空は、どこまでも青かった。
八月の空も青いが、九月に入ると、一層突き抜けるような青になる。
巨大なビルが天を狙う矛のように突きでる東京で地上から見上げる分には、
そこまで空の遠さを実感できるわけではないが、それでも、一段階色を深めた青は、
そこが遙かなる高みにあるのだと見る者に諭していた。
だが、地上の支配者たる彼らは自らの繁栄に夢中で空を見上げる余裕など失っているのか、
それともいずれ空をも支配するのだという野心が造物主からの忠告など無視させるのか、
この東京で、天からの説諭に気づく人間は少なかった。
気づいていれば、もう少し耳を傾けただろうか。
あるいはやはり、自分たちこそが万物の支配者であるという傲慢によって、笑い飛ばしただろうか。
いずれにしても、彼らは幸福だった――何も聞こえないがゆえに。
自分たちの築きあげてきたものが、何で出来ているのかも知らないがゆえに。
マリアの家の中に居ては、季節を実感するのは難しい。
東京の、うだることさえ許されないような暑さも、冷房をつけっぱなしでは快適そのものだし、
早朝から照りつける太陽も、寝室の分厚いカーテンが完璧に遮ってしまうのでどれほどのこともない。
それも小さな意味では一種の傲慢ではあったが、一度この快楽を知ってしまえば、
手放すのはほとんど不可能だった。
それは、それらの快楽を生みだしたのが憎むべき人間であるにもかかわらず、
最大限にその快楽を享受しているマリア・アルカードが、この件については何も言わない点から見ても明らかだった。
一方で彼女の同居人である緋勇龍麻は、彼女よりは若干慎ましく暮らしたいと願っている。
クーラーはぎりぎりまで扇風機で我慢したいと思っているし、
夏に早く目が覚めるのも、冬にいつまでも布団から出たくないのも仕方がないと思っているのだ。
だが、この家においてマリアの意向は絶対だ。
掃除洗濯や風呂の温度に至るまで、彼女が否と言えばそれは否なのだ。
彼女と同居することになった直後に、たったひとつだけ我意を通した龍麻は、
他のことに関しては受けいれ、あるいは諦めていた。
そのたったひとつの我意を、マリアは守ってくれてはいたが、最近では若干後悔するようにもなっている龍麻だ。
「お早う」
「おはようございます」
二十分ほど遅れて寝室から出てきたマリアに、肩越しで応じてから龍麻は一瞥だけする。
これはマリアを軽んじているわけではなく、まともに見るとフライパンを持つ手に危険が及ぶためだ。
龍麻がこの美貌の女性と同居してもうじき半年になるが、未だ彼女の寝起きの姿には慣れていない。
何しろ龍麻を誘惑するためと称して、全裸よりも扇情的な下着をまとって寝る彼女だ。
夜の直接的な攻撃も骨身に堪えるが、朝、遮るものもない状態で彼女を直視するのは、
朝は健やかであるべきだという龍麻の固定観念を根底から覆しかねなかった。
彼女がもし、龍麻の懇願を呑む前、つまり、何一つ身にまとわない状態で眠るのなら、
朝は逆に平穏だったかもしれない。
さすがの彼女も寝室以外で全裸のまま歩き回るということはないだろうから。
それは常識に基づく推測で的中率は高いはずだったが、
では夜、ベッドの中で全裸の彼女に密着されて良いかと訊かれれば、龍麻はやはり良いとは言えない。
全く見ないようにしていても、成熟した女の肉体の柔らかさと、
龍麻よりもいくらか冷たい肌は、理性という防壁をたやすく削りとっていくのだ。
半年間、龍麻は良く耐えてきたが、あと三ヶ月ほど我慢できるかどうかは、
彼女の方に懸かっている、と言わざるをえない有様だった。
幸いにして、マリアは朝から龍麻を堕落させようとはしない。
夜の住人であるという誇りゆえか、それともあえて緩急をつけて焦らす戦法なのか、
どちらにしても、その完璧ともいえる肢体を惜しげもなく晒しながら、
龍麻の身体に指一本触れることなく洗面所へと向かった。
ベーコンを焼きながら、龍麻は安堵する。
マリアはこれまで、毎夜ベッドでしていることを太陽の下に持ちこんだことはない。
その点では信用できるともいえるが、ここ一週間ほどのマリアの攻撃の変化は、新たな警戒を龍麻に強いた。
それまでの方が、辛いといえば辛かった。
女らしさの極みに達した肉体を押しつけ、そんな状態ではどうしても反応してしまう男性器を、
さらに極限まで弄ぶ。
そのくせ射精しそうになると刺激を止めてしまい、悶々とするしかない龍麻の血を啜り、
満足するとさっさと寝てしまうのだ。
その気になったのならいつでもしていいとマリアは言うが、はいそうですかと応じるわけにもいかず、
血を吸われた虚脱と、満たされない疼きの狭間で、龍麻は日々苦闘していたのだ。
それが、八月の終わりから突如として変わった。
ベッドに入ると血を啜るのは変わらないが、その前の――マリアに言わせると、
血は温かな方が美味らしく、そのための、いわば下ごしらえなのだそうだ――
男の肉体を興奮させる方法が、龍麻を困惑させるほど変化したのだ。
その方法は身体を絡めとってペニスを弄ぶ、激しいけれども単調なものでなくなり、
指でそっと龍麻の弱いところを撫でたかと思えば、次の瞬間には全く別の所に触れ、
時には髪に手櫛を入れて撫でまわしたりする。
蜜に浸かるような甘ささえ感じるそれらの愛撫は、ただ耐えていれば良かったそれまでとは違い、
常に意識を保っていないと沈んでしまうのではないかと龍麻を怖れさせた。
そしてもう一つ、決定的に変わったのが、血を吸い終わったマリアが、
最後にくちづけを交わすようになったことだ。
龍麻は拒んだが、人ならざるものである彼女の筋力には及ばず、
血を吸われた後の虚脱も手伝って、実力で排除されてしまった。
以来毎夜、血の味のするキスを龍麻は受けている。
増えた行為にどんな意味があるのか、抵抗は敵わじとも知りたくて龍麻は訊いた。
マリアからの返事はなかった――灯りを消した暗い部屋の中で、
だらしない男に答える義務などないとばかりにわずかに微笑を浮かべた以外は。
キスそれ自体は、どうということもないはずだった。
半ば強引にするとはいっても長い時間をかけるわけではなく、
龍麻が暴れさえしなければ、拍子抜けするほどあっさりと終わる。
困るのは、朝――彼女の支配が及ばないはずの時間に、ふと意識してしまう時があるようになったことだ。
彼女の身体において、そこだけが浮きあがったように赤い唇の、冷たさと柔らかさを。
一瞬でも視界に収めてしまったなら、たちまち前日に受けた最後の感触が甦り、
平静を保つのが困難になってしまうのだ。
現に今日も、マリアが洗面所に向かう際の横顔を、瞬きの間見ただけだというのに、
フライパンを握る左手があやふやになってしまった。
ベーコンが焦げた匂いは香ばしくもあるが、料理人として自慢できるものではない。
マリアが人間で言う味覚を持たないことに感謝しつつも、そもそも失態の原因が彼女であることに、
矛盾めいた感情を抱きつつ、龍麻は火を止めてベーコンを皿に移したのだった。
この家の料理人の自信を数パーセント喪失させたことを知る由もなく、
洗面所から戻ってきたマリアはテーブルに座った。
人ならざるものである彼女は朝食のメニューに関してさほどの関心は持っておらず、
澄んだ、青と紺の中間の色をした瞳で軽く見渡しただけで新聞を手に取る。
龍麻が紅茶を注いだカップを置いても、紙面から目を離しはしなかったが、
手探りでカップを握り、無造作に一口啜ったあと、おもむろに口を開いた。
「今日はベーコンが焦げているわね」
ジャムを塗っていたパンを落としこそしなかったが、龍麻の狼狽ぶりは期待以上で、
マリアは危うくティーカップに波を立ててしまうところだった。
「す、すみません」
血液以外の食物は、吸血鬼と気づかれないために摂取するにすぎないのだから、
黒こげであろうと生であろうとマリアには関係がない。
ただし人間の同居人が無益ではあっても自分に美味だと言わせようと努力しているのは知っていたし、
意外にレパートリーが多い料理の数々は、一流のシェフが作ったものには及ばないとしても、
未成年の男が作るものとしては充分な完成度を有していることも評価はしていた。
むしろ、マリアがベーコンの焼き具合に気づいたのは、普段がきれいに焼かれていたからで、
もちろん本気で気分を害したわけではなく、珍しい失敗をついからかってみたくなっただけだ。
ところが、焼いた当人はお代は結構ですと今にも言わんばかりにうなだれている。
そこまで拘りを持っているのか、とマリアはいささか驚きつつ、なだめるように微笑を浮かべた。
「別にいいのよ……誰にでも失敗はあるわ」
はい、と頷きはしても、龍麻の気分は晴れないようで、まったくこちらを見ようとしない。
過保護になるつもりはないので、それ以上の干渉は控えたが、どこか腑に落ちないものを感じたマリアだった。
あらかた朝食が済んだところで、マリアが今日の予定を告げる。
「今日は少し遅くなるわ……職員会議があるの」
「わかりました」
マリアの夕食は龍麻とは異なるので、龍麻が待つ必要はない。
けれども龍麻は常に二人分作っていたし、マリアも内心はどうであれ、晩餐を拒んだことは一度もなかった。
今日も、龍麻は彼女が帰ってくるまで待つつもりだ。
マリアも承知しているのか、それ以上は言わず、再び沈黙が流れた。
だが、それも長い時間ではなく、登校の時間が近づいている龍麻は、
まだ新聞に眼を通しているマリアに先んじて席を立つ。
食器を流し台に片づけると、学校に行く用意を手早く整えた。
制服に着替え、忘れものがないか確認して鞄を掴む。
龍麻が玄関に向かうと、ようやくマリアも立ちあがったところだった。
二人は同じ学校に教師と生徒として通っているが、一緒には行かない。
無愛想すぎる転校生と、美しすぎる英語教師の取り合わせはあまりに目立ちすぎると
龍麻が提案し、日本人の機微など知らないマリアはそういうものかと素直に同意したのだ。
「それじゃ、先に行きます」
「ええ、行ってらっしゃい」
いくらマリアが人間全てを憎み、教師という職業も仮初めのものでしかないと割りきっていても、
この程度の挨拶は交わす。
龍麻の方も、学校では必要最低限しか声を発しない、目を合わせるのはほぼ皆無、という、
彼の方こそ人間嫌いではないかという無愛想ぶりだが、マリアの家の中ではごく普通に話をし、笑顔さえ見せた。
もっともそれも玄関を一歩出るまでで、そこから先は帰宅するまで、ほぼ一言も発することはなくなる。
彼はそれを苦にしていないようで、少なくともこの家に来た時にはすでにそういう習慣を
身につけていたのではないかとマリアは考えていた。
ただ、それが単に人付きあいが苦手なだけなのか、それとも何か理由があってのことなのか、
そこまではわからない。
彼が真神に望まぬ転校を強いられた理由については聞いたことがあるが、それとは関係がなさそうだ。
ただ、真相が気になるとはいっても、彼の方からマリアのプライバシーに干渉してこない以上、
彼が虜囚とはいってもそれは守られるべきだった。
龍麻を見送ったマリアにも、それほど時間的な余裕はない。
人間社会、特に日本で滞りなく生活するためには、遅刻は極力しない方がよいのだ。
彼らの社会に数多ある職業の中でも、特に時間に厳しい職業を選んでしまった己の不明を呪いつつ、
マリアは出勤の準備を整えるために部屋に戻っていった。
誰とも口を聞かないまま、一日の三分の一を過ごす龍麻だが、学校が嫌いというわけではない。
勉強は嫌いではなかったし、授業も、教師によって若干の差はあるが、おおむね真面目に聞いていた。
当てられれば答えるし、答えられずに不興を買うということもないので、
教師達は、彼がクラス内では孤立していると知らない者がほとんどだ。
もっとも、孤立していると知ったところで、龍麻が自分からその立場に甘んじ、
状況を改善しようとは全くしていないこと、
そしてこの学校でも最も性質の悪い学生に目をつけられていることを知ったなら、
たとえ積極的に事態を解決しようとする熱血教師でも冷めてしまうだろう。
佐久間猪三――この高校にどうして入学できたのか、彼を知る者なら全員が疑問に思うに違いない不良。
勉強がしたくないのなら高校に行かずに働くという生き方もあるのに、
その道は選ばず、かといって授業を真面目に受けようという素振りすら見せない落ちこぼれ。
そして、新宿界隈ではそれなりに名の通っている、すでに幾つかの道を踏み外している札付きの悪。
彼と、真神の顔であると誰もが認める、容姿端麗にして成績優秀の生徒会長である美里葵が同じクラスであるのは、
単なる偶然なのか、それとも佐久間が更生する、万に一つの可能性に誰かが賭けたのか。
もしそうだとしたら、その者の目的はごく微量だけ達成されたことになる。
佐久間は少なくとも暴れたり、教師に殴りかかったりはしなかったからだ。
ただし、それはあくまでも三年C組の中で、という但し書きのつく、表面のごく一部のみを見た結果で、
それ以外の場所では、むしろ佐久間と葵という対極に位置する二人を引き合わせたことによる、
最悪の化学反応が生じつつあった。
それは、まさしく毒――周辺を汚染して重大な被害をもたらし、
しかも、取り除くためには自らも汚染を覚悟しなければならない猛毒だった。
そして滲みだす毒は、聖域であったはずのC組にもいつしか淀み、溜まっている。
しかし多少臭いはしても、耐えられないほどではない毒臭を、
C組の生徒は鼻をつまんでしのぐことにしていた。
致死ではないのだから、後何ヶ月かやり過ごせば、一生無縁でいられるのだから。
緋勇龍麻も、毒の存在には気づいていた。
なにしろ、転校したその日にたっぷりと嗅がされたのだから。
だが、その毒とは別種の毒を持つがゆえに、龍麻は手をつけようとはしなかった。
明らかに龍麻の持つ毒の方が効果が高く、しかも卒業を待たずして撒き散らされるのだ。
何も無駄な労力を割く必要はない、と判断したのだ。
佐久間のような男など、構うにも値しない。
龍麻が転校してきておよそ半年、これまでのところその判断は破綻しておらず、
たとえ破綻したとしても、すぐに修正できるという自信があった。
――もしかしたら、それは龍麻自身も知らない、『黄龍の器』という名の毒だったのかもしれない。
クラスメートともほとんど交流を持たず、部活動にも入っていない龍麻は、
放課後に学校に残っている理由がない。
にもかかわらず、どうしたわけか彼に雑事を頼む教師がときたま現れて、
この日も龍麻は職員室と教室を二往復する羽目に陥っていた。
大した用事ではなくても、二回も校舎の端から端まで往復すれば、
再度教室に戻ってきた時に残っている生徒などいない。
すでに茜色が大半を占めるようになった教室に、無機物以外の影はなかった。
龍麻にとってはその方が好ましい。
教室には鞄を取りに戻ってきただけなのに、人が居ればどうしても目を合わせなければならず、
その時の彼らの、未だに気まずそうな顔には龍麻もいたたまれなくなってしまうからだ。
存在しないものとして扱ってくれればいいのに、というのが勝手な注文であるのは承知していても、
やはり、あの生ぬるい空気は慣れるものではなかった。
誰も居ないので大股で自分の席に向かい、鞄を掴んだところで、龍麻はふと教室を見渡す。
特に思い入れがあるわけではないが、あと少しでここも跡形もなくなると思えば、
感慨めいたものも湧いてくるというものだった。
地球そのもののエネルギーを、『黄龍の器』を通じて開放させる。
それは世界でも有数の都市である東京を瞬時に壊滅させるどころか、
龍脈という経路を用いて噴きださせることで、世界中に破壊をもたらすことができるらしい。
そんなことが可能なのかどうか、龍麻には理解できないが、
その計画の実行者であるマリアは可能であると信じているし、成功すればいいとは龍麻も思っている。
龍麻はこの世界に、マリアほどの憎しみを持っているわけではない。
計画が成功しても失敗しても、自分の命を奪ってくれるようマリアに頼んであるが、
成功した方が彼女も気分よく殺してくれるだろうという、それだけのことだ。
大切なのは緋勇龍麻という存在がこの世界からなくなることだった。
自然の光が届かなくなり、人工の灯が瞬くまでのわずかな時間。
黄昏の東京はすでにして異界めいた雰囲気を醸しだしていた。
針のようにそびえるビル群が瓦礫と成り果てたとき、世界はどのように変貌しているのだろうか。
そして、そこに君臨する女帝は、どう振る舞うのだろうか。
束の間、自分が死んでからの世界に思いを馳せた龍麻だが、すぐに詮のないことだと一人笑った。
仮に変心をマリアが受けいれたとしても、その後どうするのか。
龍麻は彼女が憎む人間であり、共に何かを為すなどありえないだろう。
それに、彼女の言うところでは、『黄龍の器』としての能力を解放した時点で、
その人間は死ぬか廃人になる可能性が高いという。
その話を聞いたからこそ、龍麻は彼女の許で地球のエネルギーが最も満ちる刻まで暮らすことを承諾したのだ。
いまさら死ぬのが嫌になったなどと言っても、マリアに逃げださないよう手足の腱でも切られるのが関の山だろう。
マリアのことを考えたところで、今日は帰宅が遅くなると彼女が言っていたのを龍麻は思いだした。
だからといって羽目を外せるわけでもないし、そのつもりもないので、単に思いだしたというだけにすぎない。
ただ、彼女が居ると俗世じみているだのと言われてあまりできない家事を済ませてしまおうか、
などと男子高校生らしからぬことを考えて、まずは家に帰ろうとした。
その視界の端に、何かが映った。
一瞬の動作の、さらに何分の一瞬かにしか捉えなかったそれをもう一度捉えるため、
龍麻は同じ動作を、何倍かの時間をかけて繰りかえす。
視覚を刺激したものはまさに視界の端、目の位置にあったのではなく、直線距離で十メートルほど、
目の高さからは五メートルほど下の位置にあった。
それは昼間ならば気づかなかったに違いない。
夕方、もう夜に近い時間であったからこそ、影に侵食されていない部分に存在するそれに、龍麻は気づいたのだ。
旧校舎の入り口に、男女が居る。
紫色の世界に紛れて、ほのかに浮かぶ女子生徒の白い制服と、そのすぐ傍に居る、
こちらは黒い制服のせいでかなり判別しづらい男の姿。
わざわざもう一度確認してまで見つけたそれらに、龍麻は大きな落胆をするしかなかった。
人目につかない場所に年頃の男女が居る理由など一つしかない。
つまらないものを見てしまった、と舌打ちを寸前でこらえ、
窓の外に向けて固定させた顔を帰る方向に向けた龍麻は、一度は通過させた視線を急激に引き戻した。
そこに居たのは、葵と佐久間だった。
いずれともとほとんど交流のない龍麻ではあるが、この二人にも交流などないことは知っている。
あるとしても交わりではなく、一方通行的に佐久間が葵を己が女としたがっているだけのはずだった。
転校初日に葵と挨拶を交わしただけで佐久間に目をつけられ、
彼の手下たちに暴行を加えられた龍麻だから、葵が佐久間など眼中にないと確信できるのだ。
嫌な予感が神経をかき乱す。
その不快感は視神経にまで及び、佐久間と葵が話をしている、ただそれだけで視野狭窄に陥るほどだった。
見たくはない、という思いと、見なければならない、という思いが激しく音を立ててぶつかりあう。
葵とは関わりを持たないと決心していたはずなのに、心というのはたやすく自己を裏切るものなのか。
濃い紫の自嘲が心の表面を滑っていくのを感じながら、
なお龍麻は眼下で繰りひろげられる光景から目を離せなかった。
二人の距離は恋人の距離というにはむろん遠いが、仇敵というほどには離れていない。
それでも、葵の姿勢から、決して望んで佐久間と話しているわけではないのがうかがえる。
遠目から見てもはっきり判ってしまう葵の態度に、佐久間も嫌われたものだと思ったが、
むろん同情したりはしなかった。
一体、何を話しているのだろうか――
この学校に来て初めて他人の会話に興味を持った龍麻だが、
宵闇の重さはこの三階まで二人の声を運んでこない。
焦れかけていっそあの場所に乗りこもうかと思った時、事態は龍麻をあざ笑うかのように急変した。
風に舞う紙片のように葵の身体が舞い、倒れ伏す。
佐久間はあろうことか、彼女の頬を張り飛ばしたのだ。
その時点で龍麻の怒りは、あまりの凄まじさに肉体を離れかけたほどだったが、
頬を押さえ、理不尽な暴力に怯える葵を引きずるようにして佐久間が旧校舎の玄関を蹴破ったのを見ると、
何もかもを忘れて教室を飛びだしていた。
一気に階段を飛び降り、痺れる足も無視して全力疾走する。
まだ学校に残っていた幾人かの生徒が驚いたようだが、龍麻の関心はいささかも彼らには向けられなかった。
頭の中はただひとつ、佐久間の悪行を止めるというただ一事のみが渦巻いている。
三階から一階まで、さらには校舎を出て旧校舎まで、二分とかからないで駆けた龍麻は、
四月以来となる旧校舎に、身ひとつで突入した。
完全に暗闇を走り抜けたので、二度ほど身体を強く壁にぶつけたが、構わずに二人を捜す。
「ヘヘ……いいだろ美里、俺の女になれよ」
「嫌……! お願い、離して、佐久間くん……!」
吐き気を催すような欲望剥きだしの声と、それに抗うか細い悲鳴は、入ってすぐの教室から聞こえてきた。
息も継がず走ってきたのに加えて、充填される怒りで龍麻は酸欠に近い状態だったが、
構うことなく二人のいる部屋に入った。
濃闇に紛れていた埃が舞いあがる。
せきこむほどに蓄積されていた塵の向こうに、佐久間と葵は居た。
ぼんやりと浮かぶ白い制服は、床と平行にあり、それに圧しかかるように黒い影がうごめいている。
龍麻が目撃した数分間をわざわざ繋ぎあわせなくとも、何が行われているのかは明白だった。
一瞬で龍麻の身体が怒りに奔騰する。
その一瞬のさらに何分かの一瞬、ある苦い過去の記憶が怒りと同じ疾さで脳裏をよぎったが、
怒りをとどめる効果はもたなかった。
「佐久間……ッ!!」
咆吼に、佐久間が振りむく。
指向性を持つ侮蔑に邪魔された怒りを溶かし、佐久間は顔をどす黒くさせて立ちあがった。
鬼も逃げ出すような凶悪な、そして醜怪な形相がほとんど完全な闇に浮かぶ。
澱んだ旧校舎の空気が一変するほどの禍々しい気配は悪しき触手となって龍麻の許へと這いよってくる。
龍麻はその佐久間すら上回る邪気を全身から立ちのぼらせ、真っ向から外道を睨みつけていた。
「手前……ッ!!」
性欲を暴力衝動へと転化させた佐久間が突進してくる。
凶悪な力の塊と化した佐久間を、龍麻は正面から迎え撃った。
「消え失せろッ……!!」
顔面を狙って放たれた巨大な拳を肩で受け、代わりに腹に渾身の一撃を叩きこむ。
弱い、ほとんど獲物としてしか見ていなかった龍麻にしたたかな反撃を喰った佐久間の、
よろめいた顔には驚愕が貼りついていた。
だが、それもごく短い間のことで、床に唾を吐いた佐久間は、
ダメージなど感じさせない動きで再度突進してくる。
相手が単純な手で来るなら、同じ攻めを繰りかえすだけだ。
肩のダメージを、こちらは軽い痺れが起きていたが無視し、龍麻はもう一度腹に一撃見舞うべく拳を固める。
今度は自分の体に秘められた『力』を上乗せした、決着をつける一撃のつもりだったが、
佐久間の方が一枚上手だった。
待ち構える龍麻に対し、今度は拳ではなく、低い姿勢で体ごとぶつけてくる。
左側からの攻撃を警戒していた龍麻は、避けることもできずまともにぶつかり、
二メートル近くも吹き飛ばされた。
教室の扉が開いていなければ、壁に頭をぶつけ、そこで勝負が決まっていたかもしれない。
床に倒れた龍麻に、佐久間が襲いかかる。
佐久間は少なくとも喧嘩においては熟練した巧者であり、勝負所を見極める眼があった。
龍麻が倒れたと見るや、起きあがる暇さえ与えずに一気にとどめを刺そうとする。
顔面を狙って放たれた蹴りを間一髪で躱した龍麻は、そのまま横転し、その勢いで立ちあがった。
そこに再度佐久間の、今度は腹を狙った拳が放たれる。
まともに当たっていれば肋骨が砕けたであろう、いささかの容赦もない重い攻撃を、
だが、今度は龍麻は躱さなかった。
「……ッ!!」
佐久間の小さな、野獣の剣呑さを宿した目が見開かれる。
拳は確かに命中していた。
手応えがあり、この一撃でこの忌々しい転校生は無様に倒れるはずだ。
あとは起きあがらなくなるまで攻撃を加え、身の程知らずを徹底的に後悔させる。
葵をモノにするという重要な瞬間を邪魔するという許しがたい男を、
佐久間は本気で殺すつもりだった。
だが、龍麻は立っている。
顔を苦痛に歪めてはいるものの、膝が落ちる気配はなく、佐久間の渾身の殴打を受けきったのだ。
「手前ェッッ……!!」
いびつな自尊心を砕かれた佐久間は、凄まじい咆吼を龍麻に浴びせると、再度、
今度は殺すつもりでパンチを放つ。
龍麻の背中まで打ち抜くつもりで打ちきった、充分に体重を乗せた拳は、
しかし、今度は命中すらしなかった。
佐久間の顎に衝撃が弾ける。
命中する寸前、龍麻がカウンター気味にパンチを放つのを佐久間は見ていたが、
命中するのは自分の拳の方が先で、当たりさえすれば素人のパンチなどどれほどのこともない。
そう見極め、佐久間は防御よりも攻撃を優先させたのだ。
だが、当たったのは龍麻のパンチの方が先立った。
何が起こったのか理解できないまま、佐久間は反射的に歯を食いしばる。
その瞬間、重い、ハンマーで殴られたかのような衝撃が、顎から反対側の側頭部まで突き抜けた。
「……ッッ!!」
大きくたたらを踏みながら、かろうじて踏みとどまる。
背がやや高い程度で喧嘩の仕方も格闘技術も知らないはずの転校生は、
これまで佐久間が経験したことのない強烈な打撃を放っていた。
並の、たとえば佐久間の手下であったなら、この一撃で昏倒したに違いない。
アマチュアボクサーか、あるいはそれ以上の痛打に、佐久間は愕然とした。
だが、それも一瞬のことで、痛みを憤怒へと転化させ、身につけたあらゆる技で龍麻を殺そうと躍りかかった。
酒と暴力とを同等に好む佐久間は、これまで何人も病院送りにしている。
ゆえに相手が骨折しようと半身不随になろうと、後悔などすでに摩滅しきっており、
むしろ残された最後の壁を破壊しようと猛っていた。
殺人――多くの人にとって自分から乗りこえようとは思わない隔壁を壊す。
それは計り知れない快楽を与えてくれるはずであり、
壊した壁を見せれば、葵も屈服して自分の女になるかもしれない。
それが日本においては重大な犯罪行為であり、その後にどのような結果が待っているか、
などという考えは、獣と化した思考には浮かばなかった。
ただ殺したいという衝動と、以前からくすぶり続けていた葵を犯したいという欲望、
それが寸前で妨害された憤激がどろどろに溶けあい、都合の良い泡ぶくとなって頭の中で破裂するだけだった。
緋勇を殺し、葵を犯す――ふたつの目的が合一であると認識した佐久間は、
ここが学校であることも忘れ、必殺の暴力を奮う。
だが、手加減など微塵もない渾身の一撃は、龍麻の肉体を捉えなかった。
腹を狙ったパンチが龍麻に届くよりも早く、顔に当たった龍麻の拳が佐久間の意識を刈り取る。
体重も、ひねりも効いていないただのストレートが、どんな強敵の一発よりもダメージを与えていた。
それでも執念に憑かれた佐久間は、なお足を踏みしめ、龍麻に掴みかかろうとする。
だが、すでに防御する力もない腹に狙いすました殴打を受けたとき、
頭から落ちていく感覚を最後に、佐久間の意識は消えていった。
動かなくなった佐久間を、龍麻は見下ろしていた。
前髪に隠れた瞳に勝利や昂揚の輝きはなく、氷原に吹くブリザードに似た冷ややかさのみが、
学校で同級生に対して性的な暴行を加えようとした男を捉えていた。
佐久間の悪行は未遂とはいえ死にすら値するものだった。
龍麻は葵に対して特別な感情を抱いているわけではないが、
卑劣な男には当然の嫌悪があり、それ以上の忌諱が行為そのものにあった。
だからこの男は、殺しても構わないと思っていた。
知らぬこととはいえ、佐久間は龍麻を殺すつもりで襲いかかったが、
龍麻もまた、佐久間が死んでも良いという意識を消さないまま殴ったのだ。
しかも、ある意味ではより悪辣で、ここで佐久間が死んだとしても、
罪を償う必要がないことを計算までしていた。
どのみちあと数ヶ月すれば、たった一人の死など問題にならないくらい多くの人間が死ぬことになるのだ。
直接虐殺はしなくても加担する立場である龍麻は、
すでに現代社会の良識など、波風を立てないための方便程度にしか考えていなかった。
しかし、今回は佐久間を死に至らしめるまでは及ばなかった。
龍麻が持つ『力』は、今のところ自身で加減を操ることはできず、
その威力が最大限に発揮されるのは、後で何も覚えていないくらいに我を忘れた状態でだった。
過去数度『力』を発現させたことがある龍麻は、それを喜んだりはせず、
極力使ってしまうことがないように、感情を抑える努力をずっと続けてきたのだ。
怒ることはあっても、理性は決して失わない。
どれほど瞬間的でも、理性を失くした時点で『力』はどこなのか知りたくもない身体の深奥から目覚め、
懲らしめる、というだけでは済まない暴力の嵐を発生させる。
己が身にも被害が及ぶ、危険極まりない超常的な力など、もう二度と発動させてはならなかった。
幸か不幸か佐久間はしぶとく生き残った。
今からとどめを刺すことも考えたが、頭の中で理性の占める領域が回復すると、
感情の赴くままに裁きを下すわけにもいかなくなっていた。
これは道義や法律を重んじてのことではなく、葵が襲われた、
その直後に佐久間が死ねば、葵の心にも少なからず傷を残す。
さらに人死にが出たとあれば事件も明るみに出さざるをえなくなり、
そちらの方が葵に致命傷となるのは確実で、絶対に避けねばならない。
葵自身が彼の死を望んだのならともかく、そうでない以上、龍麻が先走るわけにもいかないのだ。
佐久間に対する憎しみは、龍麻自身の記憶と反応し、噴きあがらんばかりだった。
佐久間のような手合いは、決して反省することがない。
たとえ何度叩きのめされようと、悔悟するのはあくまでもその場だけなのだ。
そして苦い記憶が喉元さえ過ぎてしまえば、また己の欲望に従って悪事を働く。
マリアが憎むのもやむなしとする、最も醜い部類に属する人間を、
駆除してしまいたいという欲求は、すっかり殴りあいの興奮が醒めた後でも、龍麻の裡で強くくすぶり続けていた。
その心を静めるのに、龍麻は三度の深呼吸と、己の両頬を強く叩く必要があった。
どうにか落ちついた龍麻は、佐久間に起きあがる気配がないのを確かめると、葵の傍らに膝をついた。
暗がりなのではっきりとは見えないが、怪我はしていないようだ。
状況から考えて、最悪の事態にはなっていないはずだと思いつつも、
それを訊くのはためらわれ、龍麻は中途半端に葵の反応を待つしかなかった。
龍麻がそばに近づいても、葵に気づく気配はない。
気を失っているのかとも思ったが、顔の前に手をかざすと、鈍いながらも顔が動いた。
「う……ん……誰……?」
まだ意識がもうろうとしているのか、葵はおぼつかない様子だ。
「緋勇……君……?」
余計な緊張を与えないよう、低く抑えた声で龍麻が名乗ってもめざましい反応はなく、
床に伏したまま顔だけを傾け、虚ろに龍麻の名を繰りかえしただけだったが、
にわかにばね仕掛けの人形のように上体を起こすと、両腕で胸をかき抱いた。
「わ、私、佐久間君に……」
それ以上は蘇った恐怖が口にすることを許さないのか、身体を縮めるばかりだ。
暗闇で震えている葵は、痛々しくて見ていられるものではなく、龍麻は目を細め、憐憫に顔を歪めた。
「緋勇君が……助けて……くれたのね」
数分が過ぎた頃、静まりかえった廃教室に囁きが響く。
努めて抑えたであろう声は、だが思いもかけないほど反響し、葵は、自らの声に再び身を竦ませた。
震える彼女にどう接して良いかわからず、龍麻は口を開けない。
しかし、そうしていると闇をまとった沈黙の中に、永遠に閉じこめられてしまいそうで、
無理やりに声を、とにかく意味だけは持つ音を絞りだした。
「大丈夫……か……?」
すぐに返事はなかった。
愚かしいことを訊いてしまったのかもしれない、と舌を噛み切りたい衝動に駆られる龍麻に、
か細い返事があったのは、ややあってからだった。
「……ええ」
葵の声は震えてはいても、恐慌には陥っていないようだ。
そういった分析をしていると、痛みを忘れることができた。
佐久間の腕力は不良を束ねるにふさわしいといえるほどにはあり、
骨折をしなかったのが不思議なくらいで、数日は全身の痛みに悩まされるだろう。
それでも、その痛みが勝ち取ったものを思えば、それは勲章といっても良い、
少なくとも龍麻には誇りとなるものだった。
葵はいずれ、マリアの引き起こす大破壊に巻きこまれる存在で、
その時に生命が助かる保証はない。
龍麻は彼女の生殺与奪に関する資格を持っておらず、大破壊を止める権利さえないのだ。
今日、女性としては死にも等しい恐怖から免れたといっても、数ヶ月後には本当の死が与えられる。
これはつまり単なる偽善ではないのかという自責はずっと消えなかったが、
それでも、襲われようとしてた葵を見過ごすことはできなかった。
「……あの、向こうを向いて……」
何故、と言いかけた龍麻の目に、裂かれたストッキングから覗く白い太股が映る。
捲れたスカートとその白さがひどく艶めかしく見え、龍麻は慌てて一歩下がった。
さらに後ろを向き、一切の邪念がないことを示す。
葵から何も応答はなく、自分の取った態度が正しいのかどうか、
龍麻には全くわからなかったが、その背中に、ふいに何かが当たった。
思わず硬直する龍麻の耳に、低い嗚咽が聞こえてくる。
「ごめんなさい、しばらくの間でいいから……」
柔らかく、けれど強く肩を握りしめる掌を、はねのける術を龍麻は持たなかった。
葵の妨げにならないように、呼吸を可能な限り抑え、己を石と化す。
それは身に宿る異能の、マリアに言わせれば『黄龍』などという大層な名のついた力をもってしても、
ほとんど不可能と思えるくらいの無理難題だった。
それでも、龍麻にはそれを行う意義があった――おそらく、これまでの人生で何番目かには。
葵に特別な感情を持っているわけではないにしても、
咎なく過酷な現実に直面させられた女性に対して、同情の念を抱かない人間がどこにいるというのか。
ひどく荒ぶる心臓に対して、龍麻はそう説明してなだめた。
「ありがとう」
葵が幾分生気を取り戻した声で囁く。
どれほどの刻が過ぎたのかは、龍麻には意味を持たなかった。
振り向きたいのと、肩に置かれた手を、握らなくてもいい、重ねてやりたいという二つの衝動を、
さらには葵に気取られないようにという条件付きで堪えるのに、龍麻は渾身の努力を必要としていた。
甲斐あって、両方とも実行せずに済ませることができた――
ただし、その代償として、かける言葉も失ってしまっていた。
両の肩に置かれた掌は、強く、弱く、不規則に力を変える。
その振幅に含まれる彼女の感情に、どう接して良いかわからないまま、さらに幾秒かが過ぎる。
結局状況を打ち破ったのは葵の方からで、龍麻は、彼女を救った以外、全く無力だった。
「本当にありがとう。もう、大丈夫だから」
葵はそう言い、龍麻の肩から手を離す。
けれども、立ちあがると思った葵の気配には、空白があった。
龍麻の身体のどこにも触れず、立ちあがりもせず、ただ龍麻の真後ろにいるだけ。
彼女の振る舞いが何を意図してのものなのか、龍麻は途方に暮れた。
こちらが立ちあがるのを待っているのか、それとも逆にもう少しこのまま座っていた方がいいのか。
くだらない、けれども極めて重要だと思われる逡巡の末、
龍麻は両者を折衷し、ゆっくりと立ちあがった。
やや遅れて葵も立ちあがり、その気配を感じとってから、龍麻はやはり緩慢な動作で振り向く。
葵が数センチ、あるいはもっと短い距離、近づいたような気がした。
『黄龍の器』が持つ力に、背後を見る能力はない。
だから、葵が近づいたかどうかなどわかるはずがなく、おそらくは気のせいなのだろう。
葵の表情もこの暗がりでは読みとれず、龍麻は頭を振って幻想を振り払った。
今は幻想などよりも、現実の方を優先するべきだった。
「家の近くまで、送っていくよ」
最も現実に即しているはずの声は、龍麻も想像していなかったほど弱気だった。
いつもなら、そもそも他人との関わりを避けるのだが、
関わる以上は少なくとも他人に影響されて意思を変えたりはしない。
だが、今は葵に拒まれるのを極度に恐れていた。
どうしても送っていきたいという欲求と、拒まれたら意思を尊重しなければならないという不安。
二つの意識は火花を散らして衝突し、小さな震えとなって龍麻の外側に現れた。
「……ありがとう、お願いします」
葵は提案を受けいれてくれた。
それは場違いな喜びをもたらし、龍麻は綻びかけた顔を引き締めなければならなかった。
どんな下心を持って葵を助けたわけでもない。
だが、葵を護衛して帰るその事実が龍麻に、痛み始めた全身のことさえ忘れさせるほどの喜びをもたらしていた。
心中にいつにない興奮があるからといって、龍麻が饒舌になるわけではなかった。
龍麻が喜びを見出したのは葵への救けを受けいれられた、それ自体にあったし、
暴行されかけた女性に、その傷がまだ生々しく残るうちにあれこれと話しかけるなど、
男として最低だと思っていたのだ。
そして無論、女性としての危機に瀕していた葵が積極的に男に――
佐久間とどれほど異なってはいても、やはり龍麻も、男性ではあるのだ――話しかけるはずもなく、
二人はすっかり夜になった新宿の街を、ほとんど無言で歩いていた。
二歩ほど葵の前を歩きながら、龍麻はこの距離が適切なのかどうか、ずっと悩んでいた。
後ろから佐久間が来たら気づけないかもしれないし、かといって一歩の距離では近すぎる。
一メートルにも満たない長さについて、その千倍以上の距離を歩く時間考え続けた挙句、龍麻は結論を出せなかった。
「ありがとう……ここを曲がれば、もうすぐそこだから」
「……ああ」
家の前まで送らなければ意味がない、と応じかけ、龍麻は口をつぐんだ。
もしかしたら葵が、家を知られたくないのではと思ったのだ。
自分にはそこまでの資格はない。
中途半端に頷いた龍麻が怒っているとでも勘違いしたのか、葵はやや慌てたように頭を下げる。
「……あの、今日は本当にありがとう。もし緋勇君が来てくれなかったら、私……」
「いいよ、それ以上は言わなくていい」
今日のような出来事は忘れてしまうに限る。
それには口に出さず、考えもしないのが一番だ。
ぎこちなく説得する龍麻に葵は頷いたが、夜でなければ、龍麻の表情に少し嘘を感じたかもしれない。
実は龍麻の方にも、今日のことを忘れて欲しい理由があったのだ。
なぜ、あんなに早く人気のない旧校舎に駆けつけられたのか。
もうほとんどの生徒が下校している時間に教室に残っていて、
たまたまそこから葵を見つけ、佐久間に危険を感じて走った。
説明としては筋が通っているし、嘘偽りはない。
だが、都合が良すぎるのも確かだ。
龍麻としては真実を説明するしかなく、その真実を信用してもらえなかったら、
もしも葵にほんの欠片でも疑念が残ってしまったら、
それだけで龍麻はやりきれない気持ちになってしまう。
無視されても、疎まれても意には介しないが、蔑まれるのは嫌だった。
「……それじゃ、また学校で。さようなら、緋勇君」
「ああ、それじゃ」
葵は最後に微笑未満の表情をひらめかせると、小さく頭を下げ、小走りで去っていった。
彼女の去っていった方をしばらく見送っていた龍麻も、やがて踵を返して歩きだす。
途端に全身を、佐久間にやられた痛みが襲いはじめた。
「……っ」
無理して歩こうとしてよろけてしまい、龍麻は苦笑する。
気が抜けた途端にこのざまとは、『黄龍の器』とやらもとんだ秘密兵器だった。
たかが佐久間一人倒せないで、どうやって東京を滅ぼすのか。
自嘲気味に叱咤しながら足を引きずる龍麻の脳裏に、今しがたの葵の笑顔が切れかけの電灯のように瞬いた。
笑顔と言うには程遠い、口の端をひきつらせた、怯えが残る表情。
それでも、龍麻にとっては充分な報酬だった。
それどころかその表情を思い浮かべると、佐久間から受けた痛みとは別の苦痛が心臓を襲う。
もともと期待していなかったものを思いがけず受け取ったから、動転しているだけだ。
自分にそう言い聞かせ、龍麻は呼吸を落ちつかせる。
まだ夏が残る温い空気は、一度吸っただけでは量が足りず、立ち止まって深く吸いなおした。
だが、限界まで吸ったところで息を止め、何事か思った後に吐きだした息は、
吸った量よりもわずかに少なかった。
全て吐きだしてしまうと、今日の記憶も全て、一緒に吐いてしまうような気がしたのだ。
愚にもつかない考えだと笑い、むせる。
けれども押さえた胸の内側には、確かに記憶の欠片が残っていた。
いずれ、消え去るものだとしても――その時までは、残しておきたい。
ささやかに願う龍麻の足取りは、いつしか軽くなっていた。
闇の中には何もなく、誰もいない。
旧校舎で目ざめた佐久間は、己が全てを失ったことを知った。
屈辱が怒りを上回り、常のように当たり散らすこともせず、ふらつく足取りで学校を出た。
ほとんど無意識であてもなくさ迷い歩いていた佐久間の目蓋に、やがて光が刺さる。
常の習慣を身体が覚えていたのか、佐久間は歌舞伎町へと来ていた。
だが、敗れ去った男には、歌舞伎町のきらびやかな灯りも、
そこかしこで弾ける嬌声の泡も、傷口に塗りこまれる塩でしかなかった。
もう学校には戻れない。家にも。
佐久間猪三という凶暴を構成していたものはただ一人の男によって粉々に粉砕され、
明日からは畏怖に代わって嘲笑と侮蔑が浴びせられることになるだろう。
さらに美里葵が被害届を出していれば、警察にも追われる身となりかねない。
「畜生ッ……!! 畜生、畜生ッッ……!!」
呪詛を放ちながら迷う佐久間を、通行人が気味悪げに避ける。
普段ならそういった周りの怯えも小気味よく受容できただろうが、
今は全て、みすぼらしい狂犬になど関わりたくないのだという僻みに感じ、それは完全に事実だった。
叫び、殴り、手当たり次第に犯したい。
それらの欲望を、だが、実行に移せないほど、佐久間は打ちのめされていた。
真神にはもう居られない。
だが。
美里葵、あの女だけは。
渇望が佐久間を支配する。
あの女だけは手に入れなければならない。
異様な執着が佐久間を支配し、あらゆる負の感情が執着という芯に結合し、融解し、増殖する。
それらはすでに佐久間という器に収まりきらないほど膨れ、破裂の時を待つばかりとなっていた。
歌舞伎町の、常夜の灯も届かない奥に佐久間は入りこんでいく。
ゆえにその瞳が狂気に彩られていくのを見た者は、誰一人としていなかった。