「さあ、始めましょうか」
上に跨ったマリアが告げる。
目を閉じた龍麻は、自分でも判らないくらい小さく頷いた。
繰りかえされる夜毎の儀式。
彼女にとっては食事であり、同時に調理でもあるこの儀式を、
龍麻は彼女の虜囚となった日から受けいれていたが、半年以上経った今でも慣れることはなかった。
マリアの手が胸をまさぐる。
白い指先が一箇所に留まることはなく、龍麻の身体を蜜を求める蝶のようにあちこちさ迷う。
十八歳の男として健全な肉体を備える龍麻は、刺激に応じようとする己に、全力で制動をかけた。
それは勝ち目のない戦いであり、せいぜい数秒の自己満足を得られるだけの無駄な抵抗でしかない。
それでも龍麻は、抗うしかなかった。
囚われの身だから自由を奪われるのは仕方がないとしても、
マリアはおそらくは意図的に身体を寄せていて、
龍麻がほんの少しでも身じろぎすれば成熟した女の肉体に触れてしまう。
年頃の男であればむしろ歓喜すべき状況でも、男女関係においては古風な考えを持つ龍麻としては、
容易に身動きするわけにはいかず、寸法違いの棺桶に押しこめられたようにじっとしているしかない。
マリアの目的は首筋から血を吸うことにあるのだから、その間だけ耐えれば良いのだ。
そう決心して全身を鋼鉄と化す龍麻なのだが、闇に住まざるものの宿命として、
灯りがない場所では極端に認識力が低下してしまうため、
マリアが毎晩、数秒ずつ跨っている時間を延ばしていることにまでは気づいていない。
初めの頃は首筋を差しだすだけで良かったのに、いつのまにか男の矜持を試されるような毎夜を
凌ぐのに精一杯で、ともすればふらふらと漂ってしまいそうになる理性を繋ぎとめなければならなかったからだ。
「……」
闇の中で、紅い唇が笑った。
実際には、東京の灯をほぼ完全に遮断するこの部屋では、肌が触れるほどの距離にいる相手の顔でも、
その表情をうかがうことはできない。
けれども龍麻は視覚によらない何かで彼女が薄く笑っているのを捉え、そしてそれは事実だった。
だが、ほとんど超能力に近いその感覚を誇るでもなく、龍麻はいよいよ今日も始まるのだ、と身を固くする。
ほどなく、かすかな衣擦れの音と共に、マリアの手がパジャマの襟に触れた。
形を整えるように滑ってきた指は、襟の合わせにまで辿りつくと、そこから下に移動を始める。
きちんと留めたボタンをわずかな動きだけで巧みに外し、
生じた隙間から手首までを服の内側に潜りこませる手際は呆れるほど鮮やかで、龍麻に抵抗する隙を与えない。
ほのかに冷たい掌は皮膚を刺激し、意思とは無関係に肉体の反応を促す。
龍麻はあらかじめ唇を固く引き結んでいたが、いつになく繊細な指の動きに心許なさを覚え、
やや強めに噛みなおした。
これが龍麻を辟易させるもう一つの行為で、マリアは龍麻の首筋に牙を立てる前に、
じっくりと肉体を撫でまわすのだ。
マリアに言わせれば、興奮で血液の温度が高くなるとより美味になるということだが、
通常の人間である真偽の程はもちろん確かめようがない。
確かなのはマリアの冷ややかな手で触れられると、ほとんど瞬間的に身体が火照りを覚えるということで、
つまり、マリアが執拗なくらいに愛撫をする必要などないのだが、
そう告げるのも恥ずかしく、また、告げたところでマリアは止めたりはしないということも判りきっているので、
結局龍麻は弄ばれるままになるしかなかった。
だが、以前の、背を向けた状態でまさぐられるのなら耐えられたものも、
最近になってマリアはどのような心変わりか、龍麻の正面――上に跨るようになった。
マリアのような、スタイルが極まっている女性に正面から密着されて理性を保つのは、
同世代の男性と較べても異常なほどに欲望を抑えられる龍麻であってもはなはだ困難なことだ。
ましてマリアはその外見からは想像もつかない年月を生きる人ならざるもので、
彼女が蓄えてきた経験は数世代以上にのぼるはずだ。
対して龍麻はこれまでまともに女性と交際もしたことがないような奥手で、
寝室での駆け引きなど、そんなものが存在するということすら知らないありさまだ。
となれば必然、マリアを少しでも知る男ならほぼ全員が訝かるに違いない、
ここまでお膳立てを整えられて頑なに拒むという意地を貫くなら、
体も心も人ならざるものに変じさせる他に手はなかった。
「フフ……」
奥歯を噛みしめる龍麻を、マリアは余裕の表情で眺める。
籠城は援軍が来ることが前提の戦法であって、孤立無援で行っても飢え死にするだけだ。
トレーナーの裾に手を忍ばせ、そこから特に鍛えてもいないくせに引き締まった腹を撫で、
マリアは哀れな獲物の前髪を掻きあげた。
「……」
半年近くも寝食を共にすれば、どのような責めに弱いかなど把握できる。
この若いオスは微弱な、羽毛で撫でるような愛撫が好みで、
特に首筋に軽く息を吹きかけてやると喉が渇望にうごめくのだ。
当人は我慢しているつもりだろうが、夜目の効くマリアには、
込みあげる呼気を吐きだすまいと必死に堪える唇まではっきりと見えた。
彼に語った血は温かい方が美味である、というのは嘘ではない。
吸血鬼の多くが反対の性別の人間を獲物として狙うのは、この理由が占めるところが大きいのだ。
温度の上がった血液が喉を落ちていくとき、マリア達は深い悦びに酔いしれる。
それは純粋に血の美味によるものではあるが、種族は違えど異性を虜にする、という点でも気分がよいのは確かだ。
まして龍麻のような、若いくせに求道者さながらに禁欲を己に課す人間を、
理性と本能の狭間で葛藤させるのは、あらゆる種類の悦びとなるのだった。
しかしマリアは、彼が煩悩に耐えきれず、一線を越えてきたとしても、
誘惑の蝶のように鱗粉だけを撒いて逃げるつもりはない。
彼が望むのなら快楽を――それも、至上に近い悦楽を――与えるにやぶさかではなかった。
マリアは決して快楽主義者というわけではないが、
目的を達するまでは全ての欲を断つというほどストイックでもない。
今までにそういう経験はないが、血ですら普通の人間とは異なる『黄龍の器』であるから、
もしかしたらセックスでも普通とは違った快楽をえられる可能性はあり、
試すだけは試してみても良いのではないか。
けれども龍麻は、今日も断崖を飛ぼうとはせずに引き返した。
彼の心は一体何で編まれているのか、これほどの誘惑を受けながら、
なおマリアを拒み、欲望という名の重りも破れることなく耐えきっていた。
彼の熱が冷めていくのを彼の肉体の外と内の双方から感じたマリアの心に、またひとすくい、微量の落胆が積もる。
苛立ちという形は取らないはずのそれを、わずらわしげに頭を振って隅に追いやり、
マリアは龍麻から唇を離した。
行為は終わり、あとは人にも、人ならざるものにも等しい時間が待つだけだ。
突きたてた牙を引き抜き、マリアは彼の上から降りようとする。
すると珍しいことに、ためらいがちに龍麻が訊ねてきた。
「何か、準備みたいなものは必要ないんですか?」
「準備?」
「『黄龍の器』を解放させるための儀式とか、そういうのがあるんじゃないかって」
闇の中でもマリアが眉をひそめるのがはっきりと判って、龍麻の頬は熱くなる。
かねてからの疑問ではあったが、もう少し訊くタイミングがあったのではないか、といまさらながらに後悔した。
これではまるで――マリアを引き留めたいがために質問をひねりだしたみたいではないか。
おそらくは吸血の前に身体を触られたことと、吸血そのもののせいで昂ぶっているのだろう。
そう自分に言い訳をしてみても、うかつなことを口走ってしまった事実は消せず、
龍麻は狼狽を悟られないように、緩めた緊張をまた引き締めるしかない。
頬が赤くなっているのを気づかれなければよいが、と願ってはみたものの、
おそらくは人間より吸血鬼の方が夜目が効くはずで、はかない望みははかないままに終わりそうだった。
ややあって小刻みに揺れた彼女の身体は、おそらく笑っていたのだろうから。
「そうね、そういえば忘れていたわ」
「あるんですか?」
「ええ」
そんな話はこの半年間、一度も聞いたことがなかった。
ゆえに思いがけない返事が返ってきても、龍麻は半信半疑の姿勢を崩さないつもりだったのだが、
低く抑制された、暗路の道標のような囁きについ引きこまれてしまう。
「『刻』を迎えるときまでに、『器』は清められていなければならない」
「……はい」
「だから、これから『刻』が来るまで、ワタシがアナタを清めてあげるわ」
「……具体的には何をするんですか?」
この時すでに龍麻は、マリアを押しのけようかと本気で考えている。
一瞬でも気を許したのが間違いで、彼女とはやはり相容れないのだ。
そう思いながら龍麻は、額に触れる彼女の手の冷たさに気を取られる。
冷たいのは、彼女が吸血鬼だからなのか――それとも、自分の体温が上がっているからなのか。
確かめる術もないまま、龍麻は触れそうに近づくマリアの顔から、一ミリでも離れようと顔をそむける。
無防備になった耳こそが、マリアの狙いだとは気づかぬままに。
「アナタのカラダをワタシが洗うのよ」
「自分でやります」
「フフ、ダメよ。独りではカラダの隅々まで洗えないでしょう?」
「洗えますよ」
「どうかしら、確かめてあげる」
言うなりマリアは顔を寄せ、耳の裏側を舐める。
不意をつかれてなにやら色々なモノがいちどきに頭の中で弾けた龍麻は、
身体を反転させてうずくまろうとしたが、直上にマリアが居ては反転どころか身動きさえできない。
叫びそうになった口を無理やりに閉じるのがやっとだった。
「やっぱり洗えていないわね」
「あッ、明日から洗いますから」
「そう……それなら明日の夜、またチェックするわね」
完敗の態で龍麻は布団を被りなおして目を閉じる。
幸いなことにマリアは追い打ちをかけてはこず、彼女の気配は離れていった。
それでも、殿を引き受けた心臓はなかなか鳴りやまない。
明日からは徹底的に身体を洗うようにしなければ。
そう固く決心する龍麻が寝入ったのは、マリアが離れてから一時間以上も経ってからで、
その間彼の動揺を気配で読んだマリアが笑いをこらえているのには、遂に気づかないままだった。
佐久間猪三は、あの日以来学校に姿を見せなくなっていた。
同級生をレイプしようとした男と同じ空気を吸うなど龍麻には耐えられなかったから、
あの男が来なくなったのは喜ぶべきことではある。
ただ、春先からずっと絡まれていた煩わしさを解消する機会を失ったわけで、
次回はどんな些細なトラブルであっても許さず、完膚無きまでに叩きのめすつもりであったから、
その点では物足りなくもあった。
もう一方の当事者である美里葵は、純潔を穢されそうになった事実を、少なくとも表には一切出さなかった。
教師や警察に被害を届けることもなく、毎日龍麻の隣の席に座り、授業を受けている。
休み時間などにそれとなく龍麻も聞き耳を立ててはみたが、
どんなささいな綻びも彼女の言動には見られなかった。
彼らの虎である佐久間が居なくなった理由を知る由もない佐久間の子分たちは、
威を借りることもできず、また、彼らの仲間の一人が長期入院していることもあって、
ここのところはおとなしくしていた。
まれに他の生徒と小競り合いめいたものが発生しているようだが、そのあたりのことにまで龍麻は関知しない。
葵を救けたのも異例なのだと自分では思っているのだ。
あと、二ヶ月と少し――それだけの刻が経てば、東京は混沌に包まれる。
むろんこのクラスに居る人間も大半が巻きこまれるはずで、そこで生き残ったとしても、
待ち受けているのは過酷な、死んでいた方がましだったと思える世界に違いない。
多少の悲劇など、もはや問題ではないのだ。
その混沌、多くの人間は望まない世界を生みだす代償として、龍麻は最初にその身を捧げることになっている。
だからといって許されるわけではないが、マリアの手による復讐の、第一犠牲者となる覚悟はできていた。
――覚悟、というのは正確ではないかもしれない。
まだ二十歳にも満たない年齢の龍麻は、他の同年齢の誰に聞いても、
ほぼ全てが少なくとも死にたくはないと考えているのに対し、すでにこの世界で生きることを半ば放棄していた。
自ら命を絶つほどではなくても、きっかけがあれば死を迎えいれることを望んでいたのだ。
この東京の、そしてこのクラスの同級生たちは、いわば龍麻の死の巻き添えを食うことになる。
彼らに悪いと思う気持ちはあっても、マリアを止めようとは思わなかった。
同族を皆殺しにされた彼女の復讐心を和らげることができる人間がいたら、
その時は彼女に従うが、そんな人間がいるとも思えない。
そもそも、加害者が被害者に良心を求めるなど、おこがましいにも程があるではないか。
龍麻は人ならざる力をその身に宿していても、分類上は紛れもなく人間であり、加害者の側なのだ。
彼女を止める権利があるとは、とうてい思えなかった。
今日もつつがなく一日の三分の一が過ぎる。
学生である龍麻にとっては授業が終わるという意味で、
若いエネルギーを一気に、そして無秩序に爆発させる同級生たちを尻目に、淡々と帰る支度をしていた。
一日が終わる、ということは別の終わりに近づくということだが、真神學園の中にそれを知る者は三人しかいない。
そのうちの二人は終わりを始める側に立っており、残る一人も、二人を妨害しようとは、今のところしていなかった。
誰とも一言も交わさずに、龍麻は教室を出る。
するとタイミングの悪いことに、隣の教室から出てきた犬神と鉢合わせしてしまった。
「……」
犬神は無言で龍麻よりもごくわずかに高い位置から見下ろす。
その眼差しは鈍く、龍麻が会釈して小走りで駆けても何も言わなかったが、
その眼光は充分、龍麻に対しての圧力となった。
彼こそがこの学校でマリアの計画を知る三人目である、犬神壮人だった。
真神で生物教師に就いている彼もまたマリアと同じ闇の眷属であり、
その正体は人狼と呼ばれる伝説上の存在だった。
なぜ彼が教師などに身をやつしているのかは、マリアも知らないという。
だが彼らも吸血鬼同様人に滅ぼされた種族であり、人間を恨んでいないはずがない、
というのがマリアの推測で、だからその刻が来ればもう一度説得を試みて、それでも逆らうのなら殺す。
それまでは放っておくと彼女は言った。
彼女の方針を是とする龍麻だが、その点については異論があった。
龍麻の見るところ、常に白衣と着古しのシャツをまとい、煙草を咥えている彼は、
確かに生徒から好かれてはいないようではあるが、すっかり人類社会に馴染んでいるように見える。
復讐心を胸に秘めるマリアも、教師として非の打ち所はないのだから、
彼も巧みに潜伏しているだけなのかもしれない。
それでも、龍麻はマリアほど楽観視しておらず、その刻が来ても、彼が協力するとは思えないのだ。
彼女を、止めて欲しい――
そう語ったときの犬神の眼光を、龍麻は忘れられない。
敵、というより牡すべてを威圧する、まさしく狼の眼を。
あんな眼で大破壊を止めさせようとする男が、どうして自分たちに与するというのか。
犬神が協力しないだろうというのは、龍麻にとって確信に近かった。
そして彼のことを考えるとき、なぜか憎しみとは別種の苛立ちを感じてしまう理由を、
どうしてもつきとめることができないのだった。
犬神から逃れるように階段を下りた龍麻は、苛立ちを抱えたまま下駄箱を開ける。
すると中に、一通の手紙が入っていた。
怪訝な顔で靴より先に手紙を取りだすと、手紙の両面を眺め、陽に透かしたりしてみる。
純白の封筒には宛名も差出人も書かれておらず、靴を履きつつ疑念を一層強めた龍麻は、
歩きながら中身を確かめることにした。
校門を出たところで封を開け、中身を取りだす。
文章よりも先に差出人を確かめたのは、龍麻が全くそういったものを受け取る心当たりがなかったからだが、
便せん一枚にしたためられた内容は、健全な男子高校生であるならば、
夢見ながらもまずお目にかかることはないものだった。
最も可能性が高いのは佐久間からの果たし合い状だと思っていた龍麻は、
差出人の名前を見て、思わず眼を瞠った。
手紙は美里葵からのものだった。
救けてくれた礼と、話したいことがあるので、今日の午後五時三十分に新宿中央公園に来て欲しいとある。
丁寧な字で短く書かれた文章を、二度読み返す。
通り過ぎていく学生の小さな舌打ちに、立ち止まってしまっていたことに気づき、
慌てて邪魔にならないところまで移動した。
そこで呼吸を落ちつかせつつ、もう一度手紙に眼を通す。
内容を完全に理解しおえた時、龍麻の感情はうねり、膨れ、そして絡まっていた。
こんなに幾つもの感情が同時に芽生えるのは初めての経験で、龍麻は顔の下半分を右手で掴む。
自分が今どのような顔をしているのか、全く見当もつかなかったのだ。
どうやって心を落ちつかせたらよいか困惑する龍麻は、あえて否定的な思考から手綱を引く。
学校に呼びだせばいいものを、なぜわざわざ別の場所に呼びだすのか。
もっとも、その考えはすぐに否定された。
彼女はついこの間まで生徒会長で、休み時間にも彼女を頼ってくる生徒がいたし、
放課後も様々に活動をしていたようだ。
そんな彼女は当然有名人だろうから、学校内では落ちついて話もできないのかもしれない。
だとすれば、待ち合わせに校外を指定するのもやむなしといったところだろう。
まして、彼女が呼びだした理由が、龍麻の想像するとおりのものならば。
実のところ、他に思いつく理由などなかった。
龍麻は自惚れる性をもっておらず、自分が女性に人気があると考えたこともない。
異性に好意を抱いたことは何度かあっても、それが交際にまで至ったことはなく、
その経験の乏しさからすれば、ごく当然に導ける自己分析だ。
だからマリアが夜な夜な弄ぶのも、猫が捕まえた鼠をなぶり殺して遊ぶようなもので、
男女の感情などではないと確信している。
だが、手紙の文面は、そんな龍麻でさえ勘違いしようのないほど明瞭に、
それを読む者への想いを伝えていた。
彼女は先日の佐久間の件しか知らないはずで、
龍麻は桜井小蒔が嵯峨野の件を漏らしたのではないかと邪推してしまう。
それほどに葵は自らの気持ちを切々と訴えており、それは龍麻に、困惑よりも喜びを与えた。
なにしろ美里葵は誰もが認める美しい少女で、転校当初から人付き合いを断つつもりだった龍麻でさえ、
束の間ではあるが見とれてしまったほどだ。
性格にも危なげなところはなく、休み時間、友人たちの相談に、
公私にわたって乗ってやっているのを龍麻も何度も聞いている。
彼女に恋人が居ないのは、釣りあう男が居ないからだという話にもうなずいてしまうくらい、
欠点らしい欠点の見あたらない彼女に好かれるというのは、
たとえそれが偶然、しかも半ばは意趣返しであり彼女のためではない行動の結果であっても、
嬉しくないわけがなかった。
事情がなければ、一も二もなく彼女に応えただろう。
再び手紙を読み返した龍麻は、そこに自分の名前が記されているのを見てため息をつく。
葵の告白を受けいれるわけにはいかない立場だったが、
面と向かって断るのは、非常な難題であると想像できてしまったからだ。
手紙は一方的に呼びだしているものだから、行かない、という意思表示もできる。
けれどもそれはあまりにも失礼に思え、断るにしてもやはり直接会って告げるべきだった。
手紙を折りたたみ、封筒にしまった龍麻は、やや考えて時計を見る。
指定の時間まではまだ一時間半以上あった。
他の、たとえば買い物などで時間を潰す気にはなれず、かといって一度家に帰る気にもなれず、
しばらくこの辺りを歩き回ることで時間を調整することにした。
朝から暗かった空は、すっかり灰色になっていた。
雨が降るのも時間の問題と思われて、傘を持ってこなかった龍麻はどうすべきか悩んでいる。
買うのはもったいないような気がするし、葵の前にびしょ濡れで現れるのも格好悪い。
自分の生命に関して即断即決した男とは思えないほど優柔不断に迷い続けた挙句、結局傘は買わずに行くことにした。
これから彼女にする仕打ちに対して全く釣り合いは取れていないが、
風邪を引くくらいは甘んじて受けいれるべきだと考えたのだ。
二分に一度くらい見ている時計は、ようやく呼び出しの時間まであと三十分というところまで来た。
これくらいの時間なら、そろそろ公園に向かっても良いだろう。
できるなら、雨が降る前に終えてしまいたい。
そんなことを考えつつ、龍麻は新宿中央公園に足を向けた。
一方、五時の少し前の時刻。
美里葵はすでに、新宿中央公園の中にいた。
空を見上げ、雨が降る前に彼が来てくれれば良いがと祈る。
天気で告白の成否が変わりなどしないといっても、雨の降る中で告白というのは、
いかにも悲恋を予想させて、できれば避けたいところだった。
やっぱり明日にした方が良かったかしら、と考え、
そうやって伸ばし伸ばしにした結果が、手紙を書こうと決断してから三週間、
実際に書いてからは一週間以上も経った今日の呼びだしだった。
彼は来てくれるだろうか。
生まれて初めての異性への告白を、葵は親友である桜井小蒔にも告げていない。
彼が、何か理由があるにしてもクラスに溶けこもうとしないのは事実だったし、
小蒔も、彼を悪くこそ言いはしないものの、他の男子生徒に接するのとは明らかに異なる、
稀に目が合っても困惑して逸らしてしまうといった対応をしていた。
葵も、席が隣とあって一学期の頃は話しかけたりもしてみたが、
なにしろ世界を敵に回しているかのように彼は他人に対して背を向け、最低限の交わりしかしようとしない。
やがて葵も干渉を諦め、「その他大勢」の中に彼を置くことにした。
その関係が急激な変化を遂げたのは、二学期が始まってしばらくした頃だ。
葵にとっては思いだしたくもない悪夢の日。
こともあろうに学校内で葵は、悪い意味でその他大勢ではない同級生の佐久間猪三に襲われ、
貞操を奪われそうになった。
旧校舎に強引に連れこまれ、為すすべもなく犯されようとするその時、
彼は現れ、佐久間を追い払ってくれた。
いつものように無口で、関心などないように見えて、けれども落ちつくまでずっと傍にいてくれた彼。
あの日以後も会話らしい会話など交わしていないが、葵は朝や休み時間のふとした折に、
それまでよりもずっと多く彼を見ている自分に気づいた。
それはもしかしたら、恋心などではない、安直な気持ちなのかもしれない。
けれども彼ともっと話をしたいという心に偽りはなく、
いつも外を見ている彼の顔を見たいという気持ちは本当だった。
これまでの彼の態度からしても、告白が成就する可能性は高くないだろう。
それでも、どうしてそんな態度を取るのか聞かせてもらえるくらいはできたら。
これまでのどんな男性にも抱いたことのない気持ちを、葵は手紙に託した。
同じクラスなのだから直接校舎裏で告白する方法も考えたが、
彼の顔を見てまともに想いが伝えられるかどうか、はなはだ自信がなかったのだ。
便せんを買い直す羽目になったくらい書いては破り、破いては書き、
ようやく書きあげてからもどうやって渡すか考えてはためらい、
ためらっては考えているうちに月日ははや一ヶ月近くが過ぎてしまった。
遂に決心し、昼の休み時間に彼の下駄箱に手紙を忍ばせたのが今日で、
渡すことだけを考えていたあまり、天気にまで気が回らなかった葵だった。
何度目か、時計に目をやった葵は、再び空を見上げる。
空はいよいよ暗く、いつ最初の雨滴が落ちてきてもおかしくなかった。
結果を怖れるように空から地上に、葵は視線を転じる。
曇り模様のせいで気温もやや肌寒さを感じ、そのためか、人の影も少ない。
人が少ないのは葵にとって好都合のはずだが、薄暗い今日の公園はどことない不気味さを感じさせた。
早く、来てほしい――
雨が降りだしてしまえば、きっとこの恋は叶わないだろうから。
自分で否定したジンクスを信じてしまいかけているのは、不安になっているからだろう。
どちらの結果になるとしても、今のこの不安定な状態からは早く抜けだしてしまいたい。
そう願い、辺りを見渡した葵の視界の端に、何かが映った。
彼だろうか。
とくん、と心臓を鳴らした期待は、しかし一瞬で打ち払われる。
葵がこの場所に立つきっかけを作り、そして、こんな場所にいるはずのない人間。
葵は無用に冷酷な人間では決してなかったが、その彼女が、意識して忘れようとしていた人間がそこにいた。
「……!!」
恐怖が心を漂泊する。
そして心が現実に影響を及ぼしたかのように、世界は黒と白に変貌していった。
嫌、来ないで。
誰か、助けて。
鞄が手を離れ、落ちたのにも気づかず葵は後ずさる。
手の甲に、雨粒の最初の一滴が当たった。
その冷たさを全身に感じたとき、葵の意識は消え失せていった。
鈍い地響き音を立てて、何者かが近づいてくる。
足音だけでさえ禍々しさを予感させるそれは、倒れた葵の前で立ち止まると、
耳元まで裂けた口に下卑た笑みを固定させた。
葵の前に現れたのは、佐久間猪三だった。
といっても、そうであり、そうではない。
顔の造作に面影を残すのみで、彼を知る者でなければ、
そもそも人間であったことすら判別できない異形が葵を姦しようとしていた。
その場に倒れた葵の髪を掴み、引きずっていく。
真っ白の制服に、その制服も恥じいるほどの白い肌が、たちまち泥に汚れていったが、
佐久間――佐久間であったモノは意に介せず葵の足を開かせ、ストッキングを引きちぎった。
葵の足の二回り以上も太い腕は下着ごと一気に裂き、女性の最も大切な部分を露わにする。
劣情の涎を醜くしたたらせた化け物は、葵の上にのしかかった。
女を奪うとき、男が居れば見せつけながら犯すのが佐久間の流儀だった。
力が、頭の良さや金や権力などといった小賢しいものではない、
純粋な暴力が足りないがゆえに牝を奪われるのだという屈辱を惨めな牡に教えこみ、
その絶望を奪い取った女の膣内に注いでやるのが、佐久間にとって最高の快楽だったのだ。
その流儀に従えば、龍麻を地に這いつくばらせて、その眼前で葵を犯してこそ、
これまで味わったことのない絶頂を得られるだろう。
だが、龍麻に敗れた佐久間は、信奉する暴力さえ一度捨て、確実に葵を犯す方途を選んだ。
それほどまでに佐久間は、葵を手に入れるという妄執に取りつかれていた。
学校を捨て、家を捨て、佐久間は彷徨う。
それは、何の意味もない彷徨だった。
恥を知るならば、誰も知る者がいない土地にまで逃げる。
未練がないならば、どこへなりとも旅し、流れればいい。
しかし佐久間にはそのどちらもなく、
緋勇龍麻を憎みながらもきらびやかな街の灯から離れられないという佞悪と、
美里葵を姦したいという醜穢とに両足を縛りつけられ、
闇雲に会社員を襲い、金銭を巻きあげ、刹那の欲望に耽ったあと、
より大きな渇望に身を灼かれるのみの、ただ堕落するだけの時間を過ごすだけだった。
美里葵を犯さなければ。
緋勇龍麻を殺さなければ。
渇望が癒されないことを、佐久間は思い知らされた。
ならば、手に入れるしかない。
女を犯し、男を殺し、己が飢えを満たすのだ。
どれほどいびつで歪みきっていても、それは信念だった。
信念は人に気力を与え、希望を与える。
佐久間とて例外ではなく、散漫だった欲望が美里葵と緋勇龍麻という二点に凝集された時、
信念と結びついて方向性をえたそれは一気に膨張した。
絶望、憤怒、欲望、自棄、鬱憤、劣情。
佐久間の裡にあるそれら負の意識すべてが、膨張した信念に吸着していく。
そして当人ですら御しえないほどになったとき、佐久間は人ではなくなっていた。
まず心が、次いで肉体が。
その事実を知らぬ佐久間は、彼を見た人々が悲鳴をあげ、逃げ惑っても、
自分に怖れをなしているとしか思わなかった。
逃げ遅れた人間の頭を吹き飛ばし、その血肉を喰らうようになっても、疑問など持たなかった。
だが、喰らうのに邪魔な服を力任せに引き裂き、そこに双つの柔らかそうな膨らみを見て佐久間は思いだす。
ミサトアオイ。
ほとんど溶けかけた記憶の、最後の片隅にその名を思いだした佐久間は、
彼女を捜して新宿の街を彷徨した。
男を殺して喰らい、女を犯して喰らい、闇に紛れてかつて人間だった時に根城にしていた地域を徘徊する。
そして、遂に見つけた――
佐久間は、佐久間であったモノは、一瞬の躊躇もなく美里葵に襲いかかった。
姿を見ただけで気を失った葵を、茂みに引きずりこむ。
コノオンナダ。
猛った性器を葵の身体に一気に挿入した。
ツイニオレノモノニシタ。
狭隘な肉の手応えが、佐久間を満足させる。
灰色の空を見上げ、佐久間であったモノは哄笑した。
それは、獣の咆吼だった。
龍麻が新宿中央公園に着いたのは、約束の十五分まえだった。
そこから葵が指定した場所に着くまで、さらに五分を要する。
それでも時間には充分な余裕があるはずだったが、不安は的中し、
公園に着いた時にはすでにかなり降られてしまっていた。
朝の時点で雨が降る、と言っていたくらいだから、葵はきっと傘を持っているだろう。
そう確信しつつも、万が一のことを考えて龍麻は足を早める。
彼女に風邪を引かせたくない――そう理由づけすることで、公園に入って急に重くなった足を無理やり駆るように。
新宿中央公園を初めて訪れる龍麻は、葵が指定した場所を見つけるのに手間取っていた。
行けばすぐにわかるだろう、などと甘く考えていたのが災いして、
また、折からの雨で公園内に人の気配がほとんどないことから無闇に歩き回らされてしまい、
ようやくそれらしき場所に着いたのはすでに五時三十分まで十分を切っていた。
結局呼吸を整える時間もなく、龍麻は辺りを見渡す。
葵の姿は見あたらない。
彼女の為人からいって、この時間に来ていないというのは考えにくいが、
雨のために遅れているのか、あるいはどこか雨をしのげる場所にいるのかもしれない。
いずれにせよ来ない、という可能性は皆無のはずで、龍麻はとにかく約束の時間までは待ってみることにした。
雨は少しずつ足を強め、雨粒が地面に落ちる以外の音はほとんど聞こえなくなっている。
どうやら季節外れの土砂降りになりそうで、身体も徐々に冷えてきている。
歯をカタカタさせながら告白を断るのはあまりに格好が悪いので、
できればそろそろ来てくれないだろうかと、龍麻は狭まりつつある視界をもう一度確認した。
こんな雨の日に散歩に来る人間もおらず、草木も侵略する灰色に屈してしまったようで、
動くものどころか生命の気配さえ絶えてしまっていた。
こんな状況で泣かれてしまったら、途方に暮れてしまうかもしれない――
結論は出ているはずなのに、濡れた服から弱気が入りこんでくる。
どれほど弱気になっても、口にしてはいけない台詞があるのだと胸に刻んだ龍麻は、
それを徹底させるために激しく頭を振った。
長めの髪が災いして、多量の水滴が飛び散る。
きりがないそれらを、わずらわしげに髪ごと上に、そして後ろに跳ねあげたとき、突然咆吼が耳を撃った。
動物園でもなければ聞かないような、本物の獣の叫び。
しかし獣のそれよりもなぜか人の厭らしさを感じる咆吼は、
新宿中央公園という場所には全く似つかわしくないものだった。
全身に緊張を走らせて、龍麻は周囲を見渡す。
焦りと不安に視界を妨げられながらも四方を探っていると、奥の茂みに何かが落ちているのを見つけた。
息を止め、駆けよって正体を確かめる。
龍麻がずっと立っていた場所からは、ちょうど死角になる場所に落ちていたのは、一個の鞄だった。
見覚えはない――けれど、それは龍麻に連想させる。
この日、この時間、この場所に鞄があるのならば、その持ち主は一人しかいないはずだ。
そしてその持ち主は、こんな風に鞄を置きっぱなしにする人間ではない。
胸の奥から急速に何かがこみあげてくるのを抑え、龍麻は鞄に近寄る。
見ただけでは誰の物かはわからない――けれど、けれど。
雨音をも上回る音量で鳴り響く心臓を勝手に鳴らさせておき、龍麻は藪の中へと踏みこむ。
うっそうと茂る樹木は、普段なら人の立ち入る場所ではない。
だが、龍麻はそこで、居てはならないはずの人間を見た。
組み伏せられる葵に、のしかかる佐久間。
以前に見た光景が龍麻の眼前に現れる。
ほとんど闇に近かった以前とは異なり、暗くても灰色が残っている今日は、
二人の姿がよりはっきりと見えた。
だが決定的に異なるのは、葵の制服はすでに原形を留めぬほど引き裂かれていた。
彼女の両足の間に陣取った佐久間が獣の醜さで腰を振り、
対照的に葵は生命など持たぬ人形のように、暴力的な律動に身体を揺らされるがままになっている。
あってはならない光景、存在してはならない現実だった。
葵の上にのしかかっているのは、もはや人ではなかった。
醜悪な、人の尊厳を踏みにじる悪鬼。
それは比喩的な意味ではなく、龍麻の眼前に居る存在は、文字通りの鬼だった。
佐久間であった時よりも二回りほど膨れた体格に、短躯でありながらも脂肪は少なかった昔の面影はなく、
ただ脂肪が無節操に付着している。
それでいて全身から放つ狂気は、醜い暗褐色の淀みが視えるほどだった。
その悪鬼が、腰を振っている。
白と黒しかない、非現実的な光景の中で、その一箇所だけが吐き気がするような現実だった。
愛情も、快楽さえもない、ただの陵辱。
抗う力すら奪われ、嬲られる葵を、龍麻の双眸は映している。
映してはいるが、情報を脳に伝える神経が断線したらしく、どんな感情も湧いてはこず、
呼吸さえ忘れて龍麻は、自分を好いてくれた少女が犯されている姿をただ見ていた。
ごとり、と音がする。
それは圧倒的に膨大な、怒りを封じる門の閂が外れる音だった。
だがあまりに巨大なそれはいちどきに龍麻を苛むには至らず、漏れでる負の感情が先に心を痛めつける。
なぜこんな近くにいたのに気づかなかったのか。
なぜあと三十分早くこなかったのか。
なぜあの時佐久間にとどめを刺しておかなかったのか。
なぜ。
なぜ。
猛毒を孕んだそれらの叱責に、龍麻はなすすべがない。
心が完全に毒に浸かってしまっても、さらには手足にまで回ったとしても、
彼女が今受けている痛みに較べればどれほどのことがあろうか。
犯した罪を贖うように、龍麻はほとばしる負の波動に己が心身を差しだした。
立ちつくす龍麻に、佐久間が気づく。
もはや人であることさえ忘れた悪鬼は、かつて自分を倒した人間が、
限りない絶望に身を浸しているのを見た瞬間、文字通りに狂い果てた。
この男を佐久間猪三として繋ぎとめていた細い糸が弾けとび、
もう一つの未練であった葵を放りだして龍麻に向きなおる。
「ヘ……ヘヘッ、犯ってやったぜ……ッ、見たか……ッッ!!」
佐久間の叫びが轟く。
変貌した口は、すでに人間の言葉を発せなくなっていたが、佐久間には構わなかった。
緋勇龍麻と、美里葵。
まともに考えることさえできない脳にわずかに残ったモノ。
すでに佐久間は人間を、オスとメスでしか識別できなくなっていたが、この二人の顔だけは忘れなかった。
ミサトヲオカス。ソシテ、ヒユウヲコロス。
その二つの欲望だけが、今の佐久間を構成する。
ミサトヲオカシ、ヒユウヲコロシ、マタミサトヲオカス。
果てない欲望に佐久間であった存在は涎を垂らし、現れたもう一つの欲望を充たそうと声を張りあげた。
「ぶっ殺してやる……手前ェを殺して美里を俺の女にしてやるッッ!!!!」
佐久間の咆吼は、何と言っているか龍麻にはわからない。
だが、その野卑た叫びは、機能を停止していた龍麻の全神経に、一瞬にも満たない間に嚇怒を流しこんだ。
毒に浸かりきった心が命じる。
こいつを生かしてはおけない。
忌んだはずの力さえ呼び起こし、龍麻は誓った。
世界が破滅しようとなんだろうと、こいつだけは俺の手で殺す。
努めて殺していた感情が、奔流となって龍麻を衝き動かした。
すべての理性が押し流されるに任せ、龍麻もまた、一頭の獣となる。
「佐久間……ッ!!!!」
相手が化け物であっても、怯みなどしない。
怒りが荒れ狂い、闘争心が支配する全身に、怯懦などひとかけらさえ残ってはいなかった。
全身を弾丸と化し、佐久間を貫かんと突進した。
「ガァァァッッ!!」
龍麻の突進を正面から受けた佐久間は共にもつれて倒れる。
それは以前行われた旧校舎での二人の戦いを、攻守を替えて再現したものであったが、
激しさにおいて比較にならなかった。
鈍い音が雨音に混じって幾度も響き、その都度どちらのものともつかぬ獣めいた叫びが重なる。
佐久間は一切の躊躇をせずに龍麻を殴り、龍麻も、持てる力の全てを使って、
目の前の存在を消滅させようと拳を奮った。
顔を殴り、腹を殴り、あらゆる部位を殴る。
死闘は苛烈さにおいて比類なく、雨すら二人を邪魔するのをためらうほどであったが、
時間においては以外と短かった。
これは二人とも技巧を競わず、ただ拳によって相手の生命を止めることだけを目的として、
ひたすらに必殺の一打を繰りだし続けたことによる。
皮膚からは血雫が弾け、肉すらも抉り、両者は生命を賭して殴りあった。
化け物へと変じた佐久間は、龍麻が『黄龍の器』たる力を解放してもなお容易には倒せなかった。
丸太のような腕は意識を幾度も刈り、尋常ならざる膂力に五体をちぎられそうになる。
だが、龍麻は負けるわけにはいかなかった。
葵の尊厳を奪った外道を、許すことなど絶対にできなかった。
佐久間の腕を抱え、身体ごとたぐり寄せて顔面に拳を叩きこむ。
反撃を受ければそれに倍する打撃を与え、仇敵を地に打ち倒す、ただそれだけを求めて全身を凶器と化した。
やがて密着していた両者の身体が離れ始める。
佐久間の肉体が、龍麻の打撃に踏みとどまることができなくなったのだ。
それに比例して反撃の量も減り、勝敗の帰趨もほぼ定まる。
優劣は当事者にもはっきりと判っていたが、龍麻の攻撃はいささかも休まるところがなかった。
よろける佐久間の身体を掴み、倒れることすら許さず殴打する。
佐久間の反撃は完全に止まり、すでに意識があるかどうかも怪しい。
異形に変じ、一回り以上大きくなった肉体の、あらゆる場所に龍麻の怒りは轟き、猛った。
「ウ……グオ……!」
佐久間に人であった時の心はもうどこにもない。
醜く化けた身体の中に存在しているのは、緋勇龍麻への憎しみと美里葵への執着、あとは獣の本能だけだ。
佐久間が本当に獣に成り果てたなら、強者にはへつらい、少なくとも逃れようと試みたかもしれない。
だが、今闘っているのが執着の片方であり、殺さなければならない相手だと命じる。
それが、佐久間の命運を定めた。
自分が殺される、という事実を、佐久間はおぼろげながら感じとっていたが、
完全に一方的に殴られていても、龍麻に対する殺意は衰えることがない。
まともに当たれば人間の頭部を一撃で破砕しかねない剛腕を振りあげ、
なお反撃に出ようとしたが、龍麻の致命的な一撃を防ぐ役割も果たしていた両腕に、
攻撃に転じるだけの力はとうに失われていた。
佐久間の――佐久間であった鬼の腕が下がり、体の中心が無防備になる。
全霊をこめた一撃を右の拳に宿した龍麻は、そこをあやまたず貫いた。
硬い肉に当たった瞬間、秘めた力を一気に解放する。
並の人間にはとても御しきれない、圧倒的な生命力の塊が、まばゆい輝きとなって公園の片隅を照らした。
「グオオオオゥッッ!!」
断末魔の咆吼は激しさを増す雨音に消される。
その雨音すら消し去らんばかりに、龍麻は己の力を解放した。
光は佐久間を包み、さらには龍麻自身をも包みこむ。
乳白色の球体はそこだけを白く塗りたくったように、中にいるはずの二人の姿を一切消し去っていた。
あれほど激しかった闘いの音も完全に止み、雨の音だけが公園内に響き渡っていた。
目撃者がいたならきっと騒ぎになっただろう超常的な現象は、一分にも満たない短い時間で収束した。
白い光はその始まりだった龍麻の拳に収斂し、ほどなく何も起きなかったかのように消えた。
龍麻の姿も光に包まれる前と同じで、大きく肩で息をしているところも変わらない。
だが、同時に光に呑みこまれた佐久間の姿は、どこにも存在しなかった。
巨体は着ていたものも含め、影も形もなくなっていて、龍麻が構えて立っているのが不自然なほどだった。
龍麻は立ち続けていた。
自分がそうして動かないでいれば、時もまた動くのを止めるのだとでもいうように。
動きを止め、息も止めて佐久間を屠った姿勢のままで凝固した。
だが、心臓の鼓動がいまいましく現実を告げる。
どれほど誠実に願っても、お前の願いなど聞きいれられないのだとあざ笑うかのように。
数分が過ぎた頃、雨粒と、それを叩きつける風から逃れようともせず、彫像と化していた龍麻の唇が動いた。
初めはわずかに、そして激情を制するように強く。
それでも怒りは尽きず、固く握りしめたままの拳が何度も震えた。
葵に対して会わせる顔などない。
たとえ絶対の神が居て、責はないと告げられたとしても、
龍麻は自分を許すことなどできなかった。
しかし、現実はなお龍麻に過酷な選択を突きつける。
せめて二度と顔を会わせたくない、と願う葵は、まだ傍らで気を失ったままだった。
この雨の中に置いていけば生命の危険すらある。
それに制服は無惨に引き裂かれてしまっており、このままでは家に帰ることもできないだろう。
解決策はすぐに思い浮かんだ。
しかしそれを実行するのは、不断の勇気が必要だった。
そして龍麻には、悩む時間さえ与えられなかった。
寒さとは別種の震えに肉体を蝕まれながら、龍麻は葵に近づき、無惨に汚れた彼女を背負った。
途端に槍のような雨が降りそそぎ、二人の身体を打ちのめす。
龍麻はよろめく足を踏みしめ、公園を出ていった。
身体にまとわりつく不快な重さに、葵は目を覚ました。
朦朧とする意識に映る天井に見覚えはなく、夢の中かと思ったほどだ。
だが、以前にも不快な夢を見たことがある葵は、すぐに違うと気がついた。
あの時は、こんな風に指先まではっきりとした不快さは感じなかった。
我思う、故に我在り――そんな風に心が肉体を形作っていたような、
記憶に残ってはいても、身体が覚えてはいないあの出来事は、なぜ始まり、なぜ終わったのか。
小蒔には勉強のしすぎだとからかわれ、保健室の教諭にも少し疲労が溜まったのだ、と言われ、
そんなものかもしれない、と再発しなかったので深く考えもしなかった唐突な悪い夢。
あれがまた始まったのか、とまだぼんやりとする視界を眺めながら考えていると、全身に痛みが走った。
やはりあの時の夢とは違う――あの時は、こんなはっきりとした痛みは感じなかったのだから。
記憶が徐々に明瞭になっていく。
新宿中央公園で龍麻を待っていたはずが、佐久間が現れ、そして――
そこまで思いだして、葵は上体を跳ね起こし、身震いした。
恐怖に震えながら身体を見下ろす。
濡れた泥まみれの制服と、膝から下にかろうじて残っているだけにすぎないストッキングが、
恐怖を固形化させていく。
自分の身体に何が起こったか、全てを思いだしてしまった。
「あぁ、あ……!!」
両腕に爪を立て、葵は咽ぶ。
あまりに巨大な絶望が肺を押し潰し、悲鳴さえあげられなかった。
均整の取れた肢体をきつく引き寄せ、圧しかかる絶望にひたすら耐える。
けれどもそれを支えるのに、葵の肩はあまりに細すぎた。
半ば狂乱に陥りかけて、葵は辺りを見渡す。
今いる場所に心当たりがなく、もしも悪夢が続いているのなら。
それは確かめるのが怖ろしい現実だったが、確かめないわけにはいかなかった。
生活感のあまりない部屋は、それほど広くもなかった。
特別きれいなわけでも、汚れているわけでもない室内に、
住人を想像させるものはただひとつを除いて見あたらなかった。
部屋の隅に、龍麻が居た。
葵に背を向け、そこだけが黒い染みになったかのように、ずぶ濡れの身体を昏くうずくまらせて。
一目見ただけで、葵は龍麻が自分と同質の哀しみを背負っているのだと判った。
葵が、自分で指定した時間より三十分早く来てしまったために起きた禍事を、
龍麻は自分の責任だと感じているのだ。
その認識は、葵が背負う絶望の、新たな重りとなった。
「緋勇……君」
葵が声をかけると、龍麻は丸めていた長身をさらに縮めた。
そのみすぼらしさは、学校で誰とも口を聞かなくても平然としている態度からは程遠く、
葵は、龍麻が本当は孤高を欲してはいないのではないかと思った。
しかし、それを確かめる術は、もうない。
龍麻と心を通わせる機会は、永遠に喪われたのだ。
その事実を痛感したとき、葵の目から初めて大粒の涙が落ちた。
「……ごめん」
壁を向いたまま、龍麻が呟く。
それが本心からの謝罪であるのは疑いようもなかったが、葵は同時に自分の想いが届かなかったことも知った。
もしも――もしも自分を好いてくれていたなら、せめて顔をこちらに向けてくれただろうから。
葵の哀しみはいや増したが、奇妙なことに、龍麻への失恋が佐久間にされた事に対する哀しみを
吸いとってしまったかのようで、二つ分の重みとはならなかった。
頭の中は相変わらず、考えるのが面倒なくらい重く、痛かったけれど、
葵はようやく自分以外のことに目を向ける余裕が生じた。
「……」
ベッドを降りた葵は、よろめく足で龍麻の許に行く。
彼の背中には不可視の針が生えていて、そうされることを望んでいなかったのが解っても、
今だけは、この瞬間だけは、そうしなければならなかった。
「救けてくれて、ありがとう」
龍麻の肩に手を置いて囁く。
口がうまく動かなくて、声が届いたか不安になったが、掌から伝わる彼の気持ちを、葵は大切に胸にしまい、
彼の広い背中に、せめて顔だけでも押しあてたい衝動に懸命に耐えた。
もしそうしてしまえば、きっと全身ですがりついてしまっただろうから。
「シャワーを浴びてきた方がいい」
小さく、事務的に告げる声に、葵は救われる思いだった。
何か指示を与えてもらわないと、何もする気になれない。
彼の肩に貼りついてしまいそうになる手を、葵は唇を噛んで剥がした。
龍麻の言葉で急に寒気がよみがえる。
こんなときにも寒気を感じる身体に疎ましさを感じながら、
葵は龍麻が濡れたままの自分をベッドに寝かせてくれたことに気づいた。
他にどうしようもなかったとしても、彼の寝る場所をしばらく使えなくしてしまい、申し訳なく思う。
そして同時に、気を失っている間も龍麻は、自分が先にシャワーを使おうとはしなかったことにも気づいた。
葵は立ちあがり、浴室へと逃げこむ。
そこでなら、思いきり泣ける――少なくとも、シャワーを出している間は。
蛇口を思いきりひねった葵はその場にうずくまり、感情を解放する。
涙はどれほど零れても、尽きることがなかった。
どれくらいの時間が過ぎたのだろうか、葵が浴室から出てくる。
壁に向かって座り、身じろぎもしていなかった龍麻は、小さな物音に大げさなほど首をすくめた。
おそるおそる振り向き、彼女の顔を見て複雑な思いに駆られる。
特に変わった様子はない――怒りや悲しみ、あるいはもっともおそれていた虚脱には陥っていないようだ。
けれども目には隠しようのない涙のあとがあり、しかもそれでいて異様な美しさを湛える表情に、
龍麻は慟哭せんばかりだった。
なぜ彼女のような人間が傷つかなければならないのか。
なぜ自分はもっと早く死を選んでおかなかったのか。
これまで、龍麻が関わった幾つかの厄災の中でも、美里葵が穢されたという事実は、最も龍麻をうちのめした。
いずれマリアと共に、彼女を含む大多数の人間を、大破壊の地獄に落とすという役割を忘れたことはない。
龍麻に裁きの天使たる資格は与えられておらず、誰が死に、誰が生きるかを選ぶことなどできないのだ。
だから、誰にも関わらないよう、マリアがもたらす運命の日までを過ごそうと決めていたというのに。
人ならざる力を持っていながら、それを有効に用いることもできず、
ただ周りの人間を不幸にするだけの自分を、龍麻は呪った。
「緋勇君……?」
底の見えない自己嫌悪に嵌っていた龍麻を、気遣わしげな葵の声が呼び戻した。
どうやら見てはいなくても眼球は彼女に向けて固定してしまっていたようで、声にはいくらか怯えも混じっている。
慌てて龍麻は目を逸らし、再び壁の方を向いた。
「あの、シャワーを……貸してくれて、ありがとう」
礼を言う必要なんてない。
叫ぼうとして龍麻は止めた。
これ以上、どんな些細なことでも彼女が傷つく必要などない。
少なくとも彼女の想いを受けとめようとしなかった男には、そんな資格など微塵もないはずだ。
意を決して、龍麻は葵の方を向いた。
そのためには精神に過大な負担を強いさせなければならなかったが、強引に突破した。
そんなものは罰ですらなく、ただ自分が嫌なだけだからだ。
葵の方こそ男など見たくもない、特に緋勇龍麻という男など、
佐久間と共に消えてしまえば良かったのにと思っているに違いなく、
さらに余計な世話によって家に連れこまれ、話したくもない男と話さなければならないというのに。
「……ごめん」
そう言おうとして、龍麻は寸前でその愚かしい言葉を封じこめた。
なんと卑怯なことを自分は言おうとしたのか。
傷ついた女を前に、これからは一生護ってやるとすら言えない男が、
よりにもよって最も口にしてはいけない語句を恥知らずにも吐きだそうとするとは。
龍麻は拳を固め、床に強く、抉りぬかんばかりに押しつけた。
龍麻が言いかけて止めてしまったので、部屋には沈黙が流れる。
重く濁った、息苦しさを感じさせる沈黙は、龍麻が振り払わなければならないものだった。
「……家まで、送っていくよ」
泥濘の中で必死でもがいた龍麻がようやく見つけだしたのは、お世辞にも上出来とは言えない台詞だった。
こんな程度のことしか言えない自分にどうしようもない羞恥を覚えつつ、おそるおそる顔を上げる。
拒まれて当然、との思いは、だが裏切られた。
「ええ……ありがとう」
笑顔でこそなかったが、葵の表情には感謝に近いものが浮かんでいた。
まだ残る恐怖に歪められていても、彼女の顔は龍麻を魅了した。
立ちあがり、龍麻は玄関に向かう。
すでに手遅れだったとしても、葵を送り届けるのは、崇高な行いであるはずだった。
死しても許されるはずのない、罪を犯したのだとしても。
雨はまだ上がってはいなかった。
葵のとなりを、すべての感覚をそばだてて歩く龍麻は、それが良かったのかどうか判らない。
ただ、夕方から少し強さを増した雨は、助けになってくれたのは確かだった。
雨音と、傘という微妙な距離がなければ、
彼女を見ることにさえ罪悪感を感じている龍麻は途方に暮れていたに違いない。
並んで歩きながら、結局一言も会話を交わさないまま、龍麻は記憶のある道にさしかかる。
その角まで行けば、葵の家はすぐのはずだ。
以前はそこで挨拶を交わして別れたのだ。
けれども、今日は経過も結果も違う。
苦い既視感を飲み下した龍麻は、葵も同じ既視感に囚われているに違いないと思うと逃げだしたくなった。
葵が先に立ち止まる。
龍麻も間を置かず立ち止まったが、背を向けたままの彼女にかける言葉はどうしても見あたらなかった。
そのまま何も言わず行ってしまってほしいとさえ思う龍麻の前で、葵が傘を畳んだ。
「……」
途端に雨が彼女に降りそそぎ、シャワーを浴びた髪を、顔を、身体を汚していく。
息を呑むばかりの龍麻に、葵はゆっくりと身体ごと向き直った。
街灯が照らす彼女の、漆黒の瞳に龍麻は圧倒され、傘を手放してしまう。
飛んでいった傘がどこか遠くで何かにぶつかる音を立てたとき、葵が静かに口を開いた。
「お願いがあるの」
「今日のことなら言わないよ、誰にも」
この状況で頼み事などひとつしかない。
葵の言いにくさを慮って先回りした龍麻の考えは、だが、違っていた。
「ううん、そうじゃなくて……お願い緋勇君、月曜日からもずっと学校に来て欲しいの。
明日も、明後日も、卒業するまで」
龍麻は呆然として葵を見た。
吹きつける雨は彼女の美しい黒髪を顔に貼りつけ、半ばを覆ってしまっている。
その姿は彼女本来の美しさからは程遠かったが、彼女の瞳から龍麻は目を離せなかった。
葵は望まぬ、そしておそらくは一生逃れることのできない重荷を背負わされながら、
なお未来を見ようとしている。
過去と、至近に迫った終わる未来だけを見据えていた龍麻は、
彼女の勁さに畏怖の思いすら抱いた。
葵の約束が意味するものを理解しなかったわけではない。
けれども、龍麻は迷わず頷いた。
「ああ、約束する。俺はこれから毎日、絶対に休まない」
たったひとつでも、彼女にしてやれることがあるのなら。
芽生えた想いは自身が望む死よりも、はるかに強い感情だった。
「ありがとう。……それじゃ、月曜日に」
葵が頭を下げる。
龍麻は彼女を抱きしめたい、抑えがたい衝動に駆られたが、彼女までの一メートルは、
もう永遠に縮まることのない距離だった。
身を翻し、小走りで角を曲がった葵を、吹きつける雨に身を晒したまま見送る。
十分ほどもそうして立ち続けていた龍麻はやがて、風雨に敢然とさからって歩きはじめた。