一九九九年、早春。
春というにはまだ早く、防寒着なしでは寒い季節。
東京の高校は大部分が卒業式となっている日で、
龍麻が通う真神學園もその中に含まれていた。
校長の訓辞や在校生の送辞、卒業生の答辞など、
おそらくはどこの高校でも変わらない儀式が、淡々と進行していく。
それでも卒業する三年生の、主に女子生徒のすすり泣きがあちらこちらから
聞こえてきて独特の雰囲気を醸成し、当事者達はそれなりに感動して式を終えていた。
退場が始まるまでのわずかな時間、整然と並んでいる生徒達の中で、
龍麻は彼女たちをやや白けた目で見ている。
三年次に転校してきた龍麻は友情をはぐくんだ友達もなく、
クラス内でも交流を持とうとはしなかったので、孤立したまま卒業するのだ。
自分で選んだ道だから、それに文句はないとしても、
どうしてたかが卒業で泣くのか、いまひとつ理解できなかった。
では、卒業生の中で龍麻がもっとも醒めていたかというとそうではなかった。
全員の心情を順位づけしたなら、龍麻はむしろ上位に位置するほど高揚していた。
なぜならこれからそれぞれの進路を歩む彼らの中で、
おそらく龍麻が一番に行動を始めるからだ。
教室で卒業証書を受け取り、名実共に真神學園を去る。
校門を出た龍麻の行く先は、家に戻ることなくそのまま空港だった。
それも一人ではなく、二人で。
進路のみならず今後の人生を共に歩む相手は、龍麻と同じ校門から出てくるのだ。
マリアと――三年C組の担任と共に、彼女の故郷に旅立つと知れば、
同級生はどのような反応を示すだろうか。
たとえ相手がこの一年間で交わした言葉が指折り数えられてしまう、
無愛想という言葉の見本のような人間であっても、
彼女と共に暮らすに至った経緯やその他諸々のことを、
一日中かけて聞き出そうとするに違いない。
飛行機のチケットはすでに用意してあり、乗り遅れてしまったら大変なことになる。
だから龍麻はマリアと彼女の故郷であるルーマニアに行くことが決まった日から、
いっそう輪をかけて一日中仏頂面を保つ努力をしてきたのだった。
マリアが来るまでの時間、教室は喧噪に満ちていた。
写真を撮ったり進路を話しあったり、そこかしこで小規模の集団が生じ、
解散し、また生じているそれらは、花火にも似た趣があったが、
龍麻はそのどれにも加わらず、席でじっと座っていた。
この一年ですでに龍麻の存在を認めずに過ごすことに慣れたクラスは、
興を醒ますような態度にも構うことはない。
悪意も、もちろん善意も一切向けず、ただ存在を無視して晴れの日を祝っていた――
ただ一人を除いて。
「緋勇君」
小さく呼びかける声がして、龍麻はふり向く。
そこにはさっきまであちらこちらで呼ばれていた美里葵が、
いつのまにか戻ってきていた。
どんな天使が仕事をしたのか、クラスで一番人気がある葵と、
もっとも関心を呼ばない龍麻が、目を合わせても誰も気に留めていない。
龍麻が気にしたのは、むしろ自分と話すことで彼女に迷惑をかけるのではないかという
点だったが、葵は明確に龍麻一人を相手として話しかけてきていた。
葵がなぜ呼んだのか、龍麻には見当がついている。
龍麻は彼女と約束を交わしていた――卒業まで、毎日休まずに登校すると。
ある悲劇をきっかけに交わされたその約束を、龍麻は守れないとわかっていて交わした。
それは龍麻の心に小さからぬしこりとなっていたのだが、
運命がいくつか進路を変えた結果、こうして約束を守ることができた。
その紆余曲折については語る必要もなく、
約束を果たし、共に卒業できることを素直に祝ってよいはずだった。
「卒業、おめでとう」
「ああ、美里さんも」
短い挨拶を交わしただけで、二人とも口を閉ざした。
必要なことは全て伝えたという想いがそうさせたのだ。
葵はまっすぐ龍麻を見つめ、龍麻は目をそらさずに受けとめる。
葵が話しかけたのは、むしろ見つめあう時間を補おうとしてのことだった。
「緋勇君は……これからどうするの?」
「海外に行くんだ」
「……そう」
小さくうなずいた葵に、龍麻は、自分からも彼女の進路について
訊くべきかどうか迷った末に止めた。
彼女の未来を見届ける資格は、自分にはない。
ただ、彼女が未来に向かって歩いていくのを確かめたなら、それで充分だった。
「緋勇君……元気でね」
「ああ、美里さんも」
芸のない返事を繰り返してしまい、葵が口元をほころばせる。
その笑顔こそが、龍麻にとってもっとも意味のある卒業式の式典となったのだった。
「それでは皆――卒業、おめでとう」
マリアから卒業証書が渡され、高校生活が終わる。
彼女の挨拶と同時に教室には爆発的な歓喜があふれ、
さっきあれほど写真を撮ったり色紙を書いたりしていたのに、
まだ足りないと見えるのか、教室内ではほとんど誰も帰る気配がなく、
あちこちでシャッター音とサインペンが走る音が鳴りはじめた。
彼らに用はないが、学校には居る必要がある龍麻は、
ひとまず教室を出ることにする。
扉を出るときに、たくさんの生徒に捕まっているマリアが
こちらを見たような気がしたが、気づかないふりをした。
まだ油断してはいけない。
最後の瞬間に気を緩めて、すべてを台無しにするわけにはいかないのだ。
そこのところを彼女もわかっているのだろうか――緩む口元を必死におさえながら、
人気のないところまで、早足で向かう龍麻だった。
三十分ほど時間をつぶしてから、龍麻は外に向かう。
待ち合わせ場所は学校を出て最初の角だが、校門のところにはまだ生徒が何人かいた。
その中には龍麻と同じC組の生徒もいて、今出て行くのは何かと不自然だ。
マリアが来るまでに彼らが帰ることに期待して、
龍麻は校門の少し内側で待つことにした。
なるべく目立たないように樹木の陰に隠れるように立つ。
しかし、それがかえって良くなかったのか、
ほどなく龍麻のところに、一人の教師が近づいてきた。
「緋勇」
「犬神……先生」
隣のクラスの担任である犬神杜人は、特に龍麻と親しかったわけではない。
今日はさすがに白衣ではなくスーツを着ている彼が、
特に自分に声をかける理由を、龍麻はむろん知っていた。
「頼みどおり、お前はこの街と彼女を救ってくれた。礼を言うよ」
「街はともかく、マリア先生に救われたのは俺の方です」
謙遜と受け取ったのか、犬神は短く鼻を鳴らした。
無精髭に整えてもいない髪は、いかにも人生に倦んでいる中年教師の態で、
龍麻は未だに彼がマリアと同じく人ならざるもの、
人狼であると信じることができない。
どうして太古より恐怖と畏敬の対象である人狼が、
人間社会で一介の教師などを務めているのか、龍麻には疑問で仕方がなかった。
ただし、それを訊いたところで答えが返ってくる可能性はゼロだろう。
同じ闇の眷属であるマリアが同じ質問をしたときでさえ、
けんもほろろにあしらわれたそうだから。
ポケットを探る犬神が、目当てのものを見つけ、取りだす。
けれどもそれをただ咥えただけで、紫煙をくゆらそうとはしなかった。
それが卒業生の門出を祝うためか、それとも煙草はあっても火がないからなのかは
龍麻にはわからない。
龍麻にわかったのは、今日の犬神の眼は狼のそれではなかったということだった。
「……マリアと、行くのか」
「はい」
「そうか。……大変だろうが、頑張れよ」
片手を上げて犬神が去っていく。
その背を見送っていた龍麻は、人の世に生きる人ならざるものに対する敬意として、
一度だけ小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、待たせたわね」
吸血鬼らしからぬ陽気さで、マリアは現れた。
道行く者を男女問わず振り返らせる颯爽とした足取りで、
季節を二十日ほど先取りしたような笑顔を浮かべている。
「いえ」
迎える龍麻は彼女に較べれば愛想が少なかったが、
それでも彼を知る人間が見れば驚くに違いない、これも楽しげな表情をしていた。
ようやく二人だけの生活が始まる。
吸血鬼と龍の化身とがお互い必要であると確認し、
共に生きる約束を交わしてからおよそ二ヶ月。
いわば猶予期間はそれなりに楽しかったが、
やはり新生活を本当に始める喜びには及ばない。
しかも、それは龍麻よりむしろマリアに顕著で、この二ヶ月、
龍麻は昼と夜とを問わず新しい生活について、
男からすると少し細かすぎるのではないかというようなことにまで及ぶ、
相談と心得とが一緒になったものを聞かされ続けていた。
煩雑に感じたそれらも、いざ実践するときが来たと思うと感慨深いものがある。
「それじゃ、行きましょう」
「はい」
マリアが驚くほど強い調子で答えた龍麻は、新たな未来への一歩を踏みだした。
二つ目の角を曲がり、学校が見えなくなると、
マリアが待ちかねたように龍麻に腕を絡めてきた。
まだ少し早いのではないかと龍麻は後ろを向くが、
マリアにお構いなしで腕を引かれ、よろめいてしまう。
「時間には余裕があるはずですけど」
抗議もどこ吹く風で歩くマリアに、龍麻は諦め、彼女に並んで歩き始めた。
ヒールを履いたマリアの身長は、龍麻にほぼ等しい。
真横に女性の顔があるというのはもちろん初めての経験で、
龍麻はどうにも落ちつかず、つい視線を横に滑らせてしまう。
「どうしたの?」
昼間といえども感覚は人間より優れている吸血鬼がそれを見逃すはずがなく、
すかさず問いかけてくる。
「いえ……その」
あいまいに言葉を濁して逃れようとするも、
出会った頃より明度を増した蒼氷の瞳にじっと見つめられると
たちまち白旗を揚げるほかない龍麻だった。
「まだ慣れなくて」
「どういうこと?」
「だから、その……女の人と並んで歩くのが」
言ううちなにやらとてつもなく恥ずかしくなって、季節にそぐわぬ熱を頬に感じる。
するとマリアは澄んだ笑い声をたてて、絡めた腕にいっそう力をこめた。
歩くには少し不都合なくらい密着してしまうが、マリアに気にした様子はない。
急激に早くなった心臓の音を聞かれてしまったら、
またからかわれてしまうだろうと危惧しつつ、笑う彼女に自分も嬉しくなる龍麻だった。
二人は改めて手を繋ぎなおして歩きだす。
マリアはあきらかにそれ以上のスキンシップを求めていたようだったが、
龍麻にはまだ白昼堂々そこまでする気概はなく、
渋るというより駄々をこねるマリアをなだめすかして諦めさせねばならなかった。
これまでの二ヶ月でおおよそ覚悟はできていても、
これからずっとこんな風にマリアと過ごすことに、
龍麻は喜びが九割で残りが迷惑といったところだ。
何しろ彼女は年期が違う――それに、色気を惜しげもなく散りばめた
彼女の交渉術に冷静な対応をするのはほとんど不可能と言ってよく、
出発点からまるで違うところに着地してしまったのは十や二十ではない。
夕食の献立を決めるはずが台所で血を吸われていたなどというのは可愛い方で、
この二ヶ月でどれだけの体液を失ったか、考えてみるのも怖ろしく、
当然、今後はさらに多く失われる可能性があった。
未来に思いを馳せ、恐怖と同量以上の甘い悦びに龍麻はつい頬を緩ませる。
「どうしたの?」
「い、いえ」
また彼女のペースになってしまうと、本当に飛行機に乗り遅れかねない。
気を引き締め、早足で歩きだす龍麻の背筋に、突然、違和感が疾った。
数ヶ月前寛永寺で感じたものに近い、気持ちの悪い感覚。
それが良からぬものであると直感した龍麻は、
危険の正体を確かめようと周囲を見渡した。
気配はない――人も、生物も。
それどころか周りに立つ木からも、生命の気配が感じられなかった。
こんなことはありえない。
この通りに入るまでは確かに雑多な気配があったのに、
今は砂漠の真ん中に放りだされたかのように、否、
砂漠でさえそこに生きる生命がある以上、
微弱ではあってもなにがしかの気配は感じとれるはずだ。
だが今は、何もない――意識はあり、
五感もあるのに周りから気配だけが消失しているのだ。
何が起こっているのか、龍麻は焦る心を抑え、
マリアの手を強く握りしめて警戒を強めた。
マリアも異変を察知し、一転して険しい表情で辺りを探っている。
もう柳生は倒れ、『黄龍の器』も役目を失い、命を狙われるようなことはないはずだ。
しかし現に異変は生じている。
もしかしたら以前夢の中から美里葵を拐かそうとした輩のような何者かが、
自分かマリアのどちらかを狙っているのだろうか。
いずれにしても、ここに留まっているのは危険だ。
進むべきか、退くべきか。
初春だというのに龍麻は額に汗を感じ、空いている方の手でぬぐおうとした。
そのときだった。
いきなりマリアに突き飛ばされ、わけもわからず龍麻は壁に激突する。
背中をぶつけた痛みに顔をしかめ、思わず怒りの声を放った龍麻の目に映ったのは、
背中から血を噴き、前へと倒れるマリアの姿だった。
赤い血――彼女が着ているジャケットと同じ色の体液が、龍麻の眼前で零れる。
この春からずっと、自身も含めて非現実的な世界に
片足を踏みいれてきた龍麻でさえ、受けいれがたい現実。
たった今まで手を握りあっていた女性が、静まりかえった東京の路上に
不本意にくちづけを強いられた光景を、龍麻は呆然と見ていた。
その龍麻の右方、マリアの背中側の路地に、一人の男が立っている。
人ならざる存在であるマリアと、人でありながら人にあらざる力を持つ龍麻に、
一切の気配を悟らせることなくマリアを撃った男は、
銃口にたゆたう硝煙をこれ見よがしに吹き消した。
「やっと見つけたぜ、吸血鬼め」
そこだけを切り取ったかのような黒いコートを羽織り、
眼鏡の奥に狂気を、声には喜色が滲んでいる。
「化物風情が人間のフリして生きようだなんて反吐がでるぜ。
死ねよ、いや、殺してやるぜ、神の慈悲の下にな」
男は狩人だった。
闇に生きる人ならざるものをターゲットとし、
狙い定めた獲物を世界の果てまでも追いつめ、獲物の意思などお構いなしに狩る。
狩った獲物の肉や皮には興味も示さず、ただ生命を狩ることだけを目的とした狩人。
神と人間以外の全ての存在を否定する機関から派遣された狩人の名は、
来須狩夜といった。
吸血鬼という大物を狩ることに成功した来須は、興奮を抑えきれなかった。
新たに開発された対魔用結界が、見事に性能を発揮していた。
開発部の連中がでかい顔をするのは気にくわないが、
吸血鬼を屠れるのならば悪くない。
事前に設置する手間はあるとしても、五百メートル四方の空間内で
あらゆる生命反応を隠す結界は、他の人間よりも感覚の鋭い化け物共にも
効果は絶大と思われた。
『祝福を与えられた銀の弾丸』は闇の眷属に対して必殺の武器となる。
弾丸は確かに命中し、吸血鬼は倒れ伏した。
あとは吸血鬼と一緒にいた餓鬼を始末すれば、来須の仕事は終わりだった。
「少しばかり餓鬼にはショッキングな場面だったか?
だが吸血鬼の下僕になった奴は宿主が死ねば一緒に死ぬ。
せめてもの情けだ、てめぇは殺さないでおいてやる。宿主に別れでも言うんだな」
得々と語る来須の弁を、龍麻は全く聞いていなかった。
聴覚は機能していたが、感情が神経の一部を断ち切っていたのだ。
既に龍麻の怒りは限界に達していた。
その限界に最後の一滴を垂らしたのは、他でもない来須だった。
幼い頃から人ならざる『力』に振り回され、感情というものを摩滅させていた龍麻に、
全身の血管の隅々にまでマグマを流しこみ、噴火させたのは、
人ならざる者を狩るという名目の下に人と同じ姿形をしたものを殺す、人間だった。
人間に絶望した龍麻に再び希望を与えた人ならざる者を奪ったのは、龍麻と同じ人だった。
それをやりきれない、などと龍麻は思わない。
マリア以外の全ての存在がどうでも良かった龍麻にとって、
彼女に害なすものは人であろうとなかろうと全て同じであり、
龍麻の怒りはただそれだけの理由で制御不能なほどに膨れ、爆発したのだ。
背後から撃たれたマリアを、一切の衝撃を与えない慎重さで抱きおこし、
仰向けに横たえたまでが、龍麻をかろうじて人と呼べる時間だった。
穏やかともいえる物腰で来須の方を振り向いた龍麻に、すでに人としての貌はなかった。
「きさま……」
正対する化け物に、来須は鋭い舌打ちの音を立てた。
なまじ情けをかけたばかりに、余計な手間が一つ増えてしまったのだ。
「チッ、往生際の悪い……仕方ねぇ、てめぇも殺してやるぜ」
来須が受けた命令は吸血鬼を狩れ、というものであり、
それ以外の者を、特に人間を殺すことは固く禁じられている。
しかし、特に吸血鬼の場合は手下となった人間が傍にいることもままあり、
その中には龍麻のように激昂して襲いかかってくる者もいた。
そういった人間を殺した場合、機関による厳正な審問が行われ、
機関が正当だと認めた場合は不問に付される。
だが審問そのものが異形を狩るエージェント達からも怖れられるほど苛烈であり、
ほとんどのエージェントは審問の対象となりそうな場合は一度後退し、
機を見るというほどだった。
その中にあって来須は違った。
人ならざる者はもちろん、それらの存在に加担する者は女子供であっても容赦なく殺した。
その行為には当然批判が起こり、『機関』の影響が充分に及んでいる地域からさえも
抗議が殺到したが、来須は審問官に対し狂気ともいえる答えを返し、
彼らを鼻白ませること毎回だった。
それでも来須が職を解かれなかったのは、ひとえに『妖魔狩り』の能力の高さによる。
素質を意思が確立させた来須の才能は他に抜きんでており、
主であるはずの『機関』は彼の後始末をさせられることを苦々しく思いつつも、
手放すことはできなかったのだ。
目の前の餓鬼はすでに吸血鬼の下僕となっているかどうか、
とっさには判断がつかない。
だがいずれにしても敵対するのなら殺すまでで、
来須はそれらに対応する術を幾つも身につけていた。
弾倉にはまだ充分に弾が残っており、
たかが一匹の吸血鬼くずれを屠るなど造作もないことだ。
むしろ面倒くさげに来須は、事後処理を行おうとした。
来須の油断を責めるのは酷だったろう。
来須は妖魔退治を三桁にのぼるほどこなしてきた熟練であり、
駆け出しの頃を除けば敵に遅れを取ったことはほとんどなかった。
吸血鬼は闇の眷属の中でも強敵であり、その吸血鬼をほとんど専門に狩る来須は、
『機関』の中でも五指に入る狩人だった。
その来須が、龍麻の動きを予測できなかった。
復讐心に駆られた龍麻が反撃にでることまでは予想の範囲内としても、
速度が彼の計算を全く超えていたのだ。
「な……ッ」
照準を定める間もなく、右腕が掴まれる。
銃を封じられた来須は、すぐに左手で対吸血鬼用の神具を取り出そうとした。
「ぐぁァァッ!!」
その瞬間、右腕に激痛が走る。
腕が爆ぜたかと思ったほどの強烈な痛みだった。
たまらず左手で抑えた来須は、そこにまだ己の腕があることを知る。
では、何が──
答えはすぐに明らかになった。
「──!? てめぇ、何をしやがった」
右腕が動かない。
肩から肘、指の一本に至るまで、全く感覚がなくなっていた。
壊された──膨大な量の氣を瞬時に流しこみ、身体組織に過負荷を与え破壊する。
理屈ではわかっていても、実際にそんなことができる存在など来須は知らなかった。
『機関』に属する氣の使い手にも、ここまで圧倒的な能力を持った者はいないのだ。
「貴様……、貴様、よくもッ」
右腕を押さえるという致命的なロスを犯してしまった左手を、
急いで神具のあるコートの左のポケットに入れようとする。
すると無防備になった顎に、痛烈な一撃を見舞われた。
眩暈、などと生易しいものではない衝撃が弾け、平衡感覚が消失する。
致命的な一瞬の後に来須が見たのは、咆吼する人ならざるものだった。
来須はようやく、自分が何と対峙しているのか知った。
決して目覚めさせてはいけない龍──地球上で最も危険な存在が、
怒りに震え、持てる力を解き放とうとしている。
仕留めた吸血鬼などとは比較にならない強大なもの。
文字通り地球の化身が、愛する者を奪われた怒りをただ一人の人間にのみ向けていた。
俺は、死ぬ──
それは既に事実だった。
いかなる奇跡をもってしても、この事実を覆すことは叶わない。
愛する者を奪われて以後、神を捨て、
闇の存在を狩ることを生命の目的としてきた来須には、それが解った。
解らないはずがない。
目の前にいる、まだ二十歳にも達していないような子供は、
既に人の形をとっておらず、憎しみを赫い結晶と化して襲いかかっている。
その、あまりに純粋な赫に、来須は納得するしかなかった。
龍麻の拳は身体のありとあらゆる部分を殴っている。
氣を使っておらず、筋力だけで殴っているのは、いたぶろうとしているからではなく、
我を忘れた怒りが体内で氣が増幅するのを妨げていたからであったが、
死にゆく来須にはどうでもよいことだった。
龍麻はひたすらに目の前のものを殴打する。
いや、既に殴っているという意識すらなかった。
己を赫怒させたものに対し、ただそれをぶつける。
目の前のものが消失するまで、何度でも、どれほどの時間を費やしても、己が肉体を、
もう委ねることはないと思っていた『力』に蹂躙させるだけだった。
倒れようとする来須を掴み、引きずり起こして殴る。
殴るのを止めれば悲しみに直面しなければならないと知ってか知らずか、
龍麻の暴力はいつ果てるともしれず続く。
それを止めたのは、龍麻を上回る暴力ではなく、か弱い女性の声だった。
「待ち……なさい……」
その声は耳を澄ませたとしても聞こえたかどうかというほど弱々しかったが、
龍麻の聴覚にパズルの最後の一片のようにぴたりと吸いこまれた。
人の形をした暴力は、糸を引っ張られた操り人形のように動きを急停止させる。
それでもなお、龍麻は愛しい女性の呼びかけに応えるのに、
砂粒がかなりの量落ちるまで待たねばならなかった。
目の前にうずくまる許しがたい存在は龍麻を惹きつけてやまず、
意識をそこから剥がすのには困難がともなったのだ。
「駄目よ、龍麻」
「どうしてです! こいつはマリア先生が憎んだ人間ですよ。
しかもマリア先生を撃った。百回殺したって構わないはずです」
龍麻の声は抑えることが不可能な怒りを、
マリアと話すためだけに一時ねじ曲げているので、抑揚が定まっていない。
腹部に広がる、銃創以上の痛みに必死に耐えながら、マリアは諭した。
「あなたは……人を殺してはいけないわ」
「……」
「お願い」
長い沈黙が流れる。
返事を促された龍麻の周りには、行き場を失った膨大な氣がまだらの模様を描いていた。
才気あふれる画家がいたら、これをモチーフに傑作を描きあげたかもしれない。
見る者を狂気へと誘いかねない、強烈な反発とごくわずかな崇拝を得ることになるが、
その代償として制作者の生命を要求される絵を。
マリアの頼みを呑むか、龍麻は葛藤している。
この間に来須が逃げ出すことは不可能だった。
逃げようという素振りを見せた瞬間、龍は顎を開き、
紅蓮の焔で灼き払うというのが判りきっていたからだ。
瀕死の来須は喘ぎながら龍麻とマリアの動向を見守っていた。
もはやそれだけしか、来須にできることはなかった。
来須に背を向けたままの龍麻は、両肩から怒りを立ちのぼらせたまま、
微動だにしなかった。
長い沈黙の後に発せられた声には、歴戦の狩人である来須をも戦慄させる響きがあった。
「マリア先生が言うから、一度だけ見逃してやる。
だけど次に顔を見せたら必ず殺す。マリア先生が止めても必ず殺す。
俺はお前の顔を一生忘れない。だから命が惜しかったら二度と俺達の前に現れるな」
龍麻が本当はそうして欲しいのだと来須は悟っていた。
今度目の前に現れれば、晴れてマリアの仇を取れる。
龍麻がマリアの命令だから自分を助けただけであり、
本心は来須狩夜を一分子に至るまで地球上から消し去りたいのだと、
殴打を受けた全身に、恐怖と共に植えつけられていた。
敗北感と、それ以上に屈辱的な恐怖を抱いたまま、来須は立ちあがる。
吸血鬼は始末し損ねたが、命があっただけましだと納得しなければならなかった。
口の中に溜まる血すら吐きださずに、狩人はこの場を去った。
来須の気配が消えたことなど、もはや龍麻にはどうでもよかった。
目の前に倒れる最愛の女性の安否、それだけが龍麻の関心事だった。
そして事態は龍麻の望まぬ方へと進もうとしていた。
マリアの衰弱はあきらかで、無限の命を持つはずの吸血鬼は、
彼女たちさえ支配できぬ闇へ旅立とうとしていた。
「先生……先生っ……!!」
声が慄えているのも、泣いているのも龍麻は自覚していない。
龍麻の感覚が捉えているのは、マリアの青白い肌だけだった。
彼女の肌はこんなに青白かっただろうか?
記憶をたどろうとするが泥に足を取られたように思考が進まない。
考えている場合ではない。
なんとかしなければ。
でも、なにを、どうやって。
龍麻は混乱し、うろたえることしかできなかった。
とにかく、病院へ――しかし、銃に撃たれた吸血鬼を治療してくれる
病院などどこにある?
では、どうすれば。
泥はいっそう重くまとわりついてきて、全てを妨げる。
なぜ気配に気づけず、マリアを守れなかったのか。
自責と後悔までもが泥の濃度を高め、龍麻を引きずりこもうとする。
いっそ、あの男に一緒に殺された方が良かったのかもしれないとまで思ったとき、
どこかから男の呼ぶ声がした。
「緋勇」
なぜこんな時に自分の名前が呼ばれるのか。
疑問はあっても解決しようという気になれず、応じる気にもなれず、
龍麻はうつむいたままだ。
だが呼んだ相手は図々しくも隣に来て、膝をついた。
「これは……何があった」
返事をしない龍麻にもう一度訊ねるような手間はかけず、
男はいきなり龍麻の頬を殴った。
「……!! 犬神、先生……先生が……マリア先生が……!」
「しっかりしろ、何があったか話すんだ」
マリアを倒すために来須が張った結界が、真神學園のすぐそばであったのが幸いした。
気配を感じる能力にかけては吸血鬼よりも優れている人狼は、
突如消失した気配にただならぬものを感じ、学校を抜けだして様子を見にきたのだ。
正気を取り戻した龍麻は、必死に状況を説明する。
今や犬神のみがマリアを救う唯一の望みだった。
だが、龍麻の話を聞き終え、マリアの傷口を確かめた犬神は、
常にも増して厳しい表情を保ったままだった。
「彼女は死んではいない……だが、このままでは意識を回復する見込みはない」
「そんな……!!」
「銀の弾丸は闇の眷属にとって致命的な武器だ。
マリアの場合、貫通したから死には至らなかったが、
生命力が極度に低下していて、自力で回復できなくなっている」
「何か……何か方法はないんですか……!」
慄える龍麻を犬神は、同志に対する眼差しで見やった。
「崑崙へ行け。それしか彼女を救う術はない」
煙草を咥え、火を点けようとして止めた犬神は、
ついさっきまで教え子だった男を真正面から見据えて言った。
マリアを抱えたまま、果てのない哀しみを宿した龍麻の瞳に応え、さらに説明する。
中国の奥地、天に連なる峻厳な山脈の果てにある神秘の世界。
人の世にある、人の世からもっとも遠く離れた場所。
そこに住まうのは、犬神やマリアといった闇の眷属ではないが、
同じ人ならざるもの――神仙。
「崑崙なら、清廉な空気が癒してくれるかもしれん。
あそこは人ならざるものにも、全ての生命に平等の場所だからな」
犬神に答えぬまま、龍麻は聖者を扱うようにうやうやしくマリアを抱きあげた。
すでにマリアの意識はなく、だらりと垂れた手が、壊れた人形を思わせる。
「崑崙へ行っても治る保証はない。それに治るとしても、百年かかるかもしれん」
何年かかろうと関係なかった。
マリアを癒せる可能性がそれしかないのならば、龍麻に迷いはなかった。
頷いて意思を表明した龍麻は、もうひとつ、きわめて重要なことを訊いた。
「先生。あいつのこと……何か知っていますか」
マリアと同じ闇に属する犬神でさえ背筋がぞくりとしたほど、
龍麻の咆吼には凄みがあった。
「奴を殺すのはマリアに止められたんじゃなかったのか」
「殺しませんよ。でも巣は壊しておかないと、また害虫が出てくるかもしれない。
結果として巣の中にいた害虫が死んでも、俺は知りませんが」
止めようとして犬神はやめた。
龍を止めることのできる生物など、この世界には存在しない。
それに、むしろマリアを止め、人類を護ろうとしていた
龍麻の逆鱗に触れたのは人間の方なのだ。
驕り、省みることのない人間どもに、鉄槌が必要だという気分も確かに犬神にはあった。
「彼らは『魔女の鉄槌』という秘密結社だ。人外の者を探し、狩るのを使命としている。
本部は確かローマにあったはずだが、容易なことでは探せないぞ」
「いえ……それだけ判れば充分です。時間ならありますから」
マリアの顔に一瞬眼差しを投げ、龍麻が呟く。
その抑揚のない呟きこそが、絶対の意思を凝縮したものであると、
犬神は紫煙に紛らわせた表情の奥で理解していた。
「それじゃ、先生。もう二度とお会いすることはないと思います」
「ああ……じゃあな」
去っていく二体の人ならざるものを黙して見送った犬神は、
やがて彼らが見えなくなると、胸のポケットから煙草を取り出した。
「かくて龍は天に還る……か」
犬神は呟き、愛用の煙草に火を灯した。
人に心が近づいてしまうこんな時は、人が生み出した嗜好品を吸うに限った。
いつもよりも深く煙を体に入れ、ややあってから吐き出す。
東京の空に消えた煙を、犬神はしばらくの間見つめていたが、
やがて踵を返し、彼の住処へと還っていった。
道無き道を、龍麻は進む。
もはや獣の気配すら失せた、始原の混沌を思わせる濃密な霧と、
これもやはり原初の息吹そのままの荒ぶる風が吹く、
現世かどうかも判らぬ霊峰が連なる場所。
黄龍の力を以てしても、少しでも気を抜けばたちまち颶風と同化してしまいそうな
険しい道を、ただひたすらに龍麻は歩き続けた。
目指す場所は、ただひとつ。
背中に負った最も愛する、人ならざる女性の命を救う崑崙と呼ばれる地。
あるのかどうかすら判らぬ、たとえあったとしてもそこで魔を滅する銃弾を受けた
マリアが回復するかどうかは、蜘蛛の糸よりも細い望みしかなかったが、
龍麻は自身の生命をも省みず、人の身では決して辿りつけない仙境を求め、
峻峰をさまよった。
背中にあるマリアの重さだけが全てとなって、一年が過ぎた頃。
山中を歩き続ける龍麻の眼前に、唐突に一人の男が現れた。
うつむいて歩いていた龍麻は、はじめ男の存在に気がつかず、
声だけを先に聞いたので、幻聴かと思ったほどだ。
しかし顔を上げた先には、確かに一人、人間かどうかはさておいても、
少なくとも人語を話す何者かが立っていた。
「お待ちなさい。ここより先は人が進むことは叶わぬ地です。
見たところあなたも純粋な人ではないようですが」
声の主は龍麻よりもやや年上に見えた。
だが編み笠を深く被って顔は判然とせず、
声も十重二十重に反響して男のものであるかどうかすら判らない。
明確な敵意は感じられなかったが、この秘境に住まう以上常人であるはずがなく、
おそらくは門番的な存在として、
人の身で崑崙を目指そうとする愚者を阻む役割があるのだろう。
しかし、そうと分かっていても龍麻は退くわけにいかない。
疲労は限界に達し、今この場で倒れ伏してしまいそうだったが、
龍麻は残された気力をかき集めて目の前の神仙に懇願した。
「お願いだ、崑崙ならこの女性を救えるって聞いたんだ。
だから、頼む……俺達を通してくれ」
「駄目だ、と言ったら崑崙ごと壊しそうな勢いですね、あなたの氣は」
穏やかな口調を崩さないまま、番人はあっさりと二人の立ちいりを許可した。
彼の言うとおり、最終的には戦ってでも通らなければならないと覚悟をしていた
龍麻は、安堵と襲ってきた疲労を一度に吐きだした。
「ですが、ひとつだけ言っておくことがあります。
崑崙に入ったら最後、あなた達は人界へ戻ることはなりません。
これはいかなる理由をもってしても覆すことは適わない、天の理です。
その覚悟がおありなら、どうぞお進みなさい」
「ありがとう。……それなら、先にこの女性だけ世話をしてくれないか。
俺はまだ、やり残したことがあるから」
「いいですよ。ただ言っておきますが、崑崙では時間の流れは無意味です。
つまり、あなたが人界で時を過ごすほど、彼女との時間は離れてしまいます」
「ああ、多分……一年はかからないから」
いつのまにか目の前に立っている神仙が手をさしのべたので、
龍麻は最愛の女性を預けた。
神仙は筋骨隆々ではないのに軽々とマリアを抱きあげる。
本当ならせめて彼女が休める場所までついていきたいところだったが、
二度と人界に降りられないというのならば、しておかなければならないことがあった。
龍麻は神仙に深々と頭を下げる。
神仙は軽くうなずいただけであったが、彼は信用できると龍麻は思っていた。
少なくとも抵抗の意志すら見せていない女性を背中から撃つような輩とは違うと。
頭を上げた龍麻は、未練を断ち切るようにマリアに背を向け、
ようやく辿りついた秘境を再び後にしたのだった。
二十一世紀、東京。
犬神は変わらず真神學園で教師を続けていた。
その授業は教師の投げやりな口調のためにやや分かりにくいが、
内容は過不足なく必要な知識を与えてくれるというのが生徒の間での評価だった。
むろん犬神がそのような評判など意に介することはなく、
マリアと同じく無限の寿命を持つ人狼は、人間に抗うでも諂うでもなく、
淡々と己に課した役目を遂行していた。
その犬神が、イタリアの片田舎にある小さな教会が消滅したというニュースを
知ったのは、彼の元同僚と元教え子が同時に姿を消してから約二年半後のことだった。
そこがある特定の偏狭な人間にとって極めて重要な施設であることを犬神は知っているが、
事件はそれが故にニュースになったのではない。
教会がある夜を境に完全に消滅していたことが、世間の耳目を集めたのだ。
一切の痕跡を残さず、ただ地面に建っていた跡を残すのみで消失した教会に、
様々な憶測が流れとんだ。
悪魔の仕業、落雷、新兵器の実験。
科学的なものも非科学的なものも、だがそれらのいずれも違っていると知っているのは、
遠く離れた異国の一高校教師だけだった。
数ヶ月後、今度はハンガリーで。
そして更に数ヶ月後は、スペインで。
同種の事件が発生し、それらはいずれも最初のフランスと同じ状況であったために、
人々の想像欲をかき立てずにはおかず、
多くの科学者やオカルティスト達がこぞって自説を発表したが、
結局原因が明らかにならないので、やがて人々の興味は薄れていった。
もしも彼らが真相を──古代東洋に伝わる『龍』が怒りを顕現させたのだと知ったなら、
彼らは決して龍を放置したりはしないだろう。
怖れ、次いで怒り──過去、彼らがそうしたように、
自分達の怒りになんら疑いを持たずに征服しようとするに違いない。
それは彼らにとって幸福なことであっただろう。
龍は、彼らが踏みつけ、存在を顧みることさえしなかった数多のものと異なり、
本当の意味で畏怖しなければならないものなのだ。
自身と愛する者を守るためになら、龍は地球を破壊することすら辞さないだろう。
新聞を畳んだ犬神は、肺の奥まで導きいれた紫煙を、天上に向けて吐きだした。
煙は濁った空を遥か、龍の住まう彼方へと消えていく。
かつての同僚と教え子に手向けた、それは最後の花束だった。
龍麻が崑崙に戻ってきたのは、当初のもくろみとは異なり、
初めて彼がこの地を訪れてから十年が過ぎた後だった。
マリアを撃った者が属する機関は予想以上に規模が大きく、
本部を壊滅させるまでにそれだけの時間がかかってしまったのだ。
「お久しぶりですね」
十年前と同じ門番は、十年前と同じ姿で龍麻を出迎えた。
彼が崑崙に住まう神仙であるという事実を改めて確認した龍麻だが、
その驚きよりも意識はよそに向いていた。
「彼女は目覚めてはいません」
おそらくはそれを察して、神仙は龍麻がもっとも気になっていた事実を端的に告げた。
目覚めてはいない――覚悟はしていたけれども、辛い現実。
しかし同時にマリアはまだ死してはおらず、いつの日か目を覚ます可能性がある。
ならば龍麻にできるのは、待つことだけだった。
「ご案内しましょう」
彼の後に続き、龍麻は崑崙へと足を踏みいれた。
マリアの姿もまた、十年前と変わらなかった。
マリアはもともと極めて寿命が長い種族だから、
十年ていどで見た目は変わらないかもしれないが、
十年の月日を人界で戦い続けて相応に歳を取った龍麻は、
やはりここが異世界なのだと実感する。
「それでは、私はこれで」
「ああ――ありがとう」
余計な質問を一切せずに去ってくれた神仙に、龍麻は心から礼を言った。
いずれきちんと説明する必要があるとしても、今だけはしばらく二人にして欲しかった。
「マリア、先……生……」
十年ぶりに口にした愛する女性の名は、
あふれる情感に声帯のコントロールを妨げられて、上手く発音できなかった。
呼びかけに応じないマリアの手を、龍麻はうやうやしく取る。
冷たい手――最後に手を握った、彼女が撃たれた時の記憶がよみがえり、
龍麻の目からふいに涙がこぼれた。
手の甲にはじけた熱さが、マリアの手にも伝う。
この熱で、マリアが目覚めればよいのに――龍麻は願い、
願いが叶う日を信じて待つことにした。
時間の流れさえ、もはや龍麻には不用となっていた。
ただマリアが目覚める時だけが、唯一龍麻の必要とする瞬間だった。
一日に数度、マリアに話しかけ、目覚めない彼女にほんの少しの落胆と、
死んではいない彼女に大きな希望を抱いて次の日を待つ。
それを何回も、何百回も、何万回も繰り返した。
果てのない旅路に龍麻は、永い刻を一人生きてきたマリアの孤独を理解する。
傍に愛しい人が居て、希望という杖に頼ってさえ時に辛いと思うのだ。
憎しみによって支えられてきた彼女の孤独は、
素足で茨の上を歩くに等しい辛苦だったに違いない。
マリアが目覚めたら代わりに自分が杖となろう。
どれほど細く、頼りなかったとしても、絶対に折れない杖に。
龍麻は誓い、その日が訪れるまで、また歩き始めるのだった。
無限の夜と永劫の昼が龍麻とマリアの上に積もる。
龍麻はあきらめこそしなかったが、変わらない日々にいつしか慣れてしまい、
目覚めないマリアを日常だと受けいれていた。
時折訪れるあの門番の神仙に、人界ではどれくらいの時間が流れたのか
聞かされても、驚きも感慨も抱くことはなく、淡々とマリアの傍に座るだけだった。
そんなある日のことだった。
闇の中から、意識が抜け出る。
瞼に感じる光に不快感を抱きながら、マリアは目覚めた。
眼前に広がる天井は、見知ったものではなかった。
それはすぐに判ったが、思考が全くついてこない。
ぼんやりと、視界同様霞む意識はもどかしく、随分と永い時間眠っていたのだろう。
まだ身体を起こす気にはなれず、まず、ゆっくりと溜まっていた呼気を吐きだした。
次に唇を舐め、そこが随分と乾いていたことを知る。
口全体もどこか、薄衣を挟んだようにしか動かせず、マリアは、
ひとまずもう一度息を吐き、起きるための力を溜めようとした。
その時、すぐそばで音がする。
「先、生……?」
ひどく懐かしく感じる、男の声。
それは他のどんな儀式よりも素早く、沈降していたマリアの意識を水面へと引き戻した。
「龍麻……?」
自然に名前が口を衝く。
それは呼ばなければならない名であり、呼べるはずのない名だった。
「ワタシ……撃たれたはずなのに……どうして……?」
マリアの疑問は解答を得られなかった。
記憶の中よりも大きく見える龍麻は、相変わらず長い前髪で隠れている目を
一杯に見開いたかと思うと、いきなり泣きだしてしまったからだ。
事情が全くわからないまま、マリアは数分の間、辛抱強く待ち続けなければならなかった。
「……そう」
泣き止んだ龍麻から、眠っている間にどれだけの時間が人界では流れたか
聞かされたマリアは、静かにため息をついた。
自分はもともと無限に近い時を生きる種族であるから、何百年が過ぎていようと関係ない。
だが龍麻を巻きこんでしまったことに、マリアは深い悲しみを抱かずにはいられなかった。
彼はもう、孤独なのだ──自分と同じに。
「ごめんなさいね」
彼の知り合いは誰もいない。
共に高校の一年間を過ごした仲間達は、既に何代も前の祖先となっていた。
そして人間は増え続け、持てる貪欲さを恥じらおうともせずに
マリアの望まない世界を作り続けている。
しかしマリアは、もう彼女から全てを奪っていった彼らに関心を持っていなかった。
全てを喪っても、代わりにたったひとつ手に入れたものがあったからだ。
「いえ。どのみち、もう人界には下りられませんし」
初めて会った時と較べると、龍麻は随分とおとなびた話し方になっていた。
彼と共に過ごした時間の永さを思うと、マリアの目頭は自然と熱くなった。
おそらくは同族でさえも経験したことはないであろう、永い時間――
緋勇龍麻は、かつては教え子であり、贄であり、そして、愛した男は、
マリアですら信じなかった永遠を信じ、待ち続けてくれたのだ。
あふれだす涙を、マリアは拭わなかった。
それは龍麻に与えられるべき煌めきであったから。
幾百年かぶりの涙は、その意味を龍麻に正しく伝えられているだろうか。
マリアは急に不安になり、彼を見た。
そこにあったのは、陽だった。
あまねく世界を照らす、暖かな光。
もうマリアは迷わなかった。
闇の眷属ですら包みこむ陽に、マリアは飛びこんでいった。
蒼氷色の瞳は輝きを乱反射させて、正視できないほどの眩しさを放っていた。
それゆえか、視線を避けようとする龍麻の頭を抱き寄せたマリアは、首筋に腕を回す。
そこにかつて存在した孔はなくなっていた。
いつかまた、穴を穿つ日が来るかもしれないが、
それはしばらく後になるだろう――龍麻が傍にいてくれた日数程度くらいは後に。
待つことは、もうマリアにとって苦痛ではなかった。
「ところで」
泣きはらしたままの男の顔に、たまらない愛おしさを覚えながら、
マリアは低い声を発した。
首筋に回した腕にも力をこめ、ただごとでない雰囲気を龍麻に知らしめる。
含み笑いを噛み殺し、目覚めて何よりも真っ先に気づいた点を静かに指摘した。
「まだ直っていないのね……先生はつけないで、と言ったはずだけど」
「……!! す、すみません」
狼狽する龍麻の耳元に唇を寄せ、さらに声を低めてささやいた。
「これからは名前の後に『愛してる』をつけなさい。
そうすれば、先生なんてつけなくなるわ……いい考えでしょう?」
言わなければ離さない、と抱きしめると、龍麻は顔を火照らせて従った。
彼の顔を正面に捉えたマリアは、唇を触れさせんばかりに近づけて言った。
「ワタシもよ、龍麻。愛しているわ……永遠に」
偽りのない、それは誓約だった。
完結です。御都合主義万歳III。
読み返して思ったのは、エロすくねえなこれ。R-15くらい?
たぶん、原作を借りるとはいえ長編が書けるのかって試してみたかったんだと思います。
おつきあいくださりありがとうございました。