穏やかな陽射しが、白磁の頬を照らし出す。
冷たい、けれども快い微風に髪をそよがせ、葵は真神学園への道を一人歩いていた。
部活でもなければ登校にはまだ少し早い、そんな時間だ。
葵ももう、とうに生徒会を引退しており、こんな時間に学校に行く必要はない。
けれど葵は一年の終わりに生徒会に所属してから、ずっとこの時間に登校していた。
道すがら、同級生、あるいは下級生が次々に挨拶してくる。
しかし、穏やかな笑顔でそれに応える葵の心中は、彼らの想像と全く異なっていた。
深く、昏く、もしも覗きこんでしまったならば慄然とせずにはいられない、漆黒に近い藍。
底の見えない深奥に、何が在るのか──それを知るのは、余人には不可能なことだった。
教室にはまだ同級生の姿は少ない。
彼女達が現れるまでには三十分近くもあり、葵はこの、静謐な空気を含んだ空間が好きだった。
自分の部屋とは異なる、澄んだ冷たさは自ずと心を引き締める。
皆が登校すればいくらかは薄まってしまう、
この冷たさの中で勉強をすると能率が良いような気がして、生徒会の仕事がない時は、
わずかな時間でも予習をするのが葵の日課だった──これまでは。
自分の席についた葵は、ノートを取り出して机の上に広げた。
昨日家で行った予習の内容を確かめ、もう一度教科書と照らし合わせる。
他者が見たら、感心せずにはいられないであろう態度は、しかし、表向きでしかない。
その証拠に良く見れば、ペンを持ってはいるもののそれは全く動いておらず、
どことなくうわついてもいるようだ。
幸いなことに同級生達はそれぞれの会話に夢中で、葵に注意を払う者はいない。
払ったとしても遠目には勉強しているようにしか見えないし、近づけばその邪魔をすることになる。
これまで培ってきた美里葵という像が、自身を守る盾であることを葵は知っていた。
そしてその盾が、メッキを施されただけの、本当は脆いものであるということも。
「おはよっ」
朗らかな挨拶が聞こえた瞬間、葵が微かに肩を震わせたのを、誰が気づいただろうか。
少なくともこの教室の中の視線は、声の主の方を一斉に向いていた。
もしいたとしたら、声を発した当人──桜井小蒔だけだったろう。
「おはよ、葵」
「おはよう、小蒔」
教室の全員に挨拶をしながら、半ば投げ出すように鞄を置いた小蒔は、すぐに葵の方に寄ってきた。
快活な表情──葵とは対照的な、軽やかな笑顔。
その笑顔を見るだけで、葵の周辺の空気がざわめきだす。
「勉強してたの?」
「う、ううん、もういいの」
覗きこもうとする小蒔から隠すようにノートを閉じ、葵は立ち上がった。
少し勢いがありすぎた立ち上がり方に、小蒔が薄い笑いを浮かべる。
その笑顔が、葵はあまり好きではない。
あまり、小蒔らしくない──葵が好きな小蒔らしくないように思えるのだ。
しかし、その笑顔を教えてしまったのは、他ならぬ葵自身だ。
それどころか葵は、その笑顔を利用しようとしていたのだ。
小蒔に続いて歩く葵の頬を、自嘲が滑り落ちていく。
それは朝の陽射しを受け、わずかな陰影を残して消えていった。
まだ早い時間であり、同じ階のトイレでも、見つかる可能性はほぼ無いだろう。
それでも二人はC組の教室からは最も遠い、特殊教室のある階のトイレを選んで入った。
葵が蓋をした便座に腰を下ろすと、わずかに上の位置から小蒔が見下ろす。
教室で友人達に向けるものとは異なる、微妙に輪郭を失っている瞳。
それを見ていると、葵は血が通うのを感じる。
頬に、そして、心に。
小蒔の掌が、その熱を確かめるように触れた。
四本の指を揃え、頬のほとんど覆った小蒔の手の、親指だけが蠢く。
顔の中心、わずかに開きかけている唇の表面を、息が詰まるほどゆっくりと。
「小、蒔……」
「おはよ、葵」
二度目の挨拶は、合わさった唇ごしに交わされた。
まだ冷たい、硬さの残る口唇が、長く触れ合わせることで温もりを取り戻していく。
それが、葵は何よりも好きだった。
こうしていると、何もかもを忘れていられるから。
優等生という殻も、友人や教師達の無邪気な期待も、何も考えることなく、
心を染め上げる想いにたゆたっていられるから。
血液に混じって身体を循環する、心地良い何かに操られて小蒔の細い腰に腕を回した葵は、
舌を忍ばせ、彼女の唇を舐めた。
小蒔はそれを、何も言わず受け入れてくれた。
驚きも、拒みもせず、同じだけの欲望を葵の前に差し出してくれる。
それが葵には嬉しかった。
熱い舌の先端が触れる。
強い刺激に息が弾み、苦しくなったが、葵に止める気はない。
開けたままの口の端から唾液が伝うのを感じもしたが、
それでも葵はキスを自分から止めるつもりはなかった。
このまま小蒔が止めないのなら、一日中でもずっと──あるいは、息が止まってしまってもずっと、
最も彼女を愛おしく感じられる行為を止めるつもりはなかった。
しかし、小蒔は無情にもあっさりと顔を離してしまう。
大きく肩で息をし、口許を拭いながら、熱気から逃れるように身体ごと離れてしまった。
「朝から……ダメだよ」
まとわりつくような眼差しから意識して目を逸らしつつ、小蒔は葵を牽制した。
葵のことは好きだし、朝からこういうことをするのにも抵抗はない。
もともと始業前にこうしてひそやかにキスを交わそうと誘ったのは小蒔の方なのだ。
しかし、日を重ねるごとに、小蒔は何か、説明のできない気持ちが心の奥に、
もやのように立ちこめはじめているのを感じていた。
上手く言い表せないそれは、怖れに近いのかもしれない。
ほとんど無心に、そして貪欲に自分を求める葵。
それはとても嬉しいことのはずなのに、何故そんな気持ちを抱くのか、自分でもわからない。
秘めた想いを解き放ったからなのか、葵は積極的にとすら思えるほど従う。
今は退いたとはいえ生徒会長を務めた身であり、教師たちの中でも多分一番信頼が篤い生徒。
そんな彼女が、人の少ない時間とはいえ、学校の中で、
見つかったなら大変なことになるだろう行為に耽っている。
それどころか彼女は誘うかのように、言い出した自分以上の積極性を見せていた。
小蒔と一緒なら、どこへだって行ける──彼女自身の言葉を、実践するかのように。
そして、そんな葵から少しずつ離れられなくなりつつある自分が、
もしかしたら怖れの正体なのかもしれなかった。
キスを中断されて、葵は物悲しげな瞳をしたままだ。
彼女の額にできた、小さな皺を見た小蒔に、焔が灯る。
葵にそんな表情をさせ続けようとする、嗜虐の焔が。
葵の願いに応えるべく、彼女の左手を取った小蒔は、うやうやしく人差し指を口に含んだ。
「こっ、まき……っ」
爪先を、ぬらりとした感触が通り過ぎていく。
付け根まで辿っていく舌に合わせて、指は口の中へと消えていった。
奥まで呑みこんだところで、小蒔は弱く、一度だけ吸い上げる。
細く、美しい指を含むのは、小蒔にも恍惚を与えていた。
だが、より深く陶酔していたのは、やはり葵の方だった。
「……ぁ……」
その微弱な刺激が、足にまで伝わる。
葵は自分のものでありながら、自分のものでなくなってしまった左手をぼんやりと眺めていた。
うっすらと口を開いた小蒔は、舌先を覗かせながら唾液で染め上げた指を口から抜いていく。
痺れるような快感は、次の指へ。
小蒔は目を合わせず、ただ手だけを見つめて指を吸い上げる。
ゆえに彼女の口の中で、どれだけ淫靡に舌が蠢いているのか、葵の想像は咎められることがない。
腿の上に置いた右手でスカートの裾を掴んで、葵は与えられる恍惚に酔いしれていた。
指腹から、付け根へと辿っていく滑り。
普段は意識すらしない指の間が、こんなにも鋭敏だとは思っていなかった。
特に、中指と薬指の間が葵は最も感じる。
そこを小蒔に刺激されると、心臓に直接触れられているような感覚を抱いてしまうのだ。
小蒔の薄桃色の舌が窪みを通る度、奥に熱が溜まっていく。
薄れていく意識に、葵は少しの間身を委ねることにした。
五本の指とその間だけでなく、掌まで舐め上げた小蒔は、
湿った彼女の手に自分の右手を絡め、頭を下げていく。
ストッキングに包まれた膝にくちづけ、今度は下から葵を見上げた。
「足……もう少し開いて」
それが何を意味する命令なのか判っていても、葵に抗うことはできない。
小蒔が、自分への関心を失くしてしまったら──そう考えただけで、
葵は喉に冷たい塊を詰めこまれた気分になってしまうのだ。
求めに応じ、足を開いていく。
いくら求められていても、羞恥に抗うこともできず、肩幅程度に広げるのが精一杯だった。
キスならば、自制できる。
しかし、それ以上のことをされたら。
不安と、そして期待。
裡で揺れる二つの情動の、どちらが重いのか、葵は知っていた。
小蒔が膝の隙間に身体を割りこませ、無遠慮にスカートを捲りあげる。
「ゃっ……」
声に出してはみたものの、小蒔を止めるには至らない。
葵は既に、引き返せない道を歩んでいるのだ。
それがどのような結果になるとしても、今は往くしかなかった。
そんな葵を試すように、ちらりと見上げた小蒔は、
葵がそれ以上は拒まないのを確かめると太腿の内側に唇を触れさせる。
「っ……」
頭にスカートを乗せ、何をしているか直接は見えないのが、感覚を倍化させる。
彼女の桜色の唇を脳裏にはっきりと思い浮かべ、葵はもたらされる恍惚に身体を預けた。
キスの小さな音が、鼓動に混じって響く。
柔らかな唇でそっと内腿を食み、戯れるようにそっと押し出す。
小蒔は少しずつ身体の中心へと近づいてきている。
このままでは、彼女の頬が──
意識してしまったことで、葵は抑えが効かなくなってしまった。
淫らな滴が染み出る。
指を舐められていた時から、懸命に堪えていた感覚が、一度に噴き出してしまった。
「…………っ、は……」
呼吸が乱れ、下着がみるみる不快な湿り気を帯びていく。
これが今の自分なのだ。
学校で同性に愛撫され、はしたなくも下着を濡らし、それに悦びを感じてしまう。
皆が自分に抱いている優等生などという印象は虚像に過ぎず、
実体は快楽に溺れるあさましい女に過ぎないのだ。
自嘲の吐息を、葵は歯でせきとめる。
小蒔の興味を削ぐどのようなことも、してはならない。
小蒔は猫のように気まぐれで、瑣末な言葉が彼女の機嫌を晴天から雨へ、
あるいはその逆へと変わるのを葵は何度も見てきている。
例え全てを失おうとも、小蒔だけは失ってはならなかった。
幸いにも小蒔はまだ興味を失ってはいないようで、ストッキング越しに内腿をついばむ行為を止めない。
きっとぽつぽつと、湿疹のように痕が残っているに違いない。
家に帰るまでそれを確かめられないのが、葵には残念だった。
右足の、腿のちょうど真ん中辺りから少しずつ身体の中心へと向かう愉悦が、
いよいよひそやかな部分に触れようとしたその時、
始業を告げる鐘の音がトイレの中にまで聞こえてきた。
腹立たしい、苛立ちさえ覚えるほどの音は、無慈悲な残響を個室に運ぶ。
葵は一時間目の授業に出なくても構わないと思い、小蒔もそうであるはずだと思った。
このただれた行為は、彼女の興味を充分に惹いていると思っていたのだ。
「あ……予鈴鳴ったね。戻らないと」
しかし小蒔は残酷にも、何事もなかったかのように立ち上がり、自分一人先に個室から出てしまう。
葵はそんな彼女を恨めしげに見つめ、のろのろと立ちあがった。
中断された疼きは消えそうになく、歩くと気だるい冷たさが足の間に広がる。
このまま、授業を休んでしまおうかとすら考えた葵だったが、
「どうしたの? 行こうよ」
小蒔に呼ばれ、仕方なく教室へと戻ることにした。
下腹は、いつまでも不快な感覚を引きずったままだった。
誰も見ていないのを確かめ、葵は呼気を吐き出した。
あれから四十分ほどが過ぎており、一時限目である、マリアの英語の授業は半ばを迎えている。
的確に進んでいく授業は葵の好きな科目のひとつだったが、今日はほとんど聞いていなかった。
とりあえずペンは持っているものの、注釈を入れたりはせず、ただ左の掌をぼんやりと見ているだけだ。
葵は何故小蒔があっさりと愛撫を中断したのか、ようやく真意を悟っていた。
身体が熱い。
痛痒感にも似た疼きが、あれからずっと全身を支配している。
特に左手から、心臓を挟んだ右足の付け根までの血管が、音が聞こえるほど脈打っていた。
それは、この場では決して満たされない快感だった。
中途半端な刺激は、火に油を注ぐだけ。
理性で嫌というほど解っていても、肉体が我慢できない。
葵はどうにか欲望を逸らそうと、斜め前の二つ先に座っている小蒔に視線を向けた。
真面目に授業を受けている背中は、葵のことなど何も関心がないように見える。
実際そうだろう──授業中にまで他人のことを考えるなど、普通はない。
しかし、こんな仕打ちをしておいて、何も関心を払わないということがあるだろうか。
それは、考えてはならないことだった。
小蒔は愉しんでいる。
それがどれだけ意地の悪い考えによるものであっても、小蒔が自分のことを考えている、
その事実だけで葵は満足を得られた。
そして、その事実はくすぶっていた疼きにも火を点けてしまった。
抑えきれず、葵は人差し指を口に含む。
それでも、周りに気取られないように、節だけを軽く咥えた。
「……っ!」
背筋を走ったものに、葵は思わずペンを取り落としそうになってしまった。
小蒔が含んだ指。
小蒔の唾液が残る指。
それを含むことで、先ほどの行為が快感を伴って記憶に甦る。
マリアの声も、授業の内容も全て一瞬で忘れ、
肌に触れた小蒔の柔らかな口唇の感触だけが葵を支配した。
唇をあてがったまま、舌を伸ばし、そっと舐めてみる。
舌に広がる小蒔の味は、甘い滴となって身体の中心に落ちていった。
「っ、ふっ」
鼻息と共に、小さく声が漏れる。
教室中に響き渡ったように思え、葵は慌てて辺りを見渡したが、見ている者は誰もいなかった。
安心した葵は、狂熱がいっとき流れ去っていることに気付いた。
あれほど昂ぶっていたのが嘘のように、理性が戻っている。
ここで引きかえせば、今ならばまだ充分に間に合う。
どうしてもしたいなら、何も教室でこんな危険を冒さなくても、
朝のようにトイレや、人目につかないところですれば良いのだ。
葵は下唇を強く噛み、自らをたしなめようとした。
しかし──既に遅かった。
毒は既に、身体の中に入りこんでいたのだ。
ほんの少しだけ舐めてしまった自分の指についていた、小蒔の名残がじわりと口腔に広がっていく。
甘い、蕩けそうな味覚が喉から胃に落ちていった時、葵は再び自分の指に唇を当てていた。
今度は、薬指に。
傍目には考えこんでいるように見せながら、指の根元に舌先で触れる。
腕を伝う快感に、唇の隙間から息が漏れた。
押し当てた口の中で、微小に舌を動かす。
数十分前の記憶の中で、小蒔がそうしたように。
止まらない──
じくじくと肌を弄っていたものが、理性を脅かす。
今でさえいつ誰かに気付かれるかもしれないという状況なのに、なお淫を欲する肉体が、
もう一箇所、彼女の徴が残された右足の付け根に触れて欲しいと甘美な囁きを投げかけてくる。
それだけは、できない。
自身に拒んでみるものの、囁きはひとつ心臓が音を立てるごとに、
閉ざしたはずの理性の隙間から淫猥な触手を忍びこませてきた。
とりかえしがつかないことになる──
小蒔の感触が残っている手で触れようものなら、きっと教室の中で達してしまうだろう。
そんなことになれば、全てが終わってしまう。
判りきっているはずなのに、左手はまるで別人の意思が宿ったかのように勝手に動き、
いつのまにか机の下へと降りている。
ためらいながら、少しずつ、確実に目的の場所へ向かっている手を、
もう止める手段はないと葵は自覚していた。
生まれてからこれまで積み上げてきた虚像が、ただ一度の愚かな行為で水泡に帰してしまうのだ。
スカートの裾を摘まむ指に、葵はふと思った。
自分の身に破滅が訪れた時、小蒔はどうするだろうか。
知らぬふりをするだろうか。
他の友人と一緒に嘲笑するだろうか。
それとも──
しかし、身を焦がす魅惑的な思考は、そこで中断を余儀なくされた。
「美里サン」
「は、はいッ」
マリアに急に名を呼ばれ、葵は慌てて立ち上がった。
あまりに勢いが良かったので、スカートの裾がわずかに翻る。
見えてしまったのではないかと手で押さえた拍子に、バランスを失って小さくよろめいてしまった。
「大丈夫かしら?」
「は、はい、すみません、少し考え事をしていて」
気遣うマリアと、珍しい狼狽に対するクラス中の好奇の視線が集中する。
それらの全てがスカートの内側に抱えた秘密を知っているのだ、
と告げているような気がして、葵は教科書から顔を上げられなかった。
と言っても、どこを読めばいいのかわからない。
なにしろたった今、自分は教室で自慰に耽ろうとした身なのだ。
どうして良いか解らず困り果てていると、マリアが助けてくれた。
「182ページの6行目からだけれど……少し顔が赤いわね、保健室に行った方がいいわ」
「平気です」
「いいえ、行きなさい……あまり根を詰めて勉強してはダメよ?」
自分が優等生だと勘違いしている担任に、申し訳無くて涙が出そうになる。
それなのに、足の間の冷たさは薄れることがなかった。
まるで、もうその淫縁から逃れる術などないのだというように。
「せんせー、ボク付き添ってもいいですか?」
「……そうね、アナタは勉強した方がいいのだけれど……付き添ってあげて」
要領良く小蒔が手を挙げ、教室から抜け出る口実を作り出す。
二人の表向きの関係しか知らないマリアは、何の疑いも抱いた様子もなくそれを許可した。
「行こ、葵」
教室を出た途端、緊張の糸が切れたのか、全身から力が抜ける。
小蒔に支えられて倒れはしなかったものの、
いろいろな感情が一度に噴き出してきて、葵は涙を抑えられなかった。
「葵……?」
呼びかける小蒔にも答えず、無言で保健室に向かう。
廊下に響く足音だけが、ひどくはっきりと耳に響いていた。
保健室のベッドに腰かけ、葵は涙を拭った。
小蒔の仕打ちが酷かったから泣いたのではない。
それも少しはあるけれど、たった一時間弱で、
大切なものを全て裏切ってしまったような気がして、どうしようもなく悲しかったのだ。
「ごめんね……」
多少意地悪のつもりでやったとしても、
まさかここまでの事態になってしまうとは思っていなかったのだろう、
髪を撫でながら、心底申し訳なさそうに小蒔が謝る。
大切なものを全て裏切った後に残った、たったひとつの葵の全て。
これで彼女まで離れてしまったら、自分には本当に何も残らなくなる。
恐怖に微かな身震いをすると、葵の中で何かが弾けた。
「違うの」
「違うって……んっ」
無防備な小蒔をベッドに押し倒す。
動転している彼女の手を掴み、自分の下腹を触らせた。
小蒔の瞳が大きく見開かれる。
「葵……コレ……」
驚きを隠せない親友に、葵は陶然と口を開いた。
「私……授業中もずっと……いやらしいことばかり考えていて……
マリア先生に当てられた時も、皆が見ている……って思った瞬間、どうしようもなくなってしまって」
話している間にも、新たな雫が染みだしてくる。
既にくしゃくしゃになってしまっている下着から小蒔の指先へと、熱は伝わっただろうか。
確実に伝えるために、葵は腰を擦りつけ、手を上から抑えつけた。
潤い、柔らかくなっている部分に触れさせる。
小蒔はしばらく強張ったままだったが、やがて、ゆっくりと前後に指が動いた。
水面を掬うように溝をなぞっていく。
「葵……ごめんね。でも、ボクはずっと一緒だから」
「……!! こ……まき……!!」
望んでいたこと、望んでいた以上のこと。
葵が期待を込めた眼差しを向けると、小蒔の掌が頬に触れた。
そっと引き寄せようとする彼女に、葵は逆らわず顔を寄せる。
彼女の唇は、濡れていた──自分が零した涙によって。
冷たく、辛い涙。
けれどその透明な滴は、彼女の中に入っていた。
舌や指先では到底到達できない、彼女の身体の中心に。
頬に新たな涙を伝わせ、葵は小蒔と、深くくちづけを交わした。
位置を入れ替えた小蒔が、スカートの中に手を差し入れてくる。
「凄いね……ホントにびしょびしょだよ。これ、トイレからずっと?」
束の間ためらい、葵は頷いた。
本当は違う──授業中に小蒔を意識してからだ。
しかしトイレでの行為がきっかけになったのに変わりはなく、その差は大きなものではない。
そしてもうひとつ、葵が訂正しなかったのは、
その方が小蒔の興奮をそそるのではないかという思惑があったからだった。
「そう、なんだ。葵ってホントはすっごいエッチだったんだね」
その考えは当たり、小蒔はパンスト越しに淫裂をなぞる。
求めていた快感に、葵は腰をゆすって応えた。
「お願い……直接、触って……」
到底他人には見せられない痴態を晒しているという興奮。
小蒔になら、全てを見て欲しいという欲求。
それらが、信じられないほど卑猥なことを葵に口走らせていた。
「うん……いいよ」
驚いたのだろうか、小蒔の声が掠れている。
それは葵にとって情欲をそそり、身体を芯から熱くさせる淫らな音色だった。
身体を起こした親友の手が腰に触れ、ストッキングを下ろしていく。
もうそこにまで染みだしているその部分を見たら、小蒔はなんと思うだろうか。
そう考えただけで、新たな滴がとろりと垂れた。
下着が下ろされ、濃い──自分では濃いと思い、
コンプレックスのひとつになっている恥毛が小蒔の注視を浴びる。
だらしない。
性欲を否定するほど愚かでは、葵はないつもりだったが、人にとって秘すべき場所を晒し、
あまつさえそれに興奮を感じてしまうというのは常軌を逸しているだろう。
しかし、抑えがたい淫欲も、紛れもなく自分の裡にある、美里葵を構成する成分のひとつなのだ。
そしてその部分をも、葵は知って欲しいと願う。
醜い部分も汚らしい部分も全て、小蒔に知って欲しかった。
膝までストッキングを下ろした小蒔の手が、そこから内腿を遡ってくる。
肌が粟立つくすぐったさは、間を置いて快感へと変わっていった。
それは小蒔が、身体の中心に触れることで一層鮮明になる。
「ぁ……小蒔……」
葵は横向きになって、声が出てしまうほどの気持ち良さに震えた。
足で小蒔の手を挟みこむと、彼女も身を横たえる。
間近に感じる淡い匂いを、葵は鼻腔いっぱいに導き入れた。
「声……出したらダメだよ」
葵が頷き、手で口を塞ぐと、すぐに異物感が訪れた。
入り口の浅いところを、指がゆっくりと掻きまわす。
自分では決してすることのないもどかしい愛撫は、かえって葵を感じさせた。
「ん……っ、ふぅっ」
掌に快感を吐き出す。
肩を震わせ、どうにか喘ぎを抑えようとする葵だったが、小蒔はそれを許してくれなかった。
ぴちゃぴちゃとわざと音を立て、授業中から濡らしていた花唇を弄ぶ。
葵の本性は優等生などではない、
こうして朝から淫らなことを考える女なのだと、高らかに宣告するように。
「ふっ、んふぅっ」
その通りだ。
葵が小蒔のことを考えない時間はない。
家でも、学校でも、いつも彼女のことを考え、自らを慰めていた。
指の細さを想い、口唇の柔らかさに耽り、退廃と、尽きることのない欲望を求めて、
葵はひとり戯れることを止めなかった。
その報いなのか、今、狂おしいほどの快感が葵を襲う。
わずかな指の動きにも声が抑えられず、
ほんの少し触れられる場所を変えられただけで身体の奥がかっと熱くなってしまう。
片手で喘ぎを抑えきれなくなって、葵は両手で口を塞いだが、既にそれですら心もとなかった。
「んっ、ぅんっ……!」
粘液を掻き混ぜるように動いていた小蒔の指が、秘裂の端に触れる。
そこに息づく小さな芽から、鈍い痺れが疾った。
止まらない快感を葵は享受する。
今与えられているのは、深い悦び──藍色の意識の底にある、小蒔によってしか満たされない悦びなのだ。
拒む理由など、あるはずがなかった。
顔を赤らめ、眉間に皺を寄せて声を堪えている葵を、小蒔は静かに見つめていた。
男女問わず全校生徒の憧れである葵の、淫蕩に喘ぐ姿。
可愛らしく、そして、そんな表情をもっと見たいと思ってしまう。
朝に抱いた気持ちを、小蒔は再び抱いていた。
しかし、今度は怖れを伴っていない。
葵をもっと、感じさせてあげたい。
葵にエッチなことを、もっといっぱいしてあげたい。
長い呼気を吐き出しつつ、小蒔は葵の小さな尖りを優しく撫でまわした。
「っぁ……っふ」
肩がぴくりと震え、咳にも似た、およそ葵らしくない声が、蓋をした手の隙間からこぼれてくる。
もう声は、外に出てきてしまっているのに、足をもぞもぞさせ、
より強い刺激を求める葵に、小蒔は薄い笑みを浮かべずにいられない。
いいよ、これからずっと、いろんなことしてあげる──
切なげに見つめる葵に、小さく頷いた小蒔は、泉から水を汲み上げ、敏感な芽を擦りあげた。
「──っ、ぁ──っ!」
顎が跳ね上がる。
気持ち良い──葵は自分が学校にいることも、まだ一時限目の最中であることも忘れ、
小蒔のもたらす快感に浸った。
絶妙の加減で秘芽を責めてくれる細い指を、逃すまいと足で挟みこむ。
口を塞いでいたのは小蒔に言われたからで、
許されるのならば大声ではしたない啜り泣きをしていたに違いない。
葵は心中で小蒔の名を叫びながら、程なく訪れるであろう波を待ち焦がれた。
親友の身体から濃密な匂いが弾け、小蒔を刹那、狂わせる。
まだ健気に口を抑えている手の甲にくちづけた小蒔は、嗜虐的に囁いた。
「葵……いいよ、イッて」
もう一度、今度は少しだけ強く擦りあげる。
葵の全身がきゅっと縮まり、弛緩した瞬間に、小蒔は最後の刺激を与えた。
「──!!」
強い、求めていた波が浚う。
息が詰まるほどのどうしようもない愉悦に、涙を零して葵は咽んだ。
他のどんなことでも、決して得られない恍惚。
ただひとり、世界でこれを与えてくれるのは、小蒔だけだった。
だから彼女が望むなら、どんな闇にも墜ちてみせる。
白む意識の中で残る、小蒔への想いを抱いて、葵は達した。
恍惚の時は口惜しいほどの短さで過ぎ、替わりに疎ましい気だるさが身体を支配していく。
しかし、残りの授業にはさすがに出ないといけない。
葵が下着を直そうとすると、小蒔の唇が頬を掠めた。
「ね、このまま調子悪いって言って……帰っちゃわない?」
熱っぽい囁きが耳の奥で反響する。
葵に断る理由はなかった。
あったかもしれないが、それはもう、捨てても良い物だった。
葵はこれから二人で歩むことになるだろう道の昏さに目を細め、そして頷いた。