悪の組織のアジトはもはやアジトではなかった。 少なくとも
チチチと小鳥のさえずりが障子戸を抜けてくる。 古民家を包むのは埃とカビの匂いではない。 米の炊ける甘い香りとふわりと漂う味噌汁の出汁の匂いだ。
「……ん」
改蔵は万年床の布団の中で目を覚ました。 畳の匂いと陽の光。 そして左右から伝わる柔らかく温かい『感触』。 改蔵はゆっくりと目を開けた。 左腕には小悪魔マナが。 右腕には五十嵐イスズ(いがらし いすず)が。 二人の女が昨夜の『共同儀式』の疲れでぐっすりと寝息を立てていた。
イスズはTシャツ一枚という無防備すぎる姿。 その豊かな胸が改蔵の右腕にむにゅりと押し付けられている。 マナは改蔵の『陽』の気に完全に安心しきってコアラのように腹部に抱きつき幸せそうによだれを垂らしていた。 改蔵は笑った。 (……最高かよ) 世界征服だのヒーローだのどうでもいい。 このまま永遠に二度寝してやろう。 改蔵がそう思い再び目を閉じようとした時だった。
「……あ」
改蔵の腕の中でイスズが小さく声を漏らし目を覚ました。 寝ぼけ眼が改蔵を捉えふにゃりとした笑顔になる。
「ん……あ、神主様。おはようございます」
寝起きのTシャツ姿。 その無防備な笑顔はまさに『癒し』そのものだった。
「おう。まだ寝てろよ。昨日は激しかったからな」
「いえ! もう朝です。朝ごはんの準備をしないと」
イスズは『専属巫女』であると同時に完璧な『世話人』でもあった。 彼女は名残惜しそうに改蔵の温もりから離れる。 その拍子にTシャツの裾が大きくめくれ上がり豊かな尻と太ももが改蔵の視界を掠めた。 イスズはそのままマナのことも優しく揺り起こした。
「マナちゃん。朝ですよー」
「んん……はふぅ。イスズ様の『浄化』の匂い……」
マナは寝ぼけ眼で改蔵の腹部から離れると今度はイスズの胸に顔をうずめた。 彼女は改蔵の『陽』の魔力だけでなくイスズの『陰』の癒しの魔力にも完全に
「もー、マナちゃん。くすぐったいです」
「さてと」
改蔵もゆっくりと起き上がる。
「マナ。今日の『素材』の調子はどうだ」
「はいっ! 改蔵様!」
マナはイスズの胸から顔を上げると(まだ少し名残惜しそうに)魔術スマートフォンを取り出した。 朝の
「えーと『スキャナー』を起動しますね……。お、お、お?」
マナの指が止まった。 画面に表示された魔力の反応。 それは今までの
「どうした」
「こ、これは……反応が『揺れて』います」
「揺れてる?」
「はい。イスズ様の『癒し』のポテンシャルとも違う。ドリルさんやアリスさんのような『攻撃性』でもない。ただひたすらに『弱く』て『脆い』反応です」
マナは首を傾げた。 首席才媛の分析能力が久々に仕事をする。
「因子は『自己否定』……? 『受容』……? イスズ様ともノドカさんとも違う……。あ! このパターンは!」
マナが何かを思い出したように声を上げた。
「『拒絶恐怖』です! 嫌われることを極端に恐れる人間の出す魔力パターンです! これは……素晴らしい『素材』ですよ!」
「へえ。そりゃ楽しみだ」
改蔵はニヤリとした。 どんな『素材』であれ俺の『儀式』で極上の怪人にしてやる。 彼は朝食の匂いがする居間へと向かった。 今日も一日『
***
舞台は変わってアジトから少し離れた繁華街。 駅前のチェーン系ファミリーレストラン。 昼のピークタイムを過ぎた店内は少しだけ落ち着きを取り戻していた。
「……」
姪浜メイ(めいのはま めい)はウエイトレスの制服に身を包みキッチンの出口で次のオーダーを待っていた。 彼女の容姿は小柄ながらアンバランスなほどスタイルが良かった。 高い位置で結んだツインのお団子ヘア。 だが何よりも彼女を特徴づけているのは常に浮かんだ『困り眉』と今にも泣き出しそうな『潤んだ瞳』だった。 彼女は常に何かに怯え何かに謝罪しているように見えた。
ピンポーン。 Aテーブルの呼び出しランプが点灯した。 ガラの悪い大学生風の男四人組。 メイはビクリと肩を震わせた。 あのテーブルはさっきからクレームばかりつけてきている。
「は、はい! ただいまお伺いします!」
メイは小さなメモ帳を握りしめ小走りでテーブルに向かった。
「おせーよ」
「あ、あ、申し訳、ありません!」
「つーかよお。さっき頼んだこのパフェ」
リーダー格の男が食べかけのパフェグラスをメイの眼前に突きつけた。
「シロップ多くね? 甘すぎて食えねえんだけど。作り直せよ」
「え……。あ、で、でも……」
メイは明らかに半分以上減っているグラスを見た。 作り直すのはおかしい。 そう思った。 だが言えない。 男の睨みつけるような視線にメイの身体はすくみ上がった。
「……あ?」
「……っ!」
「わ、わかり、ました! す、すぐに! 新しいものをお持ちします!」
メイは深々と頭を下げパフェグラスをひったくるように掴みキッチンへと逃げ戻った。 (私が、我慢すれば) (私が、断ったら、あの人が、もっと怒って、お店に迷惑が) 彼女の思考は常に
「メイちゃん」
「は、はいっ!」
「Aテーブルまたクレーム? 本当アンタってトロいんだから」
「ご、ごめんなさい……」
「まあいいわ。それより私今日シフト上がり早いから。悪いけどBテーブルの片付けとドリンクバーの豆と氷の補充。それと閉店後のレジ締め。やっといてくれる?」
「え。あ、あの……! レジ締めは、私、まだ……」
「は? 教えたでしょ? できるよね?」
「……」
「できるよね?」
「……は、はい。わ、わかりました……! やります!」
「ん。じゃ、お疲れー」
お局は鼻歌交じりにスタッフルームへと消えていった。 メイは一人残されたキッチンで唇を噛み締めた。 潤んだ瞳から堪えていた涙がぽろりとこぼれ落ちた。 だが彼女はそれを乱暴に手の甲で拭った。 (私が、我慢すれば) (私が、断ったら、あの人が、困るから) (みんなが、笑顔なら、それで、いい) 彼女の小さな身体はとっくに限界だった。
***
夜九時。 閉店作業を一人で終え疲れ果てたメイがふらふらと夜道を歩いていた。 時給は最低賃金。 労働は三倍。 虚しさが彼女の心を支配していた。 人通りの少ない路地裏のショートカット。 彼女のお気に入りの『一人になれる場所』。 そこで彼女は『それ』に出会った。
「あの……!」
暗がりから不意に声がした。 メイはビクリと肩を震わせた。 心臓が口から飛び出しそうだった。
「ひっ……! ご、ごめんなさい!」
彼女は何もしていないのにまず謝った。 暗闇から現れたのは金髪の小さな少女だった。 黒いレオタード。 悪魔の羽。 非現実的な光景にメイは思考が停止した。
「こんばんは。姪浜メイさんですね?」
少女マナは完璧な『
「貴女とても『辛い』顔をしています。私にはわかります」
「え……?」
「貴女いつも『我慢』ばかりしていませんか? 誰にも『No』と言えなくて」
図星だった。 まるで自分の心を見透かされたかのように。 メイの瞳から我慢していた涙が今度こそ堰を切って溢れ出した。
「う……あ……。わ、わたし……! わたしが、ダメだから……!」
「違います!」
マナはメイの冷たくなった手を優しく両手で握りしめた。
「貴女は悪くありません。貴女はもっと『自由』になっていいんです」
「じ、ゆう……?」
「はい。貴女のその『優しさ(弱さ)』を本当の『力』に変える『儀式』があるんです」
「ぎ、しき……?」
「私たちの『聖域』に来ませんか? そこでは誰も貴女に『我慢』を強いたりしませんよ」
聖域。儀式。 メイの疲弊した思考ではそれが怪しいかどうかなど判断できなかった。 ただこの天使のような少女が差し伸べてくれた『救い』。 その温かい手を彼女は『断れなかった』。
「……は、はい……」
メイは今日初めて誰かの誘いを『断らなかった(受け入れた)』。 マナは完璧な『
「では参りましょう。貴女を解放する場所へ」
一瞬の浮遊感。 次の瞬間メイが立っていたのはカビ臭い薄暗い土間だった。 そして目の前には。
「おーマナ。ご苦労さん」
Tシャツ一枚の寝癖だらけの
「あ、マナちゃんお帰りなさい! その子が新しい『巫女』様?」
「ひっ……!」
メイは異様な(エロい)光景に息を飲んだ。 逃げようとした。 だがマナが彼女の手をがっちりと掴んでいた。
「ようこそ。姪浜メイさん。貴女は今日から『自由』です」
マナの笑顔は悪魔のように完璧だった。