鉛色の空から、絶え間なく灰色の雪が降り注いでいる。
それは冷たく、重く、肌に触れるだけで「やる気」や「希望」といったポジティブな感情を根こそぎ奪い去る、呪いの結晶であった。
世界を静止させた大悪魔怪人・ヤシロの居城、『デモンズ・オフィス』。
都心の超一等地、かつて大手町と呼ばれたその場所にそびえ立つ魔城は、周囲の高層ビル群を無理やりねじ曲げ、融解させ、一つの巨大な「塔」として再構築したグロテスクな建造物だった。
窓ガラスは一枚もなく、壁面は黒ずんだコンクリートと錆びた鉄骨が剥き出しになり、まるで巨大な墓標のように天を突き刺している。
その威容は、見る者を圧倒する恐怖と、生理的な嫌悪感を催させた。
城の周囲には、半径数キロに渡って強力な「過労死概念結界」が展開されている。
生半可な精神力の持ち主ならば、その領域に足を踏み入れた瞬間に心が折れ、「もう帰りたい」「眠りたい」「土に還りたい」というネガティブな感情に押しつぶされ、即座に石化してしまう死の領域だ。
だが今、その死の静寂を、物理的な「熱量」と、品のない「騒音」で強引に突き破ろうとする集団がいた。
「「「うぉぉぉぉぉッ!!! 定時退社ァァァッ!!!」」」
悪の組織と正義の味方、そして復活した幹部たちによる混成部隊、呉越同舟連合軍である。
彼らは正面ゲートの裏口にあたる業務用搬入口を、ミミガーの資金力で調達した大量の爆薬で粉砕し、雪崩を打って突入した。
「突撃ぃぃッ! 狙うは最上階! 我々の明日を取り戻すのだ!」
安全な後方から拡声器で叫ぶ中間管理職サイトウの悲痛な声を背に、一行は魔城の内部、その第一階層へと足を踏み入れた。
第一階層。
そこは、この世の地獄を具現化したような、息苦しく、湿った空間だった。
ガタン……ゴトン……。
ガタン……ゴトン……。
どこからともなく、重苦しい電車の走行音が響いている。
エントランスホールは広大であるはずなのに、視覚的な遠近感が狂い、壁が迫り、天井が低く感じられる。
空気は澱み、湿度は不快なほど高く、汗と整髪料と疲労臭が混ざり合った独特の悪臭が充満していた。
そして、その空間を物理的に埋め尽くしているのは、無数の「影」だった。
「……あ……あぁ……」
「……すみません……降ります……」
「……ドア付近の方……中ほどへ……詰め……て……」
ゾンビサラリーマンの大群だ。
彼らはヤシロの魔力によって「満員電車の乗客」としての概念を骨の髄まで植え付けられた、哀れな亡者たち。
ヨレヨレのスーツを着込み、虚ろな目で虚空に浮かぶ吊革を掴み、互いに押し合いへし合いしながら、侵入者たちの行く手を阻む肉の壁となっていた。
その数、数千、いや数万。
床が見えないほどの密集度で、彼らは波のように揺らめきながら、生者を飲み込もうと迫ってくる。
「な、なんだこの数は!? 通る隙間が……いや、酸素すらないぞ!」
最前線に立ったジャスティンレッド(赤城)が、剣を構えながら呻いた。
斬りかかろうにも、敵は武器を持っておらず、殺意すら向けてこない。
ただ、「無言の圧力」と「無意識の体当たり」、そして「全体重をかけた寄りかかり」で、こちらの体力を削り取ってくるのだ。
斬れば手応えはあるが、倒れた端から次のゾンビが「空いたスペース」を埋めるように雪崩れ込んでくる。
「チッ、うっとうしい! これが日本のサラリーマンの底力か! どけ! 余の進行方向を塞ぐな!」
人狼ヴォルグが剛腕を振るい、爪で数体を吹き飛ばす。
だが、ゾンビたちは痛みを感じていないのか、あるいは痛覚すら麻痺しているのか、無表情のまま起き上がり、「次の駅」を目指すように再び密集してくる。
その目には生気がない。あるのは「出社しなければならない」という強迫観念だけだ。
「キリがないぞ! このままじゃ圧殺される!」
ジャスティンブルー(青野)が、計算不能な状況に悲鳴を上げる。
その湿った空気と、終わりの見えない疲労感が、ヒーローたちの精神をヤスリのように削っていく。
この膠着した絶望的な状況を打破したのは、空気を読まない――いや、そもそも空気を読む機能が欠落している、二つの暴風だった。
まずは、上空。
本来なら天井があるはずの屋内だが、吹き抜けとなった巨大な空間を、重力を完全に無視して疾走する一台のバイクがあった。
孤高の戦士、覆面ライダーと、その愛機『サイクロン・オメガ』である。
ブォォォォォォン!!!
キュルルルルッ!
タイヤがコンクリートの壁を削り、火花を散らす。
ライダーは、地面に対し垂直に、壁を走路として爆走していた。
「悪党はどこだ! ヤシロはどこに隠れている! 私の『勘』が告げているぞ! 悪の気配はあっちだ!」
ライダーはヘルメットの中で叫んだ。
彼の視界には、眼下で蠢く無数のゾンビたちなど映っていない。
ただ、自分の野生の勘が指し示す方向――それは上層階へ続く正規のルートとは真逆の、巨大な換気ダクトの吸気口――へと、一直線に突き進んでいるだけだ。
「待てライダー! どこへ行くんだ!? そっちは行き止まりだ!」
その後ろを、ジャスティングリーン(緑川)が風の能力を使って飛行しながら必死に追いかける。
彼はこの「空軍」のナビゲーター役を任されていたが、開始数分でその任務の過酷さに胃に穴が開きそうになっていた。
「あっちから邪悪な風が吹いている! 間違いない! 敵の本丸はあの中だ! ついて来いグリーン!」
「だから違う! それはトイレの排気ダクトだ! 臭いがするだけだと言っているだろう!」
「ええい、私の勘がそう告げているのだ! 問答無用! ライダー・キック!」
ドガァァァン!
ライダーはバイクから飛び降りると同時に、壁面のダクトカバーを必殺のキックで粉砕し、そのままバイクと共に暗闇の中へ突入していった。
「あぁぁぁっ! もう嫌だこの人! 誰かGPSをつけてくれ!」
グリーンが頭を抱えて叫びながら、渋々その後を追う。
結果的に、彼らがダクトを破壊したことで天井の一部が崩落し、ゾンビの頭上に瓦礫が降り注ぎ、敵の陣形を乱すことには成功していた。
上空でのコントのような攻防を他所に、地上でもまた、制御不能なピンク色の怪物が暴れ回っていた。
「どいてどいてー! 邪魔しないでー! マスターが見えないでしょー!」
ウサギ怪人ウナだ。
彼女はバニースーツに網タイツという扇情的な格好で、ゾンビの群れなど意に介さず、ぴょんぴょんと跳ね回りながら突進していた。
その跳躍力は凄まじく、人の頭を踏み台にして高速移動している。
「マスターの元へ行くのー! 褒めてもらうのー! エッチするのー! そこをどけぇぇぇッ!」
ドゴッ! バキッ! メキョッ!
ウナのドロップキックが、ラリアットが、そして強靭なウサギ脚による踏みつけが、ゾンビたちを次々とボウリングのピンのように吹き飛ばしていく。
彼女には戦術も連携もへったくれもない。
ただ、後方にいる改蔵(本隊)の元へ戻りたい、あるいは改蔵のために道を切り開いて「いい子」だと思われたいという、純粋かつ暴力的な「性欲」と「承認欲求」だけが原動力だ。
「つ、強い……! というか、滅茶苦茶だ!」
ブルーが呆然と呟く。
「あの兎、制御不能か!? 味方まで巻き込む勢いだぞ! ……だが、道が開いた!」
レッドが叫ぶ。
ウナが開けた風穴。
そこへ、ヴォルグとジャスティンジャーたちが雪崩れ込み、本隊の進むべき「道」を強引に確保していく。
肉の壁が割れ、モーゼの十戒のように道ができる。
その奥から、異様な威圧感と、場違いなほどの豪華さを放つ「本隊」が、ゆっくりと姿を現した。
ズシン……ズシン……。
それは、巨大な輿(こし)だった。
どこかの神社から強奪してきたような煌びやかな神輿の上に、フカフカの最高級座布団が敷かれ、そこに黒野改蔵が鎮座している。
その周囲を、五十嵐イスズ、サキュバス怪人メイ、猫怪人ミヤ、医療怪人レンといった美女たちが囲み、結界を張りながら護衛している。
神輿を担いでいるのは、ミミガーが金で雇った(あるいはレンが改造した)屈強な戦闘員たちだ。
まさに悪の王のパレード。
だが、よく見ると、改蔵の様子がおかしい。
彼はあぐらをかいて座っているのだが、その膝の上には、マナが向かい合わせで座り、そのコンパクトボディがすっぽりと収まり深く密着していた。
二人の腰から下は、ベルベットのような分厚い真紅のローブで覆われており、外からは見えない。
しかし、輿が担ぎ手たちの足並みで揺れるたびに、二人の身体も小さく、しかし確実に、リズミカルに上下していた。
「……んッ……。……うぅ……。揺れます……ぅ」
マナが改蔵の肩に顔を埋め、微かな吐息を漏らしている。
その顔は熟れた桃のように紅潮し、目はとろんと潤み、焦点が定まっていない。
改蔵もまた、額に脂汗を浮かべ、荒い息を吐きながら、何かに耐えるような、あるいは獰猛に楽しむような表情をしている。
「……おい、マナ。揺れすぎだ。……抜けるぞ。しっかり締めろ」
改蔵がマナの耳元で低く囁く。
「だ、だってぇ……。ウナちゃんたちが暴れるから……輿が、ガタンゴトンって……。んんっ! 奥に、当たってぇ……! 深いぃ……!」
マナが甘い声を押し殺し、改蔵の背中に爪を立てる。
そう。
彼らは今、戦場のど真ん中で、移動する輿の上で、数万の敵と味方に囲まれた衆人環視(ローブで隠れているとはいえ)の中で、繋がっていたのだ。
座位での結合。
「王様護衛班」という名目のもと、彼らは移動時間すらも無駄にせず、魔力充填(という名のセックス)に勤しんでいた。
「ふふ。マナちゃん、大胆ですねぇ。声、マイクで拾っちゃいましょうか?」
横を歩くレンが、聴診器をマナの背中に当てながらクスクスと笑う。
「心拍数140。血圧上昇。体温38度。……いい傾向です。戦闘前の緊張感と、見られるかもしれないという羞恥心が、感度を極限まで高めているようですね」
「……ずるい。つぎ、わたし。マスターのうえ、わたしのばしょ」
メイが改蔵の背中に張り付き、耳を甘噛みして抗議する。
「待ちなさいメイちゃん。順番ですよ。ちゃんと並ばないと」
イスズが甲斐甲斐しくペットボトルの水を差し出し、改蔵の口元に運ぶ。
「神主様、水分補給です。汗、すごいですわよ」
「おう……サンキュー、イスズ。……くぅっ! マナ、そこ締めんな! 腰が砕ける! 輿の揺れに合わせて動くんじゃねえ!」
改蔵が水を飲みながら呻く。
担ぎ手たちが階段を登るたび、あるいは急カーブを切るたび、マナの最奥を改蔵の剛直が予期せぬ角度で突き上げる。
その刺激は、アジトの安定した布団の上とは比べ物にならないほどスリリングで、暴力的で、背徳的だった。
「あひぃッ! ご、ごめんなさいぃ! でも、勝手にぃ……! お腹の中が、熱くてぇ……! 擦れてぇ……!」
マナが改蔵にしがみつく。
その背中から生えた小さなコウモリの翼が、快感に合わせてパタパタと痙攣するように動く。
ローブの下では、結合部から溢れ出した愛液と魔力が混ざり合い、ぬちゃぬちゃと卑猥な音を立てていた。
「……まったく。呆れた人たちだニャ。外は地獄なのに、ここだけ桃源郷だニャ」
輿の屋根の上で、猫怪人ミヤが呆れたように欠伸をしている。
「でも、このくらいの『熱』がないと、ここの寒さには耐えられないニャ」
ミヤの言う通りだった。
ヤシロの城は、物理的な気温以上に、精神的な「寒さ」に満ちている。
希望や活力を奪う、絶対零度の虚無。
その中で正気を保ち、前に進むためには、改蔵たちが放つ過剰なまでの「生体エネルギー(性欲)」が不可欠だったのだ。
彼らの情事は、単なる快楽の追求ではなく、この空間を侵食し、味方を鼓舞するための神聖な「儀式」でもあった。
事実、彼らの周囲だけは「過労死結界」が中和され、暖かな春のような空気に包まれている。
「よし、マナ。そろそろ『駅』に着くな。……イくぞ!」
改蔵がマナの腰を両手で掴み、固定する。
「は、はいぃ……! 改蔵様の魔力……全部くださいぃ……! 戦場に、撒き散らしてぇぇ! 壊れちゃうくらい、注いでぇぇ!」
ドプンッ!
改蔵が腰を突き上げる。
同時に、前方を走るウナが、第一階層の出口を塞ぐバリケード(巨大な改札機型の怪物)を、ドロップキックで粉砕した。
「突破ー! 次の階へ行くよー! お先にー!」
「いくぞォォォッ!」
改蔵とマナの絶頂が重なる。
マナが弓なりに反り返り、無声の絶叫を上げる。
ドピュッ! ドピュルルルッ!
白濁した高濃度の魔力が、マナの胎内に勢いよく注ぎ込まれると同時に、二人の身体からピンク色の衝撃波が放たれた。
パァァァァァァッ!
その波動は、周囲の空間を震わせ、襲いかかってきていたゾンビサラリーマンたちを吹き飛ばした。
そして、波動を浴びた彼らに、劇的な変化が訪れる。
石化していた土気色の顔色が戻り、虚ろだった目に光が宿る。
「あ……あれ? 俺、なんでこんなところで……?」
「今日は……確か、有給を取ったはず……」
「そうだ、娘の誕生日だ……帰ろう。ケーキを買って、家に帰って寝よう」
ゾンビたちが正気を取り戻し、憑き物が落ちたような顔で次々とリタイアしていく。
「仕事」という呪縛から解き放たれ、「家庭」や「休息」という人間らしい感情を取り戻したのだ。
改蔵の放った「欲望」と「愛(?)」が、ヤシロの「呪い」を上書きした瞬間だった。
「す、すげえ……! 一瞬で敵を無力化した!?」
前線で戦っていた赤城が振り返り、驚愕する。
そこには、少し乱れた着衣を整え、賢者タイム特有の澄み切った表情でふんぞり返る改蔵と、頬を染めてぐったりとうっとりしているマナの姿があった。
ローブの隙間から、湯気が立ち上っている。
「フン。……『愛』だよ、『愛』。……世界を救うのはいつだって、濃厚なセックスだ」
改蔵はニヒルに笑い、懐から取り出したみかんの皮を投げ捨てた。
「行くぞ野郎ども! 第一階層クリアだ! 次はもっと激しいのが待ってるぜ! 俺のいちもつも、まだまだ元気だ!」
「「「おぉーーっ!!」」」
怪人たちが歓声を上げる。
ヒーローたちは「愛……なのか? これが?」と首を傾げつつも、道が開けたことに安堵し、先へと進む。
理屈はどうあれ、彼らは前に進んでいる。
一方、はるか上空。
トイレの排気ダクトから煤まみれで脱出したライダーが、眼下の光景を見て叫んでいた。
「見ろグリーン! 私がダクトを破壊したおかげで、敵の結界が弱まり、道が開けたぞ! やはり私の勘は正しかった!」
「……もういいです。貴方がそう思うなら、そういうことにしておきましょう」
グリーンは疲労困憊でツッコミを放棄した。
カオスな行軍は、次なる難関、中層階『セキュリティ・ゲート』へと続いていく。
そこで待つのは、鉄壁の電子要塞。
だが、連合軍には「鍵開け」のスペシャリストたちが控えていた。