緋勇龍麻が真神學園の三年C組に編入されてから、一ヶ月と約半分が過ぎていた。
それは同時に、學園の教師であるマリア・アルカードと共に暮らし始めてから、
それだけの月日が経ったことを意味する。
男と女、教師と生徒、未成年と成人、どう切り取っても微妙に断面の揃わないこの奇妙な組み合わせは、
意外にもこれまでのところ、破綻することもなく、当人達もおおむね満足のまま過ごせていた。
それがいつまでも続くわけではないと、充分に承知はしていたが。
マリア・アルカードは睡魔を振り払ってベッドに半身を起こした。
陽の干渉しない薄暗闇に快い布団の組み合わせは、人外の存在であっても目覚めを容易にはしない。
闇の眷属、その中でも最も高貴な一族に属するマリアは、その生まれ持つ気品をいささか損なうようなあくびを
ひとつすると、優雅な身のこなしでベッドから下りた。
立ちあがり、軽く頭を振ったマリアは、日本ではあまり見かけないサイズの巨大なベッドが、
無人であることを確かめ居間へと歩きだす。
闇は心地よい――けれども、ここは本当の闇ではない。
かつては在った、今は失われたそれを取り戻すために、マリアは偽りの闇を後にした。
居間では、芳しい匂いがマリアを待っていた。
それらはマリアの生命に関係する匂いではないが、良い匂いであるのは間違いない。
この数十日ですっかりなじみになった、毎日わずかずつ異なる香りを、マリアは自然に満喫した。
匂いの源では、マリアの同居人が動き回っている。
彼は慣れた手つきで新たな匂いを続々と生みだしていて、マリアはしばし観察した。
まだパジャマを着たままで、それも着崩れてはいない。
昨日は寝る前にボタンを全て外してやったはずなのに、いつ直したのだろうか。
眠気に任せて愚にもつかないことを考えているマリアに気づいたのか、
緋勇龍麻という名の同居人は顔を振り向かせた。
「おはようございます、マリア先生」
「ええ、おはよう」
フライパンを操りながら器用に挨拶する龍麻に対して、
マリアの返事はそっけないほどだが、龍麻は気にした風もなく朝食の準備を進める。
全く無防備な首筋に、朝から牙を突きたててやったらどれほど気持ちが良いだろうか、
とさらに愚にもつかないことを考えながら、マリアは洗面所へと向かった。
卵料理に、ソーセージに、パンと紅茶。
洗面所から戻ってきたマリアを待っていたのは、
すっかり支度を終えた朝食と、それらを揃えた料理人だった。
メニューはどこにでもあるような、なんの変哲もないものだが、
用意しているのが十八歳の男ならばまずまず上出来といえるものだろう。
まして食べる二人のうち一人は、調理師にとっては天敵ともいえる、
料理にほとんど関心を示さない存在だ。
マリアが食卓に座ると、すぐに龍麻も向かい側に座り、二人はそれぞれの所作で食事を始めた。
手を合わせ、「いただきます」と告げてから食べる龍麻と、
特に何もせず、新聞を広げ、無造作に紅茶を飲み始めるマリア。
二人の食事は淡々と、ただ栄養を摂取するといった感じで、
団らんめいた空気はテーブルの上に漂ってはいない。
それでも、まるっきり寒風というわけでもなく、龍麻の方はときおりマリアのティーカップに目をやり、
空になったら二杯目を注ぐか訊こうと機会を伺っているようだ。
そしてマリアは知って知らずか、ティーカップを手に取りつつも形の良い唇を触れさせただけで戻したりして、
年下の同居人をひそかに落胆させていた。
結局二杯目を注がせることなく朝食を終えたマリアは、
龍麻が何か言いたそうにしているのに気づいた。
二杯目を注ごうとしていたのも、このきっかけを得ようとしていたのかもしれない。
少し意地悪をしてしまったと顔を上げるマリアに、龍麻はすぐに話しかけてきた。
「今日の予定は何かありますか?」
「別に何もないわ」
食事は目の前に居るのだから必要がないし、その他の物も現在の人の世には
通信販売という便利な手段があるので、外に出歩く必要もない。
買い物自体が嫌いなわけではないマリアだが、人間の群れに飛びこむのは嫌だったし、
不特定多数の男の恥知らずな視線を浴びるのはうんざりで、
だから休日であってもほとんど外出はしなかった。
それは龍麻と同居するようになってからも変わらず、当然彼も知っているはずだ。
つまり龍麻は、自分の予定をこそ聞いて欲しいのだとマリアは結論を導いた。
「どうしたの? 何か望みがあるなら言ってごらんなさい」
希望に添えるかはわからないけれど。
釘を刺すのを忘れずに微笑んだマリアだったが、龍麻の希望はシンプルなものだった。
「一度、家に戻りたいんですけど」
家、というのが龍麻の実家ではなく、下宿を指しているのにマリアが気づくまで数秒かかった。
たかだか一ヶ月半程度の期間とはいえ、生活習慣というのはいつのまにか馴染んでしまうものらしい。
龍麻が東京にやってきてすぐに彼を拐かし、一緒に住まわせていたマリアは、
怪しまれないために彼が借りたアパートはそのままにさせておいたことを失念していたのだ。
「それくらいなら別に構わないけれど……どうしてかしら?」
逃亡の阻止と監視、という目的で同居を強いたマリアだが、
龍麻が逃げるつもりなどない、というのはほぼ信用してよさそうだった。
龍麻は最初にマリアに血を吸われた日から、逃げようという素振りさえ一度たりとも見せず、
むしろ破滅の日を待ち望んでいるかのような言動が端々に見られたのだ。
周到に逃亡の計画を練っているとも思えず、まして龍麻の下宿は同じ新宿区内なのだから
帰るのを咎める理由などない。
それでもマリアは、ティーカップをその肉感的な唇に押しあて、即答はしなかった。
冷えてしまった紅茶に眉をしかめるふりで表情を眩ませつつ、目だけで問う。
龍麻は口ごもり、マリアに疑念を抱かせたが、聞いてみれば理由はばかばかしいほどのものだった。
「服を取りに行きたいんです」
マリアはもう一口、紅茶を啜った。
ぬるい液体を上品に流しこんで喉を潤してから、穏やかに諭す。
「寝巻なら、何も着なければいいじゃない」
男なら、それもマリアの隣に寝る栄誉が与えられた男なら、
一も二もなく同意するはずの誘いに、若く、性的に不能でないのだけは確かな少年は、
ピエロよりも滑稽なほど狼狽した。
「そ、そういうわけにはいかないです。それに、取りに行くのはパジャマだけじゃないですから」
マリアは独りになってからこの四月まで、寝るときに下着をつける習慣などなかった。
数百年続けてきた、くだらないとはいえ約束事を破ったのは、
目の前にいる十八歳の男性、というより子供が原因だ。
たかだか十数年、闇の眷属にとってはまばたきに等しい年月しか生きていない人間が、
生意気にも裸の女とは寝ないなどと言い張ったのだ。
彼は贄であると同時に、重要な鍵でもあったから、マリアは彼の要望を聞きいれた。
その程度の譲歩はマリアが手に入れ、龍麻が失う物と較べれば大したものではないし、
野望が実を成す数ヶ月後までの間、彼を堕落させるのに費やすのも悪くない、と考えたのだ。
そして、今でもマリアは寝るときに下着を着用し、龍麻は夜、求めてはこない。
彼の聖職者的な頑なさに呆れると同時に、是が非でも肉の悦びを教えこんでやりたいと、
日々龍麻が目を止めずにはいられないようなデザインの下着を選ぶマリアだった。
今日マリアが着ているのは、特に過激ではないネグリジェだ。
休日であるのをいいことに、マリアは着替えもせず朝食を採っているが、
過激ではないというのはマリアの主観にすぎないようで、龍麻は全く見ようとしない。
いや、全くというのは誤りで、マリアに話しかけるときなどうっかり顔を上げてしまって慌てて逸らせる、
という行動をもう数回は繰りかえしている。
それがマリアにはおかしくて、ティーカップを持ちあげるときなどわざとらしく背を反らせ、
バストを意識させてやったりしていた。
たったそれだけのことで狼にでも出くわしたかのように右往左往する龍麻を愉しげに鑑賞していたマリアに、
この時ある考えが閃いた。
蒼氷色の瞳を、滅多に見せることのない明るい色調に踊らせ、軽く肩をすくめてみせる。
「そう……それなら仕方ないわね。いいわ、新宿区内だったかしら?」
「はい」
断られることはないと思っていただろうが、安堵の表情を見せて龍麻が立ちあがった。
食器を片づけ始めたので、マリアも立ちあがる。
また目を逸らせる子供の無防備な首筋に、噛みつきたい衝動を抑えるのはなかなかに大変だった。
「お昼ですけど、どうしましょうか」
採る必要はない、と知っているくせに、龍麻は律儀に訊ねる。
それに対してマリアは、予習をしてきた生徒を褒める笑顔で応じた。
「一緒に採ればいいわ……アナタの家で」
「……え?」
「何と言ったかしら……そう、家庭訪問」
「……! いや、家庭訪問って親と面談するのが目的ですし、そもそも高校じゃそんなことしません」
龍麻は手にした食器を落としそうなくらい動揺している。
年の割に落ちつきすぎている少年を、性的な方向以外からの攻撃に成功して、
マリアは久しぶりに愉快になった。
「フフ、一人暮らしをしている生徒の生活がただれていないかどうか、教師には確かめる義務があるわ」
「……俺の家なんて見ても、面白くないですよ」
明らかに面白がっているというのを、どうやら龍麻も悟ったようだ。
これみよがしにため息をついてみせたのは、せめてもの抵抗だったようにマリアには見えた。
龍麻の家はマリアと同じ新宿区内でも方向が違い、かれこれ三十分近く歩いていた。
炎天下とは言えないまでも春と夏の間の季節は、たとえばルーマニアの北西部辺りでは
もたらされることのない暑さを浴びせかけてきて、
もしかしたら龍麻がわざと遠回りの道を選んでいるのかもしれない、とマリアは邪推したほどだった。
マリアにとって日光は関係なく、陽光の下に出たくないのは生まれ育った環境に負うところが大きい。
ルーマニアにも四季はあるのだが、むろん東京ほど暑くはなく、
さらにヒートアイランドとやら言う現象のおかげで耐えがたいほどになったこの街に、
マリアは目的がなければ決して住むことなどなかっただろう。
ネグリジェ姿で来れば良かったかもしれない、と暑さのあまり龍麻が聞けば
絶対に同行を許可しないようなことをマリアが考え始めた時、ようやく今日の目的地が姿を現した。
「ここです」
龍麻が指さしたのは二階建てでさほど大きいわけでもなく、ごく一般的な印象のアパートだった。
大学生か一人暮らしのサラリーマンが住むような感じで、マリアの現在の住居とは較べるべくもない。
だが、それはマリアが経済的には不自由していないからで、
現代の日本、それも東京で成人していない高校生が一人暮らしをしているだけでも
恵まれている方だということをマリアは知っていた。
龍麻は階段を上っていき、奥から二番目のドアで立ち止まる。
最低限部屋を片づけるくらいの時間は与えてやるべきだろうか、
と思春期の少年の後についたマリアは思ったが、龍麻は慌てる様子もなく招き入れた。
部屋はマリアの想像以上に片づけられていた。
ただし一月半無人だったための埃が舞っているのはどうしようもなく、マリアはほんの少し眉をしかめる。
けれども龍麻が一月半も家を空けることとなったのは、他ならぬマリアが原因なのだ。
それも家を引き払っては怪しまれる、という利己的な理由なのだから、
埃が舞う程度で龍麻を責めるのは酷というものだった。
その龍麻は掃除も手慣れているらしく、まず窓を開けて換気から始めている。
健気ともいえるくらい真面目な態度に、些少な不快さも忘れてマリアは彼の肩を叩いた。
「アナタはまずそっちの部屋から始めなさい。ワタシはこの部屋に掃除機をかけるから」
「え……いや、でも……」
マリアの家に来て以来、家事は全て龍麻が行っている。
だから掃除に関しても全く員数外だと思っていたのだろう、いささかならず驚いている龍麻に、
学校では見せることのない挑発的な笑みを浮かべた。
「フフ、掃除くらいワタシにもできるわ……苦手なのは料理だけよ」
それは完全な事実で、料理が苦手、というのはここ何百年かはしていないからにすぎない。
もしも龍麻が全く料理が出来なかったのなら、彼が餓死しない程度には食事を作ってやるつもりだったのだ。
まだ半信半疑でいる龍麻をよそに、さっさと掃除を始めるマリアだった。
それほど広くもない床に掃除機をかけ始めて、すぐにマリアは気づいた。
この部屋には、生活感が欠けていた。
もちろん、住んでいないのだからそんなものがあるわけもないが、それ以前に物の数が少ないのだ。
申し訳程度の机と、本棚がひとつ。
あとは最低限の家電のみで、マリアの家にすら一応はあるテレビさえなく、
この部屋を見ただけで住人を予想するのは、極めて困難だろう。
マリアは湧き起こる好奇心を抑えきれなかった。
「どれくらいここに住んでいたの?」
それが火薬の横で火を点けるに等しい質問であるのは承知している。
これまで龍麻はマリアに対して怒りの感情を見せたことは一度もないが、
この問いはそんな前例を破るだけの悪意に満ちていた。
「二週間くらい、だったと思います」
龍麻の態度に変化はなく、それがマリアを驚かせる。
初めて龍麻の血を吸い、彼の人生を決定づけた日も、龍麻は取り乱したりはしなかった。
人間であるという以外に何の落ち度もない若者が、
いきなりあと一年もしないうちに生命を全うできなくなると告げられたのに、
夕食に嫌いな物が出されるよりも平然と受けいれたのは、
現実感が断線したからなのだろうとマリアは考えていた。
けれどもそれは誤りで、まだ青年ともいえない年齢の龍麻は、
マリアが理解に苦しむほどの厭世観を身にまとっていたのだ。
むしろ積極的な死すら望んでいるような態度は、一過性ではなかった。
新たな生活を始めようとして強制的に中断させられたというのに、マリアを恨む気配すら龍麻にはなかったのだ。
それがマリアには不気味でもある。
この一ヶ月半反抗の兆しも見せていないのは、周到な計画を実行するための偽装なのではないかと、
どうしてもマリアの立場からは疑ってしまうのだ。
これを機会にマリアは、これまであえて触れなかった彼自身について、少しだけ訊いてみることにした。
物のあまり置かれていない部屋は、それほど時間もかからずに一通りの掃除を終えることができた。
龍麻は一人でするつもりだったからだろう、時間はまだ昼にもなっていないくらいで、
手持ちぶさたになってしまった二人はなんとなくテーブルに向かいあって座る。
テーブル、といっても椅子は使わない小さなタイプで、二人の距離はかなり近かった。
「何か、飲むものでも買ってきましょうか」
落ちつかなげに龍麻が言う。
席を外したいのだろうとマリアは見てとったが、あえて気づかないふりをした。
「いえ、今はいいわ。それよりも、訊きたいことがあるの」
「……なんですか?」
もしかしたら掃除は、龍麻にとって息抜きだったのかもしれない。
それを邪魔された上に質問などされては、たまらないだろう。
家を出るときはそこまで思い至らなかったマリアは、彼に対して少し悪い気がしたが、
どうせ機嫌を損ねてしまったのなら、これまで訊く機会の無かったことを訊いてみようと思った。
「アナタはどうして真神に?」
マリアが『黄龍の器』を手に入れるための拠点として真神學園を選んだのには理由がある。
『龍脈』と『龍穴』について研究した結果、この學園に何かがあるという事実をマリアは掴み、
それを探るために英語教師という身分を得たのだ。
一方で『黄龍の器』については確たる情報はなく、東京中の高校を、
緋勇という名字を手がかりに総当たりするつもりだったのだ。
だから、彼が真神に転校してきたのは、僥倖というほかなかった。
『黄龍の器』とこの学校とに関連があるとしても、彼はそんな関連など知らないはずであり、
大いなる偶然のみが龍麻を真神に引き寄せたのだ。
マリアとしては居もしない神に感謝するのはともかく、
もしかしたら後数ヶ月は免れることができたかもしれない、
進んで生け贄の祭壇に上ってしまった少年の不幸をわずかながら同情する気持ちもある。
そもそも何故このタイミングで転校することになったのか、身の上くらい聞いてやるつもりだった。
「前の学校には、居られなくなったんです。生徒の一人を再起不能にしてしまって」
再起不能、というのは穏やかな言葉ではない。
しかし、龍麻は誇張でなくその言葉を使えるだけの人間であることを、マリアは知っていた。
「それは……『力』を使って?」
「はい」
明確に頷いたものの、龍麻はすぐには話そうとしない。
マリアも急かしたりはせず、彼が記憶を辿るのを待った。
龍麻の話は以下のようなものだった。
通っていた学校で、女生徒ばかりが重傷を負う事件が頻発した。
それも、女生徒自らが眼球にペンを突きたてるといった異常なものばかりで、
犯人どころか原因すら不明のまま、女生徒達は怯えるばかりだった。
その時点では龍麻は関心を持ちつつも犯人捜しをしようとは考えていなかった。
それが一変したのは、同じクラスの少女が拐かされたからだった。
犯人はやはり同じクラスの男子生徒で、彼は少女を拉致し、欲望のままに嬲ろうとしていた。
友人に、一緒に救けに行って欲しいと頼まれた龍麻は、二人で高校の近くにある廃屋へと向かう。
そこで龍麻が目にしたのは、宙に磔にされ、今にも犯されそうになっている少女だった。
腕を肩の高さまで上げられ、空中に床があるかのように足が持ちあげられている。
その異常な光景に息を呑んだ龍麻だが、次の瞬間には今まさにズボンを脱ぎかけていた男に向かって突進していた。
戦いは、奇妙なものだった。
友人と二人、男に殴りかかった龍麻の、動きが急停止を強いられる。
後日思い返してみると、後ろから引っ張られるような感覚だったようにも思うが、
二人共が一歩も動けなくなり、息が苦しくなっていった。
何が起こっているのか判らないまま龍麻がもがくうち、隣で友人が昏倒する。
悲鳴を短く発して動かなくなった友人を見たとき、龍麻の怒りが爆発した。
全身が膨らむような意識の拡大と同時に、不可視の拘束が解ける。
そして気がつけば、元同級生だった男は数メートル先で倒れており、宙づりだった少女も床に伏していた。
友人は気を失っただけで命に別状はなく、少女も被害はどうやら服と若干の怪我だけで済んだようだった。
男は病院に搬送されたが、意識は回復せず、今後も期待はできないと診断された。
その男が今回の件だけでなく、女生徒達の怪我に関わっているらしいことは複数の証言があったものの、
直接的な証拠は一切なく、警察も立件はできなかった。
龍麻が彼に負わせた怪我についても、打撲などの症状はみられず、
症状を納得させるような暴力の痕跡はなかったので、
昏睡との因果関係は不明とされ、厳重な注意を受けるにとどまった。
こうして事件は一応の解決を見たが、とにかく男を含め、
数人が重傷を負ったという不祥事は学校側をひどく狼狽させた。
結果、救われた少女と、共に戦った友人が必死に庇ってくれたのにもかかわらず、
学校側は臭い物に蓋をするように龍麻一人に責任を被せ、
龍麻の両親にこの学校ではもう彼の卒業については一切保証できないと脅しをかけてきたのだ。
大人の汚いやり方に腹を立てた龍麻だが、これ以上は親に迷惑をかけられないという思いと、
意地を張ってこの学校に留まったところで誰一人喜ばない、というのが解っていたから、
学校側の提案を呑んだ。
どうせなら新年度時に転校して欲しい、さらにはそれまでの三ヶ月は休学して欲しい、
という厚かましい申し出をも、龍麻は受諾した。
波風を立てないと決めたのなら、どこまでも凪を求めれば良い。
たとえ、舟が出せなくなったとしても。
大きな感情の起伏も見せず、龍麻は話を終えた。
それはマリアでなければ到底信じられない話だっただろう。
相槌も打たずに話に聞きいっていたマリアは、
龍麻が口を閉ざした時、不意にこれまでなかった感情が芽生えるのを自覚した。
彼は根絶させても飽き足らない種族の一人であり、そのために必要な贄でもある。
だが、彼はまた、異能の『力』ゆえに同胞から疎まれ、孤独を宿命づけられた人間でもあるのだ。
たとえマリアが贄として用いなくても、彼はこの人があふれかえる東京の街で、
孤独のままに生きていくのだろう。
それはもしかしたら、全ての同胞を失って一人生きるよりも辛いことなのかもしれない。
そんな風にすら思いかけたマリアは、慌てて思考を振り払った。
贄に同情してはいけない。
些少な憐憫など、何百人もの同胞を殺され、
一人生き残った後も逃げ続けなければならなかった怒りとは較べるべくもないのだ。
同情したいのなら、復讐が終わってからにすればいい。
マリアはそう己の心を説き伏せた。
龍麻が再び口を開く。
「ただ、転校する時に真神を選んだ理由はありません。どこでも良かったんですから」
前の高校とは管区ができるだけ離れていること。
うわさ話でさえも届かない程度に。
それさえ満たしていれば、あとはよほど治安が悪いのでなければ構わなかった。
いきなり佐久間に目をつけられたのは誤算だったが、彼のような手合いはどんなところにでもいる。
真神より進学校に行ったとしても、直接的な暴力を使わない、それだけにより深刻な私刑は存在するのだ。
高校三年という異常な時期に転校すれば、どれほどおとなしくしていても耳目を惹きつけずにはおかない。
だから龍麻は佐久間達の暴力もある程度まではやり過ごす覚悟はできていた。
「今のところ我慢はできます。このままいってくれたらいいんですが」
「そう……そういうことだったのね」
龍麻の説明を聞いたマリアは、深く頷いた。
これまでの龍麻の言動にも、これでほとんど納得がいく。
求めていた以上の回答は、しかし、最後の質問をマリアにさせた。
「もうひとつ、訊いてもいいかしら」
「なんですか?」
「なぜアナタは、そんなに死を冷静に捉えているの? 不死の存在でもないのに」
龍麻は『黄龍の器』という、人外の存在すら凌駕する『力』を持っていても、
もちろん有限生命であり、マリアのような不死生命には決してなれない。
古来どれほど強大な権力や富を手に入れた人間の王達も死からは逃れられなかったように、
時の枷を越えられるのはマリア達一部の存在だけなのだ。
ゆえに人は皆、死を怖れる。
怖れるがゆえに、死を超えた存在を怖れ、疎む。
そうして人は闇に生きる人ならざるものを襲い、彼らの言い分など聞きもせず狩りたて、殲滅したのだ。
なのに龍麻は死を恐れない。
まだ人類という種の平均年齢の半分にすら達していない歳なのに、
与えられる死にまるで無頓着で、それを望むような節さえ態度の端々に垣間見える。
それは彼を殺そうとする立場のマリアから見ても、尋常なことではなかった。
「それは……」
龍麻は初めて口ごもった。
マリアは瞳の蒼氷を深く沈め、油断なく彼を観察した。
「こんな『力』、持っていても危険なだけだからです」
沈思の末に放たれた答えはいかにも優等生的で、マリアを満足させるものではなかった。
蒼氷をさらに沈降させ、無言のプレッシャーを与えてみるが、
龍麻は怯みはしても、氷の圧力に押し潰されはしなかった。
「……そう」
マリアは追及を止めることにした。
今日は充分以上の話が聞けたし、ここで追いつめても意味のないことだ。
帰りに食事でも奢ってやるつもりで、マリアは質素な部屋にはまるでそぐわなかった話を終え、
龍麻に帰るよう促そうとした。
「お願いがあります」
だが、マリアが口を開くよりも早く、龍麻の方から切りだした。
鋭く、重い声に、浮かせかけた腰が停止を強いられる。
その瞬間マリアは、陽射しが射しこむこの部屋が、
厚いカーテンで日を遮る自分の寝室よりも暗くなったように感じた。
「マリア先生にとって、俺が用済みになったら……確実に殺してくれませんか」
これまでの話からすれば、決して意外ではない。
それでもマリアは、彼女が殺す予定の人間から絶対の死を求められて、いささかならず動揺した。
「……」
動揺を悟られてはならない。
そう考えたマリアは、慄える唇を無理に閉じた。
たった二月足らずで情が移ってしまったのか、
そんなことで地球上にあふれかえる人間達に復讐をすることができるのか、と己を叱咤してみても、
目の前に座る二十歳にも満たない子供の、冷え切った炭の如き瞳に真っ向から見据えられると、
凍てついているはずの心に、どこからともなく軋みが聞こえてくるのだ。
近づいてくるそれはマリアの闇に浮かぶ、数百年にもわたって凝集した巨大な氷を溶かそうとする類のものではなく、
むしろそれも氷だったかもしれない。
マリアが抱いているのとは別種の、けれども大きさでは引けを取らない氷が、
マリアのそれに近づいてきて、増幅された冷気によって奏でられた音なのではないか。
「……わかったわ」
それでも結局、マリアは予定通りの答えしか返さなかった。
二つの氷が衝突したとき、何が生じるのか、湧いた疑問は鮮烈なまでに思考を司る部分に焼き付いたが、
それが望まぬ結果をもたらしたらどうすればよいのか、考えるのが怖くなったのだ。
とにかく当初の計画通り事を運べば、マリアの魂、もはや溶けることのない氷で覆われた魂には、
せめて安らぎがもたらされる。
その安らぎが辿りついた果てが大地ではなく、小さな島でしかなかったとしても、
すでに永い刻を漂泊しているマリアには構わなかった。
束の間の安息であったとしても、マリアはそれを渇望しており、そのためになら、
できることはなんでもするつもりだった。
「龍脈の力を解放した後、『黄龍の器』がどうなるのか、記してある文献はなかったわ。
何もないのかもしれないし、廃人になってしまうのかもしれない。でも」
一度語を切ったマリアを、龍麻はまばたきもせず見つめている。
口の中が干上がっていくのを感じたマリアは、急いで続きを言った。
「でも、アナタが望むのなら、ワタシはアナタを殺す」
言い終えると同時に、口は乾ききった。
その影響を受けた声も、また乾いていた。
「ありがとうございます……お願いします」
これほど奇妙な返事を、マリアは聞いたことがなかった。
けれども、乾きは心にまで達してしまったのか、小さく頷いたマリアには、
どんな感情の欠片も浮かびあがってはこなかった。
鍵を閉める音が、空虚に響く。
用事を済ませたマリアと龍麻は、長居することなく帰路についた。
二人とも死の約束を交わして以後はほとんど喋らず、教師と生徒という関係を知る者が見れば、
生徒が何か悪事を働き、これから教師と謝罪に行くところかと思ったかもしれない。
マリアは隣の龍麻と完全に歩調を合わせていた。
彼の背中を見ることはなく、彼に背中を見せることもない。
どこかに寄ろうという気にもなれず、歩みは遅かったが、龍麻も同じ心境なのか、
あるいは気を使っているのか、マリアの意図を完璧に汲み、足音すら重ねて歩いていた。
龍麻の頼みを聞いた動揺から、マリアはもう立ち直っていた。
先ほどのは年端も行かない子供から殺してくれなどと言われて取り乱しただけで、本来そのつもりだったではないか。
彼は死ぬ――他の多くの人間を殺すための触媒として。
つまり彼にとっては多くの同胞の、ほんの一歩先を歩くだけのことで、
死を事前に告げられている分、訳もわからぬまま死に追いやられる彼らよりは、ずっとましな立場のはずだ。
それが酷い理屈だと承知の上で、マリアはそう自分を説いた。
心が晴れるわけではなかったが、落ちつくことはできた。
今はそれ以上必要はないはずだった。
ふとマリアは、自分の左手が龍麻の右手を握っているのに気がついた。
いつからなのだろうか、それほど長い時間ではないはずだ。
龍麻から握ってきたのだろうか、と思い、すぐにその考えを否定した。
では――
奇妙なことに、マリアは手を離そうと思わなかった。
そしてもっと奇妙なことに、龍麻も手を振りほどこうとはしなかった。
握りかえしたりはせず、何かの弾みで簡単に離れてしまいそうな、弱々しい結びつき。
それでも重なり合った手は、離れなかった。
いつかは離れるとしても、せめて家に着くまではこのままでいい。
まだ高処にある太陽に目を細め、マリアは自分でも出所のわからぬその考えを、
眩しすぎる陽射しのせいだと結論づけた。
だが、いまいましい陽は家に帰るまでは沈む気配もない。
早く帰りたい、と思うマリアの足取りは、結局、家に着くまで変わることはなかった。
転載にあたってルビの振りなおしと誤字脱字のチェックを兼ねて読み直しているのですが、「が」が多いですねまったく。