時計を見上げ、マリアは何度目かの吐息をついた。
時間は彼が帰ってきているはずの時間をすでに過ぎている。
『刻』が至るまで、彼には行動の自由を与えているし、
彼は逃げないという確信をマリアはすでにしていたから、
どこかで泊まってきたとしても騒ぐことではない。
にもかかわらず、自分が苛立っていると気づいたマリアは、
慣れというものは怖ろしいと苦笑した。
それにしても、連絡がないというのは、何かあったのだろうか。
彼の身を案じる立場であるマリアは、すぐにその可能性を否定した。
龍麻は人間ならばおよそ対抗できないほどの『力』を有しており、
銃でも使われない限り、何人束になっても彼には勝てないだろう。
そしてマリア以外に彼の秘密を知る存在は、人ならざるものを含めてもほとんどいないはずで、
突発的なトラブルに遭ったとしても、問題なく対処できるはずだ。
では何が――となると、マリアの思考はそこで止まってしまう。
彼の交友関係はこの半年間から見て極めて狭く、皆無といってよいくらいだ。
誰かと遊んで時間を忘れた、というなら可愛いものだが、学校で見る限り、
龍麻は同級生との会話すら避けているようで、それもまずなかった。
交通事故やその他の事故ならば可能性はあるが、
いずれにしてもマリアには待つしかなく、数百年復讐の刻を待ち続けた女吸血鬼は、
たかだか数時間が我慢できないとばかりにため息を積み重ねた。
ため息に形があったなら、そろそろテーブルも一杯になろうかという頃。
何の音もない、東京の中心部とは思えないほど静かな空間に、
滑稽なほどけたたましい音が響き渡った。
優雅に、しかし素早く立ちあがったマリアは、
人間の生みだした人工の音などに驚かされなどしない、
とばかりに罪のない電話機を睨みつけてから受話器を掴んだ。
この電話番号を知っている者はごく少なく、このタイミングでかけてくる可能性が高いのは当然一人だ。
マリアの予想は的中し、受話器から話しかけてきたのは聞き覚えのある声だった。
「マリア先生ですか? 龍麻です」
「どうしたの? 電話なんて珍しいわね」
努めて明るい声で、冗談まで口にしたのは、龍麻の一声にただならぬものを感じたからだ。
器械越しの声を聞くのは初めてだったが、名乗らなければ龍麻かどうか判ったかどうか
怪しいくらいに彼の声は疲れていた。
「すみません、今日は泊まっていきます」
「構わないけれど……今どこにいるのかしら?」
「俺の家です」
「そう……わかったわ。明日は帰ってくるのね?」
「はい、午前中には戻ります」
受話器を置くまで何があったのか問いたい衝動を抑えるのに、マリアは満月の夜ほどの自制を強いられた。
話せる事情ならば龍麻は帰ってくるだろう。
話せない、あるいはしばらく時間が必要だからだと判断したからこそ、
龍麻はこれまで掃除以外では戻ったことのない自分の家に戻り、泊まると電話してきたのだ。
生殺与奪の権利を有しているとはいっても、踏みこんではならない領域はある。
マリアはそれをわきまえているつもりだった。
教師として生活を始めた四月以前、マリアに朝早く起きるという習慣はなかった。
人間社会に潜むことを余儀なくされてからでも働く必要はなかったからで、
夜の眷属であるマリアにとって、太陽など忌々しいだけの物体でしかない。
浴びると灰になってしまうなどという人間たちの迷信は虚構であるとはいえ、
太陽の光は快いものではなく、数年前に初めて東京の夏を体験したマリアは、
本気で復讐をやめて故郷に帰ろうかと考えたくらいだ。
それほど不快な暑さをもたらす東京という地に住み着いて三年。
『黄龍の器』を探すために人間社会に溶けこんできたマリアの、考えは変わっていない。
下品で傲慢で怠惰な、滅ぼされて然るべき存在。
この生物が存在しなければ、どれほど地球は豊かな星であったことか。
彼らに滅ぼされた生命の数を思えば、憎しみが失せる道理などない。
人類がこの地球を支配して数千年、そろそろ交代の刻のはずだ。
陽に傾きすぎた天秤を、闇の方に戻す。
もう少し、あと数十日でその望みが叶うのだ。
そのためになら心地よい闇の愛撫を振り払い、苛烈な陽の下に出るなど、どれほどの問題でもなかった。
払暁から朝へと移ろう、闇に住まう者としてはもっとも名残惜しい時間に、マリアは目を覚ます。
それは普段、日本に来てからの起床時間と同じであり、故郷に居た頃とは正反対、
つまり眠りに就く時間だった。
陽光の射さない部屋で半身を起こしたマリアは、剥きだしの背中に寒さを覚えるでもなく、
小さく欠伸をする。
それから傍らの時計に目をやり、紛うことなき朝であることを確認すると、今度は小さくため息をついた。
今日は学校が休みの日であり、こんな時間に起きる必要はない。
にもかかわらず律儀に目を覚ましてしまったのは、人間の習性に知らず馴染みつつあるのかと自嘲したのだ。
ため息を収めたマリアは、顔を左に向ける。
そこに残っているべき気配は、どこにもなかった。
半年ほど前に加わったもっとも新しい習慣は、いつのまにか馴染んでいたのか、
それが破られたことに対して軽い苛立ちを覚える。
夫婦でさえ時に片方が外泊することはあるはずで、その都度こんな苛立ちを覚えたりはしないはずだが、
初めて龍麻の居ない朝を迎えたマリアは、もう少しで舌打ちしてしまうところだった。
感情に起伏が生じたせいで、眠気もどこかへ去ってしまう。
龍麻は午前中に戻ると言ったが、こんな早い時間に戻ってくるはずはなく、
といってすっかり冴えた頭でもう一度ベッドに潜りこむ気にはならなかった。
仕方なくベッドから下り、居間に移動する。
寝室のドアを開けて一歩踏みこんだところでマリアははたと立ち止まった。
出勤までの時間、何をしていただろうと思い悩んでしまったのだ。
台所に龍麻が立っていて、その横を通って顔を洗いに行く。
洗面所から戻ってくる頃には朝食の用意ができていて、紅茶を啜りながら新聞に目を通すのだ。
たったそれだけのことを思いだすのに、ずいぶんと時間を必要とした。
それほど龍麻に依存しているという自覚は、マリアにはない。
彼はこの半年間だけ共に生活している、それも逃げださないようにという監視の意味合いが強い相手だ。
数百年独りで生きてきたマリアにとって必要なパートナーではなく、
朝食にしたところで吸血鬼には無用の物で、龍麻が二人分作っているだけのことだ。
あまりに無駄に思え、止めるよう進言してみたこともあるが、
一人分も二人分も手間は変わらないと言われれば、
ほとんど住んでいない彼の住居を擬装のためにそのまま借りさせているマリアにそれ以上強く言うことはできなかった。
記憶力の低下が始まったのか、と埒もないことを考えた無限に等しい寿命を持つ闇の住人は、
もしかしたら低調なのは彼の血を吸っていないからなのかもしれない、とさらに埒もないことを考えた。
龍麻の――『黄龍の器』の血は、確かに吸血鬼にとって最高の栄養だった。
重要なのは龍脈からほとばしる氣をその身に受けとめられる能力であって、
食料として彼を欲したのではない。
だが、一口啜った途端にその考えが間違っていたことを、
エクスタシーにも似た恍惚を感じつつマリアは思い知ったのだ。
もしも、仲間がもっといた頃に『黄龍の器』の存在が知れ渡っていたら、
彼を求めて吸血鬼は相争い、滅亡していたかもしれない。
この世に一人しか存在しない禁断の果実。
そしてそれを食することができるのも、現在ではマリア・アルカードただ一人。
それが幸であるか不幸であるかは、論ずるに値しないことだとしても。
居間に一歩入ったところで立ちつくしている、それも生まれたままの姿で、
という点は気にもかけず、そこまで思いだしたマリアは、紅茶を淹れようと決めた。
彼の作る朝食は多彩ではあったが、マリアに摂取の必要がないので半ば儀礼的に食べていたにすぎず、
作る気にもなれない。
それでも紅茶は、あの琥珀色をした液体だけは人間とは異なる味覚を持つマリアにも、
不思議と好みにあった。
顔を洗い、湯を沸かしてその間に服装を整える。
紅茶を淹れてテーブルに置き、自分も座ってから新聞が置かれていないことに気づき、
それもまたいつのまにか龍麻が行っていた習慣であったと痛感しつつ立ちあがって玄関へと向かった。
居間に戻り、新聞を広げはしても、ほとんど中身は目に入らない。
意識がどうしても龍麻の方へと向いてしまい、集中することなど無理だった。
諦めて新聞を畳み、自分で淹れた紅茶を啜ってみる。
もともと紅茶に対しては味覚が発達しているわけではないというのに、
今朝の紅茶は眉をしかめたくなるほどまずく、一口でカップを置いてしまった。
深い失調感を抱いたマリアはもはや何もする気も起こらず、ぼんやりと時計を見る。
いつもなら朝食が終わるかどうかという時間であり、龍麻が戻ってくるにはまだずいぶんあるだろう。
かといって掃除や洗濯をする気になどなれず、机に頬杖をつき、今後について思いを馳せた。
龍脈の活動が最大化するのが年が明けてすぐ。
その時マリアは龍麻を伴って上野にある寛永寺に赴く。
そこには龍穴と呼ばれる大地のエネルギーが噴出する場所があり、
施されている封印を解くことで、黄龍と呼ばれるほどのエネルギーが地中から迸るだろう。
その力を制御できるのは『黄龍の器』という能力を持つ者だけであり、
一時代に一人のみ顕現するというその人物は、現在は緋勇龍麻という名の高校生である。
マリアは彼を用いて龍脈を支配し、彼女たち闇の眷属を虐げてきた人間に復讐を果たすのだ。
その後の展望は、まだ抱いていない。
龍脈の力を解放した時、どのような規模で破壊が起こるか見当もつかず、
もしかしたらマリアをも巻きこんでしまうかもしれないのだ。
マリア自身はそれでも構わないと思っている。
望みは全世界規模での破壊であるが、世界に冠たる都市である東京を壊滅させれば人類社会が、
少なくとも長期に渡って混乱するのは確実であるし、
全世界の地下を走る龍脈は、一箇所が解き放たれれば連鎖的に反応するとも書物にはあった。
そうなった場合、破壊は未曾有のものとなり、
地球の支配者となるを欲しているわけではないマリアの望みは十二分に達せられることとなるのだ。
ただし、マリアには龍麻と交わした約束がある。
それは彼を虜囚としたときに頼まれたもので、『黄龍の器』たる役目を果たした後、
生命を確実に断って欲しいという意外なものだった。
必要なのは『器』であって龍麻ではないが、唯一彼から提案された、それも実行は容易な頼みだ。
可能な限り叶えてやりたいとマリアは考えていて、それには少なくとも破壊の直後は生きている必要があった。
さらに龍麻という個体に、マリアは思いを馳せる。
逃亡を阻止するために彼と同居しておよそ半年、彼に対する憎しみはほとんど芽生えなかった。
龍麻は口が達者な方ではなく、会話が弾むわけではなかったが、
強い諦念を感じさせはしても人格に破綻するところはなく、好悪で分ければ間違いなく好に属する人間だ。
――人間も、個々に相対してみれば、おそらく憎しみを抱くケースはまれなのだろう。
眷属を滅ぼされて数百年、人間社会に紛れて生きてきたマリアはそう思う。
だが、彼らは群体となったとき、地球上に彼らに対抗しうる生物などいないというのに、
個々の弱さが過剰に反応するのか、自分たち以外の存在を許容しない。
狩りたて、殺し、滅ぼす寸前になって悔悟の念を形だけ見せはしても、
結局また他の生物を同様に狩りたて、何ら学ぼうとはしないのだ。
だから、マリアは人間に裁きを与える。
龍麻に対しての好意があったとしても、人間に対する憎悪はそれを上回った。
加えて彼は定命の存在であり、永遠に等しい寿命を持つマリアと共に生き続けることはできない。
彼を吸血鬼化すれば不死化はできても、それは下僕に他ならず、それでは意味がなかった。
意味――意味とは何だろう?
マリアは考え、苦笑した。
思わず冷えきった紅茶を啜ってしまったほどで、他愛のない想像に水面が波を立てる。
彼を可愛いと思うのは、捕らえた鼠に猫が抱く心境と変わりない。
壊しても構わない玩具を弄ぶとき、そこにあるのは愛情のはずだ――どれほど残酷であっても。
龍麻は被虐的な要素など持ちあわせていないが、性的な要素に関しては頑なにマリアを拒み、
捧げる相手が居ないのにもかかわらず純潔を貫こうとしている。
それが一時的に新鮮で、面白いだけなのだ。
ただ、彼の血液は極上の美味であり、彼を失えば味わえなくなる。
それは確かに残念で、痛恨ですらあった。
そのために彼を生きるよう説得しても良いかもしれない、と考え、
いかにもあさましい考えだと打ち消したところで、玄関の開く音がした。
思いがけず早い龍麻の帰宅を、出迎えるためにマリアは反射的に立ちあがった。
今までそんな行動をとったことはなく、不自然かとも思ったが、昨夜の電話の様子からして、
同居している以上これくらいの心配は当然であると考えなおして玄関へと向かう。
だが、居間と廊下を隔てる扉を開けたところで、何万もの命を奪おうと企む、
怖れを知らぬ吸血鬼は立ちすくんでしまった。
龍麻はひどい格好だった。
昨夜は雨だったが、風呂どころか眠ってもいないのか、生乾きの制服に
水分を嫌というほど含んでいる頭髪は、ひどく重たげに顔のほとんど半分を覆っている。
普段の、無愛想ながらも女性の注目を集めそうな面影は微塵もなく、
どれほど鈍感な者が見ても一目で判るくらい、龍麻は暗く、そして重く沈んでいた。
マリアが命を奪う、と告げたときですら、こんな哀しみに囚われた顔はしていない。
生きてきた歳月に応じた言葉を持っているマリアだったが、
多くの果実が実っているはずの果樹園に、喜びを与える黄金の林檎はどこにも見あたらなかった。
かける言葉を失っているマリアに、龍麻は気づいてすらいなかったようだった。
自分がどこにいるかさえ無関心であるかのように、生気の抜け落ちた肉体をただそこに置いていた。
やがてそれだけが動いた眼球は、謝る言葉を探している子供のように忙しく動き回ったが、
マリアを素通りし、また元の場所に落ちつく。
自分のつま先を、なぜそこにあるのか疎むように眺め、発せられた龍麻の声は、
目的地であるはずの、わずか一メートル先に立つマリアの処までも届かず、垂直に落ちていった。
「昨日はすみませんでした」
それだけを発し、龍麻は靴を脱ぎはじめる。
ひどく緩慢な、体か心か、あるいは双方が機能を停止しかけているかのような動作だった。
溜まった水が立てる濁音が、ひどく不快に響き渡る。
一晩の間に何が彼をここまで打ちのめしたのか、マリアには想像もつかなかった。
ただ、まるで生ける死者のごとく廊下に上がった龍麻に対しては、ほとんど命令口調で口走っていた。
「話は後で聞くわ……まず、シャワーを浴びてきなさい」
労を惜しむように最小限の頷きを返し、龍麻は言われたとおりに浴室へと入っていく。
彼が浴室で倒れてしまわないか、出てくるまでマリアは不安でたまらなかった。
マリアにとってこれまでの人生で最も長く感じられる十五分が過ぎたころ、龍麻は戻ってきた。
服装は清潔になっても、シャワーを浴びてきたというのに顔色の悪さは改善されていない。
先に眠らせた方がよいかもしれないとマリアは考えたが、龍麻がテーブルについたので、
紅茶を淹れ、彼の正面に座った。
「……」
龍麻はカップには手を触れようともせず、話を始めようともしない。
急かす愚劣さを知っているマリアは、彼が口を開くまで辛抱強く待った。
紅茶の湯気が薄れた頃、ようやく龍麻の口が動いた。
龍麻は記憶と声帯を直結させたかのように、一切の感情を込めず、
自分が見聞きしたことを淡々と口にした。
マリアは相づちすら挟む必要を感じず、伏したまま語り続ける龍麻の話を聞いた。
「……」
佐久間と葵の関係、そしてそれに関わった龍麻との確執。
担任としてクラスを受け持ってはいても、人間の精神面になど関わるつもりのないマリアは、
佐久間猪三という問題児を放置していた。
不良などと粋がってはいても人外の存在であるマリアに敵うはずはなく、いざとなればどうとでもなる。
転校初日に龍麻に干渉したと報告は受けていたが、龍麻も放っておいて構わないと言ったので、
それ以上関わる必要を認めなかったのだ。
よほど目に余りさえしなければ、学外で喧嘩をしようと、その結果停学になろうとマリアの知ったことではない。
まともな教師なら勤務評定を気にするところでも、マリアの目的はあくまでも緋勇龍麻の確保であり、
それが成されたとあれば出勤しなくても構わないほどだった。
他の誰にも計画を感づかせないために日常は持続することにしたが、
それがこんな形で裏目に出るとは予想外だった。
このところ佐久間が欠席を続けていた理由を初めて知ったマリアだが、
龍麻が語らなかったことについて怒る気にはなれない。
彼もまた同級生に無関心といっても、美里葵がレイプされそうになった、などと
軽々しく他者に語るような下劣な人間ではないと知っていたからだ。
話は続き、昨日の出来事に移る。
佐久間が化け物に変貌し、葵をレイプしている場面に遭遇したと語るところで、
龍麻の声はほとんど聞き取れないくらいに小さくなった。
マリアも女性としての立場から佐久間を嫌悪し、彼の行為について憤りを覚えずにはいられなかったが、
同時に、看過できない部分もあった。
化け物となった佐久間についてである。
醜い怪物と自分たちを同列に扱うのは不本意であるが、人間ではないという意味では同じと言わざるをえない。
彼がマリアや犬神と同じ、闇の眷属であった可能性は低い。
種族は違っても闇に生きる存在はお互いをある程度感知できる。
百メートル離れていても、というわけにはいかず、せいぜい数メートル、それも人の多いところでは無理で、
マリアも人狼という貴種には真神に赴任して遭遇するまで気づかなかったのだ。
とはいえ、教室程度の空間なら充分に感知でき、
マリアの知る限り佐久間を含めて生徒に闇に住まう者は居なかった。
だとすれば、佐久間は後天的に化け物になったということになる。
そういったケースをマリアは直接知っているわけではないが、
『黄龍の器』について調べているときに、似た現象について書かれていた書物を読んだことがあった。
氣には陰と陽があり、どちらが過剰になっても不足してもいけない。
バランスを欠けば体調不良や情緒不安定になり、さらには肉体や精神の破壊を招き、
怪物になってしまうとそこには書かれていた。
無論、陰陽のバランスが崩れたからといって誰もが怪物に変ずるわけではない。
人には本来バランスを保とうとする能力が備わっており、そうたやすく振り切れてしまうわけではないのだ。
だが、人は土地が持つ氣からも影響を受ける。
普段は顧みることさえない大地にも氣は宿り、万物に影響を及ぼしているのだ。
そうした幾つかの条件が重なるとき、人は変生してしまう――
その不運な実例に、龍麻は遭遇してしまったらしかった。
そうして龍麻は怒り、化け物へと変じた佐久間を斃す。
陰氣に魂を侵された人間は、いかなる手段によっても人に戻ることは叶わず、
死によってしか安息を与えられない。
もし佐久間がもっと大勢の人間に目撃されていれば、マリアの計画に気づく者も現れるかもしれない。
ゆえに龍麻の取った行動は、マリアにとっても正しいと認めうるものであった。
だが、彼の精神に与えた影響は計り知れない。
いくら佐久間が化け物になったといえども、元は人間であり、龍麻は彼を消滅させた。
状況の全てがそうするしかなかったと語っていても、人の、
それも二十年そこそこしか生きていない少年の心はそうたやすく割りきれるものではない。
人を殺したという事実は、重くのしかかっているはずだった。
佐久間を斃したところまで語り終えた龍麻は、そこで口を閉ざした。
喋り続けることで忘れていた心理的な負担が戻ってきたのか、
何歳か老けたかのように疲れた顔をしている。
休ませるべきだとマリアは思ったが、その前に聞いておくべきことがあった。
「……それで、美里サンは?」
この問いに対する答えを、龍麻はかなり悩んだようだった。
顔にこれまでにない困惑と苦悩を浮かべ、発した声にも生気は全くといいほど感じられなかった。
「美里さんは俺の家に来てもらって、それで……落ちついてもらってから、家まで送りました」
「そう……」
龍麻がその処置を悔いているのだというのは、訊くまでもなかった。
おそらく彼女は感謝しているだろう――暴行されたという事実が広まるのを、最小限に留めてくれたのだから。
だが、龍麻にとっては己の無力さを痛感させられるだけの時間だったに違いない。
「それで、美里さんが別れるときに言ったんです。『卒業まで、毎日学校に来てほしい』って」
「……そう」
机を見て話を終えた龍麻は、そっと上目遣いでマリアを見る。
彼女の顔には怒りも同情も浮かんではおらず、龍麻の心臓は氷を当てられたように縮んだ。
言うつもりだったその先の言葉は封じられ、マリアを虚しく凝視することしかできない。
少しの沈黙を置いて発せられたマリアの声はひどく抑制されていたが、氷嵐の如き激しさがあった。
「事情は判ったし、美里サンに女として同情もするわ。
でも、アナタに彼女の願いを聞き届けさせる訳にはいかない。解っているでしょうけれど」
「……どうしても、だめですか」
それは龍麻が初めてマリアに反抗した瞬間だった。
その事実を反抗した方もされた方も自覚していたが、どちらがより衝撃を受けたかはわからなかった。
マリアは表情を消していたし、龍麻は机に視線を落としていて、どのような表情か判別できなかったのだ。
ただ、少なくともマリアは衝撃を受け、同時に怒っていた。
龍麻は命乞いをしようとしているのではなく、美里葵と交わした約束を守りたい一心で、
この半年間従順に従ってきたマリアに逆らったのだ。
そうと気づいた途端に、それが極めて一方的な関係であったにも関わらず、
数百年人間社会で隠し通してきた牙が抑えきれず疼き、血が命じるままにマリアは吠えた。
「どうしても、よ」
龍麻の反抗は弱々しい、哀願に近いものにも関わらず、マリアはひどく苛立ちを覚え、
口の中に溜まるそれを、矢継ぎ早に放った。
「『黄龍の器』の力を解放した後、確実にアナタを殺すという約束は破棄してもいいわ。
でも、計画を中止することは絶対にないし、日付をずらすわけにもいかない。
美里サンには悪いけれど、アナタと美里サンが交わした約束を全うできるのは、その時までということになるわね」
有無を言わさぬ口調が効を奏したのか、龍麻は目に見えて怯んだ。
あるいはこの場で一戦交えるかもしれない、と構えていたマリアには、どこかで失望の気持ちもあった。
自分勝手であると知りつつも、龍麻が大切なものを守るために闘うのではないかと期待めいた予感もあったのだ。
だが、龍麻もしょせん人間であり、自分より強いものには逆らおうとはしなかった。
彼に対する評価は過大だった、と訂正するうち、いくらかの余裕がマリアには生じる。
冷えた紅茶を今更飲む気にはなれなかったが、カップを手にして口元に運んだ。
「ところで以前にも訊いたけれど、どうしてアナタは自らの死を望んでいるのかしら?」
殺される、と聞かされたときでも龍麻は冷静であり、それどころか『黄龍の器』としての力を解放してなお
生き残っていた場合、確実にとどめを刺してくれるようマリアに頼んでいるほどだ。
人間を抹殺するなどという狂気に出くわしたなら、自分だけはなんとか助けて欲しい、
と考えるのが普通のはずで、その点をマリアは言ったとおり、以前に問うたことがあった。
そのとき龍麻は真神に来る原因となった事件を挙げ、マリアは一応納得した。
だがその事件だけでは彼が死の欲動に魂を捧げている理由に、どこか足りないとも思っていたのだ。
そして今、龍麻は初めて生の欲動を見せ、それが拒絶されるとまた死の欲動へと篭もった。
吸血鬼たるマリアに敵わないとはじめから諦めているのだとしても、
あまりにも極端な、強い渇望は、もっと彼の根源に巣くっているのではないかとマリアは考えていた。
本来なら、龍麻個人に関わる必要などない。
マリアが欲しているのは『黄龍の器』という能力であり、使い終わった後の容器になど興味はないのだ。
だが、この半年間でマリアは龍麻に関わりすぎた。
行動を監視するためとはいえ同居し、寝食を共にしたマリアは、
少なくとも彼を満足のうちに死なせてやりたいと思うようになっていた。
彼の二つ目の望みを叶えてやるわけにはいかない以上、
他に代替できる望みを聞いてやるべきだろう。
そう考え、マリアは、これまで意識的に避けてきた彼の過去を問うことにしたのだ。
龍麻の瞳孔が拡大する。
全てを吸いこみそうな黒の瞳を、マリアは真正面から見つめかえした。
蒼氷の光が照射され、黒の中に呑みこまれていく。
どれほど強い眼光を浴びせても、彼の瞳が輝きを返すことはなかったが、
やがて目蓋が一度閉じられ、ゆっくりと開いた。
「俺が普通の人間じゃないってのは、随分前から気づいてました」
龍麻の告白は、マリアにとって興味深いものだった。
目で続きを促すと、龍麻は自分が淹れた琥珀色の液体に眼差しを落として語り始めた。
「初めて自分が人と違うのに気づいたのは、小学四年の時でした」
同じクラスの友達が、公園で中学生に絡まれていた。
彼らの裏面の事情を、この時は知らない龍麻だったが、金をせびられている友達を見て、
幼い正義感を燃やして中学生達に挑みかかった。
しかし、特に体格に恵まれているわけでもなく、武術を学んでいたわけでもない龍麻が、
中学生の三人組に勝てるはずがない。
たちまち龍麻は打ち倒され、加減を知らぬ中学生達の暴力の無惨な的になった。
それでも龍麻は友達を助けられるのなら、今のうちに逃げ出して助けを呼んでくれれば、と必死に耐えた。
人間の持つ最も狡猾な性──無抵抗の者に暴力をふるい、恥じるところを知らぬ──
に目覚めた中学生達は、その醜い本性を剥き出しにして龍麻を暴行し続けた。
止めようという者はおらず、呻いても悲鳴はあげない龍麻に泣き叫ばせようと腹を蹴り、頭を踏みつけた。
それは明らかに度を越したものであり、龍麻は泣き叫ぶどころか、意識さえ失いかけていた。
このまま暴行が続けば、生命の危険すらある。
しかし暴力に酔った中学生達には龍麻の状態すら把握できず、なおも暴行を加えようとした。
殺される、という自覚はなくても、本能的な危機を龍麻の生命が発したとき。
龍麻の身体から、まばゆい光が迸った。
幼い身体を包む光輝は、すぐに輪郭を失い、拡散していく。
発した当人には、眩しさも熱さも感じられなかった。
異変に気づいたのは暴行を加えていた中学生達の方で、
彼らが囲む餓鬼が尋常ではない光を放っていると気づき、どこまでも膨張していた狂熱が一瞬止まる。
それが彼らの最後の意識で、誰に語ることもできず圧倒的な恐怖として死ぬまで刻みつけられた真相だった。
気がつけば、中学生達は皆倒れていた。
それも尋常でない様子でのたうちまわっている。
何が起こったのかは解らないが、自分がやったのは間違いなかった。
何故なら周りには、自分達以外には誰もいなかったからだ。
友達は、上手く逃げてくれたんだ──自分が中学生を倒したことよりも、
そちらの事実の方に満足した龍麻は、そのまま気を失った。
次に目を開けたのは、病院のベッドの上だった。
眩しい照明と白い天井に、一度開けた目を細めると、あわただしく世界が動きはじめた。
看護婦と、医師。
医師はともかく、看護婦はどこか腫れ物に触るような態度だったが、
幼い龍麻にはそこまではわからなかった。
目覚め、同じ天井を見ながら眠り、また目覚める。
実際には眠っている時間の方が遥かに長いその繰りかえしが十数回続き、
ようやく龍麻は起きあがることができた。
傍には両親がいた――それに、見知らぬ男性も。
数日後にもう一度会ったその男性は、龍麻の話を良く聞いてくれた。
友達を助けようとして中学生に挑み、負けてしまった。
拙い言葉で何度も繰りかえされる龍麻の話を、彼は飽きもせず、時には詳しい描写をせがんで聞いた。
今の龍麻には、彼が誰なのかわかる。
彼、というよりも所属する団体の方が意味を持つ、おそらく不必要に刺激を与えないために私服で現れた男を。
だが、それ以外の場所で龍麻は彼を、あるいは彼に類する人間を見た記憶がない。
あるいは両親が秘密裏に処理してくれたのかもしれないが、それにしても龍麻はこの件に関して、
誰にも全く怒られた覚えがないのだ。
いくら小学生のやったことといえども、事の重大さを考えれば何らかの処分が下されて当然だ。
当時の龍麻は自分の行いが認められたのだ、と深く考えもしなかったが、
今ならばその不自然さに疑問を、そしてある程度の解答を出すこともできる。
『力』など存在しない――
それが彼らの出した結論なのだろう。
何も武道を修めていない子供が、年齢差以上の体格差がある中学生三人を再起不能にするなど常識ではありえない。
おそらく彼らはより上位の、高校生か、あるいはチンピラ辺りにやられたのだろう。
この子供は中学生を倒した何者かが去った後にわずかに意識を取り戻し、
倒れている中学生を見て自分がヒーローになったと錯覚したのだろう。
TV番組から影響を受ける年頃ならば、良くある話だ――
おそらくはそんな線で話をまとめ、真犯人を捜したのだろう。
後に聞いたところによれば、一人は一生病院から出られない身体になり、
残る二人も何らかの後遺症を抱えているという。
それを聞いても、龍麻は悪いことをしたとは思わなかった。
先に友達を苛めたのは彼らであり、当然の報いだと思った。
両親が彼らの親に頭を下げるのが、許せないくらいだった。
龍麻が退院した翌日から、世界は終わりを告げた。
普段通りに、一週間ぶりに登校した龍麻を出迎える声はなかった。
それどころか皆、教師までもが露骨に距離を置き、動物園のライオンに対してよりも警戒するようになっていた。
その中には彼が助けた友達もおり、それが一層龍麻を苦しめた。
なぜ、と訊こうにも、入院している間に彼らは完全に龍麻を除外したグループを完成させたらしく、
休み時間になっても、あきらかに龍麻を避け、一人になるのを極力避けている。
誰かを捕まえて無理に聞きだすことも、あるいはできたかもしれないが、
クラス中から敬遠されるという現実は幼い龍麻を打ちのめすのに充分すぎるほどで、
その頃から龍麻は、最小限の会話しか行わないようになっていった。
話しかけなければ、無視されて傷つく必要もない。
それが十歳になった頃の龍麻が身につけた処世術だった。
以後は何もないまま、小学校を卒業した――誰とも何も話さないのを、何もないと言えるのならば。
次に龍麻が『力』を用いたのは、中学二年の時だった。
同級生の少女が、不良達に体育倉庫に連れこまれ、かどわかされようとしたのだ。
人づきあいの少ない龍麻は、別にその少女に恋していたわけではなく、
同じクラスというだけで、声すら交わしたこともない関係だった。
それでも、数人の不良に取り囲まれ、身体のあちこちを触られながら体育倉庫に連れていかれる少女が、
これから始まる行為を望んでいないのは明らかだったし、龍麻の脳裏には、
昔友達が絡まれていた光景が、閃光のように瞬いて不快感を刺激していた。
気がつけば、彼らを追っていた。
「なんだ手前ェッ!!」
獣欲を邪魔され、殺気だった不良の声も龍麻は怖いと思わなかった。
そんな声なら数年前に聞いて慣れている。
あれから特に鍛えていなくても、戦いに際して身体は忠実に動いた。
一人をなんなく倒し、残りに対しても優位に立ち回る。
あの時より人数は多くても、勝てると思った。
だが、二人目を打ち倒した直後、不意に足を払われた。
転んだ、と思った瞬間、素手ではない痛烈な一打を腿に見舞われる。
すかさずもう一人がやはり携帯していた特殊警棒で龍麻の頭を思いきり殴りつけた。
まともに命中すれば大人をも殺しかねない凶器は、
龍麻の攻撃力を奪うには充分すぎるほどのダメージを与え、昏倒させる。
勢いづいた不良の反撃に、先にやられた仲間の加勢もあって、
たちまち龍麻は数年前をしのぐ暴力の嵐に見舞われた。
それは威力において数年前の比ではなく、今度は、明確に殺されるという思いが龍麻を捉える。
当然抱くべき恐怖の感情も全身を苛む凄まじい痛みの前に意識できないほどで、
五感さえ失せかけた龍麻の生命は、急速に活動を止めようとしていた。
そして龍麻は、二度目の『力』を発動させる。
気づけば不良達は全員昏倒していた。
うめき声すら上げず、明らかに尋常ではない様子で倒れている。
龍麻には、何が起こったのか判らなかった。
うずくまって終わりのない暴力を受けていたはずなのに、夢を見ているのではないかと思った。
だが、この場で目ざめているのは龍麻と少女だけであり、
少女はマットの上で脱がされた制服を抱きしめ、ひたすらに震えている。
何に怯えているのか訊ねようと一歩踏み出して、龍麻は訊かずとも答えを得た。
こいつらを倒したのは自分だ。
そして数年前と同じに、助けた相手に怯えられている。
そうなれば後の展開も予想するのは容易であり、事実、その通りに世界は動いた。
違ったのは龍麻が入院しなかった点であり、その違いは、龍麻に対する無視が、
一日ごとに引き潮のようにはっきりと視えたというだけのことだった。
不良達は学園で知らぬ者とてない鼻つまみ者達であり、彼らが居なくなって悲しむ者など誰もいない。
にも関わらず、彼らを打ち倒した龍麻を級友達は彼らと同じか、それ以上に敬遠し、怯えた。
数年前の事件を覚えている人間もいて、いつしか話は全校に広まる。
あの人小学生の頃から乱暴で、何人も病院送りにしたんだって。
ああ、聞いたことがある。相手は一生動けないとか。
アイツは人殺しと変わらない。
近寄るな、殺されるぞ――
それらの、時には聴覚が及ぶ距離でわざと流される噂に、龍麻は抗弁しなかった。
口を閉ざし、心を閉ざし、ただ時が流れるのを待つだけの生活は、すでに馴染んでいた。
残りの一年半、龍麻は孤独を貫き、そして、高校は遠く離れているところを選んだ。
高校こそは、平穏な生活を送りたい。
そんな龍麻の願いは、またしても二年と保たず裏切られた。
かつてマリアに語った、真神に転校する直接の原因となった事件。
同級生の少女と少し親しくなったというだけで、龍麻と同じ異能の力を持つ男に狙われ、
少女と自分の命を守るために、龍麻は戦わざるを得なかった。
龍麻は勝ち、そして負けた。
男を倒し、少女を救うことには成功したものの、異能の力がぶつかりあったなどと他人に
信じてもらえるはずもなく、高校生同士の喧嘩がエスカレートした挙句の結果と結論を下され、
拐かされた少女が記憶を喪なっていたこともあり、龍麻はほぼ一方的に悪人とされた。
本来なら退学にするところを、三学期までは在籍を許す、
三年生からは他校に通うべしという処分を恩着せがましく語る教師達に、龍麻はもう何も言わなかった。
「この『力』のせいで……ずっと気味悪がられてきました。友達も去り、最後には両親も」
説明はできない、けれども確実に存在する異常な『力』。
人の役に立つ才能ですら、時に理解されず、疎まれるというのに、
自分で制御もできない、そして極めて危険な能力を持つ人間と、親しくつきあえる人間は少ない。
火の粉、というには龍麻の秘める異能は強大すぎ、助けようとした者さえ灼くとあっては、
血を分けた存在からも敬遠されるのは仕方のないことだと、龍麻自身理解せざるをえなかった。
三度孤独となり、食事以外に口を使うこともなくなりかけたある日。
龍麻は最後の味方だと思っていた人物を失った。
まとまった金銭と引き替えに、この家から出て行って欲しい。
本当は実の息子でもないお前にそこまでする義理もないが、
これでどうか、以後一切この家とは縁を切って欲しい。
想像もしなかった事実を突然知らされた龍麻のショックはひとかたならぬものがあったが、
義理の両親の、ひどくやつれた顔を前にしたら、それも些細なものでしかないと冷静に受けいれられた。
彼らの顔に増えた皺の多く、不毛の大地と化した顔、十歳以上も老けた髪。
もしかしたら、いやおそらく、全ては自分に原因があるのだ。
法的には何も罰せられなかったとしても、道義的に罪の意識を抱かないわけにはいかない。
龍麻は深々と頭を下げ、育ててくれた両親の元を去った。
なんとか家を探し、東京で学校に通う手続きを済ませ、龍麻は新たな生活を始めようとした。
実の両親のことが気にならないでもなかったが、
調査するには資金もなく方法もわからず、なにより生活を最優先させなければならなかったので、
断念するしかなかった。
もう未来には何も期待していなかった。
それでも高校だけは卒業しようと思ったのは、
望んでもいないのに持たされ、人生を歪められた『力』に対する最後の意地だった。
卒業さえすれば、もういつ死んでもかまわない。
そんな心境で真神學園に転校し、書類を提出しに行った日に、龍麻はマリアに囚われた
――人間への復讐を目論む、美しき吸血鬼に。
語り終えた龍麻が、過去の出来事でさえも現在の罪であるかのようにうなだれる。
彼が死を望む理由に得心したマリアは、深いため息をつこうとするのを、
かなりの努力で自制しなければならなかった。
「そういうことだったの……それで、ワタシの許から逃げようともしなかったというわけね。
確実に死を与えてくれる、吸血鬼のワタシから」
龍麻が抱えている闇は、あるいは自分に匹敵するほどのものなのではないか──
人間に全てを奪われたマリアは、人間から何も与えられなかった少年を、
色合いを深めた蒼氷色の瞳で見やった。
『力』がどういう条件で発動するのかは不明だが、
死のうとしても中途半端な方法では『力』を発動させてしまうおそれがある。
追いだされたとはいっても両親に迷惑をかけたくはなかったし、
確実に死ねる方法を探す時間はたっぷりある。
そのつもりでいた龍麻が、人外の存在であるマリアに出会ったとき、彼女に従わない理由などなかった。
たったひとつ望んだのは、絶対の死を与えてくれること。
それを叶えてくれるならば、『黄龍の器』として利用されようと、
その後の世界がどうなろうと、龍麻にはどうでもよかったのだ。
「それもあります。でも、嬉しかったんです」
「嬉しかった……?」
ところが龍麻の返答はマリアにとって意外すぎるもので、冷酷な女吸血鬼は咄嗟に紡ぐ言葉を失っていた。
マリアから言葉を奪った男は、マリアの目を見ずに続けた。
「ええ。俺を必要としてくれる人がいる。たとえそれが『力』を欲しているだけだとしても、
俺には初めてのことで、だから嬉しかったんです」
マリアは理解した。
龍麻が葵との約束を守ろうとマリアに逆らったのは、
彼女に何らかの感情を抱いたのではなく、彼女が龍麻を必要としたからなのだと。
生きる理由を見失った龍麻を卒業までの間とはいえ欲し、
そして龍麻は、ただそれに応えようとしただけなのだと。
龍麻が変心したわけではないと悟ったマリアの瞳は烈しさを和らげる。
だが、それも短い間のことで、再び龍麻の頭上で溶けることのない氷は砕け、嵐となって吹き荒れた。
「……そう。でも残念だけれど、ワタシは絶対に復讐を遂げる。
卒業まで生きたいというアナタの願いを聞きいれてあげるわけには、どうしてもいかないわ」
龍麻は頷きも、逆らいもしなかった。
逆らったこと自体を悔いているような彼の態度に、マリアは言いすぎたかと省みる。
けれども、選んだ道を違えるわけにはいかなかった。
茨の道だというのは、選んだときから判っていたのだから。
「佐久間に関しては、ワタシの方で処置をしておくわ。
美里サンは……これまでと変わらない態度で接しなさい。
難しいかもしれないけれど、彼女にとってもそれが最善のはずよ」
聞こえているのかいないのか、龍麻は反応しない。
心が、焼き切れそうになっている――マリアはそう見てとった。
「ともかく、今日は休みなさい」
やや間を置いて、龍麻が頷く。
睡眠は最良の解決策ではないかもしれない。
だが、剥きだしの心を、たとえ一枚の羽毛でしかなくても覆うことはできるだろう。
マリアのそういった気持ちは、もしかしたら矛盾しているのかもしれない。
だが、彼を気遣う気持ちは、人間への恨みや復讐心といったものとは別に存在してもよいはずだった。
龍麻の手を引き、マリアは寝室に入った。
龍麻がロボットのように無機的にベッドに横たわると、
マリアまで眠る必要はなかったが、彼に続いてベッドに入った。
いつも彼の方からされる就寝の挨拶も今日はなく、無言のまま幾らかの刻が流れる。
マリアはそっと隣の気配をうかがってみたが、濃密な龍の氣は感じられなかった。
このまま彼に干渉しないでおこうか、らしくもなく逡巡したマリアは、意を決して彼の手に触れてみる。
もう眠っているのなら、それでよい。
だが、龍麻は、指先をわずかに動かす程度ではあったけれども、確かに応えた。
マリアは手を握りかえし、彼の身体を引きよせた。
龍麻は逆らわなかった。
マリアが一糸まとわぬ姿であるのも厭わず、顔を押しあててくる。
やがて低い嗚咽が、吸血鬼の素肌を震わせはじめた。
彼の頭を抱え、マリアは思う。
誰かを慰めるとき、こうして胸に抱くのは人も吸血鬼も同じなのだと。
マリアはこれまで、誰かに慰められたことも、誰かを慰めたこともない。
なのにこうすれば、他人の哀しみをいくらかでも和らげてやれるのだと知っていた。
それが嬉しいのかどうか、マリアには判断がつかない。
ただ、今そうしてやらなければならないのだとは、何のためらいもなく信じられた。
豊かな黒の頭髪をゆるやかに撫でながら、マリアはふと考えた。
もう少し自分の体温が高かったなら、もっと彼を慰めてやることができただろうかと。
むろんそれは、叶わぬ願いだった。