生白い身体が、薄闇に舞う。
生命の躍動に溢れるその動きは、一瞬たりとも滞ることがない。
身体が持つ柔らかな曲線が、動きによって極限までくねり、しなる。
焔のようにゆらめいていた肢体は、かすかな嗚咽と共にやがて力を失い、静かに伏せた。
「ん……」
自然と重なる唇を、龍麻は万感の思いで受けとめていた。
散らばった髪を梳いてやりながら、彼女の温もりを感じ取る。
柔らかな太腿、呼吸に合わせてゆるやかに触れる腹、そして確かな重みを感じさせる乳房。
情交の余韻が色濃く残る肌は、血の通う存在でなければ持ち得ないものだった。
一度閉じた目を、龍麻は薄く開く。
漂う体香は汗の臭いが混じった、少し鼻にかかる匂いだ。
しかし、龍麻はそれを、鼻腔深くに刻みつけた。
それは、生命の匂いであったから。
「龍麻様」
名は、吐息にまぶされる。
囁きよりももっと儚い、積もることの無い雪のような淡い声。
耳朶に残るその雪片を、龍麻は崩してしまわないようそっと答えた。
「なに?」
「いえ……なんでもございません」
それも、往古の彼女ならば絶対に言わない台詞だった。
言いさして止めるのではない、最初から言うつもりのない戯れ。
わずかな沈黙でそれに答えた龍麻は、背中の中心に指を触れさせた。
肌を覆う、今は無粋な黒い海をかきわけ、縦に走る隆起に沿って、ゆっくりと上に進ませる。
首の付け根にある、彼女が好きな場所を幾度か撫でてやると、
身体から力が抜け、彼女の重みが増した。
もちろんそれは、龍麻にとって支えがいのある重みだった。
もう片方の手、彼女にあやされていた手も、背中に回し、環の中に閉じこめる。
それを望んでいたかのように頬を寄せる彼女に、愛おしさが抑えきれない。
「芙蓉」
「はい」
呼びかけに応える声は、聞いているだけで酔いそうなほどに心地良いものだった。
事実、聞いただけで満足してしまった龍麻は、語を継ぐことはせず、
ただ、意識を芙蓉に向ける。
名を呼ばれた芙蓉は、それきり何も言わない龍麻に機嫌を損ねるでもなく、
有限となった刻の中で、無限に感じられる瞬間に身を横たえていた。
龍麻の呼吸と、鼓動。
そして、己の呼吸と、鼓動。
時に重なり、時に別れる音は、まどろみという、
これまで彼女が知ることの無かった心地を教えてくれた。
五感を持った日のことを、芙蓉は覚えていない。
それを告げた時の、龍麻の呆然とした顔は良く覚えているのだが、
それよりも前にあるはずの、自分が式神で無くなった瞬間がいつなのかは判らなかった。
きっと初めて龍麻に抱かれた日なのだろう、とは思う。
想いを受け入れてくれた新たな主の声、笑顔、匂い……
それらの記憶は、ほとんどがその日を境に宿されているものだから。
まどろみながら龍麻と過ごした日々を辿るのは、幸せなことだった。
しかしこの姿勢では龍麻の負担になると思い、芙蓉は彼の横に居場所を移そうとする。
すると腰に、いつのまにか龍麻の手が置かれていた。
剥がすべきか迷った芙蓉は、小さな葛藤の末、誘惑に負け、もう一度まどろみに落ちることにした。
温もりを子守唄にし、半ば眠りに落ちていた龍麻が目覚めたのは、小さな空気の動きによってだった。
芙蓉の重みも眠気の彼方に消え、そのまま寝ようとしていた龍麻の耳に、彼女の呼吸が流れこんでくる。
恐らく彼女自身も意識してはいない、力の抜けた呼気。
自分達以外に誰もいなくなった世界で、その音色だけがはっきりと響き渡った。
音色を聞いた途端、力を失っていたものが再び立ちあがる。
どうにも抑えの効かない自身に、龍麻は自分が悪いんじゃない、
男の生理機能が悪いのだ、と心の中で弁解した。
しかし押し寄せる波に逆らうつもりもなく、
やはり目を閉じていた芙蓉の腰から臀部へ、機嫌を覗うように掌をなぞらせた。
長い睫毛が動き、そ知らぬ顔をしようとした龍麻をじっと見据える。
菫色──と、語彙が貧困な龍麻はそう言うしかない彼女の瞳の色は、
その奥に別世界を有しているかのような深い煌きを放っていた。
彼女は人に変じ、情を交わしてからも主従のように接し、折り目のついた態度を崩すことはない。
にも関わらず龍麻は、実は自分の方が彼女に従っているのではないか、
と思わされることがある瞳だった。
その瞳は今、何かを訴えかけるように潤んでいたが、不意に視線が外れる。
「龍麻様の、ご随意に」
小さく微笑んでそう答えた芙蓉の顔は、艶やかに染まっていた。
軽く唇を合わせた龍麻は、彼女を下に組み敷き、もう一度唇を重ねる。
紅によらずとも紅い、血の通った唇。
龍麻が目を閉じ、柔らかな感触を味わうことに集中していると、後頭部に手が添えられた。
万事に異を唱えず、楚々として付き従う彼女が見せる、意思。
無論否やのあるはずが無い龍麻は、より強く唇を押しつけて彼女に応えた。
迎え入れる舌先よりも速く、口内へ舌を潜りこませる。
漏れる苦しげな呻きが、蹂躙を加速させた。
「うっ……ぅ……んっ」
息を継ぐ間さえ与えず、ざらざらとした舌の表面を撫でる。
唾液がまとわりつく軟質の肉を龍麻が弄んでいると、
一時はされるままだった芙蓉の舌が、性急さをたしなめるように蠢き始めた。
時に蛇のように、時に濡れた和紙のように。
その物腰からは想像もつかないほど淫らに蠢く彼女の舌はたちまちに龍麻から力を奪っていく。
勢いを削がれた龍麻は、一度顔を放し、軽く呼吸を整えてから改めてキスを始めた。
「ん……ん……」
巻きついた舌をきつく絡め、痺れるほど吸い上げる。
もどかしげに求めあう舌は、口の中で溶けあうかというほどとろけ、ぬめる。
相手を欲する気持ちは、どちらがより勝っていただろうか。
お互いの身体に貼りつかせた手はしっとりと汗をかき、身体全体も熱を帯びる。
身体はほとんど動かさず、ただ顔だけをせわしなく動かす二人の姿は、
この上なく猥雑な美しさに満ちていた。
「は……ぁ……」
名残惜しげに唇を離し、もう一度だけ軽いキスを放ってから顔を離した龍麻は、
芙蓉の額にかかる前髪を、そっと梳いてやる。
そうされている間もじっとこちらを見ている芙蓉に、不意に愛しさがこみ上げた。
「いかがされました」
「綺麗だよ、芙蓉」
「……お戯れを」
芙蓉は睫毛を伏せ、わずかに顔を傾けた。
一緒に暮らし始めてから幾度も言ったこの言葉に彼女が反応を見せるようになったのは、
それほど昔のことではない。
普段は冗談にもほとんど笑わず、そもそも感情を表に出さない彼女が、
初めて恥ずかしさを露にした時、龍麻はかつてない胸の高鳴りをおぼえたものだった。
しかもそれ以後も、彼女は何度同じ台詞を繰り返してもその度に同じ反応を繰り返し、
当然龍麻も同じ高鳴りをおぼえ続けるのだった。
今も、恥ずかしがる彼女を見られるのは自分一人の特権とばかりにじっと見る。
すると彼女はいよいよ顔を赤らめ、龍麻の悪趣味を助長してしまうのだった。
「芙蓉」
散々に悪趣味を堪能した龍麻は、詫びるように顔を近づける。
しかし彼女の望んでいたことはせず、黒髪の中へと埋めた。
甘い芳香が満ちる海の中をかき分け、目指す場所へと辿りつく。
「愛してる」
彼女以外の誰にも聞こえないよう、直接注いだ言霊は、
目を閉じ、恥ずかしさに耐えながらではあったが、気持ちに偽りはない。
あるはずがなかった。
何故なら、彼女と暮らし始めて二年余、龍麻はこのたった五文字の言葉を初めて口にしたからだ。
言おうと思ったことは数知れず、口を開くところまでいったのも片手の指では足りない。
何故今日に限って言えたのか、自分でも良くわからないが、
その理由について考えるより、彼女の反応を知る方が先だった。
息を殺して待っていると、初めて聞く響きを帯びた声が漂ってくる。
「わたくしは……幸せにございます。貴方と言う主を得、勿体なき御言葉まで頂戴いたしまして」
「勿体なくはないさ。芙蓉が……俺のことを愛してくれるなら」
身体を起こした龍麻は芙蓉をまっすぐに見つめる。
芙蓉は今度は目を逸らさず、その瞳に龍麻をはっきりと映した。
「わたくしは、愛とはどのようなものか、未だわかりませぬ。
ですが、貴方を慕い、こうして腕の中にいることに……無上の安らぎと心地良さを感じております」
まだ感情というものを覚えて日が浅い芙蓉は、
龍麻などよりもよほど真剣に自分の心の機微について思考を巡らせているようだった。
戸惑いながらも理解しようとしている彼女を、龍麻は手助けしてやる。
それは、自分の心に向き合うことでもあった。
「俺だって、はっきり愛とはこうだって解ってる訳じゃないよ。
でも、同じ……こうして一緒にいることが、凄く幸せだと感じてる」
「では、わたくしも……愛している……と申し上げてよろしいのですか」
龍麻は頷き、耳をすませて彼女の口から永く記憶に刻まれるべき言葉が発せられるのを待った。
彼女の唇が、わずかに震える。
「龍麻様……愛しております。わたくしは、貴方を愛しております」
「……っ」
充分に予想していたにも関わらず、
龍麻は急激に膨れ上がった万感の想いをせき止めきれず、口から逃してしまうところだった。
慌てて唇を噛んで顎を引く。
とっさにできたのはそこまでで、後は彼女を強くかき抱き、拙い言葉でそれを伝えることしかできなかった。
「俺も……愛してるよ、芙蓉。愛してる……凄く」
激情を静めるために口にしたはずなのに、言う度に新たな想いが氾濫してしまう。
とうとう静めることを諦めた龍麻は、ただ肌を触れ合わせ、思いの丈を全身で伝える方法を選んだ。
「龍麻……様……」
見ようによっては冷ややかな、とも受け取れる芙蓉の瞳は、今、一目してそれと判るほど濡れていた。
彼女の手が頬に触れ、そっと滑る。
目を閉じる寸前、龍麻は、心地の良い熱さをまぶたの裏に感じていた。
動きの遅い、ひどく甘いキスを交わしながら、
掌に余るほど大きな乳房を、同じくゆっくりと捏ねあげる。
新雪を固めただけのような白い膨らみは、
触れられるのを待っているかのようにほのかに熱を帯びていたが、
龍麻が指を這わせるとたやすく溶けてしまった。
「ぁ……」
硬くなり始めた頂を掌の中央で転がし、完全に硬くしたそれを爪先で引っ掻く。
「う、ふ……」
キスを交わしたままの芙蓉の口から、色を帯びた呼気がこぼれた。
それは満足しているようにも、より強い刺激を求めているようにも聞こえ、
龍麻は柔らかさと硬さを同時に愉しみつつ、更に愛撫を加える。
下から柔肉を押し上げ、たっぷりとそのまろみを味わってから解放すると、
横になっていてさえ充分な隆起を保つ乳房は、たちまち元の形に戻り、
再び揉みしだかれるのを待つのだ。
しっとりと汗を帯びたきめの細かな肌に、龍麻の手に少しずつ力が篭っていく。
せり出した蕾を指の付け根で挟み、同時に刺激を与える。
肌と同じく、色素が抜け落ちたかのような淡い白桃色の乳首は、
質感のある乳房とは対照的に慎ましく揺れていたが、芙蓉に伝える快感はこちらの方が強いらしく、
指腹で弾く度に顎が小さく跳ねていた。
「んうっ、ぅ……む……」
徐々に大きくなってきた喘ぎに、龍麻は顔を離す。
苦しいのも省みずに追いかけてきた舌を諭すように押し戻し、
既に充分過ぎるほど硬くなっている屹立を、彼女の下腹にあてがった。
確かめる必要もなく濡れている秘洞は、切っ先が触れただけで更に新たな蜜を吐き出し、ひくりと蠢く。
「芙蓉……挿れるよ」
「は……い……」
そう短く前置いて挿入する。
ようやく出番を与えられたそれは、遅いとなじるように一気に秘洞の中へと潜りこんでいった。
「は……ぁッ」
深い吐息は、芙蓉のものだけではなかった。
今日二度目となる彼女の膣は、硬さのほぐれた肉と愛蜜によって桃源と化し、
牡を昇りつめらせるべく待ち構えていたのだ。
ただ埋めただけで、細かな蠕動が絶え間無く刺激し、
どうかするとそれだけで果ててしまいそうな快感を与えてくる。
下品だ、と思いつつ息を吐かずにはいられなかった龍麻は、
組み敷いている芙蓉が自分と同じ顔をしていたことにいささか救われた気分になりながら動きはじめた。
「あっ……龍麻……様……」
ゆるやかに腰を押し進めると、芙蓉が腕を掴む。
汗ばんだ手がきつく肉に食い込んだが、構わず貫いた。
「んうッ……あ……く……」
熱い滴で満たされた洞は、屹立をやんわりと締めつける。
溶け合ってしまったかのような熱さがもたらす結合感に酔いしれ、
激しく腰を撃ちつけると、豊かな胸が一杯に揺れた。
その片方を鷲掴み、なお奥へと屹立を突きこむ。
「んっ、んっ、はぁぁ……っ」
己の下で怜悧な美貌が歪むのは、下腹に力を与える。
梅紅色に彩られた唇から紡がれる悲鳴をもっと奏でさせようと、龍麻は動きを早めた。
「ッ……あぁ、んッ、ん、あ、あっ……」
押し殺した喘ぎは短く、うわずったものに変わっていて、芙蓉もいつもより感じているようだった。
このままではすぐに達してしまうと思った龍麻は一度動きを緩め、
引き止めようとさざめく彼女の膣から己を引き抜いた。
「あ……ッ」
物欲しげな声に思わず果てそうになるのを堪えて、彼女の身体を裏返す。
豊潤な尻を焚きつけるように揉み、そこから腰へと手を滑らせると、ゆるゆると臀部が持ちあがった。
おびただしく濡れている秘唇は開いたままの姿を晒け出し、淫猥にひくついている。
息を呑む淫らさは、待ちきれなくなった芙蓉が腰を揺らすことで一層際立ち、
龍麻はいきなり根元まで屹立を挿れた。
「は、あぁ……っ」
恍惚にまみれた声は、肉がぶつかる音にかき消される。
乳房ほどではないもののたっぷりとした尻は、揺れが収まる前に新たな揺れを与えられ、
小刻みな振動を繰り返していた。
身体の左右に分かたれた髪が隠していた背中に龍麻は手を這わせ、
薄く盛り上がった背骨を愛しむ。
芙蓉はくすぐったさから逃れるように背を反らせるが、すぐに逃げ場を失ってしまった。
「はぁ……ぁ……」
いいように責められ、肩をすくめて耐える彼女に、
龍麻は完全に無防備になっている乳房を思いきり揉む。
「ひ、あ……っ、んうっ」
身体からぶら下がる、文字通り房となっている部分は、重く、手を一杯に開いてもなおこぼれる。
その質感を味わいたくて、小さく彼女を突いた。
「ぅ……」
乳房が手の中でたぷたぷと踊る。
淫欲をかき立てられた龍麻は更に何度か揺らし、己が満足したところで、
のしかかるようにして抽送を始めた。
「くっ……ん、あ……あっ」
より深い角度で突きこまれる男根に、芙蓉は、尻と、
その奥に息づく小さなすぼまりまでもをひくつかせることで歓喜を唄う。
龍麻はその腰を抱きかかえ、彼女の胎を貫こうと媚肉を掻きわけ、抉った。
深く沈む屹立は卑猥な音を立て、彼女を追い詰める。
「んうっ、うっ、あ……ぁっ」
芙蓉の膣がゆるやかな収縮を始める。
彼女の絶頂が近いと感じた龍麻は、もう一度彼女を正面から貫こうと思ったが、
自分の方がそれまで保たないと感じ、そのまま果てることにした。
ほとんど限界であった屹立に最後の力を溜め、先に彼女に絶頂を迎えさせようと動く。
「あぁ……龍麻……様……っ」
か細い啜り泣きが、芙蓉の口を衝いた。
悦びに震えるその泣き声は、龍麻が一際強く屹立を突き挿れた時、悲鳴に変わる。
「あぁッ……あぁぁ……ッ」
感に堪えない嗚咽と共に、芙蓉の身体が跳ねた。
尻を大きく震わせ、全身が突っ張る。
それは彼女の体内にも及び、屹立が収まっている肉壷が急激に締めつけを始めた。
時を待たず、龍麻も耐えていた欲望を解き放つ。
膨れた亀頭が淫肉に擦れ、凄まじい快感が迸った。
噴き出す精液をより奥まで注ぎ込もうと、尻を引き寄せ密着させる。
「はぁ……っ、あぁ……あ……」
芙蓉の嗚咽が絞り出すような声に変わり、全身が弛緩していく。
彼女から屹立を引きぬいた龍麻は、一滴残らず精液を注ぎ込んだという実感と共に横になった。
「お帰りなさいませ」
大学から帰った龍麻を、三つ指をついて芙蓉が出迎える。
こんなボロアパートでそんなことをされては、
暗に甲斐性を問われているのではないかと疑ってしまう龍麻だった。
もちろん彼女にそんなつもりはなく、式神であった頃の所作が出てしまうだけと解ってはいるのだが。
「うん、ただいま」
玄関に座って靴紐を解き始めると、芙蓉が顔を上げる。
そこに浮かんでいるのは、柔らかな笑顔だった。
初めはあまり笑うことに慣れていなかった様子の彼女も、今ではかくも幸せそうに笑っている。
それが自分の功績だ、などとうぬぼれはしないが、自分を褒めたくはなる龍麻だった。
ただし、それは笑顔に限ってのことで、例えば先ほどの三つ指のように、
それ以外の部分にはまだ硬さを残している。
「お食事になさいますか、それともお風呂に」
テレビドラマの新婚夫婦(!)にありがちなこんな台詞も、
浮ついたところの全くない声で言われると、
なにやら出陣するか否かを問われているように思えてしまうのだ。
靴を脱ぎ終えた龍麻は彼女の手を取って立たせる。
これも別にのろけているのではなく、こうしないと彼女は中々立とうとしないのだ。
「先に飯がいいな」
「承知いたしました。それでは、今しばらくお待ちください」
頷いた芙蓉は台所に向かい、小気味の良い包丁の音を立て始めた。
どこで仕入れた知識なのか、芙蓉は割烹着に三角巾など着て料理を作っている。
まとめた髪と和服の間に覗くうなじと後れ毛は、女の色香をその一点だけで充分に表現するもので、
それに和服を押し上げる形の良い尻と来れば、龍麻ならずともふらふらと近づきたくなるものだった。
もちろん龍麻も一度ならず近づいたことはある。
しかし、後ろから抱きしめても包丁を握る手を全く止めずに「何か」と言われてはどうしようもなかった。
今も後ろ姿を眺めながら龍麻は、和服で乱れる彼女を妄想する。
夜は一度として拒んだことはない彼女なのに、それ以外の時は頑なに拒むのは、
もしかして伽は夜にしかしてはいけないものだとでも思っているのだろうか。
一度その辺りをきちんと聞いてみたい、でも嫌われたらいやだよなぁ、
と日本中の男が一度は悩みそうなことを悩んでいた龍麻は、
遠くで腹の虫が鳴る音を聞いて我に返った。
瞳の焦点を合わせてみれば、ちょうど食事の用意ができたところで、芙蓉が料理を並べている。
今日は秋刀魚のようで、香ばしい匂いが漂ってきた。
すこぶる食欲を刺激された龍麻は、ご飯がよそわれた茶碗を受け取り、早速夕食を採ろうとする。
すると突然、芙蓉が立ちあがった。
どうしたの、と声をかける間もなく洗面所へと駆けこんだ彼女に、慌てて龍麻も立ちあがる。
迷った末にひとまず洗面所の外から芙蓉に呼びかけた龍麻の耳に聞こえてきたのは、嘔吐の音だった。
一緒に暮らし始めてから初めて見る彼女の変調に、龍麻はせり上がってくる不安を抑えることができない。
「大丈夫?」
辛そうな音が止んだ後も、しばらく返事はない。
扉を開きたい欲求に耐えて待っていると、静かに芙蓉が現れた。
自分以上の動揺を露にしている芙蓉を見た龍麻は、
何の前触れもなく彼女の嘔吐が何を意味しているのか悟った。
それは極めて重大な意味を持ち、そして……
「申し訳ございませぬ」
安心させるように、無理に笑顔を作る芙蓉に対して、龍麻の顔は思いの外真剣だった。
その表情は、恐怖となって芙蓉に伝播する。
瑣末なこととは言え、調子を崩してしまった自分は棄てられるのではないか。
どれほどの奇蹟があって魂を持つことができても、やはり人間にはなりきれなかったのではないか。
それは陰陽の秘術によってかりそめの命を与えられてからこれまで、
知ることの無かったものを彼女に与えていた。
口の中に残る吐瀉物の苦味に、心まで冒されてしまったかのようだった。
「急に調子悪くなったの?」
質問に答えることは、自分を追い詰めることであり、
芙蓉は初めて嘘を吐こうかと思ったほどであった。
しかし、例えこれから将来嘘を吐くことがあったとしても、龍麻にだけは吐きたくない。
その想いが、彼女に覚悟を決めさせた。
「……はい」
「あの……最近……生理が遅れたりしてた?」
「少しですが」
ますます深刻な表情をする龍麻に、芙蓉は淡々と答える。
一度覚悟を決めてしまえば、驚くほど落ちつくことができた。
龍麻に棄てられてしまった後、どうしたら良いかは解らない。
御門を、かつての主を頼るしかないかもしれない、とまで考えたのが彼女の弱気を示していた。
そんな彼女に向かって、龍麻の声が刺さる。
「あ、あの、今までずるずる来ちゃったけどさ、あの……俺と、けっ、結婚……してくれないかな」
「結婚……ですか」
富士山を休むことなく走って登った直後のように息を切らせている龍麻に、芙蓉の表情は動かなかった。
結婚、という意味が解らなかったのだ。
もちろん語彙として知ってはいるけれども、
これまで千年の長きに渡ってそんなものと縁の無かった彼女は、
何故龍麻が急にそんなことを言い出したのか理解出来なかったのだ。
眉をひそめ、表情を険しくする芙蓉に、いよいよ龍麻はしどろもどろになる。
「う、うん、今まで言わなくてこんなことになってから急に言うのもずるいと思うのは当然だけど、
その、俺にも心の準備というか将来のこととかいろいろ考えないといけないことがあってさ、
それで……その……」
「龍麻様」
「はいッ」
芙蓉は穏やかに呼びかけたつもりであったが、彼女の主は弾かれたように背筋を伸ばした。
これほどまでに緊張する龍麻を見たことがない芙蓉は、素直に疑問を口にする。
「こんなこと……と仰るのは、一体」
「……え?」
「何かが龍麻様の御身に生じたのでしょうか」
「……」
芙蓉は決して冗談を言わない。
それはもう散々に知っているはずだったのに、あまりに思いつめた表情の彼女を見ていると、
周到に計算された喜劇なのではないか、と疑ってしまう龍麻だった。
それはそれで是非観てみたい、とも思うが、
今はそれどころではないことを思いだし、表情を引き締める。
「芙蓉の調子が悪いのって……悪阻だと思うんだけど」
「悪阻、ですか」
これもまた、彼女に縁の無い言葉だった。
困惑する彼女に、龍麻もまた困惑して説明する。
一世一代の勇気を振り絞ったのだが、どうやら全く伝わっていないことにようやく気づいたのだ。
「悪阻ってさ、要するに……妊娠したってこと」
「……」
「妊娠したってさ、要するに……子供ができた、って……」
頭の悪い解説を繰り返す龍麻が口を閉ざしたのは、
自分の言っていることの無意味さに気づいたからではない。
やや呆然と話を聞いているようだった芙蓉の瞳に、光るものを見たからだった。
「芙蓉……」
涙が頬を半ばほど伝ってから、ようやく芙蓉は自分が泣いていることを知った。
生まれて初めて流す涙は、これまで溜めていた分を全て出し尽くしてしまうかのようにとめどなく溢れだす。
手の甲で拭った水滴は、不思議なほど熱かった。
昂ぶる情は涙だけでは収まらず、芙蓉は鼻を啜り上げる。
これもまた、初めて経験することだった。
「わたくしが……龍麻様の、御子を……」
「俺の、じゃない。俺と芙蓉の、子だよ」
「は、い……」
そう答えるのがやっとで、後はただ、ひたすらに泣き続ける。
彼女を不器用になだめる龍麻は、ひとまず安心しながらも、もう一度、
今日以上の緊張を味あわなければならないことを思い気が重くなるのだった。
次の日曜日、龍麻と芙蓉は懐かしい場所を訪れていた。
かつて彼女が暮らし、現在も彼女の主がいる時空の狭間。
その彼女の主に会うために、二人はここまでやって来たのだった。
二人を出迎えた彼女の主、御門晴明は、
ぎこちない動きでこちらにやって来る友人を無関心を装って出迎えた。
その方が、人物を鑑定する時間が与えられるからだ。
しかし、龍麻は既に自分の挙動ですらおぼつかなかったのだから、
御門のこの態度は完全に空振りと言って良かった。
「随分と久しぶりですね」
「そうだな……二年ぶりか」
一八歳が二十歳になったところで、見た目はそれほど変化がある訳ではない。
しかし、御門は二年前に共に闘った仲間の顔に、責任感によって生じた彫りを見出していた。
それはいささかの興味を御門に抱かせることはできたものの、
実のところ、この感情をあまり表に出すことを好まない陰陽師の注目は、
かつて彼が使役していた式神にそのほとんどが向けられていた。
数奇な縁によって今は定命の者となった彼女は、その全身から芳しいほどの美を放つようになっていた。
元々、人の求める理想の姿を呪術に託したのが彼女であれば、
その物腰が完全な優美さを有しているのも当然と言えたが、今目の前に立つ芙蓉は、
肉を持ち、魂を宿すことで幽玄的な美しさをも身に纏うことが叶ったのだ。
その美しさに素直に感嘆すると共に、それを引き出せなかった己の未熟と、
更に未熟と信じて疑わない男への嫉妬めいた情が御門の裡を駆け巡る。
すると、その、どこが良いのか本気で芙蓉に尋ねてみたい男が、
小生意気にも随分と棘のある口調で話しかけてきた。
「お前、あん時もう知ってただろ。芙蓉が人間になってたって」
あん時、と言うのは、龍麻が最後にここを訪れた二年前の日のことだ。
突然家におしかけて来た芙蓉とその日に関係を持ってしまった龍麻は、
翌日、その時はまだ彼女の主だった御門の所に真意を確かめに来たのだ。
もちろん直情径行の龍麻が御門に話術で勝てるはずもなく、
あっと言う間に言いくるめられて退散させられたのだが、
その時に御門は、芙蓉が彼の手を離れたことは告げたものの、
彼女が龍氣によって人に変じたことまでは教えなかったのだ。
「大変だったんだぞ、本当に」
毛筋ほども表情を動かさない御門に、そうすることが苦労を伝える唯一の方法である、
とばかりに龍麻は声を張り上げる。
幾百年の刻を過ごしたと言っても、芙蓉の知識は主を補佐する為のものが大半を占めており、
かろうじて料理はそこに含まれていても、後は赤子同然だったのだ。
特に龍麻が深刻に、そして緊急に困ったのは……服だった。
これまで彼女は便宜上通っていた皇神学院高校の制服以外は
自らの一部として衣を意のままに実体化できていたのが、
下着も上着もひっくるめて一切合財が何も無い状態になってしまったのだ。
当然それらを買うのは龍麻の役目であり、
東京を穢そうとする悪にも臆することの無かった自分が、
女性の下着売り場で一時間ほどもうろうろした挙句警備員に事情を聞かれたという逸話は、
決して知られてはならない秘密として記憶の奥深くに封じ込められているのだった。
「それで、今日は泣き言を言う為にわざわざ出向いたのですか」
相変わらず扇で顔の下半分を隠し、皮肉な物言いも衰えるどころか切れ味が増してさえいる御門に、
激発しそうになった龍麻はすんでのところでそれを堪えた。
今日は自分達にとってこの上ない吉日なのだ。
怒ったりするのは極力控えねばならなかった。
「ああ。実は……芙蓉と……芙蓉と正式に結婚しようと思ってさ。それを言いに来たんだ」
それは御門の予想の範囲内に収まる報告であり、むしろ遅いと言ってやりたいくらいであった。
しかし、彼はともかく、隣で幸せそうに微笑んでいる芙蓉を傷つけたくはない御門であったし、
本人は気づいていないようだが、緊張のあまりひきつっている龍麻の頬を見れば、
むしろ失笑を堪えねばならないのだった。
「そうですか。それで、日取りは決まったのですか」
「いや、それが……」
ここで龍麻は妙に歯切れが悪くなる。
何を今更、と御門が目で促すと、更に緊張の度合いを強めた龍麻は、
一度目は声が掠れ、二度目は舌を噛み、芙蓉に手を握ってもらうことで三度言い直してようやく告げた。
「妊娠……しててさ。お腹が目立たないうちにしようと思うんだ」
「ほう、それは。……まずは芙蓉に目出度いと言っておきましょう」
驚いてみせたものの、これも予想していたことだった。
何しろ二年前に、御門と彼の友人である村雨は、彼らの子供について賭けをしていたほどなのだ。
ようやくその答えが得られた御門は、おもむろに携帯電話を取り出した。
重要な話の途中にどこへ電話をするのかと、龍麻はあっけに取られて見守る。
しかし、どうやら電話はもうどこかに繋がっていたらしく、いきなり会話が始まった。
「だ、そうですよ村雨。今日はあの日から二年と一日目。
数時間ほど過ぎていますから、賭けは私の勝ちですね」
電話の相手が村雨であったことにも龍麻は驚いたが、聞き過ごせなかったのは賭けという単語だった。
「お前ら……何賭けてやがったんだ!」
怒りに肩を震わせる龍麻に、御門は答えず、黙って電話を差し出した。
掴むや否や、でかい声がスピーカーを震わせる。
「何言ってやがる。こっちはまだ日付が変わってねぇんだよ」
「村雨……」
電話を壊れそうなほど握りしめ、低い声でうなる龍麻に、
話し相手が変わったことに気づいた村雨が更に声を張り上げた。
「その声は……緋勇か。へッ、久しぶりじゃねぇか」
「久しぶり、じゃねぇ! お前ら、俺をだしにどんな賭けをしたのか言ってみやがれ」
「あぁ? なんだ、御門から聞いてねぇのか。なに、芙蓉がいつ孕むかってよ」
下品に過ぎる答えに唖然とした龍麻は電話機を取り落としそうになってしまった。
遠くから村雨の声が続く。
「二年以内に孕んだら俺の勝ち、それ以後だったら御門の勝ち。イイ線だったろ?」
耳に当てずともはっきり聞こえる村雨の声に、龍麻の後ろで芙蓉が顔を赤らめる。
彼女を和んだ目で見る御門を睨みつけた龍麻は、もはや怒る気力も失せ、
ついどうでも良い事を尋ねてしまった。
「そういや時差って」
「おう、今ベガスなんだよ。ここと日本じゃ時差が十七時間あるからよ、
まだ二年経ってねぇって御門に言っとけ」
「自分で言え、そんなもん」
「式には出てやるからよ、じゃあな」
人の話など聞かず、村雨は一方的に電話を切ってしまった。
しばらく声の聞こえてきた部分を睨みつけていた龍麻は、諸々の感情を全て乗せて電話を返す。
そんなものは毛ほども感じずに受け取った電話を懐にしまった御門は、
同じ所から扇子を取り出し、開いて口元に押し当てた。
「ま、そういう訳ですから、式の手配は任せていただきましょうか」
「式……ったって、俺まだ学生だからそんな金無いぞ」
「心配には及びませんよ。費用は全て私と村雨で持ちます」
「そりゃいくらなんでも悪いだろ」
「貴方が罪悪感を感じる必要はありませんよ。
私達が出すのは、貴方ではなく、芙蓉の結婚式の費用です」
憮然とする龍麻だったが、二人の好意が判らないほど鈍感でもなく、
結局ありがたく提案に甘えることにした。
打ち合わせのために後日再びここに来ることを約束して、帰ることにする。
御門に背を向けて歩き始めた時、龍麻の胃が痛くなくなったのは確かだった。
結婚の報告はともかく、あまり計画性もなく芙蓉を妊娠させてしまったことで、
御門に怒られるかもしれない、と気が気でなかったのだ。
まさかそれを賭けの対象にしているとは思わなかったが。
足取りも軽く歩く龍麻の半歩後ろに従っていた芙蓉が、ふと足を止める。
「御門様」
「なんです、芙蓉」
「──ありがとうございました」
わずかに目を細めただけで無表情を保つかつての主に、
眦を下げた芙蓉は、もう一度深く礼をし、龍麻について去っていった。
彼女がいなくなった後も、御門はしばらく物思いに耽っていたが、
扇子を閉じ、膝をひとつ叩くと携帯電話を取り出し、早速式場の手配を始めた。
彼は既にいくつかの事業を営む身であり、この後も分刻み、
とまではいかないものの夜まで予定が詰まっている。
にも関わらず御門は、突発的に増えたこの作業を、実に喜ばしいものに感じていた。
否、喜ばしくない訳がない。
彼にとって芙蓉は半ばは娘であり、娘の幸福を喜ばない親などいないからだ。
龍麻に相談もせずに日取りを決め、式場を抑えた御門は口元をわずかに緩ませ、
芙蓉のウエディングドレス姿はさぞ見ごたえがあるだろうと夢想したのだった。