マリアの心は弾んでいた。
冬が終わるからではない。
彼女が元いた地の冬はもっと暗く陰鬱なものであり、東京の冬などどうということは無かったし、
それに彼女は夏よりは冬の方が好きだった。
彼女が珍しく、他人にもそれと解るくらい喜んでいたのは、遂にこの日を迎えたからだった。
龍麻と、教師と生徒という関係を終える日が。
「先生、一年間ありがとうございました」
いよいよ彼女が受け持った生徒達の、卒業の時が訪れた。
ほとんど全員の生徒が最後の挨拶を終えた彼女の許にやって来て、色々な言葉で別れを惜しんでくれる。
それはもちろんマリアにとって嬉しいことであり、
彼女は一人一人丁寧に祝辞を贈り、教室から送り出していった。
壁のように彼女を囲んでいた生徒達も一人減り二人減り、
教室はやがて新たな教え子達が現れるまでの間、静謐な空間と化す。
さっきまでのエネルギーが嘘のように空になっている教室を見渡して
マリアがため息をついたのは、ほんのわずかな疲れと、龍麻が挨拶に来なかった不満のためだった。
もちろん、納得はしている。
既に一緒に暮らしていて、更にこれからも一緒に暮らすのに、いまさら挨拶も無い。
それに龍麻のことだ、きっとどんな顔で皆に混じって挨拶をしたらよいか解らないのだろう。
それをとぼけて会話をこなす、というのも愉しいのであるが、
龍麻はそこまで器用に出来ていないということはマリアも知っており、
また、彼の愛すべき要素のひとつでもあるのだった。
でも、龍麻がもし目の前に立っていたら、彼はどんな表情をして挨拶し、
自分はどんな受け答えをしていただろうか。
そんな想像をしたマリアは、声に出して小さく笑った。
自らの笑い声に促されるようにしばらく笑い続けていたマリアは、
それを収めるとしばらく来ないことになる教室の戸締りを行う。
事務的にそれらいくつかの作業を終えると、これ以上ここにいても仕方ないので、
最後に龍麻の席、窓際の、
時にはカーテンが彼の姿をすっぽりと覆ってしまうこともあった席に一瞥をくれて教室を出た。
生徒達は卒業式でも教師には仕事があり、
それを終えねば龍麻の待っている家に帰ることは出来ないのだ。
職員室に戻ったマリアは、同僚と談笑しながらちらちらと時計を見る。
時間はまだ午前の早い時間であり、マリアがどれだけ焦っても夕方まで帰ることはできない。
それでも、何もしないでいると時間ばかりが気になって精神衛生的に良くないので、
マリアはどうでもよい雑事をこなして時間を紛らわせることにした。
拷問に等しい数時間が過ぎると、マリアは同僚が伸びをしている間にもう職員室を出ていた。
明日からはしばらく休みであり、少なくとも今日はゆっくりとできる。
だからマリアは家に急いだ。
彼と居られる時間を、一秒でも多くする為に。
背筋を伸ばし、律動的に歩く彼女に注がれる視線はいつにも増して多かったが、
マリアの頭の中には一人の男のことしかなかった。
信号にさえ苛立ちを見せながら家路を急いだマリアは、
マンションに着いてからはほとんど一息で自分の部屋に向かい、扉を開ける。
もどかしげにヒールを脱いだところで物音に気づいて姿を見せた龍麻に、半ば飛ぶように抱きついた。
「お帰りなさい……っと、どうしたんですか」
自分の卒業を特に喜んでいる様子もない龍麻に、マリアは少し拗ねてみせる。
「別にどうもしないわ」
そう言ったきり口を閉ざし、身動きもしない。
こうしていれば、きっと──
微かな空気の流れと共に、唇が受ける快さ。
期待通りの龍麻の行動に機嫌を直したマリアは、今度は自分からキスを仕掛けたのだった。
口実をつけて今から龍麻をベッドに引っ張り込もうか。
着替えながらそんなことも考えていたマリアは、
キッチンから漂う芳しい匂いにその考えをひとまず捨てることにした。
足音を立てずに歩き、龍麻の後姿をそっと覗う。
手馴れた様子で包丁やフライパンを操る姿は、彼の同級生も知らない、マリアだけが知るものだ。
それで良い──ただでさえ長身で人気のある彼が、鮮やかに料理をするところなど見ては、
彼に惚れ、誘惑しようとする者が大勢出るに違いないから。
教師にあるまじき独占欲を抱いたマリアは、しばらく龍麻を眺めていた。
龍麻は見られているとも知らず料理を続けていたが、
テーブルに皿を並べようと振り向いた拍子にマリアに気づく。
「なッ、何してんですそんな所で」
龍麻が動揺したのも無理はない。
ドアから半分だけ顔を出しているマリアは、少し薄気味の悪さすら感じさせるものだったのだ。
見つかってしまったマリアは悪びれずに姿を見せ、テーブルに座る。
「見てたのよ、アナタを」
彼女の瞳がゆらめいているのは、必ずしも誘っている訳ではない。
マリアにとって彼は、尽きることのない愛情の対象なのだ。
「別に、見るなら……そこから見ればいいのに」
音高く皿を置いた龍麻は、勢い良く踵を返してキッチンに戻る。
明らかに照れを隠している同居人に、マリアは涌き出る笑いを噛み殺すのに懸命にならねばならなかった。
食事はいつもと同じ、それほど豪華なものでもなかった。
妙に経済観念が発達している年下の男が、卒業程度で外食は大げさだと断ったからだ。
それならそれで良い──とっておきのワインの封を切れば良いのだから。
そう妥協したマリアは、今手に入れようとすれば相当の代価を払わねばならない年代物の一本を開けた。
豊かな香りが鼻腔を満たす。
「……先生」
「もう先生は無しよ。外でもね」
匂いに情感を増幅させられたマリアは片目を閉じ、
声そのものがひとりでに踊り出すような陽気な声で言った。
グラスを掲げ、龍麻にもそうするよう促し、キスをするようにグラスを触れ合わせる。
しかし、紫色の蟲惑的な液体の向こうに透けて見えたのは、
らしくない蔭りを浮かべた龍麻の顔だった。
それに気付きたくないのに気づいてしまったマリアは、
気のせいであれば良い、と願いながら視線上にあるグラスを口元へと運ぶ。
顎を上げる寸前に見えた龍麻の顔は、やはり、このワインのような酸味を含んでいるものだった。
彼の表情の原因がそれであるかのように、
マリアは憎悪を込めてテーブルの上に置いたワインを睨みつける。
彼に口を開かせないよう、何でも良いから話そうとしたマリアだったが、
どういうわけかこの時に限って何も、思いつくことすらできなかった。
口の中で暴れる酸味にてこずっている間に、一口も飲むことなくグラスを置いた龍麻が、
一瞬目を伏せ、そして上げる。
「マリア、俺……ここを出ようと思うんです」
彼が名だけで呼んでくれたのは初めてで、マリアにとって記念すべき一言となるはずだったが、
この時の龍麻の声だけは、どうしても記憶の中に留めることが出来なかった。
思いつめた龍麻の表情は、それが彼が随分前から考えていたこと、
そしてもう戻るつもりがないことを雄弁に物語っていた。
その決心を意外だとは思わないものの、受け入れることとは話が別だ。
「どうして? 大学にもウチから通えばいいじゃない」
陽気さを失っていないマリアの声は、過剰なまでの努力によって保たれたものだった。
そうすることで、龍麻の言を冗談だと済ませてしまおうとしたのだ。
「ありがとうございます。
けど……俺は単純なんで、ここで一緒に暮らしてるとその先まで期待しちゃうから」
それこそが望みである──そうマリアは言おうとして、気づいた。
自分と彼の間に横たわる、底の見えないクレヴァスを。
恐らく、いや決して彼は悪意で言ったのではない。
自分達の将来を真剣に考え、考え抜いた上で言ったのだろう。
しかしそれだけに、自分と暮らすことがどれほどこの未来ある青年にとって負担になるか、
解らないマリアではなかった。
無言で龍麻を見つめる。
深い黒の瞳には、彼らしくない迷いが浮かんでいた。
その迷いを与えたのは、自分。
ならばその迷いを解いてやれるのも、自分だけだった。
「そう……ね。アナタの言うとおりかもしれないわ」
顔だけでなく、声帯までを氷で覆ってマリアは言った。
それが彼にとって最善の答えであるはずだった。
「ええ。……今まで、お世話になりました」
龍麻の声は明るさを取り戻し、選択が間違っていないとマリアに信じさせた。
そう思わなければ、到底耐えられなかった。
彼の前で取り乱してはいけない──それが、教師として、大人として、最後にしてやれることだった。
だからマリアは、笑顔を作る。
心からの、偽りの笑顔を。
「いつ戻るの?」
「もう長いこと戻ってませんし、出来れば今日にでも」
ほとんど機械的に頷いたマリアは話を終え、最後の晩餐を始める。
一人だけで飲む、数百年を寝かせたワインは、あまりに酸味が強すぎるものだった。
気がつけば、食事は終わっていた。
ほとんど残らないように作ってくれる龍麻の料理だが、今日は二人ともほとんど残してしまっていた。
しかし、哀しそうに手つかずの皿を見ただけで、龍麻は何も言わない。
「ごちそうさまでした」
ただ、そう小さく呟いて、食器を片付けようと立ちあがった。
いつもならこのまましばらくは座って話をするのに、
今日はこの場から逃げ出そうとしているかのように急いでいた。
「待って。片付けはワタシがするわ。アナタは……帰る準備をしなさい」
「でも」
「いいから」
マリアは強引に彼から皿を奪い、片付け始める。
顔を見ないように片付けをしていると、龍麻は諦めたように荷物の置いてある部屋へと向かった。
彼と過ごせる残り少ない時間を自分から縮めるようなことをしたのは、
マリアも彼と同じく、逃げ出したかったからだった。
何処から、何処へ。
その答えを、マリアは両方とも持っていなかった。
「気をつけてね」
「はい、今までありがとうございました。……それじゃ」
靴を履き、最後の挨拶をしようというのか、肩越しに振りむいた龍麻の横顔が映った瞬間、
マリアは自分がどうしようも無い馬鹿だということにようやく気づいた。
数百年の刻を過ごしても全く成長していない心は、
大切なものを喪う寸前になって、初めてその貴重さに気づく有様だったのだ。
「待って」
蒼氷の中に閉じこめていたはずの想いが、内圧を高める。
それはすぐに全身を灼く情動となってマリアを衝き動かし、
彼女は渾身の力で龍麻を自らの許に繋ぎ止めた。
「お願い……行かないで」
「マリ……ア……」
「もう……嫌よ。これ以上、偽って生きたくはないわ。だから、お願い、ワタシを一人にしないで」
魂からの慟哭にも龍麻は答えない。
息遣いさえ伝わってこない身体に、自分が掴んでいるものが実は龍麻ではなく別の何かで、
もう自分が引き留めたい彼は旅立ってしまっているのではないかという恐怖にマリアは顔を上げられない。
涙が頬を伝い、服を濡らすのも構わず、ただ指先に伝わる感触だけを信じ続けた。
これまで自分が生きてきた時間よりも永い刻が流れる。
その中で、不意に腕に何かが触れたような気がした。
雨の最初の一滴のような小さなそれは、すぐに全身を包むスコールと化す。
昏い意識の中でマリアが顔を上げると、そこには濡れた身体を暖める二つの黒い太陽が在った。
「龍麻……龍麻……!」
自分の身体が掬い上げられたのにも関心を払わず、
マリアは両腕でしっかりと龍麻の頭を抱き、愛する男の名を呼び続けていた。
もつれあい、ベッドに倒れこむ。
骨が軋むような抱擁が、そして龍麻の貪るようなキスが狂おしかった。
涙で顔は汚れ、張りついた髪が口に入ったが、マリアはキスを止めさせなかった。
「ふッ、んンッ……ふっ、はっ、はぁッ」
熱い呼気を浴びせあい、ひたすらに舌を絡める。
マリアは今更にワインの匂いを後悔したが、龍麻は気にするそぶりも見せなかった。
体重を乗せ、のしかかって女を求めてくる。
その荒ぶる心に触発されたかのように、マリアは彼の身体にしがみつき、力ずくで男を組み敷いた。
「はぁっ……はぁっ」
まるで闘いのような、殺気さえ篭った眼光で睨みつける。
たまに戯れでこれに近い視線を与えると、いつもなら逸らすか、
困って「どうしたんです」とわがままにつき合ってくれる龍麻は、同種の光を瞳に宿していた。
それでも彼の黒い瞳はほとんどその色を変えなかったが、
蒼氷を溶かさんばかりの激情をマリアはそこに感じ取っていた。
エクスタシーにも近い興奮に冒され、身体を抱こうとする龍麻の手を掴み、抑えつける。
血だけではなく、肉までも食らいたいという衝動のままに、マリアは男の肌に歯を立てた。
「つ……ッ」
悶える声が、愛おしい。
屠った獲物を食らうように噛み、肉を抉る。
抑えようとはしていても、苦悶にのたうつのが伝わってきて、マリアはたまらず更に顎の力を強めた。
「ぐ、ぅ……」
肉を食い破るほどの強さで噛みついているのに、抑えつけている手は、解った風に握り返してくる。
それが気に入らず、マリアは自分が本当にその意思があることを示した。
とても愛を交わすとは言えない行為の後に残ったのは、醜い歯型。
妖魔である自分が残した、聖痕。
更に三箇所に同じ痕を残し、マリアはようやく贄を解放した。
再び挑みかかるような目付きで睨むと、苦痛に半ば目を閉じていた龍麻は、あろうことか笑ってみせた。
「ごめん」
向けられた謝罪の言葉に、巣くっていた陰獣の心がたちまち消える。
自分のしでかした罪に気付いたマリアは、罰を恐れて泣きそうな表情になった。
「俺……自分のことしか考えてないで……出ていくなんて言って」
落ちつけようとしているのか、龍麻が背中を撫でるのが、かえって罪の念を強くする。
マリアは生まれて初めて怒られると自覚出来るだけの罪を犯した子供が抱く、
深い怖れに唇をわななかせた。
「ワタシ……ワタシこそ、アナタを縛ってしまうかもしれない……いえ、
必ず縛ってしまうって解っているのに、自分の欲望だけで、でも」
一気にあふれだしそうになった自責の言葉は、龍麻にせき止められた。
これまで数知れないほど交わした中でも、最も愛情に満ちた口づけに、
行き場を失った自責の念は涙へと変わったが、それも龍麻が掬いとってくれた。
「欲望は……マリアのだけじゃないです。俺も、ずっとマリアと居たいんです」
それから後も龍麻は何か言ったようだが、マリアはもう聞くことができなかった。
自らの嗚咽が、全てをかき消していた。
嵐のような昂ぶりも、やがて収まっていった。
代わりに訪れたのは、水位を増した想い。
小鳥のようなせわしないキスを繰り返しながら、マリアは囁いた。
「龍麻……愛してるわ」
「俺も……愛してます、マリア」
そうであることは疑いなくても、言ってもらえるとは思っていなかった言葉に、
マリアは思わず身体を起こし、龍麻の顔を見ようとしたが、力強く抑えつけられてしまう。
しかし、彼は照れた顔を見られたくなかったのではなく、続きを言いたかったのだ、
と判ったのは、彼の声が鼓膜を通りすぎた後だった。
「ずっと……これからもずっと、俺はマリアを愛し続けます」
また泣きそうになってしまうのを堪え、マリアは笑う。
緩んだ束縛から逃れ、覗き込んだ龍麻の顔も、やはり笑っていた。
静かに唇を重ね、再び笑う。
熱いキスを終えた二人は、ほとんど同時にお互いの身体に腕を伸ばしたからだ。
先ほどの闘争のようなものではない、子犬のようなじゃれ合い。
勝敗などあるはずも無かったが、主導権を握ったのはやはりマリアだった。
背中を撫でる手を優しく剥がし、抑えつけるのではなく握り、絡める。
ひとつに溶け合っている舌を離し、そのまま唇の端から龍麻の身体を下へと辿らせていった。
舌先を唾液で湿らせてなぞっていき、しばらくは消えそうに無い歯の痕はとりわけ丁寧に舐めあげる。
「本当に食べるつもりだったんですか?」
「嫌ね、そんな訳ないでしょう」
妖魔であることをからかわれたと思い、
冗談の受け答えにしては少し苦味の混じった声でマリアは言ったが、龍麻はすまして言ったものだった。
「マリアになら食べられても良かったんですけど」
ぞくり、とした律動がマリアの背中を走る。
からかわれることに嫌悪を示したのは、本当にわずかではあるがその欲求が皆無ではなかったからだ。
もちろん食欲として食らいたい訳ではない。
そうすることで対象を支配下におけるのではないかという気が、心のどこかでしていたのだ。
だからマリアはすぐには返事をしなかった。
舌を下腹へと移動させ、足の間にある器官に向かって囁く。
「いいわ、アナタが望むなら……食べてあげる」
焦らさずに、否、焦らせずに先端を咥えこむ。
口の中で大きさを増す塊が、たまらなく愛おしかった。
「んッ……はふっ」
圧迫せんばかりに勃起した龍麻を、あやすように舌で転がす。
唇にするのと同じくらい情愛を込めたキスを放ち、舌先で鈴口を刺激してやる。
その舌を限界にまで膨らみ、
なお大きくなろうと脈動を繰り返す屹立の表面を走る血管へと滑らせ、
根元へと辿らせると、心地良さそうに腰が震えた。
気分を良くしたマリアが本格的に口淫を始めようとすると、龍麻の手が腰に触れてくる。
それが続きを促すものだと思ったマリアは、すぐに刺激を再開しようとして、
ふと思いついたことがあった。
向きを変え、龍麻の上に跨ると、ためらいなく己の秘部を龍麻に晒す。
「ワタシの……も……」
言い終える前に尻が抱えられ、鼠蹊部に口が吸いついてきた。
「あッ……ん」
先を越されたお返しとばかり、唾液で濡らした舌をねっとりとペニスに巻きつける。
すると龍麻は、負けじと押し広げた襞のひとつひとつに丁寧に舌を這わせ、中へと潜りこませてきた。
「んッ……あぁっ」
マリアは自分でも驚くほどの大きな声で喘いでしまう。
フェラチオでさえさせることを好まない龍麻は、
シックスナインなどこれまで決して応じようとはしなかった。
しかしそれは単に恥ずかしがっていただけだということが、
うっとりするような舌遣いから伝わってきた。
内腿から秘唇から、手当たり次第に吸いたてられ、熱くぬめった舌で愛撫される。
下腹全体がその熱で蕩かされ、マリアは淫蜜があふれ出すのを抑えられない。
心が求めるままに腰を押し付け、更なる愛撫を促すと、龍麻は殊更音を立てて蜜を啜りたてるのだ。
「あ、んんっ……やっ、っはぁ……ん」
いつになく積極的な龍麻に、マリアの興奮はいや増す。
「んッ……ふンッ……あ、はッ」
情愛を舌に一心に込め、熱いペニスを喉の奥まで導き入れる。
左手を袋に伸ばし、玉を優しく揉みしごくと、龍麻の腰が壊れたように跳ねた。
感じているところもあまり見せたがらない龍麻だったが、
今は隠す余裕も無いのか、痙攣じみた動きが収まった後も、腰をわずかに突き出してもっと求めてくる。
マリアはそれに応え、硬い屹立を彼の腹に押しつけ、弱い裏側の部分を集中的に舐めてやった。
その中でも特に弱い、雁首の付け根を、龍麻がしてくれているような舌の動きで責める。
「あっ……う」
彼の喘ぎが濡れた肌を撫でた。
熱い呼気は火照った肌を燃やし、マリアを追い詰める。
自分が達しそうなのも、龍麻が射精しそうなのも感じていたが、
狂熱に身を任せたマリアは口淫を止めなかった。
可能な限り彼を咥え、舌の根元で塊を転がす。
「ふッ、ほ、あふッ……ん、はぁァ……ッ!」
腰が大きく跳ね、熱く苦い液体が口の中に含んでいるものから噴き出した。
跳ねた拍子に奥に突きこまれた先端から、ほとんど喉に直接注ぎ込まれたどろどろの液体は、
気道を塞ぐほどの粘度と量だったが、マリアは全てを胃に流しこんだ。
「ん……んっ、んふっ」
精を吐き出して幾分柔らかくなった屹立に、マリアは根元から吸いつき、
残っている分まで吸い上げる。
時間をかけて吸い出した精液を、時間をかけて飲み下そうとしたマリアを、
いきなり強烈な快感が襲った。
龍麻が、剥いたクリトリスに軽く歯を当てたのだ。
しかしそれはむしろ望んでいた刺激であり、マリアは訪れた愉悦に身を任せた。
軽く達したマリアがのろのろと龍麻から降りると、荒々しく組み敷かれる。
珍しく興奮を瞳に浮かべて身体をまさぐる龍麻を、マリアはしたいようにさせた。
わずかな愛撫で簡単に硬くなった乳首は、達した後の刺激にはちょうど良いくらいで、
色々な方法で乳首を愛しむ龍麻の後ろ髪を撫でながら、目を閉じて快感に浸る。
そこから伝わる甘い感覚が指先にまで広がり、
くすぶっていた身体に再び火が点ったのを見計らったように、
胸から感触が消え、代わりに下腹に熱いものが触れた。
「あッ、は……ぁぁ」
入ってくる、肉塊。
普段よりも遥かに逞しさを感じさせるそれは、一息に奥まで入ってきた。
かつてない快感に仰け反ったマリアは、堪えきれずにそのまま達してしまう。
体内で脈打つ屹立がもたらす深い悦びに満たされ、豊かな胸を弾ませて呼吸を整えようとした。
「んッ、駄目……待って……ッ」
しかし、龍麻も歯止めが利かないのか、マリアが達している最中ですら抽送を止めようとしない。
「やッ、は、ッ、っんッ……」
息を吸う暇もなく、一方的に吐き出させられる。
酸素を求めて開いた口からは涎が伝ったが、それでもマリアが感じていたのは悦びだった。
ぶつかる音が卑猥に響くほど龍麻は激しく腰を叩きつけ、
膣壁を引き摺りだそうと荒々しく屹立を引き抜く。
無我夢中で犯す牡に、マリアも自分から足を開き、腰を動かして受け入れ、共に快楽を貪った。
口に手の甲を当て、あまりにだらしない嗚咽を押し殺そうとしながら、
下腹には力を込め、屹立が抜けてしまうのを防ごうとする。
押し寄せる媚肉から一旦は逃れた屹立は、返す刀で襲いかかり、
逃げ遅れた桃色の隘路の中を容赦なく貫いた。
「ああ……ッ!」
上壁にある急所を擦りあげられ、理性が吹き飛ぶほどの快美感がマリアを襲う。
たまらず身をよじったマリアに、二度、三度と凄まじい快感が加えられた。
「うぅ……そ、こ……んッ」
鮮やかな金髪を振り乱し、肌を紅潮させ、半身をひねったマリアの姿は、
より強い快楽を求めて下半身を差し出しているようにも見える。
それを見抜いたのか、龍麻はマリアの片足を抱え、
より彼女が感じやすいよう体位を変えて抽送を行った。
「ひ……ンッ」
乳房が乱暴に握り潰される。
跡がついてしまうほど強く掴む龍麻の手を、マリアは上から掴み、自ら揉みしだいた。
それはあるいは龍麻よりも強く、淫らな手付きで。
指先を導いてしこり立っている乳首を引っ掻かせ、
龍麻が爪を立てると、その上から力を加えて爪先を食いこませ、乳房の中に沈めてしまう。
汗でべっとりと濡れた掌が肌をなぶる感触に、マリアは心ゆくまで酔った。
「っ、あ、はァッ、んっ、ふっ」
龍麻が身体を倒し、唇を奪う。
それは既にキスではない、ただ舌を巻きつけるだけのものだったが、
マリアは痺れてしまっている手を懸命に動かし、彼の頬に手を添えて歓迎した。
「ほっ、ふッ、あふッ、あはぁっ」
滴る唾液も気にせず、口を一杯に開き、舌だけを艶めかしく絡めている為に、
二人の口を衝いたのは間が抜けた鼻音であったが、複雑に絡み合った舌は一向に離れようとはしない。
そのさなかに腰を突かれると、その震動が舌に伝わってきてたまらない快感となるのだ。
二人は時に歯さえ当てながら、身体の上下から生まれる愉悦にいつまでも溺れていた。
「はぁ……んんっ」
逢瀬を惜しむように強いキスをした龍麻が、身体を起こす。
勢いを弱めていた抽送が、再び力強いものに変わった。
突かれる度に途切れる意識が徐々に長い物になっていき、何も考えられなくなっていく。
腰が抱えられて浮かされ、より深い角度で撃ちこまれる灼熱の杭に、
マリアは限界が近いのを感じていた。
「あ、ぁッ、龍、麻……ッ!」
霞む意識の中、必死で龍麻の名を呼ぶ。
それに応えるように、突き破らんばかりの勢いで屹立が入ってきた。
「んッ、あぁあ……ッッ!!」
子宮にまで届いたかというような強烈な一撃に、マリアは声すら出せず絶頂を迎えた。
暴力的ですらある陶酔の中に投げ込まれ、操り人形のように痙攣する。
五感の感覚すら失ったマリアは、ただ熱く、
激しい噴出が体内を満たしていくのだけを無上の喜びとして感じていた。
翌日マリアが目を覚ましたのは、寒さで肩を震わせたことによってだった。
散々に求めあったあの後、寝間着さえ着ずに寝てしまったらしく、
目覚めはしたものの、まだ目は開けずにシーツを手繰り寄せる。
こうしていれば、そのうち龍麻が起こしに来てくれて、
あくびをしつつテーブルに座れば淹れたての紅茶が置かれるだろう。
ただし、今日はさすがにその前にシャワーを浴びないといけないだろうが──
その光景を夢見て、心地良い質感のシーツを被り直したマリアは、
異変に気付いて勢い良く跳ね起きた。
いくら裸で眠ってしまったといっても、そのまま放っておかれる訳がなかった。
彼が、隣にいるならば。
毎朝駄々を捏ねて中々起きようとしないマリアだが、初めて東京に来た時と同じ、
誰も居ないベッドに心臓まで青ざめさせ、そのままシーツだけを掴んで玄関へと走る。
まさしく龍麻は、昨日何処にも行かないことを約束した男は、外に出ようとするところだった。
「龍麻!」
発した声は、怒声に近いものだった。
振り向いた龍麻の横顔は、昨日とは異なり、見つかってしまったことを悔やむものであった。
「一応手紙は書いておいたんですけど」
「説明しなさいッ!」
口調を教師のものに変え、マリアは詰め寄る。
そうすれば、彼が翻意してくれると信じて。
しかし、昨日マリア自らもう教師と生徒ではない、と言ってしまったからか、
龍麻は申し訳無さそうにしながらも譲らなかった。
「マリアを、人に変える方法を探しに行こうと思って」
あまりに荒唐無稽な話に、マリアは怒っているのも忘れて龍麻を見た。
その必要性からオカルト的な知識にも手を染めたことのあるマリアだが、
そのような話は聞いたことがない。
例えあるとして、数百年生きた自分でさえ存在すら聞いたことの無いものを龍麻が探し当てるまで、
どれだけの日数がかかるやら知れたものではなかった。
「そんなもの……ある訳ないでしょうッ」
だから、そんなものを探しに行く必要などないから、ずっと、ただ傍にいてくれればいい──
そう言おうとしたマリアは、控えめに、しかしきっぱりと首を振った龍麻に遮られてしまった。
「俺の勝手なんですけど、マリアより一日だけでいいから遅く死にたいんです」
そう言った龍麻の瞳を、マリアはもう睨めなかった。
唇を噛み、違うことを言いそうになるのを必死に堪えて彼を見つめる。
やがてその唇から、不承不承ではあるが、統一された意思が放たれた。
「必ず、還ってきて」
「はい」
最後に触れ合わせた唇の感触を、マリアは、龍麻が出ていった後もずっとなぞっていた。
龍麻を送り出したマリアは、そのままベッドに戻り、何もする気が起きずにただ寝転がっていた。
納得しての別れとはいっても、龍麻を喪ったという想いが性質の悪い酒のように身体を蝕んでいた。
休みで学校に行く必要が無いのを良いことに、少なくとも今日はこのままこうしているつもりだった。
と言っても眠れるわけではなく、瞼を閉じても思い浮かぶのは去っていった男のことばかりで、
広すぎるベッドを持て余しながら寝返りを繰り返していた。
それでも、横になっていれば眠気はやってくるらしく、
いつしかマリアは泥のような眠りに落ちていた。
浅く、気だるい眠りを断続的に繰り返すマリアは、自分が今起きているのかどうかさえ判らなかった。
それでも構わない。
龍麻がいなければ、この世界などあってもなくても関係無いものだったからだ。
しかし、ただ彼のことを想うという、最も楽しく、退廃的な時間を過ごしていたマリアの耳に、
家の入り口の方からかちゃかちゃと言う音が聞こえてきた。
玄関には間違い無く鍵をかけてあるし、泥棒程度ならどうとでもできる──
目覚めても残る気だるさの中でわずらわしい音から心をそむけ、シーツを手繰りよせたマリアは、
突然ある予感に捕らわれ、勢い良く跳ね起きた。
そのままシーツだけを纏い、玄関へと急ぐ。
着くのを待っていたかのように開かれた扉の向こうには、
彼女が信じた予感が現実のものとなって立っていた。
「ただいま……って、なんて格好です。朝と同じじゃないですか」
「龍麻……どうして」
声を詰まらせたマリアの問いに、龍麻はいかにも照れたように頭を掻いた。
「説明しますから……とりあえず、服を着てください」
着替えたマリアはテーブルに座った。
本当なら話など後回しで、すぐにでも抱いて欲しかったのだが、それはさすがに言えなかった。
龍麻の顔は朝までと変わらぬ穏やかさながら、どこか不安定なものであったのだ。
せりあがる不安を抑え、一心に帰って来てくれた龍麻を見つめる。
一瞬だけ目を合わせた龍麻は、その後忙しく視線をさ迷わせ、
どこから話して良いか迷っているようであった。
マリアが自分でも驚くほどの辛抱強さで待っていると、
二度咳払いをしてから、龍麻はようやく口を開いた。
「裏密っていましたよね。隣のクラスの、オカルトにやたら詳しい」
龍麻が何を言おうとも受け入れる覚悟の──実のところ、彼が傍にいてくれさえすれば、
どんな結果だろうとどれほどの覚悟も必要とする訳ではないが──マリアだったが、
これには全く意表を衝かれ、しばらく黙らざるを得なくなった。
「偉そうには言ったけど、俺も何処から行っていいかさっぱり解らなかったんで、
もしかしたらって思ってあいつに聞いてみたんです。そしたら」
龍麻が差し出したのは、ぼろぼろの本だった。
縫製はとっくにほつれ、うっかりすると崩れてしまいそうな代物だ。
机の上に慎重にそれを置いた龍麻は、緊張なのか、それとも崩さないようになのか、
手を震わせながら紙をめくった。
欧州圏の言語なら大体理解出来るマリアだが、この本に記されているのは漢字、
ということがようやく解る程度の難解な文字だった。
「ここ……なんですけど。俺も読めなくて、裏密に翻訳してもらったんですけど」
そこで口を閉ざした龍麻は、もったいぶっているのではなく、
何故かその先を言いたくなさそうにマリアには感じられた。
その証拠に、何気なく龍麻を見ると、彼は大慌てで顔をそむける。
マリアがますます不安を募らせると、ひどく棒読みな龍麻の声が聞こえてきた。
「物の怪を人に変じる術。龍丹を用意し、その物の怪に注ぐべし。
回数は物の怪の妖力によって変ずるなれど、その妖力によって変ずると心得るべし」
龍丹とやら言うものを用意し、注ぐ……恐らく飲むか食べるかすれば良いのだろう。
言っていることは割と基本的なことであり、マリアは納得したが、問題はその服用するべきものだった。
「龍丹……って何かしら」
「それも聞いてきたんですけど、その……要するに、俺の……らしくて」
龍麻が言葉を濁した部分を理解するのに、マリアはしばらく時間がかかった。
答えそのものはすぐに浮かんだのだが、どうしてもそれを思考に結びつけられなかったのだ。
嘘臭い、と思った。
どう考えてもご都合主義だ。
大体西洋の魔である自分が、東洋の秘術とやらで人間になれるとも思えない。
しかもそれが、オカルトに詳しいとは言え、
歩いていけるような近所に住んでいる少女の家から見つかるとは。
マリアはつい、発作的に嘲笑するところだった。
恐らく、そうしても龍麻は怒らなかったに違いない。
彼の還ってきた時の表情は、喜劇にすらなり得ないこの馬鹿ばかしさに基づくものだったのだろうからだ。
しかし、数百年の刻を生きた妖魔として嘲笑しようとしたマリアは、女としてそれを止めた。
嫌だった。
龍麻がいない日々など、例え自分の為であったとしてももう耐えられなかった。
正確には一日にも満たない彼との別離でいやというほどそれを思い知らされたマリアは、
龍麻が探してきた、というのも憚られるような安易さで手に入れた秘術とやらを、信じようと思った。
結果など構わない。
彼と共に在ることが出来るのなら、それだけで良かった。
下唇を軽く噛み、口の中で語調を整えて尋ねる。
「そう……それで、ワタシの場合はどの位必要なの」
「一万回くらいは必要だろうって言ってました。計算だと、大体三十年はかかっちゃうんですけど」
もはや自棄になったのか、龍麻は照れずにそう言った。
三十年と言う数字はマリアにとっては決して長いものではないが、
龍麻にとっては人生の三分の一に当たる長さだ。
「アナタは……それでいいの?」
完全には抑えきれず、わずかにビブラートのかかった声でマリアは尋ねる。
返ってきたのは、力強い返事だった。
「俺も……思ったんです。マリアのいない毎日なんて嫌だって。
だから、まずこれを試して、駄目だったらまた別の方法を探して……
その時、俺だいぶマリアより年上になっちゃってますけど」
本気で言っているらしい目の前の馬鹿に、マリアは今度は失笑を隠さなかった。
帰ってきてしまった龍麻に、自分がまた別の方法、
などというものを探しに行かせるとでも思っているのだろうか。
笑うマリアに龍麻は憮然としていたが、本気ではないのは容易に判る。
彼もまた、もう結果など気にしていないのだ。
見つからないかもしれない秘術を求めて自分と離れ離れになるより、
共に在ることを選んでくれたのだ。
喜びにマリアは胸が張り裂けんばかりであったが、
半日とはいえ自分を置き去りにした龍麻に、素直に喜びを見せるのも面白くない。
いかにも真剣を装って少し考えた末、彼女は実につまらなそうに言った。
「そうね、でもそんなに待たなくても結果は出ると思うわ」
「どうして」
「簡単じゃない、一日三回なら十年で済むわ」
「……あ」
赤面する龍麻に気取られないよう、腰を浮かせる。
「それにね」
立ちあがったマリアは、彼の胸に飛び込んだ。
「もう百回は済ませてるから、そんなにはかからないんじゃないかしら」
──十年が過ぎた。
二十歳にも満たなかった龍麻も成人し、社会人として忙しい日々を送っていた。
マリアは変わらぬ美貌のまま、真神の教師を続けていた。
そして彼らは、共に暮らしていた。
「ただいま」
「お帰りなさい、あなた」
帰って来た夫を出迎えたマリアは、靴を脱いだだけの龍麻に抱きついて唇を重ねた。
強引に首を捻られた龍麻は痛みに顔をしかめながらも、
十年前と全く変わっていない身体を抱きしめて応える。
そろそろ首の痛さに限界を感じ始めた頃、マリアはようやく解放してくれた。
鞄を渡し、家にあがる。
この部屋に住み始めてから十年が過ぎていたが、二人とも引っ越すつもりはなかった。
過不足無い大きさが気に入っていたし、
このサイズのベッドを置ける部屋を都内で探すのは大変な苦労なのだ。
着替えようとクローゼットに向かう途中、テーブルに並べられた料理を見て、龍麻は妻に訊ねた。
「あれ、今日はやけに豪華な料理だね。何かあったの」
「ええ、後で話すから、先に着替えてきて」
マリアがこんな風に言うのは珍しいことだ。
よほど大事な──多分良いことがあったのだろうと思い、
龍麻はこの場で無理に聞いたりせず、大人しく着替えることにした。
料理の当番は、マリアが毎日作るようになっていた。
これは龍麻の仕事が定時に帰れることなどほとんどないものであり、
一方マリアは教師だけにほぼ決まった時間に帰ることができるというのもあったが、
何よりマリアが龍麻の為に料理を作りたいと言い出したのがその大きな理由だった。
おかげで龍麻はこれまで栄養失調で倒れることもなく、
同僚からの飲みの誘いもほとんど断ってまっすぐ帰宅している。
最初のうちは付き合いが悪いことを怒られたりもしたが、
説明するうちにどうしても見せる羽目になったマリアの写真を見せた途端、
同僚達は渋々ながらも納得したもので、
こうして龍麻は毎晩愛情のこもった料理を食べられるという、
ささやかな──しかし、極めて価値のある幸せを手に入れていたのだった。
ただ、彼女は食材に遠慮無く高価なものを選ぶので、
それが唯一、取るに足りないほどの小さな悩みの種ではあった。
その種は恐らく永遠に発芽しない──そう龍麻は思っていたが、
目の前に並ぶ、いつにも増して豪華な料理を見たらため息をつきたくもなるというものだ。
だから龍麻は、その悩みと仕事の疲れと家に帰ってきた安堵とを一緒くたにして、
更に椅子に座るついでにそれを実行したのだった。
「ふぅ」
これで気持ちを完全に切り替え、妻の、愛するマリアの話を聞く準備が出来た。
龍麻はワインの注がれたグラスを軽く鳴らし──本当はビールの方が好きだったが、
家で飲むことはほとんど無かった──、食事を始めた。
「で、話って」
「私ね、教師を辞めることにしたの」
ワインを飲みかけていた龍麻は、予想を遥かに超える重大な話に、
危うくグラスを取り落とすところだった。
マリアの躾が行き届いているために、テーブルマナーで恥を掻いたことは無い龍麻だったが、
その嗜みも忘れ、手で口元を拭ってしまう。
普段なら優しくたしなめられるところだが、マリアは何故か何も言わなかった。
ただ黙って自分を見ているだけの彼女に、
余程ショックを受けているのだと思った龍麻は自分の動揺を抑えて訊ねる。
「まさか……何か言われたとか」
いくらなんでも十年の間全く容姿が変わらなければ不審を抱かれるのも当然だ。
それが特にマリアのように目立つ女性とあれば、
その手の声はもっと早くから上がっても不思議ではなかった。
就職して数年経った今はどうにか自分だけの収入でも彼女を養ってやれるが、
彼女が意に染まぬことをさせられて良い気分になるはずもない。
表情を曇らせた龍麻だったが、マリアの顔が自分ほどに雲っていないことに気付いた。
それどころか、喜びめいたものさえ浮かんでいる。
ただ辞めただけなら、これほど豪華な料理を用意する必要は無い。
ようやく気付いた不審を表情に浮かべた龍麻に、マリアは静かに告げた。
「……二ヶ月ですって」
「……まさか」
意味を理解した龍麻は、思わず立ちあがっていた。
驚かせようという一心で演技していたのだろう、
雲間から現れた太陽のように喜色を露にするマリアに、
龍麻ももちろん大きな喜びが胸郭を浸すのを感じていたが、
まずそれよりも大きな感情を整理しないといけなかった。
「あれ、本当だったんだ……」
呆れたように呟き、椅子に腰を落とす。
十年前に聞いた、でたらめでしかないと思っていた秘術。
自分との子を産むこともできず、自分が死んでもなお永い刻を生きなければならないマリアを
その責め苦から救い人に変ずる、とても人に話せない方法は、本当に存在していたのだ。
共に過ごした十年の中でも見たことが無いほど驚いている龍麻に、マリアは微笑みかける。
彼と共に過ごせた十年、そして共に過ごせる何十年かを思って。
「ありがとう、あなた」
それは、初めにマリアが妖魔でなくなっていることに気づき、
遠からず龍麻にこれを告げることができる日が訪れると知った時から言おうと決めていた言葉だった。
自分の体に変化が訪れた時、マリアは今の龍麻と同じく呆然としたものだった。
龍麻が探してきた秘法のことを忘れた訳ではなかったが、
始まった日々変わらぬ、穏やかな生活はそのようなものをもう必要としていなかったのだ。
しかし、意を決して病院に行き──何しろ自分は人でないのだから、
診断など受けてその事実を発覚させる訳にはいかず、相当悩んだのだ──、
そこで事も無げに新たな命が宿っていることを告げられた時、ようやくマリアは、
自分が世界で一番幸福であると自覚することができたのだった。
本当の幸せに満たされ、きっと彼もそれを分かち合ってくれるだろうと信じていたマリアが見たものは、
号泣を始める夫の姿だった。
マリアは龍麻のこういう姿を予想していなかった訳ではないが、それでも驚かずにはいられなかった。
ティッシュを渡してやりながら、その何枚かを自分にも使い、遂には夫と同じくらい泣きだし、
二人はしばらくの間、幸福な泣き声を上げ続けた。
「……それにしても」
ティッシュがほとんど空になった頃、ようやく泣き止んだ龍麻に、マリアが話しかける。
二人とも顔はくしゃくしゃで、声もひびわれていたが、気にもしなかった。
龍麻は新しいティッシュの箱を開けながら、何気なく応じる。
「それにしても?」
「本当に十年で済んじゃうとは思わなかったわね」
愉しげにマリアが笑うと、龍麻は十年前と変わらぬ顔で赤面したのだった。