※この作品はR-18です。

人ならざるもの   作:SVX

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第5話

 薄暗闇の中で、龍麻は目覚めた。

光のない朝を迎えるようになってから、どれくらい経っただろうか。

初めは慣れなかった――身体の気怠さと共に――が、今では目覚ましが無くても、

ほぼ同じ時間に起きられるようになっていた。

同様に、硬すぎず、柔らかすぎず、絶妙の塩梅で沈みこむマットレスにも、

温かく、そのくせ重みをほとんど感じさせない掛け布団にも、龍麻は順応している。

始めは大変だった――それらの寝具は快適すぎて、ベッドから出るのが嫌になるほどだったのだ。

同居するマリアが朝食を必要としない身体だったから事なきを得たのも何度かあり、

そうでなければ真神學園三年C組の担任と生徒一名は揃って遅刻するという不名誉を担う羽目になっただろう。

 とにかく、多少の努力は必要だったとしても、龍麻は健全な高校生として

毎朝朝食を作って食べる程度の時間は確保して起きることができるようになっている。

けれども、未だ慣れないものというのもあって、龍麻は身体を起こす前に視線を横にやった。

 そこには暗闇にほのかに浮かぶ、金色の灯がある。

マリア・アルカードという名の灯台こそ、龍麻が未だ慣れず、慣れる気配もない、

寝起きを共にする女性だった。

 静かな寝息を立てている彼女は、どんな著名な美術品よりも美しいと龍麻は思っている。

それは龍麻だけの認識ではなく、学校のそこかしこでマリアの評判を耳にしない日はない。

単純に容姿を褒めるのもあれば、声の美しさや授業の丁寧さを賞賛するのもあるし、

中には聞くに堪えない下卑たものもある。

だが彼らのいずれもが、龍麻が、毎晩彼女とベッドを共にしていると聞かされたなら、

さらに毎晩肌を重ねていると知ったなら、一様に腰を抜かさんばかりに驚くに違いなかった。

今のところ龍麻は変人、それも極力関わらない方がいい変人として認知されているが、

そんな防波堤もものともせず、毎夜の物語を聞こうとなだれこみ、龍麻を辟易させただろう。

 しかしそれよりも、はるかに重大な秘密がある。

真神學園でおそらく一番人気のある教師、マリア・アルカードは、

西暦の誕生よりも旧い刻を閲してきた闇の一族、その中でも最も強大な吸血鬼なのだ。

 もしもその事実が明るみに出たら、周りはどう受け取るだろうか。

日中に出歩き、人間の学校に教師として職を得、美貌とスタイルで学校中の人気を集めている彼女を、

その名の通り血を吸う鬼バケモノであると納得するだろうか。

 そんなはずはなく、誰に話したところで、笑ってもらえるのならマシな反応で、

真顔で話せば薄気味悪そうに立ち去られるのが関の山だろう。

 だが、龍麻は知っている。

マリアは獲物の首筋に牙を突きたて、夜な夜な生血を啜る、真物ほんものの吸血鬼なのだと。

そして、おそらくはその危険性ゆえに人類に疎まれ、虐殺された一族の、

いまや最後の生き残りである彼女は、峻烈な復讐の念を人間全てに対して抱いているのだと。

 それらの、およそ現実離れした事実のほとんどを龍麻は受けいれていた。

そればかりか龍麻自身が彼女の望む復讐を遂げるための重要な因子であり、

マリアの望みを叶えるためには、おそらく死ななければならないという未来さえ提示されても、

龍麻はマリアから逃れようとはしなかったし、彼女を止めようという素振りさえみせなかった。

 たったひとつ、マリアの虜囚となるときに提示した条件。

それさえ叶えられれば、龍麻は祭壇に捧げられる従順な山羊たるを持って任ずるつもりだった。

 ただ、犠牲の山羊は選ばれていても、祭壇の準備がまだ整っていない。

マリアの言うところでは、条件が整うのは今年の末から来年の年明けにかけてで、

その刻がくるまでは山羊ではなく人間として生活する必要がある。

与えられた時間はおよそ半年、その間の、いわば最後の晩餐の時を、龍麻は今過ごしているのだった。

 マリアが眠りの国から旅立っていないのを確かめた龍麻は、

布団を必要最小限だけ払い、音を立てずベッドから下りた。

マリアを起こさないようにという配慮ではあるが、

もうひとつ、もしかしたらこちらの方が重要かもしれない理由がある。

それは、顔だけを見れば神性すら垣間見えるほどの美貌を持つマリアの、

首から下は現在、娼婦も恥じらうような淫らな下着に包まれているからだ。

 龍麻が来る以前は裸で寝ていたというマリアは、もし龍麻が寝姿を覗き見したとしても怒ったりはしないだろう。

それどころか、ついにその気になったのかと悦ぶのは間違いなかった。

なにしろマリアは、夜ごと龍麻の首から生血を啜る際に、

不必要に身体を密着させ、不必要に肌をまさぐってくるのだから。

 龍麻は自分の持つ『黄龍の器』という超能力を利用されるのも、

その利用法が世界に大破壊カタストロフィをもたらすためであるという、

およそ反社会的なものであることにも不満はないが、

ベッドを共にし、しかもマリアが半裸で寝ることに対しては大いに不満があった。

だからマリアに一緒に住むよう告げられたとき、龍麻はマリアがその格好を止めないのなら

居間のソファで寝ると言ったのだが、逃げる可能性があるからと許可されず、

なしくずしにこの、二人横になってもまだ余裕があるベッドに寝ることを余儀なくされていた。

 とはいえ、肉体的には精気に満ちる年頃であって、

しかもマリアのような妖艶な女性に情感たっぷりに触られて平静を保てるものではない。

否、近頃では本能を覆う理性の厚みを把握されてしまったらしく、

明らかに二月前よりも危険な領域にまでマリアは踏みこんできていた。

かろうじてまだ甘美な誘惑に屈してはいないが、吸血鬼の毒というのは長い時間残るもののようで、

一晩明けた朝でも、うっかり彼女の寝姿を見てしまったときなど、

龍麻は穏やかならぬ気分になってしまうのだ。

それを防ぐためには、古来より最も強力な防御と言われている戦法を使うしかなかった。

――危うきには、近寄らず。

念仏のように朝から陰気くさい小声で呟きつつ、龍麻は吸血鬼の寝所を後にするのだった。

 

 同じ学校に通うといっても、教師と生徒が玄関から校門まで一緒に登校するわけにはいかない。

教師はその辺りの事に無頓着だったが、生徒の方が警戒を促し、朝は別々に家を出るようにしていた。

 それが理由というわけでもないが、龍麻はかなり早く学校に到着する。

到着したからといって何かをするわけでもなく、自分の席に直行した龍麻は、

鞄から教科書類を取りだすと、あとはずっと外を見るだけだった。

まだ同級生も一人として来ておらず、教室は意外な広さをたった一人の住人に沈黙の重さでアピールする。

だが、龍麻は喧噪に満ちた東京とは思えない静謐な空間にもまるで無関心のまま、

誰が来るのを待つわけでもなく、自身も沈黙の一部と化していた。

その態度はやがて他の生徒が登校し、教室の半分を埋めるようになっても変わらなかった。

 マリアとは家でそれなりに会話もする龍麻だが、学校では全くといっていいほど口を開かなかった。

なにしろ転校初日から同級生とは口も聞かない、目すら合わせようとしないありさまだったので、

今では完全に居ないものとして扱われていた。

プリントを回す時や授業で当てられたりした時も、龍麻の周りだけが完全に無言になる。

一種異様な光景ではあったがその状態が一ヶ月以上も続けばある程度は馴染んでしまうし、

現象の中心である龍麻が全く事態を改善しようとしなかったので、

不気味ながらも三年C組の一画はほとんど不可視の障壁があるかのように振る舞われていた。

 だが、四十人以上が一人の存在を全く無視するという状況の中で、

ひとりだけ、龍麻の動向を注視する生徒がいた。

美里葵という名のその少女は、積極的に話しかけたりこそしないものの、

たとえば龍麻が板書をしてもどってくる時など、ごくさりげなく龍麻の方を見上げたりしている。

はじめ、目を合わせてしまった龍麻は、たまたま彼女の視線上に立ったのだと思っていた。

それが偶然ではないと気づいたのは、何日かに一度は同じように視線を感じるからで、

一週間の間に五回目が合うに至り、ようやく彼女が意図的に見ているのだと気づいた。

 何か話したいことがあれば、いつでも話しかけてくれていい。

一瞬の何分の一かにそんな意思をよぎらせ、何食わぬ顔で授業を受け続ける葵に、龍麻は困惑した。

クラス委員長として孤立している転校生を見過ごせないのか、

あるいはクラス全体で狡猾な、たとえば美人局的な罠を張っていて、彼女は囮の餌役を引き受けているのか。

 だが、どんな意図があるにせよ、これまでどおり無視を続ける以外のことはできなかった。

誰とも必要以上に話さない、というのは龍麻から決めたルールであったし、

それを破る最初の相手が、學園でもっとも人気のあるらしい葵というのでは、

最初から彼女の関心を惹くためにわざと奇矯な振る舞いをしたのだと誤解されるに決まっている。

そんなピエロになるなど耐えられなかったし、そもそも何を話せばいいのか、皆目見当がつかなかった。

 龍麻と葵とは、席が隣という以外に、ひとつだけ接点がある。

転校して数日後、隣のクラスの新聞部部長、遠野杏子にそそのかされて旧校舎に入った葵は、

そこで巨大な蝙蝠と遭遇し、気を失った。

たまたま教室にいたというだけの理由で、一人逃げてきた杏子に救出を頼まれた龍麻は、

旧校舎に入り、葵を助けたのだ。

その後、建物の外で出くわした生物教師の犬神に事情を話し、葵を助けたのは彼ということにしてもらった。

だから葵は龍麻に助けられたことを知らず、その意味では接点というのも片側にしか存在しないことになる。

 自分が話もしない、目も合わせない女性から好意を向けられる色男であるなどと自惚れてはいない龍麻は、

葵が関心を寄せる理由がまるでわからなかった。

学級委員長、あるいは隣の席のよしみということで無理やり納得しようとしても、

一週間も無視され続けてなお興味を持つというのは異常な気がする。

あるいは遠野杏子が旧校舎での一件を喋ったのかもしれない、と勘ぐったりもしてみたが、

それでは礼の一言もないというのもおかしい。

 いずれにしても、今のところ実害はなく、単に同級生が同級生を見ているというだけで、

それももしかしたら回数の多い偶然なのかもしれないのだ。

龍麻の方からとやかく言う筋合いでもなく、偶然かどうかを確かめるわけにもいかず、

龍麻としてはやや心の隅にささくれめいたものを感じつつも、

これまで通り学生生活を続けるしかないのだった。

――たとえそれが、偽りに満ちたものであったとしても。

 

 昼の休み時間も終わりに近づき、五時限目が始まろうかという頃。

龍麻はいつものように窓の外に顔を向け、頬杖をついていた。

こうしておけば誰かが気の迷いで話しかけてくるようなこともない。

龍麻が座っている位置から見える景色は、大して面白みもないものだったが、

あくびもせずに空の一点を眺めていた。

 空は薄く濁った灰色で、といって今にも一雨来そうというほどでもなく、

いかにも中途半端な天候だった。

風もほとんど吹いておらず、雲も停滞していて、

もしクラスメイトが勇気を振り絞って何が面白いのか訊ねたら、

龍麻は返答に窮してしまったかもしれない。

 もちろん、そんな物好きなクラスメイトなど龍麻の属する三年C組には一人としておらず、

龍麻は思う存分つまらない景色を眺めることができた。

 灰色の空の下には、それと同じ色のビルが林立する。

天を衝く勢いで立ち並ぶ鈍色の人工物の中には、その偉容にふさわしいだけの人間がいるに違いない。

マリアが目論んでいる大破壊カタストロフィが実行されたとき、

彼らはやはり、バベルの塔を建設しようとした人々と同様の運命を辿るのだろうか。

神に近づこうとしたわけでもないのに罰せられる定めを、彼らは易々として受けいれるだろうか。

 彼らの運命に思いを馳せるとき、龍麻の眉目に動きはない。

能動的ではないにせよ、数万人規模での殺人に加担することになる。

まだ二十歳にもならないといっても、龍麻がその凶行の重さを知らないわけではなかった。

ただ、龍麻自身の経験と、同胞を虐殺されたマリアの、数百年に渡る怨嗟が、

人類への裁きもむべなるかなと思わせるのだ。

 滅びを拒むというのなら、それでも構わない。

人類には、自分たちに対抗する叡智があるはずだ。

ここからでは見えないビルの最上層に視線を馳せ、偽悪的にそう考えた龍麻は、

数百メートルの彼方に飛ばしていた意識を引き戻した。

束の間マリアと二人、世界に敵対する存在となっていた心を切り替え、

一介の学生として授業の準備を始める。

 空想の、今はまだ戯言でしかない未来から、

現実の、次の授業に対する関心への移動は一瞬で行われたが、その時に、

元の場所にぴったりと戻ることができず、少しだけ通り過ぎてしまった。

 今は頭の真後ろに座っている、美里葵という名の少女を思い浮かべたときだけ、

龍麻の心にはビルを覆う現実世界と同様、灰色の雲が立ちこめる。

 助けたい、とまでは思わない。

マリアに目的を聞かされる前から龍麻は、

誰に対しても余計な感情が芽生えないよう接触を断ってきたのだ。

彼女が利用しようとしまいと、転校してきたこの真神學園で誰かと友人になったり、

部活やその他の組織に参加するつもりはなかった。

むしろマリアの抱く野心は、龍麻が転校初日からほとんど誰とも口を聞かないという異常事態を

正当化する口実となっていた。

もしマリアがただの・・・教師であったなら、不遜とも言える態度をとり続ける龍麻を、

一度くらいは呼びだしただろうから。

 そして、たとえ美里葵がこの学校で最も優秀で、かつ最も人気がある生徒だとしても、

それらの事情が裁かれる者の魂を量る天秤に加味されることはない。

そもそも天秤を持つのは龍麻ではなくマリアであり、

彼女は聖職者というその職業名に違たがい、ひとりひとり助けられるべきかどうか計ろうなどとはせず、

天秤そのものを破壊するに違いなかった。

 だが、できるなら助かって欲しい、とは思う。

東京を襲う大破壊を生き延びたところで幸運とはいえないだろう。

マリアの言うことが正しければ、龍脈という地球規模のエネルギーを使って引き起こされる大破壊は

人類がこれまで経験したことのない災害であるはずで、そのあとに待っているのは混沌でしかない。

それはもしかしたら、大破壊で即死するよりも辛い状況になるかもしれないのだ。

それでも、彼女を大破壊そのもので死なせたくない、という気持ちは、

龍麻の裡にぼんやりとではあったが存在していた。

会話を交わしたことはなく、一度助けたことがあるだけ、それもせいぜい数十メートルを

抱きあげて運んだだけの彼女に、どうしてそんな気持ちを抱くのか自分でも分からない。

名前と顔を知っている人間が一人でも生き残ることで、罪の意識を軽くしたいのかと

己に辛辣に問いかけてもみたが、確たる答えは出なかった。

 そこまで考えたところで予鈴が鳴ったので、龍麻は思考を打ちきった。

結局どこまでも仮定の話であり、しかも偽善も甚だしいというのは、いまさら確認するまでもなかった。

そして自分が偽善を改める気などなく、本当に最後の審判の日がもたらされるとしても、

葵にだけそれを告げたりはしないということも、龍麻にとっては既定の未来なのだった。

いずれその日が訪れれば、何もかもが終わるのだから、その後のことを思い煩う必要などないはずだ。

――どんな事態になろうとも、少なくとも龍麻だけはこの世から消えるのだから。

 

 授業開始を告げるチャイムが鳴り、同級生たちが席に戻り始めた。

まだ騒がしい空気の中、いち早く教科書を机に揃え、龍麻は姿勢を正す。

 不意に頬に何かを感じ、それが何かは判らないまま、目だけを素早く動かすのと、

隣にいる葵の上体がぐらりと揺れたのは、ほとんど同時だった。

「……!」

 危ない、と考えるより早く身体が動き、倒れかかる葵を支える。

間一髪といったところでかなり強い衝撃が伝わってきたが、葵は痛みを感じてすらいないようだった。

 どうにか葵を抱き起こした龍麻は、彼女が気を失っていることを知る。

蒼白な顔に落ちかかる艶やかな髪は異様な美しさを醸していて、

一瞬呼吸が止まる思いで葵を見つめた龍麻は、すぐにそんな場合ではないと気づき、助けを求めて辺りを見回した。

 教室の中にいた生徒達は、クラスメートの異変にも気づく様子もなく、めいめいの時間を過ごしていた。

これは龍麻が葵を、倒れる前に抱きとめたというのも一因にはなるのだが、

こんなにすぐそばで同級生が気を失っているのに、この無関心な態度は龍麻を苛立たせた。

 それでも、遅れること数秒、ようやく一人の少女が龍麻に抱きかかえられる葵を発見し、

クラス中を振り向かせる大声で叫んだ。

「……葵ッ! どうしたの!?」

 ショートカットの小柄な少女、桜井小蒔は叫ぶと同時に葵のところに駆けよってきた。

 彼女は龍麻がフルネームを覚えている、数少ない同級生の一人だ。

といっても積極的にではなく、クラスに何も関心はなくても、

隣の席に座る葵の許に、ほぼ毎回の休み時間ごとに来ていれば、

いやでも名前くらいは覚えるというものだった。

「わからない。急に倒れたんだ」

 簡潔に事態を説明したつもりだったが、言い訳に聞こえたのかもしれない。

龍麻を見つめる小蒔の眼光は、決して好意的なものではなかった。

 そういった視線には慣れている龍麻は、ほとんど小蒔を無視して立ちあがる。

「な、何……?」

「保健室に連れていった方がいいだろ。心配だったら桜井さんも来ればいい」

「あ……う、うん、行くよ」

 小蒔は疑いの眼差しを向けたことを恥じるようにそそくさと教室の扉を開ける。

今や教室中の視線が集まる中を、龍麻は走り出す寸前の早さで出ていった。

 廊下でも、まるで芝居のように葵を抱きかかえて走る龍麻に、ただならぬ数の注目が集まる。

それらの一切を無視して龍麻は、小蒔の先導で保健室を目指し、ほとんど息を止めて走った。

 葵の重さを龍麻が感じたのは、彼女を保健室のベッドに横たえた後だった。

「寝不足みたいね、勉強で根を詰めすぎたのかしら」

 養護教諭の診断に龍麻が拍子抜けしたのは事実だった。

突然倒れたので思わず動転してしまったが、不必要に事を大きくしてしまったかもしれない、

という後悔めいた念を、保健室で小蒔と二人、養護教諭の話を聞きながら抱く。

佐久間がいなかったから良かったものの、いればまた暴力の口実をひとつ与えることになっていたのは確実だったし、

それでなくても同級生の注視がわずらわしかった。

龍麻自身にあれこれ問われることはないとしても、

しばらくの間は周りであらぬ噂を囁かれるのを我慢しなければならないだろう。

どうせなら放課後か、傍に小蒔がいる時に倒れてくれれば良かったものを、と龍麻は偽悪的に考えていた。

「寝不足……?」

 しかし、同行した小蒔の呟きは、なぜかずいぶんと深刻味を帯びていた。

眉間に皺まで寄せる彼女に、何がそう心配なのか訊いてみたくも思いつつ、

面倒にかかわるのは御免だという意識が先立って、

結局龍麻は教諭に一礼しただけで自分は教室に戻ることにした。

葵の傍にいるわけにもいかないし、いずれにしても後は小蒔がなんとかするだろう。

これまで散々無視しておいて、急に心配をするのもわざとらしく、もう自分の出番はないはずだ。

そう考えた龍麻は、教室の扉を開けた瞬間のことを考えると気が重くなったが、

授業をサボタージュするわけにもいかないだろう。

 ところが龍麻が保健室を出ると、慌てて小蒔も出てきた。

追ってきたのは言わずもがなで、何か用があるに違いない。

案の定、龍麻の横に並んだ小蒔は、切り出しにくいようなそぶりを見せつつ、

これまでほとんど会話らしい会話もしたことがない龍麻に話しかけてきた。

「葵……なんだけどさ」

 小蒔はそこで言葉を切る。

続きを話したものかどうか、ずいぶんと迷っているようだった。

それでもここまできて止めるのも、とでも思ったのか、

龍麻が隣の席で聞く声らしくない、ぎこちない口調で喋りはじめた。

「何日か前から、怖い夢を見て寝られないって言ってたんだよね」

「怖い夢……?」

 おうむ返しに訊ねずにはいられない、奇妙な言葉だった。

幼児ならともかく、あと数ヶ月で高校を卒業しようかという女性が寝不足の言い訳に使う語句ではなく、

龍麻は素早く眼球を動かして小蒔を見る。

二十センチ近くも低いところにある小蒔の眼は前を向いていて、確かな表情までは汲めない。

それでも龍麻を担ごうとしているようには見えなかったし、

親友を案じているのは葵に劣らず蒼白な顔からもうかがえた。

「うん、なぜだか砂漠に十字架で磔はりつけにされてて、助けを呼んでも返事もない。

でも、誰かの気配は感じて、それに包まれるところで夢は終わるんだって」

「……」

「もちろん、最初はボクだってそんなの気の持ちようだから、って言ったんだけど」

 葵は倒れてしまった、と小蒔は自分に非があるかのように力なく呟いた。

「でも毎晩必ず寝ると見ちゃう夢を、怖いから寝ないようにしたって、そんなのいつまでも続けるなんて無理でしょ?」

「……仮に、美里さんの夢に原因があるとしても、俺にはどうしようもできない」

 訴えかける小蒔に、龍麻はあえて冷淡に答えた。

 小蒔は龍麻の持つ『力』のことを知らないはずだが、『力』も万能ではない。

龍麻が行使できるのは、破壊の力のみだ。

それも、山を砕き、海を割る、などといった大層なものではなく、

人間を再起不能な程度に破壊するのみといった、全くろくでもないものだった。

マリアが信じている『黄龍の器』とやらに龍麻が目覚めれば、

あるいはそのようなことも可能になるかもしれないが、どちらにしても、

他人の悪夢を取り除くなどという能力は、龍麻は持っていないのだ。

「それでね、隣のクラスにオカルトそういうのに詳しい裏密ミサって子がいるんだけど、

放課後緋勇クンも一緒に話聞きに行ってくれないかな」

 けれども、小蒔が龍麻を当てにしたのは全く別の方面のことで、

それゆえ、龍麻も断るタイミングを逸してしまった。

「ね、お願い。図々しいのは承知だけど、葵の顔、見たでしょ? あれじゃそのうち……!」

「……わかったよ、一緒に行く」

 病院で精密検査を受けさせた方がよほど近道ではないか、と龍麻は言わなかった。

葵に関しては龍麻よりも小蒔の方が親しいのは間違いなく、

その彼女が、龍麻の協力がないと世界が滅びるかのような形相で頼みこんできては、反対できなかったのだ。

オカルト好きのミサとやらが葵の体調不良を治癒できるとは到底思えないが、

その時には葵を病院で診てもらうよう説得すればいい。

どうせ放課後まではあと数時間あり、それまでに葵が快復するかもしれないのだ。

 小蒔に頷いた龍麻は、教室へと戻った。

再びの葵との関わりは、偶然に過ぎないと強く言い聞かせながら。

 

 放課後のホームルームが終わると、小蒔はすぐに教室を飛びだしていった。

龍麻の方には一瞥もくれないのは、信用しているからか、

それとも教室で目を合わせるなどまっぴらなのかは龍麻には判らなかった。

 ざわめき始める教室を、龍麻も早足で出ていく。

扉をくぐるときにマリアの視線を感じたが、そのまま出ていった。

帰宅したら間違いなく訊かれるだろう――せめて説明することになる、

これから引き起こされる事態が、大した結末とならないように龍麻は祈った。

 龍麻が廊下に出ると、すでに小蒔の姿は見えなかった。

先に葵の容態を確かめに行ったのは間違いなかったから、龍麻も後を追った。

急いだところで、状況が激変するはずもなく、それに、葵が快復しているにせよしていないにせよ、

小蒔の喜びか悲しみに直面することになる。

そういったものが苦手である龍麻は走らず、一拍置くように保健室に向かった。

 保健室に入ると、ちょうど葵が眠っているところから出てきた小蒔と目があった。

彼女の表情から、事態が望ましいものではないと一目で分かった。

「どうしよう……葵、呼んでも起きないんだ」

 倒れてから二時間は優に過ぎているから、寝不足や体調不良なら、なんらかの反応はあっても良いはずだ。

しかし葵は友人の呼びかけにも応える気配はなく、呼吸しているかも怪しいくらい静かに眠っているという。

 葵に配慮してベッドには近づかなかったが、いよいよ事態は深刻な状況に陥りつつあるようだ。

龍麻は小蒔と共に裏密ミサに会うため、再び三年の教室へと戻った。

 三階の、龍麻たちのC組とは反対の端に位置する小さな教室。

そこが裏密ミサの居る場所らしかった。

 外から見た部屋の大きさは一般の教室の三分の一程度で、準備室か何かのようだ。

表に何の教室かを示す看板はなく、唯一部屋の中が見通せるドアの窓には暗幕がかけられていて全く見えない、

小蒔が一緒でなければ入るのをためらうような部屋だった。

「ミサちゃん、いる?」

 小蒔が軽くドアを叩き、呼びかける。

「どうぞ~」

 返ってきたのは低く、間延びした女性の声だった。

オカルトというものに対して先入観を持ってはいない龍麻は、

この声にも特に感想を抱きはしなかったが、高校生らしくはないと思った。

緊迫感がない、というのがまず理由として浮かび、次に、

感情があまり感じられない、という、初対面となる人間に対しては失礼な判断が、

より大きな泡ぶくとなって先の理由を押しのけた。

単に聞いただけでは、そこまで感じとれはしないだろう。

龍麻がミサの声に無機質さを感じたのは、龍麻も同じものを裡に有していたからに他ならなかった。

龍麻の場合は他人への無関心を喋らないことで表に出してしまうが、

彼女は上手に包み隠す方法を会得しているのだろう。

尊敬、とまではいかずとも、感心はした龍麻は、部屋の主に興味を抱きつつ小蒔に続いて中に入った。

 部屋の中は思わず立ちすくんでしまうほど異質な空間だった。

狭い部屋の両側を、端から端まで埋める本棚には、九割方本が詰まっている。

それも題名が読み取れるのは三割ほどで、あとは英語やら、さらには一見しただけでは何語かすら

わからない言語で書かれていて、何の本なのか見当もつかなかった。

 かろうじて学校内なのがわかる木製のタイル張りの床の奥には、

ワインレッドの天鵞絨ビロードがかけられた机がある。

雰囲気のあるその上には、さらに雰囲気を醸しだす水晶玉が乗っていて、その向こうには一人の少女がいた。

彼女が裏密ミサであるのは間違いなかった。

 裏密ミサは外側に跳ねる髪と、目が見えないほど分厚い眼鏡以外はこれといった特徴のない少女だった。

小柄な小蒔よりもさらに小さく、女性的な発育にも乏しいので中学生にも見える。

 二人が入っていくと、ミサが顔を上げた。

丸い眼鏡の向こう側にある眼は、どうした光の加減によるものか、龍麻の位置からは見えなかった。

それが龍麻に、彼女に対しての不気味な印象を与える。

もっとも、小蒔は物怖じせずに話しかけたので、龍麻の眼の錯覚ということになるのだろう。

「えっとねミサちゃん、ちょっと相談したいことがあるんだけど」

 小蒔はよほど焦っているのか、龍麻を紹介せずに本題に入った。

龍麻も自己紹介など些事だと思っているので、口を挟まないことにする。

ミサは聞いている間、不機嫌とも見える、口をへの字に曲げていたが、

葵が悪夢を見て、それが原因で消耗しているという話を聞いても笑ったりはしなかった。

 小蒔の話を聞き終えたミサは、すぐに言った。

「なんでもいいんだけど~、葵ちゃんの持ち物はない~? ペンでもノートでもいいの~」

「あ、うん、わかった、取ってくるね」

 何に使うのか訊きもせず、小蒔は部屋を飛びだしていった。

廊下の端から端まで往復することになるのも気にしないようで、

それだけ彼女が葵を心配しているということなのだろう。

 部屋には龍麻とミサが残された。

自己紹介もしていないのだから相当の気まずさがあるはずだったが、

龍麻は自分から話しかけるつもりはなかったので、部屋に嫌な沈黙が流れても平然としている。

 ところが、意外にも沈黙を嫌ったのは部屋の主の方だった。

「緋勇く~んは、こういうことオカルトを信じる~?」

「……悪いけど、今のところは」

 なぜミサが名前を知っているのだろう、と訝かりつつ龍麻は答える。

まさかオカルト的な何かによって知ったわけでもないだろう、と常識的な判断をしつつも、

幾らかの薄気味悪さは拭えなかった。

「うふふ~、そうよね~。でも~、夢というのは精神が最も無防備になる時間~。

そこを狙われればどんなに肉体を鍛えた人でも勝ち目はないの~」

「それは、夢に干渉する方法があればの話だろう?」

 話ながら龍麻は、次第にミサのペースに呑まれていると気づいた。

あまりにも当然のように話し、またどこで話が終わるか判りづらい喋り方のため、

つい口を挟んで根本的な疑問を呈するタイミングを逸してしまうのだ。

「そう~。でも~、足の速さや絵の上手さが才能であるように~、

まれに強い精神力を持った人が生まれることがあるの~」

「……そういう人間が実在するなら、もう少し騒ぎになってもいいはずじゃないか」

 正面から受け答えしていては勝ち目がないと考えた龍麻は、

少し変化をつけた質問を、語調を強めてぶつけてみたが、

ミサの態度は肌に小さな羽虫が止まったよりも変わらなかった。

「ほとんどの人は~、自分にそういう才能があると気づかないで生きているから~。

でも~、中には気づく人もいて~」

「今回みたいに悪用する奴が出てくるっていう訳か。

それで、たとえば今回の場合、そいつは美里さんをどうするつもりなんだ」

「……精神を奪うということは~、その人を支配するのと同じ~。

精神を失った肉体はやがて死んでしまうけれど~、精神は少なくても奪った相手が死ぬまでは囚われたまま~」

 ミサの言葉に秘められた事実を理解した龍麻は、そのおぞましさに吐き気を催したほどだった。

古来、身体の自由を奪われた奴隷ですら精神の自由はあったとされる。

だがミサの話によると、精神の自由を奪われた葵は、なすすべなく嬲られるばかりでなく、

死した後も魂の平安は得られず、陵辱を受け続けなければならないというのだ。

「そんな……ッ、そんなの絶対許せないよッ!」

 己の立場も忘れて猛りかけた龍麻を我に返らせたのは、背後からの小蒔の大声だった。

 小蒔は全速力でC組まで走ったのだろう、大きく息をしている。

しかし、呼吸を整えようともせず、手に持ったペンケースをミサに差しだした。

 ペンケースを受け取ったミサは、水晶玉の手前に置いてある小さな、

硯にも似た箱に入れると、おもむろに両手をかざした。

それは一般的な占い師のイメージそのもので、どうもうさんくさい、と龍麻は思わずにいられない。

だが、それが誤りであるのはすぐに判明した。

ミサが手をかざす水晶玉に、何かの映像が浮かびあがってきたのだ。

「砂漠……?」

 小蒔の言うとおり、水晶玉には大きく二色に塗り分けられた光景が浮かんでいた。

濃い青空と、砂漠。

均等に真ん中で分かたれた二つの色は、小学生でももう少し色遣いを考えそうなくらいべったりとしていた。

 龍麻と小蒔は顔を見合わせる。

二人とも水晶玉にかなり近づいていたので、目があった瞬間軽くのけぞってしまった。

だが、龍麻はともかく小蒔はそんなことを気にしている場合ではないようで、

見えたものの感想、あるいは分析を龍麻に見出そうという、

やや端がつり上がった生気に満ちた目は、射抜くように龍麻を見据えていた。

 ふざけたことを言ったら容赦しない、とばかりの小蒔の態度にも、龍麻に怖れる色はない。

ただ、この映像だけでは何を語りようもなかった。

困惑し、それでも何かを言わなければ、と口を開きかけた龍麻の視界の端に、新たな何かが映った。

それはさらなる驚愕を促すもので、龍麻は再び水晶玉に向き直る。

 少し遅れて水晶玉の変化に気づいた小蒔が、龍麻の肩を掴んで叫んだ。

「あれ、葵……!」

 小蒔に指摘されるまでもなく、龍麻も水晶玉の奥に葵の姿を捉えていた。

 荒涼たる砂漠に突如として現れた十字架。

その十字架に、葵は磔にされていた。

意識はないようで頭は下を向いていて、全身には鎖が蔦のように絡みついている。

小蒔がたまらずうめき声を漏らし、龍麻も顔をしかめずにはいられなかったように、

現実にしては現実味がなく、空想にしては生々しすぎる光景だった。

「これが~、葵ちゃんの見ている、というか見せられている夢~」

 二人の頭上から、ミサの声がする。

緊迫感のまるでない間延びした声にも、二人は何も答えなかった。

とうてい信じられないが、ミサはどうやら本当に葵が見ている悪夢を水晶玉に投影したようだ。

大がかりなトリックなら感心してしまうほどだし、もしもミサがからかっているとしたら、

小蒔はきっと彼女を許さないだろう。

 だから龍麻はミサを信じ、葵が倒れた原因が、彼女が見た悪夢にあるのだと信じた。

「美里さんは、どうしてこんな夢を?」

 下から見上げる姿勢のまま、龍麻は問う。

分厚い眼鏡の向こうの表情は杳ようとして知れず、

への字の形に結ばれた唇もすぐには開こうとしなかった。

「さっきも言ったけど~、夢は~、精神が無防備になる時間~。夢に干渉すれば現実にも影響を及ぼすから~、

葵ちゃんを束縛しようとしている誰かが居るっていうことだと思うわ~」

「束縛……って」

「夢はイメージが具体的な象徴となって表れる場所だから~、

十字架と鎖は逃れられない束縛と支配を意味しているんだと思う~」

「砂漠は?」

「何もない砂漠は~、渇いた心~。砂丘がなくて平坦なのも~、この見せている誰かの心を象徴しているはず~」

 二人の交互の問いにも、ミサはよどみなく答える。

かえって二人の理解の方が遅れてしまうほどで、小蒔が声を絞りだしたのは、

ミサの語尾が狭い室内から完全に消え去ってからだった。

「……つまり、感情の起伏に乏しいとか内向的とかいった感じ?」

「そうだと思う~」

 敵の性格が判ったところで何の意味もない。

舌打ちしかけた龍麻は、あまりにも基本的なことを問うのを忘れていたことに気づいた。

「それで、この悪夢を見させている奴を突きとめることはできるのか?」

「できるけど~、それには葵ちゃん本人に力を借りる必要があるわ~」

 身体の一部分を借りるだけなので、本人が起きている必要はないという。

どこまでも怪しいミサの言葉だったが、今となっては他に方策もない。

龍麻が小蒔を見ると、小蒔は頷いて賛意を示した。

「それじゃ行こう、保健室に」

 

 二人はミサを伴い、再び保健室へと向かう。

小蒔は駆けださんばかりだったし、龍麻もかなり早足で歩いたが、

ミサは間延びした喋り方同様、のんびりとした歩調でついてきた。

保健室までは大した距離でないとはいえ、小蒔はかなり苛立ったようで、

二人を待たずして室内へと入っていった。

 一縷いちるの望みを託してはいたが、葵はまだ目覚めていなかった。

よほど疲れているのね、という保健医の呟きにあいまいに頷いておいて、龍麻たちはベッドの傍らに立つ。

傍目には保健医の言うとおり、単に眠っているようにしか見えない。

しかし彼女の精神は内側から、白蟻のような何者かに蝕まれつつあるのだ。

 葵がどんな男性と交際しようと、どんな人生を歩もうと龍麻には関係ない。

数ヶ月後には、彼女は住む東京まちもろとも大破壊を迎えるのであり、

その運命を与えるのは他ならぬ龍麻だからだ。

だから龍麻は葵も含め他人との接触を可能な限り断ち、いかなる思いも彼ら、

あるいは彼女たちに抱かないようにしていた。

そうすればあの仰ぎ見たビルの住人と同様、龍麻は死ぬ瞬間まで彼らの顔を思い描かずにすむのだから。

 しかし、昏睡する葵に、龍麻は彼女が受けている、

あまりにも卑劣な行為に対する義憤めいた感情と同時に困惑を抱かずにいられなかった。

関わるまいとしているのに、なぜ彼女とは運命が交錯するのだろうか。

まだ二回目だから、偶然なのかもしれない。

その二回ともがあまり普通とはいえない状況だったとしても、

この世界には吸血鬼や人ならざる力を持つ人間が存在するのだから。

 龍麻は頭を振り、そうに違いないと思うことにした。

運命や宿命などといった甘ったるいものはこの世界に存在しない。

でなければ、龍麻やマリアばかりが過酷な人生を歩まなければならない理由などあるはずがないからだ。

たとえ葵と三度関わることがあったとしても、そこに必然を認めるわけにはいかなかった。

「どうしたの?」

「……いや、なんでもない」

 険しい顔をしていたのか、不審げに訊ねる小蒔の方は見ずに龍麻は答える。

小蒔も本気で心配したわけではないようで、すぐに葵の方を向いた。

 ベッドでは、ミサが葵の腕を取っている。

もう彼女がなにがしかの力を持っていることを疑っていない龍麻は、黙って成り行きを見守った。

 力を借りる、というのは大げさな話で、実際は、

水晶玉で幻視する時に使った硯のようなものに、葵の指を触れさせただけだった。

あれが神秘的な力を発揮する何かの触媒なのだろう、とは薄々解ったが、

詳しい原理や由来などは解るはずもなく、また知りたいとも思わなかった。

肝心なのは葵に攻撃を仕掛けている人物の居場所が判るかどうかで、

そこから先は龍麻の出番となるはずだ。

 ミサが、葵に触れさせていた物体を取りあげる。

固唾を呑む二人の前で、募金箱を持つように物体を胸の前に掲げたミサは、

一切の説明をすることなく回転し、困惑する龍麻と小蒔をよそに、あらぬ方を向いて止まった。

「思念は~、こっちの方から来ているわ~」

「こっち……って」

 壁に向かって話しているミサに、小蒔は何と言ったものか戸惑っているようだ。

龍麻も同感で、彼女の加勢をしようと口を開いたとき、ミサが続けた。

「距離は~、だいたい十キロくらい~」

 それこそが知りたい情報だった。

龍麻は東京の地理に詳しくないので、小蒔に助けを求める。

 小蒔もいきなり東に十キロ先はどの辺りかと聞かれて眉間に皺を寄せていたが、やがて

「墨田区の辺りかな……?」

 と見当をつけた。

これで範囲は相当狭まったことになる。

さらにミサはもう一つ、そのまま物体を縮小したような小さな黒い塊を、龍麻に手渡した。

「こっちは~、かなり狭い範囲しか反応しないけど~、その分正確に捜せると思うわ~。

でも貴重だからちゃんと返してね~」

「わかった、ありがとう……必ず返すよ」

 ミサの助力は充分すぎるほどで、探知機をポケットに入れた龍麻は、

本心から礼を言い、さっそく墨田区に乗りこむことにした。

「ボクも行くよ」

「いや、俺一人で行く」

「でも……!」

 小蒔が一緒に来ようとするのは予想できていたから、龍麻は強い口調で拒否することができた。

最初から平和裡に解決できるなどという楽観はなく、一人で行くつもりだったのだ。

「桜井さんは美里さんの傍にいてあげてくれ。今日中には決着をつけるつもりだけど、

もしこれ以上体調が悪化したら、誰かが看ていないとまずい」

「それは……そうだけど……」

 龍麻の説得は反論の余地のないものだったので、小蒔も引き下がるしかなかった。

もう一度葵の容態を看ているよう強く念を押した龍麻は、

これ以上の事態の変化が訪れる前に決着をつけようと決心し、保健室を後にした。

歩いていたのは学校を出るまでで、そこからは不思議なほどの昂ぶりに衝き動かされるまま、

ほとんど全力で墨田区へと向かった。

 東京の街を、龍麻は駆ける。

二十三区内に居る一人の人間を、たった一人で捜そうとするのは、

東京に大破壊をもたらすよりも難事に違いなかった。

まして期限はほとんどないとくれば、裏密ミサの助力がなければ全く不可能だっただろう。

 保健室でミサが邪念の、おおよその方向と距離を測ってくれたおかげで、

龍麻はまっすぐ墨田区に向かうことができた。

それだけでも負担は計り知れないほど軽くなったが、ミサが貸し与えてくれた宝石は、

それが持つ超自然的な力によって着実に龍麻を導いてくれた。

見た目は表面に何らかの図形が刻まれた四角い石でしかないのに、

墨田区に入ってしばらくすると、小刻みに震えだしたのだ。

慌ててポケットから取りだした龍麻は、石に何の仕掛けもないのを確かめると、

それ以上は考えないことにした。

 石は一定の間隔で震え、龍麻が歩くにつれて間隔が短くなっていく。

目標に近づくに従ってそうなるのだということを理解すれば、あとは簡単だった。

着実に近づいているという確信を糧に、両足を動かしていけばいいのだ。

ポケットに手を突っこみ、石を固く握りしめ、龍麻は猟犬の獰猛さで墨田区を探索していった。

 石は、公園に龍麻を導いていた。

すでに震えはポケットの中に収めていても分かってしまうくらい大きく、

おそらくこの公園内に敵はいるのだろう。

龍麻は草木に姿を隠しながら、油断なく辺りを見渡した。

 平日の昼間の公園は、人影もまばらだ。

ベンチに座っている老人や、赤ん坊を連れた母親などは、

あきらかに今回の件とは無関係なので、彼らは除外して捜す。

公園の奥に進むにつれ、石の反応はますます強くなり、龍麻は一歩一歩、左右を警戒して歩いた。

 だが、公園の半分を過ぎ、さらに奥へと進んだところで、石の反応は弱くなってしまう。

見落としてしまったか、と焦った龍麻は、来た道を振り返り、そこで失策に気づいた。

 敵が今も葵に精神からの接触を試みているのなら、少なくとも意識の集中くらいは必要なはずだ。

葵は二時間以上も眠ったままなのだから、敵も人目につかないところで干渉を行っている可能性が高い。

この公園は木が多く、人目をやり過ごせそうな場所はいくらでもあるのだ。

のんびりと歩道を歩いていては、見つけられるはずがなかった。

 自分のうかつさを呪いながら、龍麻は再び公園内を戻った。

石の反応が再び強まったところで、今度は人ではなく、場所を探す。

木々の奥、歩道からは目につかない陰の部分。

焦れる時間が過ぎ、それほど暑くはない陽射しの下で、

額に汗が滲み始めた頃、ついに龍麻は目的の人物を発見した。

 近づく前に、逸る心を抑えて観察する。

ある程度予想は立てていたが、敵は男、それも学生服を着ているので、龍麻たちと同年代のようだった。

木の下に膝を抱えてうずくまり、一見すると悲しみにふけっているようにも見える。

しかしこの男が犯人なら、卑劣にも夢を利用して葵を襲い、一方的な欲望をぶつけようとしているのだ。

今も、なぜここで行っているのかは不明だが、常識では説明のつかない力を使って、

遠く離れた新宿にいる葵に夢から接触を図っている最中なのだろう。

 そして幸いなことに、男は一人だった。

直接的な手段ではなく、無防備な精神世界から襲おうとするくらいだから、

複数犯ではないと思っていたが、この場に一人しかいなければどういう対応をするにしても好都合だ。

 龍麻は音を立てず、逃げられない距離まで近づくと、一気に男の前に立った。

「話がある」

「だ、誰だお前……」

 意識を没頭させていたのか、目の前に立たれても気づかなかった男は、

龍麻の呼びかけに、それだけで怯えた声をあげた。

声は弱々しく、甲高い。

すでにして捕らえられた獲物のようにせわしなく辺りを見渡す男を、龍麻は乱暴に立たせた。

 男は中学生か高校生か、一見しただけでは判別できないくらい小柄だった。

小柄なだけでなく、この年代の男が否応なしに持ち始める男っぽさもほとんど感じられず、

見るからに気の弱そうな顔立ちをしている。

ただ、それほど邪悪な人間には見えず、龍麻は本当に彼が犯人なのか、束の間反応に迷った。

だが、水晶玉ひとつで葵の衰弱の原因をつきとめたミサを信じ、ここは強気に出ることにした。

「俺のことなんかどうでもいい。今すぐ美里葵にしていることを止めろ。

でないと痛い目を見ることになる」

 思いきった恫喝は期待以上の効果を上げた。

もともと血色の良い方ではない男の顔色が、葵の名を聞いた途端、

コンクリートのような灰色に変じたのだ。

さらにはそのコンクリートも砕けんばかりに男は狼狽したが、

大きく後ずさりしながらも、最後の虚勢を張った。

「証拠はあるのかよ……!」

 その一言が致命的であるとも気づかず男は龍麻を睨みつける。

彼が犯人であると確信した龍麻は、声に凄みを利かせた。

「勘違いするなよ、俺は警察じゃないから法の裁きなんて受けさせるつもりはない。

それにお前が美里さんを拐かどわかそうとした手段、俺がお前を捜し当てた手段、どっちも日本の法律には触れない。

お前がこのまま美里さんを苦しめようっていうのなら、俺は俺のやり方で止めるだけだ」

 深く息を吸いこみ、龍麻は忌まわしい力を用いる準備を始める。

 ゆっくりと肉体に満ちていく、強烈な破壊の力。

 初めて自分に異常な力があると知ってから十年あまり、使い方を学ぼうなどとは思わなかったが、

どうすれば発動してしまうのかは調べていた。

 怒りで我を忘れた時、人を殺しうるほどの力が発現する他、

意識が霞むくらい深い呼吸を繰りかえすと、かなり小さいながらも同様の力を操れることを知ったのは、

ごく最近のことだ。

この疎ましい力を発動させないために、感情を抑制し、他人との関わりを避けるようになった。

それでも、普通に生きる人ならばおよそ出会わないような事件に、龍麻は遭遇してしまう。

引き寄せるのか、引き寄せられるのか、それとも押しつけられているのか。

いずれにしても、それがこの超能力――

スプーンを曲げるよりも役に立たない『力』を持った代償なのかもしれない。

決して望んで得たわけではない『力』といえども。

 龍麻の身体の内側に、風船のように何かが膨らんでいく。

それも丸い風船ではない、人の形をした、途方もなく伸びるゴムでできた風船が、

全身の何箇所かから同時に空気を送りこまれたように膨張していった。

皮膚という外装に留められたそれは、早く用いよと龍麻に命ずる。

それを無視して龍麻は、龍が己を倒しに来た矮小な人間を見るように男を睨ねめた。

 外側からは見えないはずの龍麻の『力』に男は気圧され、また一歩後ずさった。

その胸ぐらを掴み、龍麻は右の掌を腹に押しあてる。

もはや虚勢も失い、カチカチと歯を鳴らす男に、マリアが欲する力のごく一部を解放した。

「……ッ、がはッッ……!!」

 膨大な力の塊が、男の肉体を撃った。

胸を掴まれることで力の大半をまともに受けた男の、口から多量の体液が迸る。

密着し、添えた掌を一ミリも動かさずに放たれた力は、

プロボクサーのパンチすら凌駕する衝撃をもたらしていた。

中学生程度しかない肉体ではとうてい耐えきれるものではなく、男は前のめりに崩れおちる。

間髪おかず男を引きずり起こした龍麻は、まだ呼吸もままならない喉を縊くびるように掴み、

声を低めて言い放った。

「このままだと美里さんは死ぬ。なら、お前も殺されるだけの覚悟をもっているんだな?」

「……僕は葵を殺すつもりなんてない。ただ一緒に、僕の王国で永遠に暮らしてもらうだけだ」

 腹を押さえ、悶絶しながらもなお抵抗する男に、龍麻は二度目の『力』を与えた。

「うぐッ、ぐぇェッ……!」

 男は圧倒的な暴力に白目を剥き、のたうち回る。

龍麻は無感情にその様を見下ろしていた。

分不相応な力を持ってしまったがために、過ぎた欲望を抱いた男に、かける同情はない。

この男も葵の傍に龍麻がいなければ邪欲を貪ることができたのだろうが、

偶然であれ必然であれ、龍麻はそこにいた。

「夢の中の王国、ってわけか。けど美里さんは人間だからな、ずっと眠ったままではいつか死ぬ」

「うるさい……!」

 男はあらゆるものから逃れるように両耳を塞ぎ、目をつぶる。

彼が話を聞かなかろうが閉じこもろうが龍麻にはどうでもいい。

だが、葵に対する干渉だけは止めさせなければならなかった。

「いいか、もう一度だけ言う。今後一切美里さんに近寄るな。

そうすればお前のことは放っておいてやる。だけど次に何かあったときは」

 うずくまって動かない男の髪を掴み、無理やり目を合わせる。

男の目はすでに虚ろで、聞こえているかも怪しい。

それでも構わず龍麻は通告した。

「死ぬよりも怖ろしい目に遭わせてやる」

 生徒手帳を取りあげ、名前と住所、通っている高校を確認してから、男を解放する。

もし次に龍麻がこの男の元を訪れる時も、裏密ミサの助けを借りるだろうから、

これらの確認は儀式にすぎない。

しかし、身元が割れ、逃げ場所を失うという恐怖は、確実に抑止力となるだろう。

ならなければ、与えられた猶予を破った代償を彼が支払うだけのことだ。

 踵を返し、龍麻は公園を後にする。

彼の嗚咽が、生ぬるい風に乗ってかすかに漂ってきたが、もはや龍麻に関心はなかった。

乱れていた制服をととのえ、自宅、といってもマリアの家だが、帰る道すがら、龍麻はふと考えた。

今日の一件は、マリアに報告する必要があるのかどうかを。

 やや考えて龍麻は、訊かれなければ自分からは言わないでおこう、と決めた。

大したことではないから、というのが理由で、それに半ばは納得したが、

それだけではないことも、龍麻は自覚していた。

自分自身の心に嘘をつくのは、何故なのか――

その問いに、答えは浮かんでこなかった。

 

 毎夜の儀式が始まる。

背を向けて横たわる龍麻の首に、マリアは唇を這わせる。

愛撫と、それ以外のものが混じった淫らな動きは、ある一点で止まった。

マリアは極上の悦びに、厚みのある紅をかすかに震わせ、顎に力を加えていく。

「……っ……」

 日々の行為で慣れたのか、龍麻の悲鳴は最初の頃から較べると、ずいぶんと小さくなっていた。

ともすれば吐息に混じって消えてしまいそうなそれを、マリアは挑発するように手足を絡みつかせる。

足を割りこませ、夜着をまくりあげて胸をまさぐり、さらには下腹で硬くなりだしたものにも触れた。

 それでも龍麻は、拒む。

何がそこまで頑なにさせるのか、マリアに肉体的な快感のほとんどを引きだされながらも、

重い荷を結わえられた綱を引くように歯を食いしばり、屈しまいとしていた。

 けれども、それは勝ち目のない闘いだった。

抵抗も逃走も許されず、ただ耐えるだけ。

身体中を冷たい指に撫でまわされ、両足には肉感的な足を蔦のように巻きつかされ、

さらに無視するにはあまりに蠱惑的な双の乳房をあてがわれ、

並の龍麻ならとっくに溶けてしまっているところを、龍麻は驚異的な精神力で耐えていた。

 マリアが撫でるペニスは、すでに完全に勃起し、それどころか早くも破裂の予兆を見せている。

マリアがもう何度かさすれば、あっけなく精を噴きだし、

わずか数分しか保たなかった龍麻のプライドを粉々に砕くだろう。

 だが、マリアは手を離す。

手中に収めた猛る肉茎を、猫が興味を失うようにあっさりと解放してしまった。

 快感が途切れ、強ばっていた龍麻の身体が緩む。

その瞬間、マリアは龍麻の首筋に、己が当てていた牙を鋭く突きたてた。

「う、あぁッ……!!」

 絶頂にも似た妙に艶めかしい喘ぎが、龍麻の口を裂いて放たれる。

同時にマリアは龍麻から零れだした赤い液体を啜りはじめた。

興奮で熱せられた血液は、龍麻の血が持つ希少性と相まって疼きにも似た恍惚をもたらす。

もしも同族が居たなら、この血を巡って奪い合いが始まってしまうかもしれない。

吸血鬼にとってそれほどに美味な血液を、マリアは時間をかけて吸っていった。

 再び龍麻の身体を、今度はスローペースでまさぐりながら、マリアはふと気づいた。

今日の血は、いつもと違う。

美味なのに変わりはない。

だが、何がどう、と説明するのは難しいが、何かが微妙に違うのだ。

 何かあったのかどうか、訊こうとして迷い、マリアは結局止めた。

「血の味が違うのだけれどどうしてか」

 などと訊かれて龍麻も答えられるわけがないし、

龍麻は真面目な男だから、それでも何か推測しようと考えてしまうだろう。

そんな場面は見たくなかった。

少なくとも、ベッドの中では。

 吸血を終えたマリアは、いつものように「おやすみなさい」と囁き身体を離す。

龍麻もいつものように返事を返し、そして沈黙が訪れた。

 枕に頭を乗せる寸前、マリアは龍麻を盗み見る。

今日に限ってマリアは、寝る前にもう一度龍麻の顔を見たいと思ったのだ。

見てどうするわけでもない。

ただ、自分でも予想のつかないところから、急にそんな考えが浮かんだのだ。

だが、彼は昨日までと変わらぬ姿で、背中を向けたままだった。

仕方なくマリアは目を閉じる。

――そうしなければ、龍麻が眠らないとわかっていたから。

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