あれからラスティは失神したままだった。何故かやけに機嫌が良くなったらしい常磐は、とりあえずは順をここに置くことを約束した。ラスティの濡れた身体を拭いたり、寝間着を着せたりといったことは常磐に任せ、順は風呂をもらって早々に床に就いた。
順には客室の一つがあてがわれた。その部屋は小さかったがベッドや衣装入れがきちんと置かれていて、何の不自由もなく寝起きが出来るようになっていた。周囲が寝静まった後、順はこっそりと窓から部屋を抜け出した。
「何だかなあ……」
さっきまでラスティが暴れていた小川の前に座り、順は煙草を吸い始めた。魔法の灯りはもう消えていて周囲は暗い。家の灯りもとうに落ちている。暗がりの中に煙草の火が揺れる。そして順の身体は微かに紅の光を帯びていた。
ため息混じりに煙を吐き、順は自分の手を見下ろした。微かに震える手を握りしめる。
いつになったら向こうに戻れるか判らない。実際、帰る方法は幾らでもあるのだ。力が完全に戻れば翠宝珠を介して界を渡ることも可能だし、何なら総一郎を訪ねて頼むという方法もある。だが、向こうの状況が判らない以上、勝手に戻る訳にもいかないだろう。和也はわがままで勝手に見えるが、何も考えずに順をここに送り込んだ訳ではないだろうからだ。
つらつらと考えながら順は黙って煙草を吸い続けた。常磐の言った意味が判らなかった訳ではない。出来れば考えたくなかったからあえてとぼけただけだ。こうして座っていてもたまらないものがこみ上げ、今すぐにでも、相手が誰でも構わないから交わりたくなる。肉の器を脱いですぐの頃と似た感覚があるのだ。
困ったなあ。苦笑を浮かべて順は深く息を吸った。多分、あちらの世界にいる水輝の身に何かがあったのだ。それは理屈ではなく感覚でよく判る。
「水輝ちゃん、何かエロい商売でも始めたのかねえ……」
何となく呟いて順は吸い差しの煙草を小川に投げ込んだ。
翌日、ラスティが身を挺して捕まえたウナギは、釣れた魚と一緒に次の日の食卓に上ることになった。朝から常磐が妙に機嫌良く料理をして出されたウナギ料理は白焼きだった。
「良かったじゃーん。ラスティちゃんの捨て身の努力が無駄にならなくて」
食卓について真っ先に順はラスティにそう言った。無言でラスティが順の後頭部を張り飛ばす。痛いなあ、とぼやきつつ順は出された料理をつつき始めた。
「昨日のことは忘れろ! いいな!?」
常磐に椅子を引いてもらい、腰掛けたラスティが怒声を張る。へえへえとやる気のない返事をして順は早速、ウナギを箸で適当な大きさに切り、口に運んだ。
「おっ。けっこういける。常磐さん、料理上手いねえ」
こんがりと焼けたウナギはとても美味しかった。独特の臭みもない。どうやら上手く香草を用いて焼かれているらしい。見た目の地味さとは裏腹な味に順は顔をほころばせた。
「ったりまえだ。常磐は料理も上手いんだよっ」
昨日のことが相当に恥ずかしいのか、ラスティが怒った顔をして言う。このヒトはもう、と苦笑して順はそうですね、とわざと丁寧に返答した。すると今度はラスティがテーブルの下で順の足を踏む。
「いってー! ラスティちゃん、足癖悪すぎ!」
「魔法で攻撃されないだけありがたく思え」
不敵に笑ってラスティが鼻を鳴らす。こういうふてぶてしいところを見ていると、昨日の無邪気な様子が嘘のようだ。はいはいと苦笑して順は籠からパンを取り上げた。常磐は二人のやり取りを何とも思わないのか、黙って食事をしている。
順は食事の後、ちょっと散歩をしてくると言って家を出た。付いて行くかというラスティの申し出を丁重に断り、順は一人で森の中を歩いた。ラスティと常磐の暮らす家は深い森の中にあるのだ。
この国の時間は酷く緩やかに流れている。その話を順は事前に二人から聞いていた。この森を含め、この辺りはタイラードと呼ばれる国の一部だ。かつてはこの森は巨大で外の国から来る者を拒んでいたのだという。
「これって森林浴だよね」
下草を踏み分けながら順は何となく呟いた。だが答えるものはない。日の光を遮る木立の中に響くのは鳥の声や葉擦れの音だけだ。順はゆっくりと歩きながら周囲の様子をうかがった。このタイラードは順が巡った余所の国より気温が低い。そのためかこの森には多くの針葉樹が見られる。背の高い木々が多く、まるで懸命に光に向かって手を伸ばしているようにも見える。
タイラードの時が他国と異なる動きをしているのは、光の届く量が異なるからなのだそうだ。二人の説明を思い出して順は思わず苦笑した。表面的には恐らくはそうなっているのだろう。だが実際にはこの国の時の流れが異なるのは、あちらの世界の翠龍神である翠に関係しているのではないだろうか。
年をいくつか重ねたとは言っても、龍神としては翠はまだ生まれたばかりだ。そして翠は時の中を不規則に旅し続けている。だから例えば、昨日見た翠と今日見た翠では年齢に異常な差があるかも知れないということだ。
その翠に推される格好で主龍神の座に就いた奈月はあれからなりを潜めている。だが、恐らく死んではいないだろう。あの流れでは水輝が奈月を見切ることはまずあり得ない。例え一時的に奈月のもとを離れるようなことがあっても、水輝のことだ。きっと後からちゃっかり取り戻すつもりなのだろう。
「……とは思うんだけど……」
自分の考えに呟いて順は足を止めた。梢に止まった小鳥が愛らしい声で鳴く。順は何気なく鳥の声のした方を見た。
春は名のみの風の寒さや。
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず。
時にあらずと 声も立てず。
早春賦を胸の内で歌いながら順はまた歩き始めた。歌いたくはあるのだが、どうも自分が下手に歌うとこの世界に影響を与えてしまうらしい。かつて総一郎に言われたことを思い出して順は少し難しい顔をした。
「あれだね。歌を忘れた小鳥……っと」
横たわっていた大きな枯れ木を飛び越え、順は木々の間を歩き続けた。特に道はない。獣でもいるのか、たまに大きな葉擦れの音が聞こえる。
氷解け去り葦は角ぐむ。
さては時ぞと 思うあやにく
今日もきのうも 雪の空。
今日もきのうも 雪の空。
続きを心の中で歌ってみる。だがやっぱり物足りない。うーん、と唸って順は腕組みをした。
「そういえばこのところ、歌ったことないもんなあ」
不満を零しながら順は辺りを見回した。忙しなく周囲に誰もいないことを確認してから順はちょっとくらいいいよね、と呟いて大きく息を吸った。
さあ歌うぞ。続きを歌おうとしていた順は背後でした物音にぎょっとして慌てて口を手で覆った。今にも出そうになっていた歌声が辛うじて喉の奥に引っ込む。だが唐突に息を飲んだために順は咳き込んでしまった。
「あ、れー? もしかして、順さん?」
人懐こい笑みを浮かべた女性がひらひらと手を振りながら寄ってくる。ひとしきり咳き込んでから順は愛想笑いを浮かべて女性に手を振り返した。
「いやあ、ちょっと見ない間に随分と色っぽい女になったねぇ、二藍ちゃん」
かつて総一郎の研究所で看病をしてくれた少女だった二藍は、いつの間にか成熟した女性に成長していた。
「あら。お世辞?」
ふふ、と笑って二藍が順の背中を軽く叩く。二藍はぶら下げていた籠を探ると水の入った瓶を取り上げた。どうぞ、と差し出されて順はありがたくそれを受け取った。水を飲むと喉の痛みが和らぐ。
「そうだよねぇ。ラスティちゃんとか常磐さんとかは成長しないんだもんねえ」
ありがとうと水入りの瓶を返してから、順は二藍と並んで歩き出した。二藍はこれから彼らの家に行くのだという。
「これでも他の人よりずっと遅いんだけど」
苦笑を浮かべて二藍が答える。そうなんだ、と相槌を打ちながら順はまじまじと二藍を観察した。あの時にも随分と可愛らしいとは思ったが、今の二藍には可愛いと言うより美人という表現の方がしっくりくる。問答無用の美形であるラスティや常磐と並べても遜色のない容姿だ。
そのうえ、スタイルもいい、と。シンプルなワンピースに包まれた二藍の身体は順の目にもとても整って見えた。
「そこ。えっちな目で観察しない」
「うわ、ばれてた?」
白々しく笑って順は頭をかいた。当たり前よ、と唇を尖らせてから二藍はふと心配そうな顔をして順を見つめた。
「ナニ? もしかして激しくオレとしたくなった?」
「馬鹿。冗談でごまかされたりしないってば」
しかめ面をして二藍が順の額に手をあてがう。順は困ったように笑ってさりげなく二藍の手を退けた。
「いつから熱があるの?」
少しの間、触っただけで判ってしまったらしい。順は苦笑して頭をかいた。
「こっちに来てしばらくしてからかな。でも別にどっか調子悪いとかじゃないしさ」
明るく笑う順を横目に睨んでから二藍はまた籠を探り始めた。不思議そうな顔をする順に二藍が籠から取り上げたものを差し出す。
「はい。熱冷まし。ないよりはましでしょ?」
「ごめんね、オレ、薬は効かないんだわ」
「いいから飲みなさい!」
子供を叱る親よろしく厳しい声で言ってから二藍が薬包を順に押しつける。続けて先ほどの水入りの瓶を押しつけられ、順は仕方なく言われた通りに粉状の薬を飲むことにした。
薄い紙を開いて口に粉の薬を落として水を飲む。多少の苦味を感じたが、順はあっさりと薬を飲み込んだ。ありがと、と水の瓶を返すと二藍が大仰に頷いてそれを籠に戻す。
「いい? 熱を馬鹿にしちゃ駄目なのよ。身体が闘ってる証拠なんだからっ」
「はいはい。判ったから、怒らないでよぉ」
子供に諭すように言い始めた二藍に苦笑し、順はそう言った。すると二藍が別に怒ってないと不服を漏らす。唇を尖らせて拗ねた顔をすると、前に見かけた少女の時の面影が覗く。
しばらく世間話をして歩いた。だが順は次第に言いようのない気分の悪さを感じ始めた。最初は知らん顔をして歩いていたのだが、やがて順の歩みが無意識に遅くなる。そこで異変に気付いたらしい。二藍が慌てたように足を止める。
「ちょっと? 大丈夫?」
「ごめん、ヤバいかも」
口許を押さえ、順はその場に屈み込んだ。その途端に頭がぐらりと揺れる。順は二藍の悲鳴を遠くに聞きながら、意識を失った。
順が歌うといろんなことが起きるので!