悪の組織のアジトに、また新しい朝が来た。 だがその朝は、数週間前までのそれとは、決定的に異なっていた。 カビ臭さと埃っぽさが支配していた古民家に、トントントン、という小気味よい包丁の音と、ふわりとした出汁の香りが漂っている。
「……ん」
万年床の主、
「……チッ」
改蔵は、わずかに舌打ちした。 いや、彼が苛立ったのは、朝の『儀式』がなかったからではない。 (あいつ……!) 改蔵は、Tシャツ一枚を羽織り、
居間を抜けて
「あ、神主様! おはようございます!」
そこに立っていたのは、五十嵐イスズ(いがらし いすず)だった。 彼女は、改蔵があてがったブカブカのTシャツ(それ以外は何も身につけていない)という、非常に煽情的な姿でかいがいしく朝食の準備をしていた。 豊かな胸がTシャツの薄い布地を限界まで押し上げ、動くたびに、ぽよんぽよんと柔らかく揺れている。 そして。 そのイスズのむき出しの太ももに、ぎゅっと、しがみついている小さな影が一つ。
「……マナちゃん」
小悪魔マナだった。 彼女は、自分の
「はふぅ……イスズ様の『浄化』の魔力……あったかい、です……」 「もー、マナちゃん。くすぐったいですよー」
イスズは、困ったように笑いながら、朝食の手を止めない。 マナは、イスズの太ももに頬ずりしながら、うっとりと目を閉じている。 彼女は、改蔵の『陽』の魔力だけでなく、イスズから溢れ出る『陰』の癒しの魔力にも、すっかり中毒になっていたのだ。 改蔵は、その光景を見て盛大にため息をついた。
「おい、マナ」 「ひゃっ!? か、改蔵様!」
マナは、ビクリと肩を震わせ、慌ててイスズから離れた。
「ち、違います! これは、そのアジト内の魔力バランスの調整と申しますか……!」 「朝の『安定』、サボりやがって」 「そ、そんなことは! 私は、いつだって改蔵様の魔力を求めて……!」
マナが慌てて改蔵の足元に駆け寄ろうとした。 だがその鼻先を、イスズが差し出したお玉が遮った。
「神主様、マナちゃん。朝ごはん、できましたよ。今日は、ふわふわの卵焼きです」 「おお」
イスズがにこりと微笑む。 その笑顔は、まさに『癒し』そのものだった。 改蔵のわずかな苛立ちも、その笑顔と、卵焼きのいい匂いの前では、霧散してしまう。
「……食う」 「はいっ! ちゃぶ台、運びますね!」
ボロ屋だったアジトは、イスズが『
「「「いただきます」」」
三人の声が揃った。 改蔵とマナは、無我夢中でその『家庭の味』をかき込んだ。
「……うめえ」 「おいしいです、イスズ様! この卵焼き、魔界の五つ星レストランの味です!」 「あ、それは、ちょっとだけお砂糖と、お出汁を隠し味に……」
イスズが嬉しそうに説明する。 改蔵は、味噌汁をすすりながら、確信していた。 (……こいつ、最強だ) 怪人にはならなかった。 だがこの『
「ごちそうさまでした」 「「ごちそうさまでした(です)」」
食後のお茶をすすりながら、イスズがぽん、と手を打った。
「あ、そうだ。神主様」 「ん?」 「今日の『魔力の中和』は、いつにしますか? お昼寝の前にします? それとも、お夕飯の後に、たっぷり時間をかけますか?」
イスズが何の悪意もなく、純真な瞳でとんでもないことを尋ねてくる。 彼女にとって改蔵とのセックスは、世界平和のための『日課』でしかなかった。
「……そうだな」 「か、改蔵様!」
改蔵がニヤリと答えようとした瞬間、マナがバン! とちゃぶ台を叩いた。
「い、いけません! お二人が『中和』ばかりしていては!」 「え? でも、マナちゃん。神主様の魔力が暴走したら……」 「それも、大事です! 大事ですが! 私たちの本来の『任務』を、忘れてはなりません!」
マナの目がメラメラと、奇妙な炎に燃えていた。 彼女は、焦っていた。 このままでは、アジトの『ヒロイン』の座がこの癒し系ボインに、完全に奪われてしまう。 サポート担当悪魔としての自分の
「私たちは『怪人』を作るんです! 組織に、最強の戦力を納品するんです! それが私たちの使命なんです!」 「おお……」 「マナちゃん、なんだか、かっこいいです……」
マナは、自らを鼓舞するように叫ぶと、魔術スマートフォンを取り出し、『スキャナー』を起動させた。
「見つけました! 今日の『素材』は、この子です!」
画面に、一人の少女の写真が映し出された。
***
改蔵のアジトとは、何もかもが対照的な部屋。 天蓋付きのベッド。壁一面のアンティークな装飾。 差し込む光さえ、計算されたかのように、薄暗く、ゴシックな雰囲気を保っている。 そのベッドの上で一人の少女がゆっくりと身を起こした。
格子アリス(こうし ありす)。 プラチナブロンドの輝く髪。それを、まるで人形のように、完璧な縦ロールにしている。 肌は、血の気を感じさせないほど白く、顔立ちは、人間離れした美しさで整っていた。 無表情。無感動。 彼女は、音もなくベッドから降り立つと、クローゼットから、一着の服を取り出した。 黒を基調とした、フリルとレースが幾重にも重なる、豪奢なゴスロリ服。 彼女は、それに、まるで儀式のように、ゆっくりと袖を通していく。
「おはよう、マリアンヌ。今日は、いい天気ね」
アリスは、部屋の隅に置かれた、ビスクドールに話しかけた。 彼女の部屋には、床から天井まで世界中から集められた、無数の人形たちがぎっしりと並べられている。 それだけが彼女の『友達』だった。 アリスの両親は、仕事で世界中を飛び回っており、この広すぎる屋敷に、アリスは、ほとんど一人きりだった。
人間は、嫌いだった。 使用人たちは、金のために自分に笑顔を向ける。 学校の人間たちは、自分の外見や服装を、好奇の目で見たり、陰でヒソヒソと噂したりする。 人間は、汚い。 嘘をつく。 裏切る。 気分で態度を変える。
だが人形は、違う。 人形は、完璧だ。 いつだって美しく、変わらず、裏切らず、ただ、そこに『在る』だけでアリスを肯定してくれる。
(……私も)
アリスは、鏡に映る、完璧なゴスロリ姿の自分を見つめた。
(私も、こんな風に、完璧な『人形』になりたい) (心なんていらない) (ただ、美しく、愛されるだけの存在に)
それが彼女の唯一にして最大の『欲望』だった。
アリスは、お気に入りの日傘を差し、街へと出た。 アンティークドールショップで新しい『友達』を迎えるためだ。 街を歩けば、やはり、人々が奇異なものを見る目で彼女を遠巻きに見つめてくる。 「うわ、また、あの子」 「お人形さんみたい。でも、ちょっと、怖いよね」 アリスは、そのすべてを、無機質な表情で無視した。 (愚かな人間。私のかわいさがわからないのね) だがその無表情の仮面の下で彼女の心は、誰よりも強く叫んでいた。 (誰か、私を『完璧』だと言って) (私を、『本物のお人形』として愛して)
***
買い物を終えたアリスは、人混みを避け、古い教会の脇にある、石畳の路地裏を歩いていた。 彼女のお気に入りの静かな抜け道。 その時だった。 目の前に、音もなく、影が落ちた。
「……」
アリスは、足を止めた。 そこに立っていたのは、金髪の小柄な少女だった。 黒いレオタードに、悪魔の羽。 アリスの人形のように整った顔が初めてわずかな『興味』に揺れた。
「……何? 新しい、人形?」
彼女は、マナの姿を、現実の存在として認識できなかった。 あまりにも出来の良い、球体関節人形か、あるいは、精巧なコスプレイヤー。 マナは、スキャナーが示した『強烈な人形願望』という結果を確信し、訓練校首席の完璧な営業スマイルを浮かべた。
「貴女が格子アリスさんですね?」 「そうだけど。私に何か用? 人間には、興味ないの」
アリスは、冷たく言い放った。
「フフ。人間じゃなくて悪魔ですよ?」 「……悪魔」 「貴女の『願い』が聞こえました」
マナは、甘く、囁いた。
「貴女は本物の『お人形』に、なりたいんですよね?」 「……!」
アリスの身体がピシリ、と硬直した。 無表情だった仮面に、初めて亀裂が入る。 彼女の誰にも言ったことのない、たった一つの秘密の欲望。
「……今、なんて言ったの」
声が震えていた。
「ですから、貴女を永遠に変わらない、誰からも愛される、完璧な『ドール』としてあげられる。そういう『儀式』があるんです」 「……儀式」
アリスは、その言葉を、まるで聖句のように反芻した。 完璧な、ドール。 抗いがたい、誘惑。
「……どこへ、行けばいいの」
まるで夢遊病者のように、アリスが尋ねた。 (チョロい!) マナは、内心でガッツポーズをした。 ドリル(リン)に匹敵する、驚異的な話の早さ。 これなら、イスズに奪われた『手柄』を、取り返せる。
「簡単な『儀式』を受けるだけです。さあ、こちらへどうぞ」
マナがアリスの手を引く。 アリスは、その冷たい手を、何の抵抗もなく、握り返した。
一瞬の浮遊感。 次の瞬間、アリスが立っていたのは、ゴシックな教会裏ではなく、カビ臭い、薄暗い土間だった。
「……?」
アリスは、戸惑った。 埃っぽい床。今にも崩れそうな壁。 こんな場所で『完璧な人形』になど、なれるはずがない。 その時。
「おー、ご苦労さん。マナ。今度の『素材』か」
縁側の方から、気の抜けた、男の声がした。 Tシャツ一枚。スウェット。寝癖だらけの髪。 黒野改蔵がイスズが入れてくれた熱い茶をすすりながら、だらだらと入ってきた。 アリスは、改蔵のあまりにも『人間臭く』『生々しく』『下品』な姿を見てその美しい顔を、嫌悪に歪めた。
「……何、これ」
声は、氷のように冷たかった。
「汚い。不潔。下品」 「あ?」 「こんな、下等な人間がいる場所で私が『人形』になれるわけがない。騙したのね」
アリスは、マナの手を振り払い、踵を返した。 玄関の引き戸に、手をかける。
「あ! 改蔵様! 逃げられます!」 「チッ。プライド系は、やっぱ面倒くせえんだよ」
改蔵は、湯呑みを放り出すと、一瞬でアリスの背後に回り込んでいた。 そしてその豪奢なゴスロリ服の首根っこを、鷲掴みにした。
「ひゃっ!?」
アリスの小さな身体が宙に浮いた。 人形のように扱われることには慣れていたがこんな『雑』な扱いは、初めてだった。
「離しなさい! この汚い人間! 私に触るな!」 「うるせえ。せっかくの『極上素材』が逃げるかよ」
改蔵は、暴れるアリスを、まるで猫でも運ぶかのように、小脇に抱え直した。
「さっさと『儀式』を始めてその生意気な口、縫い付けてやるぜ」 「いやあっ! 離せ! 誰か! マリアンヌ!」
改蔵は、アリスの抵抗の悲鳴など、まるで意に介さず、儀式の
「あ、神主様、がんばってくださーい」
孤独な人形の運命の『儀式』が今、最悪の形で始まろうとしていた。