悔しい悔しい悔しい。理子は床にぺたんと座って、あの黒い男が消えたところを睨みつけていた。急に現れたあの男は一体、何だったのだろう。考えれば考えるほど腹が立つ。
あの男の気配は異様に静かだった。まるで揺らがず、その上とても静かで、その気配はぴくりとも揺れない水面を思わせた。見慣れない気配ではあったが、和也が強いとは理子にはどうしても思えなかったのだ。
なのにあっさりと、本当に小指だけで刀を返されてしまった。そのことが理子にはショックだった。
これまでに負けたことは何度もある。いや、佑や水輝と刀を交えた時は負けたことしかない。が、それでも理子はある程度の自信を持っていたのだ。自分はあの二人の娘なのだ。だから強いに違いない。そんなあやふやで根拠のない自信を抱えていたことを、理子は和也に言葉ではなく行動で指摘されてしまったのだ。
もしかしたら、稽古をつけてくれていたあの二人も、実はもの凄く手加減してくれていたのではないだろうか。いや、それ以前に、自分は本当はとても弱く、戦う力などないのではないか。強いショックから理子は暗い考えに陥った。
「理子、ショックだった?」
由梨佳を静かに修理用の椅子から下ろした後、優一郎がそう言いながら理子に歩み寄る。理子はうなだれたまま、黙って頷いた。
「彼には感謝したほうがいい。だけど理子、彼の言葉は間違っているよ」
理子の傍に膝をつき、優しく肩に手を乗せた優一郎が言う。理子はのろのろと顔を上げ、涙に濡れた目で優一郎を見つめた。
「強さの比較なんてとても曖昧で、意味の無いものだからね」
「だって! 理子、ほんとは弱いのかも! 理子が思うよりずっと、弱くて……」
だから自分は戦う力などないのではないか。理子は言葉を濁して俯いた。鞘に入った刀を抱きしめて震える理子の頭を優一郎がぽんぽんとなでる。
「小指一本。その言葉に惑わされたよね。僕が、もし本気で勝つつもりで戦うなら、合わせ鏡を使っただろうね」
「鏡……?」
そう呟いてから理子は恐る恐る顔を上げた。優一郎はいつもと同じ、優しい笑みを浮かべている。
「あくまで例えばの話。理緒くんを呼び出した技を見たときの彼の動揺、覚えているかい?」
「そういえば……」
理子は唇に指を当てて考えを巡らせた。あの時、確かあの男は言ったのだ。とんでもない娘だな。そのことを思い出して理子ははっとした。もしかして鏡にはもっと別の使い方があるのかも知れない。いや、ひょっとしたら理緒を引っ張り出したことそのものも、いけないことだと怒られたが、実はあの男にとっては困ることなのかも知れない。
「真っ正面から格闘戦を挑んで勝つだけが勝利じゃないよ、それに、勝利の定義も状況によって変わるしね」
「うん」
でも理子は自分が不遜な自信を抱いていたことは確かだ、と小声で言った。その根拠のない自信故に、負けたことがこんなにショックなのだ。
「過信するのは良くない。だけど、自己を過小評価するのもダメだ。過信するよりは多少はマシだけどね」
「うん、判った。理子、もっとがんばる」
そう言って理子は頷いた。身の丈にあった自信、そしてそれに見合う実力を身に着ければいいのだ。
二人に気を使ったのだろう。由梨佳が何も言わず、静かに部屋を出て行く。理子は腕に抱いていた刀を宝珠に戻し、器にしまいこんだ。
「理子。それじゃあ、攻めにでようか?」
「え!? だってお外に出ちゃ駄目だって……」
唐突な優一郎の提案に理子は目を丸くした。すると優一郎がにっこりと微笑む。
「この城が、地下鉄に繋がっているのは知ってるよね?」
「うん……。もしかして地下鉄を使うの?」
それなら確かにあの男の言った『地上』ではないだろう。
「動きやすい服を着て。直ぐに出よう」
「え、あっ、はい!」
慌てて返事をして、理子はクロゼットに駆け寄って服を着替えた。慌ただしく身支度を整えた理子の手を優一郎がしっかりと握る。
「まずは専用ホームに向かうよ」
そう言って優一郎が理子の手を引いて部屋を出る。理子は足早に優一郎について歩いた。地下五階のフロアの奥、非常階段の横に金属製の扉がある。優一郎はそこを難なく開け、非常階段とは別の階段を昇り始めた。金属製の階段を上がると目の前に暗いホームの様子が見えてくる。
「もともとこの地下鉄道は、ある人物が、科学のために掘った地下トンネルを流用したものなんだ」
「かがくのため?」
理子は不思議に思って訊ねた。そう言えば、さっきも二人は変な会話をしていたような気がする。科学のためなら仕方ない。二人はそんなことを言ってはいなかっただろうか。
次々にホームに灯りが点く。
「それについてはまた話そう。車庫が開いた」
「あ、うん」
素直に頷いて、理子は優一郎について無人のホームを進んだ。やがて凸型をした黄色の可愛らしい機関車が現れる。車体にはこうじよう、と平仮名で書かれている。誰のセンスだろう、とぼんやりと考えながら、理子は車両がホームで止まるのを見つめた。
軽自動車ほどのサイズしかない機関車の扉を優一郎が手動で開ける。理子は手招きされて慌てて優一郎の隣に乗り込んだ。荷台のついた自動車を思わせる機関車がごとん、と揺れて動き始める。
「十分ほどで、目的地に着くから」
「ねえ、パパ。どこに向かってるの?」
まさか優一郎は直接に立城のところに向かっている訳ではないだろう。この地下に張り巡らされた鉄道がどこまで伸びているかは判らないが、立城のいる町はここから随分と離れていて到底、十分ほどでは着けないだろう。
「病院」
「病院?」
端的に答えた優一郎に理子は問い返した。それだけ言えば十分だと思ったのか、優一郎が黙って頷く。ふうん、と呟いて理子はぼんやりと窓の外を見た。暗い地下を機関車は走っている。
空の主。それは転じて殻の主、または洞の主と呼ばれる。何となく理子はそのことを思い出してはっと我に返った。洞とは木などの洞をイメージ出来るが、空洞のことも指す。もしかしてこの地下に張り巡らされた巨大な空洞は、まさに優一郎の二つ名を示しているのではないだろうか。
優一郎の属性の名の真骨頂というか。
空の主という名前の意味が出てきましたね。