もし訂正前に第6話として読まれてしまった場合は改めて現在の第6話をお読みください。
夏場ともなれば、この布団は暑すぎるのではないか。
梅雨の頃から抱いていた龍麻の懸念は、杞憂に終わった。
布団の持ち主であるマリア・アルカードにその辺りの抜かりはなく、
夜はエアコンをはやばやと稼働させ、寒さと温かさの共演を鮮やかに成し遂げさせたのだ。
一般的な高校生よりは若干シビアな金銭感覚を持っている龍麻は、
夜の間つけっぱなしであることや、温度設定がやや低いことに不満がないわけでもない。
だが、家主であり、龍麻の主でもあるマリアの意向に逆らうのは困難だったし、
暑い東京の冷やした室内で暖かな布団に包まるという快楽は、
はねのけるのはほとんど不可能なくらい龍麻を虜にしていた。
一人暮らしの――といっても、数日ほどしか経験しなかったが――煎餅布団とは比較にもならない
マリアの家の豪華な寝具にも、口には出さなくとも感心した龍麻だったが、
初めて文明の利器が稼働した日は、感激のあまり寝坊しそうになったほどだった。
龍麻の遅刻はマリアの遅刻と密接に結びついている。
一人の時はどうやって起きていたのかという深刻な疑問はさておいても、
美貌とわかりやすい授業で人気の英語教師につまらない失点をさせるわけにはいかないから、
龍麻は以後絶対に寝過ごさないように気を配ることにしていた。
目覚めた龍麻は、ベッドサイドの時計に目をやる。
残念ながら、それとも幸福にも、なのか、時間は起床予定の五分前であり、
すぐにベッドから出て良い頃合いだった。
起きる前に欠伸をしようとしてやめる。
マリアの眠りは深く、隣で欠伸をしたくらいで目覚めることはなかったが、
頬に当たる冷気が、欠伸をしたら布団から出るのをためらわせてしまいそうだったからだ。
もともと、龍麻の目覚めは悪くない。
二度寝がしたくなったり寝坊しかけたのは布団の極度の快適さによるもので、
あとは、陽の光が全く射しこまないというのも原因のひとつとしてある。
特注だという厚手のカーテンは、与えられた任務を完璧にこなし、
さらに、この部屋で眠った者は、時計に頼らなければ時間を知ることはできない。
これらの王侯貴族なみの贅沢を、身分的には召使いといったほうが近い龍麻が享受することに、
もともと無理があったのだろう。
一度寝坊しかけてから、龍麻は贅沢をきっぱり諦め、定時に寝て定時に起きることで、
極めて正確な体内時計を作るようにしたのだった。
最後に短く息を吐いて勢いをつけ、龍麻はベッドから出ようとする。
その、重心を前に移した瞬間、いきなり腕を掴まれた。
驚く間もなく強い力で引っ張られ、寝ていたときよりも奥に引きずりこまれてしまう。
短い騒乱の後に龍麻は、至近距離で会心の笑みを浮かべるマリアを見た。
「起きてたんですか、マリア先生」
驚いていたので、言葉に多少の刺がこもる。
しかしマリアは意に介した風もなく、身体を半回転させて龍麻の上に跨った。
「時間通りに起きるなんて感心ね。……でも、今日からは急いで起きる必要はないわよ」
寝起きとは思えないほど妖艶に微笑むマリアを、龍麻は直視できない。
薄暗い部屋にあってその微笑は、マリアの正体でもある吸血鬼に、
意思とは無関係に肉体を捧げてしまう大変危険な罠だという直感はおそらく正しいのだ。
十字架も、太陽の光もここにはない。
それに、彼女にはそれらの弱点は一切効かず、夜ごと血を求めるという最も本質的な特徴を
目の当たりにしなければ、彼女が闇の血族であるとはとうてい信じられない龍麻だった。
「そういうわけにはいかないでしょう。生活のリズムは一旦乱れると直すのに大変なんですから」
魔を退ける銀の弾丸にはなりえないとしても、強い語調で良識を撃ちだし、
龍麻は堕落への誘いを突っぱねる。
だが、目は直視できないうえに、マリアは現在、極めて裸に近い姿であり、
その肌に触れればやはり淫邪の誘惑に屈してしまいかねないと、
身じろぎすらままならない状態では、
どんな強気にも殺傷力などこもるはずがない。
龍麻の弱気は瞬時に見抜かれ、獅子が獲物を狙う前傾姿勢でさらに身体を数センチ近づけたマリアは、
無防備に晒けだされている首筋に唇を寄せた。
「……ッ!」
生々しい舌の動きが、龍麻を竦ませる。
毎夜同じ場所に突きたてられる牙も、痛みと同時に奇妙な快楽をもたらして龍麻を戸惑わせたが、
ただの快楽はまだ目覚めて数分だというのに、全身に異様な血流を生みだしていた。
「せ……先生ッ、夏休みだからってこんな朝から……!」
恐れていたことが起こってしまった、と龍麻は嘆いた。
こうなる可能性は極めて高く、警戒してしかるべきだったのだ。
どこまでも沈んでいきそうなベッドにどこまでも沈められていきながら、龍麻は最後の抵抗を試みる。
けれどもマリアの肢体はその美しさからは想像できない強靱さで若い肉体を押さえこみ、逃さない。
短いが深刻な反抗も効を奏さず、ついに龍麻は美しい吸血鬼に屈服させられた。
「フフ……いい子ね、おとなしくしていなさい」
くぐもった勝利宣言を聞きつつ、龍麻は絶望する。
これからおよそ三十日間は、毎朝こんなやり取りが続くのだろうかと。
真神學園に通う以上、普通の人間にはない『力』があろうと夏休みは訪れる。
赤点を取ったりはしないが特別に優良というほどでもない、中の上といった辺りの成績である龍麻は、
補習も特別講習もなく、良くいえば自主的に、悪くいえば放置された高校三年生だ。
その点に関して学校に文句はない――たとえ、この東京があと数ヶ月で『大破壊』を迎え、
今年の受験生は進学どころではなくなることを知らなかったとしても、
勉強する気があるなら予備校なり自習なりすれば良いのだし、
ないのなら就職先を検討するなり有意義に過ごすなりすればいいのだ。
文句があるのは教師の扱いに関してで、高校三年生という大事な時期にクラス担任をさせるのだから、
なぜ進路相談に乗るとか勉強を教えるとかで毎日学校に詰めさせないのか。
でなければ遊び回る生徒がいないかどうか、歌舞伎町を巡回させてもいいし、
なにも教師にまで夏期休暇を与える必要はないではないか。
「アラ、ワタシもちゃんとやることはやっているわよ」
とマリアは言うが、どこまで本当なのか龍麻は怪しんでいる。
級友達のために彼女を諫めるべきではないか、と柄にもないことを考えてしまったくらいで、
それくらい職業という軛から解き放たれた大人というのは危険な存在だった。
なにしろ経験はそこらの人間を束にしたよりもあるし、
倫理観についても人間と全く同じだと考えるのは甘すぎるだろう。
現に龍麻は、彼女に囚われて以来、昼間はともかく、
夜はとても健全な高校三年生に対するものとはいえないふしだらな扱いを受け続けていた。
マリア曰く、理由があってのことだとは言うものの、
そもそも夫婦でも、恋人同士ですらない男女が同じベッドで寝ること自体受けいれがたい龍麻だから、
彼女にとっての食事が美味になるからとはいえ、身体をまさぐられるのは断固として拒否したいところだった。
しかしそれも、彼女が人外の存在であることを信じさせるに足るもう一つの理由、
見た目は成熟した女性の肉体にもかかわらず、龍麻を上回る膂力で封じこまれては、
蜘蛛の巣に捕らえられた虫同様、どうすることもできなかった。
「……吸ったらちゃんと起きてくださいよ」
「フフ、わかっているわ」
歌うような調子のマリアに龍麻が放った嘆息は、諦めと苛立ちとが渦を描いていた。
多少なりともマリアに反省を促したつもりだが、薄く、横に引き延ばされた唇を見るかぎり、
効果があったとはとうてい思えなかった。
手首を腰のあたりで押さえつけられている龍麻は、全く身動きが取れない。
四本足の獣のように頭を突きだして首筋に牙を立てるマリアは、完全に体重を預けてきていて、
その重さはともかくとしても、肌のかなりな部分が触れあっている事態に、
緊張の度合いは高まるばかりだった。
肉感的な身体は、背中越しであっても意識しないようにするのは困難であるのに、
正面から密着されてはひとたまりもない。
関係ないことを考えて気を紛らわせようとしても、
二次曲線的に火照っていく肉体を制御することなどできはしなかった。
龍麻は固く目を閉じて、妖艶な吸血鬼の気まぐれが一秒でも早く終わってくれるよう祈るばかりだった。
「……」
昨日穿った孔を唇で探り、舌で確かめる。
二つの孔に牙を当て、ぴたりと嵌ったとき、深い充足感がマリアを満たした。
貴腐ワインを口に含んだときにも似た恍惚だが、
同じ色の液体であっても、満足度は比較にならない。
おそらく吸血の対象となる全人類の中でも、最もマリアを酔わせる血液をこの人間は有していた。
ありとあらゆるものを食べ、そのために版図を広げていった人間を、
マリアは侮蔑していたが、この緋勇龍麻というまだ若い人間の血の味を覚えて以来、
吸血という行為自体に悦びを覚えていたのは事実だった。
あと半年足らずで彼を手放さなくてはならないのが惜しいほどで、
それまでの間、一滴でも多く彼の生血を啜りたいというのは、
仮に同胞がいたとしても、語るには恥ずかしいマリアの欲望だった。
牙を何分の一ミリか、体内に埋められた龍麻の呼吸がわずかに乱れる。
龍麻の心境が、マリアには手に取るようにわかった。
正確には牙に取るように、とでも言うべきか、彼の肩口に開けた穴から、
そしていつもと裏表が反対になっただけの、そのだけが極めて重大であることに
龍麻はまだ気づいていない、正面から密着した肌から、龍麻が今、
多くの諦めと少しの怒り、そして怒りの分量よりやや多めの興奮を抱いているのがはっきりと伝わってきていた。
早くなる血流が、マリアをも興奮させる。
美味な酒を熟成させればさらに美味くなるように、血も温めれば美味になる。
それには興奮させるのが一番簡単で、その中でも性的な興奮がもっとも簡単だった。
この、日々マリアの誘惑を聖者のごとき高潔さで拒み続ける龍麻も、
肉体的な興奮には逆らうことができないようで、健全な若い肉体はむしろ、
精神力に反比例するかのように愛撫に応えた。
頂点から転落へ、その寸前のところで毎夜留まる龍麻は、どうやって昂ぶらされた身体を鎮めているのか、
マリアは訊ねてみたくなるほどだ。
時にはマリアの方が疼く肉体をもてあましてしまうくらいで、それだけに、
彼が欲望を抑えている姿を見るにつけ、なんとか肉欲に目覚めさせてやりたいと思うのだった。
だが、今朝のマリアは牙を突きたてただけで、血はほとんど啜っていなかった。
最初から本気で吸おうとしたわけではない。
たまたま龍麻より早く目が覚めたので、少しからかってやろうと思っただけだ。
マリアは毎夜この若い人間の男から鮮血を呑んでおり、
その量は彼を吸血鬼化させない上限にまで及んでいる。
彼は吸血鬼でない点に価値がある希少な人間で、いくらその血が美味であっても、
一時の欲望のために数百年の復讐心を無駄にするわけにはいかなかった。
また、彼は高校三年生、年齢で言うと十八歳で、人間社会においても、
人類という種においても成人として扱われてもおかしくはない。
実際、精神的には、彼の数十倍の刻を生きるマリアが、
毎日寝食を共にしても煩わしさを感じない程度には熟しているのだが、
一点、牝に対する本能だけは、幼児かというくらいに未成熟だった。
マリアは数ヶ月後に彼の生命を奪うという定めを負っている。
生物学的に必要な行為ではなく、ただ己の復讐心を満たすために行うのだ。
それを承知しているマリアは、彼の余生をできる限り満足させてやろうと考え、
その中には、肉体的な快楽も含まれていた。
マリアは淫魔ではないから、肉欲を満たすために誰とでも寝るつもりなどないし、
そもそも吸血鬼と人間では種族が異なる。
だが、齢十八でしかない、憎むべき種族ではあってもマリアから見れば
子供にも等しい龍麻の生命を利用することに対して、肉体を貸してやる程度の同情心はあった。
もちろん、龍麻が死すべき運命を知らされた当初から従順で、協力的ですらあったことも理由にはなる。
とにかくマリアは、彼が求めるのであれば、彼の本能を充足させてやるつもりはあったのだ。
ところが、龍麻は聖職者でもかくやというほど禁欲的な男だった。
初日の夜に「裸の女とは寝ない」と宣言されて以来、龍麻はあらゆる誘惑をはねのけて今に至っている。
はじめは半ば戯れのつもりだったマリアも、牝の部分をこうまで否定されるとは思わず、
一度は彼が不能か同性愛者なのかと疑ったが、どちらでもないと判明すると、
彼を堕落させる行為に熱心にならざるをえなかった。
けれども龍麻は、断崖に突き落とされそうになりながらも必死にしがみつき、
最後の指先は決して離そうとしない。
愛撫を受け、快楽を伴う吸血をされながらも、マリアの方に振り向こうとは絶対にしなかったのだ。
彼の理性を賞賛しつつも、マリアもこのままでは引き下がれない。
なんとか彼を堕落させ、果てた直後の最も美味な瞬間に血を啜ってみたかった。
下腹に、彼のペニスが当たる。
三ヶ月以上も共に暮らしながら、未だ直接見たことのないそれを、
マリアは臍を擦りつけるようにして愛撫した。
間違いなく、硬くエレクトしている。
日本人の性器は白人種に較べて長さで劣り、硬さで勝ると聞いた覚えがあるが、
龍麻のそれは長さにおいてさほど劣らず、硬さでは明らかに勝っていた。
肉欲を糧とする種族ではないマリアだが、牝として爛熟期にある肉体は、
味わってみたいと脳にシグナルを発する。
その命令のままに、彼を襲うのはたやすい。
そしてひとたび貪ってしまえば、彼も肉欲に耐えきれるはずがなく、
人類と言えども獣から分化した動物に過ぎないという事実を思い知る羽目になるだろう。
しかし、それでは趣がなさ過ぎる。
マリアはあらゆる意味において彼の上位にあるというのに、力づくで従えるというのでは、
それこそ群れる獣と変わらないではないか。
もう少しスマートに、せめて彼の方からセックスを求めるよう仕向けたいと、
マリアは日々誘惑を繰りかえすのだった。
龍麻は目を閉じたまま、動く気配はない。
途中から掴んでいる手首も離してみたが、彼の手は自由を得ても禁忌を犯そうとはせず、
マリアの肌をまさぐることはついになかった。
予想はできていた結果だとしても、いささかの落胆を余儀なくされつつ、マリアは身体を起こす。
とはいっても完全に離れたわけではなく、龍麻の上に跨ったままだ。
最後に何か一言くらい言ってやってから離れたいと思ったマリアだが、
意外にも龍麻の方が先に口を開いた。
「訊いてもいいですか」
彼がベッドの中で何かを訊ねるのは珍しいことで、マリアは蒼氷の瞳で続きを促した。
龍麻は軽くためらってから、距離を慮ったのか、小声で訊ねた。
「どうして首なんですか?」
「……?」
質問の意味がわからず、マリアは優美な眉をわずかに寄せた。
すると龍麻は、いくらか慌てた様子で問いを補った。
「献血する時は腕に針を刺しますよね。だから、そこから血を吸うのは駄目なんですか?」
「……」
マリアは三十秒以上も無言だった。
自分たちの行為を、まさか献血と比較されるとは思いもしなかったのだ。
巡った怒りは、あまりに瞬時に満ちたので、かえって冷めるのも早い。
龍麻を見下ろしたマリアは、今自分はどんな顔をしているのか、教えて欲しいものだと思った。
「そんなこと、考えたこともなかったわ。確かにアナタの言うとおり、血を吸うのはどこでも構わない。
でもワタシ達は、首以外から吸うことはない。どうしてかしらね」
自分に向けて問いを放ったマリアは、親指を唇に当てて考えこんだ。
無意識の何気ない仕種ですら、異性を惹きつけてやまない。
彼女は吸血鬼という種の中でも相当に優秀な個体なのだろう。
それが故に、仲間が死に絶えてもただ一人、生き残ってしまうほどに。
龍麻が一度顔をそむけ、目だけをこっそり動かし、それからまた顔をマリアの方に向けたことに、
気づかないままマリアは答える。
その声は、さっきの龍麻と同様、雪崩が起こることを怖れるかのようにひそやかだった。
「きっと……本能なんでしょうね。獣としての」
多くの肉食動物は狩りの際、獲物の喉笛に噛みついて息の根を止める。
それがもっとも確実に生命活動を停止させる手段だと、獣は誰に教えられるでもなく知っている。
吸血鬼もそれと同じなのだ。
獲物を喰らい、生きるための、本能が命じる攻撃法。
くだらないが、鋭い刺を持った問いを、発したのが龍麻でなかったら、
マリアは確実に命を奪っていただろう。
これも、情が移ると言うことなのだろうか――
龍麻の質問と同じレベルのくだらない自問に、マリアは失笑しかけた。
犬歯でせきとめたそれを噛み砕き、飲み下す。
次の発声に渋味が混じっていたのは、そのせいだった。
「それで、アナタは首から吸うのを止めて欲しいのかしら?」
マリアの問いに龍麻は少し考えたのち、小さく首を振った。
「いえ……今のままでいいです」
マリアの瞳に強い光が宿ったのを見て、龍麻は顔を赤らめる。
人ならざるものの蒼い輝きは、伝説にいう邪眼のように龍麻を惑わせた。
氷でありながら、時に燃えるように揺らめく瞳。
マリアは闇の存在であると自らを語ったが、その裡にはまばゆいばかりの光が存在し、
それが瞳を内から照らしだしているのではないか。
彼女が闇を奪われ、その闇を取り戻すために光を奪おうとしているのだと十分承知していても、
そう考えてしまう龍麻だった。
「そう」
眼光にそぐわない、ため息に音をわずかに乗せただけの声に、龍麻ははっとする。
彼女を怒らせる、あるいは落胆させるような質問をしたことに、いまさら気づいたのだ。
報復を恐れているのではない。
そもそも龍麻はマリアに拉致されたとき以来、ほとんど身命を預けた状態だ。
肉体的な苦痛を恐れないわけではないが、死を望んですらいる龍麻にとって、
それは通過しなければならない門にすぎず、死がもたらされるためなら耐えることができると思っている。
龍麻が失敗したと痛感したのは、彼女が人ならざるものであり、
龍麻とはどれほど外見が似通っていても異なる種族であると、
ことさら引く必要もない境界線を彫ってしまったからだった。
自分がそうでない現実を望んでいるのかどうか、龍麻にはわからない。
マリアがそうでない現実を望んでいるのかどうかも。
それでも龍麻は、これがどれほど仮初めのものであっても今の生活を気に入るようになっていたし、
来たる『刻』を取り乱さずに受けいれるための猶予期間を乱されたくはなかった。
その気になれば、マリアは残り半年間、龍麻の意識を奪うことも可能だろうし、
そこまでしなくても、龍麻と一言も喋らずに過ごすことも可能なのだ。
たとえマリアが多くの生命を奪う悪しき存在だとしても、
龍麻にとっては気兼ねなく話せるほとんど唯一の人物であり、
多少の欠点――たとえば、家の中では極端に肌の露出が増える――はあっても、満足できる同居人だった。
その関係をみずから壊してしまったかと思い、龍麻は不安を抱く。
彼女の瞳はいまや蒼氷ではなく深青になっており、爆発よりも収縮を、
上昇よりも下降を想起させるもので、良い兆しではない。
謝るべきだろうか、だが、謝ることでさらに境界線を抉り、溝にしてしまっては最悪だ。
どうするべきかとっさに判断がつかず、小さく喘ぐ龍麻に、
マリアは、怒ってはいないというように唇に半月形を描かせた。
「……でも、せっかくだからたまには、別の場所から吸ってみてもいいわね。
もしかしたら味が違うかもしれないし」
マリアらしからぬ冗談にも、龍麻は声こそ出さなかったが応じて笑った。
おそらく大人の度量で怒りを呑みこんでくれたのに違いない。
今日は起きあがれなくなってしまいそうだが、朝からマリアの機嫌を損ねてしまったのだから、
それくらいは甘受すべきだろう。
龍麻は小さく頷いて、身体の力を抜いた。
どこから吸うか吟味するつもりなのか、マリアが身体を起こす。
被っていた布団がはだけ、黒の下着とそれが包む大きな乳房が露になった。
さっきまでほとんど直に触れていた、あまりに存在感を誇示する双つの半球を直視してしまい、
龍麻は慌てて目を閉じる。
避けようのない身体的な生理だ、という弁明が通用するかどうかはなはだ不安なので、
そうなる前に沈静化するしか方途はなかったのだ。
しかし極めてまずいことに、その辺りには現在ちょうどマリアの腰が乗っている。
視覚はカットしても直接の刺激を与えられてはたまらず、沈静化どころか活性化がはじまってしまいそうだった。
そんな危機を知ってか知らずか、マリアの気配が再び顔に近づいてくる。
どうやら下半身には興味を示さなかったようで、一安心した龍麻は、溜めていた息を吐いた。
その直後だった。
全ての息を吐きだした、その通り道が塞がれた。
最も弛緩した瞬間を狙われた龍麻はたまらず目を開ける。
そこにある蒼氷の瞳は圧倒的な美しさで、たちまち龍麻の意識を奪い去った。
触れている部分の柔らかさと冷たさが、心臓に直接働きかける。
痛いほどの鼓動を身体の中に聞きながら、龍麻は、こんな勢いでは穿たれた首筋の孔から
血が噴き出ないのだろうかと、全く重要でないことを考えていた。
マリアは怒っていたわけではない。
ただ、彼があまりにも悄然としているので、不意をついてみたくなっただけだ。
マリアが顔を離したあとも、龍麻は呆然としたままだった。
年齢らしからぬ落ち着きと諦念を持つこの若者が、魂を抜かれたような表情をしているのは、
マリアに声をあげて笑わせるのに充分な光景だった。
肩を震わせるマリアに、ようやく龍麻は我に返り、
それでもなお呆けた顔で意味もなく口を開閉させている。
「え……今、先生……血、吸って……?」
要領を得ない龍麻に、ついにマリアはこらえきれず、彼に抱きついて笑った。
こんな手が通用するのなら、もっと早くしておけば良かった。
ずいぶんと久しぶりの、そして彼に対しては初めてのキス――龍麻は吸血行為だと思っているようだが――は、
マリア自身が想像もしていなかったほど劇的な効果をもたらした。
さんざんに笑い、ようやく騙されたと知った龍麻が不機嫌そうに「どいてください」と言ったとき、
自分がどれほど永い間笑っていなかったか、マリアは気づいた。
生きるために繰りかえしてきた愛想笑いとは異なる、心からの笑いは、
数百年抱いてきた復讐心を刹那とはいえ忘れさせるほどだったのだ。
もちろん秘めた心を失ったりはしない。
今はそれがマリアの全てなのだから。
そして、龍麻は他の全てと同様、いずれは失われる存在だ。
けれども、少しの、そう、マリアにとってはまばたきにも等しい時間なら。
次第に本気で押しのけようとする龍麻を、マリアはあしらいつつ思うのだった。
――彼を記憶に刻みつける努力を、してみても良いのではないかと。