「まずは呼吸だ呼吸」
とにかく落ち着かなければ。そう自分に言い聞かせて透は呼吸を整えた。こんなことなら学校に通っていた頃、真面目に音楽の授業を受ければ良かった。だがよく考えたら龍神というものは音楽の才に秀でているのではないのか。なのに自分が苦手なのは変だろう。理不尽なことを考えつつも透は何度もその歌を歌った。終いには歌詞まですっかり覚えてしまった。だがそれでも順はぴくりとも動かない。
透は仕方なく楽譜と順を家に持って帰ることにした。にこやかに出迎えた要が、透が引きずっていた順を見た瞬間にけたたましい悲鳴を上げる。その声につられたのか、屋敷中の者が我先にと玄関に飛び出してきた。
「そんな大騒ぎしなくても」
「と、と、透様! それは死体ですの!?」
眠っているかのように動かない順を指差し、要が喚く。そんな要に隠れるようにして巴とちなりが怖々と順を見る。
「こいつが死ぬようなタマだと思うか?」
青白い顔をしている使用人たちの顔を見回してから透は手元に目を落とした。そう言いつつも実は自分も貸金庫の中身を見た時に死体だと思ったことは伏せておく。
「だっ、だって、動かないじゃありませんの!」
「だ、ダメだよ、透クン! そんな死体とか、そういうの拾ってきちゃ!」
「た、確かに殺しても死にそうにないですけど、でもやっぱり」
要とちなり、それに巴が口々に言って顔を見合わせて頷き合う。
「とりあえず、メシだメシ」
騒ぎを収めようと、透はそう言いながら玄関をくぐった。食事でもしながら経緯を話せばきっと彼女たちも理解しやすいだろう。そう思っていた透の耳に嫌な声が聞こえた。
「ふあー。何の騒ぎ? みんな固まっちゃってさ」
そんなことを言いながら一人の女が玄関の人だかりに近付いてくる。使用人たちはこそこそと女を避けるように屋敷の中に戻っていく。人だかりが消え、透と目があったところで女は叫んだ。
「何でアンタまた男になってんのよ!」
たまたま泊まりで遊びに来ていた梓が険悪な顔をして喚く。透は深々と息を吐いて額を手で覆った。
「わかったからちょっと待て」
そう言い置いて透は自分の胸に手を突っ込み、宝珠を探ってさっさと姿を変えた。龍神が性別をある程度は自由に操れるということを理解してくれたのはいい。だが、梓はやっぱり男性嫌いのままなのだ。
「これで、文句ないわよね?」
透がしっかりと女性の姿に変わった途端、梓がぱっと顔を輝かせる。駆け寄った梓に抱きつかれながら、透は疲れたため息を吐いた。
「あれ、ちょおっと待ってね」
「んー?」
早速、透に唇を寄せようとしていた梓が怪訝そうな顔をする。透は封筒を取り出し、中から楽譜を引っ張り出した。透の引きずっていた順をさりげなく足で退けようとしていた梓が楽譜を覗き込む。
「どうしたのさ、これ。アンタ、いつから音楽好きになったの?」
「あのゾンビを復活させる呪文」
げんなりした顔をして透は言った。要とちなり、それに巴が怖々と、だが興味津々の顔で順をつついている。そんな順を汚いものでも見るように見やってから梓が笑った。
「いいじゃない。男なんて放置放置。べっつにほっといても害はないんでしょ?」
明るく笑って梓が透の背をばんばんと叩く。
「あれが起きたらわたしの仕事三分の一くらいに減って空き時間増えるはずなの。だからちょぉっと待ってね」
大きく深呼吸して透はまたその歌を歌った。しばらく黙って聴いていた梓が楽譜を横から覗き込んでぷっ、と笑う。それを聞いた透はしかめ面をして歌うのをやめた。
「相変わらず音痴だねぇ……。違うよ、こうだってば」
そう言ってから梓が楽譜を取り上げ、歌い始める。要が不思議そうな顔をして梓に寄り、楽譜を覗き込む。続いてちなりと巴が梓の手元を覗く。
「そうですわね。梓さんの方が正しいと思いますわ」
要が何度か頷いてはっきりと言い切る。するとその後ろでちなりと巴がうんうん、と頷く。
「どーせ、あたしは音痴よ!」
声を荒らげて透はそっぽを向いた。すると梓が楽しそうに笑って透を抱きしめる。可愛い可愛いと耳許で言われ、透は余計に拗ねた。
動かない順を仕方なく空いた部屋に放り込み、みんなで食事を済ませてから透はピアノのある部屋に向かった。四人が歌を教えてくれることになっているのだ。だがしかし、何でこんな苦労をしなければならないのだろう。
「このアホオヤジがみんな悪い!」
透は運び込んだ順を怒りをこめて蹴り飛ばした。あはは、と無責任に笑った梓がピアノを弾き始める。透は何となく音につられてそちらを見た。ピアノに向かっている梓、その傍に立つ要、大きなピアノの傍に座り込んだちなりと巴。絵にすると仲のいい姉妹か何かのようにも見える。
「アンタ科学者なんだからさあ。アンタの声でちゃんと歌ってるように聞こえる機械とか、そういうのを作った方が早くない?」
三時間後、梓が疲れた顔をしてそう言った。
「それじゃあだめだと思う。このアホオヤジ、これでも最強クラスの龍神だから」
同じように疲れた顔をして透はため息を吐いた。そうですわねぇ、と要が頬に手を当てる。
「透様の歌、というのが鍵ですの? もしも他の方にお願い出来るのでしたら、そちらの方が早いのかも知れませんけれども」
困ったような顔をして要がピアノの譜面台に立てかけられた楽譜を覗き込む。だがタイトルからして恐らく他の者が歌ったのでは効き目はないだろう。
「とりあえず、三年行方不明だったんだし今日起こさなくてもまいっか。それよりもあんたたちのほうが心配だし」
「あら。お気遣い頂いて嬉しいですわ」
にっこりと要が微笑めば、梓がそうだよね、と嬉しげに同意する。床に座ってジグソーパズルをしていたちなりと巴が手を取り合って喜ぶ。そんな彼女たちの様子を見て、透はやっぱり順は後回しにしようと心の底で頷いた。
一見死体! なのは仕方ない気がw