どうでもいいと思いたかったのだ。面倒なことや煩わしいことから切り離されたところに居たかった。もう、これ以上、彼らと関わる気はなかった。だが、実際には今度は別の場所で他の誰かとの関わりを持つことになった。
どこにいても誰かとの関わりは必ずある。人だけではない。龍神もやはり一人きりで生きている訳ではないのだ。いっそのこと誰もいない場所を選んで一人でいれば良かったのだろう。だが水輝は何故か人のいる街を選んで歩き続けた。それは。
「本当はどうでも良くなかったからでしょう?」
「うるせえ!」
水輝は目を吊り上げて怒鳴った。立城が微笑みを浮かべてバッグを探り、シガレットケースを取り出す。見覚えのあるシガレットケースを見止めて水輝は目を見張った。
それはいつだったか、立城が学に贈ったケースだった。
「ほら、動揺した」
ケースから煙草を一本抜きながら立城がくすりと笑う。水輝ははっと我に返って頭を振った。そこで自分の手が無意識にスーツのポケットを探っていたことに気付く。客が煙草を取り出した瞬間にスーツのポケットからライターを取り出すのが水輝の常だからだ。
「これはね。借り物だよ」
「試しやがったな?」
低い低い声で言いながら水輝はポケットから手を出した。反射で客の煙草に火を点けようとしていたことが知れるのが腹立たしいので、水輝は自分で煙草を咥えて握ったライターで火を点けた。
それからしばらく、二人は黙っていた。水輝は無言で煙草を吸い続け、立城は時折、酒を飲みながらのんびりとそんな水輝を見つめる。
「いいかげんに帰れよ、お前は。こんなところに来たって仕方ないだろ」
狭い部屋に二人きりという状況に耐えきれず、水輝は自分から口を開いた。そもそも何故、立城がここに来たのか判らない。まさか今さら、水輝に事の責任を取れというつもりでもないだろう。もしそのつもりなら来て早々に話をしているはずだ。なのに立城は何故かあの時の話を振ってこない。
「僕は居たいからここに居るんだけど? お金を払っているんだから、水輝に文句を言われる筋合いはないよね」
にっこりと笑って立城が答える。何を言ってもどうやら動く気はないらしい。そのことを嫌と言うほど思い知らされて水輝は深々とため息を吐いた。これは閉店時間まで居座られるに違いない。
「お金を払えば抱いてくれるんだっけ?」
「誰が!」
反射的にそう怒鳴ってから水輝は疲れた顔をして額を覆った。立城は試すためにわざと言っているに違いない。そう思った水輝は咳払いをして、いつものように客向けの返事をし直した。
「おれは高いぞ? 店とは別料金を取るからな」
どうせからかっているだけだろう。そう踏んで水輝は他の客に向けて言うのと全く同じせりふを口にした。
「うーん。現金じゃないと駄目かな」
「カード不可。ローン不可。札束用意して出直してこい」
水輝は鼻で笑ってそう言い返した。実際、他の女にも同じことを言っているのだ。なのにどうして彼女たちはそんな水輝を罵ったりしないのだろう。それが水輝にはよく判らない。
「束? ということはこれだけ?」
立城がにこにこと微笑みながら指を一本立てる。それを見た水輝は口許に浮かべていた嘲笑を消した。
「阿呆。誰がお前を抱くかよ。客にはそうしてるってだけの話だ」
くだらないやり取りだ。そう思いながら水輝はうんざりした顔をした。
「僕は客だけど?」
「うるせえな。客なら誰でも抱く訳じゃねえ」
「あれ? 気乗りしなくてもお金を出せば抱くでしょう? 今の君なら」
すらりと言い返されて水輝は言葉に詰まった。確かにこれまで、どんな客でも金を積まれれば抱いてきた。よっぽどの客の時には断っていたが、そんな客はこれまでに二人いただけだ。
「もう帰れよ、お前は。やりたいなら相手なんて幾らでも選び放題だろうが。何でわざわざこんなところまで来て」
「水輝に抱かれたいから」
恥ずかしがることも照れることもなく、立城が笑顔でそう言い切る。そこで水輝はさすがに切れた。冗談ならまだましだ。だがこういう時の立城は大抵、本気で言っているのだ。
「いいかげんにしろ! おれはお前の顔なんて見たくねえっつってんだよ!」
「あのー……」
唐突に第三者の声がする。水輝はぎらりと声のした方を睨みつけた。いつの間にかドアが開いている。そこから顔を覗かせていたのはフロア係だった。
「そろそろ閉店なんっすけど……どうします?」
「どうしますじゃねえよ。帰るに決まってんだろ」
思っていた以上に長い時間、ここに閉じこめられていたらしい。水輝は立城を見送ることもなくさっさとVIPルームを後にした。さすがに控え室まで水輝を追う度胸はなかったのか、立城は追ってこない。そのことに水輝は心底ほっとした。
くそ、と悪態をついて水輝はロッカーを乱暴に開けた。いつもなら楽しそうに談笑している同僚たちも、水輝が怒り狂っていることには気付いているのだろう。誰もなにも言わない。
奇妙な静けさに包まれた控え室でさっさと着替えを終え、タイムカードを押して帰途につく。店を出る間際に恐る恐る声を掛けてきた北原には大丈夫だと言っておいた。立城はどうせからかいに来ただけだ。
なのにどうして後を付いてくるのだろう。水輝はうんざりしながら小声で言った。
「何でついてくんだよ」
「アフターも買ったから」
「来ても入れねえぞ」
「何で?」
「入れたくないからに決まってんだろ」
そんなやり取りをしている間にマンションが見えてくる。水輝は我慢できずに足を止め、振り返った。
「いいかげんにしろって言ってるだろうが。おれは疲れてるんだよ、眠いんだよ、早く帰って休みたいんだよ。女を抱くなんてめんどくせえことしたくねえし、家にも入れたくねえんだよ」
深夜と言うこともあって周囲はしんと静まりかえっている。出来るだけ小声で水輝はそう並べ立てた。だが立城はにっこりと微笑んで言う。
「はい、札束」
銀行印のつかれた紙で留められた札束を差し出され、水輝はぎょっとして立城と札束とを見比べた。いつの間に用意したのだ。思わずそう問いそうになって水輝は慌てて口を手で覆った。立城のことだ。きっと事前にこの程度のことは予測して準備していたに違いない。
「これで文句はないよね?」
その場に立ちすくんだ水輝の手に札束を押しつけ、立城が微笑みを浮かべる。水輝は渋い顔で手にした札束をスーツのポケットに突っ込んだ。
「好きにしろ」
「うん、そうする」
笑顔でそう言った立城から目を逸らし、水輝は再び歩き出した。
水輝の仕事話がしばらく続きます。