序:
その日の熱
コンクリートのジャングルに夕日が溶け出す頃、藤井八雲はぼんやりと自分の手のひらを見つめていた。手のひらには、少しだけ乾燥した、赤茶色の土が付着している。ついさっきまで、綾小路パイと二人で河原で野球をしていた名残だ。
「やっくん、ぼーっとしすぎ。はやく帰ろうよ〜」
明るく、少し高めの、よく通る声がした。振り返ると、そこには夕焼けの色を映したパイがいた。パイの長い黒髪は風に揺れ、透き通るような白い肌が夕闇の中で際立っている。彼女は幼馴染で、幼稚園の頃からの腐れ縁、綾小路パイ。中学に入ってから、彼女の容姿は急速に磨きがかかり、今や学校では知らない者がいないほどの美少女となっていた。八雲自身、いつからかパイに対して、幼馴染以上の特別な感情を抱き始めていた。
「ああ、ごめん」
八雲は慌てて立ち上がり、土を払う。
「それにしても、パイは本当に運動神経いいよな。中学に入ってから、ますます速くなった気がする」
「ふふん、バカにしないでよね。わたしだって女子の体育会系ではトップなんだから」
パイは自慢げに胸を張る。その仕草すら愛らしいと、八雲は思う。
「そうだ、明日、うちでゲームしない? 最近出た新作、一緒にやろうよ」
八雲はいつものように気軽に誘った。
「えー、やっくんはいつもそのパターンだよね」
パイは笑いながら言う。しかし、その瞳はどこか寂しげで、八雲にはそれが気になった。
「どうした? なんかあったのか?」
八雲が尋ねると、パイは少し顔を伏せた。
「ううん、なんでもないよ。ただ……」
パイは言葉を詰まらせ、しばらく黙り込んだ。そして、顔を上げて微笑んだ。
「明日、行くよ。新作ゲーム、楽しみにしてるね」
「おう! 待ってる!」
八雲は一瞬、パイの瞳の奥に、何か形容しがたい、熱のようなものが宿っているのを見た気がしたが、気のせいだと思った。
その夜、八雲は自室で眠りについた。しかし、夢の中で彼は熱にうかされていた。ぼんやりとした光の中で、誰かが彼を見つめている。それはパイの顔だった。
『やっくん……』
パイの唇が、彼の耳元で囁く。その声は、昼間の明るい声とは違い、どこか艶めかしく、熱を帯びていた。
『お願い……わたしを、壊して……』
「パイ……?」
八雲が手を伸ばすと、パイの体が熱い炎のように感じられた。彼は次の瞬間、自分の体が、その熱に吸い込まれるような感覚に襲われた。
そして、翌日。
約束通り、パイが八雲の家にやってきた。しかし、今日のパイは、どこか様子がおかしい。普段は元気いっぱいの彼女が、今日はどこか落ち着かず、常に体を摩っている。
「パイ、どうした? 体調悪いのか?」
「ううん、大丈夫だよ。ちょっと、体が熱いだけ……」
そう言うパイの顔は、微かに赤みを帯びており、八雲は心配になった。
「熱があるなら、今日はやめておいた方がいいんじゃないか?」
「だ、大丈夫! やっくんとゲーム、やりたいもん」
パイは無理に笑おうとする。しかし、八雲には分かった。パイは何かを我慢している。
テレビの前でゲームを始めたが、パイは集中できていない。コントローラーを持つ手が震え、時折、苦しげな息を漏らす。そして、ゲーム開始から10分ほど経った頃。
「うっ……」
パイは急にうずくまり、八雲の腕にしがみついた。
「パイ!?」
「やっくん……ごめん……」
パイの体が、明らかに熱を増していく。その熱は、単なる発熱ではない。まるで、体内で何かが燃え上がっているような、尋常ではない熱だ。
パイは顔を上げ、八雲を見つめた。その瞳は、昨日見た熱を孕んで、爛々と輝いている。
「やっくん……わたし、もう、だめ……」
パイの口から出た言葉は、八雲の知っているパイの声ではなかった。それは、より低く、より深く、そして、甘美な誘惑を帯びた声だった。
その時、八雲は悟った。何かが、パイの中で、目覚めてしまったのだと。