地球の裏側。 光届かぬ地底深くに建造された、悪の組織・地球征服軍団総本部『パンデモニウム』。 人類の科学力を数世紀先取りしたオーバーテクノロジーの結晶であり、世界中に散らばる支部を統括する悪の心臓部。 その最下層に位置する第13兵員食堂は、今日も今日とて、墓場のような重苦しい空気に包まれていた。
「……はぁ。やってらんねえよな」
戦闘員Aが、配給された灰色の栄養ブロック(味は湿ったコンクリートに似ている)をスプーンで突きながら、深い溜息をついた。 彼の黒いタイツスーツはあちこちが焦げ、マスクの片目はひび割れ、そこから覗く目は死んだ魚のように濁っている。
「昨日の作戦、聞いたか? 北米支部が壊滅したってよ。ヒーロー『キャプテン・フリーダム』の『自由の女神パンチ』一発で、基地ごと吹き飛ばされたらしい」
「マジかよ……。俺の同期、あそこに配属されてたのに。先週『ボーナスが出たら婚約指輪を買うんだ』って手紙が来たばっかりだったんだぞ」
戦闘員Bが頭を抱える。 最近のヒーローは強すぎる。 インフレだ。 パワーバランスが完全に崩壊している。 彼ら
「俺、もう田舎に帰ろうかな……。実家の畑、継ごうかな……。大根なら、裏切らないし……」
「馬鹿野郎。脱走兵は即時処刑だぞ。……でも、気持ちは痛いほどわかる」
戦闘員Cが小声で囁く。 食堂の空気は、まるでお通夜のようだった。 希望がない。 未来がない。 あるのは過労死か、ヒーローによる爆殺への片道切符だけ。 だが、そんな澱んだ泥沼のような空気を切り裂くような噂話が、誰からともなく囁かれ始めた。
「なぁ。お前ら、『日本支部』の噂、知ってるか?」
戦闘員Aが、周囲を警戒するように声を潜める。
「日本支部? ああ、あの極東の島国か。確か、最近やたらと強力な怪人が出現してるって場所だろ? でも、あそこは予算も少ないし、駐在員もほとんどいない『左遷先』だって聞いたぞ」
「それが違うんだよ。最近、あそこの環境が『天国』に変わったらしい」
「天国?」
戦闘員たちが顔を見合わせる。
「なんでも、そこには『製造担当』と呼ばれる謎の男がいてな。そいつの下につけば、とんでもない待遇が待ってるらしいんだ」
「『製造担当』……? 幹部じゃないのか?」
「ああ。役職は外部顧問らしいんだが、権限は絶大だそうだ。噂じゃ、そいつのアジトには、絶世の美女たちが侍っていて、毎日酒池肉林の宴が開かれているとか」
「マジかよ……! 俺たちのディストピアとは大違いじゃねえか!」
「それだけじゃねえ。福利厚生も異常だ。最近着任した『医療局長』……元ナースの怪人らしいんだが、彼女の治療がすごいらしい」
戦闘員Cが身を乗り出す。
「どんな治療なんだ?」
「全身をくまなく検査して、悪いところを全部『吸い出して』くれるんだと。しかも、治療後は『もう戦わなくていい』って、優しく管理してくれるらしいぜ」
「……ゴクリ」
戦闘員たちが生唾を飲み込む。 戦わなくていい。 優しく管理される。 それは、死と隣り合わせの彼らにとって、何よりも甘美な響きだった。
「他にも、双子の美少女アイドルが専用の慰安コンサートを開いてくれたり、元教師の女怪人がマンツーマンで『個人指導』してくれたり……とにかく、男の夢が全部詰まったパラダイスらしいぜ」
「なんだよそれ! 同じ組織の話かよ!」
「ズルい! 俺も日本に行きたい!」
「転属願い! 転属願いの用紙はどこだ! いますぐ書く!」
食堂がにわかに活気づく。 男たちの
「……貴様ら。随分と楽しそうだな」
その時。 食堂の温度が一気に絶対零度まで下がった。 地響きのような低い声。 入り口に立っていたのは、二メートルを超える巨躯の狼男だった。 四天王筆頭・ヴォルグ。 歴戦の勇者であり、組織最強の武闘派幹部。 その全身から発せられる殺気に、戦闘員たちは一瞬で直立不動になった。
「ヴォ、ヴォルグ様! お疲れ様です! イーッ!」
「イ、イーッ!」
全員が敬礼する。 ヴォルグは鋭い牙を剥き出しにし、ゆっくりと歩み寄った。 その手には、巨大な骨付き
「配給の時間に無駄口とは余裕だな。そんな暇があるなら、筋トレの一回でもしたらどうだ。貴様らの腹筋は弛んでいるぞ」
「は、はいっ! 申し訳ありません!」
「フン。……で? なんだ? 日本支部がどうしたと?」
ヴォルグが戦闘員Aを睨みつける。 Aは震え上がりながらも、必死に答えた。
「は、はい! 日本支部には強力な怪人が多数おり、独自の指揮系統で素晴らしい戦果を上げているという噂がありまして……その、我々もあやかりたいなと……」
「戦果、か。……確かに、あそこの『製造担当』が作り出す怪人は規格外だ」
ヴォルグは鼻を鳴らした。 彼は認めていた。 あのスケベな男、黒野改蔵の手腕を。 先日、幹部会に殴り込みをかけてきた魔人ミスティ。 医療部門を掌握した七瀬レン。 そして先日の報告にあったラミア怪人。 どれもが、組織の既存技術では再現不可能な『魔力』と『欲望』のハイブリッド生物だ。
「だが、貴様ら勘違いするなよ。あそこは天国などではない」
ヴォルグが厳かに告げる。
「あそこは『欲望の坩堝』だ。生半可な覚悟で足を踏み入れれば、あの『製造担当』と女怪人たちに骨の髄までしゃぶり尽くされるぞ」
「し、しゃぶり尽くされる……?」
戦闘員たちの脳内で、その言葉がピンク色の妄想に変換される。 (……それって、最高のご褒美なのでは?)
「……まったく。どいつもこいつも、顔に『性欲』と書いてあるわ」
ヴォルグはため息をつき、食堂の大型モニターを指差した。
「いいか。日本支部が成果を上げているのは、楽をしているからではない。圧倒的な『執念』が存在するからだ。これを見ろ」
ヴォルグがリモコンを操作する。 画面に映し出されたのは、先日日本で暴れた『ラミア怪人』の戦闘記録映像だった。 リクルートスーツの上半身に、大蛇の下半身。 彼女が長い尾でヒーローたちを薙ぎ払い、締め上げる姿が映し出される。
「おおお……! すげえ迫力!」
「しかもエロい! あのスーツのパツパツ感、最高っす!」
「俺も巻かれたい!」
戦闘員たちが歓声を上げる。
「黙って見ろ。……この怪人の力、尋常ではない。単純な筋力だけでなく、獲物を絶対に逃さないという『独占欲』が魔力となって具現化している」
ヴォルグは真剣な眼差しで解説した。 彼は武人だ。 強さの本質を見抜く目を持っている。 日本の怪人たちは、どれも歪んでいる。 だが、その歪みこそが、爆発的なエネルギーを生み出しているのだ。
「強くなりたければ、欲を持て! 誰かを守りたいでも、誰かを犯したいでも、何でもいい! 魂を燃やす『燃料』を持て!」
ヴォルグの咆哮が食堂に響き渡る。 彼は四天王だ。 部下を鼓舞し、導く義務がある。 たとえその動機が不純であろうとも、結果として組織が強くなればそれでいい。
「い、言われてみれば……俺、あんなお姉さんに締め付けられるなら、死んでもいいかも……」
「俺はナースさんに注射されたい……!」
「俺は双子ちゃんに踏まれたい!」
戦闘員たちの目に、怪しい光が宿り始める。 それは決して崇高な闘志ではない。 だが、間違いなく『熱』だった。 死んだ魚のようだった目が、獲物を狙う獣の
「そうだ。その目だ」
ヴォルグはニヤリと笑った。
「日本支部に行きたいか?」
「行きたいです!」
「ならば実績を作れ! ヒーローの一人でも倒してみせろ! そうすれば、俺が直々に転属を推薦してやる!」
「うおおおおおっ! やります! やらせてください!」
「打倒キャプテン・フリーダム!」
「待ってろよナースさん! 俺の血管はあんたのためにある!」
食堂が熱狂に包まれる。 単純な男たちだ。 だが、この単純さこそが、戦場では最強の武器になることをヴォルグは知っていた。
***
一方その頃。 パンデモニウムの最上層、『玉座の間』。 そこは宇宙空間のように暗く、無数の星々がホログラムで投影された幻想的な空間だった。 その中央に浮かぶ巨大な玉座に、一人の存在が鎮座していた。 悪の組織の頂点。
「……退屈だ」
低い声が響く。 世界各地からの報告は、似たり寄ったりだ。 基地を作った、壊された。 怪人を出した、倒された。 予定調和の繰り返し。 彼にとって、この星の征服事業は、少し飽きが来ているゲームのようなものだった。
「失礼します、首領」
サイトウが胃薬を片手に現れた。 彼は恭しく一礼し、タブレットを差し出した。
「日本支部からの定時報告です。『製造担当』より、新たな怪人のデータが届いております」
「またか。あの男も飽きないな」
首領は指先を動かし、データを展開した。 映し出されたのは、ラミア怪人のデータと、その
「ほほう……。今回は『教育者』の皮を被った『蛇』か。相変わらず下俗で、原始的で……そして美しいほどに効率的だ」
首領の口元が、わずかに歪んだ。 彼は黒野改蔵という男に、畏敬の念など抱いていない。 彼にとって改蔵は、盤上の駒の一つに過ぎない。 だが、他の駒が「忠誠」や「恐怖」で動く中、この駒だけは「性欲」という独自のエンジンで勝手に進化し、予想外の動きを見せる。 それが面白くて仕方がないのだ。
「他の支部が予算と科学力を注ぎ込んでも勝てないヒーローを、この男は股間の棒一本で翻弄している。……滑稽だが、評価せざるを得んな」
「はっ。彼の作り出す怪人は、精神的な『渇望』を魔力に変換するシステムを採用しています。その出力は、理論値を遥かに凌駕しております」
「うむ。いいだろう。日本支部への予算を倍増させろ。あと、彼の好きそうな『素材』のリストアップも進めておけ」
「承知いたしました」
首領は再び頬杖をついた。
「踊らせておけ。あの男の欲望が、どこまで世界を侵食できるか……余興としては悪くない」
彼にとって、改蔵は最高の『道化』であり、退屈しのぎの『玩具』だった。
***
サイトウが玉座の間を退出し、廊下を歩いていると、ヴォルグから通信が入った。
『……ヴォルグか。どうした』
「サイトウか。今、兵隊たちの士気を上げていたところだ。日本支部への転属を餌にな」
『それはご苦労。……ちょうどいい。その日本支部の『製造担当』……黒野君から、物資の要請が届いている』
「要請? なんだ? 兵器か? それとも増援か?」
『いや……』
サイトウが読み上げる声が、少し震えた。
『「最近、アジトの女たちの性欲が強すぎて、夜も眠れねえ。俺のスタミナが切れたら怪人製造が止まっちまう。至急、組織が開発した最強の精力剤『Z-クラッシャー』を1ダース送ってくれ。あと、万が一のために、俺の代わりになるような元気な
「……」
ヴォルグは絶句した。 聞き間違いだろうか。 いや、あいつなら言いかねない。 だが、その言葉の意味を、ヴォルグは(勝手に)深読みした。
「……なんという男だ」
ヴォルグの声が震える。
「夜も眠れないほどの激務……。自らの肉体を極限まで酷使し、それでもなお怪人を作り続けようというのか。まさに悪の鑑……いや、狂気だ」
『え? いや、多分単にエロいことしたいだけだと……』
「精力剤を寄越せということは、限界を超えて戦い続ける覚悟の表れ! そして『生贄』とは、自分の身が尽きた時のための予備パーツということか……!」
ヴォルグの中で、改蔵の評価が「スケベな男」から「目的のためなら自らの命すら削る狂気の科学者」へと勝手に修正されていく。
「わかった。精力剤はすぐに手配しよう。だが、生贄は送らん」
『ん? なぜだ?』
「俺の部下を、そんな過酷な
ヴォルグは拳を握りしめた。
「黒野改蔵……。貴様が倒れるのが先か、俺たちが世界を征服するのが先か……競争だな」
『……まあ、いいけどさ』
サイトウは胃薬を飲み込んだ。 誤解は解かないでおこう。 その方が組織が回るなら、それでいい。
こうして、地底の総本部は、かつてないほどの熱気と勘違いに包まれていた。 日本の片田舎に住む、一人のスケベな男の『性活』が、知らぬ間に世界中の悪党たちの士気を爆上げしているとは露知らず。 改蔵は今日も、アジトで女たちに囲まれ、のんきに精力剤の到着を待っているのだった。