※この作品はR-18です。

まやかしの終わり 三部 夜の女王   作:伊駒辰葉

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エロシーンはありません。


桜の夢の中と現実

 薄曇りの空から小雨が降っている。曇った窓を手でなぞり、外の景色をしばし眺めてから桜は深々とため息を吐いた。

 

 いつの間にか季節は冬になっていた。奈月の身体から完全に気配が消えてしまったのがつい昨日のことのようだ。だが未だに奈月がいなくなってしまった実感がない。桜は雨の落ちる庭をぼんやりと眺めてからのろのろと振り返った。

 

 椅子に腰掛けたまま、奈月は微笑みを浮かべている。奈月がこうして微笑みを浮かべ、何も喋らなくなってからどれだけの時間が経ったのだろう。だがついこの間までは何も語らなくても確かにそこに奈月の気配がしていたのだ。

 

 いまはなにもない。桜は悲しみに顔を歪めて奈月に近づいた。いや、今こうして椅子に腰掛けているのは奈月の亡骸なのだ。

 

 話もしない、そこには気配もない。以前と同じ、柔らかな微笑みを浮かべているだけでそこには奈月はいないのだ。桜は静かに椅子の前に跪き、そっと奈月の手を取った。

 

 奈月は好んでよく着ていたブルーのワンピースに身を包んでいる。真っ白なブラウスにはフリルがあしらわれていて、ウエストの細さを強調するデザインのワンピースにとてもよく似合っている。スカートの中には何枚かのパニエを重ね着しているので、ふんわりと広がっている。白いタイツ、スカートとお揃いの色をした靴、ヘッドドレスはブラウスと同じようにフリルがたっぷりと付けられたものだ。どれもこれもが奈月にとても似合っている。桜はじっと奈月を見つめ、静かに手を取った。

 

 奈月の手は今はもう冷たくなっている。気配が消えてしまってから、奈月の身体はすっかり冷えてしまったのだ。桜は手の中に奈月の手を包み、表面を撫でてみた。だがどれだけ暖めようとしても奈月の手は冷たいままだ。

 

 姫様、と呼びかけて桜は奈月の手を握って俯いた。奈月は変わらない微笑みを浮かべ、遠くを見るような眼差しをしている。どんな角度から見ても目が合うことがないのは、奈月はこうして微笑みを浮かべて動かなくなっても水輝を捜していたからかも知れない。

 

 そこまで考えて桜は強く頭を振った。そんなことはあり得ない。水輝は奈月を捨ててしまったのだ。だから奈月は壊れてしまった。そんな薄情な相手を探すはずがない。そう自分に言い聞かせて桜は顔を上げた。

 

 もうそこに奈月はいない。形式だけではあったが葬式も出してしまっている。奈月と佑の葬式の手はずを整えたのは立城だ。その後に桜は立城に文句を言いに行った。だが立城は桜の望んでいた答えはくれなかった。

 

 なぜ、青龍王の葬式は出さないのですか。桜はあの場でそう訊ねるつもりだった。渚に誘われなかったら、恐らく立城の屋敷を訪ねようとは思わなかった。だが、もしも機会があるなら訊いてみたかったのだ。どうして立城は水輝の葬式は出さないのだろう。あの時、遠いところで巨大な魔法が展開されたことは桜にも判った。あんな無謀な、しかも強力な魔法を使ってしまえば例え水輝と言えど無事でいられるはずがない。

 

 水輝は奈月と佑の命と引き替えにあの魔法を完成させたのだ。桜は奈月の手を握ったまま歯を食いしばった。憎悪の念が心の底からこみ上げてくる。術者の水輝の命が消えるのはいい。そんなことは勝手にすればいいのだ。だが、桜は奈月の命を礎にされたことがどうしても許せなかった。

 

 桜様。執事の和也がドアを開けてそっと桜に呼びかける。だが憎悪に囚われた桜にはその声が聞こえなかった。何度か呼びかけてから和也がそっと息を吐いて深々と頭を下げてから静かにドアを閉める。窓の外はもうすっかり暗くなっていた。

 

 暗がりの部屋に雨音だけが響く。桜は奈月の手をしっかりと握ったまま、口の中で恨み言を繰り返した。どうして立城はあれだけの力があるのに奈月を助けてくれなかったのだろう。何故、水輝は奈月を礎にしたのだろう。結局の所、彼らは奈月を便利に使っただけで、要らなくなった玩具を捨てるように奈月を捨ててしまったのだ。

 

 何て酷い連中なのだろう。なのに片や地上の王と呼ばれ、もう一人はかつて最強の戦士と謳われた龍神なのだ。

 

 どうしてこんなに差があるのだろう。もし、彼らの力が自分にあれば、きっと奈月をこんな目に遭わせずに済んだのに。桜は口の中で恨み言を並べ立てながら奈月の膝にことんと頭を預けた。ひんやりとした奈月の手にそっと額をあてがう。

 

 奈月が元気な頃にこうしてみたかった。その機会はもう永遠に失われてしまったのだ。愛らしい文字で手紙をしたためてくれたこの手は二度と動かない。どんなに呼んでも返事をしてくれることはないのだ。

 

 夜が更けても桜はずっと奈月の前に座り、彼らに対する恨みを言い続けた。助ける力があるのにどうして使ってくれなかったのだ。死にたいなら自分だけで死ねばよかったのに。どうして大切な奈月までこんな目に遭わせなければならないのだ。言葉は違っても桜は同じことを何度も言い続けた。

 

 朝が来て、昼が来て、また夜が来る。その間、何度か和也が桜に呼びかけた。だが桜はそのことに少しも気付かず、ぶつぶつと文句を言い続けた。

 

「桜様。そろそろお食事をとられませんと……」

 

 幾日かが過ぎ、さすがに心配になったのだろう。和也が遠慮がちに声を掛けながら部屋に入ってくる。桜は奈月の手を握り、奈月の膝に頭を預けて恨み言を口にし続けていた。

 

「桜様?」

 

 そっと声を掛けながら和也が桜の肩を後ろから軽く叩く。桜はびくりと身体を震わせて振り返った。

 

 誰だろう。ぼんやりとした目で和也を見上げて桜は少しの間、考えた。だがすぐにこの屋敷に勤める執事だったことを思い出す。

 

「なんですか?」

 

 桜は強ばった顔をして訊ねた。和也が気遣うような顔をして食事をとられませんと、と言う。食事、と呟いて桜は眉を寄せて視線を下げた。その姿勢のまま動かなくなった桜を和也が不安そうに伺う。

 

「あの、桜様?」

「今日は何曜日だったかしら」

 

 ゆらりと顔を上げて桜は和也に訊ねた。和也が行儀良く礼をして曜日を教えてくれる。大変だ。平日ではないか。桜は驚きに目を見張って慌てて立ち上がった。

 

「こんなことをしている場合ではないですね。学校に行かないと」

「え?」

「ああ、今何時ですか? 姫様をお起こししないと」

 

 桜は慌てて少し乱れていた髪を手櫛で梳き、急いで部屋を出ようとした。だが何故か和也が桜の腕をつかんで引き留める。

 

「桜様は少しお休みになられた方が」

 

 そう言ってから和也はやけに難しい顔をした。和也の説明によると桜も奈月もしばらくの間、学校には行っていないという。桜は頬を手で押さえて考えを巡らせた。

 

「そうでしたね。ごめんなさい」

 

 そう、奈月はもうここにはいないのだ。桜はそのことを唐突に思い出して小声で詫びた。すると和也がどことなくほっとしたような顔になる。桜は言われるままに和也の後をついて歩いた。

 

 それを数回ほど繰り返した。何日かに一度だけ、桜の耳には和也の声が届き、それで我に返った桜は言われるままに食事をとる。そしてまた桜は奈月の居るところにふらふらと戻り、恨み言を呟き続ける。

 

 どうして助けてくれないのだろう。何で見捨てるのだろう。力があれば自分にも奈月を助けられるのに。彼らには慈悲の心すらなく、弱き者を無神経に踏みつけにしていくのだ。

 

 奈月の手はまだ冷たい。桜は奈月の手を暖めようと繰り言をしながら何度も優しく擦ってみた。だがあまり強く擦ると傷んでしまいそうで、桜は少し擦っては奈月の手に自分の頬や額を押しつけた。そのたびに悲しい冷たさが伝わってくる。もしかしたら冬になってしまったからだろうか。そういえば窓の外には雪がちらつくようになっている。奈月の手の冷たさを思い知るたびに桜は恨めしさをこめて窓の外を見た。

 

 だがそこには本当は雪など降ってはおらず、二人のいる部屋の暖炉には和也がいつも火を入れていた。寒さで桜が体調を崩してはいけないからという配慮からだったのだが、桜自身はそのことには全く気が付かなかった。

 

 奈月の手が冷たいままなのは寒さのせいなのだ。そう思った桜は自分の部屋中を探して奈月に似合いそうな白い手袋を見つけ出した。レースの縁取りのあるこの手袋なら、奈月の愛らしい服と合わせてもおかしくないだろう。桜は急いで奈月のいる部屋に戻った。

 

「少しお待ち下さいね」

 

 相変わらず奈月はなにも言わない。桜はそのことは判っていたがあえて話しかけながら奈月の前に跪いた。冷たい奈月の手を片方ずつ取って手袋をはめる。手首の部分で白いリボンを結わえると手袋は奈月の服とよく合っていた。

 

 とてもよくお似合いです、と桜は奈月に微笑んでみせた。奈月は変わらない微笑みを浮かべているだけで返事をしない。桜は悲しみに顔を歪め、深々とため息を吐いた。どれだけ話しかけても奈月は答えてくれない。その目が桜を見ることもない。

 

 一日、一日と時間が過ぎていく。季節が真冬になった頃にはもう、桜には時間の感覚は全くなくなっていた。外には冷たい風が吹き、雪が降る日もある。庭に植えられた木に咲いていた花は枯れ、春が来るのを待って雪の下にひっそりと新芽が隠れている。そんな時期になっても桜は木々の声に耳を傾けることもなく、ただひたすらに奈月に話しかけていた。

 

 最初は立城や水輝に対する繰り言を、次に桜は奈月とこれまで過ごしてきた日々の思い出をつらつらと語り始めた。そうしているうちに桜の表情から少しずつ悲しみが消える。

 

 奈月と過ごした日々のことを語る桜の顔には、やがて微かな笑みが浮かぶようになった。降り積もった雪がとけ、春の兆しが現れ始めた頃、桜はこれまでのことを懐かしく思いながら奈月に途切れることなく話しかけるようになっていた。

 

「桜様」

 

 ある日、和也が桜に呼びかける。もうこの呼びかけも何度目になったか判らない。だが桜の耳にはもう、和也の声は聞こえなくなっていた。

 

 和也が痛ましい表情をして桜を見つめる。ドアの所に立つ和也のことにはまるで気付かず、桜は延々と思い出話を続けていた。奈月と一緒に学校に通うようになってから色んなことがあった。初めて一緒に登校した時は随分と緊張した。屋敷から清陵高校までは電車でほんの一駅ほどしか離れていないのに、電車に乗っている時間がやけに長く感じられた。緊張に身を強ばらせる桜を奈月は懸命に励ましてくれた。

 

「ここに勤めていた者には解雇の旨を伝えました。わたくしも本日よりしばしの暇を頂きます」

 

 静かな声音で語り、和也が深々と頭を下げる。お世話になりました、という和也の挨拶すら耳には届かず、桜は奈月に語り続けた。

 

 それでは、と和也が踵を返す。部屋を出る間際に和也が足を止め、ぼそりとバカがと呟く。だがその呟きも、ドアの閉まった音も桜には聞こえなかった。




微妙な長さなので分割はやめました。
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