当時は違った考えだった……のかな?
ハッピーエンド大好き派なのは変わってないですが。
夜も七時を過ぎ、そろそろ飯でも食おうかと立ちあがる。
一人暮らしは良い意味でも、悪い意味でも時間に束縛されることがない。
夜雨が降って都会の喧噪さえ聞こえなくなる時などは寂しくなることもあるが、
龍麻は八ヶ月ほど前から思いがけず与えられた自由を満喫していた。
といっても生活費はそれほど潤沢にあるわけでなく、
自炊もしなければならないしその中でもより質素な、
たとえば海苔だけとか卵だけとかいった食事を取ることも多い。
しかし今日はまだ月も中程であり、残された資金を残された日で割って一日いくら使えるか、
度胸試しのような生活を強いられるほどでもなく、龍麻は外で食事を取ることにした。
金さえ持っていれば、幸い東京は外食に困るようなことは全くない。
今日は何を食べようか、歩きながらじっくり考えようと玄関に向かう。
靴を履いてまさにドアを開けようとしたところで、静かに目の前の、
築年数の割に古さを感じさせる扉が外側から音を立てた。
チャイムではなくノックだから、セールスや勧誘の可能性は低い。
となると知り合いだが、こんな時間から訪ねてくる友達など、京一か雨紋かアランか劉か壬生か村雨か……
心当たりが実はたくさんいることに気づいた龍麻は、頭を掻き回しつつノブに手をかける。
靴を脱ごうかとも思ったが、どうせコンビニにせよ一度は外に出るのだから、
と思いなおしてそのまま来客を出迎えた。
しかし、無造作に開けた扉の前に立っていたのは、その誰でもなかった。
「龍麻様」
「ふッ、芙蓉さん!? ……どうしてここが……いや、なんでここに……?」
龍麻のささやかな居城を訪れたのは、知り合いである御門晴明に仕える芙蓉という名の女性だった。
歳は龍麻たちと同級ということだが、実際のところ彼女には年齢など意味がない。
彼女は御門が使役している式神、つまり実体は一枚の紙札に過ぎないのだ。
龍麻は御門たちと初対面の時にこの事実を知らされているが、
こうして近くで見てもなお龍麻には彼女が人間でないなどと信じられない。
強いていうならば美しすぎる、まさしく人間離れした容姿であると思うくらいで、
龍麻は陰陽術というものの凄さに感嘆するほかないのだった。
「本日より、龍麻様のお傍にお仕えさせて頂きとうございます」
主に仕える存在である芙蓉は、まったく無表情のまま来訪の目的を告げた。
質問には答えず、いつもと同じ、低く抑えた声でとんでもないことを言う芙蓉に龍麻は言葉が続かない。
腹が減っていたのも忘れ、玄関で間抜けに口を開いて立ちつくすだけだった。
彼女はいつもの目のやり場に困る服ではなく、黒を基調としたスーツを着ていた。
切れ長の目と線の細い顎は純和風の顔立ちであったが、
結局美人は何を着ても似合う、というだけのことだった。
それに引き換えこの部屋の主と来たら一人暮らしなのを良い事に全裸一歩手前の服装で、
まさか部屋に女性が来るなどとこれっぽっちも考えていなかったために狼狽も甚だしかった。
天敵に見つかった草食動物の素早さでズボンを履いた龍麻は、
都合の悪い日本語はたちまち聞こえなくなるアランのような白々しさで、
数秒前までパンツ一丁であった事実を抹殺して訊ねた。
「お仕え……って芙蓉さん、御門に仕えてるんじゃ……」
「晴明様にはお許しを頂いてあります」
必要最小限のことを、顔の筋肉ひと筋動かさずに言う芙蓉に、完全に気圧されている。
それは例えば京一などが見たら腹を抱えて笑わずにはいられないだろう醜態だったが、
そんなことを気にする余裕さえ今の龍麻にはなかった。
「そ、そう……それじゃ、とりあえず中に入ってよ」
「お邪魔いたします」
軽く頭を下げて部屋に上がりこんだ芙蓉は、完全に周りの風景から浮いていた。
それはほとんど無きに等しい調度品など単なるデッサンに落としめてしまい、
部屋の主でさえもかろうじて絵の具を塗って貰えるほどのものだった。
部屋の中央まで進んだやり手のキャリアウーマンは、
まだまるで使い物にならない新入社員に向き直る。
その眼光は決して険しいものではないのだが、龍麻の背筋は我知らず伸びていた。
「時に龍麻様、お食事の方は」
「え? あ、まだ……だけど」
まさに今その為に外出しようと思っていた龍麻は、にわかに空腹を思い出す。
しかしそれを訴えるのも恥ずかしい気がして、腹を押さえるのは寸前で踏みとどまった。
「そうですか……それでは、わたくしがお作り致します」
相変わらず抑揚の無い声で芙蓉は言い、滅多に使われることのない台所へと向かう。
狭い空間でのすれ違いさまの表情がわずかに微笑んだように思え、
龍麻はミスをしたものの努力だけは褒めてもらった新入社員のような顔で上司の後姿を見ていた。
とてもあの乏しい食材から生み出されたとは思えないほど、食事は美味しかった。
食器さえ貧弱でなければそれなりの金を取っても良いくらいだ。
小さなちゃぶ台に所狭しと並べられた数々の料理を、
初めは遠慮がちに食べていた龍麻も、その味に自然と箸が加速する。
しかし、いくら料理が美味しくても、その深い夜の色をした瞳を片時も逸らさずに向けられていては、
あまりがつがつとかき込む訳にもいかなかった。
「お味は……いかがでしょうか?」
「う、うん、美味しいよ。すごく」
「それは……ようございました」
なんとなく行儀を試されているような気がして、
味も途中からはなんだか判らなくなってしまったが、なんとか出されたもの全てを胃の中に収める。
良質の食事で腹を一杯に満たし、普段ならここで腹をさすって寝転がりでもするところも、
芙蓉の前ではとてもできなかった。
「お下げしてもよろしゅうございますか」
「あ……うん。ごちそうさまでした」
最後にしたのはいつだったか、などと思いだしつつ手を合わせる。
礼儀正しく頭を下げた芙蓉は手際良く食器を片づける為に立ちあがった。
散々に食べておいて何もしないと言うのは落ちつかないが、狭い台所に二人並ぶのも難しい。
かと言ってテレビなど点けるのももっと気が引ける。
新聞でもあればそれを読む事もできただろうが、生憎そんなものは取っていない。
何もしていないように見えて、その実身体の内側では目まぐるしい速度で思考を連ね、
最終的にはやっぱり何もしていない龍麻が唯一していたことは、
食器を洗っている芙蓉の後姿を見ることだった。
突然押しかけてきた──と言えば他人から羨まれそうではある──彼女は、
こんな時でさえ闘っている時のような緊張感を放ち、ミリ単位の歪みさえ無く真っ直ぐに立っている。
その収まりの良い構図は実に絵になっていて、それは彼女が部屋に溶け込んだ、
と言うよりも部屋の方が彼女に嬉々として従ったかに見えた。
このまま彼女が毎日こうしてくれたらいいかも知れない。
部屋だけでなく、龍麻自身も彼女に感化されはじめていることに、本人は気づいていなかった。
「お茶はいかが致しますか」
「あ……ください」
あっと言う間に後片づけを終えた芙蓉が振り向く。
物音を全く立てずに振り向いたので、龍麻はじっと彼女を見つめていた視線を逸らす暇もなく、
真っ向から見つめ合うこととなってしまった。
もはや敬語なのかなんなのかも判らず、頷いてお茶を頼む。
頼んでからお茶の葉などという代物が家にあっただろうか、
と訝る龍麻だったが、芙蓉は何時の間に見つけたのか、以前に雛乃から貰った茶を淹れて運んできた。
出されたお茶を一口すすり、その間に何から話したものか考える。
「……えっとさ」
「はい」
「……あのさ」
「はい」
「……それでさ」
「はい」
何度言いなおしてもその都度芙蓉は律儀に、しかもはいとだけ答える。
もともと何かあてがあって口を開いた訳ではなかったから、
すぐに龍麻の語彙の倉庫は仕事を放棄してしまった。
おまけに言いなおす度に茶を呑んだ為に、もう湯のみの中は空になってしまっている。
いよいよ切羽詰った龍麻は、湯のみを大事に両手で置いて芙蓉の顔を伺った。
おしろいを塗りたくったように真っ白な、しかし正真証明の素肌には、
まさしく彼女の名に相応しい、芙蓉の花の色の如き唇が彩りを添えている。
そして形良く尖った鼻や、理知的な輝きを放つ菫色の瞳は龍麻を落ちつかなくさせるに充分で、
御門に何度聞いても、顔の造作が完璧過ぎることを除けば
彼女が人間でないとはどうしても信じられなかった。
その芙蓉は今、龍麻の視線を受けてわずかにうつむいている。
良く見れば頬には朱が差しているようで、不思議は不思議なのだが、
それよりも美しさに惹かれてしまってどうしようもなかった。
ちゃぶ台の端を見つめていた芙蓉が、ふと顔を上げる。
注視してしまっていたことに気づいた龍麻は、自らを戒める為に咳払いをした。
軽くしたはずのそれはいやに大きな音を立て、この部屋に初めて上がりこんだ女性が細い眉を寄せる。
「龍麻様……ご迷惑でしたでしょうか」
「いや、そうじゃない、そんなことはないんだけど……その、あんまり急な話だからびっくりしてるんだ」
「そうですか」
そう答えたきり芙蓉は口をつぐむ。
龍麻は芙蓉の言葉を聞くと、なにやらそれが至極当然で、
間違っているのは常に自分の方だという気分にさせられるのだった。
「……それってさ、やっぱり御門の命令なの?」
聞いてから、間抜けなことを聞いたものだと後悔した。
彼女が御門の意志に拠らず行動することなどあり得ないからだ。
「はい……いえ」
しかし、彼女の口から紡ぎ出された返事は、これまでに聞いたことの無い種類のものだった。
龍麻は驚きを顔に出さないよう注意しながら芙蓉の意を窺う。
これもまた初めてのことだが、芙蓉の顔には迷いの色が浮かんでいた。
女性にそんな顔をされてどうしたら良いか解らない龍麻は、ズボンの膝のところをやたらに掴む。
そこにやおら芙蓉が立ちあがったので、
反射的に自分も立ちあがろうとしてしたたかに膝をちゃぶ台にぶつけた。
「……!!」
悶絶する龍麻に構わずちゃぶ台の横に再び正座した芙蓉は、畳に手をつき、深々と頭を垂れる。
そしてその姿勢のまま顔を上げ、ずきずき痛む膝を必死にやせがまんする龍麻に言った。
「龍麻様」
「はいッ」
「不束者ですが、よろしくお願いいたします」
「ふつつか……って……ッ!!」
龍麻はその言葉の正確な意味を知らなかったが、
芙蓉の態度、表情、その他全てが彼女が何を言っているのか物語っていた。
再び額が床に着くほど低頭し、そのまま微動だにしない芙蓉に絶句するのが精一杯だ。
あぐらを掻いている龍麻と、彼の前で三つ指をついている芙蓉は見ようによっては
芝居の一場面に見えないこともなかった。
しかし女優は充分に風格があるものの、俳優の方がどうにも駆けだしの劇団員にしか見えないため、
やはり高校の演劇部がせいぜいと言ったところだろうか。
そして、他に男性部員がいないために仕方なく主役の座を下ろされずに済んでいる俳優は、
芝居全体でも重要な位置を占める場面に差しかかるとたちまちプレッシャーに押し潰されてしまった。
心臓が口から飛びだしそうなほどの勢いで活動し、過剰な血液の循環は逆に身体機能を阻害する。
「お、俺ッ、シャワー浴びてくるよ!」
真っ赤な血が頭に上って思考が真っ白になった龍麻は、ほとんど逃げこむようにして浴室に飛びこんだ。
目一杯シャワーをひねり、全身に湯をうたせながら考える。
痛いくらいの水滴が頭皮を叩いたが、気持ちは全く落ちつかない。
この、初めて直面した事態はとても一人で対処できるものではなく、
誰か──京一でも小蒔でも、この際醍醐でも構わない──に相談しなければ、
答えを導き出すことなどできそうもなかった。
京一などに相談すると何を言われるか解ったものではないが、それでもしないよりはましだ。
明日朝一番で彼らのうちの誰かに電話をして話を聞いてもらうことにして、
今日のところはなんとかごまかして寝よう。
ほんの一歩──それが前進なのか横移動かはまだ解らない──足を踏みだし、
少しだけ気分が平静になった龍麻だったが、彼に安息の日は与えられなかった。
「お背中をお流しいたします」
「うッ、うわぁッッ!!」
シャワーを止め、背中の中心が凝るような、妙な緊張をしながら外に出ようとする。
まさにそのタイミングで扉が向こうから開いたのだ。
文字通り飛びあがった龍麻は、もう少しで自分の家で滑って転ぶところだった。
踵に全体重を支えさせて、掴む所も無い浴室の壁に必死に手を押し付けて堪える。
もちろん全く油断していた為に、タオルなど無く全身を曝けだしている。
急いで両手で股間を隠した龍麻は、
そんなことには一向に構わず入って来ようとする芙蓉を必死で押し留めた。
「い、いやッ、ここ狭いからさ、お背中はちょっと無理だと思うんだ」
「そうですか……それでは、またのちほど」
扉を閉めた後も心臓の鼓動はひどく暴れ回っている。
断じて見るつもりはなかった、と誰に向かってか力説する龍麻だったが、
ちらりと見えた芙蓉は申し訳程度に手拭いで前を隠していただけで、
その豊満な胸も、人が決して踏み入れることの無い地に降り積もる雪のような肌も
一瞬で網膜に焼きついてしまっていた。
再びシャワーを、今度は水を目一杯出し、頭をとことんまで冷やす。
もう秋も相当に深まっている季節ですぐに鳥肌が立ったが、お構いなしに水を浴び続けた。
少しでも動作を止めるとたちまち浮かんでしまう芙蓉の裸体を必死に脳裏から追い出す為に
濡れねずみになった頭を掻き回し、顔をやたらにこすり、
最近習った英語の文章を暗誦することでようやく煩悩を鎮めることができた。
口を開き、大きく呼吸をしながら龍麻はふと思う。
御門にもこんなことをしてきたのだろうか。
だとしたら、なんという奴だ。
理不尽な、そして全く的外れな怒りを抱きつつ、龍麻は浴室から出た。
自分の家なのに、泥棒のように辺りを窺いながら。
裸の男のいる浴室に裸で入ってくるという大胆極まりない行動をした芙蓉は、
まるでそれが龍麻一人の見た夢とでも言うように平然と部屋の真ん中に正座していた。
龍麻はなるべく芙蓉の方をみないようにして部屋の隅っこに座る。
「芙蓉さんはお風呂……って着替えがない……か」
自分でも何を言っているのかさっぱり判らず、ただ口の動くに任せている。
それでも、そもそも式神なのだからお湯はまずいのではないか、などと聞かなかったのは上出来だった。
「ご心配には及びませぬ。手拭いだけを貸して頂ければ」
「あ……それじゃ、手拭いはそこだから」
「それでは、失礼致します」
浴室に消えた芙蓉をじっと見送っていた龍麻は、慌てて目を逸らす。
いくら先ほど向こうの方から入ってきたと言っても、覗こうとかそういう発想は龍麻にはなかった。
しかし、薄い壁の向こう側から聞こえてくる水音は嫌でも健康な肉体に宿る妄想を掻き立ててくる。
それに負けない為には、目を閉じ耳を塞ぎ、更に浴室の正反対の壁を向かねばならなかった。
先ほどは英文の暗誦だったが今度は古文を諳んじながら、芙蓉が出てくるのを待つ。
と言っても普段の行いがこんな時だけ都合良く己を救う事はなく、全く思い浮かばない古文に、
龍麻はこの時ほど真面目に勉強しておけば良かったと悔やんだことは無かったのだった。
長いのか短いのかさっぱり判らない時間が過ぎ、龍麻は背後に気配を感じた。
まず耳を塞いでいた手を、次に目を開け、恐る恐る口を開く。
「……そっち、向いてもいいかな」
「どうぞ」
芙蓉がそう答えても、振り向くまでになお数秒をかけた龍麻が、
風呂から上がった彼女がどんな格好なのかと考えてしまったのは、決して邪な気持ちからではなかった。
その証拠に、来た時と同じ、黒のスーツを着て出てきた芙蓉を見た時、
大きく安堵の息を吐き出したのだから。
それにしても、肌が全く上気していないのは当然と言えば当然なのだが、
白い肌に髪だけがわずかに濡れた輝きを放っている芙蓉は危険なまでに妖艶な美しさだった。
「明日……御門のところに行って話を聞くとして、今日はもう寝ようか」
「ご随意のままに」
寝る、と言ってしまってから龍麻は自分の言葉の意味に気づいて慌てる。
彼女の方にその意志があるのがはっきりと解っていても、そういうことをするつもりはなかった。
彼女が人間でないから、と言う発想からではない。
単に、いきなり押しかけてこられてさあどうぞという、
いわゆる据え膳を食べられる性格で無いだけのことだった。
現につもりは無いと言っても、それを支える理性の糸は一秒ごとに細くなっている。
今はまだ切れる心配は無いが、起きていればいるだけ危険に近づいていくのだから、
自分と彼女を守る為にもさっさと寝るのが一番良い選択のはずだった。
龍麻の言葉を理解したのか否か、芙蓉は至極あっさりと頷いただけだった。
「それでは……申し訳ありませぬが、しばし、向こうをむいて頂けませぬか」
龍麻に否やはなく、後ろを向き、更に目を覆う。
「お待たせ致しました」
芙蓉はそう言ったものの、実際には一秒も経っていなかった。
何事が起こったのか恐る恐る振り向くと、
そこにはそれまでとは全く異なる視覚効果をもたらす芙蓉が立っていた。
黒いスーツから一変して、白無垢の寝間着に身を包んでいる。
場所が場所なら幽霊に見えてしまうかもしれない、
などと不謹慎なことを考えた龍麻は首を思いきり振って自分を叱った。
「いかが致しましたか」
「な、なんでもない。それよか、そんな服持ってきてたんだ」
「はい」
彼女は手ぶらで来ていたし、持ってきているはずがないのは明らかだったが、
こうもはっきり頷かれてはそれ以上訊きようも無い。
言葉を失った龍麻は、逃げるように布団を敷いた。
もちろん自分以外の誰かが寝ることなど考えてもいなかった部屋は、
一人分の布団さえ敷くのがやっとなほど雑然としていて、
そもそもこの家には布団が一組しか無い事にようやく気づく。
「え……っと、んじゃ芙蓉さん布団使ってよ。俺は台所で寝るから」
板張りの台所はさぞや背中に悪いだろうが、龍麻にも男のプライドと言う物があった。
枕だけはなんとかしようとその辺にあった雑誌を数冊掴み、隙間風吹きすさぶ戦場へと旅立つ。
格好をつけた背中に、女の声が降りかかってきた。
「わたくしのことはお気になさらないでください」
「あ……」
芙蓉は式神だから、その気になれば眠る場所など必要ないだろうし、
そもそも寝る必要さえないのかもしれない。
自分のうかつさに赤面した龍麻は、なかなか芙蓉の方を振り向けなかった。
「それじゃ……俺が布団使っちゃうよ」
「はい」
申し訳なく思ったものの、彼女が、
どういう気紛れにせよ主と呼ぶ自分を差し置いて布団で寝るとは思えない。
見られている前で寝るのは恥ずかしくてたまらなかったが、
彼女はじっと見つめたまま動こうとしない為に龍麻は仕方なく布団に潜りこんだ。
すると。
「ふっ……芙蓉さん!?」
「一度……こうしてみとうございました」
龍麻の声はひどく裏返っていて、彼の受けた驚きを如実に語っていた。
とても二人は寝られない、龍麻一人でさえやや窮屈な布団。
そこに、女性にしては相当に長身の芙蓉が潜りこんできたのだ。
たちまち麻痺する龍麻の胸を手繰り寄せた芙蓉はそこに顔を埋める。
こんな風に女性と抱きあったことなどない龍麻は、
どうして良いか判らずただうろたえるだけしかできなかった。
「あっ……あの」
頭の中でぷちぷちと音がして、それが糸が切れる音だと解った時は、もう遅かった。
先程まで偉そうに自分を諌めていた理性はどこへやら、
もうどうにでもなれという感情が怒涛の勢いで押し寄せてくる。
そしてそれを手助けしたのが次の芙蓉の一言だった。
「龍麻様の氣が……わたくしにも感じ取ることが出来ます。暖かくて……とても心地良い……」
「芙蓉……さん……」
そうしてしまって良いのかは判らなかったが、彼女がそうして欲しがっているのは解った。
だから、龍麻は迷わなかった。
じっと胸に顔を寄せている芙蓉の顔を掬いあげ、唇を寄せる。
「あっ……」
驚く形に開きかけた口を、そのままの形で塞いだ。
シャツにしがみつく手の感触を心地良いものに感じながら、身体を手繰り寄せる。
そこには微かな震えがあり、温もりがあった。
そして、それは唇にも。
不意に強い情に包まれて、龍麻は力の限りに芙蓉を抱き締めていた。
永い時が流れていた。
式神として命を吹きこまれてから今までよりも、ずっと永い時が。
それが主観的な感覚であり、実際には数秒でしかない事を芙蓉は理解していた。
彼女にとって初めてであるその感覚は、さほど戸惑いもせずに受け入れることができ来たが、
もう一つの初めて、男に──人間に抱きしめられていたい、という感情は理解できなかった。
ただ、そう想うだけだった。
人が欲望に溺れる様を数百年の長きに渡って見てきた芙蓉は、
男女の機微など愚かしいものとしか思えなかった。
それは傍観者としてではなく、
欲望のはけ口として使われることもあった立場からの認識であり、確信であった。
それが変化を遂げたのは、主人である御門を通して龍麻と知り合ってからだった。
彼のほうから接触があった訳でもない。
別に会話らしい会話を交わした訳でもない。
それなのに、気がつけば、彼はこれまでに会った誰よりも、
歴代の主達にさえよりも遥かに強い憧憬の念を彼女に抱かせていた。
自分でも解らぬその想いを説明してくれたのは、御門と村雨だった。
尤も、二人とも口に出してではない。
ただ、龍麻の所に行けと、そう言われただけだった。
そうすれば解ると。
それでもなおためらいを見せる芙蓉に、御門は命令という形で彼女の背中を押した。
更に村雨が、いつもの小馬鹿にした口調でなく、
ひどく真剣な顔をして初めは料理を作ってやれ、と言った。
村雨の言う事はともかく、主に命ぜられたのなら従うまで
──そう考えて龍麻の所に赴こうとした芙蓉には、しかし確かにそれを嬉しく思う気持ちがあった。
それからのことは、あまり覚えていない。
覚えているかも知れないが、思いだしたくなかった。
今、こうしてかの人に抱いてもらい、唇を重ねている──それで充分だった。
「これが……接吻……」
唇に指を当てて呟く芙蓉に、龍麻は最初反応を示さなかった。
接吻、という古風な言葉を理解するまでに少し時間がかかったからだ。
「芙蓉さん……もしかして、キス、初めて?」
「……はい」
少しうろたえているらしい芙蓉が、たまらなく可愛かった。
腕を背中に回し、そっと力を込める。
「あっ……」
一瞬強張った身体が、密着してきた。
両腕でそれに応えた龍麻は、そのまま彼女を寝かせ、上になる。
着物など脱がせたことが無いために、四苦八苦して肩をはだけさせた。
芙蓉はその薄い寝間着の他には何も身に着けていなかった。
うっすらと浮かぶ着物の線に沿わせた手を、ためらいがちに内側に忍ばせる。
「……」
幾度かその辺縁だけを覗いたことがある膨らみは、思った以上に大きかった。
全体をなぞるように掌を動かすと、乱れた襟から零れだす。
埋没しそうに柔らかな球体に、逆らうことなく指先を沈め、掴んだ。
手の中で自在に形を変える肉の塊を、やんわりと捏ねる。
ひとたび動き始めた手は、とどまることなく峻嶮な山を登り、千尋の谷を降る。
征服しつくすことの決して無い神秘の峰は、たちまち龍麻を虜にしていた。
「……」
しかし、激しく、音が聞こえてきそうなくらいの蹂躙にも、
芙蓉は声を上げず、ただ手の甲を口に押し当てている。
その心底困り果てているような顔に、ひどい罪悪感に囚われた龍麻は一度愛撫を中断した。
「芙蓉さん」
「はい」
「あの……気持ち……いい?」
「はい……とても……気持ちよう……ございます」
芙蓉の表情からは、それが本当か否かは窺えなかったので、龍麻としては信じるしかなかった。
「そっか……ごめん、変なこと聞いて。
俺も……その、初めてだからさ、あんまり……上手くできないかも知れないけど」
乳房の横に置いた腕を思いっきり突っ張らせてそう言った龍麻の顔は、
珍しく、というよりも人生の通算でも数回ぶりの緊張が浮かんでいた。
額に汗を滲ませている男の顔を下から見上げた芙蓉は、長い睫毛を伏せ、
胸を両腕で隠すようにして言った。
「龍麻様」
「ん?」
「本当に……わたくしなどで宜しいのですか」
「芙蓉さんはさ、俺でいいの」
自分の意志はとうに定まっているが故の龍麻の質問だったが、芙蓉の返事は少し怒っていた。
「わたくしの質問に答えて頂いておりませぬ」
感情を露にする芙蓉を初めて見た龍麻は、笑いの波動を吐き出しそうになって口を抑えようとするが、
両手が塞がっている為に腹筋で無理やり封じ込める。
その結果、わずかに息が漏れ出て力が抜けてしまい、もう少しで彼女の上に倒れるところだった。
「宜しいよ。宜しいに決まってる」
「そ、それでは……わたくし……も……」
風に散る花片のような儚さで答えた芙蓉に、静かに口付ける。
さっきよりも長い──主観でなく、客観的な──時間が過ぎ、龍麻が顔を離すと、
芙蓉の頬は鮮やかな真紅に染まっていた。
「お願いが……ございます。灯りを……消して頂けませぬか」
小さく頷いた龍麻は照明を消し、自らの衣服を脱ぐと、改めて芙蓉の肢体に覆い被さった。
そして、もっと早くそうすべきだったと後悔する。
生白い身体が、薄闇の中に蒼くさえ浮かび上がっていた。
その幻想的な光景に欲望が燃えさかり、心を焦がす。
龍麻はそれまでの余裕も失い、自分の下で横たわる芙蓉の躰へと意識を集中させた。
先程まで触れていた蟲惑的な丘に、今度は顔を寄せる。
豊潤な膨らみを存分に口に含み、中で硬さを増す蕾を夢中になって転がした。
逃げまどうそれを歯で捕らえ、咥え、噛む。
甘く、自らの為に存在するような錯覚さえ覚えるほどの乳房。
それを求める龍麻の愛撫は次第に激しく、そして的確なものになっていった。
「あぁ……っ……」
はっきりとした喘ぎが耳に届き、体温が上がるのを自覚する。
もちろん初めて耳にすることとなった乱れ声を、もっと聞きたい。
龍麻はもう片方の乳房にも手を添え、うねるように揉みしだいた。
「はぁ、ぁ…………ん…………んっ」
激しい官能に抗うように龍麻の愛撫と異なるリズムで喘ぐ芙蓉だったが、
耐えきれず次第にその間隔が狭まっていく。
緩やかな曲線を描いている肢体もいつしか反りかえり、
頭と臀部、それに足先だけが布団に接するだけとなっていた。
なおも執拗に胸を責める龍麻に半ば流されていた芙蓉はふと我に返り、
胸元を覆う黒髪に向かって呼びかける。
「龍麻様」
「ん?」
行為の最中に急に名前を呼ばれ、龍麻が恥ずかしそうに顔を上げる。
芙蓉はそれに負けず劣らず羞恥に顔を染めて囁いた。
「お身体を……抱きしめてもよろしゅうございますか」
「……いいよ」
頷いた龍麻は、ゆっくりと力を抜き、体重を彼女に預けた。
ほどなく細い腕が背中に回され、力が篭っていく。
その強さは彼女の方が苦しいのではというほどだったが、無論抗議などせず、
肌を重ね、時を同じくする幸福に首まで浸かった。
二人とも無言のまま、静かな呼吸音だけが部屋に響く。
それが十を数えた頃、掠れた声が二人の間の空気を震わせた。
「……龍麻様」
「うん」
「お情けを……頂戴しとう……ございます」
それもまた古風な、龍麻の知らない言葉だったが、今度はすぐに理解した。
身体を起こし、下腹へと移す。
淡雪積もる中に残された足跡のような蔭りを目印にして、彼女の中心へ。
閉じ合わされた襞を指で掻き分け、洞の周縁にそっと口づけた。
「く……っ、あぁ……」
艶かしく太腿を動かして快楽に興じる芙蓉にそそられて、更に内側を舐める。
まとわりつく粘液は多く、そして絶えず溢れだしてきていた。
舌に絡む淫水が大きな音を立てる。
半ば無意識にそれを啜った時、芙蓉の腰が卑猥に跳ねた。
「はぁぁっ! た、つま……様……」
切なげに呼びかける声に応え、龍麻はいよいよ彼女とひとつになることにする。
しかし、そう決めた途端、かつて無いほどの緊張が襲ってきた。
全く思い通りに動かなくなった身体を無理やり動かし、手探りでその場所を探す。
焦れば焦るほど手が震え、困り果てた挙句、ようやくそれらしき場所に先端が触れた。
「あ、え……っと、ここ……でいいのかな」
「……はい」
芙蓉の声に励まされるように、彼女の中へと己を沈めていく。
それは予想していたのとは異なり、あっけないほど簡単に収まってしまった。
「龍麻……様……」
感極まったような芙蓉の声も、龍麻には届いていない。
下半身を根こそぎもがれたような快感に、それどころではなかったのだ。
初めて味わう感覚にたちまち陶酔した龍麻は、挿入の感慨に浸ることもなく腰を打ちつけ始めた。
「あっ……あぁ、はぁっ……」
龍麻とは異なり、彼が初めての男ではないはずの芙蓉も、
これまでのものとは全く異なる、深い喜びに身体が甘く痺れている。
それは単に即物的な喜びだけでない、心の内側から湧き起こる悦びだった。
熱い肉塊が押しこまれる度にそれらが渦巻いて燃え、どろどろに溶けていく。
そうしてできた溶岩の如き快楽は、すぐに芙蓉を呑みこみ、
人に非ざるはずの彼女に生を与えることとなった。
打ちこまれる男根をより感じようと、足を龍麻の腰に絡みつかせる。
それだけでなく全身を撓め、指先までもを凝縮させて龍麻を感じ取るべくしがみついた。
「……っ、芙蓉……さん……」
歯の隙間から絞り出すような龍麻の声が、髪を揺らす。
名を呼ばれることがこんなにも心地良いことだと、芙蓉は初めて知った。
汗を掻いた人の肌と、そこから漂う匂いがこんなに愛しいものだとも。
彼女は今、図らずも生まれたばかりの赤子のような格好をしていたが、
それはまさしく、新しい誕生を象徴していた。
身体の全てで龍麻を感じ取ることができる。
そして、龍麻を想うことができる。
しかし、その劇的な変化を、未だ芙蓉は捉えておらず、
短い間隔で突きこまれる男根に、ただ夢中で動きを合わせるだけだった。
「くぅぅっ……はっ、あっ、あぁっ」
苦悶にも似た表情で快感を露にする芙蓉の声色が、急に変わった。
それと共に、それまで己の動きこそが快楽の源泉だと思っていた龍麻だったが、
己を預けている芙蓉の内壁が、絶妙な緩急でまとわりついてきた。
全く制御できない快感が流れこんできて、腰が止まらなくなる。
猛る屹立は絡みつく媚肉をものともせず躰の奥へと割って入り、雌を征服しようと咆えるが、
それも一時のことで、すぐに押し寄せる秘肉に圧倒されてしまった。
「芙蓉……さん……っ、ごめん、俺……も……う……っ」
「わた……わたくし……も…………あぁ、龍麻……様……!」
限界が近いことを感じた龍麻はそれを芙蓉に告げる。
芙蓉はそれに答えたものの、抱きついた身体を離そうとはしなかった。
「……っ、くっ……!」
「はっ……あぁ……あぁぁっっ……!!」
先に射精を迎えた龍麻が、芙蓉の体内へと精液を注ぎこむ。
それにほんのわずかだけ遅れて、か細く、長い絶叫と共に、芙蓉が果てた。
歩調を合わせた絶頂は長い余韻を二人に与え、
二人とも射精が終わった後もしばらくの間身動きも出来なかった。
精魂尽き果てたように寝転がる龍麻に愛しげな瞳を向けた芙蓉は、
龍麻がゆっくりと眠れるよう布団から出ることにした。
「失礼いたします」
自分だけに聞こえるようそう告げ、数瞬の名残惜しさと共に身体を離す。
するとその腕が力強く掴まれ、再び身体が密着した。
「いいよ……今日は──今日からずっとここで。ちょっと狭いけど」
「……はい」
芙蓉は乱れた寝間着を整えようとして止め、差し出された腕に頭を預けた。
明日にもこの家の中を主の為に綺麗にするつもりだったが、
この、寝る場所だけはこのままで良い、と思いながら、男の腕の中で目を閉じた。
翌日。
「おい御門! どういうことだよ!」
「なんですか、全く騒々しい」
御門が張っている時空の狭間には、彼が好む音以外は入ってこないようになっていた。
そして彼が好む音などこの世にはそう数多くないので、
普段は澄み渡った空気そのものが冷涼な調べを奏るに留まる。
そこを耳障りな声に荒し回られて、御門は不快げに闖入者を見やった。
「なんですかじゃねぇよ。芙蓉さんをよこしたの、お前だろ」
「そうですが、それが何か」
「何か……って、その、なんだ、そう、なんで急に護衛なんて」
流石に芙蓉の主だけあって、微塵も揺るぎを感じさせない態度は、
龍麻などでは容易には崩せそうもなかった。
大体にして龍麻自身実はもう、
芙蓉が自分のそばにいることに疑問も不満もないのでその勢いも自然と弱くなっている。
しかし、はっきりさせておかなければならないことというものはあるのだった。
そんな龍麻を冷たい視線でひと撫でした御門は、物解りの悪い学生に講義する教授のように語りかけた。
「いいですか、あなたのような取るに足らない存在でも、その命を狙う者がいるのは確かな事。
あなたが死ぬと行き場を失った龍脈が乱れる事になり、
そうなると流石の私でも少々やっかいな話になるのです。
ですから、芙蓉を護衛につけてあげると言うのです」
実に恩着せがましい説明に、龍麻は納得しなかった。
「そりゃそうかも知れないけどよ、何も四六時中護ってもらわなくても」
「ふむ。あなたがそれほど嫌だと言うのなら仕方がない、芙蓉には戻らせましょう」
「待て、俺は別に嫌だとまでは……」
御門は妙に急いた様子で、龍麻が止める間もなく素早く印を切る。
しかし、芙蓉の身体には何の変化も訪れなかった。
「……おや?」
わざとらしく呟いて、もう一度複雑な印を寸分違わず切ってみせる。
何が起こっているのか全く解らない様子の龍麻に、御門は失笑を堪えて手にした扇子で口元を覆った。
「……ふむ、緋勇、あなたはもしかして……芙蓉と契りを交わしましたね?」
「!! なッ、何言い出すんだお前ッ!!」
「隠しても無駄です。あなたの軽率な行動により、芙蓉は龍氣をその身に宿しました。
これによって、芙蓉の主人はあなたへと変わったのです」
「んな馬鹿な……」
「馬鹿とは、自分よりも頭の悪い者にしか使ってはならない粗雑な言葉なのですよ。
覚えておきなさい。
それで、馬鹿なあなたに教えてあげますが、あなたの龍氣というのは地球の力そのものという
途方もないエネルギーなのです。我々陰陽師が吹きこむ巫力などとは比べ物にならない程の」
「なんだそれ……」
黄龍の器たる自分が持つ力について龍麻は知らなかった訳ではないが、
敵を打ち倒す以外に使い道があるというのは初耳だった。
もっとも、こんな使い道を誰かが教えてくれるとも思えない──
そこまで考えたところで、龍麻の頭に閃くものがあった。
そんな重要なことを芙蓉が知らなかったはずがないのだ。
龍麻は先ほどから黙ったままの芙蓉を見たが、そこにあったのは、自分よりも驚いている顔だった。
「知らなかった……の?」
「はい」
やはりそうだろう。
知っていたら、自分に言わなかったはずがないのだ。
だから彼女は悪くない。
考えを都合良く正反対の方向に切り換えて芙蓉を擁護する龍麻に向かって、御門の冷たい声が飛んだ。
「どうしますか? 私が安倍様に頼めば術を解いても貰えるでしょうが」
嫌な奴だ、と龍麻は思った。
そんなつもりがない事を熟知していてわざとそう訊ねてくる。
そして御門の目の端は、そう龍麻が思っていることをも知っていると伝えていた。
この同い年にしては口と態度が悪すぎる男をどうすればやりこめられるのか、
真剣に考えようとした龍麻だったが、その前に確かめなければならないことがあった。
自分と目の前にいる男以外の、もう一人の気持ちを。
「……芙蓉さんは……それでいいの?」
「それで、とは」
緊張をはらませて尋ねる龍麻に、芙蓉はこの異空間に入ってから初めて龍麻を、新しい主の顔を見た。
その、普段と何ら変わるところがないように見える表情に、負荷のかかりすぎた龍麻の胃が痛み出す。
「う……その、俺と……ずっと一緒で……」
「龍麻様がお望みとあらば」
「あ……う……うん、俺は……お望み……だけど……」
つっかえつっかえながらもなんとか想いを伝えた龍麻に、芙蓉の口元が少しだけ緩んだ。
自分の胸元──心臓のある位置に手を置き、深い情を込めて答える。
「これは……龍麻様に与えて頂いた命。
ならばわたくしは、この命尽きるまで龍麻様にお仕えさせて頂きます」
「う、うん……こちらこそ、よろしく」
来た時の勢いは何処へやら、照れくさそうにして龍麻は芙蓉の傍に立ち、御門の張った結界を後にする。
小さく印を切って元の世界へ戻る寸前、芙蓉はかつての主に小さく頭を下げた。
それに対して御門は扇子を閉じ、軽く手首を振る。
彼流の別れの挨拶は、しかし芙蓉の目には入らなかった。
彼女達が姿を消して数秒後、御門の後ろの木陰から大柄な男が姿を現す。
不精髭を生やした顔も、背中に派手な刺繍が施された学生服も、
とても御門の美意識に叶うものとも思えなかったが、
彼は紛れもなく御門の友人たるを許されている数少ない一人だった。
「へッ、あれで良かったのかよ」
「……仕方ないでしょう。もはや彼女の想いは普段の命に妨げになるほどになっていました。
であれば、彼女により良い環境を与えてやるのも主人の努め。当然のことをしたまでですよ」
「そんな事言ってよ、式札って一枚欠けても大変なんだろ? その安倍って奴にどう説明すんだよ」
「ああ……それですか。……そうですね、お前には話しておいたほうが良いかもしれませんね」
そこで言葉を切った御門は、続きを言いたくてたまらない目をしていた。
御門とつるんで三年、村雨は初めてこの男のこんな顔を見た。
「どういうことだ」
「実は、芙蓉は──彼女は、もう式神ではないのですよ」
「どういうことだよ」
御門の放った無形の爆弾の衝撃に、流石の村雨も芸のない反応を繰り返すしかなかった。
「先程龍麻達に話したこと、あれは嘘ではないのですが、
龍氣というのは全く私の予想を超えた力のようで、今の芙蓉は既に──肉を持ち、心を宿しています」
「んな馬鹿な……」
それは龍麻が言ったのと同じ台詞だったが、今度は御門は指摘しなかった。
彼自身も、他人に話すことでようやく動揺を抑えている有様だったからだ。
「ええ、私も我ながら馬鹿なことを言っていると思います。しかし──事実です」
「……とても信じられねェが、それならそれで何で教えてやらなかったんだ」
「放って置いてもいずれ気づく事。ならば本人達に気づかせた方が良いではないですか」
御門の性格の悪さを承知している村雨は、もう何も言わなかった。
奇蹟と言うよりおとぎ話の領域に旅立った二人を思い、呆れたように首を振る。
「ッたく──面白ェな、あいつは」
「フッ、全く。……ところで、村雨、ひとつ賭けをしませんか?」
「賭け?」
御門の口から賭けなどと言う言葉が出るのも異例のことで、
この日の村雨はすっかり防戦一方に回らざるを得なかった。
「ええ。彼らが──子を産めるかどうか。私は産めると思うのですが」
しかし賭博師の賭博師たる所以は、一度の負けを引き摺らないことだ。
体勢を立てなおした賭博師は、この上ない刺激的な賭けに一も二も無く食いついた。
「よし、乗った」
「……お前はやはり、現実主義者なのですね」
自分こそが現実主義者のはずの御門は、賭けの成立にもどこかつまらなそうに呟いたが、
村雨の台詞はそこで終わりでは無かった。
「二年以内だ」
「え?」
「今日から二年以内に妊娠する。二年を過ぎたらお前の勝ちだ」
意表を衝かれた、というよりも毒気を抜かれた態で御門は友人の顔を見る。
「お前は、そもそも妊娠しないとは思わないのですか」
「ヘッ、しない訳ねぇだろ。アイツは芙蓉が家に来たその日に据え膳食っちまうようなヤツだぞ。
二年だって長ぇかも知れねぇ」
小汚い帽子を被り直して、村雨はそう言ってのけた。
普段の彼なら眉をしかめて無視する諧謔であったが、今、御門は笑っていた。
扇で口許を隠すことさえせず、村雨が唖然とするほど満面の表情で。
長い陰陽の歴史に於いても空前にして絶後であろう事態は、
そうするだけの価値が十二分にあるものだった。
「……それで、何を賭けましょうか」
「そうだな、どうせアイツらのこった、先に結婚はしねぇだろうから……」
「いいでしょう。負けた方が式の手配、司会その他全てを取り仕切るということで」
「よし、賭けは成立したぜ。ちゃんとアイツらのこと、見張ってろよ」
「任せておいてください」
頷いた御門が笑う。
その笑顔は、自分と同種のものであると村雨には思えたのだった。