冷たい。 それが広瀬ユウミ(ひろせ ゆうみ)が意識を取り戻して最初に感じたことだった。 硬く冷たい床が背中に当たっている。 カビと埃が混じった濃密な匂い。 (……どこ) 目を開けるのが怖かった。 昨日の記憶が断片的に蘇る。 あの薄暗い路地裏。 金髪の
「あ! 神主様! 起きましたよ!」
「ん? おお。随分寝てたな。丸一日か」
「マスター。この『素材』壊れてなかったんですね」
「わあ! よかった! 大丈夫ですか?」
四つの声。 四方向からの『視線』。 ユウMIIは絶望の中でゆっくりとまぶたを開けた。 そこは自分の部屋ではなかった。 埃っぽい土蔵。 薄暗い裸電球。 床には歪な魔法陣。 そして。 自分を覗き込む四つの『地獄』。 だらしないTシャツ姿の
「ひっ……! あ……!」
ユウミは声にならない悲鳴を上げた。 彼女は咄嗟に四つん這いになり蔵の『隅』へと逃げた。 壁。 壁だ。 壁は私を見ない。 ユウミは冷たい土壁に額を押し付けガタガタと震え始めた。 背中に突き刺さる四対八つの視線が針のように痛い。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「……」
「私なにもしてませんごめんなさい見ないでください消えますから石になりますからごめんなさい」
彼女は意味不明な謝罪を繰り返した。 それが彼女の唯一の『防御方法』だった。 改蔵は面倒くさそうに頭を掻いた。
「おいマナ。こいつ本気で『壊れて』んじゃねえか」
「い、いえ! これはポテンシャルが発露している証拠です!」
マナが観測モニターを片手に興奮気味に早口で捲し立てる。
「彼女の『消えたい』という欲望がこれほど強いんです! これなら間違いなく最強の『幽霊』になります!」
「あ、あの!」
イスズがTシャツ一枚の無防備な姿でお盆を持ってユウミに近づこうとした。 お盆の上には温かいお茶が乗っている。
「ユウミちゃん。大丈夫? 怖くないですよ。私たち『世界平和』のために」
「ひいいいいいっ!」
ユウミはイスズの『
「あ、だめですよ! 頭打ったら!」
イスズが慌ててその肩に触れようとした。
「さわルな!」
ユウミが獣のような声で叫んだ。 その瞳は恐怖と憎悪で真っ赤に充血していた。
「……マスター」
改蔵の足元にいたメイがとろりとした目でユウミを見た。
「あの
「……まあ、そうだな」
改蔵は立ち上がった。 このままでは埒が明かない。 プライド(リン)でもない。 アスリート(アズサ)でもない。 こいつはただの『恐怖』だ。 なら『恐怖』で上書きするしかない。
改蔵は蔵の隅で震えるユウミの背後に音もなく立った。 ユウミの細い肩がビクリと跳ねた。 背後に立つ『気配』。 その『圧』だけでユウミは呼吸が止まった。
「さてと」
改蔵の声が頭上から降ってくる。
「『儀式』の時間だ」
「いや……! ごめんなさい! わたし、なにも、いらないですから!」
「うるせえ。お前は『消えたい』んだろ?」
改蔵はユウミの細い腕を掴んだ。 骨と皮だけのような冷たい腕。
「ひっ……!」
「だったら『消して』やるよ。俺の『儀式』でな」
「いやああああああっ!」
ユウミの絶叫が響き渡った。 改蔵はユウミの抵抗などまるで意に介さなかった。 彼はその軽い身体を小脇に抱えると魔法陣の中央へと無造作に放り投げた。
「きゃっ!」
埃っぽい床に打ち付けられる。 ユウミは泣きながら逃げようとした。 だが改蔵がその足首を掴んでいた。
「あ、あ、あの! 神主様!」
イスズが本気で心配そうな顔で叫んだ。
「その子! 本当に壊れちゃいます! 優しくしないと!」
「イスズ様! 大丈夫です! マスターの『儀式』は素材のポテンシャルを最大限に引き出します!」
「でもでも!」
「メイ! イスズを抑えとけ」
「はい。マスター」
メイがイスズの腰に後ろから抱きつきその場に拘束した。
「ひゃっ!? メイちゃん!?」
「イスズさん。うるさい。マスターの邪魔。しないで」
「マナ! お前は観測だ!」
「はいっ! お任せください!」
改蔵は完璧な『観客』の配置を終え自らの
「……いい目だ」
改蔵は笑った。 その生気のない『無』の瞳。 それこそが最高の『素材』の証だった。 改蔵はユウミの前にしゃがみ込んだ。 そしてその長い黒髪をカーテンのようにかき分けた。 露わになったのは怯えきった小さな顔だった。 大きな黒縁メガネが涙で濡れている。 改蔵はそのメガネを乱暴に外して放り投げた。
「ひっ!」
視界がぼやける。 だがそれ以上に『ハッキリ』と改蔵の顔が見えた。 その獰猛な獣の目が。
「お前の『いらない』もん。全部『壊して』やるよ」
改蔵はユウミのだぼだぼのパーカーのジッパーに手をかけ一気に引き裂いた。 ビリビリと布が裂ける音。
「いやあああああっ!」
ユウミの絶叫。 彼女の『盾』だった服が剥がされていく。 その下には補正下着でもないただの擦り切れたTシャツとジャージ。 それすらも改蔵は容赦なく引き裂いた。 露わになったのは骨張った貧しい身体だった。 豊満なイスズやノドカとは対極。 栄養失調寸前の薄い胸。 アバラが浮いた胴体。 彼女が『消えたい』と願う理由。 彼女が『人間』として魅力がないと思い込んでいる『肉体』そのものだった。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
ユウミは裸にされなぶるように改蔵に見下ろされた。 彼女の精神はもう限界だった。 プツリと何かが切れた。 ユウミの瞳から光が消えた。 彼女はもう抵抗しない。 泣きもしない。 ただ『無』になった。 彼女は『 解離』したのだ。 (私はここにいない) (これは私じゃない) (私は壁の染み) (私は床の埃)
「……ハッ。ようやく『幽霊』になり始めたか」
改蔵はユウミの変化に気づいた。 だがまだ足りない。 彼は自らの服も脱ぎ捨てた。 圧倒的な『陽』の気。 『生』の象徴。 改蔵は『無』になろうとするユウミの身体に馬乗りになった。
「あ……」
イスズがその光景に息を飲んだ。
「い、イスズ様! これが『儀式』です! しっかり目に焼き付けてください!」
マナが興奮した声で解説する。
「『拒絶』と『存在』の魔力がぶつかります!」
改蔵は『無』になったユウミの冷たい器に自らの『存在』を突き立てた。
「……っ」
ユウミの身体がビクリと跳ねた。 だが声は出ない。 痛み。 熱。 『異物』。 『人間』が自分の中に入ってくる。 その『存在感』が彼女の『無』を許さない。 改蔵は腰を動かし始めた。 魔力を『注入』する。 いつもの儀式だ。
「ぐ……!」
改蔵は眉をひそめた。 おかしい。 魔力が『入らない』。 ユウミの身体が改蔵の魔力を『拒絶』している。 まるで高反発のゴムに注ぎ込むように魔力が弾き返されてくる。
「あ! 改蔵様!」
マナがモニターを見て叫んだ!
「だめです! 素材が魔力注入を『拒絶』しています! 魔力が逆流して改蔵様にダメージが!」
「チッ! こいつ……!」
改蔵はユウミの顔を覗き込んだ。 ユウミの目は開いていた。 だが何も映していない。 彼女の『魂』は完全にこの場から『逃げて』いた。 このままでは魔力が循環せず儀式は失敗する。
「……神主様」
改蔵の後ろでイスズが震える声を出した。
「あの子……身体が、冷たくなってます……!」
改蔵も気づいた。 ユウミの肌が人間の体温を失い氷のように冷たくなっている。 このままでは本当に『死ぬ』。 (くそっ! どうする) (こいつの『魂』を肉体に引き戻さないと!) 改蔵は戦略を変えた。 力任せの注入はもうやめた。 彼は腰の動きを止めユウミの冷たい身体を抱きしめた。
「ひっ……!?」
ユウミの『器』が初めて反応した。
「おい。聞こえるか」
改蔵はユウミの耳元で低く囁いた。
「お前は『消えたい』んだろ。でも『死にたい』わけじゃねえ」
「……」
「お前は『ここにいる』。俺が今お前を『抱いてる』。お前は『存在』してるんだよ」
改蔵はゆっくりと腰を動かし始めた。 今度は『破壊』ではない。 『教え込む』ように。 『熱』を伝えるように。 じっくりと魔力を注ぎ始めた。
「あ……」
ユウミの瞳にわずかに『光』が戻った。 (……あつい) (……なにかが、入ってくる) (……この男が、私を、『認識』してる) それは彼女が人生で最も『恐れた』ことだった。 だが同時に。 彼女が心のどこかで『求めていた』ことでもあった。 誰かに『見つけて』ほしかった。
「そうだ。お前はここに『いる』」
改蔵はユウミのぼんやりした瞳を見つめ返した。
「お前が『いる』ことを俺が『許して』やる。だからお前も俺の『魔力』を受け入れろ」
「あ……あ……」
ユウミの冷たい身体に改蔵の『熱』が浸透していく。 拒絶が解けていく。 彼女の『魂』がこの蔵にゆっくりと戻ってきた。 そして改蔵の『存在』を『受け入れ』始めた。 彼女の『無』のポテンシャルと改蔵の『陽』の魔力。 二つが混じり合い始めた。
「……あ!」
ユウミの身体が初めて『快感』に震えた。 『存在』を肯定される快感。
「あ! あ! ああああっ!」
「ハッ! ようやく『目覚めた』か!」
改蔵はここぞとばかりに魔力の出力を上げた。 今度は弾かれない。 ユウミの身体がスポンジのように魔力を吸い込んでいく。
「あ! ああああんっ! なにかが! 私が! 私じゃなく、なっていく!」
「そうだ! お望み通り『消して』やるよ! 『人間』の広瀬ユウミはな!」
改蔵が最後の魔力を叩き込んだ。
「イイイイイイイイイッ!」
ユウミの絶叫。 彼女の身体が凄まじい魔力光を放った。
「最終変態、開始します!」
マナの歓喜の叫び。 光の中でユウミの身体が変貌する。 だがそれは『肉体』の変化ではなかった。 ユウミの身体が『透け』始めたのだ。 アバラが浮いた貧しい身体がまるで曇りガラスのように半透明になっていく。 長い黒髪は重力を失い水中のようにふわりと浮き上がった。 肌の『体温』が完全に失われた。 その代わり冷たい『霊気』が全身から立ち昇る。
「……」
光が収まった。 魔法陣の中央にユウミは『立って』いた。 いや『浮いて』いた。 その足は床から数センチ浮き上がっている。 彼女の身体は半透明だった。 向こう側のガラクタがぼんやりと透けて見える。 彼女の瞳はもう充血していない。 ただ静かな『闇』のように黒くそこにあった。
「……」
「あ……あ……」
蔵の入り口でイスズが腰を抜かしていた。
「……すごい」
マナが観測モニターを見つめ震えていた。
「物理干渉が……消えた? いや違う。『存在確率』が変動している……!?」
ユウミ(だったもの)はゆっくりと改蔵を見た。 そして。 ふっ その姿が掻き消えた。
「え!?」
改蔵が驚いて周囲を見渡す。 いない。 蔵のどこにもいない。
「……マスター」
声がした。 改蔵の『耳元』で。 改蔵が振り向く。 だがそこには誰もいない。
「……マスター」
今度は『足元』で。
「……マスター」
今度は『天井』で。 声だけが蔵全体に響き渡る。 ユウミは蔵の『影』そのものに溶け込んでいた。
「……フフ」
不気味な笑い声。
「……きえた」 「……わたし、きえられた」 「……だれにも、みえない」 「……だれにも、さわれない」 「……わたしは、『
改蔵はニヤリと笑った。 その不気味な『傑作』の誕生を。
「おう。お前の名前は『
「……フフフフフ」
改蔵にだけ聞こえる不気味な笑い声が蔵に響き渡った。 最強の『ステルス』怪人の誕生だった。