世界の頂点、『デモンズ・オフィス』最上階。
そこは今、終末の嵐が吹き荒れる極限の戦場と化していた。
「……消えなさい。……休みなど、与えません」
大悪魔怪人・ヤシロが、玉座からゆっくりと立ち上がり、その細く白い腕を天に向けて掲げた。
彼女の背中にある、ボロボロに傷ついた六枚の翼から、どす黒い漆黒の魔力が噴出する。
それは、単なる物理的なエネルギー波ではない。
「未読メールの山」「迫りくる納期」「理不尽なクレーム」「終わらない会議」「誰からも認められない孤独」──現代社会の病巣が生み出した、人間の精神を内側から腐らせる呪いの具現化だ。
ゴォォォォォォォッ!!!
黒い暴風が、呉越同舟連合軍を襲う。
物理的な衝撃もさることながら、心の隙間に冷たい泥水を流し込むような、絶対的な絶望感が彼らを打ちのめす。
「ぐわぁぁぁッ! 重い……! 身体が、鉛のように……!」
最強の人狼ヴォルグが膝をつく。岩をも砕く筋力を持ってしても、「精神的な重圧」は支えきれない。
「くっ……! 私の剣が……届かない……!」
聖剣姫キリハが必死に剣を振るうが、ヤシロの周囲に展開された「ATフィールド(絶対拒絶領域)」に阻まれ、火花を散らすだけだ。
「無駄です。……あなた達の攻撃は、全て『想定内』のトラブル。事務的に処理します」
ヤシロが冷徹な目で指先を振るうたびに、ヒーローたちが、怪人たちが、不要な書類のように吹き飛ばされ、壁に叩きつけられていく。
圧倒的な力の差。
彼女は、この歪んだ世界そのものだ。個人の力で抗える相手ではない。
誰もが、終わりの予感に震えていた。
だが。
その絶望の嵐の中を、たった一人の男が、腹巻に手を突っ込んだまま、ペタペタと歩いていた。
「……ったく。風が強くて、寝癖がさらにひどくなるじゃねえか」
黒野改蔵である。
彼は防御魔法など使えない。身体能力も、休日にゴロゴロしているだけの、少し腹が出た普通の中年男性のそれだ。
ヒーローたちのような鍛え上げられた肉体も、怪人たちのような異能も、何一つ持っていない。
だが、彼だけは倒れない。
なぜなら、彼の周りには、彼がこれまでに「
「させないわよ! アンタなんかに、神主様は渡さない!」
五十嵐イスズが、改蔵の前に立ちはだかり、両手を組んで祈りを捧げる。
彼女のTシャツ姿の背中から、純白のオーラが放たれる。
それはヤシロの黒い呪いを中和する「浄化」の光だ。
巫女としての祈りと、愛する男を守りたいという母性にも似た献身が、鉄壁のバリアとなって改蔵を包み込む。
「……邪魔です。……排除」
ヤシロが眉をひそめ、無数の黒い槍を虚空に生成する。
『業務命令・
ヒュンッ! ヒュンッ!
鋭利な槍が、イスズのバリアを貫通し、改蔵めがけて射出される。
「マスタ〜! 危ないにゃ〜!」
その鋭い切っ先を、一匹の猫が、目にも止まらぬ速さで弾き飛ばした。
猫怪人ミヤだ。
彼女は獣の本能で槍の軌道を読み切り、自らの爪と、そして小さな身体を使って改蔵を守ったのだ。
ザシュッ!
一本の槍が、避けきれずミヤの肩を掠める。
鮮血が舞う。
「っ……! 痛いにゃ……!」
ミヤが顔をしかめ、よろめく。
「ミヤ!」
改蔵が足を止める。
「大丈夫にゃ! マスターは止まらないで! ……私は、野良猫だから、しぶといの!」
ミヤは血を流しながらも、ニカっと笑った。
彼女にとって、改蔵のアジトは初めて見つけた「帰る場所」だ。
こたつと、ご飯と、撫でてくれる手。そして、温かい体温。
そのかけがえのない日常を守るためなら、傷つくことなど怖くはない。
「ミヤちゃん! 止血します! アドレナリン、全開! ドーピング許可!」
医療怪人レンが滑り込み、ミヤの首筋に躊躇なく注射器を突き立てた。
ブスリ!
ピンク色の怪しげな薬液が注入され、ミヤの傷口が瞬時に塞がり、瞳孔がカッと開く。
「シャァァァッ! 元気100倍にゃァァァッ! まだまだいけるニャ!」
ミヤが超高速で戦線に復帰し、残りの槍を全て叩き落とす。
「院長! 行ってください! 後方の
レンが叫ぶ。
彼女の白衣はボロボロになり、ナースキャップは飛んでいたが、その瞳は狂気的なまでの使命感に燃えていた。
彼女にとって、改蔵は最愛の患者であり、守るべき
「……任せたぞ、ヤブ医者!」
改蔵は再び歩き出す。
一歩、また一歩と、玉座へ近づいていく。
彼の足取りは重いが、決して止まらない。
「……なぜ。……なぜ、貴方は倒れないのですか?」
ヤシロの表情に焦りが混じる。
「貴方には何の力もない。ただの人間でしょう? なのに、なぜ私の『虚無』に飲み込まれない?」
「簡単なことだ、ヤシロ」
改蔵は笑った。
その笑顔は、どこにでもいる、だらしないオッサンのそれだった。
「俺は空っぽじゃねえからだ。……俺の中にはな、こいつらがくれた、面倒くさくて、暑苦しくて、でも最高に気持ちいい『熱』が詰まってんだよ!」
ドォォォォン!
改蔵の身体から、赤、ピンク、白、紫……様々な色が混ざり合ったオーラが噴出した。
それは、アジトの女たちとの日々の情事によって蓄積された、膨大な「愛」と「性欲」のエネルギーだ。
何も持たない男が、ただひたすらに愛し、愛された結果手に入れた、借り物の、しかし最強の力。
「マスター! いけぇぇぇッ! わたしの『好き』も、持っていってぇ!」
小悪魔マナが、後方から魔法で援護射撃を行う。ハート型の弾幕が黒い嵐を中和する。
「マスターのにおい、だいすき! やなやつ、ぶっとばせ! 全部たべちゃえ!」
サキュバス怪人メイが、ヤシロの魔力を周囲から吸い取り、無効化する。
彼女たちの想いが、改蔵の道を作る。
一歩進むたびに、黒い霧が晴れていく。
「……来ないで。……来ないでください! 私に……近づくな!」
ヤシロが叫び、最大出力の魔力を放とうとする。
『無限残業・
世界を終わらせるほどの絶望の波動。
だが、それは発動しなかった。
改蔵が、既に彼女の目の前に立っていたからだ。
暴力的な速さではない。
ただ、彼女が「孤独」に怯え、躊躇した一瞬の隙に、彼が間合いを詰めたのだ。
「……あ……」
ヤシロが見上げた先には、汗まみれで、鼻毛も少し出ている、ニヤニヤと笑う、どうしようもない男の顔があった。
「よう、社長。……顔色が悪いぜ? ちゃんと寝てんのか? クマがひどいぞ」
改蔵は拳を振り上げなかった。
代わりに、広げた両腕で、ヤシロの華奢な身体を抱きしめた。
ギュッ……。
温かい。
ヤシロの思考が停止した。
攻撃されると思っていた。否定されると思っていた。
だが、彼女を包んだのは、圧倒的な「体温」と、汗と加齢臭と、ほのかなおでんの匂いが混ざった、「人間の匂い」だった。
それは、彼女が長い間忘れていた、生々しい「生」の感覚だった。
「……な、何を……! 離して! 汚らわしい!」
ヤシロが暴れる。
だが、改蔵の腕は万力のように彼女を逃がさない。
鍛えていないはずの腕だが、「離したくない」という執着心が、彼に馬鹿力を与えていた。
「暴れる元気があるなら大丈夫だな。……でも、もう終わりだ」
改蔵は、ヤシロの耳元で低く囁いた。
その声は、甘く、粘り着くようで、内臓に直接響くような魔力を帯びていた。
「残業は終わりだ、ヤシロ。……俺がたっぷりと、『
改蔵がヤシロの顎を強引に持ち上げる。
抵抗しようとする彼女の唇を、自身の唇で塞いだ。
チュッ……!
「んぐッ……!?」
それは、ただのキスではなかった。
「
改蔵が持つ、唯一にして最強の「性魔術」の奥義。
唇を通して、彼の中に蓄積された膨大なエネルギーを、相手の中に強制的に流し込む儀式。
ドクンッ!!!
ヤシロの心臓が激しく跳ねた。
冷え切っていた彼女の体内に、灼熱のマグマのような熱量が流れ込んでくる。
それは、マナの純粋な恋心。
イスズの深い母性。
メイの貪欲な本能。
レンの狂気的な執着。
ミヤの野生の信頼。
そして何より、黒野改蔵という男の、底なしの「生への執着」と「性欲」。
「ん……ぁ……! 熱い……! 何これ……! 身体が……溶ける……!」
ヤシロの目が見開かれる。
彼女の中の「虚無」が、流れ込んでくる極彩色の「感情」によって塗り潰されていく。
黒いインクを入れたコップに、大量の真水を、いや、熱湯を注ぎ込むように。
溢れ出し、薄まり、やがて透明に、そして熱く染まっていく。
「受け取れ! これが俺たちの『福利厚生』だ! たっぷり味わえ!」
改蔵は唇を離さず、さらに深く舌を絡めた。
ヤシロの硬く閉ざされた歯列をこじ開け、口腔内を蹂躙する。
唾液が混ざり合い、魔力がスパークする。
彼女の抵抗が、次第に熱を帯びた反応へと変わっていく。
「んんーッ! んむッ! はぁッ! ……やだ……! 変になっちゃう……! 頭が……真っ白に……!」
ヤシロの膝から力が抜け、改蔵にしなだれかかる。
ドレスアーマーの隙間から、湯気のような蒸気が立ち上る。
彼女の青白かった肌が、人間らしいピンク色に染まっていく。
「まだだ! まだ足りねえだろ! お前の空洞、全部埋めてやる! 残業代もボーナスも、身体で払ってやるよ!」
改蔵はヤシロを軽々と抱きかかえ、そのまま玉座へと押し倒した。
革張りの椅子がギシギシと音を立てて軋む。
そこはかつて、孤独な魔王が世界を呪いながら座っていた場所。
だが今は、男女が本能をぶつけ合う、祭壇へと変わっていた。
「見せつけてやるよ! 世界を救うのは、いつだって裸の付き合いだ!」
改蔵がステテコを乱暴に下ろす。
ヤシロのドレスを寛げる。
露わになったヤシロの肢体は、雪のように白く、美しかったが、人形のように冷たかった。
だが、改蔵の熱い手が触れるたびに、そこから火が点いたように熱を持っていく。
「……あ……。私……こんな……。見ないで……」
ヤシロの瞳が潤み、トロンと蕩けていく。
彼女は知らなかったのだ。
肌と肌が触れ合う温もりを。
誰かに求められ、満たされる喜びを。
仕事以外のことで、こんなにも心が揺さぶられることを。
「行くぞヤシロ! 魂の結合だ! 受け入れろ!」
ズプンッ!!!
改蔵が、一気に貫いた。
物理的な結合と、霊的なパスの完全な開通。
「あァァァァァァァァッ!!!」
ヤシロが絶叫し、弓なりに反り返る。
彼女の背中の翼が、バサァッと大きく広がり、黒い羽根が舞い散る。
そして、その羽根が空中で光の粒子へと変わり、虹色に輝き始めた。
呪いが解け、祝福へと変わる瞬間。
「熱いッ! いっぱい来るッ! 誰かの想いが……! 命が……! 私の中にぃぃッ! 埋まっていくぅぅ!」
彼女の子宮を中心に、爆発的なエネルギーの渦が生まれる。
それは破壊の力ではない。
再生と、創造の力だ。
パァァァァァァッ!!!
玉座の間が、まばゆい光に包まれた。
その光は天井を突き破り、デモンズ・オフィスの外へ、灰色の空へと伸びていく。
天を衝く光の柱。
下層で戦っていたヒーローたちも、その光景を見上げた。
「……暖かい光だ」
赤城が呟く。
「……ヤシロの魔力が、浄化されていく……」
キリハが剣を下ろす。
光の中で、改蔵とヤシロは一つになっていた。
腰を打ち付けるたびに、世界を覆っていた灰色の雲が晴れていく。
喘ぎ声が響くたびに、石化した人々の心臓が再び動き出す。
「あへぇッ! すごい……! 私、生きてる……! 感じてる……! 仕事より、気持ちいいぃぃッ! もっと、もっとぉ!」
ヤシロは涙を流しながら、改蔵にしがみついた。
もう、魔王の顔ではない。
ただの、愛に飢え、快楽に溺れる一人の女性の顔だった。
「おう! 当たり前だ! これが生きるってことだ! 楽しめ!」
改蔵は吼え、最後の力を振り絞って腰を叩きつけた。
「全部持ってけェッ! 退職祝いだァァァッ!!」
ドピュッ! ドピュルルルッ!
魂の奔流が、ヤシロの最奥に解き放たれる。
カッ──────!!!
世界が白く染まった。
圧倒的な「生」のエネルギーが、ヤシロの虚無を完全に埋め尽くし、溢れ出し、世界中へと降り注いでいった。
それは、長く苦しい月曜日が終わり、待ちに待った休日が訪れる瞬間のような、