冷たい雨の降る夜
冷たい雨が降り続いていた。黒い雨雲から落ちる雨に濡れながら少年は道端にうずくまっていた。どこを通って、どれだけ歩いたかよく覚えていない。ただ、とにかく遠くに行かなければならないことだけ判っていた。
さっきまで賑わっていた周囲の店ももうシャッターを閉めてしまっている。繁華街の一角で座り込む少年を時折、物珍しそうに通りかかる人が眺めていく。だが視線を感じるたびに少年は剣呑な眼差しで相手を睨み返した。すると相手は慌てたようにそそくさとその場を後にするのだ。
全てがどうでも良かった。降り続ける雨に溶けて消えてしまえればいいのにとも思った。なのに冷たい雨は衣服や身体を濡らすだけだ。
ふと視線を感じて少年は膝に埋めていた顔を上げた。これまでと同じように相手を鋭く睨み返す。少年の前で足を止めていたのは一人の中年男性だった。やけに高そうなスーツとコートに身を包んだ男性の脇には柄の悪そうな男が二人。片方が中年男性に傘を差し掛け、もう片方の男が凄みのある目で少年を睨んで懐に手を入れている。
「まあ待て」
今にも少年に向かって行きそうだった柄の悪い男を制し、中年男性が一歩歩み出る。少年はぎらりとその男性を睨みつけた。
「なかなかいい目だ。どうだ、私のところで働いてみないかね?」
「し、社長!」
中年男性の後ろで柄の悪い男が二名、声を揃えて叫ぶように言う。すると中年男性はゆらりと振り返って二人に低い声で言った。
「私のすることに文句があるのか?」
「い、いえ、そういうわけじゃあありませんが」
ばつの悪そうな顔をして男たちが黙り込む。少年は深く息を吐いて彼らから目を逸らした。どうせまた物珍しいからと声を掛けているだけだろう。こうして無視していればそのうちに飽きてどこかに行くに違いない。
不意に何かに顎をつかまれる。少年は呻きを漏らして伏せかけていた顔をあげた。中年男性が強引に少年の顎をつかんで上向かせたのだ。
「何が欲しい? 金か? それとも女か? 薬でも何でも好きなのをくれてやるぞ?」
「別に」
欲しいものなんて何もない。少年は捨て鉢に言って男性の手を邪険に払った。すると何故か中年男性は怒るどころか豪快に笑い出した。
「大した器だ。どうだ? 私のところに来ないか?」
「煩いな。さっさと消えろ」
眉を寄せて告げてから少年は元通りに組んだ膝に顔を伏せた。中年男性が振り返って所在なげに立っていた男の一人から傘を奪い取る。慌てた声を上げた男を余所に、中年男性は少年に傘をさしかけた。
「私はお前のような綺麗な少年を抱くのが好きでね」
「社長!」
周囲に聞かれたらまずいとでも思ったのか、中年男性の背後で男たちが素っ頓狂な声を上げる。だが中年男性はそれを無視して言葉を継いだ。
「私が望む時に相手をしてくれれば、好きなことをさせてやるぞ?」
それを聞いた少年はのろのろと顔を上げた。何だ。ホモかよ。そう呟いた少年に中年男性がにっこりと笑いかける。少年はため息を吐いて中年男性を見上げた。
「どうもあんたみたいに言ってくる奴が多いんだが、そんなにおれはやりたそうな顔をしているか?」
疲れた顔をして少年は抱えた膝に顎を乗せた。さっきから傘に雨が遮られているためか、濡れた服に包まれた身体がやけに冷たく感じられる。
「どうせ行くところなどあるまい?」
少年に合わせてその場にしゃがみ、中年男性が笑みかける。どんなに高価な服を身に着けていても、その男性から漂ってくる血なまぐさいものを少年は感じ取っていた。どうせこの男はろくなことをして生きては居ない。きっとこいつにかかって死んだ奴も多いのだろう。そうは思ったが、コートの裾が濡れるのも構わずその場にしゃがみ込んだ中年男性に少年は少し興味を覚えた。
「まあな。でも別にどうでも良かったし」
「どうでもいいなら、私の提案に従ってみるのも悪くなかろう?」
少年の言葉に男性がすらりと言葉を返す。少年はじっと男性を見上げた。傘に当たる雨音がやけに煩い。男性の後ろではらはらしている男たちもうっとうしい。この状況が早く終わるなら、別にこの男性の言うことを聞くのも悪くないように思えた。
ゆらりと立ち上がった少年に合わせて中年男性が腰を上げる。少年が立ち上がったことが了解の返事だと受け取ったのだろう。中年男性が静かに問う。
「名前は」
「水輝」
少年はそう名乗って歩き出した。中年男性が男たちに声を掛け、水輝に並んで歩き出す。水輝はちらりと中年男性の後ろを見返った。二人の柄の悪そうな男たちが慌てた様子で追いかけてくる。その男たちの懐からちらりと銃が覗いたのを水輝は見逃さなかった。
「あんたヤクザ?」
「前時代的な名称は嫌いでね。私は紫藤栄介という。これでも会社を持っていてね。紫藤でも社長でも好きに呼びたまえ」
「ふーん」
紫藤と名乗った男性を横目に見てから水輝は適当に返事をした。