水鏡に映る景色を見つめ、水輝はため息を吐いた。今日は何故かバレーボールをしよう、と言い出した奈月に付きあって、桜は空間の隅で二人でバレーボールを打ち合っている。律儀に夏用の体操着を着ようとした奈月を制し、水輝は奈月に冬用のジャージを渡した。その時に桜が何だか悔しそうな顔をしていたので、水輝は何となく桜の頭をどついておいた。
青い空間は今日も賑やかだ。
『あー……そうくるかー』
水鏡の中でのやり取りを見つめて水輝はぼそりと呟いた。水鏡にはとある病院の光景が映し出されている。やり取りをしているのは優一郎と理子、そして立城に和也だ。
『優一郎も、ずいぶんいい性格になったわよね』
『まあ、周りにいるメンツがメンツだからなあ。逞しくなったというか』
呟くように答えて水輝は腕を伸ばし、テーブルのティカップを取り上げた。今日は翠に差し入れてもらったハーブティが入っている。そして水輝の隣にはいつも通り、佑が腰掛けていた。
『おじさま!?』
優一郎と理子が居る地下の部屋に立城がひらりと飛び降りる。それを見た佑が声を上げた。水輝は目を細めてじっと水鏡を見つめた。理子は割れた鏡の破片の中に座り込んでいる。優一郎は立城と会話をしていて、和也は怒りの目で立城を見下ろし、そして。
彼らの居る地下の部屋にはベッドが落ちていた。青白い顔をした水輝と似た顔をした女がそこには横たわっている。
『わざわざ、優一郎の術中にハマりにいってどうするのよ!』
どちらの味方をしているのか、佑が素っ頓狂な声を上げる。そうだなあ、と間延びした返事をして水輝は茶を啜った。そうしている間にベッドに横たわっていた女がその場から消える。続いて理子が憤然と立ち上がり、立城を罵倒する。
まあ、そうなるよなあ。水輝は心の中でぼそりと呟いた。立城が微笑みを浮かべて理子を見つめている。
『あー、もう、この子ってば……』
『どうしようもないくらい、お前に似てるよなあ……』
感慨のない声で呟き、水輝は自分で茶のお代わりを注いだ。水鏡を佑は熱心に見つめている。水輝はのんびりと背もたれに身体を預け、いれたてのハーブティーを火傷しないよう、慎重に啜った。
聞かなくてもせりふまで判るぞ。水輝は内心でぼそりと呟いた。きっと立城はこう言うに違いない。
消えるのはあなたです。水輝がそう思った直後、水鏡に映る立城が一字一句違いない言葉を口に乗せる。その直後、部屋から優一郎と理子の姿が消えた。
大量の血を吐いて立城が床に膝をつく。水輝は目を細めてじっと水鏡の中の立城を見つめた。そうしつつも立城は声だけは平静に、二人に声を掛けている。あーあ、と呟いて水輝は静かにティカップを傾けた。
『おじさまって、やっぱりマゾ?』
『やっぱりって言うことは、前々からそう思ってたのかお前は』
感情のない顔で答えてから水輝はティカップをテーブルに戻した。和也と少し会話した後、立城が部屋を出て行く。そこまで見てから水輝はもういいだろう、と水鏡に映す場所を変えようとした。
水輝は……僕の傍にいるのが嫌だったのかな?
ふと、立城の声が聞こえて水輝は思わず吹き出した。不思議そうな顔をする佑に断りなく、水輝はさっさと水鏡に映す場所を移動させた。
『理子や優一郎の無茶に付き合う義理なんて無いのに。おじさまも何考えてるんだか……』
『そう言えば、優一郎に直接噛みつかれたのは初めてじゃないか?』
ふと思い出して水輝は水鏡を見つめた。そこには白い景色が映っている。立城に跳ばされた優一郎と理子が一緒にいるのが見える。
『本当ね。どういう心境の変化かしら』
『それだけ理子のことが本気ということか? それにしては急だな』
口許に手を当てて水輝は呟いた。そうしているうちに二人の傍に何故か和室が現れる。一組の布団に枕が二つ。あからさまな光景を見て水輝はぶっ、と吹き出した。なるほど、と頷いて頭をかく。
『優一郎は、動くとなったら早いわよ。決断するまでは遅いけど』
『なるほどな』
不意に白い空間に四角い窓が開く。そこから顔を覗かせた少年を見て水輝は深々とため息を吐いた。二人が紛れ込んだのは別の空間にある世界だ。理緒という名の少年に呼びかけられて二人が白い空間を出る。
やれやれとため息を吐いた水輝は頭を押さえた。
『面白いわねえ。平行世界かー。いいなあ理子。わたしには鏡の性質はない……あっ!』
声を上げた佑がちらりと空間の隅に目をやる。そこには楽しそうにバレーボールをしている二人がいる。やめておけ、と軽く佑の頭を叩いてから水輝は水鏡に目を戻した。
穏やかな景色がそこには映っている。どうやらそこはこちらとは多少、季節が違うらしい。春色の優しい色合いに包まれた庭の光景が映っている。
『ほんとに平和そうね……』
『ああ、そうだろうな。何しろ荒らして面白がるおれがいない』
さらりと言ってから水輝は背もたれに深く寄りかかった。水鏡を見つめていた佑が不思議そうに首を傾げる。
『水輝さんのせいじゃないっていうか、水輝さんいなかったらこっちはずっと前に終わってたと思うんだけど』
『だから前から言ってるように、おれが例えばいなくても代わりが出るから維持はされたと思うぞ。っと……あー……ほらみろ、そんな話してるから』
ぶん、と低い羽音のような音が鳴り、水鏡にノイズが入る。水輝は頭を抱えて深々と息を吐いた。
『愚痴りに来たのかしら……』
『その方がまだましだったな……』
ぼそりと呟いて水輝は身体を起こし、目を細めて水鏡を見た。やがてノイズが増え、水鏡を覆った後に急にクリアになる。白衣を着た涼しげな目をした男性に向かって水輝は軽く手をあげた。
『久しぶりだな、総一郎先輩』
『吉良博士? どうやって! ……って愚問ね……』
ふっ、と疲れたような笑いを浮かべて佑が横を向く。水鏡に映った総一郎が水輝と佑とを見比べてうむ、と頷く。
『水輝君。ご無沙汰している。元気そうで何よりだ』
そう言って総一郎が満足そうにうむうむ、と頷く。水輝は頭をかいてため息を吐いてから、水鏡に目を戻した。
『あー……。まあ、元気は元気だけど、急になんだよ?』
嫌な予感を覚えつつ、水輝はうろんな目で総一郎を見た。どうもいつになっても総一郎は苦手だ。何となく頭が上がらない気分になって水輝は少し俯き、上目遣いに水鏡を見やった。
『うむ。時空臨界面の活性状態が危険な兆候を示しているのだ。可能な限りの対処はしているがこちらの現状の設備のみでは抑えきれない状況になっている』
『あー……』
予測通りのことを言われて水輝はがりがりと頭をかいた。理子と優一郎があっちに紛れたことで、こちらの世界の空の主の座は急に離席になってしまった。それだけならまだいいのだが、あれだけのものをいきなり放り込まれたために、向こうの世界のバランスも崩れている。そうなるとどこかでバランスをとってやらなければならないのだが、あまりにも大きな力が急に動いたために、平行世界全体が揺らいでしまっているのだ。
『うー……うー……あー……』
水輝はがっくりとうなだれて低い声で呻いた。
『鏡面属性を持つ人材を貸し出してもらいたい。本人に交渉したところ君が自分の所有者だと返答を貰えなかった』
そう言って総一郎が重々しく頷く。水輝は慌てて頭を上げ、いやでも、と小声で呟いた。
『えーと、総一郎先輩でも何とかならないっすかね?』
愛想笑いを浮かべて水輝は何とか食い下がろうとした。
『うむう。それならもう一人の維持管理に必要な根の者の確保はさらに無理そうだな。鏡の者のほうはそちらの時間で三日ほどで仕事が終わるが、根の者の仕事は何時終わるとも知れない。最短の予測でもそちらの時間で一年はかかるからな』
うむう。どうするか……。難しい顔をして総一郎が言う。水輝はがっくりとうなだれて判りましたよ、と小声で呟いた。
『判りました、判りました! 奈月ですね!?』
やけくそ気味に叫んでから水輝はがりがりと頭をかいた。それからふと、眉を寄せて水輝は恐る恐る総一郎を伺い見た。
『あの……上から何か言われたりとか、した?』
『何をだ? このような些細な問題でいちいち干渉していては効率が悪いだろう』
『そ、そうだよな、あー焦った』
ほっと息を吐いて胸をなで下ろしてから、水輝はバレーボールに興じている奈月を呼んだ。ボールを抱えた奈月がぱたぱたと水輝の許に駆けてくる。その後ろに桜が付き従う。
『あの水輝さん! わたし……』
複雑な顔をして奈月が口を噤む。世界のためには行かなければならないが、水輝の傍に居たいという自分の気持ちは悪なのだろうか。いやでも、自分で決めた方がいいのだろうか。そんな奈月の思惟が丸見えになって水輝はぐっ、と言葉を詰まらせた。
『あー……ええと、すまないんだけど、総一郎先輩に協力してもらえるかな? 三日ほどで済むらしいし……』
水輝は頬を引きつらせてそう言ってみた。すると奈月が唇に指を当てて少しの間、黙る。
『はい! 行ってきます!』
ぺこりと奈月が頭を下げる。その瞬間、奈月の姿はその場からかき消えた。姫様ー! と桜が素っ頓狂な声を上げる。お前も行け、煩い。そう言ってから水輝は桜に向かって力を放った。その直後、桜がその場からかき消える。
『えーと、他にまだなにか?』
水輝はぎこちない愛想笑いを浮かべて総一郎を伺い見た。すでに奈月は総一郎の後ろに居て、こちらに向かって手を振っている。その傍では桜が焦ったように周囲を見回している。
『うむ。以前に話した予測通りなのだが、良い感じでトリガーが引かれたようだ。少なくとも龍宝珠界は軽微な影響でとどまるレベルで安定を維持するだろう。最悪の状況は免れたと言っていい』
『それは……良かった』
本心からそう言って水輝は微かな笑みを浮かべた。ほっと息を吐いた水輝はふと視線を感じて何気なく佑を見た。佑は少し眉を寄せて怪訝そうに水輝を見ている。水輝はとりあえずはそれを無視し、水鏡にまた目を戻した。
『じゃあ、このままでいいよな?』
にっこりと笑って水輝は総一郎に問い掛けた。
『うむ。念を押すが水輝君は可能な限りそこに留まって居てくれたまえ。それと特異点の君! 悪い気を起こしてはいかんぞ! 特異点は当分の間、ひとつで問題無い』
そう言って総一郎が鏡の中からびしりと佑を指差す。佑は不思議そうな顔をして自分を指差して首を傾げてみせた。水輝は慌ててなんでもないなんでもない、と口早に言い、佑の肩をばんばんと叩いた。
『いやあ! 何でもないぞ、佑! 気にするな!』
はっはっは、と乾いた声で笑ってから、水輝は慌ただしく水鏡の方を見て、片手を上げた。
『それじゃ! 総一郎先輩! また!』
『うむ』
重々しく頷いた総一郎の姿が、ノイズにかき消される。そのすぐ後、水鏡には元通りに平和そうな景色が映し出された。水輝は腹の底から深いため息を吐いてぐったりとソファに突っ伏した。
水輝は総一郎さんに勝てません……。