悪の組織のアジトはもはやアジトではなかった。 少なくとも
チチチと小鳥のさえずりが障子戸を抜けてくる。 古民家を包むのは埃とカビの匂いではない。 米の炊ける甘い香りとふわりと漂う味噌汁の出汁の匂いだ。 これらはすべて五十嵐イスズ(いがらし いすず)がアジトに住み着いてからの『恩恵』だった。
「……ん」
万年床の布団の中で改蔵は目を覚ました。 畳の匂いと陽の光。 だが何かがおかしい。 重い。 息が苦しい。
改蔵はゆっくりと目を開けた。 視界にまず入ったのは漆黒の髪。 そしてハートの形をした小さな尾が目の前でぴこぴこと揺れていた。
「……」
姪浜メイ(めいのはま メイ)だった。 昨夜の『
「……んん」
右腕が痺れている。 見るとそこにはイスズがTシャツ一枚の無防備な姿で改蔵の腕を枕にし幸せそうに寝ていた。 その豊かな胸が改蔵の右腕にむにゅりと押し付けられ完璧な柔らかさを提供している。 左腕。 こちらはこちらで小悪魔マナがレオタード姿のままコアラのようにしがみついていた。 『契約の安定』と称し改蔵の
改蔵は天井を見上げた。 右に聖女。 左に悪魔。 腹の上にサキュバス(ペット)。 (……最高かよ) 世界征服だのヒーローだのどうでもいい。 このまま永遠にこの重さと温もりを感じていたい。 改蔵がそう思い再び目を閉じようとした時だった。
「……マスター」
胸の上でねっとりとした甘い声がした。 メイが目を覚ましていた。 そのとろりとした瞳が至近距離で改蔵を見つめる。
「おはよう、ございます。マスター」
「お、おう」
「朝、ですね。『ごはん』ください」
「え? イスズが今から……」
「違います」
メイは改蔵の言葉を遮った。 彼女は改蔵の胸の上でゆっくりと四つん這いになるとその小さな唇を改蔵の首筋に寄せた。
「マスターの『魔力』が、私のごはんです」
「こ、こら! メイ! 朝っぱらから!」
改蔵が慌てたその時だった。 左腕のマナも目を覚ました。
「あ! ずるいですメイさん!」
「ん?」
「改蔵様の朝一番の『安定』は私の
マナが改蔵の左腕にしがみついたままメイに対抗意識を燃やす。
「あ、あの……」
今度は右腕のイスズが目を覚ました。 目の前の光景に一瞬きょとんとする。
「あ、神主様! おはようございます! マナちゃんもメイちゃんも! ええと……朝の『お勤め』ですか?」
「そうだ!
改蔵が助けを求めた。
「はいっ! わかりました!」
イスズはにこやかに笑うと布団から起き上がった。 そして改蔵の『上』に乗り上げているメイをTシャツの襟首からひょいと持ち上げた。
「ひゃっ!?」
「メイちゃんはまず朝ごはんです! 神主様たちも! お顔洗ってください!」
イスズはアジトの『世話人』として完璧に機能していた。 彼女の癒しのオーラの前ではサキュバスも小悪魔も形無しだった。 メイはイスズに抱えられたまま不満そうに足をばたつかせている。 改蔵はようやく重圧から解放され布団から這い出した。 今日もアジトは
***
居間のちゃぶ台。 絶品の
「改蔵様! 今日の『素材』のリストです!」
マナが
「マスター。この卵焼きおいしいです。あーん」
メイが自分の箸で改蔵に卵焼きを運んでくる。 『奉仕』と『欲望』の塊である彼女の行動原理は全て改蔵に集約されていた。
「あ、こらメイちゃん! 神主様は今マナちゃんとお仕事のお話!」
イスズが母親のようにメイをたしなめる。
「うるさい。マナもメイも後で『儀式』だ。今は食うことに集中しろ」
改蔵の一喝。 それがこのハーレムの『法』だった。
「「はいっ! (です!)」」
改蔵はマナのスマホに視線を落とした。 スキャナーがいくつかの光点を表示している。 その中でもひときわ異質な反応を示す『点』があった。
「なんだこれ」
「あ、それです!」
マナが興奮気味に解説を始めた。
「この反応! 今までで一番『弱く』て『薄い』んです!」
「弱い?」
「はい! まるで存在していないかのような。でもその奥にドリルさんやアリスさんに匹敵するほどの巨大な『空虚』のポテンシャルを感じます! これは……!」
「……」
「究極の『ステルス』型です! カメレオン
マナはメイが『不良債権』だった分汚名返上とばかりに目を輝かせた。
「ふーん。『幽霊』ね」
改蔵はニヤリとした。 その『素材』が今どこで何をしているのか。 彼はまだ知らなかった。
***
その頃。 アジトから数キロ離れた大学の講義室。 数百人が入る巨大な階段教室は学生たちの私語と熱気で満ちている。 人気教授の講義はいつもこうだ。 友人同士のグループ。 派手な服を着た女子。 ノートパソコンを広げる意識の高い学生。 その『陽』の気の塊のような空間。 その一番後ろ。 一番端。 壁と一体化するような隅の席。 そこに広瀬ユウミ(ひろせ ゆうみ)はいた。
長い黒髪がカーテンのように彼女の顔を覆い隠している。 その奥にあるはずの素顔は誰にもわからない。 大きな黒縁のメガネはファッションではない。 他者の視線を遮るための『盾』だ。 彼女はいつも俯いている。 分厚い専門書を開いてはいるがその目は文字を追っていない。 ただひたすらに『無』になることを願っていた。
(……うるさい) (……見ないで) (……消えたい)
彼女は息をすることさえ他人に気付かれるのを恐れていた。 彼女の服装はいつも地味なグレーか黒。 季節感のないだぼだぼのパーカー。 自分という『色』を消すためのカモフラージュ。 彼女の願いはただ一つ。 『透明人間』になりたい。 いや透明ですらない。 最初から『存在しなかった』ことになりたい。
ザワザワ。 講義室の空気が動いた。 教授が入ってきたのだ。 だがユウミが反応したのはそれではない。 隣の席の学生が忘れたペンを拾おうとしてユウミの机に腕が当たった。
「あ、すまん」
軽い謝罪。 その男子学生はユウミの顔を見もしなかった。 だがユウミにとっては『直撃』だった。
「ひっ……!」
ユウミの身体がビクリと跳ねた。 心臓が口から飛び出しそうだ。 (見られた) (触れられた) (認識された) (ごめんなさいごめんなさいごめんなさい) 彼女は誰に謝るでもなく心の中で土下座した。 もう講義の内容など入ってこない。 ただこの時間が過ぎるのを嵐のように耐えるだけだった。
講義が終わった。 学生たちが一斉に出口へと殺到する。 ユウミはその『波』が怖い。 人の流れ。 熱気。 視線。 彼女はいつも全員がいなくなるまで席を立てない。 ガランとした講義室に一人残される。 その『孤独』だけが彼女の唯一の『安心』だった。
「……」
ユウミは誰にも見られていないことを確認しそっと立ち上がった。 そして逃げるように講義室を出る。 帰り道も彼女は『安全』なルートしか通らない。 人通りの多い表通りは避ける。 建物の影。 裏路地。 日陰。 自分のような『幽霊』にふさわしい道。 その日も彼女はいつもの薄暗い路地裏を選んで歩いていた。 そこで彼女は『それ』に出会った。
「見つけた」
声がした。 路地裏の奥。 影が差すゴミ捨て場の前に金髪の少女が立っていた。 黒いレオタード。 悪魔の羽。 それはユウミとは対極の『存在感』の塊だった。
「ひ……!」
ユウミは息を飲んだ。 逃げようとした。 だが足が動かない。 恐怖で縫い付けられてしまった。 マナは完璧な『首席』の笑顔でゆっくりと近づいた。
「広瀬ユウミさんですね? 貴女を探していました」
「あ……あ……」
(どうして私の名前を) (見ないで) (話しかけないで)
「貴女の『願い』私にはわかります」
マナはユウミの心の『核』を見透かすように言った。
「『消えたい』のでしょう?」
「……っ!」
ユウミの身体が激しく震えた。 恐怖。 それとも『理解』されたことへの安堵か。 彼女にはわからなかった。
「私なら貴女を本当に『消して』あげられますよ」
「き、消す……?」
「はい。誰にも見られず誰にも触れられず誰にも認識されない。そんな完璧な『存在』に作り替える『儀式』があるんです」
マナの言葉は悪魔の誘惑。 だがユウミにとっては『救い』の言葉そのものだった。 このうるさい世界から『消してくれる』。
「……どうすれば」
ユウミが蚊の鳴くような声で呟いた。
「簡単です。私に付いてくるだけ」
マナはユウミの冷たくなった手を掴んだ。 ユウミは抵抗しなかった。 抵抗する『勇気』がなかった。 いやこれが『救い』だと信じたかった。
「では参りましょう。『儀式』の間へ」
一瞬の浮遊感。 ユウミは目を固く閉じた。 そして次に目を開けた時。 彼女は『地獄』の入り口に立っていた。
カビ臭い土間。 目の前にはTシャツ一枚の男。 その男の右足にはサキュバス(メイ)が。 左足には
「あ……あ……あ……」
ユウミの
「お。マナ。今度の素材『
改蔵のだらしない声がユウミの遠のく意識に響いていた。