※この作品はR-18です。

人ならざるもの   作:SVX

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第2話

 マリアにとって新たな偽りの仮面を被る朝。

あとおよそ八ヶ月この仮面を被り続ければ、数百年待ち望んだ刻が彼女を祝福する。

その刻を思えば、数百日などマリアにとって秒針が移ろう程度の時間でしかなかった。

 小さな伸びをして、マリアは心地良い目覚めを迎える。

日が射しこまないよう厚いカーテンを引いてある部屋は、灯りを点けなければ

朝でも夜と変わらぬ暗さだったが、闇に生きるものであるマリアには関係ない。

頭を振り、鮮やかな金髪にまとわりつく最後の眠気を振り払ったマリアは、

隣にあるべきものの姿がないことに気づき、愕然とした。

「緋勇クン……?」

 昨日から一つのベッドで寝ることになった若い男の名を呼び、すぐに舌打ちする。

闇の種族でない彼が、姿を消す能力インビジビリティなど持っているはずがなく、

ここに居ないのならば返事など返ってくるわけがないのだ。

シーツに手を置き、まだ温かいことを確かめたマリアは、素早く昨日の行動を再確認した。

 転入に関する伝達事項があると偽って龍麻を呼び出し、雑談をする。

何の疑いもなく紅茶に混ぜられた薬を飲んだ龍麻は昏睡し、

マリアが目論む大破壊カタストロフィに向けての最大の難関であると思われた、

『黄龍の器』はあっけないほど簡単に手中に堕ちた。

死する運命を告げられた龍麻は、意外にも取り乱したりはせず、

自らの境遇を受けいれ、マリアの家に同居することをも承諾したのだった。

 そこまでは神の存在を信じかけるほど順調で、マリアは祝杯をあげたくなったほどだ。

だが、その後にようやく、トラブルらしきものが訪れた。

 迂闊と言えば迂闊だが、マリアは捕らえた龍麻をここに住まわせることまでは計画していたのだが、

その後のことは全く考えていなかったのだ。

彼の分を用意し忘れたベッドもそのひとつで、捕らえた贄にその夜に指摘されて初めて、

マリアは龍麻の分のベッドを用意するのを忘れていたのを知ったのだった。

もっとも、龍麻は贄であり、贄に裸身を晒したところでマリアが動揺する必要などない。

つまるところこんなことは些事であり、ベッドは幸いにして二人寝られる大きさがあるのだから、

マリアとしては何の問題もなかった。

 ところが、一年後に死を約束されても平然と受け入れた龍麻が、

下着姿の女と同衾するだけでひどく抵抗を示し、それだけはできないと強く突っぱねた。

挙句、三十分に渡る押し問答の末、寝ても良いが、

マリアが寝着を着なければ帰るとまで言い出したのだ。

 家畜以下の存在に歯向かわれ、マリアは激昂しても良いところだった。

それを抑えたのは、他の部分では龍麻はおおむね従順であったから、

この程度は妥協しても良いと思ったこと、

そして、頑なな諦観を備えたこの若き人間に、

堕落を教えてやるのも悪くないと闇の眷属としての性さがが囁いたという理由からだった。

 そうしてマリアが、何世紀かぶりに夜着を着てベッドに入ると、龍麻はあからさまに背を向けた。

龍麻はマリアが誘惑しようとした相手ではなく、虜にならなくても気にする必要などない。

にも関わらずマリアは、ちらりとも視線を投げずに自分を拒む男に、怒りにも似た感情を抱いた。

血を吸われ、命を削られてもなお服従せずにはいられない背徳の悦びを、

四肢の隅々にまで植えつけてやらなければならない。

そして最後の瞬間には、贄みずからが望んで命を差しだすように──

マリアにあと必要なものは時間のみだ。

その刻が訪れるまで、この程度の他愛のないゲームなら興じてもよいだろうと考えたのだ。

 そしてその結果が、今朝のこの状況というわけだった。

稚気にも似た余裕を見事に逆手に取られた格好で、

数百年の刻を生き、これからも生きるだろう存在は、いささかならず動揺してベッドから下りた。

 その、人ならざるものにしかありえない白さの踝くるぶしを、

カーテンの裾から漏れた朝の光が照らしだす。

闇の眷属であるマリアにとって太陽の光は喜ばしいものではないが、

伝承に伝えられるように浴びると灰になるなどということはない。

炎天下の中に一日放り出されれば倒れるのは人間も同じで、日傘をささずに歩き回る程度なら、

つまり人間とほぼ同じ条件で太陽の下でも活動することができた。

十字架、などというシンボルに恐怖することも当然なく、

教会の前を歩いて気分が悪くなる、などという弱点もない。

 今朝のマリアが不快感を抱いたのは、たかだか十八年程度しか生きていない人間に足元をすくわれたのと、

肌にまとわりついている薄衣のせいだった。

もどかしげに服を脱ぎかけ、ふと隣室から漂ってくる匂いに気づく。

ひとりでに発生することはないその匂いの発生源を確かめようと、マリアは寝室の扉を開けた。

 久しく嗅いだことのない匂いを家の中に認め、女吸血鬼は優美な眉を軽くひそめた。

設置はされているが使ったことのない台所に誰かが立ち、何事かしていたのだ。

永き時を経た復讐の、記念すべき始まりの日から一夜明けたところの全く想像外の展開に、

さしものマリアも言葉を失って立ちつくした。

 自失しているマリアの気配に気づいたのか、台所の主が肩越しに振りかえる。

薄く浮かんだ照れ笑いは、虜囚にはまるで似つかわしくないものだった。

「おはようございます、マリア……えーと、マリア先生、でいいですか?」

 人間に親しげに呼ばれると虫酸が走る思いだったし、

敵と狎なれあうなど矜持が許さなかったから、

そう呼ばれることがマリアは好きではなく、プライベートで、

しかも贄にそう呼ばせるなど断じて認めなかっただろうが、

この時は訂正するのをすっかり忘れてしまっていた。

昨夜の崇高な儀式は茶番だったのかというほど、新たな世界のために捧げられるべき贄は落ちつき、

穏やかな朝を迎えようとしていたのだ──おそらく二人で。

 和やかな空気が部屋に満ちていくなか、マリアはようやく声を振りしぼって問いただした。

「これは……どうしたの?」

「食事……ですけど。二人分」

 久しぶりに使われたテーブルを、マリアは困惑の表情で眺めた。

湯気を立て、香気を放つ紅茶や、黄金色に焼かれたパンが成す朝の食卓は、

吸血鬼の棲処にはあまりに似つかわしくないと思われたのだ。

 マリアは特に食事を採る必要がない。

食べられないのではなく、血を吸えない時は人間と同じ食物で代用もできるのだが、

やはりその効率は吸血に較べると劣り、また、

二日程度なら何もエネルギーを摂取しなくても平気な身体なのだ。

だからマリアはこれまで、自分が人外の存在であることを隠すための、

つきあいの食事以外はほとんど採らなかった。

それがどうだ、目の前に並んでいる食事の蟲惑こわく的なことといったら、

マリアが血液以外で最も愛する深紫の液体にも劣らないくらいだ。

果たしてこの家に、これだけの献立となりうるだけの材料があっただろうか、

いぶかる家主に、コックがおそるおそる訊いてきた。

「要りま……せんか?」

「いえ、食べるわ」

 沈思の末にマリアは妥協をみせた。

 餌という立場をわきまえない龍麻に対する腹立たしさが皆無ではなかったものの、

ひさしぶりに嗅いだ、他人が淹れた琥珀色の液体への懐かしさが勝ったのだ。

 人の欲望というのは際限がない。

だからこそ地球の支配者になれたのだ、と半ば蔑むマリアだったが、

味覚に対する貪欲さには素直に感嘆していた。

地中や海中からも食材を探し、海を越えて新たな大陸へ往くことも辞さない。

そうした彼らの追求の一端がこの紅茶であり、マリアが好む飲み物の一つでもあった。

 うなずいたマリアに、龍麻は破顔する。

それはやはり贄が主に対するものではなく、少なくとも敵意の片鱗さえなかった。

「じゃあ、もう少しでできますから、顔を洗ってきてください」

「……ええ」

 年下の男に指示を下され、失調感に苛まれたマリアは、促されるまま洗面所へと向かうのだった。

 

 顔は洗ったものの、気分は全く晴れることがないままマリアがテーブルにつくと、龍麻も向かいに座った。

朝食がそれほど豪華なものではなかったのは、家の主が食材を準備しておかなかったのだから当然だ。

しかしありふれたパンと紅茶、それにスクランブルエッグとサラダは、なぜか輝いてすらマリアには見えた。

無機物に対する錯覚を自嘲の思いで振り払うと、正面にいる男が怪訝そうな顔をする。

これも、マリアの変調の原因だ──誰かと向かいあって食事を採るなど、いつ以来のことだろう。

久しく抱いたことのない感情が芽生えたのに戸惑いつつ、マリアはパンをちぎった。

「いつも料理を?」

「ええ、一人暮しが長いですから」

 龍麻の両親は健在であると書類には記されていた。

なのに一人暮らしをする理由が何かあったのだろうか、マリアは聞いてみたく思ったが、

幾重にも吸血鬼としての一面を損なわせるような環境が揃っている今は、

どうも調子が狂いそうなので後で訊ねることにした。

かりそめではあっても、今のマリアは真神學園の英語教師だ。

義務を果たすために、家から変な感情を持ち込むのは避けるべきだった。

「……あの、美味しくないですか?」

「え?」

 ところが、無言で食事をするという習慣がないのか、龍麻はなお話しかけてくる。

新聞に目を落としてやり過ごそうかとも思うマリアだが、

これから半年以上共に暮らすのにそれも芸がない。

「そんなことはないわ……どうしてかしら?」

 美味しいかどうか、などほとんど意識の外にあったが、それでもマリアはそう答えた。

「えっと……誰かに食べてもらうの、初めてなんですよ」

 意外すぎる返答に、思わずマリアは龍麻の顔を凝視する。

すると龍麻は何を勘違いしたのか、顔を目の前の紅茶よりも紅くし、うつむいてしまった。

「そうだったの……でも、本当に悪くないわ。夕食も期待していいのかしら?」

 やや不毛な感じを抱きつつも、マリアは訊ねた。

マリア個人に限ればこうした食事を取る必要などなく、

むしろ龍麻自身じしんから栄養を摂取した方がよほど好ましい。

そもそも主人が贄と晩餐を共にするなど吸血鬼の歴史でも聞いたことがなく、

同族が居れば笑われるのは必至だっただろう。

しかしマリアは、わずか一晩の間に、多少なりとも緋勇龍麻という男に対して、

彼女が彼を必要とする理由である『黄龍の器』以外の部分で興味を抱きはじめていた。

十八歳という若さなのに達観し、死を望んでいるかのような態度。

知ってしまえばつまらない理由なのかもしれないが、

時が満ちるまでの時間、戯れてみても良い。

もちろん、龍麻が逆らうような態度を取れば、その時はすぐに立場を思い知らせてやることになる。

今朝の油断は失態というほかないが、二度同じ過ちを繰りかえすつもりはマリアにはなく、

その意味では、もし龍麻が逃走を図っているのなら、最大の、そして最後のチャンスを失ったといえるだろう。

だが、あくまでも贄としての範囲内でなら、彼がしたいことはさせてみようという気にマリアはなっていた。

「はい、頑張ります。……好きな食べ物とか、味の好みとかあったら先に教えてください」

 これまで人間社会に紛れて生きていくために、マリアは数多のくだらない質問を受けてきた。

その中でもこれは、最も返答に窮する質問だった。

答えを聞き逃すまいとしている龍麻に、マリアはティーカップを口につけることで時間を稼いだが、

結局気の利いた答えは浮かばず、特にないわ、とだけ答える。

「そうですか……」

 主のために尽す機会を与えられなかったシェフのような顔をする龍麻に、

マリアは残った紅茶を一息に飲みほしたが、

失調感までは飲みきれなかったようで、今日は一日この奇妙な感覚を抱えて過ごすことになりそうだった。

 

 先に支度を終えた龍麻が、玄関に立つ。

学生服に身を包んだ龍麻に特におかしな素振りはみられず、

もし彼に不審を抱いたとしたら、それはマリアの精神に原因があっただろう。

「それじゃ、学校で」

 襟のホックを片手で嵌めながら、龍麻が振り返る。

 一緒に行くと要らぬ誤解を招くから、という龍麻の提案に、マリアは同意した。

あと一年、できれば誰にも気取られずにすませたい。

龍麻が妙に協力的なのが気にはなるが、マリアでも気づかぬ細かな指摘は素直に受けいれるべきだった。

「ええ、それじゃ」

 鞄を抱えて出ていく龍麻を見送ったマリアは、不意に失笑した。

こんな場面は自分にはきわめつきに似つかわしくない。

闇の支配者たる存在がさわやかな朝、家庭的に男を見送るなど、どんな笑い話の種になるというのか。

踵を返し、自分も出勤するために部屋に戻ったマリアは、用意を整える間中、

これから毎日、彼を見送るべきかどうか考え続け、結論のでないまま、

龍麻の後を追って真神學園へと向かったのだった。

 

 マリアが職員室に着いた時、龍麻はもう待っていた。

目礼する龍麻に愛想笑いで応え、彼を伴って教室に向かう。

龍麻は良く心得たもので、過度によそよそしくしたり、馴れ馴れしくしたりはしてこなかった。

むろんマリアも彼が彼女の虜囚であり、同居しているなどとはおくびにも出さない。

学校ではあくまでも教師と生徒、その範囲を一ミリたりとも越えないという方針は、

どうやら暗黙の裡に成立を見たようだった。

「緋勇クン、だったわね。今日から一年間、よろしく」

「はい、よろしくお願いします、マリア先生」

 自分の吐いた嘘に、マリアは笑いそうになるのを耐えなければならなかった。

来年の三月、卒業まで担任を受け持つつもりなど、マリアにはない。

およそ十ヶ月、その程度がマリアが人類に与える最後の期間であり、

それ以後は、大いなる混沌カオスの中で、強い生命を持つ存在だけが生きられるのだ。

ここに居る同僚、彼女が受け持つ生徒達がその中に入るのかどうか、マリアには関心などない。

彼女はただ在りし日を望むだけ――世界が、世界のままであった日を――だった。

「それじゃ、行きましょうか」

 優美なほどの動作で立ちあがると、マリアは彼女の贄と共に、彼女が受け持つ教室へと向かった。

 担当クラスである三年C組に近づくと、すでに教室の中は騒がしかった。

人間の年齢で十八歳といえばもう成人だろうに、子供じみた喧騒は、ごくわずかながらマリアの癇に障った。

憎むべき眷属にではなく、成人として子供を叱りつけるべきか、との考えがよぎる。

しかし、彼らが騒げるのもあと数ヶ月なのだ。

そう思えば後わずかばかりこの世の春を謳歌させてやっても良いのではないか、とマリアは鷹揚に構えることにした。

「はい、席につきなさい」

 マリアが教壇に立っても、喧騒は収まるどころか一層うるさくなった。

彼らにはそうするだけの理由があったとしても、うるささは受忍限度を超えつつある。

マリアは冷ややかな瞳で一瞥し、一瞬、彼らが静まったところですかさず口を開き、

一気に騒音を沈静化させてしまった。

「ワタシがC組の担任のマリア・アルカードです、よろしく。

それから、彼は今学期から真神ここに転校してきました。名前は」

「緋勇龍麻です。よろしく」

 短くそう名乗った龍麻は、集中する好奇の視線を全て無視して担任の方を見た。

マリアは心得たようにうなずき、生徒達が龍麻に対する質問を始める寸前に事務的に話を進めた。

「はい、それでは緋勇クンは……あそこが空いているわね」

 マリアが窓際の誰も座っていない机を指し示すと、龍麻は大股で歩いていった。

 数十の視線が後を追いかける。

それらへの疎ましさを押し殺して、龍麻は席についた。

窓際の席であるのを幸いに、外へと顔を向ける。

なんでも良いから話しかけようとしていた同級生達も、

露骨に避けているのがわかる態度に、好奇の視線は一つ減り二つ減り、ついにはほとんど消えうせた。

初日の最初からこんな、誰との接触も拒むようにしていては、

さぞ学園生活が過ごしにくくなるだろうが、龍麻は意に介さなかった。

先天的に多弁ではないし、後天的にも他人との交流はあまり好きではなくなった龍麻には、

むしろ冷たく無視されていた方が楽なのだ。

 あまりに鼻白ませる新参者に、すでに教室内からは新学期の初日と転校生という昂揚も完全に消え失せていたが、

龍麻はしばらくの間、窓の外に広がる世界をじっと見ていた。

 青い空と林立するビル群。

自然と人工の相容れない対比のはずが、なぜか奇妙に調和している東京という街。

この世界があと一年後には闇の眷属が跋扈ばっこする暗黒へと変わるという。

一人の高校三年生を触媒として、担任の教師によって。

素人小説家でももう少しマシな空想を思いつくだろう、とかわりばえのしない景色を眺め、龍麻は小さく笑った。

空想――ならば良かったのかどうか。

マリアがただの教師で、自分も『黄龍の器』と称される存在ではなく、

このままこの東京まちで他の大多数の人々と同じように生きていくことができるのなら、

その方が良いのだろうか。

当然だ、と言い切れるだけの根拠を、龍麻は持っていなかった。

今のまま生きる延長線上にある未来に、龍麻はそれほど希望を抱いていないのだ。

無為に人が死んでいくのは、辛いのかもしれない――だがそれも、結局他人だ。

死なれたら困る誰かや、守りたい人がいるわけでもない龍麻にとって、

自分が死んだ後の世界など、ほとんど関心がなかった。

むしろどちらかといえば、マリアの語る混沌カオスの世界とやらがどんなものなのか、

多くの人間が望まない方の未来にこそ興味があるかもしれない。

それを見るためには、生命を差しださなければならず、結局龍麻にはどうでもよいことなのだが。

 よく晴れた、穏やかな四月の空を見ながら、薄暗い思考に浸っていた龍麻は、

そろそろ無責任な興味も一段落しただろうと考え、教室へと意識を戻した。

 ホームルームはまだ続いていて、いくつかの連絡事項がマリアによって通達されていた。

その中に進路、という二文字があって、龍麻はついまた笑いそうになった。

ここにいる生徒達の進路を閉ざそうとしている張本人が何食わぬ顔で未来を語るとは、

よくできた笑い話というしかない。

そして自分は、積極的ではないにせよそれを手伝おうとしているのだ。

今ここで、担任が実は吸血鬼で、東京を壊滅させようと企んでいる──

そう告げたら、皆はどういう反応をするだろうか。

 考えるまでもない、もっとも好意的であっても冗談として捉えて爆笑するか、

もしくは転校初日にして極めつけの変人というレッテルを貼られて相手にされなくなるだろう。

つい今しがたとった態度からすれば、狂人と見られる可能性が一番高いかもしれない。

 などとまたとりとめのないことを龍麻が考えていると、すぐ近くから強い眼差しを感じた。

考え事をしていたのもあって、思わずそちらを向いてしまう。

視線は隣の席から発せられていて、放った相手は龍麻が視線を合わせると驚いたようにまばたきしたが、

すぐに笑顔を見せた。

「私、美里葵っていいます。よろしく、緋勇くん」

 微笑む少女の顔に、陽光がきらめいている。

未だ女性の美しさというものにほとんど関心がない龍麻でさえ、少女を美しいと思った。

それも、単純な美ではなく、冒しがたいものをすら、偶然隣の席になっただけのはずである少女から龍麻は感じていた。

「……よろしく」

 一旦は踊るのをやめた彼女を照らす光の粒子が再びステップを踏み始めてから、ようやく龍麻は返事をした。

そのとたん、首から上がかっ・・と熱くなる。

こんな身体の反応は初めてで、龍麻はどうしたらよいかわからなくなっていた。

葵が微笑することでそれは加速して、意味もなく制服のホックをかけ直したりしてみる。

着慣れた制服だが、こんなにも窮屈だったろうかと突っ張る肩の辺りに視線を落とし、

再び顔を上げると、葵はまだじっとこちらを見ていた。

何か顔に変なものでもついているのだろうか、と不安になりかけたところで、

葵はもう一度微笑し、視線を教卓へと戻した。

安心と落胆と、二つの気持ちを両の眼に乗せ、龍麻もまた、

学生を演じるために教壇へと向き直ったのだった。

 

 一日の授業が終わり、あれほど教室にいた生徒達も今は半分以下になっている。

四十人分ものエネルギーを呑みこんだ空間にはまだその残滓が漂っていて、

うつろだけれども奇妙な活気めいたものがあった。

教室は毎日この巨大な氣を浴び、それを何十年と繰り返す。

この校舎はまだそれほど旧ふるくないらしく、そういった風格めいたものを

ただよわせてはいないが、それでも、窓の外から流れこむオレンジ色の波長は

何かを浮かびあがらせる効果を持つらしく、十メートル四方の空間には、

どこか異界めいた寂寥感がぼんやりとたゆたっていた。

 龍麻の新しい生活の一日目も終わろうとしていた。

三年という時期での転校生に湧いた教室も、その転校生の無視してくれといわんばかりの態度に

一斉に鼻白み、その後、結局龍麻は誰とも会話を交わすことなく放課後まで過ごした。

それなりに長身でそれなりに顔立ちも整っている龍麻は、実際、

朝の挨拶の後も、話しかけようとする女子生徒が幾人かはいたのだが、

それらの全てを龍麻は愛想すら振りまかず無視した。

その甲斐あってか今や龍麻は、転校初日にして存在すらしていないかのように

同級生に振る舞われるまでになっていた。

もちろん、それは龍麻自身が望んだことだったから、龍麻は落胆も絶望もせず、

淡々と自分の役割、最低限の学生生活をこなすだけだった。

 しかし、最低限、というのはあくまで龍麻が想定しただけで、

トラブルの種はすでに、龍麻が全く予想もしてなかったところで撒かれ、芽を出していたのだ。

 窓際の自分の机で龍麻は、帰り支度をしていた。

今日は夕食の材料を買う必要があるから、少し回り道をして帰ることになる。

マリアは嫌いな物はないと言ったが何を作ろうか、

そのためには何を買えばいいのか、ほとんど空だった冷蔵庫のことを考えながら

教科書を鞄に詰めていると、いきなり強い力で肩を掴まれた。

自分がこの学校にとって部外者であることを龍麻は自覚していたが、こんな不躾を受けるいわれはない。

それでも転校初日から事を荒立てるのはよくないと自制し、ふりむきざまに相手を睨みつけたのは無言でおこなった。

 肩を掴んだのは、いかにも柄の悪そうな男だった。

背は高くなく、横幅は太い。

しかし無駄に脂肪をつけているのではなく、不良なりに身体は鍛えているようだ。

口は大きく、目は小さく、悪相であったが、その小さな目が充分な威圧感をもって龍麻を睨んでいた。

同じ教室にいたのは確かなこの男を、龍麻は名前までは知らない。

ただ、この男の周辺には一見してそれとわかる澱よどんだ空気が漂っていて、

可能な限り関わりあいにならないほうが良い、と思わせるものがあった。

だから龍麻は関わらなかった。

彼だけでなく、教室のほぼ全員と龍麻は関わらなかったが、

とにかくこの敵意を剥きだしにしている男とも全く関わっていない。

「転校生……面貸せや」

 なのに何故、自分がこの男に因縁をつけられているのか。

龍麻は理解できなかった。

答えを求めてすばやく周りを見渡すが、何人か居る同級生は皆、一様に

視線をそむけるか、そそくさと教室から出て行った。

それらの行動には、交流を求めなかった龍麻にも責があるとしても、

多くはこの不良達に原因があるようだ。

ようは彼らは鼻つまみ者であり、彼らが目をつけた獲物も同様に鼻つまみ者ということらしかった。

 不良達は龍麻を取り囲み、逃げられないようにして校舎裏へと連れていく。

どうやら喧嘩――というより集団暴行をはたらくにも場所柄というものがあるらしい。

様式を重んじる不良達が龍麻にはおかしかったが、彼らはいたって真面目で、

これも様式美らしく両のポケットに手を突っこんだまま無言だった。

 今日初めて足を踏みいれた建物の裏側には、あつらえたように人気ひとけがなく、

喧嘩をするには充分なだけのスペースがあった。

ここまでずっと不良のリーダー格の男の背中ばかりを見せられてきた龍麻は、

ここでようやく同級生を正面から見ることができた。

 茶色に染めた髪を逆立てている男は、何がそんなに不満なのか口元を激しくゆがめている。

目はさらにひどく、龍麻を親の敵とばかりに睨んでおり、

龍麻は目を細め、真意を窺うかがおうとするが、それがこの、見るからに素行の悪そうな男──

思いだした、名前は佐久間と言ったはずだ──の気に障ったらしく、佐久間はいきなり腹に殴打を加えてきた。

「……!」

 さすがにこういったことには慣れているらしく、佐久間の一撃は予想よりも重く、

龍麻はわずかによろめいてしまった。

すかさず龍麻の周りを囲む彼の手下達が下卑た笑いを浴びせてくる。

あまりに歯並びの悪い彼らに龍麻は場違いな苛立ちを抱いたが、声には出さなかった。

すると何を勘違いしたのか、不良達は顎を突き出して嘲ってくる。

煙草と不摂生の故の臭い息が、龍麻の顔をしかめさせた。

「なんだ、もうビビッちまったのか? 転校生ちゃんよ」

 彼らをこの場で打ち倒すのは容易いことだ。

佐久間だけはいくらか身体を動かせるようだが、それも人知を超えた『力』の前では無に等しい。

恐らく一分とはかからずに、彼らを地に這わせることができるだろう。

 しかし、龍麻にはマリアと交わした約束があった。

人ならざる力を、人前で使ってはならないと。

その約束を破るのはたやすい。

むしろ約束を破り、事件をおおごとにしてしまうことで、

マリアもうかつに手を出せなくなるかもしれない。

それは龍麻のみならず、世界をも救うことになるだろう。

誰かに称えられることはないにせよ、立派な行為であることは間違いない。

 だが龍麻にその気はなかった。

今さら──そう、今さら死を怖れているわけではない。

死は龍麻にとって生よりはるかに近いところにあったし、

マリアのもたらす死は、世界に転がっている数多のそれらのほとんどよりは心地良く、

安らぎさえ伴って受け入れられるものだろう。

事実、龍麻はおよそ一年後に訪れるというそれを、楽しみにすらしていた。

それだけに、彼女が与えてくれる安楽を、つまらないことで台無しにしたくはなかった。

こんな肉体的な痛みなど、どれほどのこともない。

どうせ彼らも大事になるのはまずいのだから、それほど過激なことはしてこないはずで、

野蛮な感情を一時的に満足させれば気が済むだろう。

そう判断した龍麻は、彼らのしたいようにさせることにした。

 視線を外した龍麻を、佐久間は怖気づいたと解釈したらしく、殴打は激しさを増した。

まわりではやしたてていた佐久間の手下も龍麻が無抵抗とみると一斉に群がり、

下卑た暴力を恥じらいもなく奮う。

「オラ、調子乗ってんじゃねぇぞッ!!」

「佐久間さんに逆らったらどうなるか、良く覚えておけッ!!」

 肉体の痛みよりも、共に浴びせられるそれらの声の方が龍麻には不快だったが、ここで激発しては何もならない。

身を丸め、致命的な打撃だけは受けないようにして、殴打をもらい続けた。

しかしそれも、効率はともかく圧倒的な手数の攻撃に、防ぎきれなくなりはじめる。

一発、二発と強烈な打撃を受け、たまらず膝をついたところに更なる暴行が加えられた。

こうなってはどうしようもなく、身体を丸め、顔を守るのが精一杯だ。

不良達のエネルギーが続く限りの暴力を受け、ようやくそれが小休止したときには、

龍麻の制服は見るも無惨なことになっていた。

 土埃が滲みる。

四肢は自分のものでなくなったかのように感覚が失せ、四月のまだ冷たい土の匂いだけが不快に感覚を撫でていた。

五分以上も執拗に殴打を受けた龍麻が動けなかったのは演技ではなかった。

「ヘッ、ざまァねェな」

「佐久間さんに楯突くとどうなるか、わかったかァ?」

「一張羅が台無しだなァ、転校生ちゃんよォ」

 暴力を終えたあとも不良たちは、今度は罵声を浴びせる。

見上げた勤労精神といえたが、龍麻はそれらを全て聞いていた。

聴覚だけでなく、嗅覚まで汚染するきたならしい声。

充分に覚悟はして受けた暴力だったが、判断した理性とは別のところで囁く声があった。

屠れ、殺せ──

不良たちよりも遥かに直截的で、危険な情動が鳴動する。

それを開放する愚を知りつつも、龍麻は不良たちに気づかれぬよう、静かな、深い呼吸を繰りかえした。

 新鮮な空気が肺に送りこまれるたび、身体に活力が戻ってくる。

痛みは残っているが、それを凌駕する膨大なエネルギーが、水を吸う紙のように全身に満ちていった。

起きあがりざまに一人、立ちあがって一人。

暴発してはならないと己を戒めつつ、龍麻は冷静に闘いの準備を整えていた。

 もう少し、奴らが暴力をふるったらその時は──

自分で戒めたにも関わらず、不良たちの愚行を、龍麻は待ち望みつつあった。

もしかしたらこの一件で停学、あるいは退学になるかもしれない。

しかし、それは龍麻の支配者にとって望む形であるかもしれず、龍麻は不意におかしくなった。

これから一年、あの家で家事をしながら暮らすのだ。

思いがけず昨日から住むことになった家の主は、少なくとも料理はあまり得意ではないようで、

その点だけでも龍麻は役にたてるだろう。

掃除と洗濯も嫌いではないし、そうなっても案外悪くないように思えたが、

その空想が実を結ぶ可能性はあっさりと潰えてしまった。

「その辺にしておいたらどうだ」

 あきらかに不良たちとは異なる声が、少し離れたところからしたのだ。

思いがけない第三者の出現に不良たちも驚いたらしく、龍麻の周りで慌しく足が動く。

反撃をするなら今が最大のチャンスだったが、龍麻は今しばらく様子をみることにした。

代わりに五感を研ぎ澄ませ、状況を把握しようと努める。

 佐久間たちの気配は、今や完全に新しく現れた男の方にそそがれていた。

背後にあたる方向で、龍麻からは見えない。

深く、静かに呼吸を整えていると、不良の一人が彼の仲間ではない男の名を呼んだ。

「蓬莱寺……」

 男は龍麻の同級生である、蓬莱寺だった。

たしか名前は京一といったはずだ。

あいさつも交わしていないが、蓬莱寺という特徴ある苗字を龍麻は覚えていた。

 京一は同級生による同級生への暴行リンチというばつの悪い場面に出くわしても動じていないようだ。

二度ほど、何かを叩くような音がしてから、京一の、いささかも震えのない声が聞こえてきた。

「そいつにゃ何の義理もねェが、一応今日から同級生だしな。

まだ身体を動かしたりねェってんなら俺が相手してやってもいいぜ」

「……」

 居並ぶ不良にも臆することなく挑発してみせる京一に、不良たちは明らかに勢いを削がれていた。

部外者の闖入ちんにゅうにより狂熱を醒まされたというのもあるだろうし、

この男は実際に強いのかもしれない。

身体を起こした龍麻は、痛む腹を押さえて推移を見守った。

「……けッ、行くぞ、おめェら」

 やがて意外なことに、佐久間は明らかに不本意そうな表情ではあったが、

龍麻に対する暴行を止め、この場を去っていった。

子分たちもわざとらしく唾を吐いたりしながら佐久間についていく。

ほどなくこの場には二人だけになり、いささか白々しい沈黙が流れた。

制服の埃を龍麻が払っていると、京一は木刀で自分の肩を軽く叩いて言った。

「あんまり目立った真似はしない方がいいぜ」

「目立つ……?」

「美里は学園中の憧れだからな」

 京一の説明で、ようやく龍麻はなぜ自分が目をつけられたのか理解した。

あの佐久間という不良は葵に恋――などとかわいらしいものではなく、おそらく下卑た欲望だろう――していて、

彼女と親しく話す男は誰であれ許せないというわけだ。

おそらく龍麻以外にも、佐久間の洗礼を受けた男子生徒が何人かいるのだろう。

要するに龍麻は、とんだとばっちりを受けたというわけだった。

しかも葵とは席が隣であり、これからも火の粉が飛んでくるのを避けられそうにはない。

初日から面倒くさいことに巻きこまれた、と嘆息せずにいられない龍麻だった。

 とにかく、得られた解答にうなずくと、ずきりと腹が痛む。

佐久間の殴打は訓練された打撃で、しばらくは痛みが後に残りそうだ。

それ以外の傷は大したものではなく、放っておいてもどうということもないだろう。

ただ、今日の結果はいかにも中途半端であり、去り際の態度からすると、

佐久間達の関心を失わせるという目的はどうやら失敗してしまったようだ。

できればこんな呼び出しは一度で済ませてしまいたかった龍麻としては、

邪魔をされたという意識こそあれ、京一に感謝する気にはなれなかった。

 ゆえに龍麻は答えず、ただ黙して立ち去る。

少し足を引きずるようにしたのは、演技と、これ以上は話しかけられたくないからだった。

「けッ、礼のひとつくらい言っていきやがれってんだ」

 京一の嫌味が背にぶつかる。

一瞬だけ龍麻は立ち止まったが、結局それ以上のことはせず、

そのまま歩を早め、家路についたのだった。

 

――その日の夜。

龍麻は巧みにマリアに見られないよう着替え、ベッドに潜りこんだが、

その程度で夜の支配者を欺くことはできなかった。

首筋に迫る気配は鳥肌が立つほど熱っぽく、龍麻はそれとなく身を強ばらせる。

しかし、今にも突きたてられようとした牙は、直前で急停止し、

頭の後ろのごく近くから牙にも劣らぬ鋭い声が肌を刺した。

「どうしたの、その傷は」

 マリアが訊ねるのは当然だった。

龍麻は彼女にとって貴重な虜囚であり、彼を損なうことは計画の成就のためには決して許されないのだ。

マリアの声は自然と尖ったが、理由を訊けば納得するほかなかった。

佐久間猪三とその取り巻きは、真神學園でも最大の問題児だった。

学内のみならず学外でも数多く喧嘩や恐喝を繰りかえし、警察の世話になったことも一度や二度ではない。

未だ退学にならないのが不思議なほどの素行の悪さで、

そんな問題グループが就任一年にも満たないマリアに配属されたのは、

新任の外国人教師という立場なら、どの方向に事態が転がったとしても

最悪、マリアと佐久間を切り捨てれば良いという学校側の判断だろう。

マリアはその辺りの事情を容易に看破したが、どうせ一年経てば教師達も佐久間達も

まとめて闇の混沌へと沈むのだから、ととりたてて干渉もせず放っておくことにしていたのだ。

それがこんな形で足をすくわれることになって、マリアは自分の判断を悔やんだ。

「でも、反撃はしなかったの?」

 龍麻の『力』があれば、五、六人の相手など簡単に倒せるだろう。

しかし、龍麻の怪我の具合はほとんど無抵抗に近く、その点をマリアは疑問に思ったのだ。

「もう少し殴られたら、しようと思ったんですけど、その前に止めに入った奴がいて」

 龍麻が京一のことを話すと、マリアは頷きつつも驚いたようだった。

「そう、彼がね」

 鳳来寺京一という生徒は多少品のある佐久間といった感じらしく、

授業には出ないか、出ても熟睡していることが多いし、喧嘩沙汰も一度や二度ではないのだという。

決定的に違うのは佐久間は手下を使って暴力を振るうのに対し、

京一は相手が大勢でも構わず一人で喧嘩を始めるということらしい。

生徒達には人気があるらしいが、いずれにしても教師の側から見れば困り者であり、

どうも異端の外国人教師に学校中の問題児をまとめて押しつけたようなのだ、と

マリアは軽い憎悪を込めて龍麻に説明した。

「わかりました。とにかく、佐久間達にはしばらく目をつけられるんじゃないかと思います」

「そうね……彼の性格からすると、一度呼びだして終わりというわけにはいかないでしょうね」

 龍麻の予測にマリアも頷かざるを得なかった。

佐久間は狡猾であり、マリアの見ているところで龍麻に手を出したりはしないだろう。

しかしマリアも四六時中見張っているわけにはいかず、その役目を教え子に期待するのも難しそうだ。

「日本人は事なかれ主義、だったかしら? 自分に火の粉が及ばなければ、

目の前の火事すら通報しないそうだものね」

 痛烈に皮肉った後で、マリアはつけ加えた。

「どうしても我慢できなくなったら、好きなようにしていいわ。後の処理はワタシがするから。

でも、殺すのはできれば避けて」

 龍麻は頷いただけで、言った方も言われた方も、それ以上の反応は示さなかった。

なにしろマリアは人類社会を破壊しようと企てている存在であり、

龍麻もそれに加担しているのだ。

先に一人や二人程度減ったところで構わない、というのは当然の考えだった。

「わかりました……多分大丈夫です」

 話は終わったと見てとり、龍麻は服を着ようとする。

するとマリアに手を掴まれた。

「待ちなさい……まだワタシの用事は終わっていないわよ」

 マリアの瞳にいつのまにか妖艶な輝きが宿っていることに気づき、

龍麻はのしかかっている女性が、教師であり、同時に吸血鬼ヴァンパイアであることを今更思いだした。

「ま、待ってください、後ろからお願いします……!」

「フフフ……ダメよ、手間が惜しいわ」

 マリアは狼狽する龍麻にまたがり、身体を密着させて首筋に狙いを定める。

マリアはネグリジェを着ているといっても下着などは着用しておらず、

二人の肌を隔てているのは薄い布地一枚のみだ。

普通の男なら垂涎の状況だろうが、この若い人間は何に操を立てているのか、

目を閉じてひたすらに抗おうとしていた。

血を啜りたいというのとは別の欲求にも苛まれながら、マリアはまず自身の欲望を充たすため、

昨日の痕も残る右の首の付け根に牙を立てた。

「うッ……!」

 下から強い力が加わる。

若い、頑健な肉体は、血の味を一層引き立てた。

そして、生命を吸われ、力を失っていく肉体は、軽いエクスタシーを迎えるほどの悦びをマリアにもたらした。

抵抗をあきらめた龍麻に四肢を絡め、マリアはさらに血を啜った。

 この若い人間の血は、これまでに吸った誰の血よりも美味だ。

吸血鬼はどの血液型を好むか、などというのはくだらないジョークだが、

龍麻が秘める『黄龍の器』という能力は、彼の血を極上のワインよりも美味な液体に変えるようだった。

 牙をさらに数ミリ沈め、マリアは紅い液体を我が物とする。

口から腹へ、龍麻の血が落ちていくのと同時に、脊髄にも何かが、首から腰へと走り抜けていった。

「あぁ……ッ……!」

 思わず吐息を漏らしてしまうほどの愉悦。

身体の中心に落ちた昂ぶりは、そのまま下腹をも舐め、マリアの秘所へと溜まっていった。

熱が細胞へと行き渡り、マリアは火照った身体を最も手近にあるものに押しつけた。

「……っ……!」

 若い牡は、はっきりわかるほどペニスを勃起させていた。

 吸血鬼に血を吸われる代償。

生命と引き替えに快楽を得る人間は、やがてセックスなど比較にもならないそれに心を犯され、

ついには死ぬと解っていても自分から血を差しだすようになる。

 マリアはまだまだ龍麻を殺すつもりなどなかったが、

彼が望むならば、死へと至る恍惚の階きざはしを、少しなら歩ませても良いと考えていた。

龍麻は憎むべき種族にんげんであるし、彼らにかける情などマリアは持ち合わせていないが、

龍麻という個体に対する興味が、闇の種族であるマリアの琴線にわずかながら触れていたのだ。

計画に支障をきたさない範囲で、彼女の気まぐれが続く間は、

普通の人間では決して得られない、闇に魅入られたものだけが束の間手に入れられる快楽を教えてやろう。

 しかし、そんなマリアの意図を、龍麻は汲まなかった。

ほんの少し両腕を動かし、闇を抱きしめれば、望んでも手に入らない悦びを与えてやろうというのに、

このたかだか十八年程度しか生きていない人間は、肉体を支配されながらも、

心は最後までマリアに屈しなかったのだ。

 二日連続で弄ぼうと思っていた相手に拒絶され、マリアのプライドは深く傷ついていた。

昨日の今日でいきなり陥落するとは思っていなかったが、

龍麻は指先すら触れさせようとはせず、ここまで意志が強いとは想像を超えていたのだ。

 急速に醒めていく昂揚を牙の先に封じこめ、マリアは上体を起こした。

「終わり、ですか……?」

「ええ」

 龍麻の声に名残を惜しむ気配はない。

努めて短く答えたマリアは、彼から離れようとしてはだけているパジャマに気づき、整えてやった。

龍麻は止めようとするが、血を吸われた直後だからか、動きに張りがない。

「じ、自分で着れますから」

「フフ、恥ずかしがらなくてもいいのよ」

 狼狽する龍麻に、ようやくいくらか溜飲を下げたマリアは、

ことさら時間をかけてボタンを留めてやってから、

ベッドに本来の役目を果たさせるため、龍麻の隣に横たわったのだった。

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