生活スタイルが変化してから、四日。
朝食が用意されている、という日常に、未だマリアは慣れていなかった。
吸血鬼だから血液以外の食事など必要はない、といっても、
これまでずっとそうしてきたわけではない。
同族が居た時は少量ながらも朝食を採っていたし、
人間と、幾らかの緊張はあったものの共存していた頃は彼らに合わせて
食事をする習慣を身につけたりもしていたのだ。
だが一族最後の生き残りとなってからは、その習慣も忘れて久しい。
それが一昨日から突然復活し、マリアはこれまでより三十分ほど早起きを強いられるようになっていた。
「あ……おはようございます、マリア先生」
「おはよう」
居間に入ると龍麻が挨拶をよこす。
プライベートで朝の挨拶をする習慣もマリアはかなり以前からなくしていて、
その違和感は未だ、口の両端にある犬歯のあたりに蟻走感をもたらした。
マリアがこの年下の男と同居するようになって、今日で四日目だ。
同居、といっても愛情の帰結ではなく、マリアはある理由から彼を必要とし、
逃げられないよう監視する必要があるからという、軟禁に近いものだった。
彼に与えられた期限はおよそ八ヶ月、それまでは生命を謳歌させてやろうと、
マリアは必要以上の拘束はしないつもりだし、
人間は基本的に一日三食採らないといけない、というのも理解している。
龍麻は吸血鬼が居たら奪い合いになっていたかもしれない、
極上の血液を有する人間で、いくら彼が『黄龍の器』という特異体質を有していても、
人間である以上、その血を毎晩啜るためには栄養を補給する必要があるのだ。
それでもこの三流のホームドラマのような展開に、マリアは早くも
自分の忍耐心が限界を試されていると思わざるをえなくなっていた。
有無を言わさず血を啜り、瀕死の状態まで追いこんで従わせるか。
脳はまだ本格的に目覚めていないのか、本能がそう囁いたりもする。
「……」
だが二人分の料理はすでに並んでおり、種族を問うことはおそらくない、好ましい湯気をたてている。
これを価値観の違いというだけで下げさせるのはいかにも狭量な気がして、
結局マリアは何も言わず、身支度を整えるために洗面所へと向かったのだった。
「いただきます」
「ええ」
龍麻は、というよりも日本人が食事の前に神に祈りを捧げないのは、
余計な苛立ちを生まずに済んだ、という意味でマリアは評価していた。
十字を苦手とするマリアではないが、神という言葉に好ましい感情は抱けない。
現在世界を支配する神は、人間、それも彼を信じる人間のみを救う器量しかない、偏狭な存在だ。
価値観にそぐわないものを排除し、それに飽きたらず覆滅させるという悪徳を教えこんだものが
上位の存在であるなどと、マリアは絶対に認めなかった。
一方でいただきます、という言葉にも、マリアは良い感情を持ってはいなかった。
奪った生命を食し、それを生みだした万物に感謝するという思想は理解できても、
やはり偽善に聞こえるし、同じ姿形でありながら、食事をする時にそんな台詞を言われたら、
自分の時にもそう言うべきなのか、などと皮肉を投げつけたくなるのだ。
ただしマリアは、それを口にしないだけの分別は持っていた。
目の前にいるのは同胞を滅ぼした種族の一員であり、同情するべき理由などない敵であったが、
彼という個体で見るなら、それほど悪感情は抱いていない。
加えて彼は一年以内に死を約束されており、あまり些細なことで負の感情を刺激するのも哀れだった。
それに見た目では十年以上、実際にはその十倍以上マリアと龍麻には年齢差があり、
種族は異なっても年長者としての振るまいをするべきだとマリアは考えていたのだった。
テーブルに並んでいるのはトーストに紅茶、それにスクランブルエッグとサラダ。
マリアにとっては食欲を刺激されるようなものではないが、
ごく一般的な人間の朝食といえるだろう。
椅子に座ったマリアは何気なくトーストをちぎり、口に運んでから、
龍麻も同じ動作を始めたことに気づいた。
律儀にも、彼はマリアが食べ始めるまで待っていたようだ。
躾の良さを褒めてやりたいとマリアは思ったが、
どう言ったところで皮肉にしかなりそうにないので止めておくことにした。
そのまましばらくはお互い何も話さないまま、朝食を採った。
マリアにとってはかなり無意味な時間ではあったが、新聞に目を通し、
教師として振るまえる程度の情報は仕入れておく。
人間社会は相も変わらず円滑に動いていた。
戦争や殺人事件は絶えることもなく、人間はおそらく一日に何百人という単位で減っているだろう。
にも関わらず、それ以上の繁殖力で増える彼らは、未だ決定的な破滅へとは至らないようだった。
その辺りがマリアには口惜しい――と同時に嬉しくもある。
同胞を根絶させた人類に対して、凍てついた復讐心を溶かすだけの焔を得るには、薪は多い方がよい。
あと数ヶ月、種族としての繁栄を謳歌した彼らは、そこで自らの矮小な立場を再確認することになるのだ。
せいぜいその時まで、驕っているがいい。
知らず笑みを浮かべるマリアの口の端には、人のそれではありえない長さの歯が覗いていた。
「先生」
食事も半分が終わった頃合いを見計らって、それまで無言だった龍麻が話しかけてきた。
「何かしら?」
マリアと呼ばれるのと先生と呼ばれるのと、どちらがより不快にならないか考え、
マリアは後者を選んだ。
といってもこの肩書きもつい一年ほど前、必要に迫られて得ただけの物だから、
身体に馴染んでいるとはいいがたい。
教室内ならともかく、自分の家の中で先生などと呼ばれると、
誰か他にそう呼ばれる人物が居るのではないかと振り向いてしまいそうになるくらいだ。
「晩飯のことなんですけど、米って大丈夫ですか?」
マリアは口許に運びかけたティーカップを停止させ、
何気ない動作を停止させるに至った質問者を凝視した。
蒼味を増した眼光を正面から浴びた龍麻は、ようやくその質問の愚かさに気づいたようで、
こちらは顔中を鮮やかな紅色に染めてうつむいてしまった。
吸血鬼にとって、これほどくだらない質問はなかった。
そもそも人間が吸血鬼と同じ食卓に着く、というのがトランシルヴァニアの冬をコートなしで歩くような、
致命的な誤りなのだ。
人間は他の動物を殺してその肉を喰らい、吸血鬼はその人間の血を飲みほす。
それが食物連鎖というものであって、獅子と兎は決して一緒に晩餐などしないのだ。
パンでも米でも、好きな物を自分だけ食べればいい。
そう言い捨てようとして、マリアの視線は顔を上げた龍麻のそれと真っ向からぶつかった。
日本人は圧倒的に黒目が多いが、その中でも黒炭を埋めこんだかのような深い黒の瞳。
決して険しくはなくても、動かしがたい勁い意思を感じるその瞳は、
確かに彼が『黄龍の器』という、特別な力を持つ存在と信じさせるものだった。
威圧的ではないが、かけ値なく真摯である眼差しに、マリアはやや態度を和らげることにした。
「ええ、大丈夫よ。昨日も言ったけれど、吸血鬼にとって血液以外は全て
副食みたいなものだから、アナタの好きな物を作ってくれればいいわ」
「わかりました。それじゃ今日の夜からはそうさせてもらいます」
今日の夜、と言われて、昨日の晩はパンであったことをマリアは思いだした。
龍麻が望んでのことではなく、不本意な事情のためにそうなったのだ。
「そういえば、痛みはもうないの?」
龍麻は昨日、同じクラスの佐久間猪三という不良に因縁をつけられ、手酷く暴行を受けた。
骨折などはしなかったが、普通の人間ならばもっと深刻な怪我をしていたかもしれない。
「ええ、大丈夫です。昔から回復力は高くて」
「それは……やはり『黄龍の器』の?」
「多分そうだと思います」
生命エネルギーとも言える氣。
地球上で最も巨大な生命である地球自身が宿す氣を、その身に蓄えることのできる存在が、黄龍の器と呼ばれる。
マリアはこの黄龍の器を手中に収めるために来日し、そして緋勇龍麻という少年を捜し当てた。
龍麻は己が持つ、世界の支配すら可能な力を乱用したりはしていない、ごく普通の少年だった。
マリアが仕掛けた罠にも拍子抜けするほど簡単に引っかかり、
抵抗すらしようとせず虜囚たるを受けいれた。
やや厭世的なところが見受けられるにしても、それ以外は年相応の人間だとマリアは思っていたが、
やはり自分の力について、全く知らないというわけではなさそうだった。
となるとどの程度知っているか、今度はそれが問題になる。
マリアもある程度までは調べたが、地球のエネルギーを制御できるほどの力を
操ることができたなら、マリアの手に負えなくなるかもしれないし、
それ以外にも何か隠された能力を持っているかもしれない。
龍麻は今のところ敵対する素振りはみせていないが、
マリアが油断するのを待っているということもありえるのだ。
「あの……先生?」
いつのまにか思考に没頭していたらしく、龍麻が呼びかける声でマリアは我に返った。
龍麻は心配げな表情をテーブルの向こうから投げかけている。
心底案じているような顔ではあったが、この少年も所詮は人間、
自分たちの敵になる存在なら、笑って心臓に杭を打てる種族なのだ。
いかに友好的な態度でも、警戒を緩める必要などなかった。
「いえ……なんでもないわ。それより佐久間には気をつけなさい、
いざとなれば途中で帰ってもいいわ」
だが、事務的にマリアが告げると、龍麻は戸惑ったように目をしばたたかせた。
穿った目で見ればそれもわざとらしく、マリアは蒼い瞳の温度をいくらか下げて龍麻を見やった。
「何か不満でもあるのかしら?」
「え……違います、ただ」
「ただ、何?」
たたみかけるマリアの声は鞭のように鋭く、龍麻は明らかに怯えはじめていた。
「ただ、先生に授業をサボっていいって言われたのが、ちょっとだけ変な感じがして」
「……」
何がそんなに怒らせたのだろう、と不安がる龍麻に、
それ以上の言葉を呑みこんだマリアは、朝食を済ませたら早く学校に行きなさい、
とだけ告げて、自分が先に席を立ったのだった。
見慣れた、というにはまだ日が浅すぎる。
けれども学校の教室という空間は、奇妙にそこに入る人間に新鮮味を与えず、
龍麻は通い始めてまだ数日の三年C組に、半ばは溶けこんでいた。
半分なのは主に外見の部分で、黒の学生服を着て窓際の席に座るのは他の、
一年時から真神に通っている同級生達と変わりない。
ただし残りの半分、内面の方は、四十人ほどの同じ歳の人間が居る中で、
氷原に落とした墨の一滴ほどに孤立していた。
龍麻が教室に入っても、挨拶をよこす生徒は誰もいない。
扉が開くことで反射的に振り向いた生徒は、男子も女子も、皆一律にしまった、という顔をして、
なるべくさりげなく顔を元の位置に戻すのだった。
龍麻はそれを意に介さず、六メートル四方ほどの部屋で、与えられた自分の場所に向かう。
椅子を引き、鞄を置いて腰かけても、話しかけようとする同級生などおらず、
存在すらしていないかのように振る舞われていた。
それは龍麻自身が選んだ方途で、龍麻はこの教室に延べ二十時間程度は居る計算になるが、
その間話した言葉は鳥のさえずりよりも少ない。
転校初日からあからさまに他人を拒絶する態度を見せた龍麻に、
同級生達が親切にしてやる理由もなく、必要最小限の接触しかしないようになったのに、
そう長い時間はかからなかったのだ。
龍麻は同級生に背を向け、それが基本の姿勢であるかのように机に片肘をついて外を向く。
空はそれなりに青く、目を休ませる程度の景観ではあったが、
日本人にしても珍しい、どこまでも黒い瞳は映るものを全く捉えていなかった。
同級生達の話し声もむろん耳に入れず、ぼんやりとした思考に身を委ねる。
思考といっても大したものではなく、ただ五感をカットしただけで、深くも考えない。
それはまどろみに近い、どちらかといえば幸福な時間の過ごし方であったろうが、
朝の心地よいひとときは、それほど長い時間を与えてはくれなかった。
「おはよう、緋勇君」
柔和な声に思わず反応しそうになって、龍麻はすんでのところで踏みとどまった。
声の主は隣の席に座る、美里葵のものだった。
葵に非などない。
学級委員長である彼女は、生徒会長も務めているらしく、休み時間はひっきりなしに誰かが尋ねてきている。
人望は申し分なく、女性に関心をあまり抱かない龍麻ですら美しいと思える美貌も揃い、
どれだけ意地悪く埃を見つけようと指を擦っても塵の一つさえ付かない、
信じがたいほど完璧な少女だった。
その彼女が、たとえ偶然席が隣り合っただけだからだとしても、
話しかけてくるのは、学校中の男子生徒から羨まれることなのだろう。
しかし、龍麻は葵と距離を置かなければならない。
葵に目をつけている佐久間という不良が、彼女に近づく男を許さないのだ。
佐久間を恐れなどしない――が、なるべく事を荒立てないようにというマリアの意向もある。
だから彼女には悪いが、葵も他の生徒と同じように無視することに決めたのだった。
「……」
「あの、緋勇君……」
それでもこの葵という少女は、どういった物好きなのか、話しかけてくるのを止めようとしない。
昨日の一件を知らないからにしても、転校生に対する一般的な好奇心だというのなら、
早く醒めて欲しい──そう願いながら、龍麻は冷淡に葵をあしらった。
「あの……」
迷惑だとはっきりわかるように、ことさらに身じろぎしてみせる。
葵が悲しげな表情をしているのが、背中越しにも感じられたが、龍麻は心に鎧を着せ、葵の視線を防ぎ通した。
自分に関わるとろくなことにはならない。
ならば変に親しくなるよりは、最初から拒絶していた方がお互いに傷は小さくてすむのだ。
あからさまな無視に、さすがに葵もかける言葉はないようで、
失望の、ごく小さな吐息を最後に話しかけてこなくなった。
これでいい――外の景色を見ながら、龍麻も小さく嘆息した。
どうせあと一年もしないうちに、より大きな悲しみがこの東京を襲うのだ。
その時に、変に同情したくなるような人間は、一人でも少ない方がいい。
龍麻はそう自分に言い聞かせ、身体をひねったやや窮屈な姿勢を保ち続けた。
無理な姿勢はどれほどのことでもないが、
背後から下卑た笑い声が複数聞こえてくるのだけが、唯一不快だった。
今日は佐久間は来ていないようだが、子分達は出席している。
何かあればすぐさま佐久間に報告し、暴行の口実に使うつもりだろう。
龍麻の忍耐心は無限でなどなく、その境界を一滴でも超えたなら、
徹底的な反撃を彼らにすることにためらいはない。
しかし自分の持つ力を知る龍麻は、生来のものに加えて自制という名のスコップで
忍耐心を相当の深さ拡張してあり、嘲笑程度の不快感で暴発することはなかった。
ただし穴は深くても、そこに放りこまれたものから腐臭が漂うのはどうしようもない。
募るいらだちを考えないようにするために、龍麻は始まった授業に集中することにした。
今日の授業も全て終わり、生徒達は一斉に秩序から混沌へとなだれこむ。
部活に向かう者、友人とおしゃべりする者、四十人ほどの教室は
誰一人として同じことをしていないかのような喧騒ぶりだったが、
龍麻はそのいずれにも与しなかった。
いきなりではなく、最初の混雑が一段落したのを見計らってから、
書類を提出しに職員室へと向かう。
同級生の何人かがちらりと反応したが声をかけてくることはなく、
龍麻も愛想を振りまくようなことは一切せずに教室を出ていった。
用事を済ませ、教室に戻ってきた龍麻を待っている同級生は誰もいなかった。
葵を――誰が見ても非の打ち所のない、聖女とも呼ばれる女性を無視すれば
その反感はたちまちクラス中に伝播するし、
龍麻は葵だけでなくクラスの全員から距離を置くようにしていたから、
転校数日にして情勢は龍麻に極めて悪いものとなっていた。
必ずしも積極的でないにせよ自分で選んだ道であるから、龍麻はそれを許容するしかない。
それに、龍麻はこういった環境に慣れていた。
十八年の人生のうち、集団生活を送り始めた十四年ほどの間でほぼ半分の年数、
龍麻は消極的な無視を受け続けてきた。
子供の頃は学校が世界の全てのようなものだったから、
同級生達に口も聞いてもらえないのはそれなりに堪えたが、
高校三年にもなれば別にどうということもない。
世界は外にも広がっているのをもう知っているし、
誰かと話さないからといって死ぬわけでもないことも知っている。
孤独というのは本人の気の持ちようでしかなく、それを意識しないようにするための術を、
すでに龍麻はいくつも見つけだしていた。
たとえば、料理――
一人暮らしをするために、必然的に覚えなければならない技能も、熱中すれば中々奥が深い。
自分の舌が正しいのかどうか、確かめる術がないのが残念だったが、
奇妙な運命の導きによって、龍麻は初めて他人に料理を食べてもらう境遇を得た。
マリアは料理の腕を試す相手としては残念ながら不適格のようだが、
他人に食べてもらうために料理を作るのがこれほど楽しいとは、
龍麻は新発見した気分だった。
少なくともあと半年は、マリアのために腕をふるえる。
その間に一度くらいは美味しいと言わせてみたい、と、
さっそく今日から張りきることにしていた。
献立を考え、材料を買いに行く。
充分な時間はあるはずでも、心が逸り、置いてあった鞄を取りに来た龍麻は、
乱雑に鞄を掴むと大股で出口へと向かった。
それが急停止を強いられたのは、龍麻が出ようとした扉の、
反対側から勢いよく飛び込んできた女性がいたからだった。
「誰か、誰かいないッ!?」
そう、けたたましい声を上げたのは、隣のクラスの遠野杏子だった。
龍麻は転校初日に新聞部部長だというこの少女につきまとわれて辟易したのを覚えている。
好きな食べ物は何か、好きな女性のタイプは──
くだらない質問を延々とされ、わずか数十分でこの口うるさい女を佐久間の次に嫌いになっていた。
彼女の方でもそれは察しているのか、誰か、と言ったのにも関わらず、
それが龍麻一人だと知った時の彼女の反応は正直すぎるものだった。
「緋勇君……」
龍麻の方も別に、彼女につき合うつもりなどない。
俺で残念だったね、と皮肉を言うのを止めたのは、単に面倒くさいというだけの理由だった。
彼女の態度は何か普通でない事態が発生したことを示しているが、
そんなことに関わる理由も必要も龍麻にはなかった。
一度は止めた足を再び動かし、帰路につこうとする。
ところが、教室を出ようとすると杏子に引き留められた。
振り払おうとするには、彼女の力は意外なほど強かった。
「お願い、美里ちゃんが旧校舎で」
「……どういうこと」
わずらわしいことに関わりたくない、という気分は相変わらずあっても、
転校してきた時から気になっていた旧校舎の名が出てきて、
それに対する好奇心がわずかながらわずらわしさを上回ったのだ。
「あたし達、旧校舎に怪しい光が出るっていう噂を確かめるためにあそこに行ったのよ。
そしたら本当に何か光るものがあって、あたし達の方に向かってきたの」
「……で、遠野さんは一人逃げてきたと」
たとえそうでなかったとしても、それ自体に悪意がある台詞を、思いきり悪意を込めて龍麻は言った。
どうせ杏子の方が葵を誘ったに違いなく、そしてトラブルが起こると自分は一人で逃げたのだ。
龍麻の想像は言葉を選ばなさすぎるとしても的外れなものではなく、
事実、杏子は唇を強く噛みはしたものの、機関銃のように反論をまくしたてることはせず、
黙って罵倒を受けいれた。
反論がかえってくれば、もう一言二言は皮肉をぶつけてやれたのにと龍麻は内心で肩をすくめる。
自分が起こした問題は自分で解決すれば、と言ってやろうかとも思ったが、
これを口実に旧校舎に入ることができるし、杏子に恩を売っておけば後日役に立つかもしれない。
それに何より、葵を無視して傷つけてしまったという後悔が、意外なほど心の底に根を張っていたようで、
杏子の口から葵の名が出てきた時、自分でも驚いたほど動揺した龍麻は、
杏子に対する恩はともかくとして、葵を探しにいってやることにしたのだった。
「わかった、探しに行くよ。遠野さんは先生を」
「あッ、あたしも一緒に」
「危険を感じて逃げてきたんだろ? その判断は多分あってる。
それに美里さんを見つけて逃げる時、二人は庇えない」
龍麻の理屈は説得力があるものだったが、もうひとつ、語らなかった理由として、
『力』の存在を杏子に見せたくないというのがあった。
好奇心と口が服を着ているだけのような彼女が異能の『力』など見たら、
葵の救出などそっちのけで追及を始めるかもしれない。
それは騒動を起こして欲しくないというマリアの思惑に反するし、
龍麻自身杏子とはあまり関わりたくない。
はぐれた、といってももともと校舎なのだから迷うはずもなく、
案内などなくても一階から順に見ていけば葵は見つけられるだろう。
強い口調で止める龍麻に、杏子はしぶしぶながら同意した。
美里ちゃんをお願い、と強く言い残して背を向ける。
職員室へと向かった彼女を見届けると、龍麻も旧校舎へと走りだした。
杏子が見た光というのがたいしたものとは思えないが、万が一一般人の手に余るものだった場合、
騒ぎが大きくなってしまうだろう。
できれば教師が来る前に葵を見つけ、脱出しておきたかった。
戦前に建てられたという真神學園の旧校舎は今では完全に使われておらず、
近いうちに解体作業が始まるので立ち入り禁止になっている。
それでなくても圧倒的な存在感を放ち、夕暮れともなればただごとでない雰囲気を醸しだす旧校舎には、
あえて近づこうという生徒もほとんどいなかった。
ほとんど、というのは皆無ではないわけで、何年かに一度はお調子者が入りこみ、騒ぎを起こしている。
今年は美里葵と遠野杏子が担当というわけで、
後で彼女たちはこってりと油を絞られることになるのだろう。
だがそれも、龍麻が無事葵を救出できてからの話だった。
四月といっても六時近くにもなれば、昼よりも夜の領域に属する。
あたりはすっかり薄紫に染まり、完全な闇になるのも時間の問題といえた。
探すのに、あまり時間はかけていられない。
懐中電灯をもってこなかったことを、龍麻は後悔していた。
人一人捜すだけだからすぐ済むだろうとたかをくくっていたのだが、
旧校舎には当然まったく灯りがなく、これでは葵を発見できないどころか、
自分も迷ってしまうかもしれない。
龍麻は常人にはない力を持ってはいたが、それは万能の力などではなく、
こういった時に光を灯したり、暗闇でも物が見えたりはしない。
むしろほとんどの場合で役に立たない、忌むべき力だった。
ただ、遠野杏子が逃げだした原因に対しては、この力が必要になるかもしれない。
マリア・アルカードが言う、『黄龍の器』たる力が――
普段ですら寄る者の居ない旧校舎は、こんな夕暮れともなれば人の気配など皆無になる。
その闇に乗じて、龍麻は誰にも見咎められることなく潜入を果たした。
二人が開け放したままの入り口に身体を潜らせ、そのまま駆ける。
校舎はシンプルな一本の廊下に教室がいくつか連なっているという構造で、
龍麻は突き当りまで行って、そこに階段があれば上るという単純な策を採ることにした。
数歩ごとに床がきしむ。
外見に違わぬ古い建造物は、人間たちに見捨てられたあと、その恨みを訪れる者に伝えるかのような不協和音を奏でた。
龍麻は怖がる性質ではないが、床が朽ちている可能性を考えて速度を落とす。
ミイラ取りがミイラになっては笑い話にもならず、
あるいは遠野杏子が発行している真神新聞とやらの記事を飾ってしまうことにもなりかねない。
そんな事態になったら、マリアはなんと――
そこまで思いを馳せて、龍麻はつい小さく笑ってしまった。
彼女は世界を闇に陥れようと企む伝説の吸血鬼であり、龍麻は彼女に見初められた生贄なのだ。
逃げ出す方法を考えるならともかく、彼女を案じる必要などどこにもないのに、
人間に記事にされるよりは人ならざるものに支配されていた方が良いと考える自分に、笑わずにはいられなかったのだ。
しかし、それは偽らざる気持ちだった。
マリアの怒りが同胞を絶滅させられたことに起因するのなら、
大破壊を起こし、世界を闇に包むという彼女の野望も過剰とはいえないだろう。
人間の側にも言い分はあるだろうが、少なくとも龍麻は、人間全てが悪いわけじゃないとか、
復讐は何も生まないだとかいった陳腐な理屈で彼女を説得しようとは思わない。
したいのならば、すればいい。
マリアが復讐を遂げるためには、龍麻の命を捧げなければならないとしても、
その点については龍麻は意識していなかった。
こんな『力』を持っていては、いつか災厄を引き起こす。
政治家が核ミサイルのボタンを押せるのと同じで、自分自身が誰かを傷つけて血を見るよりは、
マリアに使われた方が気分的には楽だった。
それに――
考えている間に、危うく龍麻は一つ目の教室を通り過ぎてしまうところだった。
笑いを収め、頬を軽く叩いて扉の前に立つ。
扉が閉まっているということは、ここに葵がいる可能性は低い。
だが何者かが閉めたということもあるし、念のために全ての教室を調べた方がよいだろう。
洞察は当たり、願望は外れた。
扉を開けた龍麻を出迎えたのは、明らかにしばらく換気された形跡のない、埃をまとった空気だけだった。
暗く、かろうじて机や椅子があるのが判別できる程度の部屋を、それでも目を凝らして見渡した。
いつ頃使われていたのか、全てが木製の机と椅子は、久方ぶりの訪問者に挨拶するでもなく、
すでに遺跡のように古びた風格を漂わせ、そこにただ在るだけだった。
教室に荒らされた様子もなく、葵がいないことを確かめた龍麻は、
早々に教室を後にし、次の教室を探した。
全く形の変わらない二つめの教室の扉を、さっきよりも大胆に開け、素早く踏みこんで中を見渡す。
扉を開けた時にすでに想像はできていたが、この教室も長い間使われた形跡はなく、
中にあるのは冷たい空気とそこに漂う埃だけだった。
それでも、見落としがあったらいけないと思い、部屋の奥まで目を凝らし、
葵がいないことを確かめ、龍麻は足早に教室を出た。
三つ目、四つ目と廊下を移動していく。
何もかもが同じに感じられる作業の繰りかえしに、途方もなく無駄なことをしている気がする龍麻だったが、
探索は無駄には終わらず、六つ目の教室に葵はいた。
部屋に入ってすぐの辺り、教卓の近くに、仰向けで倒れた状態で。
近づいた龍麻はまず、素早く彼女の全身を見渡した。
見て判る怪我はなく、衣服にも乱れはない。
「美里さん……?」
だが、小声で呼びかけてみても葵からの反応はなかった。
胸の辺りに目をやり、そこがゆるやかに上下しているのを確かめた龍麻は、不意に頬が熱くなるのを感じた。
息を見るなら脈を見れば良かったのに、そこをいきなり見てしまったのを恥ずかしく思ったのだ。
心の中で謝ってから、それを振り払うように葵を抱きあげようとする。
その時気配を感じて、龍麻は反射的に上方に拳を放った。
何か柔らかい、厭な感触が当たる。
甲高い悲鳴と共に落ちてきたものを見て、龍麻は軽く息を呑んだ。
拳が捉えたのは、巨大な蝙蝠だった。
蝙蝠といえば翼を広げても二十センチに達するかどうかというところなのに、
床でもがいているそれは優に倍以上の大きさだ。
これならば杏子が恐怖したのも無理はなく、しかもこの蝙蝠は明確に龍麻に襲いかかってきていた。
もうほとんど漆黒になっている教室の奥に目を凝らしてみると、複数の気配が蠢いている。
慄然とした龍麻は、葵の肢体に素早く手を差しいれると、慎重に抱きあげる。
人間程度のすばやさでは触ることさえ難しい蝙蝠が、十数匹はいるのだ。
最悪、二人とも遭難して発見がもっと遅れる可能性もあったのだから、
杏子だけでも逃げだせたのは僥倖というべきだった。
息を殺して立ちあがった龍麻だったが、気配に反応した蝙蝠が一斉に襲いかかってくる。
気を失ったままの葵を抱きかかえ、一気に走りだした。
蝙蝠は教室の外までは追ってこず、なんとか無事に逃げおおせる。
入り口まで戻ったところで葵を横たえると、懐中電灯の灯りが龍麻を照らした。
顔に光を当てられ、まぶしさと不快さに目を細める。
敵ではないだろうが、味方かどうかはもっと怪しい。
もし佐久間とその取り巻きだったりしたら、かなり面倒くさいことになる――
しかし、幸いなことに龍麻の心配は杞憂に終わった。
懐中電灯を持つ主は、遠慮なく龍麻の顔に直接光を向けると、
明らかに佐久間とは異なる声で問いかけてきたのだ。
「美里は無事か」
答える前に龍麻は眼を細め、少しでも相手を見極めようと試みた。
化学者のような白衣を着ている男の声は低く、生徒のものではない。
学校にいる人間で教わる側でなければ教える側なのだろうから、彼は教師の一人なのだろう。
だが焦りも取り乱した様子もなく、妙に冷静な態度が龍麻を警戒させた。
杏子に事情を聞いたにしても、まるで全てを知っているかのような余裕さえ目の前の教師からは感じられたのだ。
確か彼は、隣のクラスの担任で、龍麻達のクラスの生物の授業も受け持っている犬神杜人という男のはずだ。
さえない、という龍麻の第一印象は、彼の授業が始まる前のクラスの会話を聞いていると
それほど間違っていないようにも思えた。
しかし、今龍麻を見る彼の瞳は、夕暮れにあって鋭い輝きを放っていた。
昼ではなく、これから始まる時間こそが彼の本領であるかのように。
葵を抱いた腕に何故か力を込め、龍麻は頷いた。
「はい、気を失っているだけみたいです」
「そうか……悪いが、保健室まで連れていってくれるか」
ここまで関わって嫌とは言えず、龍麻はやむを得ず葵を保健室に連れていった。
犬神はその間無言で、どこまでも落ち着き払っているように見える。
何も聞かれない方がありがたい、と思っていたにもかかわらず、
聞かれないことで龍麻は重いプレッシャーを感じていた。
そんな龍麻の心情を知ってか知らずか、白衣の生物教師は保健室に着くまで一言も口をきかなかった。
清潔なベッドに葵を横たえる。
葵はまだ目を覚まさなかったが、ゆるやかに上下する胸を見れば大事には至っていないようだった。
シーツをかけてやろうとしてためらい、龍麻は一歩下がる。
それを横目で見た犬神が代わりにシーツを無造作にかけ、龍麻の方に向きなおった。
「詳しい話は遠野と美里から聞くとして、お前……旧校舎で何か見たか」
「……巨大な蝙蝠を」
「そうか」
異常な説明を一笑に付すことも、深く訊ねることもせず、犬神はただそれだけを答えた。
それが龍麻に、この昼行灯という単語の生きた見本のような教師は、
間違いなくあの場所について何かを知っていると確信させた。
「そのことは他言無用だ。旧校舎には改めて立ち入り禁止の措置を施す」
有無を言わさぬ犬神の口調に、龍麻は逆らわなかった。
龍麻の方でも詮索されたくない事情があり、犬神がそれ以上何も訊かないのならその方が望ましかったのだ。
ただ、ひとつ頼んでおきたいことがあった。
「美里さんには、俺が助けたって言わないでくれますか」
犬神の瞳に、ある種の獣のような光がひらめく。
その鋭さは龍麻をもたじろがせるほどで、龍麻はこの中年の教師が、
実は教師などではない、暗殺者だとかスパイだとかいった闇に生きる者ではないかという、
およそ現実的ではない想像をしてしまったほどだった。
だが、理性よりは野性を、知性よりは獣性を感じさせる輝きも一瞬で消え、
その後はいかにも億劫そうにうなずいた。
「……いいだろう。美里は俺が助けたことにしておく。いいんだな?」
「はい」
軽く頭を下げ、龍麻は事後を犬神に託して保健室を出た。
そのまま校門を出たところで、ようやく緊張を解き、大きく息を吐く。
考えたいことはいくらでもあったが、あえてそれらを無視して、
龍麻は予定よりだいぶ遅れ、帰路についたのだった。
龍麻がマリアの家に戻ると、家主はもう帰宅していた。
「遅かったわね」
何かあったのか、言外に問うているマリアに事情を説明しないわけにはいかず、
龍麻は、帰宅が遅くなった理由を述べた。
「そう……困ったものね、遠野さんにも」
落雷を覚悟していた龍麻だったが、意外にもマリアはため息をついて納得したようだった。
何か、幼い頃に門限を破ったとき、かろうじて叱られずに済んで安堵した時を思いだしつつ、
龍麻はあることに思いあたって訊ねた。
「先生もインタビューを?」
「ええ、まあね」
マリアの口調が珍しくしみじみとしているのは、よほど遠野杏子に辟易させられたからだろう。
子供である龍麻と違って、大人の、しかも教師という立場のマリアは逃げることもできなかったに違いない。
同じ負の感情を抱いたことで、一種の連帯感をマリアに覚え、龍麻は少し笑ってしまった。
慌てて機嫌を損ねたかとマリアを見るが、マリアも苦笑して何も言わなかった。
「もういいわ……食事の支度をしなさい。アナタは食べなければならないでしょう?」
マリアに促され、龍麻は慌てて食事の支度を始めたのだった。
「先生は……旧校舎について、何か知っていますか?」
夕食を採りながら、龍麻が改めて訊ねてきた。
何気なさを装ってサラダを口に運びながら、マリアは答えを選んだ。
「いえ……何かがある、というのは感じるけれど、多くは知らないわ。
教師としての準備も必要だったし、そこまでの時間はなかったの」
それは事実ではあったが、全てではなかった。
マリアは以前あそこに潜入しようと試みたことがあったのだが、犬神に阻まれたのだ。
マリアの演じた新任教師でうっかり近づいてしまった、少しだけ好奇心の強い外国人という役を、
犬神はものともせず、まるでここが秘密の研究所で、近づくものは容赦なく殺すとばかりの強い態度で、
マリアは引き下がらざるを得なかった。
それでなくても外国人の、それも美貌の女教師となれば風当たりは強く、
いくら犬神が教師連中からもそれほど好かれてはいない、
冴えない男だったとしても、着任歴は確実にマリアより長いわけで、
トラブルを起こせばマリアの方が分が悪くなるのは間違いない。
なぜ彼がこんな場所を守ろうとしているのか、それも疑問だったが、
訊いて答えが得られるわけもなく、旧校舎はマリアにとって鬼門めいた場所となったのだった。
そして、犬神杜人である。
初めて彼を見たとき、マリアは己の目を疑ったものだった。
なぜ彼のようなものがここにいるのか。
マリアもこの地球にあって今やほとんど孤高の存在、吸血鬼であるが、
犬神杜人は吸血鬼に比肩するほど伝説的な存在、人狼なのだ。
人に変じ、群を持たず荒野をさすらう、吸血鬼以上に馴れあうことのない妖魔。
人に関わることなく辺境に住み、やがてその辺境すら奪われ、滅ぼされた種族。
彼がなぜ真神にいて、人間社会に埋没するように生きているのかはわからない。
だが種族は違えど人類に迫害されるという共通点を持つ彼は、
マリアの復讐心を見抜いたにも関わらず、協力を拒んだ。
それどころか復讐などというくだらないことはやめろなどと、
憎むべき人間に尻尾を振るような醜態だった。
一度は殺意すら抱きかけたマリアだったが、
それ以上の干渉はしてこないので、現在は静観することにしている。
今のところ、龍麻が『黄龍の器』であることに犬神は気づいてはいないようだが、
事が起こった時に排除しなければならない可能性を考えると、
彼に、龍麻に対してあまり関心を抱かせない方が良いと思われた。
「そう……ですか」
龍麻はそれ以上旧校舎について質問せず、犬神についても追及してこなかった。
疑問は解消されていないが、マリアの意向に逆らってまで探索しようとも思わないのだろう。
どのみちあと一年もしないうちに、旧校舎どころか東京、ひいては世界が破滅するのだ。
気にしても仕方がない、という龍麻の心理は読み取りやすかった。
彼がそういうふうに従うのなら、波風を立てる必要もない。
マリアは小さく頷き、龍麻のそれ以上の質問を遮るように、必要のない食物を口へと運んだのだった。
寝室に入ったマリアは、寝間着に着替える。
灯りを点けたままなのも、龍麻が居る部屋で着替えるのも、意図的なものだ。
龍麻とひとつのベッドで寝るのは、今日で四回目になるが、
少年、といっても年齢的には大人に近い男は、未だ熟した果実をもぎとろうともしなかった。
枕を共にし、生命を捧げることを了承しても、それ以上は頑なに拒む男。
マリアは淫魔ではないから血が啜れればそれで良いのだが、
マリアを構成する別の部分が、この牡を溺れさせてみたいと囁くのだった。
先にベッドに入っている龍麻は、衣擦れの音を聞いても微動だにしない。
芋虫のように身体を丸め、一日の最後の仕事として、首筋を主に差しだすばかりだ。
何も身につけない肢体に、絹の夜着をまとったマリアは、それでも衣の重さに辟易するような顔をしつつ、
男の待つベッドに潜りこんだ。
二人が寝てもまだ余裕のあるベッドに、龍麻は横を向いて寝ている。
マリアに対しては背を向ける形になっているが、それはマリアを拒んでいるからではなかった。
龍麻のすぐ隣に肢体を横たえたマリアは、そのまま身体を密着させる。
腕を彼の前に回し、一番上まで留められているパジャマのボタンを、まずひとつ外した。
「……」
若い肉体が軽く緊張する。
それでも、それ以上は反応しようとしない男に、マリアはさらにボタンをもうひとつ外し、
開いた胸襟から手を差しいれた。
ゆったりと、質感を愉しむように胸を撫で、そのついでにパジャマをはだけさせていく。
龍麻は全く抵抗しようとせず、ほどなくして寝着は乱れ、マリアが関心を持つ場所が露わになった。
「フフ……」
唇の隙間から恍惚を漏らし、マリアは舌なめずりをする。
前に回した右手で龍麻の顎をつまみ、狙いを定め、無防備な首筋に、ゆっくりと噛みついた。
しかしまだ牙は立てず、その代わりに舌を、毎日穿っている部分に這わせる。
「ぅ……っ……」
敏感になっている場所を舐められ、龍麻が小さく反応した。
それを抑えこむように身体を押しつけ、マリアはさらに舌を蠢かせた。
「あ、ぁ……」
龍麻の体温が上がっていく。
巧みに脚を、そして全身を絡みつかせて、マリアは男を興奮させる。
血は、温かい方が美味なのだ。
唇に感じる熱が、充分に高まったのを確かめ、女吸血鬼は静かに牙を突きたてた。
「うっ……!」
赤い血が牙を濡らし、肉体が脈動する。
それを全身で抑えつけ、マリアは龍麻の体液を啜りはじめた。
若い生命力を象徴するかのような熱い血流は、吸血鬼にも活力を与える。
ましてただの血ではない、この六十億人がひしめく地球上において、
この血を持つ者は同時にひとりしか存在しないという、
『黄龍の器』という特殊能力を持つ人間の血なのだ。
マリアが調べた文献には、『器』の用途については記されていたが、
血液についてはむろん何も記述はなく、血を吸ったのも抵抗する力を奪うためだった。
だが龍麻を拉致し、その血を啜った瞬間、マリアの裡には狂おしいほどの活力が湧き起こり、
数百年にわたる刻を生きて初めて味わう、一滴残らず飲みほしてしまいたいと欲する情動を、
必死で抑制しなければならなかった。
それでも常人なら数日は貧血で倒れるほどの量を吸ってしまったマリアだったが、
幸いにも『黄龍の器』は回復力も尋常ではなく、龍麻は翌朝には平気な顔をして台所に立っていた。
安堵すると共に、この程度までなら吸っても死なないという境界線を期せずして知ったものの、
以後もマリアは境界線を侵すリスクを取り続けていた。
「あ……ぁぁ……」
龍麻の呼吸が荒くなっていく。
不規則に跳ねる身体は、血を吸われているからというだけではない。
吸血鬼に血を吸われることによって、人間は性的な疼きを惹起されるのだ。
抑えつけるのを装って、マリアは龍麻の股間に足で触れる。
直接手で触れないのは、龍麻が二日目の晩にそういうのは止めて欲しいと言ったからだが、
そこは掠めただけでもわかるほど膨らみ、存在を誇示していた。
不可避の反応であるが、龍麻はきっと己を恥じているだろう。
その恥はやがて抑えられぬ欲求と融合し、理性を凌駕して牝を欲するようになる。
その時に彼が、どんな顔をして欲情するか、マリアには密かな楽しみだった。
だからマリアはまだ、焦らす。
龍麻の肉体はもう支配した。
残るは魂の方で、それも最終的には堕とし、光を打ち砕くための贄とする。
そしてマリアは世界を光と闇とが等しく覆う、在りし日の姿に還すのだ。
その時に彼から受け取る生命というものへの対価として、
快楽に耽る程度なら支払ってやっても多すぎるということはないはずだった。
ともかく、今日も龍麻は肉欲を欲しなかった。
それならばそれでマリアも構わない。
ただ、だからといって吸血の量を減らしたりはしない。
もう存分に吸った血を、最後にひときわ強く啜りあげ、マリアは官能の時を終えた。
「あっ……!」
長い時間をかけて生命を吸われた龍麻が、糸の切れた人形のようにベッドに沈む。
その首筋にくっきりと二つの孔が穿たれているのを眺め、マリアは満足げに微笑んだ。
身体に充ちていく乱流の如き生気。
それは野心の成就を確信させるに足るもので、いくらか寛大な気分になったマリアは、
贄の服装を整えてやり、乱れた髪を撫でつけてやった。
「フフ……お休みなさい」
龍麻が気だるげに目蓋を開ける。
揺らめいている瞳に、マリアは彼が何か言うのではと待ったが、
血を吸われた直後で意識が明瞭でないのか、再び目を閉じたので、マリアも彼の隣に横たわった。
快い火照りは許容値を少し超えていて、ほんのりと身体が疼いている。
慰めようかとも思ったが、せっかく貰った彼の生命を、そんな形で消費してしまうのは惜しい気がして、
マリアは唇を舐めるだけで堪えることにした。
やがて龍麻から、静かな、規則正しい呼吸が聞こえてくる。
彼はもしかしたら、眠りの挨拶がしたかったのではとマリアは気づき、
多分正解だろうとも思ったが、なぜそう思ったのかはわからないまま、
心安らぐ闇の世界に、一時還ったのだった。