「う……」
キリキリと鳩尾の奥が痛み、目が覚めた。この部屋の時計はとっくに狂ってしまっているから見ても何の意味もないが、外がまだ暗いことから夜が明けてないのは理解できた。
ベッドから降り、トイレへと向かう。ほんの数メートルしかないはずなのに、病魔に侵され、精神も磨り減ったこの体ではたどり着くまでに時間を要した。
「おぇ……げほっ」
便器の中に顔を突っ込み、胃袋の中身を吐き出す。その殆どはアルコールで、固形物は僅かにしか含まれていない。息を吸う拍子に酷い悪臭が鼻を突いた。
(血……増えたな……)
便器に浮かぶ赤が占める割合を見てそう思う。赤、といっても全く鮮やかなものではなく、どす黒く見るに耐えない色彩だ。
この女、エレノアの身は、二十四歳という若年にも関わらず胃ガンに蝕まれている。自業自得、といえば自業自得になるのだが、その一言で片付けるにはエレノアは傷付いてきすぎた。
胃を空っぽにし、踵を返す。その動作は緩慢で、壁に唯一残された左腕をつかなければまともに歩けもしなくなってきた。しかし、そんな状態でも働かなければ、動かなければいけない理由がエレノアにはあった。遠く離れた故郷で暮らす妹のミラと弟のルーク。その二人が独り立ちできるその日まで、姉として、二人の唯一の肉親として、仕送りをして支えてやらねばならないのだ。
やっと辿り着いたベッドに横たわる。すると、この部屋にはエレノアしかいないはずなのに、エレノアを呼ぶ声が聞こえてきた。
「エレノア、あの時、なんで助けてくれなかったの?」
エレノアは答えない。どころか、耳を塞ぎ、体を丸めて明確に拒絶の意思を示している。声は止まない。
「エレノア?無視しないでよ。ねぇ、聞こえてるでしょ?あなた言ってくれたよね。『リタは私の妹みたいなもの』って。あなたにとって妹って自分の命より大切なものでしょ?それなのになんであたしを置いていったの?」
声はどんどん近付いて、最終的にはエレノアの耳元で喋っていた。エレノアは顔をしかめて薄いブランケットを頭にまで被る。しかしその声は容赦なくエレノアを責め続ける。
「ミラちゃんと同じくらい大切には思ってくれてなかったってこと?あなたは妹が二人いたらどっちかを冷遇するわけ?あたしね、エレノアに妹って言ってもらえたとき凄く嬉しかったの。その時からあたしはエレノアのこと本当のお姉ちゃんだと思うようになったよ。あなたが大切で仕方なかった。……でも、そう思ってたのはあたしだけだったってこと?」
エレノアの息が荒くなる。ブランケット越しにきつくきつく耳を塞ぐ。それでも声は消えない。脳内に響き続け、エレノアの精神を削る。
「この右腕……痛かったよね、斬られたとき。でもね、あたしはもっと痛かった。あいつにどんなことされたと思う?四肢を引きちぎられて、その後お腹を貪られた。エレノアが逃げたせいで。あなたが逃げなければあたしはあんな苦しい死に方せずにすんだのに。想像してみて?自分の腸が引きずり出される感覚。自分のお腹の中に手を突っ込まれて掻き回される感覚」
「うるさい!!早く消えろ!!」
我慢の限界を超えたエレノアが声に向けて怒鳴り、手を振り払う。霞のように消えた「リタ」の幻影だったが、またすぐに現れる。エレノアはサイドテーブルに置いてある酒瓶を鷲掴むと、一気に呷った。喉が焼け付くように痛み、胃袋が針で刺されたように痛む。それでも、エレノアは飲むのをやめない。
「ごぶッ」
むせて、酒が口から溢れる。その拍子に、胃に流し込んだ酒も逆流してしまった。びちゃびちゃと酒が床を濡らす。
「はぁ……はぁ……」
気がつくと、リタの幻影はいなくなっていた。
小鳥のさえずりが聞こえる。まぶた越しに光を感じて、エレノアは再び目を覚ました。あの後、エレノアは処方されていた鎮痛剤と、睡眠薬を飲み、気絶するように眠った。用法用量を守るのはとっくの昔に止めていた。今では定められた量の三倍は飲まなければ効かないのだ。
重い体を引きずり、洗面所に向かう。鏡に映るのは別人になったかのような自分。かつて両親や街の人、リタにも「絹のようだ」と褒められた艶のある金髪は、毛の先まで痛みきり、くすんでしまっている。瑞々しい血色の良い頬も、今となってはやつれてしまった。目の下にはクマが刻まれ、どれだけの期間まともに寝られていないかが容易に察せられた。それでも、彼女の容姿は決して醜いとは言えないものだった。
桶の水を手で掬い、洗顔をする。冷たい水が顔を打つ度に目が覚めそうな気がするが、実際のところは酒と薬の影響で頭が冴えることはない。前の職場を解雇され、飲酒量が激増してからは常に頭がぼーっとしている。霧がかっているかのようで、複雑な思考ができない。とても感情的な人間になった気がする。だが、その使い物にならなくなった脳みそと鈍化した感覚が、今のエレノアの磨耗した精神をギリギリで保っていた。一年前、隻腕なのが原因でどこにも雇ってもらえず、追い詰められたエレノアが取った選択は娼婦になることだった。エレノアには人並みの自尊心があったし、そして何より清廉な妹弟たちへ送る金が自分の体を売って稼いだものだなんて姉として、家族として耐えられなかった。しかし、そんな思いももうこの頭では対して気にならなくなった。自分の命を蝕む元凶たる酒が、ある側面では自分を助けているだなんて皮肉なものだとエレノアは思った。
「エレノア、起きてるか。客が来たぞ」
部屋の扉が叩かれ、娼館の主人の声が聞こえる。仕事の時間だ。
「……はい」
寝間着から仕事着に着替える。藍色のチュニックだ。毎回仕事終わりに洗ってはいるものの、落ちてくれない『客由来のシミ』が所々にある。
「わぁ!ちょっと汚いけどその服可愛いね!」
また背後から彼女の声が聞こえた。振り返る気にもならない。
「エレノア、その格好てさ、誰かに似てるよね」
「…………」
「覚えてない?まぁ、そっか。あなたからしたら『躊躇なく見殺しにしちゃえる程度の人間』の普段着姿なんて覚えてないよね」
エレノアが酒を掴む。このまま喋り続けられたら仕事にならない。流石に仕事前に酒は飲まないようにしていたが、仕方ないだろう。そもそも今のエレノアは常にほろ酔いしているような状態だし、仕事内容も適当に腰を振っているだけでいいのだからあまり支障は無いかもしれない。
「あたしは楽しかったよ?あの頃。あたしはエレノアのことが大好きだったし」
酒を飲み下す最中も、リタの幻影は喋り続ける。
「あなたとの思い出、よく覚えてる。良い思い出たくさん作ったよね。でもだからこそショックだったよ。とっても」
リタの幻影が、頭から血を流している。死ぬ間際の、エレノアが彼女を見捨てた時のその姿だ。あの日、冒険者として活躍していた二人が向かったのは、何てことはないCランクモンスターのキングリザード討伐任務だった。なのに、実際に任務へ赴くと、そこにいたのはAランクモンスターのミノタウロス。出会い頭にエレノアは右腕を斬り落とされ、リタは奴に捕えられた。仲間として、彼女の親友としてリタを助けなければいけなかったのに、その時のエレノアは、一歩踏み出すことすら出来なかったのだ。
酒が入ったせいかリタの声が遠くなっていた。これで仕事ができる、とエレノアは客の待つ部屋へと向かった。
「失礼します」
扉を開ける。すると、いきなり右腕を掴んで中に引きずり込まれた。
「おい、見ろよ!この女マジで腕ねぇぜ!」
「はーっ、昔冒険者してたって噂は本当だったっぽいな」
「しかし、中々上玉じゃねぇか。一発十ゴールドだなんてどんなブスが出てくるかと思いきや、こりゃ儲けもんだ!」
またこのパターンか、とエレノアは思った。どこまで広がっているかは分からないが、『あそこの娼館には、右腕の無い格安の元冒険者の娼婦がいる』との噂が立っていることは知っていた。それも一回十ゴールドなんていうパン一切れ程度の値段で確かめられるのだから、やつれ、身体欠損があり、感染するタイプでは無いにせよ病気を持っているにも関わらず、エレノア目当ての客足が絶えることはなかった。ただ、そんな安価であるため、スラム育ちのゴロツキだとか、薄汚いホームレスなんかも相手しなければならないのは嫌な点だった。今回の客は見たところ前者だろう。それも三人いる。一気に気が重くなった。
「誰からヤるよ?」
エレノアの右腕を掴んでいた茶髪の男が、エレノアをベッドへ投げる。
「お前最近一番目のこと多かったから今回は最後な」
「はぁ?関係ねぇだろ!」
男たちがエレノアを使う順番を巡って口論する。だが、それは本気で言い争っているわけではなく、じゃれあいの一貫だろう。エレノアはそんな男たちにかつての自分と冗談を言い合うリタを想起した。当然、内容はこんな下劣なものではないが、会話の雰囲気がどこか似ているのだ。
「よっしゃじゃあ今回は俺一番な!おら女、脱げ」
チュニックのボタンを上から一つずつ外し、自分の肢体を余すことなく露にする。
「……くく、こりゃマジで儲けもんだな」
そうしてエレノアは好いてもいない初対面の男の一部を受け入れた。行為中は快感など微塵もない。あるのは内臓を押される圧迫感と、鳩尾のあたりの鈍痛、自分のものだか、相手のものだが、はたまたそれらが混ざったものなのか分からない粘液の不快感だけだ。
その後、男たちが帰ったのは日が傾き、空が橙色に染まる頃だった。男たちと代わる代わるまぐわい続けていたせいかは分からないが、部屋の中は夏でもないのにやけに蒸し暑かった。汗の臭いと、そこら中に捨てられた避妊具から漂う精液の臭いが吐き気を催す。今すぐにでも部屋を出たかったが、散々出し入れされたせいで立ち上がろうにも下腹部の痛みが酷い。しばらく動きたくなかった。
「……………………」
故郷のある方向を見る。もし、ミラとルークが毎月姉から受け取る金の真実について知ってしまったらどうなるだろうか。エレノアは、二人の姉でいられるのだろうか。
「おい、何してんだ。終わったならさっさと部屋に戻れ。掃除の邪魔だ」
扉が開き、清掃担当の者が入ってきた。赤の他人の精液を掃除させられるなんて、この者も大概大変だな、とエレノアは思った。
チュニックを着直し、部屋を出る。歩く振動で下腹部に疼痛が走るが、出ていけと言われたのだから仕方ない。自室に着くまでの辛抱だ。
自室の扉を開けると、嗅ぎ慣れた自分自身の匂いが鼻腔をくすぐった。知らない男の臭いだとか、体液の臭いではない、多少は落ち着ける匂いだ。
チュニックを脱ぎ、洗面所に向かった。いつも多少は汚されるが、今回は特段汚れている。三人組の中に、着衣したままするのが癖の者がいたからだ。こんな娼館で支給される服なんて、とても高級なものではない。だから肌触りも悪く、突かれる度に擦れて痛かった。男側も邪魔でしかないだろうに、何がいいのか分からなかった。
桶に水を貯め、チュニックを無心で洗う。五分ほどブラシで擦り続け、どの程度汚れが落ちたか確認するため1度手を止める。激しく揺らぎ、波紋を作っていた水面だが、手を止めたことで凪いで鏡面のようにエレノアの顔を映し出した。汗で髪が皮膚にへばりついている。その様はどこか艶っぽく、自分がすっかり娼婦として馴染んでしまったと感じた。もう昔の自分には戻れない。もうあの子たちの前に、以前までのエレノアとして立つことは叶わないのだろう。エレノアは惨めな己を胸中で嘲笑っていた。
それからもエレノアは客を取り続け、金を稼ぎ続けた。日を追うごとに幻覚症状と、胃の痛みは強くなり、比例して服薬量も飲酒量も増えた。もうエレノアは自分自身で自分の命がもってあと一年だと感じるようになっていた。だから彼女は以前より衰弱しているのにより多くの客を取って、出来るだけたくさんの金を妹弟たちに遺せるよう無理をした。
エレノアはその日も客に体を貸し、相手の欲望を一身に受け止めていた。しかし、いつもと何かが違う。客のエレノアに対すると態度だとか、快感を感じているとかではない。いつもなら行為中は胃袋よりも下腹部の方が痛むというのに、今日はやけに胃袋に不快感があったのだ。進行した胃ガンをその身に抱えているため、胃袋に不快感があるのなんて日常茶飯事だが、仕事前は必ず鎮痛剤を過剰摂取して無理矢理痛みを抑えつけているのに、だ。
「う……!」
エレノアを強烈な吐き気が襲う。流石に今吐くのはまずい、とエレノアはそれを必死で耐えようとするが、規則的なリズムで内臓が揺らされるのも相まってどんどんと吐瀉物が上がってくるのを感じる。
エレノアは無意識にベッドのシーツを鷲掴んでいた。そして、それが状況の悪化を招くことになる。
「……あ?なんだ女、お前イキそうなの耐えてんのか?つまんねぇな、素直になれよ!」
全く見当違いの解釈をした客が、ペースアップしたのだ。より強く、より深く突かれるものだから吐き気に拍車がかかる。せり上がってきた吐瀉物に含まれる胃酸が喉を焼いている。限界だった。
「おぇぇっ」
堰を切ったように中身が溢れ出る。その殆どが赤黒い血で、胃がどれだけ荒んでいるのかは想像に難くなかった。
「血!?」
当然、それを見た客が驚愕する。さっきまで雄の象徴をいきり立たせて夢中で腰を振っていたというのに、今や「それ」にかつての面影は見えなくなっていた。
「も、申し訳……ありません……」
普通に喋ったつもりが掠れて上手く声が出せない。今の謝罪も客に聞こえていたかどうか。
「おい、旦那!来てくれ!早く!」
客の男が大慌てで廊下に走り出て、娼館の主人を呼びつけた。何枚かの壁を隔てていたせいか、エレノアの耳に届.いた彼の応答はくぐもって聞こえた。次いでどたどたと走ってくる音が聞こえる。エレノアは清掃担当の者に申し訳なさを覚えながら、意識を手放した。
次に目が覚めると、寝間着に着せ替えられて自室のベッドに横たわっていた。生臭い鉄の味が残っていて、口の中が不味い。身を起こそうとすると、鳩尾の辺りに痛みが走った。ため息を吐きながら、サイドテーブルにしまってある鎮痛剤を取り出そうとする。すると、テーブルの上に置いてある紙が目に入った。どうやら娼館の主人からのようで、話があるから目が覚めたら呼べ、とのことらしい。
「呼べって言ったって……」
今は掠れた声しか出せないし、歩いて彼がいる部屋まで行けるような体調でもない。結局、エレノアはしびれを切らした彼がここに来るのを待つことにした。
テーブルの引き出しを開け、鎮痛剤が入った小瓶を取り出す。ほんの二週間前に処方してもらった九十錠入りの薬だが、既に底を尽きかけている。
「エレノア、ちょっと無理しすぎじゃない?」
リタの声が聞こえる。右を見ると、リタが座っていた。
「それじゃあ一年も保たないよ。ミラちゃんとルークくんに遺す遺産の量、用意しきれるの?あたしを見捨ててまで生き延びたのに」
「……保たせるわよ。お願いだから消えて」
リタに向けて腕を振り払う。だが、輪郭が歪むことすらない。まるで実体を持って、そこにリタがいるかのようだ。
「そう、じゃああなたは姉としての責任も、仲間としての責任も果たせないまま終わるんだね」
「……………………」
鎮痛剤の瓶を開ける。瓶を振り、一粒、二粒、三粒と取り出す。それらを口に含むと、水も使わずに飲み下した。
「あたしにね、一つ案があるの。聞きたい?」
自分の脳みそが作り出した幻影が何を言ってるんだ、とエレノアは思う。しかし、もしかすると思いもよらない名案が聞けるかもしれなかったので、エレノアは一応耳を傾けた。
「麻薬使えばいいんだよ」
いたずらっぽくリタが言う。彼女の提案はとてもそんな軽く勧めて良い代物ではなかったが。
「麻薬……ね」
冒険者時代、中々モンスターに立ち向かう勇気が出ず、麻薬に手を出した新人を見たことがある。初めのうちはどんなモンスター相手でも躊躇無く戦えるようになり、凄まじいスピードで功績を上げていった彼だったが、一月もしたら離脱症状に苦しみ始め、半年もしたら廃人になっていた。だからエレノアは絶対にそれ関連には近寄らないようにしていたし、それは今も同じだ。堕ちに堕ちた身の上だが、わざわざこちらから更なる深淵に出向く必要は無いだろう。
「使わないよ」
「でもこんな生活続けてたらどうせすぐ動けなくなるよ?クスリ使ってぱぱっと荒稼ぎした方が良いんじゃない?」
「使わない」
そう端的に答えて、酒瓶へ手を伸ばす。明らかに以前よりも消えづらくなっている幻影に対しては酒を飲んだとしてもあまり意味が無いかもしれない。それどころかガンの進行を早めるだけなのに、それでも飲んでいた。この一年と数ヶ月で染み付いた習慣だ。いや、もはや依存と言うべきなのだろう。
それから十分ほど経ち、未だ消えずにべらべら喋るリタに嫌気が差して耳を塞ぎたくなってきた頃、部屋の扉がいきなり開かれた。
「起きてたのか。なら俺を呼べと置き手紙しただろうが」
「すみません」
娼館の主人が入ってきた。彼が来てくれるまで
待ち続けると決めたのは自分なのに、いざ来てくれても出会い頭に怒られるのは流石に勘弁してほしかった。指示を聞かなかったのだから当然かもしれないが。
「それで、話って何でしょうか」
気になっていたことを聞く。
「あぁ、それなんだが、お前もう限界だろ?故郷までの馬車代は出してやるからここ辞めて帰れ」
「え」
その予想外すぎる言葉に思わず声が漏れた。
「ま、待ってください。私が稼がなくなったら妹たちは……」
「知らねぇよ。こっちとしてはな、お前がガンで一、二年しか生きられない身だったとしても客集められるから置いてやってたんだ。でもこれから毎回仕事中に血吐かれて倒れられちゃ集客も糞もない。もうお前にいてもらっても迷惑なんだよ」
「……………………」
エレノアは絶望した。娼館の主人の言い分は何一つ間違っていないからだ。そもそも現状のエレノアに対してされる話なんてこういう類いのものしかないだろう。こうなることを予想して、交渉方法を考えておかなかった十数分前の自分を呪った。
「あ~あ、どうするの?」
リタが俯くエレノアの顔を覗く。
「あの子たちのことも裏切るハメになっちゃうね?」
ミラとルークの顔が脳裏に浮かぶ。エレノアは必死に頭を回した。何か言わなければと言葉を探すが、思い付かない。こんなところで働く限りはこの霧がかった頭は好都合なものでしかないと思っていたのに、まさかこんな形で障害になるとは。
「話はそれだけだ。明日には出てってもらうぞ。荷物まとめとけ」
そう告げた娼館の主人は立ち上がり、背を向けて歩き出した。彼があの扉を開け、部屋を出ていってしまったら、エレノアは姉としても終わってしまう。それは嫌だ。もしそうなってしまったら自分は……。
「麻薬」
「あ?」
気が付くと、その言葉が口から飛び出していた。娼館の主人の足が止まり、こちらを振り向く。
「麻薬、ありますよね。私に下さい。あれを使えば、まだ働けます……」
娼館の主人が顔をしかめる。エレノアも自分自身がとんでもない提案をしているということは分かっていた。そこまでして金を稼ぐことに拘る彼女を見て、娼館の主人が気持ち悪さを覚えているかもしれない、とさえ思っていた。
「お前……本気で言ってんのか?」
「本気です。すぐ働けなくなると思いますが、それまでに沢山稼ぎます」
娼館の主人がため息を吐く。
「あのな、あれはお前の体を無理矢理動かすために置いてあるんじゃねぇ。ああいうのが無きゃマトモに女も抱けねぇような廃人用に置いてあんだよ」
「なら使わせてもらう代わりに対価を支払います。何でもします」
その言葉を聞くと、娼館の主人が黙った。エレノアは彼の目を注視した。女が『何でもします』と言ったとき、大抵の男は真っ先に『そういうこと』を想起する。そして品定めするかの如く眼前の女の体を隅から隅まで視姦し始めるのだ。だが、娼館の主人はいつまで経っても視線をエレノアの目から離さない。つまり、エレノアを『そういう目』で見ていないのだ。むしろ彼の目には憐憫の色が浮いてさえいる気がした。
「……分かったよ。見返りはいい。稼いでくれりゃあな。それとクスリが抜けても暴れたりするんじゃねぇぞ。もしそうなったら即追い出すからな」
そう言って彼は出ていった。エレノアは正直驚いていた。確実に『そういうこと』を求められると思っていたからだ。だが、何となく娼館の主人の気持ちが理解できた。本来ならば二十四なんて歳の女、まだまだ人生これからのハズだ。しかし、今さっきまで彼と会話していた女はそんな歳でありながら、余命幾ばくも無く、挙げ句麻薬を使ってまで娼婦として働こうと言うのだ。いくら相手が自分から『何でもします』と言ったって、流石に惨めすぎて抱く気にはならなかったのだろう。
「ねぇねぇエレノア!」
話しかけてきたリタの声色は何やら上機嫌だった。
「……なに?」
「あたしの言ってたこと役に立ったでしょ?昔みたいに『凄い子ね』って褒めてよ!」
それを聞いたエレノアは真っ先に何を馬鹿なことを、と思うと同時に、苛立ちを覚えた。確かに幻影の言ったことは結果的にエレノアが金を稼ぐ期間を伸ばす一助となったが、本音は麻薬なんて使いたくないし、だから褒める気になんてならなかった。そもそも今自分に話しかけているのは本物のリタではなく、幻影であるのだから褒めても何の意味もない。それに、本物のリタはあんなエレノアの身も心も壊すことになるのが前提の解決法なんて提案してくるわけが無かったし、幻影の要求はあの心優しかった本物のリタを穢す発言に思えた。
「……消えて」
エレノアは静かにそう言うと、睡眠薬四、五粒を酒で流し込んでベッドに潜り込み、リタを無視し続けていた。結局、エレノアが眠るまでリタの幻影が消えることはなかった。
翌日、約束通り、娼館の主人はエレノアに麻薬を渡した。
「いいか、一度に二本以上吸ったりしたら冗談抜きで脳神経が焼き切れるぞ。気を付けろよ」
その忠告に一言、はいとだけ返したエレノアは、早速自室に戻って麻薬を使う準備を始めた。彼から渡された麻薬は初めから葉巻に巻かれていた。恐らく、簡単に使用できるようにするためだろう。右腕の残された部分で葉巻を押さえ付け、シガーカッターで着火口を切り落とす。この行程を踏まなければ空気の通り道が生まれず、中に入っている麻薬が上手に燃えてくれないのだ。葉巻を口に咥えて火を着けた。あとは、吸い込むだけだ。
「……ふぅ」
息を整える。吸い込む『だけ』とは言うものの、覚悟が必要だった。なぜならその動作を行ったが最後、後戻りは出来なくなるからだ。ずるずると堕ちて行くだけ。それも今までとは違う、光が少しも届かない昏き谷の底へ。
「すぅっ」
意を決してくゆる煙を吸い込んだ。瞬間、独特の甘い匂いが鼻を抜ける。例えるならば、そう、媚香の様な。自然由来の甘みではなくて、どこまでも人工的な風味がすると同時に、いつまでも鼻の奥に残るタイプの匂いでもあった。
次いで感じたのは若干の目眩。額を掠めるか掠めないかぐらいの距離に物があると、触れてもいないのに違和感を感じることがある。今のは、それを純粋に強めたようなものだった。
最後にエレノアは微かに、けれど確実に脳が痺れる感覚を覚えた。あの感覚を言葉にするのは難しいが、エレノアはあれこそが人々が麻薬に依存する原因だと確信した。だが、流石にたった一吸いでは全身の感覚が著しく鈍化したりすることはなかった。まだ胃が痛むのは感じるし、気分が突然晴れるようなこともなかった。
理性が警鐘を鳴らしている。まだ戻れるぞ、と。エレノアは正直戻ってしまいたいと思ったが、今戻ったところでその先に待っているのは病魔に蝕まれ尽くした体と、中途半端な量の遺産だけだ。そもそもこうして一度は覚悟を決めたわけだし、もうこの道を進む他無かった。
一吸い、また一吸いと煙を肺に入れる度、独特の甘みを美味いと感じるようになり、目眩が酩酊感に変わり、脳の痺れは全能感へと変化していった。
「うぁ……これ……すご……」
麻薬に脳を焼かれ、恍惚とした表情で身を捩るエレノアは酷く官能的で、男なら誰でも押し倒してしまうだろう。娼婦として、これ以上稼ぎやすいことはない。そういった点で、今後を顧みる必要がないのなら麻薬を使って集客するというのは正解だった。今後仕事をする上で最大の懸念であった胃の痛みも、とっくに消え去っていた。
そうしてしばらくの間酔いしれていると、娼館の主人からお呼びがかかり、エレノアは仕事に向かった。結果から言えば麻薬の効果は凄まじいものだった。胃が痛くなるどころか、性行為というもので初めて快感を味わうことができた。これならいくらでも客を相手できる、と浮わついた頭でぼんやりと考えていたエレノアだったが、『その後』のことまでは気が回っていなかった。
「ぐっ……」
明かりも灯っていない薄暗い自室のベッドで踞る。麻薬が抜けると同時に強い胃痛に襲われたのだ。他にも、動悸、酷い目眩と体中のありとあらゆる箇所が麻薬の反動に悲鳴をあげている。普通なら一回目の離脱症状がここまで重くなることはないのだろうが、普通の身ではないエレノアの場合は違ったようだ。
荒い手付きで鎮痛剤の入った瓶を取り出す。いつもなら掌を経由して口に入れるが、それすらもまどろっこしく感じた今のエレノアは、酒を呷るかのようにして瓶を傾けた。ざらざらと錠剤が口に流れ込み、それを奥歯で噛み砕いて嚥下する。端から見れば服薬自殺を図っている人のそれだ。
「はぁ……はぁ……」
空になってしまった瓶を投げ捨て、再び踞る。目を固く瞑っても天地が揺らぐ感覚がして気持ちが悪い。心臓が張り裂けんばかりに脈打ち、どくどくと血潮の流れる音が聞こえた。
「リタ……」
ベッドの前に微笑むリタが立っている。
「苦しいよ……助けて……」
震える手で彼女に手を伸ばし、助けを懇願する。普段は拒絶しかしないくせに、なんとも都合の良いことだ。しかし、リタはその手を一瞥することすらせずに、エレノアに優しく囁いた。
「望んだことでしょ?」
「え……?」
輪郭が崩れ、リタが消える。
「あっ……やだ……リタ行かないで……!」
エレノアがリタの腕を掴もうとするも空を切る。結局その日は、いや、その日も空が白み始めるまでエレノアは苦しんだ。
日が登る間は快楽に溺れ、月が登る間は苦痛に耐え続ける。そんな生活を続け、一ヶ月が経った。エレノアは誰が見ても異常だと分かる勢いで客を取っていた。日に最低でも三人、多いときは五人も相手した。蓄えは増えに増えている。きっとこれだけあればエレノアが死んでも妹弟が食うに困ることは当面ないだろう。エレノアの思惑通り事は進んでいた。しかし、それはつまり麻薬への依存がより強まっている、離脱症状が酷くなっていることの裏返しでもある。ここ最近、リタの幻影がエレノアを襲うようになってきたのだ。恨み辛みを口にしながらエレノアを罵り、その度に無いハズの右腕が激しく痛んだ。
もうエレノアは全て投げ出して残り少ない余生を妹弟たちの元で送りたいと感じていた。遺産は十分に作った。もう姉としての責任は殆ど果たせているハズなのだ。けれど、何故かそれだけはしてはいけない気がした。いや、正確には仕送りを、遺産を増やし続けることを止めてはいけない気がした。理由は分からないが、とにかくそれを止めてしまったらエレノアはこれ以上の苦しみを味わうことになりそうだと感じていたのだ。
朝が訪れ、眩き日光が世界を照らす。エレノアの部屋にもその一部がカーテンの隙間から入り込み、床へと伸びる光の帯を作っていた。もはや日常と化した夜通し続く離脱症状との格闘を今日も終えたエレノアは、ベッドから半ば落ちるようにして降りた。『今日も稼がなければ』という強迫観念じみた思いに突き動かされ、葉巻を手に取る。慣れた手付きで下準備を終え、彼女の身を滅ぼす魔香を肺一杯に吸い込んだ。瞬間、さっきまで感じていた苦しみが嘘のように消え、気分が高揚する。そうしてエレノアは今日も客に己が体を明け渡すのだ。
その日も一人目の男はいつも通りに満足させ、何の滞りもなく仕事を進めていた。当然、二人目に入ってきた男も、同じように満足させて金を稼ぐつもりだった。しかし、その男を相手している時、『それ』は訪れた。
二人目の男はやけにガタイがよく、体のあちこちにギザギザとした輪郭を持つ傷痕が残っていた。軍人もこの男と似たような体をしているが、傷の形が全く違った。彼らの体につけられる傷というのは刀傷や火傷の痕だ。刀傷はもっと滑らかな形をしているし、火傷は患部が爛れている。この男の傷はそれらとは似ても似つかない、おそらくは獣の牙や爪によって付けられたものだ。エレノアも現役時代によく見ていたもの。つまり、この男は冒険者なのだろう。
粗暴な見た目に違わぬ振る舞いで、エレノアをベッドに押し倒す。チュニックを掴んだかと思うと無理矢理に引っ張った。ボタンが弾け飛び、その下にある肌が露出する。そして男は、何の躊躇いもなくエレノアの中に己が剛直を挿し込んだ。既に十分濡れていたせいか、エレノアの蜜壺はそれを抵抗なく受け入れる。一突きで一番奥まで貫かれた彼女の体は、脳天まで抜ける強烈な快感に震えた。
「もっとヨくしてやるよ……!」
そういって嗜虐的な笑みを浮かべた男は、エレノアの細い首を両手で鷲掴みにし、腕の筋肉が隆起するほどの力を込めて絞め付ける。
「かっ……」
気道も血管も詰まり、急速に視界が狭窄し始める。しかし、それに反して脳が感じるのは命の危機ではなく、どうしようもなく耽溺的な快感だ。
胎の中を掻き回される度、快感の波が強くなる。残滓が色濃く残り、絶頂へ向かっているのが分かる。
胎の中を掻き乱される度、残された理性が消えていく。頭の中にある余計な思考が片端から均されていくのが分かる。
やがて、視界全部が白く弾けて―――。
がんっ
と、殴られたような鈍い頭痛を感じ、同時に視界が戻った。反射的に大きく息を吸い込もうとするが、閉じた気道につっかえて酸素が肺まで届かない。
「くる"……しッ……」
いきなり戻ってきた『苦しい』という通常の感覚にパニックになる。さっきまでひたすらに気持ち良かったのに、エレノアの頭は理解が追い付いていなかった。しかし、答えは単純で、『麻薬の効果切れ』というだけだった。麻痺して狂っていた感覚が正常に戻ったのである。
今まではこんなタイミングで麻薬が抜けることは無かったが、麻薬というものは毒と同じで耐性が出来る。使い続けると効き目も薄くなるし、効果時間も短くなってしまう。だから使う度に量を増やさなければならなかったのだが、エレノアはそれに気付いていなかった。
このままだと絞め殺される、と焦ったエレノアは、がむしゃらに左手を振るう。すると、偶然にも男の右目を突いた。
「ぎゃッ!?」
男が右目を抑えて大きく仰け反った。エレノアはその隙に男の下から抜け出す。酸欠で手足に力が入らず、ベッドを降りる際にバランスを崩して床に体を強かに打ち付けたが、それも気にせず部屋の扉まで一目散に駆ける。
「何しやがるこの売女がぁ!!」
背後から男の怒号が聞こえた。男からすれば、寸前まで自分の手によって善がらせられていた女がいきなり暴れだしたのだ。訳が分からないだろう。
ふらふらになりながらもドアノブに手を掛ける。あとは開くだけ、という所で文字通りに後ろ髪を引かれた。勢いが勢いだったために、首筋に痛みが走る。エレノアが仰向けに引き倒され、その上に男が馬乗りとなる。男の右目からは激しく出血していた。爪は整えるようにしていたが、角度の問題で抉るような形で眼窩に指が入ったのかもしれない。
怒り心頭といった風な男は、拳を固く握りしめると、容赦なくエレノアの顔に振り下ろした。ブランクがあるとはいえ、エレノアも元冒険者だ。殆ど本能的に腕で防御する。しかし、現役の冒険者との差は大きかった。一発目は防げたものの、間髪入れずに繰り出された二発目の前にその防御は呆気なく崩れ去ったのだ。続けて放たれた三発目は、エレノアの頬をまともに捉える。頬骨の砕ける鈍い音が聞こえた。
その後も、男は何度も何度もエレノアを殴った。意識が削がれていき、ほんの少しの抵抗すらもできる余力が無い。
「………………」
朦朧とする中、エレノアは走馬灯を見ていた。幼き頃に見た両親の顔、ミラとルークの顔、笑うリタの顔。徐々に過去の情景は現在へと近付いていき、エレノアはあることを思い出していた。
一ヶ月前、娼館の主人から実質的な解雇通知を言い渡された時のことだ。あの時、エレノアは姉として終わってしまうことに恐怖を感じた。それは何故だろう。妹弟たちに合わせる顔が無くなるから?エレノアの金に頼る彼女たちが暮らせなくなるから?
……何か違う。
本気であの子たちのことを考えているなら、ガンになるほど大量に酒を飲んだりしない。薬だって医者に言われた通りに摂取する。つまり、あの時のエレノアが恐怖を感じていたものはもっと違う、今の彼女の更に根源的な部分にあるものに対してだ。そしてそれは、『逃避できなくなること』だった。
エレノアはリタを見殺しにしたことへの意味を生み出さなければやっていられなかったのだ。彼女は妹弟たちを養うことを隠れ蓑に、己の罪から逃げ続けていた。今思えば、エレノアを責め続けるリタの幻影も、大量飲酒も、過剰服薬も、麻薬使用でさえも、全て罪と向き合うことから逃げるための手段でしかなかった。無理矢理自分の身を削り続け、さっさと消えて罪から逃げ切ろうとしていたわけだ。離脱症状に苦しむエレノアに向けてリタの幻影が言った『あの言葉』は、正しかった。全て『望んだこと』だったのだ。
エレノアの本質は、自分よりも家族のことを優先する心優しい姉でも、仲間を慈しみ、尽くすことのできる頼れる相棒でもない。どこまでも自分本意な、極めて人間臭い人間というわけだ。彼女の血に染まった献身は、誰の為でもない、自分自身の為でしかなかった。
ぷつんと意識が途切れる寸前エレノアは、ただひたすらに『安堵』を感じていた。
私の拙い小説を最後までお読みくださり、ありがとうございました。初めてまともに書いた作品なので、読みにくい点などあったかもしれませんが、楽しんでいただけたなら幸いです。