チーン。
間の抜けた、しかしどこか断頭台の鐘の音にも似た厳粛な到着音が、静寂の中に響き渡った。
下層階のゾンビたちの喧騒、中層階の電子的な警告音、上層階の狂乱の宴。
それら地上の全てのノイズを置き去りにして、呉越同舟連合軍を乗せた巨大な業務用エレベーターは、ついに『デモンズ・オフィス』の頂点、雲を突き抜ける高さにある最上階へと到達した。
重厚な鋼鉄の扉が、音もなく左右に滑るように開く。
そこから流れ出してきたのは、冷気だった。
それは物理的な気温の低さではない。
希望、情熱、怒り、悲しみ、喜び。
そういった人間が持つ「体温」を根こそぎ奪い去り、凍結させる、絶対零度の「概念」としての冷気だった。
「……ここが、最上階……」
「……なんて、静かなんだ……」
先頭に立ったジャスティンレッド(赤城)が、剣を構えたまま息を飲んだ。
彼らの吐く息が白く染まる。
そこは、フロア全体が一つの巨大な部屋となっていた。
壁は全面ガラス張り。
だが、そこから見える景色に太陽はない。
眼下に広がるのは、灰色に染まり、時を止めた東京の廃墟。
そして空には鉛色の雲が渦巻き、音もなく雪が降り積もっている。
床には、足音が吸い込まれるほど分厚い、血の色をした深紅の絨毯が敷き詰められている。
広大な空間には、余計な調度品は何もない。
ただ、部屋の最奥、遥か彼方に、巨大な黒檀のデスクと、それに背を向けるように置かれた革張りの玉座が鎮座しているだけだ。
コツ、コツ、コツ……。
連合軍が足を踏み入れる。
数万人を相手にしてきた彼らが、たった一人の気配に圧倒され、足を進めるのさえ躊躇っていた。
その空間には、「終わり」が充満していたからだ。
「……よく来ましたね。イレギュラーな存在たち」
玉座がゆっくりと回転した。
そこに座っていたのは、この歪んだ世界の創造主。
大悪魔怪人・ヤシロである。
彼女は、かつてのOL姿ではない。
喪服を思わせる漆黒のドレスアーマーに身を包み、頭には天を突くような捻じれた角が生え、背中にはボロボロに傷ついた六枚の翼が力なく垂れ下がっている。
その手には、万年筆ではなく、歪んだ時計の針を模した杖が握られていた。
だが、その顔立ちだけは。
目の下に濃いクマを作り、肌は青白く、どこまでも疲れ切った、現代の労働者のままだった。
「ヤシロ……! 貴様、世界をどうする気だ!」
人狼ヴォルグが吠え、爪を立てる。
「我が組織を壊滅させ、人間どもを石に変えて、何が望みだ!」
「……望み? ……そんなもの、とっくにありませんよ」
ヤシロは、デスクの上に積まれた
その声には、覇気も、殺意すらない。ただ、事務的な響きだけがある。
「どうもしません。……ただ、終わらせるだけです」
ヤシロはペンを置いた。
カツン、という小さな音が、広大な空間の隅々にまで響き渡る。
「業務は終了しました。この世界という巨大なプロジェクトは、コスト(苦しみ)がパフォーマンス(幸福)に見合わない。……不採算事業です。だから、損切り(リセット)するのです」
「ふざけるな! 人々を石に変えて、それが救済だとでも言うのか!」
聖乙女ヒカリが錫杖を握りしめ、叫ぶ。
「生きる喜びを奪う権利なんて、誰にもないはずです!」
「喜び? ……ああ、あの一瞬の麻薬のことですか」
ヤシロが初めて顔を上げ、侵入者たちを見据えた。
その瞳は、深淵のように暗く、どこまでも空虚だった。
「石になれば、お腹も空きません。家賃の心配も、老後の不安もありません。上司に怒られることも、満員電車で足を踏まれることも、誰かと比べて劣等感を抱くこともない。……永遠の安息。それこそが、究極の福利厚生でしょう?」
彼女の言葉には、狂気的なまでの理屈があった。
それは、限界まで追い詰められ、心をすり減らした労働者が、終電のホームでふと考えてしまう、悲しき結論だった。
「いっそ、消えてしまいたい」。
そのネガティブな祈りが、強大な魔力によって具現化してしまったのだ。
「……違う。それは生きていない。ただの物質だ」
聖剣姫キリハが反論する。
「苦しみの中にこそ、成長がある。困難を乗り越えた先に、喜びがあるんだ! それを放棄するのは、逃げだ!」
「逃げ? ……ええ、逃げですよ。でも、逃げて何が悪いのです?」
ヤシロが冷ややかに笑う。
その笑みは、正義の根幹を揺るがすほどに冷徹だった。
「あなた達ヒーローも同じでしょう? 戦って、傷ついて、身を削って……。そうして得た平和は、次の敵が現れるまでの『短い休憩時間』でしかない。……それは『終わらない業務』。賽の河原の石積み。……虚しくないのですか? 疲れないのですか?」
「っ……!」
キリハが言葉に詰まる。
レッドが、ブルーが、視線を逸らす。
図星だった。
彼らは疲れていた。
守っても守っても現れる悪。感謝されることの少ない奉仕。すり減っていく私生活。
ヤシロの虚無は、彼らが心の奥底に封印していた「疲労感」を暴き立てる。
「覆面ライダー、貴方もそうです。……地図もない道を走り続け、誰もいない場所で戦い、誰にも知られずに去っていく。……その孤独に、意味はあるのですか?」
「……うッ」
ライダーがたじろぐ。
彼の「勘違い」というポジティブさは強固だが、その根底にある「孤独」を突かれると脆い。
「……労働は、苦しみよ。生きることは、ただ摩耗していくだけの作業。……なら、最初から何もしない方が、幸せだわ」
ヤシロが立ち上がる。
その背後から、漆黒の魔力が津波のように溢れ出した。
絶望の波動。
虚無の奔流。
それに触れれば、今度こそ全員が石像へと変わり、永遠の眠りにつくだろう。
空間が軋み、ガラス窓にヒビが入る。
世界の終わりが、すぐそこまで迫っていた。
だが。
その黒い波を、たった一人の男が、だらしなくあくびを噛み殺しながら遮った。
「……ふわぁ。……ったく、聞いてりゃ湿っぽい話ばっかしてやがんな。カビが生えるぞ」
黒野改蔵である。
彼は
その背中には、五十嵐イスズ、小悪魔マナ、サキュバス怪人メイ、医療怪人レン、猫怪人ミヤといった「アジトの女たち」が寄り添っている。
彼らから漂うのは、おでんの匂いと、情事の後の甘い残り香。
それは、この無菌室のような空間において、強烈な異物感を放っていた。
「……黒野改蔵。……貴方には失望しました」
ヤシロが軽蔑の眼差しを向ける。
かつて、彼女に「怪人としての力」を与えた男。
彼女の理解者であるはずの男。
「貴方は、私に力をくれた。……なのに、なぜ『
「ああ、知ってるよ。世界はクソだ。労働はクソだ。毎日満員電車に乗って、頭下げて、税金払って……バカバカしくてやってられねえよな。俺も働きたくねえもん」
改蔵はあっさりと肯定した。
ヒーローたちが「えっ?」と驚く。
ヤシロの主張を認めるのか?
「でもな、ヤシロ。……お前は一つ、致命的な勘違いをしてる」
改蔵はニヤリと笑い、懐から一本の缶ビール(ぬるくなっている)を取り出した。
プシュッ!
静寂な空間に、炭酸が弾ける小気味いい音が響く。
改蔵はビールを一口煽り、喉を鳴らして飲み干し、手の甲で口を拭った。
「『なぜ生きるのか』だって? ……そんなもん、決まってんだろ」
彼は空き缶を握りつぶし、ヤシロを指差した。
「苦しいからこそ、終わった後のビールとセックスが美味いんだろうが!!!」
その一喝は、雷鳴のように轟いた。
高尚な哲学でも、正義の演説でもない。
あまりにも俗物的で、本能的で、そして圧倒的な「生」の叫び。
「労働が苦しみ? 当たり前だ! 生きるのが作業? 上等じゃねえか! だがな、そのストレスってやつはな、最高のスパイスなんだよ! 限界まで働いた後の最初の一口! クタクタになった身体で浸かる熱い風呂! そして、嫌なことを全部忘れて、愛する女と没頭するセックス! ……その『快感』のために、俺たちは生きてんだよ!」
「……快感……? スパイス……? そんな一瞬のもののために……?」
ヤシロが眉をひそめる。理解できないというように。
「一瞬だからいいんだよ! 永遠の安息? クソ食らえだ! 変化のない毎日なんざ、死んでるのと一緒だ! 俺は腹が減るのも、疲れるのも嫌いだが、それを満たした時の快感はもっと好きだ!」
改蔵は一歩踏み出した。
その身体から、紫色の魔力が──いや、濃厚な「欲望」のオーラが立ち上る。
それはヤシロの「虚無」を押し返すほどの熱量と、むせ返るような生命力を持っていた。
「楽しみがない人生? 喜びを忘れた心? ……上等だ。俺が叩き直してやる」
改蔵は拳を握りしめ、魔王を見据えた。
「お前は働きすぎたんだ。……真面目すぎて、遊び方を忘れちまったんだよ。だから、世界ごと休もうとした。……バカな女だ」
「……私は……!」
ヤシロの表情が歪む。
図星を突かれた怒りと、心の奥底で求めていた言葉への動揺。
「残業は終わりだ、ヤシロ。……俺がたっぷりと教えてやるよ。『アフターファイブ』の素晴らしさをな! お前のその空っぽの心、俺の『
改蔵の言葉に呼応するように、背後の女たちが構えた。
イスズが祈りを捧げ、マナが杖を掲げ、メイが牙を剥き、レンが注射器を持ち、ミヤが爪を研ぐ。
彼女たちは、改蔵の「欲望」を肯定し、支え、そして共に貪る者たち。
このアジトのハーレムこそが、改蔵の哲学の証明なのだ。
「……ふふ。……面白い」
ヤシロが笑った。
それは冷笑ではなく、初めて見せる、感情の籠もった笑みだった。
彼女の背中の翼が大きく広がり、空間を闇で覆い尽くす。
「いいでしょう。私の『虚無』と、貴方の『欲望』。……どちらが世界を塗り替えるか、査定してあげます」
「行くぞ野郎ども! これが最後の仕事だ! ……終わったら、宴会だァァァッ!!」
「「「おぉ──っ!!」」」
改蔵が突っ込む。
その後ろに、怪人たちが、ヒーローたちが続く。
理論も理屈も超えた、魂と肉体のぶつかり合い。
虚無の玉座を巡る、最初で最後の「