標。多輝は難しい顔で口の中で呟いた。すると意識の奥でせせら笑うような気配がする。少し不快感を覚えた多輝は唇を尖らせてそっぽを向いた。だが、話をしている同居人Aはこの場にはいないのだ。どこを向いても顔を背けたことにはならない。多輝は情けなさにため息を吐いて籠から取り上げたおむつを由梨佳に手渡した。
『そ、標ってのは画期的なシステムだったんだよ』
あれから随分と月日が流れた。多輝はだがあの時の優一郎が何を読み、そして同居人たちが何を納得したのかを未だに理解していなかった。手早くおむつを変えた由梨佳が今度は下着を要求する。多輝はええと、と籠の中を探して薄い子供用の下着を取り上げた。
最初に抱いた時には壊れそうな印象があった。手足がとても細く、泣き声もか細かった。だが今ではその子供もよちよち歩きが出来る程度にまで成長している。かつての翠を思うとその成長は遅いくらいかも知れないが、人の子と比べると変わりないのではないだろうか。
この子供の名前は理子という。あー、と嬉しそうに笑って声を上げ、理子が由梨佳に手を伸ばす。小さな手は握ると指が折れてしまいそうだ。
『例えばお前なら標は由梨佳さんだった。で、お前はちょっと変わってて自分自身も優一郎の標で……っておい。そこで顔を緩めてどうする』
途中で同居人Aの声に呆れた響きが混ざる。多輝は我慢できずに身を乗り出し、理子の差し伸べた手を取った。うわあ、可愛い。思わずそう呟いた多輝に由梨佳がにっこりと微笑む。
「すっげえ、手とかちっちゃくて、うわっ、ほっぺたぷにぷに」
理子の愛らしさに思わず目を潤ませて多輝は何度も頷いた。指でつつかれた頬がくすぐったいのか、理子が明るい声で笑う。それもまた可愛い。多輝はううう、と呻いて口許を手で覆った。
可愛すぎ。理子が水輝と佑の子供だということも忘れ、多輝は感慨に耽った。理子の顔立ちは当然愛らしいし、子供らしいバランスの悪い体型といい、笑い方といい泣き方といい、全部が可愛くて仕方ない。
『……おい。苺はロリータ属性でもあんのか?』
目を潤ませて理子を見つめる多輝を余所に同居人たちがひそひそと話をする。
『いえ、わたくしの知る限りそんなことは……』
『だって見ろよ、これ。いくらなんでも溺愛しまくりだろ』
「うるせえな! 可愛いものは可愛いんだよっ」
理子を驚かせないように小声で言ってから多輝は傍にあった積み木をとった。ぺたんと床に座った理子が嬉しそうに積み木を左右の手に握り、それを軽くぶつけて音を立てては笑う。
ここは地下四階に設えられた理子の専用の部屋だ。壁や天井には鮮やかな色彩の絵が描かれている。天井には空と雲と飛行機が、壁には愛らしいデフォルメされた動物がいる。ふんわりとしたマットの敷かれた床に座り込み、多輝はにこにこと笑いながら理子の遊びの相手をした。
「理子ちゃんは、多輝おねえちゃんが好きなのよね?」
傍に座っていた由梨佳がにっこりと笑う。すると理子は嬉しそうに笑って積み木を握った手を得意そうに多輝に見せた。理子は周りの子供に比べると言葉が遅いのだが、こちらが何を言っているのかは少しは判っているようだ。理子の前に座り、一緒になって積み木を積んでいた多輝は感動に目を潤ませた。
「まじで!? うわ、すげえ嬉しいかも。由梨佳ママの次くらいか?」
満面に笑みを浮かべて多輝は理子の手を取った。はしゃいだ声を上げてから理子が由梨佳を見てまーまと言う。唯一、理子がいま喋れるのがこのまーまという言葉なのだ。
「ね?」
「あー」
にっこりと笑った由梨佳に笑みを返して理子が手にした積み木を打ち合わせて鳴らす。どうやら今日は特に機嫌がいいらしい。多輝は床に腹ばいになり、木で出来た積み木で家の形を作り始めた。すると理子が手にしていた積み木で作りかけの家を叩いて壊す。それがどうも楽しいらしい。そうかそうかと笑って多輝は何度も積み木を積んだ。
『……判らん。おれには判らない世界だ』
『そういえばA様はお子様は苦手でいらっしゃったような……』
『触り方がわかんねえんだよ。ほらみろ。壊すだろ? 何で笑うかな、そこで』
頭の中で同居人たちがぶつぶつと勝手なことを言っている。だが多輝はそれを無視して理子の相手をし続けた。
「多輝くん、私は夕飯作ってくるから」
静かに立ち上がって由梨佳が言う。判ったと頷いて多輝は由梨佳に手を振った。機嫌良く理子が遊んでいるからだろう。由梨佳が理子に気付かせないようにそっと部屋を出る。ここで理子が気付くと全てが台無しになってしまう。何しろこの頃の理子は由梨佳の後追いが激しく、少しでも由梨佳の姿が見えないことに気付くと急に鳴き始めるのだ。
これなら大丈夫かな。多輝はそう心の中で呟いてまた積み木を並べ始めた。今度はお城だぞと笑って色んな形の積み木を積む。だがやっぱり理子は途中で景気よく積み木を手で払って出来かけの城を壊してしまう。多輝はそんな理子に笑いかけ、また一から積み木を並べる。その繰り返しだった。
いつの間にか窓の外が暗くなる。さすがに春が終わりかけているとは言ってもこの時間だ。多輝は壁にかかる時計を見上げて理子に積み木を片付けようと言った。どうやらおなかは空いているらしい。理子は大人しく頷いて木箱のなかに積み木を一つずつ入れ始めた。
同居人Aが優一郎に力を使わせ、立城の動向を探ってから半年が過ぎた。だが特に多輝の生活が変わった訳ではなかった。強いて言えば優一郎の時間に少しだけ余裕が出来ただろうか。
たどたどしい動きで小さな手が積み木を一つ、また一つと木箱に戻す。それを見て多輝は奇妙なことに気が付いた。理子は多輝が言ったわけでもないのに積み木の形をきっちりと揃えて箱に収めているのだ。
「理子?」
「あー」
言葉にならない声で返事して理子がにっこりと笑う。多輝は目を丸くして理子と木箱を見比べた。
「すっげえ! 理子、天才!」
誰に教えられるでもなく、自分からきちんと整頓して積み木を納めている理子を見て、多輝は思わず歓声をあげた。勢いよく身体を起こし、不思議そうな顔をしている理子を抱き上げる。
きっと将来は有望だぞ、とべた褒めしながら多輝は部屋の中をスキップして回った。腕に抱かれた理子が多輝のステップに合わせて身を弾ませ、明るい笑い声を上げる。多輝が床を蹴って軽くジャンプすると、ウェーブのかかった理子の銀色の髪が一緒になって揺れる。
しばし理子と一緒にはしゃいでから、多輝は後片付けを再開した。理子がにこにこと笑って積み木を箱にしまいこむ。多輝は一緒になって片付けながら理子が初めてここに来た時のことを思い出した。
あれは随分と空が暗い日だった。あの頃の多輝はまだベッドに伏せっていたころだ。テレビで放映されたニュースの中に暗い空が映っていたのがやけに印象的だった。世間は急に大量に溢れた魔に対応出来ておらず、報道番組も内容が途中で何度も変更になるほどに慌ただしかった。
以前、どこぞのネトゲで複数のアカウントで販売をしてまして。
その時につけたキャラの一人が理子という名前でした。
なつかしー(棒読み