秋晴れの空が広がる爽やかな朝。 だが、悪の組織のアジトである古びた木造平屋の中は、徹夜明けの編集部のような、淀んだ空気と異様な熱気に包まれていた。 床には無数の丸められた紙屑が散乱し、ちゃぶ台の上には空になった栄養ドリンクの瓶が林立している。 その中心で、昨夜『スケッチ怪人』へと覚醒した鮫川ツムギは、血走った目でスケッチブックに向かっていた。
「……できた。できたわ……! 完璧なネーム(作戦計画書)……!」
ツムギがガバッと顔を上げた。 全身を覆う黒いインクの被膜が、朝日に照らされてヌラヌラと光る。 指先は鋭利なペン先のままだが、その表情はスランプに苦しんでいた昨日の彼女とは別人のように晴れやかで、そして狂気に満ちていた。
「おはようございます、先生。素晴らしい集中力ですね」
小悪魔マナが、淹れたてのコーヒーを持って現れた。 彼女はツムギのスケッチブックを覗き込み、感嘆の声を漏らした。
「わあ……。これはまた、随分とアヴァンギャルドで、破廉恥な構成ですね。PTAが卒倒しそうです」
「ふふん。当然よ。私の脳内にある『桃源郷』を、この現実に上書きするんだから」
ツムギは自信満々に鼻を鳴らした。 そこへ、黒野改蔵が欠伸をしながら起きてきた。 相変わらずのステテコ姿で、寝癖がついた頭をボリボリと掻いている。
「あぁ? 朝からうるせえな。……お、原稿は上がったのか?」
「はい、マスター! これが私のデビュー作、『秋葉原・桃色侵略計画』です!」
ツムギがバッとスケッチブックを突き出した。 そこには、触手に巻かれるビル群や、メイド服を着たスライム娘たちが街を練り歩く
「秋葉原か。いいチョイスだ。あそこの連中なら、お前の妄想もすんなり受け入れるだろ」
改蔵はニヤリと笑った。 その時、押し入れの中から電子音が響いた。 引きこもりリス怪人・小森クルミの声だ。
「……サイトウから通信。回線繋ぐ」
クルミがPCを操作すると、空中にサイトウのホログラムが投影された。
『おはよう諸君! さっそくだが作戦指令だ!』
サイトウは今日も元気だ。
『我々のスポンサーから「最近、世の中が暗い。もっと景気のいいニュースが欲しい」との要望があった! そこでだ、ツムギ君! 君の能力で街をド派手に混乱させ、人々の欲望を解放してくれたまえ!』
「了解しました! 私の『作品』で、世界中をパニック(興奮の坩堝)に叩き込んでやります!」
ツムギは立ち上がり、スケッチブックを高々と掲げた。
「行ってきます、マスター! 最高の
「おう。派手にやってこい。原稿落とすんじゃねえぞ」
改蔵に見送られ、ツムギは窓から飛び出した。 彼女の背中から黒いインクが翼のように広がり、秋の空へと飛翔していく。 アジトに残されたのは、改蔵と三人の女たち、そしてこれから始まる狂宴を映し出す巨大モニターだけだった。
***
電気街、秋葉原。 最新の家電やアニメグッズを求める人々でごった返す歩行者天国に、突如として黒い雨が降り注いだ。 ボタ、ボタ、ボタ……。 粘着質なインクの雨。 人々が空を見上げると、ビルの屋上に仁王立ちするツムギの姿があった。
「さあ、始めましょうか! 私の連載、第一話!」
ツムギはスケッチブックを開き、ペン先のような指を走らせた。 キュッ、キュッ、キュッ! 空中に描かれた線が実体化し、地面へと落下する。 ボヨヨンッ! 弾むような音と共に現れたのは、ピンク色の巨大なスライムだった。 だが、ただのスライムではない。 女性の形をした、豊満なボディを持つスライム娘だ。
「うにゅ~ん♡」
スライム娘は嬌声を上げ、近くにいたオタク青年に抱きついた。
「うわっ!? なんだこれ、冷たい! ……でも、柔らかい!?」 「いい匂いがするぞ!?」
パニックになるはずの群衆が、ざわめき立つ。 ツムギの手は止まらない。 次々とページをめくり、新たなキャラクターを具現化させていく。
「次はこれ! 『絶対服従・猫耳メイド部隊』!」
数え切れないほどの猫耳メイドが実体化し、道行く人々に「ご主人様♡」と擦り寄っていく。
「さらに! 『あっちこっち触手』!」
マンホールの蓋が飛び、地下から無数の触手が伸びてくる。 それらはスカートを履いた女性……ではなく、なぜか男性客を狙って絡みつき、くすぐり始めた。
「ひゃははは! なにこれ!?」 「触手プレイ!? 俺が!?」
秋葉原は、一瞬にしてカオスなテーマパークへと変貌した。 悲鳴ではなく、歓喜の奇声と、理性崩壊の音が響き渡る。
「あははは! 見ろ! 私の絵が、世界を侵食していく!」
ツムギは狂喜乱舞した。 自分の妄想が、リアルな質量を持って他者を圧倒する。 クリエイターとして、これ以上の快感があるだろうか。
***
一方、アジト。 六畳間のモニターには、秋葉原の
「わあ……。すごいことになってますねぇ」
五十嵐イスズが、お茶をすすりながら感心したように呟いた。 彼女の膝の上では、改蔵が寝転がり、柿の種をポリポリとかじっている。
「景気がいいな。あいつ、溜まってたモン全部吐き出す気か」
「ネットの反応、すごい」
押し入れから顔を出したクルミが、タブレットを見せる。 SNSのトレンドは『#秋葉原異変』『#リアルエロゲ』『#神イベント』などのワードで埋め尽くされていた。
「これ、もしかして私たちも負けてられないんじゃないですか?」
マナが改蔵の足元に座り込み、その太ももを撫で回しながら言った。
「画面の向こうだけ楽しそうで、ズルいです。私たちも『実体化』させましょうよ、改蔵様の欲望を」
マナの言葉に、メイが反応して尻尾をピンと立てた。
「マスター。わたしも、触手プレイしたい。……マスターの触手で」
メイが改蔵の股間に顔を埋める。 ステテコの上からでも分かる、硬い感触。
「……たく。どいつもこいつも、発情期かよ」
改蔵は苦笑しながらも、満更でもなさそうに身を起こした。 画面の中では、スライム娘に埋もれて喜悦の表情を浮かべる男たちの姿が映っている。 その光景は、確かに雄の本能を刺激するものがあった。
「いいぜ。あいつが街で暴れてる間、俺たちはここで『密室・桃色侵略』といこうじゃねえか」
改蔵がステテコを脱ぎ捨てると、三人の女たちが一斉に群がった。 イスズが背中から抱きつき、マナが正面から跨り、メイが足元で奉仕する。 押し入れのクルミも、キーボードを叩く手を休め、興味津々で覗き込んでいる。
「神主様……っ! 私も、スライムみたいにトロトロにしてください……!」
「マナちゃん、そこ退いて! 私が先よ!」
「早い者勝ちです~!」
アジトの室温が急上昇する。 モニターの狂騒と、六畳間の情事がシンクロし、背徳的なハーモニーを奏で始めた。
***
秋葉原。 ツムギの暴走は留まるところを知らなかった。 彼女はビルの壁面をキャンバスにして、巨大なイラストを描き始めていた。
「ここに『空飛ぶパンティ』を描き足して……背景はピンク色に……!」
もはや現代アートだ。 そこへ、五色の閃光が走った。 正義戦隊ジャスティンジャーの到着だ。
「そこまでだ! 迷惑な落書き魔!」
ジャスティンレッドが叫ぶ。 だが、彼らの前に立ちはだかったのは、怪人ではなく、ツムギが生み出した妄想の産物たちだった。
「うふふ♡ 遊ぼうよぉ~」
スライム娘たちが、ぬるぬるとした身体でヒーローたちに迫る。
「うわっ!? くっつくな! 離れろ!」 「べとべとする! 気持ち悪い!」
ブルーとグリーンが悲鳴を上げる。 物理攻撃が効かないスライムボディに、彼らは苦戦を強いられた。 さらに、猫耳メイドたちが「ご主人様、お茶の時間ですわ♡」と熱々の紅茶攻撃を仕掛けてくる。
「くそっ! なんてふざけた攻撃だ!」
レッドが剣を振るうが、斬っても斬っても新しい妄想が湧いてくる。 ツムギの筆が止まらない限り、この軍勢は無限だ。
「あははは! 無駄よ! 私のインク(魔力)は、マスターからもらった『無限の欲望』なんだから!」
ツムギは高笑いした。 絶好調だ。 スランプだった頃が嘘のように、次々とアイデアが湧いてくる。 だが、彼女は調子に乗りすぎた。
「よし! ここでクライマックス! 最強のラスボス、『我が理想の
ツムギは新しいページを開き、渾身の力を込めて描き始めた。 彼女の脳裏に焼き付いている「だらしなくも強大な男」のイメージ。 だが、名前は出さない。 あくまで彼女の理想として美化され、神格化された『概念としての魔王』を描こうとした。
その時。
プシュッ……。
ツムギの指先から、インクが出なくなった。 線が途切れる。
「え……?」
彼女は呆然と自分の手を見た。 黒い被膜が薄れ、下の肌色が見え始めている。
「インク切れ……? まさか、描きすぎた!?」
魔力切れだ。 改蔵から貰ったエネルギーは膨大だったが、彼女の妄想出力があまりにも燃費が悪すぎたのだ。 実体化していたスライム娘や猫耳メイドたちが、次々と黒い霧になって消えていく。
「あ、あれ? 俺のメイドちゃんが!」 「スライムが消えちまう!」
オタクたちが悲嘆に暮れる中、ヒーローたちが体勢を立て直した。
「今だ! 具現化が解けたぞ!」
イエロー(女性戦士)が前に出る。 彼女は、このふざけた状況に最初からイライラしていた。
「不潔な妄想は、これで洗い流してやるわ! 必殺・ピュア・ホワイト・ウォッシュ!」
イエローの武器から、眩いばかりの洗浄光線が放たれた。 それは物理的な汚れだけでなく、精神的な『穢れ』も浄化する聖なる光だ。
「いやぁぁぁ! 私の原稿がぁぁぁ! まだ途中なのにぃぃぃ!」
ツムギは悲鳴を上げた。 光の中で、彼女を覆っていた黒いインクが剥がれ落ち、蒸発していく。 同時に、改蔵から注入された魔力と共に、怪人としての記憶も、アジトでの出来事も、白く洗い流されていく。
「打ち切り(エンド)よ!」
イエローがポーズを決める。 ドォォォォン! ツムギは爆発と共にビルの屋上から落下し──運良くゴミ捨て場のネットの上にボスンと落ち、そのまま意識を失った。
***
アジト。 クライマックスを迎えていた改蔵たちの動きも、モニターの決着と共にピタリと止まった。
「あ」
イスズが間の抜けた声を上げた。 画面の中、ゴミ捨て場で目を回しているツムギの姿が映し出されている。 彼女の周りには、真っ白になったスケッチブックだけが残されていた。
「……描きすぎたな、あいつ」
改蔵は事後の賢者タイムに入りかけながら、煙草に火をつけた。 膝の上では、マナがぐったりと、しかし満足げに横たわっている。
「浄化光線、直撃ですね。あれなら記憶操作の手間も省けます」
マナがモニターを見ながら冷静に分析する。
「彼女の中の『怪人因子』は綺麗サッパリ消滅しました。アジトのことや、改蔵様のことも、全て『悪い夢』として処理されるでしょう」
「へえ。そりゃ好都合だ。……ま、派手にやった分、面白かったぜ」
改蔵は煙を吐き出し、つまらなそうにテレビを消した。
「イスズ、腹減った。夜食作れ」
「はい! 大盛りのおにぎりですね!」
イスズは裸エプロンのまま、台所へと向かった。 一人の少女の人生が変わるような大騒動も、このアジトでは単なる「暇つぶし」の一つに過ぎない。 押し入れの中では、クルミがカタカタとキーボードを叩いている。
「……ツムギの漫画、ネットで拡散されてる。評価『神作画』『続きはよ』。……バズった」
クルミが小さくサムズアップした。
***
後日。 人間に戻った鮫川ツムギは、自分のアパートの仕事部屋で目を覚ました。
「……んぅ……。私、いつの間に寝てたんだろ……」
頭がズキズキと痛む。 昨日の記憶が曖昧だ。 公園でマナと出会ったあたりから記憶が途切れ、気づけばゴミ捨て場で寝ていて、警察に保護されたような……? 夢だったのだろうか。 とても濃密で、背徳的で、そして刺激的な夢を見た気がする。 だらしなくて、でも強烈に惹かれる『誰か』の夢。
ツムギはふと、机の上の原稿用紙を見た。 そこには、昨夜の夢の中で見た光景が、驚くほど鮮明に描かれていた。 触手、スライム娘、そして……顔は見えないが、圧倒的な存在感を放つ『魔王』の後ろ姿。
「……描ける。描けるわ……!」
ツムギはペンを握った。 スランプの重圧は消え失せていた。 具体的な記憶はなくても、身体の奥底に刻まれた『熱』だけは残っていたのだ。
「タイトルは『魔王とスケッチブック』。……私の夢に出てきた、名もなき魔王様の物語」
ツムギはニヤリと笑った。 彼女はもう、二度とあの古びたアジトへ行くことはないだろう。 だが、彼女の描く漫画の中で、あの堕落した魔王は生き続ける。 そして、その漫画が悪の組織のアジトで「今週の愛読書」として回し読みされる未来を、彼女はまだ知らない。