残暑が厳しい午後のアジト。 蝉の鳴き声がジジジと脳を焼くような暑さの中、黒野改蔵は物理的にも精神的にも、重たく湿った熱気に包まれていた。
「……マスター。ねえ、マスター」
改蔵の膝の上には、サキュバス怪人のメイが乗っていた。 彼女は改蔵の首に腕を回し、その顔を覗き込んでいる。 瞳孔が開いたとろんとした目。 荒い鼻息。 そして、じっとりと汗ばんだ肌が、改蔵の胸板に吸盤のように張り付いている。
「こっちみて。よそみ、だめ」
メイが不満げに頬を膨らませる。 改蔵が少しでもテレビに視線を移すと、すぐに彼女の手が伸びてきて、改蔵の顔を自分の方へ強制的に向けさせるのだ。
「わかった、わかった。見てるよ」
改蔵は苦笑しながら、メイの頭を撫でた。 双子がいなくなり、ネムが本部へ去り、アジトの人口密度は下がったはずだ。 だが、その分だけ残されたメンバーの密度……特にこのサキュバスの依存度が、危険水域まで高まっている気がする。
「なでるだけ、やだ。もっと、して。愛して」
メイが身体をくねらせる。 彼女の腰が、改蔵の股間をグリグリと擦り上げる。 スウェット越しでも分かる、硬さと熱。 それを感じ取ったメイの口元が、だらしなく緩んだ。
「……おっきくなってる。わたしのこと、すきだから?」
「ああ。お前がエロいからな」
「えへへ。わたしもすき。マスターの全部、たべちゃいたい」
メイは改蔵の唇を奪った。 ただのキスではない。 呼吸すら共有しようとするような、長くて深い、窒息しそうな口づけだ。 彼女の背中にあるハート型の尻尾が、バタンバタンと畳を叩いている。
「……はぁ。相変わらず重いですねぇ、あの駄犬は」
その様子を、天井の梁から小悪魔マナが見下ろしていた。 彼女は冷えた麦茶をストローで啜りながら、呆れたように、しかし少し羨ましそうに呟く。
「サキュバスの特性である『精気吸収』と、元々の性格である『内気な依存心』が悪魔合体して、とんでもない『メンヘラモンスター』になっています。放置するとアジトごと飲み込まれそうですね」
「まあ、神主様がああやって甘やかすからですよ」
台所から五十嵐イスズが顔を出した。 彼女は氷の入ったボウルで素麺を冷やしている。
「でも、あそこまで愛されたら、男冥利に尽きるんじゃないでしょうか。……私だって、本当はずっとくっついていたいんですけど」
イスズが少し頬を染める。 このアジトの女たちは、どいつもこいつも改蔵への愛が重い。 ただ、そのベクトルが少しずつ違うだけだ。 メイの場合は『融合』。 相手と一つになり、境界線をなくしたいという、原初的な欲求だ。
「……んぷ。はぁ……。マスター、おいしい」
ようやく唇を離したメイは、銀色の糸を引きながら恍惚としていた。 その瞳には、改蔵以外の世界は映っていない。 完全にキマっている。
「さて。この重たい空気を換気するためにも、新しい風が必要だな」
改蔵はメイの腰をポンと叩き、モニターの方を顎でしゃくった。
「マナ。次の『素材』は見つかったか?」
「はいっ! ちょうど今、面白い反応をキャッチしました!」
マナが梁から飛び降り、タブレットを操作する。 空中にホログラムが展開され、都心の繁華街の映像が映し出された。
「場所は『東横』エリア……若者たちがたむろする広場です。そこに、強烈な『不発弾』のような波動を出している子がいます」
「不発弾だと?」
「はい。寂しさと、承認欲求と、破壊衝動がごちゃ混ぜになった、極めて不安定なエネルギー体です。……このままだと、自爆しかねませんね」
「面白え。その爆弾、ウチで引き取るぞ」
改蔵はニヤリと笑った。
「マナ、行って来い。丁寧に『解体』して、ここまで運んでくるんだ」
「了解しました! 地雷処理班、出動します!」
マナは敬礼すると、黒いレオタード姿のまま転送ゲートを開いた。 彼女の姿が光の中に消える。 改蔵は、膝の上のメイを撫でながら、新たな獲物の到着を待つことにした。
***
都心、歌舞伎町タワー横の広場。 通称『東横』。 そこは、行き場のない若者たちが集まり、座り込み、時間を浪費する吹き溜まりだった。 派手な看板のネオン、酔っ払いの怒号、パトカーのサイレン。 雑多なノイズが渦巻くコンクリートのジャングル。 その一角、薄汚れた地面に敷かれたダンボールの上に、一人の少女が体育座りをしていた。
灰田ミミ(はいだ みみ)。 年齢は十代後半だろうか。 不健康そうなほどに痩せぎすな身体。 肌は病的なまでに白く、目の下には濃い隈がある。 髪は黒髪をピンクのインナーカラーで染め、高い位置で二つに結んだツーサイドアップ。 服装はいわゆる『地雷系』ファッションだ。 フリルのついた黒いブラウスに、短いスカート。 首には錠前のついたチョーカー、足元は厚底の靴。 そして何より目を引くのは、左手首に巻かれた包帯と、そこから覗く痛々しい傷跡だった。
「……うざ」
ミミは片手に持ったストロング系の缶チューハイを煽りながら、スマホの画面を睨みつけていた。 画面にはSNSのタイムラインが流れている。 『彼氏とデートなう』『幸せ〜』。 そんなキラキラした投稿が、彼女の神経を逆撫でする。
「どいつもこいつも、幸せそうな面しやがって。……爆発しろ」
ミミは小さく毒づいた。 彼女には居場所がなかった。 親とは喧嘩して家出し、学校にも行っていない。 ネットで知り合った男の家を転々としたり、こうして広場で時間を潰したり。 誰かに愛されたい。 必要とされたい。 でも、近づくと傷つけられるのが怖くて、自分から壊してしまう。 その繰り返しだ。
「……あーあ。誰か、あたしのこと拾ってくんないかな」
ミミは空になった缶を握り潰した。 ベコリ、とアルミが悲鳴を上げる。
「拾って、大事にして、めちゃくちゃに愛して……そんで、裏切ったら殺してやるのに」
彼女の瞳は暗く濁っていた。 だが、その奥底には、マグマのような激情が渦巻いている。 寂しい。 悲しい。 ムカつく。 愛おしい。 相反する感情が圧縮され、今にも暴発しそうな高圧エネルギーとなって彼女の中に溜まっていた。
「……ねえ、そこの君」
不意に、ナンパ男が声をかけてきた。 チャラチャラした格好のホスト風の男だ。
「一人? これから飲みに行かない? 俺が奢ってあげるよ」
ミミはゆっくりと顔を上げた。 冷めた目。
「……あんた、あたしのこと愛せる?」
「え? 愛? まだ会ったばっかじゃん。これから知っていけば……」
「あたしの重さ、全部背負える? 毎日連絡返せる? GPS共有できる? スマホ見せられる? 他の女見たら目玉くり抜いてもいい?」
ミミが早口でまくし立てる。 その目は笑っていない。 男の背筋が凍るような、底知れぬ闇がそこにはあった。
「うわっ……。なんだコイツ、メンヘラかよ。関わらんとこ」
男はドン引きして、そそくさと逃げていった。 いつものことだ。 誰も、彼女の
「……死ね。みんな死ね」
ミミは膝に顔を埋めた。 孤独だ。 この喧騒の中で、自分だけが世界から切り離されているような感覚。 胸の奥にある黒い塊が、ドクンドクンと脈打ち、膨れ上がっていく。 壊したい。 自分も、世界も、何もかも。 いっそ綺麗な花火になって、全部吹き飛ばしてしまいたい。
「こんばんは。随分と危険な『不発弾』が落ちていますね」
頭上から、鈴を転がすような声が降ってきた。 ミミが顔を上げると、そこには黒いレオタード姿の少女が浮いていた。 小悪魔マナだ。 周囲の人間には見えていないのか、誰も騒いでいない。
「……何? コスプレ?」
ミミは気だるげに返した。
「いいえ。私は『地雷処理班』です。貴女のような、爆発寸前の女の子を回収しに来ました」
マナがふわりと降り立つ。 その瞳は、ミミの心の奥底を見透かすように輝いている。
「貴女、探しているんでしょう? 貴女の『重さ』を全部受け止めて、一緒に壊れてくれる人を」
「……は? 何言ってんの」
「私のボスなら、それが出来ますよ。貴女の望む『重くて』『痛くて』『死ぬほどの愛』……全部あげられます」
マナが手を差し出した。
「どうですか? ここで腐っていくより、派手に爆発してみませんか?」
ミミの心が揺れた。 怪しい。 絶対に怪しい。 でも、この少女の言葉には、嘘がないように思えた。
「……ご飯、出る?」
「はい。とっても美味しいご飯と、極上の『愛』が出ます」
「……裏切らない?」
「裏切ったら、殺してくれて構いません。ボスは不死身ですから」
「……ふーん」
ミミは立ち上がった。 ふらつく足取りで、マナの手を取る。 その手は小さかったが、力強かった。
「いいよ。行ってあげる。……つまんなかったら、自爆してやるから」
「契約成立ですね。灰田ミミさん」
マナが指を鳴らす。 広場の地面に、魔法陣が浮かび上がった。
「さあ、行きましょう! 貴女の『導火線』に火をつける場所へ!」
黒い光が二人を包み込む。 ミミは最後に、自分が座っていたダンボールを見下ろした。 空っぽの空き缶が転がっている。 さようなら、空っぽの私。 これからは、満たされて、燃え尽きるまで生きるんだ。
***
ドサッ。 アジトの土間に、ミミが転がり落ちてきた。 転送の衝撃で尻餅をつく。 スカートがめくれ、細い脚が露わになる。
「……いった」
ミミが顔を上げる。 そこは古びた日本家屋の土間だった。 そして、目の前には一人の男が仁王立ちしていた。 黒野改蔵。 ボロボロのスウェット姿だが、そのだらしない身体から発せられるスケベオーラは、広場のどんな男たちよりも濃厚で、暴力的だった。 その足元には、とろんとした目のサキュバスが侍っている。
「ようこそ。俺の火薬庫へ」
改蔵がニヤリと笑った。 ミミは彼を見た瞬間、直感した。 この男だ。 あたしの求めていた『毒』は。
「……あんたが、ボス?」
ミミはふらふらと立ち上がり、改蔵に近づいた。
「ああ。お前がマナの拾ってきた不発弾か。……いい匂いがするな。火薬と、血と、蜜の匂いだ」
改蔵の手が伸びる。 ミミの頬を、荒い手つきで撫でる。 痛い。 でも、熱い。
「……あたし、重いよ? 面倒くさいよ? すぐリストカするし、お薬も飲むし、束縛するよ?」
ミミは試すように言った。 これで怖気づくなら、それまでの男だ。
だが、改蔵は笑った。 獰猛に、楽しそうに。
「ハッ! 重い愛だと? 笑わせるな」
改蔵の手が、ミミの後頭部を鷲掴みにした。 強い力。 逃がさないという意思。
「俺の愛はな、お前の想像より百倍重いぞ。受け止めたら、お前の方が壊れちまうかもな」
「……!」
ミミの心臓が跳ねた。 壊れる。 その言葉が、電流のように背筋を駆け抜けた。 この男なら、あたしを壊してくれるかもしれない。 あたしの全部を飲み込んで、爆発させてくれるかもしれない。
「……上等じゃん」
ミミは改蔵の胸に手を置いた。 ドクン、ドクンと脈打つ心臓の音が伝わってくる。
「試してみせてよ。あたしを、爆発させて」
「おう。任せとけ。骨の髄まで愛してやる」
改蔵はミミを抱き寄せた。 痩せた身体が、改蔵の腕の中にすっぽりと収まる。 地雷系少女・灰田ミミは、悪の組織の黒幕に拾われた。 彼女が抱える爆発的な愛が、このアジトでどのような化学反応を起こすのか。 マナとイスズ、そしてメイが見守る中、新たな『儀式』の準備が始まろうとしていた。