「……はあ」
深く重たい溜息が広大な廊下に響いた。 ここは悪の組織・地球征服軍団の本拠地『パンデモニウム』。 地底深くに建造されたこの要塞は、人類の科学力を遥かに凌駕する魔術とテクノロジーの結晶だ。 壁一面には怪しげな紫色の松明が燃え盛り、天井は見えないほど高い。 その威容は侵入者を絶望させるに十分な迫力を持っている。 だが、その廊下を歩く男の背中はひどく小さく見えた。
サイトウ。 悪の組織の最高幹部『四天王』の一人。 戦闘員のリクルートと人事管理を一手に引き受ける男。 髪の毛が気になる四十路のおじさん。 彼は胃薬の瓶を片手に、鉛のように重い足取りで『幹部会議室』へと向かっていた。
「今月のノルマもきついな……。戦闘員の離職率が上がってる。福利厚生は見直したはずなんだが」
彼はブツブツと独り言を漏らす。 最近のヒーローは強すぎる。 特に日本支部のジャスティンジャー。 あいつらのせいで現場の戦闘員たちは疲弊しきっている。 『もう無理です』『実家に帰ります』『田んぼの様子を見ないと』。 そんな退職届の山がサイトウのデスクを埋め尽くしていた。
「それに加えて……あの『製造担当』だ」
サイトウは胃のあたりをさすった。 日本支部の協力者・黒野改蔵。 彼とあのアホなサポート悪魔マナが送ってくる報告書は、毎回サイトウの常識を粉砕する。 『今日はセックスで怪人ができませんでした』 『今日は三人でしました』 『今日は四人でしました』 ここは悪の組織だぞ。 ピンク街の風俗店じゃないんだ。 だが首領はなぜか彼らを高く評価している。
「……行くか」
サイトウは覚悟を決めて、会議室の重厚な扉を開けた。
ギイイイイ。 重い音と共に開かれた円卓の間。 そこにはすでに他の三人の『四天王』が揃っていた。
「遅いぞサイトウ」
低い唸り声のような声。 四天王筆頭・ヴォルグ。 歴戦の人狼だ。 身長は二メートルを優に超え、全身を鋼の筋肉と銀色の体毛が覆っている。 歴戦の傷跡が刻まれたその顔は、見る者を震え上がらせる。 彼は巨大な肉の塊を生で食らいながら、苛立ちを隠そうともしていなかった。
「すまんヴォルグ。日本支部からの報告書を整理していてな」
「フン。あの極東の島国か。最近騒がしいようだが、戦果はどうなんだ」
「上々だよ。……内容はともかくな」
サイトウは自分の席に座った。 その隣では、ジャラジャラという音が鳴り響いている。
「ヒヒヒ! 金だ! 金こそが力だ!」
四天王・ミミガー。 オークに見えるが、本人はあくまで『高貴な魔族』だと言い張る豚……いや男だ。 彼はテーブルの上に山積みになった金貨の山に顔をうずめ、恍惚の表情を浮かべていた。 軍団の金庫番。 彼の経済力がなければ、この組織は一日たりとも回らない。
「おいミミガー。会議中だぞ。金貨をしまうんだ」
「うるさいなあサイトウ。これは『経理作業』だブヒ。……あ、語尾が出た」
「……」
そしてもう一人。 部屋の隅で巨大な鍋をかき混ぜている巨人がいた。
「まあまあ皆さん。仲良くしましょうよ」
四天王・ミソスー。 六本の腕を持つ異形の巨人だが、その性格は温厚そのもの。 軍団の福利厚生担当兼料理長だ。 彼の作る『社食』がなければ、戦闘員たちはとっくに暴動を起こしているだろう。 ある意味で組織の要だ。
「今日のおやつは特製プリンですよ」
「おお! ミソスーのプリンか! それは楽しみだ!」
ヴォルグの尻尾がパタパタと揺れた。 人狼も甘いものには目がない。 これが悪の組織の幹部会だ。 外から見れば恐ろしい魔物の集まりだが、中身は意外とアットホーム(?)な職場環境だった。 サイトウが議事進行を始めようとしたその時だった。
ドオオオオオオン!
会議室の扉が爆砕された。 開いたのではない。 内側から吹き飛ばされたのだ。 粉塵が舞う中、紫色の稲妻がバチバチと弾ける。
「な、なんだ!?」
ヴォルグが即座に戦闘態勢を取る。 ミミガーが金貨を抱えて机の下に隠れる。 ミソスーがお玉を構える。 サイトウは胃薬を落とした。
「ごきげんよう。古い時代の遺物たち」
煙の向こうから、傲岸不遜な声が響いた。 カツン。カツン。 鋭利なハイヒールの音。 現れたのは、ボンテージ風の魔力装束に身を包んだ少女。 漆黒の翼のような髪。 全身から溢れ出る圧倒的な魔力のオーラ。
「……貴様、何者だ」
ヴォルグが低く唸る。 だが少女は怯むどころか、鼻で笑った。
「名乗る必要を感じないけれど、教えてあげる。私は『魔人ミスティ』。今日からここの『頂点』に立つ女よ」
石川カスミ。 日本支部で作成された、規格外の戦力。 彼女は転移ゲートを潜り抜け、いきなり本部の会議室に殴り込みをかけてきたのだ。
「頂点だと? 笑わせるな小娘!」
ヴォルグが激昂した。 四天王筆頭としてのプライドが許さなかった。 ヴォルグの身体がブレる。 音速を超える踏み込みでミスティとの間合いを詰め、その剛腕を振り下ろした。 直撃すれば戦車すら粉砕する一撃。
「遅い」
ミスティは動かなかった。 ただ、指先を軽く弾いただけだ。
バチィッ!
「ぐああっ!?」
紫電の衝撃波がヴォルグを弾き飛ばした。 巨体が壁に激突し、亀裂が入る。
「なっ……! ヴォルグを一撃で!?」
サイトウが絶句した。 ヴォルグは四天王最強の武闘派だ。 それを指先一つで。
「フン。野蛮な犬ね。私のステージには相応しくないわ」
ミスティは優雅に歩を進め、空いていた上座の
「……あ、あのう。君が噂の新人さん?」
ミソスーがおずおずと声をかけた。
「ミソスーさんだったかしら。アンタの料理の評判は聞いてるわ。あとで私の部屋にフルコースを持ってきなさい。カロリーは控えめでね」
「は、はい〜」
「そこの豚」
「ブヒッ!? ぼ、僕は豚じゃないブヒ!」
「アンタの金庫の鍵、よこしなさい。私の活動には金がかかるの。衣装代、ステージ代、プロモーション費用。青天井よ」
「そ、そんなあ! 予算委員会を通さないと!」
ミスティは完全に場の空気を支配していた。 圧倒的な『力』と『わがまま』。 彼女は自分が四天王になろうなどとは思っていない。 ただ、自分が中心であればそれでいいのだ。
「サイトウ」
ミスティの視線がサイトウに向いた。 サイトウの胃がキリキリと悲鳴を上げる。
「は、はい!」
「アンタが私のマネージャー代わりなんでしょ? 今後のスケジュールはどうなってるの? 世界征服のロードマップ、私の『輝き』を中心に組み直しなさい」
「む、無茶を言うな! 組織には組織の計画が……!」
「書き換えればいいじゃない。私が『主役』なんだから」
ミスティは当然のように言い放った。 彼女にとって、世界は自分を中心に回るべき舞台装置でしかない。
「……いい加減にしろ!」
瓦礫の中からヴォルグが立ち上がった。 その全身から殺気が溢れ出ている。 本気だ。 獣化が進み、身体が一回り大きくなっている。
「新入りが調子に乗るなよ。ここで殺してやる」
「あら。まだやる気? いいわよ。アンタたち全員まとめて『スクラップ』にしてあげる」
ミスティが立ち上がり、両手にどす黒い魔力を収束させる。 一触即発。 会議室が戦場になろうとしていた。 その時、サイトウのタブレットに首領からの緊急アラートが入った。 『当該個体を第五の幹部として登録せよ。これ以上の損壊は予算の無駄である』
「ま、待て! 待ってくれヴォルグ! ミスティ君もだ!」
サイトウが必死に叫んだ。
「首領からの裁定が下りた! ミスティ君の実力は本物だ。よって、本日ただいまをもって、彼女を最高幹部の一員として認める!」
「……なに?」
ヴォルグが牙をむく。
「四天王は今日から『五人』だ! 彼女は『第五の四天王』として、遊撃将軍の地位を与える!」
「第五の四天王? なにそれ。算数もできないの?」
ミスティが呆れたように鼻で笑った。
「馬鹿みたい。でもまあ……『特別扱い』ってことなら、悪くはないわね」
ミスティは手元の魔力を霧散させた。 とりあえず、自分の地位が認められたことに満足したようだ。
「ただし! 私の序列は『一位』よ。そこだけは譲らないわ」
「ぐぬぬ……!」
ヴォルグが拳を震わせるが、首領の決定とあれば従わざるを得ない。
「そういうことで、よろしく頼むわね、下僕たち」
ミスティは髪をかき上げ、踵を返した。
「今日は挨拶だけのつもりだったの。アンタたちみたいな薄汚いむさ苦しい連中と長く一緒にいたら、肌が荒れちゃうわ」
彼女は背を向け、破壊された扉の向こうへと歩き出した。 その背中は堂々としており、誰も呼び止めることができなかった。 圧倒的なカリスマ。 嵐のような女だった。
「……ふう。なんとかなったか」
サイトウは安堵の息をついた。 だが、このまま彼女を野放しにするわけにはいかない。 今後の活動方針や、予算の申請方法などを伝えておかなければ。
「ミスティ君! 待ちたまえ! 書類の手続きが……」
サイトウは彼女の後を追って廊下に出た。 重厚な扉が閉まり、会議室からの視線が遮断された瞬間。
「……っ」
先ほどまで威風堂々と歩いていたミスティの動きが、ピタリと止まった。 ガクリ。 膝から崩れ落ちるように、彼女はその場にへたり込んだ。
「ミ、ミスティ君!?」
サイトウが駆け寄る。 見ると、ミスティの顔色は土気色になり、脂汗が滝のように流れていた。 さっきまでの女王の威厳はどこにもない。 そこにいるのは、ただの震える小娘だった。
「サ、サイトウ……! は、早く……!」
「どうした!? ヴォルグにやられたのか!?」
「ちが……う……! ガ、ガス欠……!」
「は?」
「魔力が……切れる……! 早く! 日本へ送ってちょうだい!」
ミスティはサイトウのズボンの裾を掴み、涙目で懇願した。
「うぅ……魔力ぅ……! なくなっちゃう……! 身体が、しびれるぅ……!」
「……えぇ?」
サイトウは呆気にとられた。 さっきの圧倒的なパワーはどこへ行ったのだ。
「カッコつけて……魔法、使いすぎた……! もう一歩も動けない……!」
ミスティは廊下に這いつくばり、ガタガタと震えている。
「マスター……! マスターの『魔力』が欲しい……! 今すぐ……! おなか空いたぁ……!」
「マスター? 黒野君のことか?」
「そうよ……! あいつの魔力がないと、私……維持できないの……! 早く! 早く帰らせて! 充電して!」
「……」
サイトウは理解した。 この少女は確かに最強だ。 だが、その燃費は最悪だ。 常に全力全開でアイドリングしているようなものだ。 外部からの
「……はあ」
サイトウは今日一番の深いため息をついた。 彼は懐から通信機を取り出し、転送班へ連絡を入れた。
「あー、サイトウだ。第五ゲートを開け。日本支部行きだ。……ああ、緊急搬送だ」
「ううぅ……サイトウぅ……ありがとう……今度サインあげるからぁ……」
「いらん」
数分後。 転送ゲートの光に包まれながら、ミスティは「ごはん……ごはん……」とうわ言のように呟いて消えていった。 嵐が去った後の廊下に、サイトウだけが取り残された。
サイトウは重い足取りで会議室に戻った。 中では、ヴォルグたちがまだ殺気立っていた。
「サイトウ! あの女はどうした! 逃したのか!」
ヴォルグが吼える。
「……ああ。帰ったよ。彼女は『定期的なメンテナンス』が必要な身体らしい」
サイトウは疲れた声で答えた。
「メンテナンスだと? まさか、あの強大な力には代償があるというのか……」
ミミガーが震えながら言った。
「あんな怪物を、平然と使いこなし、管理している男がいるとは……」
「黒野改蔵……。あいつこそが真の『化け物』かもしれん」
ヴォルグが真顔で言った。 あんな高慢で強力な魔人を、完全に支配下に置いている男。 彼らの想像の中で、改蔵の姿はとてつもなく巨大で、冷酷で、計算高い『魔王』のような存在に膨れ上がっていた。 (実際はただ、「燃費わりーなー」と言いながらセックスで魔力補給しているだけのスケベな男なのだが)
「……とにかく」
サイトウは胃薬を飲み込んだ。
「四天王は今日から『五人』だ。だが実質的な管理は日本支部に丸投げする。我々は関与しない。いいね?」
「「「異議なし」」」
満場一致だった。 こうして悪の組織の幹部会は、黒野改蔵という『特異点』を正式に『アンタッチャブル(触らぬ神)』として認定した。 サイトウの胃痛は、まだまだ治りそうになかった。