太陽が中天に差しかかろうかという刻限。
それでも陽の射さぬような深い森の外れに、風祭澳継は佇んでいた。
彼の前にあるのは、彼が小柄であることを差し引いても、
抱えるには五人は必要となるだろう巨岩だ。
岩の正面に立つ澳継は、足を肩幅に開き、肩の力を抜いて、深く、長い呼吸を繰り返している。
もう五分ほどもこうして呼吸を繰り返していた。
すっかり自然に同化した彼の頭上を、一羽の雲雀が飛ぶ。
澳継の頭上を飛んでいた雲雀は、にわかに激しく羽ばたき、逃げていった。
雲雀を狙う鳥が近くに現れたのではない。
雲雀が気づきもしなかった、下に居る人間が放つ氣が、彼を中心として放たれたのだ。
鳴き声を放って去った雲雀にも、気配を微塵も逸らさない澳継は、
半歩だけ右足を前に出し、両の掌を右手を上に、左手を下にして、身体の中心に構えていた。
深く、ゆったりとした呼吸を繰り返し、その一度ごとに澳継の氣は増幅していく。
増幅した氣は凝縮され、増幅と凝縮が繰り返されて連環となり、
狂おしいほどに高まった氣を、一気に放った。
自我すら失いそうになる凄まじい解放感に耐え、全ての氣を放出し終えた澳継は、
大きくよろけ、膝をつきそうになる。
力が入らない膝に矜持で活を入れ、どうにか持ちこたえた彼は、視線を前方に据えるとおもむろに破顔した。
眼前にあった岩は、その巨きさをほとんど喪っていた。
澳継の放った莫大な氣が、硬い岩を粉砕したのだ。
顔だけに収まらず、全身で喜びを爆発させようとした澳継は、不意に気配を感じた。
集中していたとはいえ、予想外の近さにある気配に、雷光の速さで振り向く。
「見事だ、澳継」
「御屋形様ッ!」
澳継の後ろにいたのは、彼の主筋にあたる九角天戒だった。
天戒は慌ててひざまずこうとする澳継を制し、臣下の成長を褒め称えた。
「完全に氣の使い方を体得したようだな」
頬を紅潮させながらも、澳継は主の称賛を全面的には受け入れなかった。
「……いえ、あいつはもっと早く練っていました」
「緋勇か」
澳継は答えず、視線を地面に落とす。
天戒も臣下の非礼を咎めず、彼が口にした男に思いを馳せた。
緋勇龍麻と名乗った、百年以上も未来の日本から来たと語る怪しい男。
天戒の臣下である雹に会いに来たといい、天戒が治める鬼哭村に居つき、いつのまにやら馴染んでいた。
雹も初めはこんな男など知らぬと言っていたのが、
何度袖にされても諦めない龍麻のしつこさに根負けしたのか、彼を受け入れるようになった。
氷の復讐心を心に築き、龍麻のみならず他者を拒み続けていた彼女の変化は天戒を驚かせたが、
いつしか彼自身も龍麻の影響を受けるようになっていた。
彼が居たという百三十年後に江戸幕府はなく、それどころか数年のちには幕府は倒れ、
新政府なるものが誕生するという龍麻の言をすぐに信じたわけではなかったが、
天戒が率いる鬼道衆の行く末に思いを馳せることが多くなったのだ。
「御屋形様」
澳継が顔を上げ、天戒も我に返った。
同じく氣を、しかも彼より巧みに操る龍麻に、澳継はずっと反発していたが、
得るところはあったようで、今の澳継はいい面構えになった、と天戒は内心で臣下を評した。
その澳継が、眉間に決意を漂わせている。
彼がそれを眉間から口へと下ろす前に、天戒は先んじて告げた。
「澳継に命じる。その氣を更に練り上げ、完全に己が物とするまで、鬼哭村を出て修行せよ」
それはまさしく澳継が求めるものだつた。
柳生という強大な敵は倒したが、澳継の強さへの渇望は強まるばかりだった。
否、柳生や、何より緋勇龍麻という超えるべき目標が現れたことで、
澳継の渇望は明確な形となったといえる。
澳継にはもはや、鬼哭村は旅立つべき巣でしかなかった。
「ありがとうございます、御屋形様ッ」
「うむ、強くなって帰ってくることを期待しているぞ」
主君の度量に感服した澳継は、深く一礼すると、早速支度をするべく駈けていった。
澳継が去ったあとも、天戒はその場を動かず、腕を組み、眼を閉じて何事か考えている。
そこに木陰から一人の男が現れた。
男は天戒よりも年長で、顔に相応の皺はあるが、眼が澳継によく似ていた。
「これで良かったのか」
「かたじけのうございます、九角様」
男は深く頭を下げた。
「それにしても、緋勇の者が九角様の元に現れようとは」
「風祭と緋勇とはそれぞれ陰と陽を伝えると言ったな」
「いかにも。風祭の家は陰の龍の技を伝えております。その為風祭を継ぐ者は幼き内に放逐し、
孤独に生きさせることで心に晴れる事なき闇を育むのがしきたり」
龍麻や澳継が操る氣は、心の強さに大きく影響を受ける。
事に風祭家が伝える陰の龍の技は、闇を源としながらも闇に呑まれてはならない。
生半な精神力では使いこなすことなどできず、その為に幼少期から過酷な境遇に置かれるのだ。
幕府に怨みを持つ者たちが集まる鬼哭村は、風祭にとって格好の場所であり、
澳継の父親から頼まれた天戒は捨てられた彼を拾い、今まで面倒を見てきたのだった。
「それにしても、まさか緋勇の者が、未だ正式に継いでいないとはいえ風祭よりも氣の扱いに優れ、
しかもそれを風祭に教えるとは、前代未聞のことにございます。
澳継は今や風祭を継ぐに充分な器となりました」
「ならば、直に風祭を継がせても良かったのではないか」
「左様ですが、これまで陰の技のみを修練してきた我が流派が陽と交わったことで
どれほど強くなったのか、いささか興味が湧いた由」
天戒は頷いた。
彼自身はもう強さにはそれほど執着していないが、目指す者の気持ちは理解できる。
従兄弟である九桐尚雲がそうであるし、澳継に影響を与えた緋勇龍麻の凄まじい『力』を
目の当たりにすれば、武芸者なら誰でもあの高みを目指したいと思うだろう。
天戒は風祭の現当主に、次期当主を武者修行の旅に出す代わりに頼んでいたことを思いだした。
「緋勇については何か判ったか」
「調べましたところ、龍麻と申す者は緋勇の家には居らぬこと、確認いたしました。
あるいは名を騙ったのかもしれませぬが、いずれにしても、
澳継が陰陽の氣に習熟したのは事実にございます」
「ふむ」
報告はむしろ龍麻が未来から来たという話を裏づけるもので、
天戒は内心の不思議な昂揚を押し殺して短く頷くに留めた。
彼の氣は本物であり、鬼道衆の一員として働いたことも、
柳生宗崇と死力を尽くして戦ったことも、彼を信ずる根拠としては充分足る。
「できれば龍麻と申す者に会うてみとうございましたが、行方不明だとか」
「うむ」
短く、しかし強い同意を天戒は語に含めた。
尚雲に似ているが、彼とも違う器を持った龍麻と、
もっと言葉を交わしたかったと今更ながらに思ったのだ。
龍麻と雹が岩に押し潰された時、その場に居合わせた人間にしか天戒は自分の考えを語っていない。
龍麻は元居た時代に還り、雹も彼と未来を共にしたと。
それは夢想に過ぎないかもしれない。
だが、天戒にとっては信じる価値のある夢想だった。
澳継が武者修行に旅立った翌日、天戒は新たな一人の旅立ちを見送った。
「それでは御屋形様、行って参ります」
「うむ。大変な任務だが、お前にしか出来ぬことだ。頼んだぞ」
天戒に命じられた尚雲は、気負いを感じさせぬ表情で頷いた。
「緋勇の言ったことが本当なら、槍や刀を振るえるのもあと数年との話。
その前に全国の強者と腕を比べたく思います」
苦笑する天戒よりも怒ったのは、彼の隣に立つ桔梗だった、
「ちょっとッ、天戒様はそんなことを頼んでるんじゃないよッ」
「ははッ、わかっているさ。旅の目的はあくまでもこの鬼道書を封じること。
人目に触れることのない、封印に適した場所を探すための全国巡礼というわけだ」
「あんたを見てると鬼道書そっちのけで強い奴を探し回りゃしないかってどうも不安になっちまうんだよ」
嘆息する桔梗に朗らかに笑った尚雲は、踵を返して主君の前から去った。
「そう案ぜずとも尚雲ならば大丈夫だ」
「それはまあ、そうでしょうけれど」
主君の命を第一に果たすのが臣下の務めだと考える桔梗には、
主君として天戒にもう少し強く命じて欲しいとも思うのだが、言っても詮無いことだった。
狐の尻尾にも見える優美な髪を左右に揺らして桔梗は話題を変えた。
「嵐王が天戒様に来て頂きたいと」
「ふむ」
天戒は頷くとその足で嵐王の工房へと向かった。
その後を、やや不満顔の桔梗がついていく。
本来なら臣下が主君を呼びつけるなど言語道断だ。
しかし天戒はその辺りのことを気にせず、村民にも気さくに話しかける。
それが桔梗には不満なのだが、古くから天戒に仕えている嵐王が主従をわきまえていないはずかなく、
その彼が呼びつけるということは、よほどの事態だと思われた。
「嵐王、いるか。入るぞ」
村の外れにある嵐王の庵はさほど大きくはない。
その上に嵐王が研究以外に関心を払わぬものだから、道具と埃に塗れており、
桔梗ならずとも近寄りたくない場所だった。
天戒と桔梗が庵に入ると中は暗く、足下もおぼつかない。
仮にも主を呼びつけておいてこの無礼に、桔梗が声を荒げて嵐王を叱責しようとした。
その時、四方から光が放たれ、部屋を満たす。
突然の輝きに桔梗は顔を覆ってしまい、天戒もそのままではいられず目を細めた。
「嵐王、これは…?」
光の集まる部屋の中心に嵐王はいた。
嵐王の名を継ぐ者が代々着ける仮面を今も着けていて表情は知れぬが、
白い光の中に在るからか、昂揚しているようにも見える。
彼の手には小さな道具が握られていて、操作すると四方から彼を照らしているのと同じ光が放たれた。
「緋勇の残していった、懐中電灯なるものにございます。遂に完成いたしました」
「ほう…!」
天戒は声を上げ、桔梗も嵐王の才能に感嘆した。
百三十年後の世から来たという龍麻が持っていた幾つかの道具のうち、
最も天戒たちを驚かせたのは懐中電灯だった。
蝋燭の炎しかない江戸の末期において、別格の明るさを放つこの道具に
最も関心を寄せたのが当然というべきか嵐王で、
短い期間で仕組みを理解し、天戒たちが柳生宗崇を倒すために彼が待つ富士山頂を目指す際、
雹が操るからくり人形であるガンリュウに装着するライトを作りあげたのだ。
その時点では小型化ができず、ガンリュウに装着するしかなかったのだが、
その後、龍麻が雹と共に岩に押し潰されて安否が不明となり、ガンリュウもライトも失われた。
それでも嵐王は残された龍麻の荷物を持ち帰った天戒から奪うように預かると、以来今日まで庵に籠りきりで
この未来から持ちこまれた道具を再現しようと奮闘していたのだった。
その甲斐あってか、現在部屋の四隅に置かれている電灯は提灯よりも少し大きい程度であり、充分携帯が可能なサイズだ。
「電池とやらいう物の仕組みを体得するのに手こずりましたが、久々に血が沸き立ちました。
以後は数を揃えることも出来ましょう。それから、これも緋勇が残した鉛筆というものですが、
こちらも便利なので作れるようにしておきました」
事もなげに言う嵐王に、天戒は絶句していた。
彼の才能を疑ったことはないが、これほどとは思っていなかったのだ。
しかも、量産化の筋道までつけたという。
それがどういう意味を持つか、わからぬ天戒ではなかった。
「……鬼哭村の民は幕府に虐げられ、世を追われた者ばかりだ。
だが、緋勇の言うとおり数年の後に幕府が倒れるならば、
これを商うことで再び世に出ることが叶うかも知れぬな」
「御意」
幕府を倒すという目的は捨てても、従う民を見捨てるわけにはいかない。
彼らの将来も悩みの種であったが、龍麻と嵐王のおかげで光明が射した気がした。
「嵐王は懐中電灯と鉛筆をこの村で作れるよう手筈を整えよ。九角家の金を全て使ってよい」
「御意」
「桔梗はそれまでに商いを学んでおけ」
「お任せください」
桔梗の望みはいつまでも天戒と共に在ること。
それが叶うのならば、商いを覚える程度はどれほどのことでもなかった。
天戒に続いて庵を出た桔梗は、ふと気配を感じて顔を上げる。
すると空にニ羽の見事な白鶴が、寄り添うように飛んでいた。
「天戒様」
「うむ」
二人は無言で天を仰ぐ。
彼女達の視線を受けたかのように、鶴は高くいななき、彼方へと飛び去った。
蓬莱寺京悟と醍醐雄慶は龍泉寺を前にしていた。
二人が所属した、江戸を護るための組織である龍閃組の拠点である龍泉寺は、
近い内に取り壊されることが決まっている。
建物とは雨風をしのぐためのものでしかないと考える京悟は、
取り壊される寺にも何の感慨も抱かなかったが、
宗派は違えど僧侶である醍醐はひとかたならぬ思いがあるのか、長く拝んでいた。
「いつまで拝んでんだよ。壊すモンを今更拝んだってしょうがねェだろうが」
いいかげん痺れを切らした京悟が醍醐を急かす。
醍醐は不信心な京悟を睨んだが、拝むのは止めて彼に向き直った。
「龍閃組もこれで解散だと言うのに、お前は何とも思わんのか」
「へッ、物に思い入れはねェよ。……ま、ここに居た間は中々面白かったがな」
龍閃組は江戸の破壊を目論む柳生宗崇を倒すという手柄を立てた。
龍閃組を組織した円空僧正は若者たちに充分な恩賞を与えた上で組の解散を告げ、
京悟たちはそれぞれ新たな道を往くこととなったのだった。
「お前はこれからどうするんだ」
醍醐の問いかけに、京悟は珍しく数拍置いてから答えた。
「江戸に居ても退屈しちまうだろうからな。旅にでも出ようと思ってる」
「ほう」
「まだ日本のどっかにゃ強い奴がいるだろうよ」
柳生宗崇との死闘を終えて以後、京悟の裡には渇望が芽生えていた。
もうじき終わってしまうかもしれない刀の世。
その前に、まだいるはずの最後の侍たちと刃を交えておきたい。
一度生じた渇望を、止めることはできなかった。
京悟は戦友に同じ問いを投げかける。
「そういうお前はどうすんだよ」
「そうだな。俺は今度の戦いで己の実力不足を知った。法力も腕力もな。
それを全国の寺を巡礼してもう一度鍛え直したいと思う」
「けッ、大層に言いやがって、とどのつまりは俺と同じってことじゃねェか」
「まあ、そうかもしれんな」
吐き捨てる京悟に、醍醐は豪快に笑って応じた。
鼻を鳴らした京悟は話題を変える。
「アイツは死んじまったと思うか?」
「思わん」
その質問を予期していたかのような即答に、京悟は眉を動かした。
「嫌にはっきり言うじゃねェか。お前もあの二人が岩に潰されるところは見ただろうし、
あの岩は俺達が束になっても動かせなかっただろうがよ」
「確かにそうだが、二人の死んだ気配は感じられなかった」
「けッ、坊主らしいことを言うじゃねェか」
そうは言ったものの、京悟はそれ以上雄慶の考えを否定しようとはしなかった。
彼の裡にも未来から来たと自称するあの男の生存を願う気持ちがあったのだ。
京悟に対して何か言おうとする醍醐に、呼びかける声がある。
二人が振り向くと、彼らの仲間である時諏佐百合がいた。
「何だいあんた達、まだ出発してなかったのかい」
「別にアテがある旅じゃねェからな。いつ出たって構わねェのさ」
「龍泉寺は明日には壊されちまうんだからね、出遅れたって寝床はないよ」
啖呵を切られて二人とも苦笑するしかない。
天下有数の剣の腕も、高野山で学んだ退魔の法力も、この気風の良い女性には全く通用しなかった。
劣勢を感じた京悟が話題を変える。
「百合ちゃんはこれからどうすんだよ」
「あたしかい? 前にも言ったろう、あたしはここに学び舎を作る」
「学び舎ぁ? なんだそりゃ」
「何にも聞いてなかったのかい!? しょうがないね、学び舎ってのは寺子屋をもっと立派にしたようなものかね。
円空先生のお許しは頂いたし、明日からは大忙しになりそうだよ」
百合は空を見上げる。
天変地異の前触れだと騒がれていた数日前とは打って変わって、晴天が広がっている。
雲の向こうに輝く太陽に目を細める百合の頭上を、一羽の鷹が横切った。
鷹は人間に雄姿を見せびらかすために飛んだわけではないが、
人間の方は一直線に飛ぶ鳥に良い兆しを重ねた。
視線を地上に戻した百合は、今日を限りに道を違える男たちに訊ねた。
「で、やっぱり緋勇は見つからないのかい?」
「ああ」
「そう……あの子がいれば、良い先生をやってくれると思ったのにねえ」
「そうかァ? 結構抜けてやがるけどな、あの野郎」
軽口を叩く京悟を睨んだ百合は、首をすくめる彼には目もくれず、
もう一人の男の方を向いた。
「可能性は少ないかもしれないけど、もしどこかで緋勇を見かけたら龍泉寺に来るよう伝えておくれ。
寺はなくなっちまっても、あたしはここにいるからね」
「承知しました。では、拙僧たちはそろそろ出立します」
「ああ、気をつけていくんだよ」
「へへッ、百合ちゃんも元気でな」
蕎麦でも食べに行くような足取りで去っていく京悟を、
街道筋までは同行するつもりなのか、百合に一礼した雄慶が追う。
どのような形であれ、未来に歩きだした若者たちを見つめる百合の視線は、どこまでも優しかった。
やがて二人の姿が見えなくなると、彼女も自身が選んだ未来に向かって歩きだす。
遠くどこかに、鷹が鳴いていた。
男二人、女二人の高校生四人組が、新宿の街を歩いていた。
高校生、と判るのは、男子高校生の一人が、制服を着ているからだ。
それも夏服ではない、詰め襟の学生服だ。
現在季節は夏で、東京の夏はこの世紀末の年にふさわしい、
暴力的な暑さで人間を痛めつけている。
学生服を着ている男は当然汗だくになっているのだが、共に歩く三人は、
さらに彼の分の暑苦しさまで負担させられて辟易しているようだった。
「どうしてお前はそんなに暑苦しいんだッ。もっと離れて歩きやがれ」
男の片方が、たまりかねたように学生服の男に向かって怒鳴った。
Tシャツにジーンズというラフな格好をしている男は、
服装だけなら学生服を批判する資格があるだろう。
だが、彼の右手には警察官が見かけたら職務質問せずにはいられない、木刀が握られていた。
実際、彼はこの春から優に片手を超える回数、警察に呼び止められている。
そのたびに悪魔的な逃げ足を発揮して、実際に捕まったのは一度もなく、
新宿管内では彼の存在は半ば伝説と化していた。
季節感のなさではわずかに劣るかもしれない学生服の男は、
かなり本気で怒っているようすの木刀の男にも動じる気配はない。
「心頭滅却すれば、と言うだろうが。お前も少しは頭を冷やしてみたらどうだ」
「真夏に学ラン着て頭が冷えるかッてんだッ!」
不毛なやり取りをする二人に飽きた小蒔が話題を変えた。
「あーでもさ、何だろうね? ひーちゃんが電話に出ないなんて」
「たまたまじゃねェのか?」
あくびをしながら京一が答える。
平日でも一日の半分以上を寝て過ごす時があるこの男にとって、
夏休みなどは寝る時間が増えただけの話で、午前十時という、
すでに朝とは言い難い時間に起きているのは極めて異例なのだった。
「でも、五日もよ。鬼道衆と戦った後だから、もしかして何かあったのかもしれないわ」
京一の後ろを歩く葵が控えめに反論する。
あと半年に迫った大学受験に向けて、彼女は毎日勉強をしており、
今日ももちろん普通に起き、さらには今日の分の勉強まで済ませていた。
「うーん、けどよ、あン時別に怪我なんてしなかっただろ?」
「それはそうだけれど……」
「まあまあ、もう来ちゃったんだしさ、無事なら無事でいい暇つぶし……じゃない、
せっかくだから皆でどっか行こうよ」
本音をうっかり漏らした小蒔に、京一は呆れ顔をする。
「高校三年生っつー自覚はねェのか、お前は」
「そんなコト言ったら京一なんて卒業すら危ないじゃないかッ」
「馬鹿野郎ッ、まだ五回は遅刻できる…はずだ」
「普通は遅刻で留年のリーチがかかるかどうかなんて心配しないんだよッ、ねッ、葵」
深入りを避けて微笑するに留める葵に、二人はやや気勢を削がれたように互いにあらぬ方を向いた。
まがりなりにも到来した平和を、誰が一番歓迎したかはわからないが、
五分ほど歩いて龍麻の家に到着した時、真っ先に呼び鈴に向かったのは小蒔だった。
「えーっと、確かここだよね。表札出てないけど……いいや、押しちゃえ」
小蒔が呼び鈴を押すと、ややあって中から人の気配がした。
「はい……?」
開いた扉から出てきたのは、間違いなくここの住人である緋勇龍麻その人だった。
心なしか精悍さが増したようにも見える龍麻は、
男子高校生が夏休みに自宅でしているようなだらしない格好はしておらず、
むしろきちんとした身なりだった。
意外にまめな同級生に評価を上げつつ、小蒔は邪気のない笑顔を向けた。
「おはよ、ひーちゃん。電話しても出ないからさ、様子見に来たんだ」
「……」
だが、龍麻の顔の方は服装ほどにきちんとはしておらず、
夏の太陽のような眩しい笑顔を向ける小蒔を、呆然ときっかり三秒見つめた彼は、
狼にだまされて扉を開けた羊のような勢いで戸を閉めてしまった。
「ちょっ……」
何か言いかけた小蒔の、扉の向こうで盛大に物がひっくり返った音が鳴り響く。
顔を見合わせた四人は、無言で決を採って中を確かめることにした。
決の結果は賛成二、反対二で多数決とはならなかったのだが、
賛成側の二人は、意見が統一されないとみるや実力行使に及んでいた。
「おい、何やってんだよ……ッておい……!」
小蒔に代わって玄関を開けた京一が立ちすくむ。
「なになに、ってうわ……!」
京一の脇をすり抜けた小蒔も、固まってしまった。
良識派の葵と醍醐は中の様子が判らず、やきもきする。
四人全員に真相が知れ渡ったのは五秒後だった。
小さな土間のすぐ先に、家主が倒れている。
だが、狭い玄関に押しかけた四人の視線は彼ではなく、
その先の居間に座る一人の女性に集中していた。
「お、おい……龍麻、てめェ……」
命の次に大切な木刀を手から落としてしまったのが、京一の衝撃を物語っていた。
木刀は一秒ほど床に垂直に立った後、静かに倒れ、
切っ先が床に倒れる龍麻の頭に直撃した。
「痛ッ」
寸時気を失っていた龍麻は、その打撃で我に返る。
頭をさすりながら身体を起こすと、京一にいきなり百八十度身体の向きを変えさせられた。
「痛ててててて」
「やいてめェッ! 人が心配して来てみりゃァ、
カワイコちゃんとよろしくやってるたァどういう了見だッ!」
「あ……」
ずっと隠し通すつもりではなかったにせよ、
もう少し折を見てから事情を話すつもりだった龍麻は、
一言も話さないうちから全ての事情が明るみに出てしまい、完全に自失していた。
怒りに――彼の怒りはおそらく正しくないだろうが――顔を赤くする京一と、
程度の差はあれ咎めるような顔をしている三人の視線が、音を立てて心臓に刺さるのだった。
二人と四人は居間に座っている。
居間といっても独り暮らし用の、七畳に満たない大きさなので、
六人も座れば室内は朝の山手線よりはましといった程度の狭さだ。
醍醐などはベッドに腰かけている有様だったが、誰も不平など言わなかった。
それどころではなかった。
「……」
龍麻の隣に座る女性を、四人は代わる代わる見る。
彼女は京一達の全く知らない女性で、いったい龍麻とどういう関係なのか、
見当もつかなかった。
「……説明してもらおうか」
京一は出された麦茶を一息に飲みほすと、小さなテーブルの上に身を乗り出して言った。
「どこから話したものか……」
龍麻は頭を掻いた。
「どこからもここからもねェッ、最初ッから最後まで全部だッ!」
京一がテーブルを叩くと、空のコップが小さく跳ねた。
すると、それまで目を閉じていた、龍麻の隣に座る少女が目を開けた。
「騒々しいの」
「むッ……まず、だ。この娘の名前を教えてもらおうか」
少女の声は低く、強く、京一はわずかに怯んだ。
しかし彼の好奇心の炎はその程度で消せはしない。
友人が――友人と信じていた男が、数日音信不通の挙句に
美女と同棲していたなどとは重大な裏切りであり、
是が非でも真実を明らかにしなければならない。
この場にはいないアン子のような使命感に燃える京一に、
小さくため息をついた龍麻は彼の要請に応じた。
「彼女の名前は雹だ」
「ひょう?」
雹という名前自体は変わっているが、咎められるものではない。
最初に不審に思ったのは葵で、彼女の不審が残りの三人に伝播するまで、
少しの時間を要した。
彼らの疑問を龍麻も予測していたので、自分から先に告げた。
「雹は名前で、苗字はない。なぜなら……なぜなら、彼女は江戸時代から来たからだ」
「……」
四人は揃って龍麻を凝視した。
龍麻は決して堅物ではないが、意味不明な冗談も言わない。
彼が口にしたのは、突拍子がなさ過ぎて、困惑すらしかねる戯れ言だった。
「江戸時代ってお前、四百年前かよ。じゃあ雹ちゃんは四百歳超えてるってことか」
「俺が行ったのは江戸時代末期、一八六六年頃だから、
その計算で行くと百三十歳くらいってことになるかな」
今度は冗談を龍麻は言ったのだが、箸が転がっても笑う年齢である
京一達は誰一人として、くすりともしなかった。
漂う沈黙を振り払うように、小蒔が訊ねる。
「本当……なの?」
「妾は冗談など好かぬ」
雹は京一に対してと同様、冷風を思わせる口調で小蒔に答えた。
聞く者に反感を抱かせるほどの冷たさだが、雹の美貌と雰囲気に圧倒されて誰も声を上げなかった。
冷えていく部屋の空気を和らげるように、龍麻が口を開く。
「五日前、か。俺が江戸時代にタイムスリップしたのは。で、戻ってきたのは昨日」
「タイムスリップって……お前、本気で言ってるのかよ」
「したんだからしょうがないだろ」
龍麻は肝心の、敵であった水角と邂逅し、その想いが龍麻を江戸に往かせたのだ
という点はうまくごまかしつつ、独りで旧校舎に潜り、
出てきたら百三十年前の江戸にいたと語った。
受験が差し迫った高校生が口にするには、いささかふざけすぎている話だが、
京一達は鬼や妖鬼といった同じくらいにふざけている事象を体験している真っ最中であるし、
何より龍麻の隣にいる、雹と名乗る少女の醸す雰囲気は、現代人のものとは思えなかった。
その雹が、京一を見ておもむろに口を開いた。
「御主の名は蓬莱寺というのかえ?」
「なッ、なんで俺の名前を」
「ふん、よう似ておるわ。騒々しいところなど特にな」
褒められているのではない、というのは京一にも伝わってくるが、
何しろ雹の口調はつららのようで、およそ友好というものに欠けていたので、
怒るべきかさえ判断がつかなかったのだ。
京一が人生で初めての経験――美女にあしらわれる――で途方に暮れている間、
雹はもう一人の男に話しかけた。
「そなたは醍醐か」
「あッ、ああ……そうだが」
雹は訊くだけ訊いて口を閉ざしてしまったので、醍醐も困惑することしきりだ。
コップの底に手を添えて優雅に麦茶を飲む雹に変わって龍麻が説明した。
「京一と醍醐のご先祖に会ったんだよ。彼らは龍閃組っていう組織で、
江戸を護るために戦っていた」
どれほど詳しい歴史書であっても、語られることのない真実。
大地の力である龍脈を暴走させて江戸を滅ぼそうとする柳生宗祟と、
富士山頂で死闘を繰り広げたなどと信じる人間がいるはずもなかった。
「何それ、いいなぁッ! ね、ボクのご先祖様には会わなかったの?」
ここにいた。
「うーん、会わなかったなあ。美里さんのご先祖様にも」
「ちぇッ、京一と醍醐クンばっかりズルいなあ」
小蒔たちには信じてもらえると思ってはいても、こうもあっさりだと拍子抜けする。
龍麻は自身が体験した非現実の証拠である雹を横目で見たが、
彼女は面倒な会話はすべて龍麻に任せるつもりなのか、氷の態度を保ったままだった。
「ヘッ、別に先祖なんざどうだっていいけどよ、そいつは強かったのか?」
「ああ、それは間違いない。醍醐の先祖も法力を使う坊さんだったけど腕っぷしも強かった」
「なかなか想像できんが、緋勇の役に立ったのなら、俺も負けてはいられないな」
「もうッ、何やってたんだろボクのご先祖様は」
本気で悔しがる小蒔に、雹を除いた五人が笑う。
笑いが収まると、ためらいがちに葵が口を開いた。
「江戸を護るためって言ったわよね、緋勇君」
「ああ」
「京一君達は誰と戦っていたの?」
龍麻はその質問を予測していなかったわけではない。
ただ、もう少し遅いタイミングだと良いと思っていたのだが、訊かれた上は答えるしかなかった。
「……鬼道衆だ」
「何イッ!? アイツ等そんな昔っから居やがったのかッ。当然ブチのめしてきたんだろうな」
京一の反応は過激であったけれども、他の三人も同様の嫌悪が浮かんでいた。
現代でまさに鬼道衆と戦っている彼らにすれば当然の態度である。
龍麻は雹と京一たち、双方の機嫌を損ねないよう慎重に言葉を選んだ。
「待ってくれ、確かに鬼道衆と京悟たちの属していた龍閃組とは対立してたけど、
最終的には協力して柳生って奴と戦ったんだ」
「何ソレ、どういうこと?」
全員を代表する小蒔の質問に、龍麻はタイムスリップしてからの経緯を話した。
その結果、雹が鬼道衆の一員であることを、皆に伝えなければならなかった。
「雹サンが、鬼道衆……」
呆然と呟く小蒔の反応が一番好意的といえるほどで、残りの三人はそれぞれ眉間に皺を寄せていた。
現代で龍麻たちが戦っている、目的は未だ不明ながら罪なき人々を犠牲にすることを厭わず、
東京を混乱に巻きこもうとしている集団こそが鬼道衆だった。
同じ名前を持つ集団に属しているという雹を、そして彼女と親しくする龍麻にも京一たちが
不審を抱くのは当然だった。
「さっきも言ったけど、鬼道衆と龍閃組は最後は対立していない。
柳生を倒すために力を合わせたんだ」
必死の釈明もほとんど受け容れられなかったようで、
京一などは無意識だろうが片膝を立て、右手に木刀を握り、
いつでも龍麻に殴りかかれるように構えていた。
「そりゃイイとしてよ、お前はどうなんだよ。これから先、鬼道衆に手加減しねェッて言い切れんのか?」
真剣のような殺気が宿る問いに、龍麻はうかつに口を開けなかった。
「ヤツらは罪のない人間を何人も殺してる。そんなヤツらと和解しようッてんなら俺は下りるぜ」
「京一ッ!!」
小蒔は叫んだが、それは彼の間違いを糺そうとするものではなかった。
京一の問いに対する答えを促すように龍麻を見る小蒔に応じたのは、彼ではなく雹の方だった。
「妾が忠誠を誓うのは御屋形様に対してのみじゃ。
そなたらが戦っておるという鬼道衆の頭領が御屋形様の血を引いておったとしても、
妾には関係のないこと」
雹の口調には淀みがなく、本心から言っているように見える。
とはいえそう簡単に信じるわけにもいかず、京一は腕を組んで考えこんでしまった。
重い空気を打ち消すように龍麻が姿勢を正す。
「雹が何かしたら俺が責任を取る」
「どうやって取るんだよ」
「すぐには思いつかないけど、とにかく取る。
それに、雹にはそんなことができない理由がある」
「なんだよ理由って」
「……雹は足の腱を切られていて、歩けないんだ」
四人は揃って雹を見た。
江戸から東京へ、刻を越えてきた女性は、いささかも怯まずに視線を受け止める。
その静けさに、詰っていたはずの四人は圧倒されていた。
「……!! 切られてって……誰がそんなヒドいコトしたの?」
「幕府の人間にじゃ」
雹の言葉を龍麻が引き取る。
「雹はガンリュウっていうからくり人形に乗って移動してたんだけど、
タイムスリップした時に失ってしまって、富士山から家まで戻る時は俺が背負ってきた」
二人の真剣極まりない表情に、京一たちは改めて二人が江戸時代から来たという話が事実なのだと悟った。
髪を掻き回した京一は、あぐらに戻した膝に肘をつき、掌には顎を乗せてぼやいた。
「かーッ、わかったよ、お前が土壇場で日和るとは思えねェし、女を疑うのも趣味じゃねェ。
今まで通りでいいッてこったろ、結局はよ」
「……そうだね、うんッ、ボクもひーちゃんと雹サンのコトを信じるよ」
「俺も緋勇のことは信じているさ。今はそれで良いと思っている」
醍醐に続いて葵も賛意を表してくれ、龍麻は胸を撫でおろした。
信じてもらえるとは思っていたが、早い段階で秘密を告白し、
受けいれてもらえたのはやはり嬉しかった。
緊張ですっかり喉が乾いたので、龍麻は全員分の麦茶を注ぐ。
喉を潤した小蒔が、コップを手の中で回しながら訊ねた。
「それで……雹サンはこれからどうするの? 帰れるんなら、帰ったほうがいいと思うけど」
「妾は龍麻の妻となる」
「ああそう……って、ええッッ!!??」
嵐が過ぎたと思ったら、突然の大嵐になったかのようだった。
声が一番大きかったのは小蒔だったが、他の三人も、葵でさえも驚き、叫んでいた。
嵐の中心にいる女性は、平然と茶をすすって続けた。
「そもそも龍麻が江戸の世に来たのは、妾に逢うためじゃったそうな。
夫とするにはいささか頼りないが、これも縁じゃ、仕方あるまい」
「仕方あるまいって、そんなのでいいの……!?」
いつもの醤油ラーメンが売り切れだから味噌にする、程度にしか聞こえない、
人生で最も大切なはずの決断をする雹に、特に女性二人は呆然とせずにいられなかった。
高校生で結婚というのは皆無ではないにせよ、相当に希少なケースであり、
想像も難しいというのは当然だった。
葵と小蒔は、ロボットのような動きで雹から龍麻へと頭を回す。
比翼連理の一方となる男は、頼りないと酷評されたにも関わらず、
溶けかけたソフトクリームのような顔をしていて二人を気味悪がらせた。
「まあ、そういうことだから。正式に結婚するのは卒業して……
できれは就職してからの方がいいだろうけど、雹は戸籍が取れるかどうかわからないし、
俺達の縁はそんな形式に縛られるものじゃないから」
結婚詐欺師のようなことを言った龍麻は、同意を求めて雹を見たが、
彼女はそっけなく頷いただけだった。
落胆する龍麻に、四人は度合いは違うものの二人の行く末を案じずにはいられないのだった。
昼近くになって京一たちは帰ることになった。
魂消た、というしかない状態に、四人の中では一番理性的と思われる葵でさえ陥っており、
一度現実の空気を吸わなければ回復できそうになかったのだ。
「じゃーね、ひーちゃん。雹サンも」
手を振る小蒔を見送った龍麻は、居間に戻ってくると思わずテーブルにへたりこんだ。
「ふう……いきなり来るんだもんな。心の準備ってもんが要るのに」
「仲の良いことじゃな」
ぼやく龍麻に雹が応じる。
皮肉かと思ったがそうではないようで、龍麻を見る彼女の瞳は穏やかだった。
「気分を悪くしたかもしれないけど、いい奴らだから」
「お人好しなのは眼をみれば分かる。苦労をしていなさそうじゃな」
中々手厳しいが、彼女の境遇を思えば無理もない。
とにかくこれ以上険悪になるのは回避しようと、龍麻は弱々しく笑って曖昧に同意した。
「それからの」
まだ何かあるのか、と訝る龍麻に、雹は淡々と告げた。
「妾の足じゃが、動くようになっておる」
「……は?」
龍麻は四人に数時間問い詰められて精神的な疲労が大きく、
間の抜けた反応になったのは仕方のないことだっただろう。
しかし、龍麻の間の抜けた顔を冷たく見据えた雹は、椿色の唇を閉ざすと、
龍麻にとってはありえない動作をした。
「……!!」
雹の顔が、垂直に上昇する。
反射的に目で追った龍麻は、彼女の目がこれまで見たことのない高さで
止まったことに、驚きのあまり固まっていた。
「先程言うても良かったが、面倒になりそうだったのでな」
雹の判断に感謝しつつ、龍麻は慌てて立ちあがった。
再び雹の眼は龍麻より下になったが、その差はずっと縮まっている。
「いつから……?」
「判らぬが、何かあったとすればこの時代に来た時じゃろうな」
確かに、それ以外に納得できそうな理由はない。
氣に満ちたあの旧校舎を通じて過去から現在へと刻を越えた際に、
氣によって雹の肉体の傷が修復されたのだろうか?
それとも、もっと合理的、あるいは非合理的な解答があるのだろうか?
思考を巡らせていた龍麻は無意味だと気づいて考えるのを止めた。
大切なのは今だ。
たとえ雹の足が動かなくても、龍麻は彼女を支えると誓ったのだから、
動くのならばそれで良いのだ。
ほぼ等しい高さから龍麻を見上げる雹は、弛緩している男の顔に呆れているのか、
目を細めているが、常の迫力は欠けていた。
冷たい氷雪もいつかは溶け、春を告げる生命の水となる――
その事実を全身で理解した龍麻は、彼女を強く抱きしめた。
「ようやくかえ。ほんに気の利かぬ男じゃの、そなたは」
往古に聞いた言葉に、龍麻は目を見開いた。
不審そうに見つめる雹に、一度目を閉じた龍麻は、そのまま両腕の力をさらに増した。
雹の恨み――邪念を使い、外法によって甦った水角という女性。
彼女は雹であり、雹でない。
だが彼女がいなければ、龍麻は雹という女性を愛することもなかった。
彼女がいたからこそ、龍麻は百三十年の刻を超え、雹とめぐりあうことができたのだ。
「何があっても、俺は雹を護る。それから、現代に来たことを後悔させない。
絶対に幸せにしてみせる」
「約定を違えるでないぞ」
「ああ」
再び力強く雹を抱きしめる。
雹は抗わなかったが、ひとつだけ龍麻の予想を裏切る動きをした。
「……!!」
踵を浮かせた雹の口唇の柔らかさは、龍麻をこの日何度目かの呆然とさせる。
彼をずっと見つめていた、元の高さに戻った雹の眼が悪戯っぽく笑った。
「自分から動くのは久方ぶりじゃが、そう悪いものでもないな」
その笑顔こそ、時を越えて求めていたものだと実感した龍麻は、
もう一度、万感の想いを両腕に込めて雹を抱きしめるのだった。
御都合主義万歳II。
余幕とあるように最初は考えてなかったんですが、終わり方が中途半端という指摘を頂きまして足した話です。
結局最後までエロは入れられませんでしたが、このシリーズに関してはあまり後悔していません。