そんな折、由梨佳が腕に赤ん坊を抱いて現れた。ベッドに横たわっていた多輝は青白い顔をして由梨佳に抱かれた赤ん坊を見た。銀色の巻き毛の愛らしい女の子だった。触れると壊れてしまいそうなほど身体は小さく、そのことが多輝にはとても不思議に思えた。
赤ん坊の名前を知ったのは少し後だった。理の子と書いて理子というのだと説明してくれた由梨佳の目はとても優しかった。理子は由梨佳の腕の中ですっかり安心しきっているように見えた。
やがて多輝がベッドで何とか食事をとれるようになった頃、理子も少しずつ離乳食を口にするようになった。一人きりで寝ているのは寂しいと多輝がせがむと、由梨佳は苦笑をしつつも理子を連れて多輝の許を訪れてくれた。一緒に遊んだりするのは無理だったが、多輝は理子が由梨佳と遊んでいるのを見るのが好きだった。苦しい日々が続いてはいたが、理子を見ると心が和んだ。
「うああ、やっぱり可愛いよなあ……」
当時のことを思い出しながら多輝はしみじみと呟いた。何で同居人Aは理子を見ても何とも思わないのだろうか。そんなことを考えていた多輝の脳裏に声が響く。
『別に何も思わないって訳じゃないんだけどな。子供をどう扱っていいのかよく判らないんだ』
同居人Aが珍しく真面目なことを言う。それを聞いた多輝は訝りに眉を寄せた。
『下手に触ると壊してしまいそうだしな』
「は?」
壊す、と呟いてから多輝は何となく理子を見た。理子は多輝に言われた通りに片付けをしている最中だ。多輝はそんな理子をしばし見つめてから、試しに同居人Aが理子を抱いているところを想像しようとした。
……無理だった。多輝は苦悩をしつつ床に手をつき、がっくりとうなだれた。何故だろう。同居人Aが理子を抱き上げているところがどうしても想像できない。もしかして想像力が貧困だからなのだろうか。
『阿呆。もう少し想像に幅を広げてだな……そうだな。理子が成長したところを考えてみろ』
含み笑いをして同居人Aが言う。混乱していた多輝は言われるままに理子が成長したところを想像した。幼稚園に通う理子。小学校に通う理子。中学、高校……。そこまで想像した多輝は慌てて身を起こし、力一杯首を横に振った。
何故だろう。幼児の理子を抱き上げている同居人Aは想像できないのに、成長して美しい少女に成長した理子が同居人Aに別の意味で抱かれているところは想像できる。
「駄目だからな!」
これでもか、というほど力をこめて多輝はきっぱりと言い切った。すると頭の中に小さな笑い声が響き、やがてその声は大きくなった。爆笑しはじめた同居人Aを同居人Bがなだめにかかる。
多輝は恥ずかしさと悔しさに真っ赤になって唇を引き結んだ。頭の中では二人が勝手なことを言い合っている。それを無視して多輝は理子に目を戻した。
「うー」
少し眉を寄せて理子が上目遣いに多輝を見つめる。その視線を受けて多輝は慌てた。
「いや、あのな、違うぞ? 別におれはその、理子が可愛くて綺麗になるのはいいんだけど、ええと、何て言うか」
相手がまだ幼い子供だと言うことも忘れ、多輝は不埒な想像に及んだ言い訳をしようとした。そこで背後からくすりという笑い声が聞こえる。想像することに集中していた多輝はやっと気配に気が付いて慌てて振り返った。いつの間に部屋に入ってきたのだろう。ドアのところに優一郎が立っている。
少し機嫌の悪そうな顔になっていた理子がぱっと笑顔になる。理子はたどたどしい動きで立ち上がると優一郎の方へと歩き出した。理子の歩き方は相変わらず不安定でとても危なっかしい。身体を少し前に倒し、重みの移動に従って足が出ているという感じなのだ。だから勢いがつくと必ず転ぶ。
「あああぁ、理子、転ぶなよっ」
助けては駄目だ、助けては駄目だ。呪文のように自分に言い聞かせて多輝は手を出したいのを懸命に堪えた。以前、歩こうとした理子に横から手を出して抱いてしまって由梨佳に叱られたことがあるのだ。
よたよたと小さい足で歩きながら理子ははしゃいだ声を上げる。だが多輝はそんな理子をはらはらしながら見守った。優一郎は部屋の入り口にしゃがみ込んで理子が辿り着くのを待っている。
「ぱーぱ!」
明るい声で理子が言う。それを聞いた瞬間、多輝は目を見張って理子に駆け寄った。反射的に抱き上げようとした自分を必死で制し、多輝は理子の後ろをついて歩きながら喜びに顔を緩めた。
「聞いたか!? 今の! 優一郎のこと、パパって呼んだぞ!」
小さな手が優一郎の手に触れる。一人で優一郎のところまで歩けた理子に多輝は惜しみない拍手を送った。理子を軽々と抱き上げた優一郎が苦笑を浮かべる。
「理子さん。違うよ君のパパはこの人」
目で多輝を示してから優一郎が理子の額に軽く口づける。それを見た多輝は悲鳴のような声を上げた。
「あああ! いくら優一郎だからって、駄目だぞ! いや待て、父親が額にちゅーするくらいは別に普通なのか」
悶々と考えを巡らせながら多輝はその場にしゃがみ込んだ。理子がはしゃいだ声を上げて優一郎の頬を手で触る。
「だから、僕のことはおにいさん。って呼んでくれると嬉しいな」
にこやかな笑みを浮かべて優一郎が言う。だが理子は嬉しそうに笑いながらぱーぱ、ぱーぱと何度も呼ぶ。そのうちに諦めたのか、優一郎は理子の呼びかけを否定しなくなった。
「うう、理子って天才だよなあ、賢いよな、こんなに小さいのに凄いよ」
心底、感心しながら多輝は目尻に浮かんだ涙を拭った。感動しすぎて涙が出てしまったのだ。
「この娘は、理子、だからね」
「え?」
急に真面目な顔になって言った優一郎に驚き、多輝は声を返した。だがすぐに優一郎が元通りに微笑みを浮かべる。
「理子さん。面白がるのもいいけどほどほどにね」
にっこりと笑いつつも優一郎が理子の頭を強めに撫でる。銀色のふんわりした髪を押さえられた理子が難しそうな顔をして優一郎の手を避ける。多輝は慌てて立ち上がり、優一郎の手を理子の頭から退けた。
「おい、そんなに強く押さえたら痛いだろ?」
「あー」
理子が不服そうな声を漏らして優一郎の顔をぺたぺたと手で触る。そんな理子を見つめていた多輝はあっと声を上げた。理子が軽くすぼめた唇を優一郎の唇にくっつけたのだ。
「こら! 優一郎! 避けろよ!」
だがそんな多輝の悲鳴を無視し、優一郎が理子の頭を片手に支えて口づけを返す。多輝は慌てて優一郎の頭をぶん殴った。
「うわあああ! マジでちゅーするやつがあるか!? 理子、気を確かに持て!」
力任せに優一郎の頭をつかんで理子から引き剥がす。続いて多輝は優一郎の腕から理子を奪い取った。きっと何が起こったのか判らないのだろう。目を丸くしている理子をよしよしとあやす。
「多輝。もしかして、嫉妬した?」
優一郎がくすくすと笑う。理子を隠すために優一郎に背を向けていた多輝は慌てて振り返った。
「ばっ、ばか! そんな訳があるかよ!」
相手は小さな子供なのだ。多輝は真っ赤な顔をしてしばし言い訳を試みた。だが上手い言葉がどうしても出てこない。
由梨佳が用意してくれた夕飯をみんなで一緒に食べた。広い食堂のテーブルにはベビー椅子がきちんと用意されていて、理子はいつもそこで離乳食を食べる。夕飯が終わると理子と由梨佳と多輝は三人で風呂に入る。理子の身体を洗うのはいつも由梨佳で、他の誰かが手を出すと理子は必ずへそを曲げてしまうのだ。
赤ん坊のやることはよく判らん、というのは水輝に同意w
箸が転んでもおかしい年頃、とはよく言いますけども、あれはもうちょい年齢層高い気がしますね。