はっと目を開いた水輝は慌てて身を捩ろうとして、下腹部に走った強烈な痛みに息を飲んだ。呻きながらベッドに沈み、シーツを無意識にかき寄せる。
「駄目ですよ、動いては。まだ休んでいないと」
穏やかな女の声が間近に聞こえ、水輝は慌ててそちらを見た。
「何してやがる!」
「だから、動かないでください」
水輝が飛ばした蹴りを素早く手で受け止めて女が微笑む。水輝は歯軋りしてベッドの上でじりじりと女から離れようとした。だが女がそんな水輝の足をつかみ、あっさりと元の位置に引き戻す。その途端に強烈な痛みに襲われ、水輝は呻きを上げて全身を緊張させた。
「大人しくしてください。大丈夫。取り替えているだけですから」
水輝は何故か足を開いた格好をさせられていた。離せ、と暴れようとする水輝を女が力任せに押さえつける。
立城がきっとまた女の格好をしているに違いない。そっくりな顔をした女を水輝は何とか蹴ろうとした。が、女はひらりと水輝のかかとを避ける。
「とりあえず、産褥用のではありませんが、ナプキンはつけておきました。こまめに取り替えましょう」
「うるせえ! おれに触るな!」
「出産したばかりなのでしょう? あまり動くと身体に響きますから」
元通りに水輝に専用のショーツをはかせ、パジャマのズボンを穿かせたところで女が身を起こす。そこで水輝は訝りに眉を寄せた。
違う……? どこが、という訳ではないが、女は立城と違う気がした。立城によく似ては居るし、気配もそっくり同じだ。なのにどこかが違っている気がする。
「……誰だ、お前」
「わたしは立城といいます。でも、きっとあなたの知る人とは違いますね」
優しげな微笑みを浮かべ、立城と名乗った女が水輝の傍に腰掛ける。水輝は疑いの眼差しで立城を見た。
「あなたに別のわたしの気配を感じますから」
「なに、訳わかんねえことを……」
そう言ってから水輝は何気なく周囲を見回した。見覚えのない部屋の様子が目に映る。広々とした部屋は落ち着いた内装を施されていて、窓は大きく明るい日の光が射し込んでいる。毛足の長いじゅうたん、豪奢なシャンデリア、シックだが高そうな絵画。立城の屋敷で見かけそうなものばかりなのに、見覚えのあるものが何一つない。
そんな部屋の中に病院のパイプベッドが一つ。その上に水輝は横たわっていた。腕には点滴までついたままだ。
「あなたが急にわたしの部屋に落ちてきたんです。少しびっくりしましたよ」
くすりと笑って立城が優しく水輝の髪を撫でる。水輝は顔をしかめて邪険にその手を払った。
「勝手にさわんな」
「おやおや。怖いですね」
くすくすと楽しそうに笑って立城が立ち上がる。手洗い用の洗面器を抱えて立城は静かにベッドから離れた。
「いま、食事を持ってきます。少し待っていてください」
「誰が飯なんか」
「駄目ですよ。出産後はきちんと食事をとらないと」
それじゃあ、と笑って立城が部屋から出て行く。水輝はしかめ面をして身体の力を抜いた。
窓から見える景色にぼんやりとした目を向ける。どうやらここは自分の居た世界とは違う場所らしい。そういえば誰かが何かを言っていたような気がする。
別の世界に行きたくありませんか。
聞き覚えのある声で紡がれた言葉を思い出して水輝は少しだけ笑った。もしかしたら行きたいと自分は答えたのかも知れない。だがはっきりとその辺りのことを思い出すことが出来ない。
しばらくして予告通りに立城が部屋に戻ってきた。身動きがままならない水輝の上半身を支え、ベッドに起こしたところで立城が椅子に腰掛ける。
「病人食では足りませんからね」
立城がテーブルに並べたのは数々の料理だった。水輝は目の前に並べられた料理を見て目を丸くした。
「これ、全部食うのか?」
「食べられるだけで構いませんよ。本当は赤ちゃんにお乳をあげるために身体が欲するんですけど、残念ながらここには赤ちゃんは来ていないですし」
そう言われて水輝は何気なく立城を見た。ふうん、と答えてからテーブルに目を戻す。白い炊きたてのご飯に魚の煮付け、海苔の佃煮、油揚げの入った味噌汁、漬け物、野菜サラダなどの料理がずらりとそこに並んでいる。
「どうぞ」
「まだ食うって言ってねえだろうが」
「でもほら」
箸を差し出した立城がくすりと笑う。次の瞬間、水輝の腹の虫が音を立てる。水輝はしかめ面をして立城の手から箸を乱暴に奪い取った。ふん、とそっぽを向いて食事をし始める。
黙って食事を平らげてから、水輝は出された茶を啜った。少しだけ痛みが和らいだような気がする。水輝の肩に薄いカーディガンをかけながら、立城が優しい声音で言う。
「命を取り留められて良かったですね。どうやらあなたは危険な状態だったようですから」
「うるせえな」
大きなお世話だ、と呟いて水輝は湯飲みに視線を落とした。立城がいれてくれた茶は何故か水輝に合わせてあるらしく、猫舌用に少し温くなっている。
「何で……生きてるんだろう……」
湯飲みの中を見つめて水輝はぽつりと呟いた。苦しくて、痛くて、でもどうしても腹にあるものを出したくて、けれど思うように出てくれなかったあの時、死を確信した。出産に伴う苦しみや痛みではない、もっと別の種類の予感があった。そして実際、子供が産まれた後に水輝は大量に出血して意識を失った。
なのに死んでない……。水輝は顔を強ばらせて考えを巡らせた。あの時に始末されるんだろうと思ったのに。
「生きているのが辛いですか?」
ふと、立城がそんなことを訊ねる。それが自分の知る立城と違うと判っていて、水輝はぼそりと呟いた。
「殺せって言ったのに」
「でもあなたは生きている。それはあなたが本当は生きたいと思っているからじゃないんですか?」
ベッドの端に腰掛けて立城が穏やかに言う。うるせえ、と呟いて水輝は茶を飲み干した。立城が苦笑をして水輝の手から湯飲みを取り上げ、急須からお代わりの茶を注ぐ。
「いつまでもあなたと呼ぶのもおかしいですね。かと言って、水輝と呼ぶわけにはいかないでしょうし」
それを聞いた水輝ははっと目を見張って慌てて立城を見た。湯飲みの八分目まで茶を注いでから、立城がそれを水輝に差し出す。
「ここでその名を呼ぶと、呼びかねませんので」
「あ、いや、でもおれは」
湯飲みを受け取りながら水輝は言葉を濁した。そんな水輝の背を優しく労るように撫でて立城が微笑む。
「沙耶さん、とお呼びしましょう。大丈夫。ここには違うわたしは居ませんから」
驚愕に息を飲んで水輝は立城を見た。だが立城は人好きのする微笑みを浮かべているだけだ。水輝……沙耶は顔を歪めて力なくうなだれた。そんな沙耶の背を撫でながら立城が大丈夫ですよ、と囁きかける。
「ここはわたしの城。他には誰もいませんから、聞く人もいません。安心していいですから」
さあ、休みましょう。そう言って沙耶の手から立城が湯飲みを取り上げ、そっと身体を押す。されるがままにベッドに横たわり、沙耶は布団を頭まで被った。布団の中で声を殺して泣く沙耶を、立城はしばらく黙って見つめていた。
この辺りからかなりややこしくなります。