は上手くこれを躱したが、それでもそれほどの余裕はない。

剣が通り抜けた跡から漂ってきた死の冷気が皮膚をなぶり、龍麻は震撼した。

恐怖に呑まれそうになるのを呼吸で克服する。

続いて薙いできた刃を身を沈めて躱し、練った氣を掌から放出した。

柳生が刀を振りぬき、流れた体の右肩に命中する。

だが、氣弾は柳生の上体を仰け反らせただけで、負傷させることもできなかった。

「未熟者め……恐るるに足らず」

 冷笑した柳生は攻勢を強めてきた。

相手は甲冑も着ておらず、刀も持っていない。

頼みの綱の氣はかすり傷さえ負わせられないとあれば、様子を見る必要もないと見切ったのだろう。

 斬撃から突きへ、突きから斬撃へ、柳生の刃が無尽に襲いかかる。

龍麻は横転して雪を巻きあげ、視界を奪おうと試みたが、

柳生はものともせずに雪しぶきごと闇を両断した。

だが、再び現れた暗黒の中に龍麻はいない。

身を低くしてスライディングの要領で柳生の懐に飛びこみ、脛を狙ったのだ。

体重のかかった右足を狙われ、柳生の反応が遅れる。

「小賢しいわッ!!」

 具足を蹴られた柳生は、足を引かずにそのまま反撃に転じた。

刀を逆手に持ち替え、龍麻の胴体めがけて垂直に突き刺す。

とっさに身体をひねって龍麻はこれを躱したが、完全には避けきれず、どこかに灼けるような痛みが走った。

怪我した場所を確かめようともせず、今度は柳生の腰を両足で蹴る。

その反動で後転して、距離を開けつつ立ちあがることに成功した。

「痴れ者が……俺を愚弄するかッ」

 無手の相手に二度も蹴られ、柳生は怒り狂っている。

地面に突き刺した刀を力任せに抜き、鋭い踏みこみで龍麻に襲いかかった。

 横に跳び、皮一枚で殺人剣を避ける。

服が裂け、鮮血が散ったが、今度は痛みを感じる暇もなく、龍麻は掌から氣を放って反撃した。

野球のボールほどの氣の塊が柳生に命中するが、すでに威力を体得している柳生は、

気合いを入れただけで防いでしまった。

龍麻の攻撃はまったく効果がないと知る柳生は、残忍な笑みを浮かべて刀を振り続けた。

為す術がなくなった龍麻はひたすら回避に専念する。

驚異的な反応で致命傷だけは受けなかったが、刃は全身を掠め、いつしか全身が赤く染まっていた。

そしてついに、失った血が龍麻の足を滑らせる。

「引導を渡してくれるッ――」

 斬殺を確信した柳生が大きく振りかぶる。

だが、死を携えた両手が振り下ろされる寸前、龍麻に劣らぬ長身がわずかに傾いだ。

「ぬッ――!?」

 背中に衝撃を受けた柳生は、予想外の方向からの攻撃に驚き、顔だけを後ろに向ける。

そこには萎縮して遠間から見ているだけだった小童が、両の掌を背中に沿って縦に押し当てていた。

龍の意匠が施された籠手からは、氣が立ちのぼっている。

「邪魔をするかッ、小僧――!!」

 柳生が猛ったのは、不意を突かれたのもさることながら、掌打の威力が思いのほか高かったことにある。

身体に流れこんでくる氣の不快さに、無理やり身体をひねって澳継を斬ろうとした。

 今度は柳生の腹部に衝撃が疾る。

生じた隙を逃さず、龍麻が澳継と同じように両の掌を柳生に押し当て、そこから氣を注いだのだ。

「ぐッ、貴様等ッ――!!」

 赤い髪を憎悪に燃やし、柳生は二人共斬り殺そうとする。

だが、腹と背中から流れこんでくる忌々しい氣は、急激に柳生を蝕みはじめた。

龍麻の陽の氣と、籠手によって増幅された澳継の陰の氣。

二つの異なる氣が柳生の体内で合一し、互いを滅ぼそうと争う。

陰陽はやがて太極となり、巨大な氣の塊となって、柳生を裡から浸食していった。

「ぐわあァァッ――!!」

 エネルギーの暴走に身体を内側から食い破られては、いかに柳生でも耐えられなかった。

雷を浴びたように全身から白い光を放つと、一気に両膝から崩れ落ちる。

かろうじて刀を杖代わりにして身体を支えたが、立ちあがる力は残っていなかった。

「馬鹿な……この俺が、ニンゲンごときに……」

「ヘッ、何言ってやがる、手前ェだって人間だろうが」

 勝ち誇る澳継に、柳生は顔を歪めたが、一転して悪意に満ちた笑みを向けた。

「だが、もう遅い……刻は満ちた。龍脈は富士の山から噴きあげ、大地を割る。

貴様等にこれを防ぐことはできぬのだ……!!」

 言い終えた柳生は最後の力を失い、地に倒れた。

それに呼応するように、富士山が激しく揺れはじめた。

「お、おいッ、やべェんじゃねェのかこりゃあッ!!」

 叫んだ京梧が醍醐を見る。

斬られた上膊部からまだ出血は止まっていないが、それどころではない事態に痛みも忘れたようだ。

問われた醍醐も答えは持っておらず、尚雲に助けを求めた。

尚雲はいつになく険しい顔で九角を見る。

だが、外法を用いて江戸の世を騒がせてきた鬼道衆の長も、苦渋に満ちた表情で首を振るだけだった。

「残念だが……術者が死してなお術が止まらぬのであれば、もう止める術はない」

「くそッ……ここまできて手詰まりかよッ……!」

 京梧の慟哭が空しく宙に消える。

彼の叫びに追随する者はなく、地鳴りだけが大きさを増していく。

 

 京梧の傍らで膝をついていた龍麻が、おもむろに立ちあがった。

ゆっくり立ったにもかかわらず、よろめいたのは地面が揺れているからではない。

激闘のダメージがまだ回復していないのだ。

ふらつく足で龍麻は頂上へと歩きだした。

「おい、どこへ行くんだよ」

「俺が止めてくる」

「止めるってどうやってだよ」

 龍麻が乱心したのかと思い、京梧は慌てて龍麻の前に回りこんだ。

「なんとなく、できそうな気がするんだ」

「何言ってんだ、なんとなくで鎮められるわけねェだろッ!」

 京梧は怒鳴るが龍麻は聞く耳を持たない。

不規則な呼吸を繰り返し、揺れる地面に足を取られながら、気が狂ったとしか見えない登山行を続けた。

「馬鹿野郎ッ、まだ噴火するって決まったわけでもねェんだ、ここは一旦退けッ」

 龍麻の肩を掴んで京梧は止めようとする。

だが、半死人とは思えない力で押しのけられてしまった。

「皆はここで待っててくれ」

「お、おい……」

 迫力に圧され、京梧は道を譲ってしまう。

他の一行も声も出さずに龍麻を見守るほかなかった。

「若……鎮める方法などあると思いますか」

「わからぬ」

 短く応じた九角は、龍麻の背を見送る。

訊ねた尚雲も九角に倣い、富士の山頂に目を凝らした。

 火口を見下ろせる位置に立った龍麻は、腹の前で手を組んだ。

深く息を吸い、吐き、さらに深く吸う。

少しずつ呼吸の量を増大させるのは、氣を練るためではなく、空にするためだ。

どうすれば氣を御せるのか、そもそも本当にそんなことができるのか、確信はないが、

立っていられる最小限の力を残して龍麻は目を閉じた。

思考を保たず、自我を空にし、辺りに満ちる氣に己を同調させる。

 龍麻が行ったのは、氣を扱うための修行の初歩で教えられた動作だった。

なぜ、と訊かれれば答えられなかったその動作を、はじめた途端に龍麻の裡に膨大な氣が流れこんでくる。

それは緋勇龍麻という個人を簡単に消し飛ばすだけの量で、

予想はしていたもののそれを上回る奔流に、龍麻は危うく浚われそうになった。

眠りに落ちる瞬間にも似た空白の快楽に、身を任せてしまえば待っているのは人格の喪失だ。

もしかしたら精神だけに留まらず、肉体をも消失させてしまうかもしれない。

それほど龍氣とは圧倒的だった。

 両足を踏ん張るのではなく、心の中に杭を打ちこんで龍麻は自己を保つ。

足の指先にまで満ち満ちる龍氣は、まさしく龍のイメージで体内を螺旋に駆け巡り、

矮小な一個の肉体では狭いとさらなる拡大を求めて荒れ狂った。

富士を登っている間に、何度も転げ落とされそうになった風をも上回る氣の激流は、

あらゆる方向から龍麻を押し流そうとした。

 必死に耐えていた龍麻の足先に、小さな礫が当たった。

小指の先ほどもない石が、一秒の何分の一かだけ龍麻の意識を呼ぶ。

その一瞬で龍麻の意識は浚われた。

 手足の感覚がない。

身体の痛みも、瞼の重さも、鼻腔の収縮も。

自分に何が起こったか理解できない龍麻は、周囲を見渡した。

その途端、膨大な情報が合流した。

眼球が見た物を脳で処理するのではない、見た物全てを直接感じる。

 黒と白の景色はさっきまで見ていた物と同じだが、見える量が違う。

より高く、より上から見下ろしているのだ。

龍麻は意識が――少なくとも緋勇龍麻の根幹をなす思考が、肉体を離れたことを知った。

あまた満ちる氣に、呑まれてしまったのだろうか。

思考がひどく散漫になっていて、考察する力が湧かない。

この開放感に身を任せても良いのではないかと思いはじめている。

地球の氣の一部となって、空高く漂い続けるのは、きっと気持ちよいだろう。

心地よさにたゆたいながら、龍麻は三百六十度に広がった視界を見渡した。

 下の方に人間がいる。

全部で八体の彼らと、同じ存在だったと龍麻はすでに覚えていない。

溶岩が生き物のように脈打って噴火の時を待っている火口と、

大きく揺れている大地の方にこそ親しみを感じている。

溜めに溜めたエネルギーを爆発させようとする地球という巨大な生命体の一員として、

その時を待ち受けていた龍麻は、下方の人間の一人に気がついた。

地面に寝そべるようにしている、長い髪の女性。

すでに他の七人の名も忘れていたのに、彼女を見た途端に名前を思いだした。

 雹。

思い浮かべた名前を、龍麻は口にした。

唇を動かし、喉の奥から声を発した。

 雹が顔を上げる。

姿は見えず、声も聞こえるはずがない。

しかし、雹は龍麻を、龍麻が居る場所を見た。

「雹……!!」

 龍麻の意識は下方へと引き戻された。

意識と肉体が融合し、緋勇龍麻という個が目醒める。

甦った龍麻は、己の肉体に膨大な氣を受け入れながら、自分を喪わない術をも身につけていた。

あいかわらず怒濤のように流入してくる龍氣を、深い呼吸で身体の奥に浸透させる。

手や足の先端ではない芯の部分に、膨大な力が満ちていった。

細胞が一気に全て入れ替わったかのような、生まれ変わった感覚がある。

この時龍麻がそう感じたのは錯覚ではなく、

柳生に負わされた傷も、こびりついていた疲労も、全てが消え去り、全身に気力が漲っていた。

 猛々しく暴れていた龍が、住処へと帰る。

柳生宗崇によって乱され、地上へと噴出した龍氣は、そのほとんどが龍麻の身体に収まっていた。

両肩から力が抜けていくのを感じた龍麻は、勢いに逆らわず、ゆっくりと息を吐く。

白い呼気が薄れ、消えたとき、富士の火口はまだ煮えたぎってはいたものの、

あきらかに沈静化をはじめていた。

 もう噴火の怖れがないのを確かめ、龍麻は振り向く。

 視線の先には京梧や九角がいた。

彼らは一様に龍麻を見つめていた。

 下りはじめた龍麻の、膝がひどく笑う。

体力は全快していたが、成し遂げたという充足が全身を脱力させていて、

足を動かすのを止めた途端に前のめりに倒れてしまいそうだった。

「やりやがったな、この野郎」

「これも御仏のお導きか……良くやってくれたな、緋勇」

 京梧と醍醐の隣では、尚雲が大きく頷いている。

「見事だ。しかと見せてもらったぞ」

「ヘッ、俺だってあれくらい……痛ッ」

「仲間が偉業を成し遂げたんだから、素直に褒めてやんな」

 もう危険はないと判断し、雹を置いて九角達の許に来た桔梗が、澳継の頭を叩いた。

 彼らの許に着いた龍麻を、それぞれがそれぞれの言い様で歓迎する。

亀のような歩みで彼らの元に戻る途中、龍麻は一人離れた場所にいる雹を見た。

 桔梗が張った結界の中で、彼女は笑っていた。

いつか、過去となった未来の記憶で最期に彼女が見せた微笑みと同じだった。

昂ぶった感情は容易に涙腺を決壊させ、龍麻は目元を拭う。

泣くのは恥ずかしくなかったが、京梧達から離れてからにした方が良さそうだった。

「よっしゃッ、行ってこいよ、緋勇」

 京梧に背中を押されて龍麻は雹を迎えに行く。

本当なら一目散に走っていきたかった。

そうしなかったのは、少しだけ照れくさかったのと、

もしもこみ上げる情動のままに走ってしまったら、

そこから先も抑えが効かなくなってしまうという確信があったからだ。

 雹は京梧達から二百メートルほど離れた場所にいる。

その三分の一ほど歩んだところで、大きく地面が揺れた。

屈強な男といえども立っていられないほどの揺れで、たまらず龍麻はしゃがみこんだ。

吸いあげられた龍氣が戻った反動なのか、隆起した大地は激しく揺れ、収まる気配を見せない。

一秒でも早く雹のところに行きたいのに、行けないもどかしさに苛立ち、

地面を毟るように掴んだ龍麻の手に、小さな石が当たった。

 小指の先ほどの石に、総毛立つほどの悪寒を覚え、龍麻は上を見る。

見上げた先には今まさに、龍麻達の方へと転がりはじめた数個の岩があった。

「……!!」

 雹に警告を発しようとして、意味がないと気づいた龍麻は立ちあがり、走りはじめた。

岩は龍麻よりは小さいようだが、それだけに勢いがつくのも早く、

当たれば人間などひとたまりもないのは変わりない。

雹を他の場所に移動させるのが確実だった。

 揺れる斜面は走るのに適しているとはとてもいえず、走り出した直後に龍麻は派手に転ぶ。

気が動転しているからか、痛みは感じなかったが、顔に冷や汗を滲ませ、激しく喘ぎながら雹を見た。

 雹も龍麻の方を見ていた。

岩が転がってきているのには気づいているようだが、そちらは全く見ようとしない。

唇を固く引き結んだまま、睨みつけるように龍麻のみを凝視していた。

 彼女の視線に命ぜられるまま、龍麻は走る。

膝に力が入らなかったが、お構いなしに走った。

たとえ砕けたとしても、勢いがついていれば転がってでも彼女の許へいける。

姿勢を保とうという努力をむしろ放棄して、龍麻は己の身体機能を全開にした。

足を滑らせ、膝をつき、よろけながらひたすら前に進むことだけを考える。

それでも身体は思うように動かず、たかだか百メートル程度の距離が、江戸と富士ほどにも遠かった。

もう一度転び、立ちあがろうとしてまた転ぶ。

激しい地震は龍麻を狙い撃ちするかのように揺れ、

龍氣を受けて完治した龍麻の肉体に新たな傷を刻みつけた。

 地面を掴んで立ちあがった龍麻は、切った額から流れる血で滲む目で上方を見る。

転んでいる間に岩は勢いをつけ、もうすぐそこまで迫っていた。

このままでは間に合わない。

龍麻は呼吸の手間すら惜しんで走った。

 雹まであと十メートル。

もうすぐそこにいる雹が、絶望的に遠かった。

 醜怪な形相で迫る龍麻を、雹はまばたきもせずに見ている。

片方の目で見たいものを見た龍麻は、もう片方の目で見なければならないものを見た。

左の目には、護るべき女性の姿が。

右の目には弾みをつけて転がってくる岩が見えた。

 一瞬にも満たないうちに、龍麻は二つの物体を線で結ぶと、最後の力を全て右足に込め、踏みきった。

結んだ線上の、少しでも雹から遠いところに自らを投げ出す。

届いた、と確信した瞬間、強い衝撃が身体を打った。

痛みを感じる間もなく、緋勇龍麻は緋勇龍麻でなくなった。

 龍麻が跳ねる。

 壊れた人形のように。

 下手くそな人形師が操ったかのように、ひどくねじくれて宙を舞った龍麻は、雹の目の前に落ちた。

大地の揺れも、龍麻に当たったおかげで逸れた岩も意に介さず、雹は龍麻の許に這った。

手の皮がたちまち破れて血に染まったが、気づいてすらいない。

 一目見て龍麻は生きていなかった。

仰向けに倒れた顔の、眼が虚ろに雹を見ていた。

けれども雹には龍麻は見えない。

昂ぶる感情を抑えきれないとみた涙が、一足先に彼女を捨てて逃げだしたからだ。

「龍麻! しっかりするのじゃ、龍麻!」

 血だらけの掌で龍麻の胸を掴み、雹は叫んだ。

「共にガンリュウを直すのではなかったのかえ! 妾を離さぬと言ったのは嘘だったのかえ!」

 雹の悲鳴はこの場にいる生きている者達、特に鬼道衆の四人の心を裂いた。

これほどまでに感情を剥きだしにした彼女を見るのは初めてで、

万事に対して捉えどころのない尚雲でさえ、憐憫を眉目に漂わせて凄惨な光景に立ち尽くしていた。

この場にいる唯一の女性である桔梗も、かける言葉もない。

九角の袖を掴み、憚ることなく泣いていた。

 鬼道衆の長として冷徹な判断も幾度となく下してきた九角も、

呆然と龍麻の屍にすがる雹を見ていたが、やがて意を決し、重い足取りで雹に近づいた。

「ここは危険だ。一度退がれ」

「嫌じゃ」

 主君である九角が肩に置いた手を払いのけ、雹は叫んだ。

鬼子母神もかくやという迫力に、鬼道衆の長が動けない。

「妾はここを動かぬ。妾は龍麻の傍を離れぬと決めたのじゃ」

 声を枯らした雹の叫びに、大地の鳴動が重なる。

この場に留まるのはもはや無意味だった。

こうなったら力づくでも、と九角が目で合図し、醍醐が雹を担ぎあげようと近づく。

「むッ、いかん……皆、退がるんだッ!」

 その時、尚雲が緊迫した叫びを発した。

 上方から掠めただけでも大けがは免れないであろう、

龍麻を撃ったものよりも巨大な、二人分は優にある大きさの石が落ちてきている。

刀や槍ではどうすることもできない自然の驚異に、九角達は素早くその場を離れた。

生者だけでもとの願いは全員に共通していたが、雹は梃子でも動こうとしない。

やむをえず、龍麻と雹を残す他なかった。

 岩石は柳生宗崇の怨念が乗り移ったかのように、龍麻を目指す。

龍閃組と鬼道衆の面々は全力で走って安全圏まで逃げると、すぐさま振り返った。

 二人の直前で大きく跳ねあがった岩は、無慈悲なまでに正確に龍麻と、

その上に覆い被さった雹のところに落着した。

大地が割れたかのような轟音がとどろき、一同の聴覚を責める。

「……ッ!!」

 共に戦ってきた仲間の、あまりに残酷な最期に、全員が声にならない悲鳴を放った。

桔梗などは正視できずに手で顔を覆う。

 二人を轢殺した岩は、勢いを減じることなく下っていった。

しかし、置き土産として土煙を残していったため、

九角達は龍麻達のところへすぐには駆けつけることができなかった。

身を切られるような時間が過ぎて、土煙が収まってくると、我先にと駆けだす。

龍麻達の居た場所に着く頃には揺れも小さくなり始めていた。

 はじめに到着したのは、九角だった。

異刻から来た友人と、彼が求めていた女を、血走った眼で探す。

たとえ見るも無惨な姿になっていたとしても、必ず連れて帰るという決意を宿した眼に、

しかし、二人の姿は映らなかった。

「おいッ、どういうことだこりゃあッ!?」

 次に到着したのは京梧で、九角の横に立った剣士は、立ち尽くす九角に激しく詰め寄った。

「わからぬ……確かにここであったはずなのだが」

 二人の前には龍麻も雹も、彼らのものかもしれない血も、彼らが居た痕跡は何一つなかった。

この頃には醍醐や澳継も追いついて、九角や京梧が見ているものを追って見る。

「妙な……どこにも姿がないとは……」

「やい緋勇ッ、隠れてンなら出てきやがれッ! ふざけた真似してやがるとぶッ殺すぞッ!」

 澳継の叫びは空しく山中に消え、応じる者は誰もいなかった。

「それにしても変ですねえ、二人は一体どうしちまったんでしょう」

 桔梗に問われて九角は腕組みして考えていたが、やがて喉から押しだすように言った。

「……もしかしたら、だが」

 先刻までの騒音が嘘のように静まりかえっている。

動物の鳴き声もなく、木々のざわめく音もなく、この場にいる九角を除いた五人も黙したまま、

九角が続けるのを待った。

「緋勇は、奴が元いた時代に戻ったのかもしれん」

 九角自身、言いながら戯言だと思っていた。

龍麻は未来から来たと言っていたが、そう都合良く帰ったりできるものなのか。

そもそも死んだ後に帰って何の意味があるというのか。

あるいはこの時九角は、無意識に京梧あたりに殴られることを期待していたのかもしれない。

 だが、むう、と唸った京梧は、しばらくして頭を振った。

「……かも知れねェな」

 意外な顔をする九角に、明らかにそれと判る作り笑いを向ける。

「緋勇の時代じゃ刀は持てねェそうだからな、俺は未来なんてもんに興味はねェが、

この分じゃ雹も一緒に行ったみてェだ、めでたしめでたしじゃねェか」

 手を打ち鳴らした京梧に、九角も小さく笑った。

そうなったのなら、それでいい。

二人の屍が見つからない以上、どんな風に考えても良いはずだった。

 頭を振った九角は、静かに告げた。

「これ以上ここにいても仕方があるまい。下山するとしよう」

「あァ、そうだな」

 九角と京梧は揃って踵を返し、仲間達が後に続く。

一番最後に歩きだした桔梗が、何かに気づいて九角を呼び止めた。

「ああ、天戒様、空が……!」

 彼女が指さした空を、全員が見る。

 一面の暗黒の中に、光が生まれていた。

遙か彼方ではじめは小さく、やがて広がっていく光。

天空と大地を分かち、万物を遍く照らす曙光は、九角達の顔をも等しく金色に輝かせた。

「ヘヘッ、上手くいったみてェだな」

「うむ」

 京梧と九角が同じ方を向いて話す。

これまでの不遇を晴らすかのように大地を眩しく染める太陽を、しばらく眺めていた彼らは、

空に完全な光円が浮かんだのを見届けると、歩を揃えて歩きはじめた。

 

 全ての感覚が失せていた。

正確には、失せていたかどうかもはっきりしない。

約束を違えてあっさりと死んだ男の胸で共に死ぬと定めてから、雹の世界は終わりを告げていた。

岩に押しつぶされようと、大地の割れ目に呑みこまれようと、どうでもいいことだった。

むしろ生と死に分かたれた龍麻に一刻も早く逢いたいと、その刻が訪れるのを望んだ。

 轟音が、降ってくる。

龍麻の身体を強く掴み、雹は目を閉じた。

 鳴動が聞こえる。

地面の揺れとは違う、規則正しい、太鼓にも似た音。

懐かしさをも感じる音を、むしろ安眠を妨げられてわずらわしく思いながら、龍麻は目を開けた。

 空は暗く、どこまでも広がっている。

正確には空かどうかも判らない。

仰向けに寝ているのだから、上を見ているのだろうというおおざっぱな予測だ。

しかし、星も月も出ておらず、屋内なのか屋外なのか、それすらもはっきりしなかった。

 そして、もうひとつ気づいたことがあった。

龍麻の胸に頭を預けて眠る女性がいる。

眠るというより気を失ってそのまま寝入ったように見えるのは、姿勢が不自然だからだ。

しばらくの間龍麻は混乱していたが、やがて、女性が誰なのか思い至った。

「雹……?」

 呼びかけると雹は顔を上げた。

暗くてよく見えないが、泣いていた気配が彼女の顔の周りに薄いもやとなって漂っている。

「一体何がどうなって……待てよ」

 記憶をたどると一つの光景が鮮明に蘇った。

記憶の最後にある激しい痛みまで思いだして、龍麻は渋面を作った。

「そうだ、雹を庇って岩に当たって……雹は無事だったのか?」

「大事ない。じゃが、その後にもう一つ岩が来たのじゃ」

「そっか。……その割に、どこも痛くないんだけど……もしかして二人とも死んじまったのか?」

「そうかも知れぬな」

 真顔で答える雹に、龍麻は自分の口にしたのが冗談なのかどうなのかわからなくなった。

辺りは闇深く、二人以外の気配はない。

ここが地獄だと言われれば、納得するような雰囲気に満ちているのだ。

あれほど龍麻達を悩ませた風雪すらなく、一切が無音の世界は、居心地の良いものではない。

心細くなった龍麻は、雹の腰に手を回した。

「……なんじゃ」

「……いや」

 雹もさほど嫌がっているようにみえないのは、やはり心細いからだろうか。

抱きよせたい、と思った龍麻だったが、さすがに考えなおして身体を起こした。

「……なんじゃ」

「……ん?」

「なんでもないわ、早う起きぬか」

 なぜ急に怒りだしたのか、訳がわからないまま龍麻は言うとおりにした。

あぐらを掻いて頭を掻きながら、周りを見渡す。

激しい戦いの痕跡も、共に戦った仲間の姿もやはりなく、本当に地獄に来てしまったのかと思いはじめた。

「とにかく、ここでこうしててもしょうがないから行こう」

「そうじゃな」

 地獄だとしても鬼の一匹や二匹は居るだろう。

そこで処遇が気に入らなければ鬼をぶちのめすも良し、雹と二人で安住の地を探すも良し。

とにかく、一人でなければどうとでもなると、百三十年の時を渡航した経験者は、

ひどく楽観的に今後の方針を定めた。

 雹を背負い、歩きはじめる。

どうやら今居る場所も山のようで、同じ地獄でもどうせなら平地に飛ばしてくれれば良かったと

罰当たりなことを考えた龍麻は、雹と離ればなれにされる可能性もあったと思い至り、

慌てて地獄の……閻魔大王だろうか? 支配者に感謝した。

 どうやらその必要もなかった、と気づいたのは、三十分ほど下った辺りだろうか。

背中の雹は眠っているようで、規則正しい寝息が聞こえている。

一人で山道を行く辛さを、嘆くどころか発奮して歩く龍麻は、前方に何かを見つけて立ち止まった。

辺りは暗く、動いているものも見あたらないのに、自分はなぜ立ち止まったのだろうか。

弾む息を整えながら目を凝らしてみると、龍麻は勘の正体を知った。

 斜面から張りだした部分がある。

だが、龍麻の目を惹いたのは、張りだした部分ではなく、その下にあるものだった。

「あれは……」

 そこには小さな穴があり、穴の前には、入り口を塞ぐように立っている人影があった。

逸る心のままに、龍麻は駆ける。

大きく揺れたため雹が目を覚ましたが、彼女にも関係あることなので、構わず走った。

「どうしたというのじゃ」

 まだ少し眠っているような雹の声だったが、龍麻が見つけたものの正体に気づくと

龍麻の背中から身を乗り出した。

「ガンリュウ……なのかえ?」

 雹の声は震えていた。

黙って頷いた龍麻も、喋っていたら同じように震えていたに違いない。

彼らの前には、昨夜身を挺して二人を寒さから護ってくれた、からくり人形が立っていた。

龍麻たちが近づくと、戻ってきた主を歓迎するかのように彼の頭が垂れた。

「ああ……」

 雹が手を伸ばす。

彼女を背負う龍麻は触れなかったが、同士めいた連帯感に胸を熱くさせて、巨大な人形を眺めた。

「……?」

 だが、眺めているうちに、違和感を覚える。

雹も同じらしく、訝しげに呟いた。

「妙じゃな……一晩でこれほどに朽ちるはずがない」

 江戸時代の人形であるガンリュウに釘は使われておらず、全て木製だ。

厳選された材料で作られているとはいっても、湿気や水分は大敵で、

雪の中に置いてきたのだから、痛んでしまうのは避けられないだろう。

それにしても、ガンリュウの朽ち方は昨日今日に打ち捨てられたものではなかった。

十年、あるいは五十年以上の時を経たような朽ち方で、あちらこちらに虫食いができ、

木そのものもうかつに触れば崩れてしまいそうだ。

「直すのがちょっと大変そうだな」

「うむ……そうじゃな」

 龍麻はあえて最悪の可能性に言及しなかった。

雹もそれを察したのか、ガンリュウに触れるのをやめ、

龍麻の首に回した腕には、明確な意志がこめられていた。

「いずれまた来るとしよう」

「ああ」

 何年かかろうとも、必ず直す。

無言のうちに二人は、そう誓いあった。

 ガンリュウの存在はもう一つ、重要な事実を二人に告げていた。

 ここは地獄などではなく、同じ富士山であるということだ。

剛胆にもほとんど寝ていた雹は夢と現を行ったり来たりしていたようで、

苦楽を共にした相棒を発見しても、ここが現世だと俄には信じられなかったようだが、

ずっと雹を背負っていた龍麻は、魂だけが行くであろう地獄でも、

体重やら息遣いやらは感じるのだろうかと不思議に思っていた。

それでも確信に至らなかったのは、ここが富士山であるのなら、

戦いの痕跡や仲間の姿が全くなかったことと、あれほど苦しめられた風雪がどこにもなかったからだ。

「どうなっておるのじゃ」

「さっぱりわからない」

 空は暗いままで、柳生宗崇の野望を防げたのかどうかもわからない。

だが仲間達の姿もなく、ここにいても、もう意味がないだろうから、ひとまず鬼哭村に戻ることにした。

「皆、無事だよな」

「そうじゃな。おそらくは無事じゃろう」

 龍麻にも雹にもあまり仲間を案じているようすはない。

一つには一番酷い目に遭った自分たちが無事だったのだから、当然彼らも無事だという思いがあり、

もう一つ、今は他のことは考えず、お互いのことだけを考えていたかった。

「でも、良かったよ」

「何がじゃ」

「もし、あれで死んでて……死んだ後の世界があるのかなんて知らないけどさ、

死んでても死んでなくても、俺だけが生きてるのは絶対に嫌だったから」

「勝手な考えじゃな。どうして妾が一人生き残るのも絶対に嫌だと考えぬ?」

「それは……そうだけど」

 同じ女性を二度も喪うのとは訳が違う。

龍麻はそう思ったけれども口には出さなかった。

雹もそれ以上追及はせず、なんとなく無言のまま山を下る。

登りに較べれば遙かに楽な下りは、他のことを考える余地を二人に与えた。

「なあ」

「なんじゃ」

「今でも俺は未来に帰った方がいいと思ってるか?」

 それはかつて、雹が己の心を従えきれずに口にした台詞だった。

募っていく龍麻への想いが、孤独に死のうとしていた心と相反して、

どちらを選べばよいのか決められないでいるうちに、打ちだしてしまった冷たい塊。

今ではもう、雹は一方を選んでいたが、分かれ道まで戻るのは容易ではなかった。

「そなたの好きにするが良かろう」

 一度は共に死を選ぼうとしたにしては冷たい物言いに聞こえたが、龍麻は頬だけで笑った。

「それじゃ、好きにするよ」

 ふん、と雹は鼻を鳴らす。

 龍麻が首筋のくすぐったさをごまかそうと、雹を背負いなおしたとき、遠方から静寂を破る声がした。

「おーい、あんた達! そこは立ち入り禁止区域だぞ!」

 呼びかけが自分たちに対して行われていると気づくまで、しばらくの間があった。

それほど声は唐突で、予想外だったのだ。

 すみません、すぐ出ます。

そう応じかけて龍麻は愕然とした。

自分たちが登った富士山は辺り一面雪景色で、人どころか一切の生物など見あたらなかった。

それに男の言葉遣いは慣れ親しみつつあった江戸の人々のものとは明らかに異なっている。

「あんた達だよ! 聞こえてるのか!」

 声になじる調子が強くなる。

これ以上怒らせまいと、龍麻はとにかく男の方に近づいた。

「すみません」

「そっちは落石が多いからね、立ち入り禁止には理由があるんだよ。

混んでるからって安易に入っちゃ駄目だよ」

 男は五十代といったところだろうか、登山靴にリュックにベストに

ヘッドライトと登山用の装備に身を固めていた。

龍麻達に忠告したのも、規則を守らせるというより本当に危ないからだという感じが伝わってくる。

彼に頭を下げながら、龍麻はごく基本的な質問をした。

「えっと……今何時かわかりますか?」

「四時半ってところだな。もうじきご来光だよ」

 腕時計を覗きこんだ男は、そこで龍麻達の奇異さに気づいたようだった。

「あんた達……テレビの撮影かなんかかい?」

 龍麻も雹も登山装備らしきものは何一つ身につけていない。

それどころか二人とも着物であり、しかもずいぶんと着古した、というか馴染んだ感がある。

彼が疑ったのも当然だった。

「え、ええ、まあそんなところです」

「いくら夏だって言ってもさ、そんな服装じゃ駄目だよ。ここまで良く怪我しないで登ってきたもんだ」

 言っているうちに男の顔が険しくなってくる。

山を愛するがゆえに、軽々しく山に入って怪我をするような輩が許せないのだろう。

「は、はい、本当にすみませんでした。すぐ下山しますから」

「あ、ちょっと待った! そんなに急いだら危ないって!」

 もう一度頭を下げた龍麻は猛然と下りはじめた。

半分は男から逃げるためで、半分は勝手に足が動いたからだ。

男と話しているうちに湧いたある確信は、前にではなく上に龍麻を動かそうとしたので、

必死に制御してベクトルを変えたのだ。

 背後から男が叫んでいたが、それもやがて聞こえなくなる。

そこまで走ってからようやく、龍麻はペースを落とした。

「何だったのじゃ、いったい」

 訳がわからない、といった風に雹が呟く。

 龍麻は答えなかった。

これからどうすれば良いか、龍麻にも解らなかったからだ。

解っているのは、たったひとつだけ。

着物を着て雹を背負ったまま、富士山頂から一九九八年の東京に帰らねばならないということだった。

調子に乗って月代まで剃らなくて良かった、と心から安堵しながら、

龍麻は富士山を駆け下りていく。

その半身を、昇りはじめた太陽の光が金色に染めあげていた。




御都合主義万歳。
エロを入れるならここだ……とは悩みましたが、バランス悪くなりそうなので止めました。
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