アジトの庭にある柿の木が、鮮やかな橙色の実をたわわに実らせる季節。
空は高く澄み渡り、鰯雲がゆっくりと流れていく。
暑苦しかった蝉の声はいつの間にか消え、代わりにリリリ……という秋の虫たちの涼やかな音色が、古びた木造平屋を包み込んでいた。
『芸術の秋』。
それは、世界征服を企む(予定の)悪の組織のアジトにも、等しく訪れていた。
「……できました! 神主様、見てください! 自信作です!」
六畳間の居間で、五十嵐イスズが画用紙をバッと広げた。
彼女は今日、いつものTシャツ一枚姿ではなく、その上に汚れ防止のスモックを羽織っていた。
まるで幼稚園の先生か、あるいは図工の時間の小学生のような格好だが、スモックの下から伸びる健康的で白くなめらかな太ももと、前屈みになった時に襟元から覗く豊満な谷間は、明らかに教育上よろしくないエロスを放っている。
「……ほう」
黒野改蔵は、ステテコのゴム紐を緩め、寝転がって鼻をほじりながら、差し出された画用紙をぼんやりと眺めた。
そこには、黒いクレヨンで力強く描かれた、得体の知れない『何か』があった。
五本の手足のようなものが生えた黒い塊。
目玉が飛び出し、口からは赤い液体を垂れ流している。
前衛的を通り越して、見ているだけで
「どうですか? 神主様を描いてみたんです! その、溢れ出る包容力とか、男らしさを表現したくて!」
イスズが目をキラキラさせて感想を求めてくる。
この純粋な天然娘のフィルターを通すと、今のダラけきった改蔵も、なにやら高尚な存在に見えているらしい。
「……あー、うん。味があるな。ピカソも裸足で逃げ出しそうだ」
改蔵は適当に答えた。
下手に「下手だ」と言って彼女を泣かせると、その慰め(という名の夜の儀式)に数時間を要することを知っているからだ。まあ、それはそれで悪くないのだが、今は単純に面倒くさかった。
「本当ですか!? 嬉しいです! じゃあ次は、マナちゃんを描きますね!」
イスズは嬉々として新しい画用紙に向かった。
「やめてくださいイスズ様。私が描かれると、多分この世のものとは思えない妖怪になりそうですから」
天井の梁からぶら下がっていた小悪魔マナが、心底嫌そうに顔をしかめた。
「……芸術は爆発。イスズの絵は、精神汚染攻撃」
部屋の隅、少し開いた押し入れの隙間から、ボソボソとした声が聞こえる。
そこには、サーバー機材とPCモニターの明かりに照らされた、リス耳と尻尾を持つ少女、小森クルミがいた。
彼女はこのアジトに住み着いて以来、基本的に押し入れから出てこない。
トイレと食事、そして改蔵との『魔力充填』の時以外は、こうして引きこもってネットの海を漂っているのだ。
「うるせえぞ、引きこもりリス。……ったく、どいつもこいつも平和ボケしやがって。なんかこう、パァーっと面白いことねえかなぁ」
改蔵はゴロリと寝返りを打ち、あくびをした。
膝の上では、サキュバス怪人のメイが、改蔵の太ももをキャンバスに見立てて、指先で『すき』『だいすき』と見えない文字を書き続けている。
平和だ。
あまりにも平和すぎて、退屈で死にそうだ。
「面白いこと、ですか?」
マナがピクリと耳を動かした。
彼女は懐から魔術タブレットを取り出し、周囲の『情念』をスキャンし始めた。
「おや……? 改蔵様、近所の公園から、ものすごくドロドロした『負のオーラ』を感じます」
「負のオーラ? 怨霊か?」
「いえ、生身の人間ですね。強烈な焦燥感、自己嫌悪、そして……世界への呪詛。かなり煮詰まってますよ、この人」
マナがニヤリと笑う。
「面白そうな『オモチャ』の予感がします。ちょっと拾ってきましょうか?」
「おう、いいな。退屈しのぎに丁度いい。イキのいいヤツなら連れてこい」
改蔵が許可を出すと、マナは嬉しそうに尻尾を振った。
「了解です! ちょっくら『スカウト』してきますね!」
マナは窓を開けると、黒い翼を広げて秋の空へと飛び出した。
バサリ、と風を切り、夕暮れの街へと消えていく。
***
秋の日は釣瓶落とし。
午後四時を過ぎると、公園にはすでに長い影が落ち、肌寒い風が吹き抜けていた。
ブランコが錆びついた音を立てて揺れる、薄暗い児童公園。
そのベンチに、一人の少女がうずくまっていた。
「……出ない。……出てこない……ッ!」
鮫川ツムギ。
彼女の容姿は、一言で言えば『不審者』だった。
手入れされていない黒髪はボサボサで、鳥の巣のように絡まり、前髪は目にかかるほど長い。
その隙間から覗く瞳は、寝不足による隈で縁取られ、獲物を狙う深海魚のようにギラギラと血走っている。
着ているのは、毛玉だらけの緑色のジャージ。
足元は便所サンダル。
そして何より特徴的なのは、彼女が抱えているスケッチブックと、地面に散乱した大量の消しゴムのカスだった。
「違う……! こんなんじゃヌルい……! もっとこう、脳髄を直接レイプするような迫力が欲しいのに……ッ!」
ガリガリガリッ!
ツムギは鉛筆を握りしめ、スケッチブックに線を刻み込む。
だが、すぐに「あーッ!」と叫んでページを破り捨てた。
彼女は漫画家だ。
まだ学生ながら、一部のマニア層に熱狂的な支持を受けるカルト作家。
だが今、彼女は深刻なスランプに陥っていた。
「……締切、明日……。担当からの催促電話、着信履歴50件……。死ぬ。原稿落として死ぬ……」
ツムギは虚ろな目で呟いた。
今回のテーマは『最強の悪役』。
世界を絶望させるような、圧倒的な欲望と暴力性を持ったヴィランを描かなければならない。
だが、平和な現代日本で暮らす彼女の想像力は、枯渇していた。
リアルが足りない。
本物の『欲望』を見たことがない。
彼女が描く悪役は、どこか薄っぺらく、借り物の言葉しか喋らない人形になってしまうのだ。
「……刺激が欲しい。私の脳みそをかき回して、ドロドロに溶かしてくれるような……強烈な劇薬が……」
ツムギはベンチの上で胎児のように丸まり、自身の爪を噛んだ。
ギザギザに尖った歯が、爪を削る。
「お困りのようですね、お姉さん」
不意に、頭上から声が降ってきた。
ツムギが顔を上げると、公園のジャングルジムの上に、逆さまにぶら下がっている少女がいた。
マナだ。
「……誰? 新手のコスプレ?」
ツムギは驚きもせず、気だるげに尋ねた。
彼女の目には、目の前の超常的な存在すらも『幻覚』か『取材対象』としてしか映っていない。
「ふふ。コスプレじゃありませんよ。私は親切なスカウトマン。……貴女、飢えてますね?」
マナがふわりと地面に降り立ち、ツムギの顔を覗き込んだ。
「インクの匂いと、焦燥感。そして……満たされない破壊衝動。素晴らしい『素材』の匂いがします」
「……素材?」
「ええ。貴女が求めている『刺激』、ウチにありますよ。とびきり濃くて、下品で、最高のヤツがね」
マナが誘うように手を差し伸べる。
その笑顔は、悪魔的で魅力的だった。
「そこに行けば……描けるの? 傑作が」
「描けますとも。ただし……取材費は、貴女の『身』一つで払っていただきますけど」
ツムギは迷わなかった。
彼女はスケッチブックと鉛筆をひったくるように掴むと、マナの手を取った。
「……連れてって。ネタになるなら、地獄だって行ってやる」
その目には、狂気に似た創作意欲の炎が燃え上がっていた。
マナはニヤリと笑い、風呂敷のような結界を展開した。
「交渉成立ですね。では、ご案内~!」
バサァッ!
ツムギは一瞬で黒い布に包まれ、空間の彼方へと拉致されていった。
***
ドサッ!
アジトの六畳間に、汚れたジャージの塊が放り出された。
埃が舞い上がり、畳が軋む。
「ただいま戻りました、改蔵様! 面白い『芸術家』のお客様をお連れしましたよ!」
マナの元気な声と共に、ツムギが顔を上げた。
カビ臭い畳の匂い。
生活感と、得体の知れないフェロモンが混じり合った濃厚な空気。
ツムギはボサボサの髪を掻き上げ、その場の光景を目撃した。
そこには、一人の男がいた。
黒野改蔵。
ランニングシャツからはみ出た腹、無精髭、そして片手にはワンカップ大関。
もう片方の手は、ステテコの中に突っ込まれ、尻か股間をポリポリと掻いている。
その横には、半裸の美女たちが侍っているが、男は気にする風でもなく、ただただ怠惰に寝そべっていた。
「……あ? なんだこいつ。乞食か?」
改蔵が、面倒くさそうに身を起こした。
ツムギの薄汚いジャージ姿を見て、眉をひそめる。
そこに「魔王の威厳」など欠片もない。
あるのは、圧倒的な「生活感」と「だらしなさ」、そして隠そうともしない「欲望」だけだ。
「……」
ツムギは言葉を発しなかった。
ただ、口を半開きにし、鉛筆を握りしめたまま、改蔵を凝視していた。
普通なら「汚いオッサンだ」と顔をしかめるところだろう。
だが、極限状態のクリエイターの脳は、別の回路に接続した。
(……すごい。なんだこの質感。飾り気ゼロ。理性ゼロ)
彼女の目には、改蔵の姿が「究極の自然体」として映っていた。
社会的な建前も、羞恥心も、倫理観も、全て脱ぎ捨てた裸の魂。
食いたい時に食い、寝たい時に寝て、ヤりたい時にヤる。
それは、彼女が描こうとして描けなかった「本能の化身」そのものだった。
「……見つけた」
ツムギが呟く。
「あ?」
「これだ……! 私が描きたかったのは、この混じりっ気なしの『汚らしさ』……ッ!」
ツムギは突然、這いつくばって改蔵ににじり寄った。
その動きは、ゴキブリのように素早く、そして執拗だ。
「ちょ、ちょっと貴女! 神主様に何する気ですか!」
イスズが慌てるが、ツムギは止まらない。
改蔵の目の前まで来ると、彼女は震える手で改蔵のステテコに触れた。
「……ヨレヨレだ。シミもついてる。……リアルだ」
ペタペタ、ペタペタ。
ツムギは改蔵の二の腕、たるんだ腹、そして無精髭を、指先で確かめるように触り始めた。
それは性的な愛撫というよりは、物質の構造を理解しようとする検品作業のようだった。
「おい。気色わりいいぞ、手前ぇ。触んじゃねえ」
改蔵が不快そうに腕を振り払う。
だが、ツムギはめげない。
むしろ、その「鬱陶しい」という素直な反応すらも貪るように見つめている。
「その目……! 何も隠してない、欲望丸出しの濁った目……! 最高……ッ!」
ツムギはスケッチブックを開き、猛烈な勢いで鉛筆を走らせ始めた。
シャカシャカシャカシャカ!
鉛筆の芯が折れそうなほどの筆圧。
紙の上には、改蔵のだらしない姿が、より生々しく、よりグロテスクに、そして魅力的にデフォルメされて描き出されていく。
「マナ。なんだこの変態は。保健所に返してこい」
「まあまあ、改蔵様。彼女は漫画家さんです。今、スランプで『悪のモデル』を探していたそうで。……貴方のその『だらしなさ』が、彼女の琴線に触れたみたいですよ?」
マナがクスクスと笑う。
「漫画家だと? 俺をネタにする気か?」
「……お願いします」
ツムギがスケッチブックを下ろし、土下座の姿勢で頭を下げた。
「貴方のこと、取材させてください。……貴方のその、底なしの『性欲』と『怠惰』を、私の漫画の中で生かしたいんです」
「褒められてる気がしねえな。断る。俺は見世物じゃねえ」
「タダとは言いません!」
ツムギが顔を上げる。
そのボサボサ髪の隙間から、ギラギラとした欲望の目が光る。
「私には……観察眼があります。貴方が……普通の人間じゃないってことくらい、ここを見れば分かります」
彼女の視線が、改蔵の股間へと滑り落ちる。
ステテコの上からでも分かる、だらしない格好には不釣り合いなほど立派な膨らみ。
「貴方の中にある……その黒くてドロドロしたインク(欲望)。……私に、注入してくれませんか?」
アジトの空気が一瞬で変わった。
イスズが顔を赤らめ、メイが尻尾をピンと立てる。
押し入れのクルミが「……変態発見」と呟く。
「……ほう」
改蔵の目が細められた。
嫌悪感から、興味へと変わる。
この薄汚い女の奥底にある、狂気じみた探究心。
そして何より、「注入してくれ」という直球な誘い。
それは、スケベな黒幕として、無視できない提案だった。
「注入してくれ、だと? 意味分かって言ってんのか?」
「分かります。……クリエイターは、体験したことしか描けないから」
ツムギは自身のジャージのファスナーに手をかけた。
ジジジ……と音を立てて下ろされる。
下に着ていたのは、ヨレヨレのTシャツ一枚。
ノーブラなのか、乳首の形がうっすらと浮き出ている。
色気のかけらもない格好だが、その身体からは「描きたい」という執念が、異様な色気となって立ち昇っていた。
「私の身体を使って……最高の『欲望』を教えてください。……その代わり、世界一の悪役として、後世に残る名作に描いてみせます」
ツムギは舌なめずりをした。
ギザギザの歯が、妖しく光る。
「面白い」
改蔵はニヤリと笑った。
彼はツムギの顎を掴み、乱暴に自分の方へ向かせた。
「いい度胸だ。そのスランプ、俺がブチ壊してやるよ。……ただし」
改蔵の顔が近づく。
酒とタバコと汗の混じった、強烈な男の匂い。
「俺のインクは濃いぞ? お前のその薄っぺらいスケッチブックじゃ、受け止めきれねえかもしれんがな」
「……望むところです。……全部、描ききってやる……ッ!」
ツムギは震えながらも、改蔵の剛直に手を伸ばした。
鉛筆を握っていたその指先が、今度は別の『筆』を握ろうとしている。
芸術の秋。
アジトの夜は、インクと体液の匂いに満ちた、背徳の創作活動へと塗り替えられようとしていた。