皆さんもお気をつけください。
木枯らしが吹き荒れ、古びた雨戸がガタピシと心細い音を立てる、うら寂しい晩秋の午後。地下深くに潜む悪の組織・極東支部のアジトである、築数十年は下らない古い家屋の六畳間には、いつになく険悪で、そしてどこか間の抜けた空気が澱んでいた。
「……で、なんだこれは。説明しろ、マナ」
組織の支配者である黒野改蔵は、煎餅布団から半身を起こし、ちゃぶ台の上に鎮座する『それ』を指差して、地を這うような低い声で唸った。彼が指差した先にあるのは、高さ五十センチほどの、どす黒い土色をした壺だった。表面には、ミミズがのたうち回ったような禍々しい文様が彫り込まれ、口の部分からは微かに紫色の瘴気が漂っているようにも見える……気がするだけの、ただの薄汚れた壺だ。
「ジャジャーン! よくぞ聞いてくれました改蔵様! これはですね、『呪いの壺・ファラオの嘆き(レプリカ)』ですぅ!」
小悪魔マナが、通販サイトのロゴが入ったダンボール箱を足で蹴り飛ばしながら、得意満面に薄い胸を張った。彼女の背中の黒い翼が、誇らしげにパタパタと羽ばたいている。
「深夜のネットオークションで見つけたんですよ! 商品説明によると『持つ者に古代の王の加護を与え、敵対する者には永遠の呪いを振りまく』らしいです! これがあれば、組織の魔力リソースも倍増間違いなし! 侵入者もイチコロですっ!」
「……ほう。それで、いくらした?」
「えへへ、組織の経費カードで、ちょっと奮発して……送料込みで五万五千円ほど……」
「バカ野郎ッ!!」
ドガァッ! 改蔵の怒号と共に、ちゃぶ台が激しく揺れた。彼は吸いかけの煙草を灰皿に叩きつけ、雷のような速さでマナの頬を両手で挟み込み、ムギュウと強くつねり上げた。
「ふぐっ!? い、いたいですぅ改蔵様ぁ! ほっぺが伸びますぅ!」
「ウチの財政状況分かってんのか、この駄犬! 本部の中間管理職サイトウの野郎が『年末調整に向けて経費削減しろ』って口うるさいこの時期に、こんな怪しげな壺に五万も出しやがって! しかもテメェ、自分で『レプリカ』って言ったな!? 偽物に五万払うバカがどこにいる!」
「で、でもぉ……! サイトの写真だと、もっとこう、闇のオーラが漂ってたんですぅ! 実物はちょっとカビ臭くて、底に『MADE IN CHINA』ってシールが貼ってありますけど……」
「ただの粗大ゴミだ! クルミ、鑑定しろ! 今すぐだ!」
改蔵の怒声に応えるように、押し入れの襖が数センチだけ音もなく開いた。暗闇の中から、引きこもりハッカー・小森クルミの青白い手が伸び、スマホのカメラレンズが壺を捉える。
「……画像検索、開始。……照合完了」
クルミの抑揚のない声が、無慈悲な事実を告げる。
「……アマゾンおよびアリエクスプレスにて、同一商品を確認。品名『アンティーク風・魔除けの壺型傘立て』。……価格、送料込みで1980円。プライム会員なら明日届く」
「1980円だとぉ!? 五万五千円も払って、傘立て買ったのかテメェは! しかも傘立てとしても使いにくそうな形しやがって!」
「ひぃぃん! 騙されましたぁ! 悪魔なのに人間に騙されるなんてぇ! 出品者の『暗黒雑貨店・闇鍋』めぇぇ! 評価1をつけてやるぅぅ!」
マナが嘘泣きをしながら改蔵の胸に飛び込むが、改蔵は冷徹にそれを引き剥がした。その騒ぎを他所に、台所から五十嵐イスズがのんびりとお盆を持って戻ってきた。彼女は湯気の立つ急須と湯呑みを運びながら、ちゃぶ台の上の壺を見て目を細めた。
「あらあら、立派な壺ですねぇ。ちょうど良かった、今年もそろそろ自家製の梅干しや、白菜の漬物を仕込もうと思っていたんです。この大きさなら、一冬分のキムチ鍋の材料が確保できそうですねぇ」
イスズは天然全開の笑顔で、壺の中を覗き込んでいる。彼女の中では、すでにそれは「呪いのアイテム」ではなく「漬物石を入れる容器」として認識されていた。
「イスズ、それは鍋じゃなくて壺だ。しかも五万円もする高級なゴミだ。……たくっ、全く役に立たねえな」
改蔵は深いため息をつき、壺を足先で無造作に蹴飛ばした。ゴロン、ゴロンと壺が転がり、部屋の隅で埃を被る。
「マナ。その五万五千円分、きっちり身体で……いや、労働で返してもらうぞ。……この壺が本物の『古代の遺物』に見えるような、とびきりの審美眼を持った
「えっ……?」
「俺の魔力を注げば、ゴミでもお宝に変えられるかもしれんが、それには『器』が必要だ。古代のロマンを理解し、このガラクタを崇めるような狂信的な専門家だ。失敗したら、お前の今月の小遣いとスイーツ代は全額没収、向こう三ヶ月はオヤツ抜きだ」
「そ、そんなぁ! 私の限定マカロンがぁ! 冬季限定チョコメルツがぁ!」
マナは顔面蒼白になった。甘味は彼女の動力源であり、生き甲斐だ。それが断たれることは、死に等しい。彼女は慌てて立ち上がり、黒い翼をバサリと広げた。
「わ、分かりましたよぉ! 本物の『古代』を知ってるような、とびきりのオタク……いえ、専門家を連れてくればいいんでしょ!? 私のスカウト能力に任せてくださいっ! 行ってきますぅ!」
マナは窓枠に足をかけ、寒空の下へと飛び出した。その必死な背中を見送りながら、改蔵は再び布団に潜り込む。イスズが淹れてくれた熱いお茶を啜りながら、彼は呟いた。
「……さて、どんな『掘り出し物』を見つけてくるやら」
***
都内某所、上野国立博物館。特別展『古代エジプトの秘宝とファラオの呪い展』は、平日にもかかわらず、歴史ロマンを求める多くの来館者で賑わっていた。薄暗い照明の中に浮かび上がる、黄金のマスク、極彩色の棺、スカラベの装飾品、そして干からびたミイラたち。ガラスケースの中に厳重に保管された数千年前の遺物に、人々は感嘆の声を漏らし、スマホのカメラを向けている。
その展示室の一角に、異様な雰囲気を放つ一人の少女がいた。
「……ハァ……ハァ……。感じる……。この冷たいガラスの向こうに……
彼女の名はアナメス。エジプト・カイロ大学からの留学生であり、将来を嘱望される若き考古学の徒である。ナイルの砂のような褐色の肌に、エキゾチックで彫りの深い顔立ち。切り揃えられた漆黒の髪は、古代の壁画に描かれた高貴な神官や踊り子のような、神秘的な美しさを持っていた。本来ならば、すれ違う誰もが振り返るほどの美女である。
だが、その美貌を決定的に台無しにしているアイテムがあった。顔の半分を覆うほど巨大で、牛乳瓶の底を二枚重ねたような、分厚く渦を巻いた眼鏡である。レンズの奥で、彼女の美しい瞳は極限まで拡大され、あるいは歪み、コミカルなほど小さくなっていたり大きくなっていたりする。彼女は、生活に支障をきたすレベルの、重度のド近眼だった。
「むむっ……! このヒエログリフの筆致……。書記官の迷いが見える……。いや、これは筆の乱れではなく、王への畏怖の表れか……? 素晴らしい……」
アナメスは展示ケースのガラスに顔を押し付けるようにして、へばりついていた。鼻の頭が白くなるほど押し付けられ、ガラスに脂がついている。眼鏡のレンズと展示品との距離は数センチ。周囲の客が「なんだあの子……」「危ない人かな」「警備員さん呼んだほうがいい?」とヒソヒソ噂するのも、彼女の耳には届かない。
彼女にとって、古代エジプトこそが全て。現代の日本など、ただの無味乾燥なコンクリートジャングル、砂漠以下の不毛な土地に過ぎないのだ。
「ああ……ツタンカーメン様……。貴方にお会いしたい……。この無機質なガラス越しではなく、その朽ちることのない黄金の輝きに、直接触れたい……。貴方の『カ(魂)』と『バ(精神)』を感じたい……」
彼女はガラスを愛おしそうに撫で回した。その視界は、近眼ゆえに常にぼやけている。世界は輪郭を失い、色彩の海として彼女の網膜に映る。だが、そのぼやけた視界の中でこそ、彼女の妄想は鮮明に結像するのだ。黄金に輝く王の姿が。ナイルの風が。香油の香りが。
「お姉さん。……そんなガラス越しの偽物や、干からびた死体で満足なんですか?」
不意に、背後から声をかけられた。アナメスがビクリと肩を震わせて振り返ると、そこには視界の端でぼんやりと滲む、小さな影があった。輪郭は曖昧だが、どこか人間離れした気配を漂わせている。マナだ。彼女は一般客に紛れ、アナメスの背後に忍び寄っていた。
「……誰? 偽物とは聞き捨てならないわね。これはエジプト政府とカイロ博物館から正式に貸与された、由緒正しき遺物よ。貴女のような子供に何が分かるの?」
アナメスは眼鏡の位置を直しながら、不機嫌そうに言い返した。
「分かりますよぉ。だってそれ、動かないでしょ? 喋らないでしょ? 何より……熱くないでしょ?」
マナがニヤリと笑い、アナメスの耳元に顔を寄せて、悪魔の囁きを落とす。
「私、知ってるんですよ。……日本のとある場所、地下深くに眠る『王家の谷』に……最近復活したばかりの『本物のファラオ』がいらっしゃることを」
「なっ……!?」
アナメスが息を呑んだ。分厚い眼鏡の奥の瞳が、驚愕に見開かれる。心臓が早鐘を打った。
「ほ、本物の……生けるファラオだと……? 馬鹿な、そんな考古学的な大発見が、学会で発表されていないはずがない……。それに、ファラオは数千年前に死に絶えたはず……」
「王は眠りを妨げられるのを嫌うのです。だから、愚かなマスコミや学会には秘密にされているんですよ。……でも、貴女のような熱心で、真実を見抜く目を持った研究者なら、特別に謁見を許してくださるかもしれませんよ?」
「……!」
アナメスの理性が、好奇心という名の砂嵐にかき消された。彼女はゴクリと唾を飲み込む。近眼ゆえに、目の前の少女が背中に黒い翼を生やしていることにも、尻尾が生えていることにも気づいていない。ただ、その甘い言葉の響きだけが、彼女の脳髄を揺さぶった。生きたファラオ。動く黄金。それは、彼女が生涯をかけて追い求めてきた夢そのものだ。
「会わせて……。そのファラオに、会わせてちょうだい! 私のこの身を、知識を、魂を捧げてでも、古代の神秘に触れたいの! お願い、案内して!」
アナメスはマナの
「うふふ、交渉成立ですねっ! さあ、ついて来てください。地図には載っていない『王家の
マナはアナメスの手を取った。アナメスは抵抗することなく、むしろ自ら前のめりに、その小さな手に引かれていった。彼女の目には、博物館の出口が、古代神殿への入り口のように輝いて見えていた。
***
アジトの六畳間。外はすっかり日が暮れ、冷たい風が吹き込んでいた。改蔵は煎餅布団に寝転がったまま、不機嫌そうにテレビのワイドショーを眺めていた。あの五万円の壺は、結局イスズによって綺麗に洗われ、台所の隅で「梅干し用」のタグをつけられて鎮座していた。
「ただいま戻りましたぁ! 改蔵様、約束通り、とびっきりの逸材を連れてきましたよぉ! 褒めてくださいっ!」
マナの元気な声と共に、玄関の引き戸がガララと開く。冷たい風と共に、褐色の肌をした美女が、おずおずと足を踏み入れた。
「こ、ここが……王家の谷……? なんて……なんて神聖な空気なの……」
アナメスは分厚い眼鏡越しに、薄暗い室内を見渡した。乱雑に置かれた古雑誌の山、山積みのカップ麺、吸い殻の山、そして煎餅布団。普通の人間の目には、ただの汚い部屋にしか見えない。だが、彼女の極度の近眼と、脳内を支配するエジプト愛フィルターを通すと、それらは全く別の光景に変換されていた。
古雑誌の山は『積み上げられたパピルスの古文書』に。カップ麺の容器は『奉納された供物』に。紫煙をくゆらせる灰皿は『儀式の香炉』に。そして、煎餅布団は『王の休息所』に。
「お連れしました、カイロ大学からの留学生で、エジプト考古学者のアナメスさんです! ド近眼で思い込みが激しい、最高のカモ……いえ、お客様です!」
マナが背中を押す。アナメスは、部屋の中央に座る男──ステテコ姿で腹をかいている黒野改蔵──に視線を向けた。
彼女の視界の中で、改蔵の姿がぼんやりと滲む。その輪郭から溢れ出る、強大で禍々しい魔力のオーラ。それは彼女の目には、後光が差すような黄金の輝きとして映った。
「……ああ……! 見える……! 間違いない、この圧倒的なプレッシャー……! この黄金のオーラ……!」
ドサッ。アナメスは感動のあまり、その場に膝をついた。震える手で眼鏡の位置を直すが、涙と興奮でレンズが曇り、余計に改蔵の姿が神々しく歪んで見える。
「あいつが専門家か? ずいぶんイカれた目をしてやがるな」
改蔵がニヤリと笑う。彼の股間は、褐色の肌と知的な
「よぉ、姉ちゃん。古代の神秘とやらを、たっぷりと教えてやろうか? 俺の『王家の秘儀』をよ」
「は、はいっ……! 是非、ご教授願います……! 偉大なるファラオよ! この卑しき考古学者に、真実の歴史をお示しください!」
アナメスは畳の床に額を擦り付けんばかりに平伏した。五万円の壺以上の、とんでもない「拾い物」がアジトにやってきた瞬間だった。マナはガッツポーズをし、イスズは「あらあら、お客さんならお茶菓子出さなきゃ」と台所へ向かう。古びたアジトが、今夜、エジプトの神殿へと変わろうとしていた。